司馬 遼??太?
(しば りょうたろう、
1923年
〈
大正
12年〉
8月7日
-
1996年
〈
平成
8年〉
2月12日
)は、
日本
の
小?家
、
ノンフィクション作家
、
評論家
。
日本芸術院
?員、
文化功?者
、
文化?章
受章者。
位階
は
?三位
。本名は福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由?は「
司馬遷
に遼??(はるか)に及ばざる日本の者(故に太?)」からきている。
大阪府
大阪市
出身。
産?新聞社
記者として在職中に、『
梟の城
』で
直木賞
を受賞。?史小?に新風を送る。代表作に『
?馬がゆく
』『
燃えよ?
』『
??り物語
』『
坂の上の雲
』などがある。『
街道をゆく
』をはじめとする多?の
?筆
?
紀行文
などでも活?な文明批評を行った。
生涯
[
編集
]
生い立ち
[
編集
]
1923年
(
大正
12年)
8月7日
、
大阪府
大阪市
南?
難波
西神田町(現在の
浪速?
?草)に、?局を??する父?福田是定(
??師
)、母?直枝の次男として生まれた。兄がいたが2?で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳?
脚?
のために3?まで
奈良?
北葛城郡
當麻町
(現?
葛城市
)の母の?家に里子に出されていた。
1930年
(
昭和
5年)、大阪市難波?草尋常小?校(現?
大阪市立?草立葉小?校
)に入?。性格は明るかったが、?校嫌いで、?童でもあったようである。母の?家の周りには
古墳
が多く、
土器
のかけらや
石鏃
などを拾い集めていた。また、?時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の
馬賊
に憧れていた。後に?車隊の小隊長となることでこの夢は結?した。
1936年
(昭和11年)、私立上宮中?校(現?
上宮高等?校
)に進?。入?後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉?をしたら二?期には上位20位に入ったという。
井伏?二
の『岩田君のクロ』に感銘を受ける
[注? 1]
。3年生から
松坂屋
の?の御?跡町の
?書館
に通うようになり、大阪外?語?校卒業まで本を??するようになる。古今東西のあらゆる分野の書物を?破し、しまいには釣りや?棋などの本まで?んだという。阿倍野のデパ?トでは
吉川英治
の
宮本武?
全集を立ち?みで?破した。いつも立ち?みばかりするので頭にきた?り場の主任が「うちは?書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周?の名山は大抵踏破している。高等?校への受?に際して、家計の都合で私立?校への進?は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。
1939年
(昭和14年)、中?生だった司馬にも
日中??
や
第二次世界大?
が影を落としており、上宮中?の
配??校
から
?校?練
を受けている。ある日の?練の、配??校による?時の日本軍の主力小銃
三八式?兵銃
の?明で、「よその?の小銃は機?銃のように連?式になっているが、日本軍の
三八式?兵銃
は
ボルトアクション
式のライフルであり、一?ずつしか?てない、しかし、よその?はバラバラと?てるが、これでは心が入らない。わが?のほうが心に念じ、一?必中になって狙えるからいい」との?明があったと著作に記述し
、これが司馬少年の心に?く印象付けられたとされている。しかし、1939年に「機?銃のように連?式」の
自動小銃
が正式採用されていたのは
アメリカ軍
の
M1ガ?ランド
だけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず
[3]
、?の面では製造開始年は三八式?兵銃と?わらないボルトアクションライフルの
スプリングフィ?ルドM1903小銃
が主力小銃であり、1941年12月の
?珠?攻?
による日本とアメリカの開?時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量?注も行われていた
[4]
。また、
ドイツ?防軍
の
Kar98k
[5]
、イギリス軍の
リ??エンフィ?ルド
[6]
、
ソ連?農赤軍
の
モシン?ナガン M1891/30
[7]
など、?時の列??の主力小銃は三八式?兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃は
第二次世界大?
が終わるまで各??兵の主力?備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代?れのボルトアクションだったというのは事?誤認である。
司馬少年は?校が嫌いで、?書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通?し?校で社?訓練を受けているうちに、
中?人
と
朝鮮人
に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中?と??をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは?際は日本も大好きという感情の裏返しである
アンビバレンス
な?態であったと自己分析している
。
1940年
(昭和15年)に
?制大阪高校
、翌年には
?制弘前高校
を受?するも不合格。
1942年
(昭和17年)4月に?制大阪外?語?校蒙古語部(現?
大阪大?外?語?部
モンゴル語
?攻)に入?
[9]
。入?時に校?食堂で上級生が新入生に催す?迎?では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下?を踏み鳴らして『こら?っ!』と怒鳴りながら入り、訓?や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事な
ガマの油?り
を一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。?時の?生の大半がそうであったように語?は嫌いであったが?書は依然として好み、
ロシア文?
や、
司馬遷
の『史記』を愛?。2年上に
庄野潤三
(英語?科)、1年上に
陳舜臣
(印度語?科)、同期に
赤尾兜子
(中?語?科)らの「創作グル?プ」がいたが、その輪には加われなかった。?時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、?制高校に憧れて下?履きで登下校したという。?室へは「オ?ス、オ?ス」と?をかけながら入り、生徒間で人?があり人が集まる中心にいた。授業でもよく?言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の?」が座右の銘であったという。
軍?
[
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]
1943年
(昭和18年)11月に、
?徒出陣
により大阪外?語?校を?卒業(翌年9月に正式卒業となる)。
兵庫?
加東郡
河合村
(現:
小野市
)
?野が原
の?車第十九連隊に入隊した。軍隊?ではかなり珍しい「俳句の?」を興し、集合の合?には一番?れて?た。翌44年4月に、
?州
四平
の
四平陸軍?車?校
に入校し、12月に卒業。?車?校では文系であったために機械に弱く、ある時に?車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれ?」と悲鳴が聞こえたので?けつけると、コ?ドが?車に?れて電流が流れていた。手斧でコ?ドを?ち切り、事なきを得たという。司馬は、軍隊生活になかなか馴染めず、訓練の動作にも?れが目立ち、同期生のなかでも?車の操?はとびきり下手であったが、「俺は??、?車1個小隊をもらって
蒙古
の
馬賊
の大?になるつもりだ」などと冗談を言うなど、笑みを絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しになっていた
[10]
。
部隊で一?だったのが
石濱恒夫
であり、石濱と司馬はこの時以?、司馬が亡くなるまで親交が深かった。
?車?校で成績の良かった者は?地や外地へ??したが、成績の?かった者はそのまま
中?
に配?になり、これが生死を分けた。卒業後、
?州?
牡丹江
に展開していた
久留米
?車第一連隊
第三中隊第五小隊に小隊長として配?される。翌1945年に
本土決?
のため、
新潟?
を?て
?木?
佐野市
に移り、ここで陸軍少尉として
終?
を迎えた。
敗?にショックを受けた司馬は「なんとくだらない??をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた?に生まれたのだろう」との?日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に?する?心の原点となり
、趣味として始めた小?執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、??のころのことである。やがて、ごく新しい江?期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、?家そのものを賭けものにして
賭場
にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終?時の司馬自身に?する「いわば、23?の自分への手紙を書き送るようにして小?を書いた」
[注? 2]
からであると述?している
。
復員
後は直ちに?書館通いを再開する。
記者時代
[
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]
?地からの復員後、
生野?
猪飼野
東五丁目8にあった
在日朝鮮人
??の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。
1946年
(昭和21年)、ふたたび大竹とともに
新日本新聞
京都本社に入社。同僚に?木幸次?がいた
[注? 3]
。このころから30?を過ぎたら小?を書こうと考えるようになる。大?、宗?記事を書いたが、社は2年後に倒産、
産?新聞社
から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と?じて京都支局に入る。入社して1か月も?たない
1948年
(昭和23年)6月28日午後、
福井地震
が?生し、その日のうちに
福井
の取材に行く。同年11月、歌人
川田順
の
失踪事件
を取材
[14]
。
翌年大阪本社に異動。
1950年
(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な??をする。同年に
金閣寺放火事件
の記事を書いた(?っ先に取材に訪れた記者の一人とされる)。このころ京都の寺社周り?
京都大?
を??し、その結果京都の密?寺院で不思議な僧侶らと出?ったり、石山合?のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大?で
桑原武夫
、
貝塚茂樹
らの
京都?派
の?者たちに取材したりするなど、後年の?史小?やエッセイを執筆する種となる出?いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬
遼??
太?が考えたこと』に所?)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。文化部時代の同僚に
廓正子
がいる。
同年に大阪大??局の??師と
見合い
により最初の結婚。
1952年
(昭和27年)に長男が誕生するが、
1954年
(昭和29年)に離婚。長男は?家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、?時は一切公表されなかったが、司馬の死後の新聞報道により明らかになっている
[15]
。
1955年
(昭和30年)、『名言?筆?サラリ?マン』(六月社)を?表。この作品は本名で?表したが、このほかにも「饅頭??記」など?作本名で?表した作品があるといわれる。さらに、?時親しくなっていた
成田有恒
(
寺?大吉
)に?められて小?を書くようになる。
1956年
(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談??部賞に?募(「司馬
遼??
太?」の名で投稿)、
海音寺潮五?
の絶?を受け同賞を受賞し、出世作となる
[注? 4]
。また、寺?とともに?誌『
近代?話
』を創刊した。『近代?話』『面白??部』『小???部』に作品を?表し?け、
1958年
(昭和33年)7月、「司馬
遼??
