信濃?

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信濃?

-信濃?
-東山道
別? 信州(しんしゅう)
所? 東山道
相?領域 長野? 岐阜? 中津川市 の一部 [注? 1]
諸元
?力 上?
距離 中?
? ? ? 10郡67?
??主要施設
信濃?府 1.(推定)長野? 上田市
2.(推定)長野? 松本市
信濃?分寺 長野?上田市( 信濃?分寺跡
信濃?分尼寺 長野?上田市( 信濃?分尼寺跡
一宮 諏訪大社 (長野?諏訪地域)
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信濃? (しなののくに)は、かつて 日本 の地方行政?分だった 令制? の一つ。 東山道 に?する。

万葉集 』での 枕詞 は「水薦?(みこもかる [注? 2] )」。

「信濃」の名?と由? [ 編集 ]

古くは「しなぬ」と呼ばれ、 ??天皇 ?には「 斯那奴阿比多 」、 欽明天皇 ?には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。

「科野」の語源については諸?あるが、 江?時代 ??者 である 谷川士? は『日本書紀通證』に「 科の木 この?に出ず」と記し、 賀茂?淵 の『冠?考』にも「(一?では)ここ科野という?の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「 科の木 」に由?する?が古くから唱えられている。また賀茂?淵は「名義は山?にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山?の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由?する?を?している。他に「シナとは?に?連する言葉」とする?もある。また 級長??命 (しなとべのみこと、 風神 )?もある [1]

小林敏男 は、「シナ(段差)」に由?する?を取った上で、シナノという地名の?生地を埴科?更科エリアであるとした [2]

7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の 木簡 は、7世紀末の 藤原宮 跡から出土した「科野?伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『 古事記 』にある「 科野?造 」の表記と一致する。?時は科野?と書いたようである [3] 。これが 大? 4年( 704年 )の諸 ?印 ?造時に信濃?に改められた [4] 。「科野」は 和銅 6年( 713年 )の『 風土記 』を境に、「信野」を?て「信濃」へと移り?わっていく。長野?で最も古い「信濃?」の文字は、 平成 6年( 1994年 )に 千曲市 屋代遺跡群から?見され、現在は 長野?立?史館 に所?されている 8世紀 前半( 715年 740年 )の木簡となる。『 日本書紀 』には信濃?について、「是の?は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。??しく?紆りて、長き峯?千、馬頓?みて進かず。」とある [5]

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から?朝した?宗の留?僧によって「 信州 」と?されるようになった。 治承 3年( 1179年 )に 仁科盛家 ??寺 に寄進した千手?音像の木札に「信州安曇郡 御? 藤尾?」とあるのが初出である。

神代に見える科野? [ 編集 ]

神代 ??り において、 出雲 の地で 建御雷神 に敗れた 建御名方神 が、科野?の洲羽の海( 諏訪湖 )まで逃れ、「この地から出ないし、父の 大?主神 や兄の 事代主神 に?う。葦原の?は 天の神 に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に?まったことが『 古事記 』に見える。

一方『 諏訪大明神?詞 』など諏訪に?わる?承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の 洩矢神 とそれぞれ藤蔓と??を持って?い、建御名方神が勝利したと?わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の 諏訪氏 に、洩矢神の後裔が神長官の 守矢氏 になったとされる。

また建御名方神が 八坂刀?神 を娶って生まれた御子神達 [注? 3] が、科野?の?展に大きく貢?したとされる。

?史 [ 編集 ]

古代 [ 編集 ]

史書によると、 崇神天皇 の時代に 神武天皇 後裔の 多氏族 である 武五百建命 が初代 科野?造 に任じられたと?わる。信濃?の?造についての?像は不明であるが、?大な信濃を1氏族のみが支配していたとは考え難く、 出雲? 出雲?造 のように??で突出した存在がいたのではなく、 ?岐? のように複?の氏族が?造として任命されており、 欽明天皇 の宮に?人として集ったことに由?する 金刺氏 や、 敏達天皇 の宮に?人として集ったことに由?する 他田氏 のような、疑似的同族?係を結んでいたと考えられる [6]

考古遺物としては、これまでの長野?の?生時代像を大幅に?える大集落?松原遺跡の中心部分が、1990年の上信越自動車道建設に伴う長野インタ?チェンジ予定地付近の?掘調査で?見された。これは?文時代から中世に至る各時代の包含層が 千曲川 の洪水堆積層を?んでいることが判明しており最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに?多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ程入る規模がある。同時に日本海側から千曲川を遡り ?東平野 に?ける交流ル?トの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。また 3世紀 の遺跡として、 木島平村 根塚遺跡 が?見されている。この遺跡からは??が出土しているが、同?の??は 韓? の蔚山下?遺跡からも?見されており、渡?人との?連性が指摘されている。また、 ?生時代 の遺跡として 伊勢宮遺跡 篠ノ井遺跡 が?見されているが、この遺跡から?見された人骨は 渡?人 の特?が見られた [7]