太?」としての初めての著書『白い?喜天』が出版される。?時は
山田風太?
と?ぶ、?奇小?の?い手として注目され、本格?史小?の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち『
梟の城
』に改題)の連載を開始。
1959年
(昭和34年)1月、同じ産?新聞記者の
松見みどり
と再婚
[注? 5]
。12月に大阪市
西?
西長堀
のアパ?トに?居。同じアパ?トに
南海ホ?クス
時代の
野村克也
がいた。『大坂侍』『梟の城』を?表。
1960年
(昭和35年)、『梟の城』で第42回
直木賞
を受賞、翌年に産?新聞社を退職して、作家生活に入る
[18]
。
小?家時代
[
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]
初期は
直木賞
を受賞した『
梟の城
』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代??奇小?が多い。忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(
五味康祐
ら「?豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。また、初期?編が西アジアを主要舞台としている点も(?時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への?い?心を維持しつつも)引き?がれなかった。推理小?も書き、『
豚と薔薇
』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。
だが、
1962年
(昭和37年)より『
?馬がゆく
』『
燃えよ?
』、
1963年
(昭和38年)より『
??り物語
』を連載し、?史小?家として旺盛な活動を本格化させた。この?りの作品より、作者自ら、作中で?筆風に折?解?する手法が完成している。
1964年
(昭和39年)には、終のすみかとなる
布施市
下小阪(現在の
東大阪市
)に?居した。近所には付近の大地主であり上宮中?からの同級生の山澤茂雄がおり終生交流が?いたの(「近所の記」)ちに「猥?な土地でなければ住む?がしない」と記している。
1966年
(昭和41年)、
菊池?賞
を受ける。その後も『??り物語』に?き、『
新史太閤記
』『
?ヶ原
』『
城塞
』の??四部作を上梓した。
1971年
(昭和46年)から、紀行?筆『
街道をゆく
』を
週刊朝日
で連載開始した。
1972年
(昭和47年)には
明治
の群像を描いた『
坂の上の雲
』の
産?新聞
での連載が終了。また、幕末を扱った『
世に棲む日日
』で
吉川英治文?賞
。初期のころから示していた密?的なものへの?心は『
空海の風景
』(
日本芸術院賞
?
恩賜賞
受賞)に結?されている。「?民的作家」の名が定着し始めるようになり、?史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史?」と呼ばれる?自の?史?を築いて人?を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『
翔ぶが如く
』や、『胡蝶の夢』、江?後期の『
菜の花の沖
』、??期の『
箱根の坂
』などを著し、
?朝
興隆の時代を題材にした『
??疾風?
』を最後に小?執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『
風塵抄
』、『
この?のかたち
』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。
1981年
(昭和56年)に
日本芸術院?員
、
1991年
(平成3年)には
文化功?者
となり、
1993年
(平成5年)に
文化?章
を受章した。このころから腰に痛みを?えるようになる。坐骨神?痛と思われていたが、?際は直接の死因となる
腹部大動脈瘤
であった。それでも「街道を行く
台?紀行
」取材の折に、?時
台北
で
台??統
だった
李登輝
との?談「場所の悲哀」
[注? 6]
を行ったり、「街道を行く」取材で?森の
三?丸山遺跡
を訪れるなど精力的な活動を?ける。また、晩年には
ノモンハン事件
の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった
[20]
。
1996年
(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾?州記」の取材を終え、連載中の
2月10日
深夜に吐血して倒れ、大阪市
中央?
の?立大阪病院(現:
?立病院機構大阪?療センタ?
)に入院、2日後の
2月12日
午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72?。同日は「菜の花忌」と呼ばれている
[21]
。死去した?立大阪病院は、奇しくも『
花神
』で書いた
大村益次?
が死去した場所であった。絶筆「濃尾?州記」は未完となった。親族??係者による密葬を?て、3月10日に大阪市?のホテルで「司馬
遼??
太?さんを送る?」が行われ、約3,000人が?列した。
法名
は、「
遼??
望院釋淨定」。政府から
?三位
を追賜された。
翌年に司馬
遼??
太?記念財?が?足し、
司馬
遼??
太?賞
が創設された。
2001年
(平成13年)に、
東大阪市
の自宅隣に
司馬
遼??
太?記念館
が開館。司馬
遼??
太?記念室がある
?路文?館
では?年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬
遼??
太?メモリアル?デ?」を開催している。また、
NHK大河ドラマ
原作となった作品?は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと?更)と?する『坂の上の雲』を含めると7作品である。
年表
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特?
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]
?史小?家としては
W?スコット
以?の人物中心主義の流れを汲んでおり、筆名からも直接には
司馬遷
『
史記
』
列?
の形式を範にした作家でもある。
特?としては、基本的に登場人物や主人公に?して好意的であり、作者が好意を持つ人物を中心に描く。それによって作者が主人公に?して持つ共感を?者と主人公の?係にまで延長し、スト?リ?の中に?者を?きこんでゆく手法をとることが多い。また?史の大局的な?述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客?的な描?によって乾いたユ?モアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の?史小?の?統から見れば異質なものであり、その作品が?えた影響は大きい。「
余談
だが……」の言葉に代表されるように、物語とは直接?係ないエピソ?ドや司馬自身の??談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語?にちりばめていく?筆のような手法も司馬小?の特?の一つであり、そこに魅了されている?者も多い。
評論家の
川本三?
からは「一平二太?」(
藤?周平
、司馬
遼??
太?、
池波正太?
)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして?むべき作家と評されている。
そのユニ?クな文?は、のちに、
渡部直己
や
?水義範
の
パスティ?シュ
の?象になったり
[24]
、あるいは
酒見賢一
『
後宮小?
』のようにリスペクトした作品が現れたりした。
作品中の人物の?面描?にはそれほど深入りしないため“?薄である”とされたり、長編では主題が破綻しているとの批判がある。しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。特に?面描?を避けることは、人間を外部から把握し?純化(典型化)して示す
18世紀
ヨ?ロッパ小?や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする?面描?か」という問題は、小?の流儀の問題(18世紀型小?か、
19世紀
型小?か)であると捉える見方もある。長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが…」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえば
丸谷才一
の「全?の五分の三あたりのところから?になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。ただし、こうした「?さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、??な人物が次?に登場し、
ゴシップ
を振りまいては消えてゆくという
グランド?ホテル形式
の小?として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの?音』)。
作家としての後半期は、小?創作から遠ざかり、?想や文明批評などを主としたが、合理的思考を?げて具?的な考?による?史評論を進めていった。
?史?
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時代性
[
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司馬が?集した資料については、?記『
レイテ?記
』の著者
大岡昇平
が、司馬の著作『
殉死
』への評論を通じ、司馬の?史小?に?し「時?記述について、典?を示してほしい、と思うことがある」「面白い資料だけ渡り?いているのではないか、という危?にとらえられる」と苦言を呈している
。
影響
[
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]
司馬は新しい視点と斬新な描?で彼自身の?史?を作って日本社?に?く影響を?えた?民的作家であると言われており、死後においても司馬の影響力は大きい
[26]
。
司馬の作品は
ベストセラ?
かつ
ロングセラ?
となり、また多くが映像化された。
昭和史?
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昭和の?史について、著書「この?のかたち」のなかで「明治の夏目漱石が、もし昭和初年から敗?までの“日本”に出逢うことがあれば、相手の形相のあまりのちがいに人違いするにちがいない」と述べている
[27]
。
司馬とノモンハン事件
[
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]
?史作家司馬は、1968年に小?『坂の上の雲』の連載を開始した頃から、自分の?時中に
?徒動員
により
予備士官
として
?車第1師?
?車第1連隊
に配?された??を顧みて、次の時代小?では
ノモンハン事件
を取り上げようと考えて取材を開始した
。ノモンハン事件を選んだ理由としては、この?境紛?が司馬の人生に大きな影響を?えたからとしている
。
いったい日本とは何だろうということを、最初に考えさせられたのは、ノモンハン事件でした。昭和14年(1939年)、私が中?の時でした。こんなばかな??をする?は、世界中にもないと思うのです。ノモンハンには?際に行ったことはありません。その後に入った?車連隊が、ノモンハン事件に?加していました。いったい、こういうばかなことをやる?は何なのだろうかということが、日本とは何か、日本人とは何か、ということの最初の疑問となりました。
? 「昭和」という?家
司馬は他にも「私どもの部隊の先祖(といってもわずか四、五年前の先祖だが)がこの凄?な??に?加し、こなごなにやられた」など
、たびたび、自分の所?した?車第1連隊がノモンハン事件に??していたと著作やエッセ?に記述しており、司馬のもし自分が5年前に?車第1連隊に配?されていたら無?な?死を遂げたかも知れないという思いも、ノモンハン事件への?い拘りに?がったとする指摘もあるが
、?際にノモンハン?に投入されたのは、司馬が配?された?車第1連隊ではなく
?車第3連隊
と
?車第4連隊
であった
。
司馬は、
防衛??史室
を訪ね協力を取り付けて、段ボ?ル1箱分のノモンハン事件に?する防衛??史室秘?資料の提供を受けるなど
、50?代の10年に渡ってノモンハン事件のことを取材、調査しているが
、その取材の過程で
[35]
、「もつともノモンハンの??は、ソ連の?車集?と、分隊?練だけがやたらとうまい日本の?式?兵との?と肉の?いで、日本?車は一台も?加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本?兵の殺戮場のような光景を呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた
八九式中?車
?が、雲霞のようなソ連の
BT?車
?に?いを挑んだのである
」「(日本軍の?車砲は)?てども?てども小柄なBT?車の鋼板にカスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本の八九式中?車はBT?車の小さくて素早い砲?のために一?で仕止められた。またたくまに?場に八九式の?の死骸がるいるいと?たわった。??というより一方的虐殺であった
」「ソ連軍は日本軍の前に
?深陣地
を作って現れた。(日本軍は?深陣地を理解しておらず)全兵力に近いものを第一線に配置して、絹?一本の薄い陣容で突?した。日本軍はあたかも
蟻地獄
に落ちていく昆?のような?態に置かれた
」などと考え、「その結果、日本はノモンハンで大敗北し、さらにその?訓を活かすことなく、2年後に太平洋??を始めるほど愚かな?であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小?は書けなくなった」などと、知人の作家
半藤一利
に後日語り
[39]
、「日本人であることが嫌になった」とノモンハン事件の作品化を?念した?緯がある
[40]
。
しかし、日本軍の八九式中?車は第2次ノモンハン事件の中盤には?に日本?地に?還しており、事件のおわりごろになってやっと?場に到着したとする司馬の認識は事?誤認であり
、また、1939年7月3日の
ハルハ川
東岸での?いで、日本軍の?車第3連隊とソ連軍第11?車旅?がノモンハン事件最大の?車?を行ったが、ソ連側の記?で確認できる、同日正午に開始された?車?では、八九式中?車がソ連軍の
BT-5
を3輛?破したのに?して、八九式中?車の損失は2?(ソ連軍は4??破を主張)であり、互角以上の?いとなっている
。その後に?車第3連隊はソ連軍の
速射砲
や?車が配置された陣地を?攻し、ソ連軍?車32?と?甲車35?を?破したと報告している
(ソ連側の記?は不明
)。そもそも、ノモンハン事件においては、日本軍の?車と
?甲車
の損失は35?(うち八九式中?車は16?)であったのに?し
、ソ連軍の損失は397?(うちBT-5と
BT-7
は216?)とはるかに大きく、八九式中?車がソ連軍?車に一方的に?破されたというのも司馬の事?誤認である
。
また、ノモンハン事件の??で、敵軍陣地を?攻して大損害を被ったのは、日本軍よりむしろソ連軍であり、ソ連軍大攻勢時にフイ高地やノロ高地などに日本軍が構築した陣地を?攻して大損害を被っている
。
井置?一
中佐率いる
第23師?
?索隊が守ったフイ高地について、井置は速射砲陣地に予備陣地を4~5個程構築し、砲?のたびに陣地?更して敵の攻?をかわす巧妙なつくりするなど、逆に?深陣地を作り上げて?攻してきたソ連軍に大損害を?えている
。司馬の認識とは異なり、ソ連軍がノモンハンで多用したのは、?深防御ではなく
?深攻?
であり、8月の大攻勢時に威力を?揮し、第二次世界大?でさらに進化し
1944年
6月に開始された
バグラチオン作?
がその集大成となったとされている
。
司馬はソ連軍がほぼ損害を受けていなかったと思い?んでいたように示唆されているが
、日本軍?兵が一方的に殺戮されたという?は、司馬がノモンハン事件の取材を進めていた1960年~1970年代には明らかでなかったソ連軍の情報が公開されるに?い否定されている
[注? 7]
[注? 8]
。
司馬は?後に
長野?
上山田?泉
で?泉宿を??していた?兵第26連隊長
須見新一?
元大佐と知り合った。連隊長解任の?緯から軍中央の?謀に不快感を抱いていた須見は、?謀を「?魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部に批判的であった司馬と意?投合している
。須見は明確に日本陸軍の作?用兵に?しては批判的であり、司馬の小?の構想にうってつけの人物であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小?を書こうと決めて、熱心に上山田?泉通いをしていた
。1974年の文藝春秋正月?で司馬は?謀本部元?謀で
伊藤忠商事
の副社長だった
?島龍三
と?談し、それが記事となったが、須見は、エリ?ト?謀であった?島に?して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その?島と?談した司馬に?して「あんな不?な奴にニコニコと?談し、反論せずにすませる作家は信用できん
」と激高し、以後の取材は一切受ける?はないとする絶??を送り付けた
ため、司馬はノモンハン事件の小?が書くのが困難となってしまった
[40]
[56]
[57]
。のちに司馬はこの時を振り返り「もしぼくがノモンハンを書くとしたら血管が破裂すると思う」と述べた
。
モンゴル?究者の佐?木健?は、司馬の?史認識は上からの視点で、
ノモンハン事件
が書けなかったのは司馬の知的怠慢と知的不誠?さだと批判したうえに、モンゴル憲法についての記載も間違っていると指摘した
[58]
。
?史?者の
秦郁彦
は、司馬がノモンハン事件の小?を書けなかった理由として、下記の4点をあげている
。
- 司馬のイメ?ジにかなう主人公や傍役を見つけられなかった。
- ?境紛?という中途半端な??形態。
- ?車隊はめぼしい?果なしに、一週間ばかりで?場を去った。
- 五味川純平
「ノモンハン」など競合する先行作品が出現した。
司馬と?車
[
編集
]
司馬は?車隊予備士官だった??により、日本軍の?車についても?いこだわりを持っており、著書やエッセ?で幾度となく取り上げている。自分の?車隊予備士官時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ「
梟の城
」の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、撮影困難として挫折した?緯もある
。
司馬は?車第1連隊に配?され?州
牡丹江
で訓練を受けたが、連隊は
本土決?
準備のため
?木?
佐野市
に移動した。そこで司馬は今後の人生の方向性を左右するような?烈な??をすることになる。ある日、上陸してくる連合軍への邀?作?について?明するために大本?から?校が訪れて、?車第1連隊の士官を集めた。一折り?明を受けたのちに司馬がこの?校に質問をしている
。
速成?育をうけただけの私にはむずかしいことはわからなかったが、素人ながらどうしても解せないことがあった。その道路が空っぽという前提で?明されているのだが、東京や?浜には大人口が住んでいるのである。敵が上陸ってくれば?然その人たちが動く。物凄い人?が、
大八車
に家財道具を積んで北?東や西?東の山に逃げるべく道路を北上してくるに違いなかった。?時は?東のほとんどの道路が??されておらず、路幅もせまく、やっと二車線程度という道筋がほとんどだった。?車が南下する。大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているのだろうかということであった...(その?校は)しばらく私を?みすえていたが、やがて、?然と「轢っ殺してゆけ」と、いった。同じ?民をである。
? 「石鳥居の垢」
司馬はこの大本??校の話を聞いて、民衆を守るのが軍隊ではなく、民衆の命よりも軍のほうが大事なのかとショックを受けて、「こんな愚かな??を日本人はどうしてやってしまったのか」との問いが司馬の最大の疑問となっていき、その謎を解くために書かれたのが後の小?群であった
。つまり、この?車第1連隊での??が小?家司馬遼太?の原点とも言える。昭和史?究で著名な
半藤一利
のように、出版業界で?史畑を長く扱ってきた者が(司馬の??者であった事もあり)この?言を信じて、帝?陸軍批判の材料とする者もいる。「恐ろしい言葉です。逃げてくる無抵抗な民衆を、作?の邪魔になるから「ひき殺していけ」と言う。それを軍を指揮する「大本??謀」が言ったというのです。しかも、司馬さんの質問に答えてたんですから、また聞きとか、?聞とかではないんです。名前まではさすがに出されていませんでしたが、わたくしには?時の?謀本部作?課の秀才?謀たちのいくつかの顔が思い浮かんできました。」などと、推測を交えた記述がなされている
[63]
。
しかし、この司馬の??談は幾度も司馬の著作や?言に登場するが、登場?初からは?容が?遷している。このエピソ?ドが初めて司馬の著作に登場するのは「
中央公論
」1964年2月?の「百年の?位」であるが、このときの記述によれば、質問したのは司馬ではなく連隊の「ある?校」になっており、回答したのは「大本?少佐?謀」とより具?的になっている
。
ある日、大本?の少佐?謀がきた...連隊のある?校が、このひとに質問した。「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で?滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、?然、街道の交通混?が予想される。こういう場合、わが八十?の中?車は、?場到達までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」高級な?術論ではなくごく常識的な質問である。だから大本?少佐?謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。「轢き殺してゆく」私は、その現場にいた
? 「百年の?位」
この時の少佐?謀は、同席した司馬や質問した連隊?校を?みすえることもなく自然に「轢き殺してゆく」と答えたとされているが、司馬自身が小?家としての原??となったと自認している重大事件について、司馬自身が質問したことを忘れるはずがないという指摘もある
。
そして司馬が?する前年の1995年の
鶴見俊輔
との?談では、それまで大本?の少佐?謀や?校とされていた?言者が、同じ?車第1連隊の大尉となっている
。
その人、いい人なんですよ。その連隊(?車第1連隊)のスタ?のような人でした。若い大尉で感じのいい...今でも感じのいい人ですが、大本?にしばらく出向されておられたんです。
? 「昭和の道に井?をたずねて」
また、この問答の存在自?に?事者から疑念が呈されている。
軍事史
?究家
土門周平
(本名近藤新治)(元?車第二十八
連隊
中隊長)は「あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに?ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい?えていてもいいはずなのですがね。」「?時、?車隊が進出するのには、夜間、4なり5キロの時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。」と述べている
[69]
。?時の日本軍は連合軍の
??爆?機
による空襲が最大の脅威であるため、大規模な移動は??爆?機の作?が制限される夜間に行うとする「夜間機動作?」が原則であったが、予備士官ながらも?車小隊長であった司馬は、
?車第1師?
司令部から各所?連隊の示達されていた「夜間機動作?」をついて知らずに「かれら(避難民)を轢き殺さない限り作?行動はとれない」と思い?んでいたことになる
。土門はこの件で一度司馬と?談する機?があったという。企?した?誌は「
朝日ジャ?ナル
」であったが、その席で土門は「なんであんなことを言うのか。あの?謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた?校も誰ひとりそんな?言は聞いていない」と問いただすと、司馬はにやりと笑って「近藤(土門)先生は?者ですなぁ」とひとことだけ答えたという。土門はその言葉を司馬の「私は小?家だから」という意味の?言ではないかと考えたが、結局このときの?談はお?入りとなり記事となることはなかった
。
1973年に?車第1連隊第5中隊の元中隊長西野堯大尉を?長として、?州時代の駐屯地名を冠した「石頭?」という?友?が?足した。司馬は妻女とともに京都で開催された第一回目の?合に出席して「私は西野さんの言うことならなんでも聞きます。西野さんの大事な??計割っちゃったからな」と??して一同を笑わせている。その後加入した西野と同期の宗像正吉大尉が、あるときの二次?で思い切って司馬に「轢いてゆけ」?言の??をただしてみたところ、司馬からは「宗像さん、新品少尉が大本??謀とサシで話ができると思いますか」「私は小?家ですよ。?史?究家ではありません」「小?というものは面白くなければ、?者は離れてしまいます」と語り、作家の「創作」だったことを明かしたという
。
自分が?った九七式中?車については、「同時代の最優秀の機械であったようで
」「チハ車は草むらの獲物を狙う?犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも?時の陸軍技術家の能力は高く評?できる」「?時の他の列?の?車はガソリンを燃料としていたのに?し、日本陸軍の?車は?に(燃費の良い)ディ?ゼルエンジンで動いていた
」と評?する一方で、その??能力については「この?車の最大の欠点は??ができないことであった。敵の?車に?する防御力もないに等しかった
」と罵倒するなど愛憎入り混じった評?をしているが、九七式中?車はノモンハン事件、
日中??
、
太平洋??
初期には、開?コンセプトに沿った?兵支援用主力?車
としての活躍を見せている
[注? 9]
。ノモンハン事件の?訓もあって、主砲を
一式四十七??車砲
に換?し??車攻?力が?化された九七式中?車改は、?時の??各列??の水準に大きく立ち?れていたが
、
ルソン島の?い
では、
第2?車師?
に配備された同車が、アメリカ軍の主力?車
M4中?車
や
M3??車
を?破するなど一定の?果を?げて
、アメリカ軍の?訓?報誌『Intelligence Bulletin』にて「もっとも?果的な日本軍?車」との評?もうけている
[79]
。また、中?大陸では??車能力に乏しい中?軍相手に活躍し、大?末期の1944年4月に開始された
大陸打通作?
では97式中?車改が主力の
第3?車師?
が、1944年5月のわずか1か月で1,400㎞を走破、
湯恩伯
?軍率いる40万人の中?軍を?破する原動力になったが、同車を含む師?の?加?車255?のうちで??で?破された?車はわずか9?であった
。九七式中?車の活躍を見ていた
中?共産?
の軍隊
東北人民自治軍
は、
日本の降伏
ののち、九七式中?車改を接?すると、自軍の兵器として使用、
功臣?
と名付けられた九七式中?車改は
?共??
で大活躍しながら生存し、現在も
中?人民革命軍事博物館
に展示されているなどの活躍を見せている
[81]
。
一方で九七式中?車の前の日本軍主力?車八九式中?車に?しては、その?績への事?誤認も含めたところで、罵倒されていることが多く、司馬が?車について語った
小?新潮
連載の「?車?この憂鬱な?物」
というエッセ?で「B?T?ホワイト著湯?謙三?の『?車及び?甲車』という本は世界中のその種の車の??と初期の?達史が書かれているが、悲しいことに日本の八九式中?車については一行ものせていないのである。ノモンハンであれほど悲劇的な最期を遂げながら、その種の?際的?史からも?殺された」と司馬は述べているが
、司馬のいう『?車及び?甲車』という本はブレイン?テレンス?ホワイト著『Tanks and Other Armored Fighting Vehicles, 1900 to 1918』の和?であり、本の題名通り、1918年の第一次世界大?までの?車や??車?に?する書籍で
、1929年(
皇紀
2589年)に制式採用された八九式中?車は?象外であった
。また、世界の多?の?車を所?し、?車の?史を見ることができる
アメリカ
の
アバディ?ン?車博物館
に八九式中?車も展示されている
[85]
。
?車第1連隊の元中隊長であり、?後に
AIU保?
の役員となった宗像は、
秦郁彦
からの司馬はなぜ日本軍の?車の?口を言い?けたのか?という質問に?して「彼は本?は?車が大好きだったんだと思います。ほれ、出?の?い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている
。司馬自身も?車に?っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の?容を「?車の?部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の?粉とそして潤滑油のいりまじった特有の?臭をもっている。その?いまで夢の中に出てくる。追憶の甘さと?かしさの入りまじった夢なのだが、しかし?夢ではないのにたいてい?されたりしている」と詳細に書き?しており
、?車に?する司馬の愛着を感じることができる
。また、?車兵であったという軍?も否定的には捉えておらず、?友?にも「無防備の裸で付き合える」として
[89]
、積極的に出席していたほか
、
文藝春秋
の編集者として多くの有名作家と面識のあった
中井勝
との?話で、司馬は作家
井上靖
が?軍時代の兵科が何であったかを中井に尋ね、中井が「
輜重輸卒
でしょう」と答えると、司馬は「そうや、よう知っとるねえ」とまんざらでもない表情になったという。司馬は新聞記者の大先輩で文壇では格上で頭があがらなかった井上が、兵科として?日本軍では?く見られがちだった輜重兵であったのに?して、?車兵の自分のほうが上であったという稚?っぷりな自負心を持っていたと、司馬のまんざらでもない表情を見て中井は思ったという
[91]
。
のちに、?車第1連隊で司馬と?友であった宗像らは日本の?車部隊?祥の地の
久留米
基地(現在は
陸上自衛隊
久留米駐屯地
)にかつてあり、?後に
進駐軍
に破?された「?車之碑」再建しようと奔走したが
、再建の目途が立ったときに、碑文の起草を司馬に依?したところ、司馬は二つ返事で承諾し、下記の碑文を送った
。
大正14年 この地に日本最初の?車隊が誕生した
その後20年 ?い日多く ?域はひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死し 昭和20年 その?史を閉じた
世?の?値?を越えて事?は後世に?えらるべきものであるために その?祥を記念し この地に生き?れる者が相集い 死せしひとびとの?を慰めつつ ?車の碑を建てる
昭和49年5月
??車兵有志980余名
陸上自衛隊機甲科3500余名
? 司馬遼太?
こうした司馬の?車に?する思いを感得していた?車第1連隊の?友たちは、宗像が一度問いただした以降は敢えて「大本??謀の?隊は見た者も聞いた者もいないよ」などと口にすることはなかった
。
?史?への批判
[
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]
司馬の作り上げた?史?は、「司馬史?」と評される
[94]
[95]
。
その特?としては日??日露??期の日本を理想視し、(自身が??した)太平洋??期の日本を暗?視する点である。人物においては、高評?が「庶民的合理主義」者の
織田信長
、
西?隆盛
、
坂本龍馬
、
大久保利通
であり、低評?が
?川家康
、
山?有朋
、
伊藤博文
、
乃木希典
、
三島由紀夫
である。この史?は、
高度??成長期
に?く支持を集め
[96]
、ポスト高度成長期になると
新自由主義
や
自由主義史?
の流行にのって?まれた
[97]
。
しかしこのような?史?は都合が良すぎるという指摘がある
[98]
。左派からは
?史修正主義
の土台になった
[99]
、右派からは
自虐史?
の土台になったとして、それぞれ批判されることがある
[100]
。また
乃木希典
を愚?として描いていることは、
福田?存
や
福井雄三
により批判されている(詳しくは
乃木希典#評?
を?照)。
晩年の司馬は土地の公有を主張する、「庶民的」な
田中角?
を嫌?するなど主張が?化しており、日本文?者の
助川幸逸?
は、司馬史?は高度??成長期の思想で、
バブル景?
とその崩?後の時代には視点が無かったのではないかと述べている
[96]
。
フィクションへの批判
[
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]
より?究的な立場からは、??性の面からも批判されることがある。?史家の
鈴木眞哉
は司馬史?には多くの盲点があるとして具?的な例を?げて批判をしている
[101]
。
『?馬がゆく』『上?の?客』の?豪
森要?
は、?考文?『會津戊辰?史』『七年史』の誤記もあった。白河地?を調査した結果、森親子が白河口の雷神山で?死、
板垣退助
が見たなどはありえない。その後、多くの作家の作品に御前試合は語られていない。2022年、森要?の行動記?『?津人群像№44』「?豪森要?の??」池月映(?史春秋社)が?表された。
?構の記述
[
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?者が多く影響力が?いために、作品に描かれているのがそのまま史?と受け取る?者も少なくないが、作品の多くはあくまでも大衆小?であり、小?とするために史?を意?的に?えているもの(例?「池田屋異聞」において山崎烝の先祖が
?野?監
という事?は存在しない。また、常城家の出である大高忠兵衛の先祖が大高忠雄と書かれている)
[102]
や、根本的に架空のスト?リ?も含まれている。
『?馬がゆく』糾?事件
[
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]
代表作『?馬がゆく』で坂本龍馬による罵倒語として?ヶ所「ちょうりんぼう(馬鹿め)!」との表現を用いた
[103]
。この記述が
1983年
9月16日
、
京都新聞
夕刊の?告欄における伏見銘酒?の「銘柄クイズ」に引用されたのを機に問題視され、司馬は
部落解放同盟
から糾?を受けた
[103]
。このとき、司馬だけではなく、京都新聞やKBS京都放送、コピ?の下請け制作を依?した
電通
京都支局、さらには電通本社までが突き上げを受けている
[103]
。
司馬に?する糾??は、
1983年
12月12日
、京都の部落解放センタ?で開かれた
[103]
。司馬は「知らなかった自分が恥ずかしい」と?明し、「土佐弁では『ちょうりんぼう』は?なる罵倒語になっていると思っていた。被差別者が『
長吏
』と呼ばれていたことは古くから知っていた。日本語を考え?けているつもりながら、長吏とちょうりんぼうがつながっていることに?付かなかったことは、限りなく恥ずかしい」と述べた
[103]
。
この事件の後、問題の箇所は「ばかめ!」と改められて刊行が?いている
[104]
。
エピソ?ド
[
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]
人物
[
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]
- 速?家として知られ、ある友人と家で話していたとき、その友人がコ?ヒ?を1杯?み終わるうちに、?話しながらであるにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を?み終わっていたというエピソ?ドがある。この時?んでいたのは小?の資料(?事者の日記など)である。
- 資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円?位という巨費を投じて買い集めた。司馬が資料を集め始めると、?連する古書が業界から?底したという逸話があった。?初は、?トラックで?り?み、古本屋に?り?むや否や手?たり次第に??購入し、?係者らと荷台に?せていったという。『
坂の上の雲
』執筆に際しては、
神田神保町
の
神田古書店街
の
古書店
主らに依?し、「日露??」という記述のある本を片っ端から買い集め、?時同じ題材の?曲を書いていた
井上ひさし
が古書店に行っても資料がなかったという逸話も?る。
- 名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を?てるという特技があり、たびたび周?の人を驚かせた。
- 私生活の面では
中村玉?
のファンで、そのお?儀の美しさに見とれたという。舞台『
?馬がゆく
』で、
萬屋錦之介
と共演した。また錦之介は?馬を生涯の持ち役とした。
- 自身の作品の中で最も好きな作品はと聞かれた際「空海と燃えよ?」と語っている。
- 大阪市
の
西長堀アパ?ト
[注? 10]
に住んでいたころ、同じフロア?に、?過ぎに家を出て深夜に?ってくる謎の大男がいた。肉???者のような?つきだが、それにしては身なりが良い。自宅に出入りする出版社の編集者に?談として話したところ、興味から編集者がその謎の男の住む部屋の表札を確認したら、
野村克也
と書かれていたという。スポ?ツに?心がないあまり、野村を球史に?るスタ?選手と知らぬ司馬と、隣人を司馬と知りながら、シャイで話しかけられなかった野村は、結局親しくなることはなかった。
- 執筆活動以外はごろ?をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったようなものへの興味は生涯なく、バンダナ?集が唯一の趣味であった。外出の際は?に入ったバンダナを身につけていた。その多くは遺族が保存し、記念館で一部展示している。
- 終生喫煙者で、タバコ銘柄は
ハイライト
、喫煙する肖像??が多く?っている
[105]
[106]
。
- 話し上手?聞き上手として有名で「座談の名手」と呼ばれ、?談集を?多く出版した。交友?係も?く、
池波正太?
をはじめ、
桑原武夫
、
井上靖
、
梅棹忠夫
、
?莫山
、
上田正昭
、
ドナルド?キ?ン
、
萩原延壽
、
山崎正和
、
安野光雅
、
貝塚茂樹
?
湯川秀樹
兄弟など多岐にわたった。池波は小?家として共に?け出しのころの親友であり、お互いに忙しくなってからは次第に疎遠になったそうだが、司馬は池波の『
鬼平犯科帳
』など愛?していたという。また、小?家としての初期に?ましてくれたのは
海音寺潮五?
で、海音寺の?ましがなければ小?家として立っていたかどうか疑わしいと司馬は回想している。晩年は
宮城谷昌光
を高く評?し、宮城谷から送られてくる作品を?んで手紙などで?ましつづけ、?する間際には宮城谷に「どうしても?っておきたい」と述べて?談を行っている。
- アニメ監督の
宮崎駿
の作品、特に『
ルパン三世 カリオストロの城
』、『
となりのトトロ
』を高く評?し、宮崎と?談も行っている。その時に司馬が新聞記者時代、京都の岩屋不動志明院に宿泊した際、奇っ怪な??をした話しをしていて『もののけ?』の着想になったといわれている。
- 1970年11月25日に起きた
三島事件
では?日新聞に寄稿、作家?
三島由紀夫
の「薄よごれた模倣者」が出ることを危?し、三島の死は文?論のカテゴリ?に留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反?し、野次った自衛官たちの大衆感?の方を正常で健康なものとした。だが四半世紀を?た晩年には、三島が予言した
バブル期
の日本人の?金主義や倫理喪失を憂うようになった
[107]
。
- 田中卓志
(
アンガ?ルズ
)の祖父は、司馬と?地で同じ部隊だったことがテレビ番組で判明した
[108]
。
- 豚と薔薇
で推理小?を書いたが、探偵小?に登場してくる探偵について「他人の秘事を、なぜあれほどの執拗さであばきたてねばならないのか、その情熱の根源がわからない」とあとがきに書いている。
その他
[
編集
]
- 直木賞選考委員だった時に、
SF作家
?
??正
の作品を何度も、候補になるたびに高く評?したが、他の選考委員の?成を得られず、授賞に至らなかった。後に早世した??の作品集がまとめられた際には、『
??正?小?全集2 ツィス
』の解?を書いた。
直木賞選後の司馬の評に、どれほど??を評?し、同席した他の選考者があきれていたかが推察できる。?時の評から一部??すると、「一?者として、一番面白かったのは、??正氏の『
マイナス?ゼロ
』であった。SFには?み方が要る。頭から空想譚に騙まされる姿勢で?まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さにおどろいた」というものである。この一節は「マイナス?ゼロ」の??告にも用いられた。初期に?奇小?を多く執筆している司馬にとって、こうしたSFへの好意はさほど意外なものではない。
- 芸術家?
岡本太?
が万博協?から
大阪万博
プロデュ?サ?への就任を打診された時、岡本は司馬に万博プロデュ?サ?を引き受けるべきか相談。司馬は「ぜひやったほうがいい」と岡本を?ました
[109]
。
- 古?の産?新聞社をはじめとする
フジサンケイグル?プ
の鹿?家支配を「企業の私物化だ」と批判しており、
羽佐間重彰
(?時産?新聞社社長)?
日枝久
(?時
フジテレビジョン
社長、産?新聞社取締役)らによる
鹿?宏明
?長解任を喜び、羽佐間?日枝に色紙を贈ったという
[110]
[注? 11]
。
- 元台??統の
李登輝
とは
?徒出陣
の同期であり、李が愛?者でもあったことから懇意となった。『
台?紀行
』取材に際しては、?統時代の李と?談を行った。
- 堤堯
(『諸君!』、『文藝春秋』の元編集長)によれば、生前の司馬から、「日本には
自民?
と
共産?
、この二つがあればエエ。現?政?と批判政?の二つや」という言葉を直接聞いたことがあるという。これは、堤が?誌コラムなどでたびたび書いている話だが
[112]
、司馬自身は著作ではこのような趣旨の事は書いていない。
- 祖父?福田?八は
兵庫?
?路市
の浜寄りの郊外の
?
という村の出身で、そこに
江?時代
のあいだずっと
百姓
をしていた
家系
に生まれた
。??のころは播州三木城にその先祖が籠城したということであるが、
身分
はわからない
。
?土?宗
西本願寺
の熱心な門徒で、三木城が落ちてから他の籠城兵ととも?村に落ち、そこで
田地
を耕した
。?八の嫁(司馬の祖母)は、?に近い高浜の人で司馬の父親となる是定(しじょう)を産んでほどなく亡くなった
。?八が
明治維新
をむかえたのは18か19の頃で、“
百姓
にも姓がつくそうな。”ということになり、?時村にいた?八の一族たちは?合して申しあわせ、三木という姓にすることにしたが(先祖が三木籠城したということでそうなったという)、その頃?八は親類中と喧?をしていて、親類の者から「おまえだけは別の姓にしろ」と言われた
。?八は、無類の
珠算
好きで、ついには
和算
までやりだし、
ソロバン
で
開平
開立
を解いたりした
。その後、彼自身のわずかな財産からすれば大相場を張ったが、無一文になってしまい土地にいられなくなったため、
夜逃げ
同然で村を出、飾磨の湊から船に?って大阪に行き、難波で
?
屋を開業した
。
- 生涯大阪に居住し、生前最後の住居が大阪府東大阪市の
司馬遼太?記念館
として(一部が)公開されている。
作品
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]
長編小?
[
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]
- 『
梟の城
』(1959年、講談社)
- 『
上方武士道
』(1960年、中央公論社)- ?後『花?ける上方武士道』に改題再刊
- 『
風の武士
』(1961年、講談社)
- 『
?雲の夢
』(1961年、講談社)
- 『
風神の門
』(1962年、新潮社)
- 『
?馬がゆく
』(1963-1966年、文藝春秋新社)
- 『
燃えよ?
』(1964年、文藝春秋新社)
- 『
尻啖え孫市
』(1964年、講談社)
- 『
功名が?
』(1965年、文藝春秋新社)
- 『
城をとる話
』(1965年、光文社)
- 『
??り物語
』(1965-1966年、新潮社)
- 『
俄 浪華遊??
』(1966年、講談社)
- 『
?ヶ原
』(1966年、新潮社)
- 『
北斗の人
』(1966年、講談社)
- 『
十一番目の志士
』(1967年、文藝春秋)
- 『
最後の?軍
』(1967年、文藝春秋)
- 英?版『The Last Shogun』(Juliet Winters Carpenter??)
- 『
殉死
』(1967年、文藝春秋)
- 『
夏草の賦
』(1968年、文藝春秋)
- 『
新史太閤記
』(1968年、新潮社)
- 『
義?
』(1968年、文藝春秋)- 連載時の題名は『九?判官義?』
- 『
峠
』(1968年、新潮社)
- 『
宮本武?
』(1968年、朝日新聞社『日本?客?』??)
- 『
坂の上の雲
』(1969-1972年、文藝春秋)
- 『
妖怪
』(1969年、講談社)
- 『
大??師
』(1969年、文藝春秋)
- 『
?月
』(1969年、講談社)
- 『
世に棲む日日
』(1971年、文藝春秋)
- 『
城塞
』(1971-1972年、新潮社)
- 『
花神
』(1972年、新潮社)
- 『
覇王の家
』(1973年、新潮社)
- 『
播磨灘物語
』(1975年、講談社)
- 『
翔ぶが如く
』(1975-1976年、文藝春秋)
- 『
空海の風景
』(1975年、中央公論社)
- 英?版『KUKAI THE UNIVERSAL』(武本明子??)
- 『
胡蝶の夢
』(1979年、新潮社)
- 『
項羽と劉邦
』(1980年、新潮社)- 連載時の題名は『漢の風 楚の雨』
- 『
ひとびとの?音
』(1981年、中央公論社)
- 『
菜の花の沖
』(1982年、文藝春秋)
- 『
箱根の坂
』(1984年、講談社)
- 『
??疾風?
』(1987年、中央公論社)
- 英?版『The Tatar Whirlwind』(Joshua Fogel??)
短編小?
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]
※は、後に文庫(他社?新編も含め)で再刊。他に新書判(講談社ロマンブックス)などで再刊がある。
- 『白い?喜天』(1958年、凡凡社)- ?女出版。
- 「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴」 「白い?喜天」「兜率天の巡?」
- 『大坂侍』(1959年、東方社)- ※?作入れ替え、講談社文庫で新編再刊。
- 「和州長者」「泥棒名人」「?賊と間者」「法駕籠のご寮人さん」「大坂侍」「難波村の仇討」
- 『最後の伊賀者』(1960年、文藝春秋新社)- ※「けろりの道頓」を追加し講談社文庫で新編再刊。
- 「外法?」「下請忍者」「伊賀者」「最後の伊賀者」「蘆雪を殺す」「天明の?師」
- 『
果心居士
の幻術』(1961年、新潮社)※ - 新潮文庫で再刊。
- 「八咫烏」「朱?」「牛?加持」「果心居士の幻術」「飛び加藤」「壬生狂言の夜」
- 『おお、大砲』(1961年、中央公論社)- ※?作入れ替えし「言い?らし?右衛門」中公文庫で新編再刊。
- 「言い?らし?右衛門」「岩見重太?の系?」「?ろう物語」「?賀の舟?砲」「おお、大砲」
- 『一夜官女』(1962年、東方社)- ※「女は遊べ物語」「京の?客」を追加し中公文庫で再刊。
- 「一夜官女」「雨おんな」「侍大?の胸毛」「伊賀の四鬼」
- 『??宮本武?』(1962年、文藝春秋新社)- ※講談社文庫で再刊。
- 「??宮本武?」「京の?客」「越後の刀」「
千葉周作
」「上?の?客」「奇妙な?客」
- 「伊賀者」「奇妙な?客」「花房助兵衛」「軍師二人」「割って、城を」「千葉周作」「上?の?客」
- 『幕末』(1963年、文藝春秋新社)※ - 幕末の暗殺事件を描いた連作短編全12編。文春文庫で再刊。
- 「冷泉斬り」は月刊誌『日本』(1962年6月?)、「逃げの小五?」は書き下ろし。他の10編は『幕末暗殺史』の題で『月刊
オ?ル讀物
』に連載。
- 「
?田門外の?
」「奇妙なり八?」「花屋町の襲?」「猿ヶ?の血?」「冷泉斬り」「
祇園?子
」「土佐の夜雨」「逃げの小五?」「死んでも死なぬ」「
彰義隊
胸算用」「
浪華城
?討」「最後の攘夷志士」
- 『
新選組血風?
』(1964年、中央公論社)- ※
幕末
の
新選組
を描いた連作短編 全15編。角川?中公文庫で再刊。
- 『鬼謀の人』(1964年、新潮社)
- 「鬼謀の人」「英雄?」「慶?長崎事件」「人斬り以?」「喧?草雲」
- 『
?って候
』(1965年、文藝春秋新社)※ - 幕末の西南雄藩の藩主4名を描いた連作短編。文春文庫で再刊。
- 「?って候」「きつね馬」「伊達の?船」「肥前の妖怪」
- 『
豊臣家の人?
』(1967年、中央公論社)※ -
安土桃山時代
、
豊臣秀吉
につながる10名を描いた連作短編。角川?中公文庫で再刊。
- 『王城の護衛者』(1968年、講談社)※ -「人斬り以?」を追加し講談社文庫(1971年)で再刊。
- 「加茂の水」「王城の護衛者」「英雄?」「鬼謀の人」
- 『喧?草雲』(1968年、東方社)- 表題は幕末の?家
田崎草雲
の?奇な人生を描く。
- 『故?忘じがたく候』(1968年、文藝春秋)※ - 朝鮮人陶工師を描いた「故?忘じがたく候」は、司馬の作品としては唯一存命中の人物(
沈壽官
)を主人公とした物語である。文春文庫で再刊。
- 「故?忘じがたく候」「斬殺」「胡桃に酒」
- 『
人斬り以?
』(1969年、新潮文庫)- 新編文庫判。
- 「鬼謀の人」「人斬り以?」「割って、城を」「おお、大砲」「言い?らし?右衛門」「大夫殿坂」「美濃浪人」「?ろう物語」
- 「馬上少年過ぐ」「重庵の??」「城の怪」「貂の皮」
※新編は「英雄?」「慶?長崎事件」「喧?草雲」を追加し新潮文庫(1978年)。
- 『木曜島の夜?』(1977年、文藝春秋)※ - 最後期(執筆時期)の短編集。文春文庫で再刊。
- 「木曜島の夜?」「
有隣は?形にて
」「
大?源太?
の生死」「
小室某?書
」
- 『おれは?現』(1982年、講談社文庫) - 以下は文庫での新編再刊。
- 「愛染明王」「おれは?現」「助兵衛物語」「?兵衛物語」「信九?物語」「若江堤の霧」「けろりの道頓」
- 「?賀の舟?砲」「女は遊べ物語」「嬖女守り」「雨おんな」「一夜官女」「侍大?の胸毛」「割って、城を」「軍師二人」
- 「薩摩?福寺?」「
倉敷の若旦那
」「
ア?ムストロング砲
」「理心流異聞」「?客万助珍談」「斬ってはみたが」「五?陣屋」「壬生狂言の夜」「大夫殿坂」
- 『ペルシャの幻術師』(2001年、文春文庫) - 初の文庫化作品集。
- 「兜率天の巡?」「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴」「下請忍者」「外法?」「牛?加持」「飛び加藤」「果心居士の幻術」
- 『侍はこわい』(2005年、光文社文庫) - 著者の生前未??の作品集。
- 「?平五千石」「豪傑と小壺」「忍者四貫目の死」「狐斬り」「ただいま十六?」「侍はこわい」「みょうが?の武術」「庄兵衛?荷」
- 『花妖譚』(2009年、文春文庫) - 新聞記者時代に、本名「福田定一」名義で書いた花をテ?マにした連作短編。
- 「森の美少年」「チュ?リップの城主」「?色の牡丹」「烏江の月 ?曲『項羽』より」「?い沼」「睡蓮」「菊の典侍」「白椿」「サフラン」「蒙古?」
初期作品(?行本?全集未所?)
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]
- わが生涯は夜光貝の光と共に(1950年、「ブディスト?マガジン」創刊?、?土?宗西本願寺)、初めての出版作品で、福田定一名義。
- 役の行者(1958年、「吉野風土記」所?、吉野史談?)
- ある不倫(1960年、「小?中央公論」所?、中央公論社)
- 魔女の時間(「主婦の友」1961年12月??1962年11月?。全12話)司馬には珍しい、BG(ビジネスガ?ル)の女性を主人公とした現代小?。
- 豚と薔薇
(1960年、東方社。1968年に再版)、「兜率天の巡?」を??
- 推理小?で、司馬は本版あとがきで、この作品は自らすすんで書いたものではないと明言し、またこれから後は推理小?は書かないつもりだとも記している。全集に未??の上、文庫化もされてない。
- 古寺炎上(1962年、<角川小?新書>
角川書店
)、「豚と薔薇」を??。なお今日?方とも、相?な古書?となっている。
?曲
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]
- 花の館(1970年、中央公論社)
- 鬼?(1975年12月、中央公論社)
- 司馬
遼??
太? 全舞台(2002年8月、
中央公論新社
)
?筆?紀行??談
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]
|
|
- ?筆?評論ほか
- 名言?筆サラリ?マン哲?(1960年、六月社) → ビジネスエリ?トの新論語(1972年、六月社書房)
- ?方とも福田定一名義、「二人の老サラリ?マン」は「文藝春秋 臨時?刊?」2005年5月?に所?。
- ビジネスエリ?トの新論語(2016年12月、
文春新書
)
- 手掘り日本史
(1969年6月、
?日新聞社
)
- ?史と小?(1969年8月、
河出書房新社
)
- ?史と視点(1974年10月、新潮社)
- ?史の中の日本(1974年10月、中央公論社)
- 余話として(1975年10月、文藝春秋)
- 古今往?(1979年9月、日本書籍)
- ?史の世界から(1980年11月、中央公論社)
- 微光のなかの宇宙(1984年3月、中央公論社)- 美術論集
- ある運命について(1984年6月、中央公論社)
- ロシアについて(1986年6月、文藝春秋)
- 二十一世紀に生きる君たちへ
(1987年5月、
大阪書籍
刊『小??語 六年下』に??)
- 「
明治
」という?家(1989年9月、
日本放送出版協?
/
NHKブックス
、新版2018年)
- NHKスペシャル
「太?の?の物語」ト?クドキュメントで、1989年正月と秋に
NHK?合
で放映(全7回、
吉田直哉
演出)
- この?のかたち
(全6?、1990年 - 1996年、文藝春秋)-「月刊
文藝春秋
」での?頭?筆
- 風塵抄
(一.1991年、二.1996年、中央公論社)-
産?新聞
朝刊で月一回連載の?頭コラム
- 春??記(1991年11月、朝日新聞社)
- 十六の話(1993年10月、中央公論社)
- 「
昭和
」という?家 (1998年3月、日本放送出版協?/新版?NHKブックス)
- 1986年放映のドキュメント番組(
NHK?育テレビ
)での語りをまとめたもの
- ?史と風土(1998年10月、文春文庫)-「全集」月報?自作解題ほか
- 以下、無用のことながら(2001年2月、文藝春秋)- 晩年に書かれた71篇の?筆集
- 新聞記者 司馬遼太?(2000年、産?新聞社/2013年、文春文庫)- 文化部記者時代のコラム15本を??。
- もうひとつの「風塵抄」(2000年2月、中央公論新社)- ??者?福島靖男との往復書簡
- 書簡??と講演??談を??
- 人間というもの(1998年12月、PHP?究所)-
アフォリズム
集
- 司馬
遼??
太? アジアへの手紙(1998年3月、集英社)
- 司馬
遼??
太?からの手紙(上下)(週刊朝日編集部編、2004年、朝日文庫)
- 紀行
- ?史を紀行する
(1969年2月、文藝春秋)
- 街道をゆく
(1971年9月 - 1996年11月、朝日新聞社)
「
週刊朝日
」に連載。43?目で絶筆
- 人間の集?について ベトナムから考える(1973年10月、サンケイ新聞社)
- 長安から北京へ(1976年10月、中央公論社)
- ?史の舞台(1984年3月、中央公論社)
- アメリカ素描(1986年4月、
??新聞社
)
- 草原の記(1992年6月、新潮社)
|
- ?談?鼎談?座談
- 萌え騰るもの(1969年、?習?究社)※
岡潔
と、新版?土曜社(2020年)
- 日本?史を点?する(1970年1月、講談社)※
海音寺潮五?
と
- 日本人を考える(1971年8月、文藝春秋)
- 日本人と日本文化
(1972年5月、
中公新書
)※
ドナルド?キ?ン
と
- ?史を考える(1973年10月、文藝春秋)
- 座談??日本の渡?文化(1975年6月、中央公論社)※
上田正昭
、
金達?
と
- 土地と日本人(1976年8月、中央公論社)※
松下幸之助
、
野坂昭如
らと
- 天下大?を生きる(1977年、潮出版社)※
小田?
と
- ?談 中?を考える(1978年3月、文藝春秋)※
陳舜臣
と
- 日本人の?と外(1978年4月、中公新書)※
山崎正和
と
- 西域をゆく(1978年8月、潮出版社)※
井上靖
と
- 日本語と日本人(1978年11月、朝日新聞社)※
中西進
、
大野晋
らと
- 座談??朝鮮と古代日本文化(1978年12月、中央公論社)※上田正昭、金達?と
- 日本人の顔(1980年8月、朝日新聞社)※
江崎玲於奈
らと
- ?史の夜?(1981年5月、小?館)※
林屋辰三?
と
- 人間について(1983年7月、平凡社)※
山村雄一
と
- 日韓理解への道(1983年7月、??新聞社)※
鮮于煇
、高柄朔、金達?、
森浩一
と
- ?史の交差路にて(1984年4月、講談社)※陳舜臣、金達?と
- 東と西(1990年11月、朝日新聞社)※
開高健
、
桑原武夫
、
エドウィン?ライシャワ?
らと
- 世界のなかの日本(1992年4月、中央公論社)※ドナルド?キ?ンと
- 時代の風音(1992年11月、UPU)※
堀田善衛
、
宮崎駿
と
- 八人との?話(1993年3月、文藝春秋)※
丸谷才一
、
立花隆
、
山本七平
らと
- 九つの問答
(1995年7月、朝日新聞社)※
井筒俊彦
、
リ?ビ英雄
らと
- ?家?宗??日本人(1996年7月、講談社)※
井上ひさし
と
- 日本人への遺言(1997年2月、朝日新聞社)※
田中直毅
、宮崎駿らと
- 日本とは何かということ(1997年3月、日本放送出版協?)※
山折哲雄
と
1995年7月に?育テレビ「
ETV特集
」で3回放送。
|
全集?選集
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]
- 司馬
遼??
太?全集(全68?、文藝春秋)、3期に分け出版(第3期は?後)
- 司馬
遼??
太?短篇?集(講談社、1971年、解?
尾崎秀樹
)- 五十?篇を??
- 司馬
遼??
太?短篇全集(全12?、文藝春秋、2005-2006年)
- 司馬
遼??
太?が考えたこと(全15?、新潮社、のち新潮文庫)、エッセイ集成
- 司馬
遼??
太??話選集(全5?、文藝春秋、のち文春文庫 全10?)、?川夏央監修
- 司馬
遼??
太? ?史のなかの邂逅(全4?、中央公論新社、のち中公文庫 全8?)、人物エッセイ集成
- 司馬
遼??
太? ?史のなかの邂逅 同時代篇(中公文庫、2023年)、生誕100年記念
- 司馬
遼??
太??史?談(中央公論新社、のち中公文庫 全2?)
- ※
湯川秀樹
、
富士正晴
、
福永光司
、
芳賀徹
、
橋本峰雄
らと、版元での約30年間の?談集成
- 司馬
遼??
太?全講演 1964-1995(全3?、朝日新聞社、のち朝日文庫 全5?)
- 幕末維新のこと/明治?家のこと(幕末?明治論コレクション:ちくま文庫、2015年)、?川夏央編
?行部?ランキング
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]
(?行本?文庫本の合計:出典『
ダカ?ポ
』2005年9月7日?(第567?)、65頁)
- 年?を?たので、上位作品は更に?百万部、下位でも?十万部が上?せされている。
- 一例として、『讀賣新聞』2010年1月1日付?朝刊第2面?告欄で、『?馬がゆく』は「2400万部」、『坂の上の雲』は「1900万部」と記載。
- 2016年2月11日付「?日新聞」の「もう一度?みたい<司馬遼太??後20年>」によると、各出版社のデ?タを元に?自集計した「司馬作品累計?行部?」は、 ①「?馬がゆく」(2,477万部) ②「坂の上の雲」(1,967) ③「街道をゆく」(1,191) ④「翔ぶが如く」(1,181) ⑤「??り物語」(728) ⑥「項羽と劉邦」(716) ⑦「?ケ原」(577) ⑧「功名が?」(557) ⑨「世に棲む日日」(528) ⑩「菜の花の沖」(512) ⑪「花神」(483) ⑫「燃えよ?」(474) ⑬「播磨灘物語」(415) ⑭「この?のかたち」(390) ⑮「峠」(365) ?「城塞」(340) ?「胡蝶の夢」(300) ?「新史太閤記」(291) ?「箱根の坂」(265) ?「義?」(253) とのこと。
[2]
- 2023年1月11日付「産?新聞」によると、司馬遼太?記念財?が生誕100年になるのに合わせ、各出版社に問い合わせた結果、全司馬作品の紙?電子を合わせた累計?行部?は、2億673万部で、1位は「?馬がゆく」2496万部、2位「坂の上の雲」1987万部、3位「街道をゆく」1224万部で、その他は「??り物語」は749万部、「?ヶ原」は630万部、「世に棲む日日」は527万部、「燃えよ?」は517万部、「菜の花の沖」は515万部、「峠」は402万部、「花神」は384万部で、下記の部?よりも上がっている。
[118]
?連作品
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]
映?
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]
テレビドラマ
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]
ラジオ
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]
漫?
[
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]
舞台
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ドキュメント
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]
- 司馬
遼??
太? ?談「昭和」への道(全12?、NHKビデオ)
- NHKスペシャル
太?の?の物語(全4?、NHKビデオ)
- 他にもNHK番組を中心に多?出演している。
- NHKスペシャル 街道をゆく(全13?、NHKビデオ)
- 新シリ?ズ 街道をゆく(全24?、NHKビデオ)
- NHKスペシャル
空海の風景
(2002年)
受賞??典
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]
評??作品評論
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]
- ?係者の回想、作品案?
- 以下は(?史?などの)各立場で、作品の受容と評論を紹介
- 『司馬
遼??
太?の世紀 保存版』(1996年6月、朝日出版社)、
?藤?爾
責任編集
- 『群像日本の作家30 司馬
遼??
太?』(1998年、
小?館
)
- 『
KAWADE夢ムック
?特集司馬
遼??
太?の「??時代」』(2002年8月、
河出書房新社
)
- 『KAWADE夢ムック ?特集司馬
遼??
太? 幕末?近代の?史?』(2001年9月、河出書房新社)
- 『司馬
遼??
太?の流儀 その人と文?』(2001年、日本放送出版協?)
- 寄稿者は、
小山?美江子
、
鶴見俊輔
、
出久根達?
、
半藤一利
- 『司馬
遼??
太?がゆく?「知の巨人」が示した「良き日本」への道標』(2001年、
プレジデント社
/ 2018年、小?館文庫)
- 『完全保存版 司馬
遼??
太?がゆく プレジデント 1997年3月臨時?刊?』を?訂
- 寄稿者は、半藤一利、
山折哲雄
、
童門冬二
、
吉岡忍
、
村松友視
ほか
- ?版本
- 『司馬
遼??
太?が愛した「風景」』(2001年、新潮社?
とんぼの本
)
- 『司馬
遼??
太?が描いた「新選組」の風景』(2003年、新潮社?とんぼの本)
- 『司馬
遼??
太? 新しい日本の?見』(2007年、別冊太陽 日本のこころ:平凡社)
ISBN
4582921302
- 『司馬
遼??
太?「街道をゆく」の視点』小林修(2019年10月、朝日新聞出版)
- 『司馬
遼??
太?「坂の上の雲」の視点 小林修??集』(2022年10月、朝日新聞出版)
- ?誌特集
- 『カイエ 特集司馬
遼??
太?』(1979年12月?、冬樹社)。司馬自身も座談?に?加
- 『
芸術新潮
大特集 司馬
遼??
太?が愛した「風景」』(1996年8月?、新潮社)、上記「とんぼの本」元版
- 『大航海No.13 特集司馬
遼??
太? カルチュラル?スタディ?ズ』(1996年12月、
新書館
)
- 『文藝春秋special 「?後十年特別企? 司馬
遼??
太?ふたたび」 日本人を考える旅へ』 2006年2月臨時?刊?
- 編集者、古書店店主、批評家(複?)などが寄稿。なお文春の月刊誌などで、司馬に?のある記事が度??載されている。なお同誌で「臨時?刊 坂の上の雲 ?特集」を3??行した。
- 『文藝春秋 「司馬
遼??
太?の??『この?のかたち』」?後20年』 2016年3月特別?刊?
- 『季刊誌
kotoba
特集 司馬
遼??
太? 解?新書』(2021年1月?、集英社)
- 週刊朝日
『週刊司馬
遼??
太?』シリ?ズ(
朝日新聞出版
)
- 『週刊司馬
遼??
太?』(2006年、週刊朝日MOOK)
ISBN
402274510X
- 『燃えよ?』、『?馬が行く』、『??り物語』、『功名が?』など
- 『週刊司馬
遼??
太?II』(2007年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745134
- 『?ヶ原』、『梟の城』、『世に棲む日日』、『峠』など
- 『週刊司馬
遼??
太?III』(2008年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745231
- 『新史 太閤記』、『義?』、『翔ぶが如く』、『花神』など
- 『週刊司馬
遼??
太?IV』(2008年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745290
- 『菜の花の沖』、『箱根の坂』、『宮本武?』、『北斗の人』 など
- 『週刊司馬
遼??
太?V』(2009年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745347
- 『最後の?軍』、『胡蝶の夢』、『播磨灘物語』など
- 『週刊司馬
遼??
太?VI』(2010年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745479
-『坂の上の雲の世界 ?春編』
- 『週刊司馬
遼??
太?VII』(2010年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745606
-『坂の上の雲』など
- 『週刊司馬
遼??
太?VIII』(2011年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745746
-『坂の上の雲』、『覇王の家』など
- 『週刊司馬
遼??
太?IX』(2012年、週刊朝日MOOK)
ISBN
4022745908
-『空海の風景』、『坂の上の雲』、『新選組血風?』など
- 『司馬
遼??
太?の街道 1?2?3?4』(2013-2015年、週刊朝日MOOK / 2020年、朝日文庫 全3?)
- 『?後20年 司馬
遼??
太?の言葉 1?2?3』(2015-2016年、週刊朝日MOOK)
- ※他にも、司馬の著作物に付?された解?、新聞、?誌での批評記事、更に『週刊朝日』が?後?行したシリ?ズ『未公開講演? 愛?版 司馬
遼??
太?が語る日本』に?き、連載された「司馬
遼??
太?からの手紙」シリ?ズ。他の出版社でも、PHP?究所の『文?』、文藝春秋の企?記事など、別冊特集やその流れを汲んだ記事などがある。
- 『司馬
遼??
太?と宗?
親鸞
とザヴィエルの時代』(2017年11月、週刊朝日MOOK)
- 『司馬
遼??
太?と明治 西?、大久保の時代』(2018年10月、週刊朝日MOOK)
- 『司馬
遼??
太?と明治 「坂の上の雲」の時代』(2019年7月、週刊朝日MOOK)
- 『司馬
遼??
太?と昭和 ?掘インタビュ?「軍隊、?の魅力、私の小?」』(2020年3月、週刊朝日MOOK)
- 『司馬
遼??
太?の??
明智光秀
の時代 豊臣家の人?』(2021年3月、週刊朝日MOOK)
- 『司馬
遼??
太? もうひとつの幕末史』(2022年3月、週刊朝日MOOK)
- 『司馬
遼??
太?と鎌倉 沖??先島への道』(2022年12月、週刊朝日MOOK)
- 『司馬
遼??
太?の現在地 ???幕末?明治編』(2023年3月、週刊朝日MOOK)、生誕100年記念、大判の作品案?
- 『司馬
遼??
太?の現在地2 旅?宗???家?文明』(2023年10月、週刊朝日MOOK)、同上
脚注
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注?
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]
- ^
生涯井伏作品を愛?している。『別冊
アサヒグラフ
井伏?二の世界』(
朝日新聞
社、1992年)にも井伏論を寄せている。
- ^
第二次世界大?終?時点での司馬の年?は正確には22?で、正確な年?を記述している著作もある。
- ^
?木は後に『
中外日報
』編集局長、
西本願寺
の?誌『大?』の編集長を?任。『梟の城』は、?木の?手で『中外日報』に連載されている。
- ^
多くの選者が無視し、一人がもっともな理由で痛烈に否定し、一人がそれ以上の激しさで推賞した。それが海音寺であった
[16]
。
- ^
プロポ?ズの場所は
大阪市電
の電停であった
[17]
。
- ^
李登輝は同世代の愛?者であった。この?談は?外の注目を起こした。なお1989年には韓?
ソウル
で、?時
韓?大統領
だった
盧泰愚
と?談した
[19]
。
- ^
日本軍の損失、?死者7,696人、行方不明者(捕虜も含む)1,021人、負傷者8,647人、合計17,364人。ソ連軍とモンゴル軍の損失、?死者9,983人、負傷者16,662人、合計26,645人。
- ^
司馬はソ連情報公開直後に書かれた、アルヴィン?D. クックス『ノモンハン―草原の日ソ? 1939』朝日新聞社〈上?下〉、1989年。を?み、?日したクックスとも?談「ノモンハン事件はいつも古くて新しいですね」「書くよりも?者の側に回ってよかったと思いました。いい本でした」と見解を述べている。のち『東と西 ?談集』朝日新聞社に??。
- ^
司馬もエッセイ集『司馬遼太?の考えたこと』『
軍神?西住?車長
』では
マレ?作?
と
シンガポ?ルの?い
を日本の?車が武名をあげた唯一の例として、?車らしいものをもたなかったイギリス軍相手に無人の野をゆくように突進し、
島田豊作
少佐率いる1個中隊18?の?車がイギリス軍2個師?を?滅させたと記述している。
- ^
いわゆる下?履きアパ?トではなく、現在で言う最新の高層マンションのような高級物件である。
- ^
司馬は鹿?に「ハイジャッカ?」とのニックネ?ムをつけて呼んでいた
[111]
。
出典
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?考文?
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?連項目
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ウィキメディア?コモンズには、
司馬遼太?
に?連するカテゴリがあります。
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