4世紀 前期から 6世紀 初頭にかけて、北信で 埴科古墳群 川柳?軍塚古墳 など、 ヤマト王? の影響を受けた 前方後円墳 が多?築造された。また埴科古墳群の森?軍塚古墳の被葬者は初代科野?造の建五百建命とする?がある。一方南信では4世紀に 代田山狐塚古墳 が造?され、その後1世紀ほど築造が途絶えるものの、 5世紀 後半から6世紀末頃にかけて 飯田古墳群 が成立し、多種多?な古墳が築造された。6世紀中期には現在の 箕輪町 松島王墓古墳 が築造され、 筑摩郡 周?にも 弘法山古墳 が造?された4世紀以降2世紀近く途絶えていた古墳が 円墳 を中心に再び築造される。しかし 諏訪地域 への古墳文化の流入は?かに?く、5世紀代に フネ古墳 片山古墳 が築造されるものの、前方後円墳は 下諏訪?塚古墳 が唯一築造されるにとどまった。

4世紀から5世紀後半にかけての北部シナノの千曲川中流域における前方後円墳の集中と、5世紀後半から6世紀にかけての南部シナノの 天?川 流域における前方後円墳の集中という交代現象は、シナノ特有の在地首長の移住というものではなく、全?的な動きであった [2]

古墳時代 には、 倭系百?官僚 として 科野 氏(ウジ) を持つ人物が史書に見える。科野?造軍として朝鮮に出兵した?造の子弟が、現地人の妻との間に?した子孫であるとされる [8] 。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百?官人とは異なり、 を有している?子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野?造の一族」という意味ではなく、 氏姓制度 が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の??」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする?も存在する [9] 。信濃の人間が外交に?事したのは、ヤマト王??で信濃の人間が一定の役割を?っており、そのようになったのは、渡?人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が?えられたからであると考えられる [6] 。現在の 伊那市 手良には「大百?毛?小百?毛」という地域があるが、この地名は 百? からの 渡?人 によって開?されたという?承がある。また、手良という地名も、『 新撰姓氏? 』に見える「?良公」に由?するという [10]

現在の 長野市 篠ノ井にある 長谷寺 やその境?にある 長谷神社 は、 小長谷部 が創建したと考えられている。小長谷部は、5世紀末期から6世紀初期に存在した可能性がある 武烈天皇 部民 とされる。『 日本書紀 』によれは、 武烈天皇 3年には、 大伴室屋 が信濃?の男丁(よぼろ)を集めて城を作るように武烈天皇から詔を受けているが、この「信濃?の男丁」は小長谷部のことであると考えられている。また、小長谷部の人物として名前が?っているのは、 天平勝? 4年( 752年 )に正倉院に奉納された白布に記された「小長谷部尼麻呂」がいる [11] 。さらに、 姨捨山 (おばすて)も小長谷部(おはつせべ)に由?するとされる。6世紀後半には 欽明天皇 の時代に科野?造後裔の 金刺?人直 敏達天皇 の時代に同じく科野?造後裔の 他田?人直 が成立し、後世に 諏訪大社 下社?上社の大祝家や信濃??の複?の郡司を務めた。その一方で、安曇郡司は 安曇部氏 が務めた。

信濃?に存在した 名代 ? 部曲 は、史料に見えるものは 刑部 小長谷部 金刺?人 他田?人 生王部 物部 尾張部 神人部 である。その他には屋代古墳群出土の木簡に見える 金刺部 他田部 若?部 舒明 ? 皇極 の名代)、 ?積部 守部 酒人部 ?部 ?人部 三家人部 石田部 ?田部 や、それ以外の木簡に見える 私部 天平 20年( 748年 )4月の?書所解に 更級郡 村神??主の 私部知麻呂 や同?口の 私部乙麻呂 の名が見える)、 倉橋部 (平城宮若犬養門地?から出土した木簡に見える 筑摩郡 山家? ?橋部逆 や『 ?日本紀 神護景雲 2年( 768年 )5月?に 水?郡 の人として見える 倉橋部?人 がいる)、 丸子 仁? 3年( 853年 )の願?に 佐久郡 丸子?智成 が見える)、 久米?人 (『 類聚?史 』?87の 延? 14年4月?に 小?郡 久米?人望足 が見え、『 ?日本紀 天平 19年( 747年 )5月?に?位の記事が見える、 高句麗 系のウジ名を持つ 前部?公 の妻? 久米?人妹女 は、 小?郡 あるいは 更級郡 に居住していたと考えられている)、 大伴 安曇部 建部 爪工部 辛犬甘 がいる [12] 允恭天皇 期の刑部、 武烈天皇 期の小長谷部、 欽明天皇 期の金刺?人などの 名代 は、 安曇郡 高井郡 を除く信濃?全ての郡に分布している [2] 。信濃?におけるウジ名や部名の特?として、 大? 元年( 701年 )の『御野??籍』など、 東山道 の隣?である 美濃? に分布するものが見えることが?げられる。特に、若?部、守部、?積部などは、美濃?以外にはあまり例が知られていない。以上の部の設定は、古くても5世紀末、その多くは6世紀前半以降に順次設定されていったと考えられる [12]

飛鳥時代 中期の皇極天皇3年(644年)、 本多善光 により開基された 善光寺 は、 諏訪大社 と?び今日においても全?的な信仰の?り所となっている。 大化 元年( 645年 )には、 大化の改新 によって 令制? が?足し、それまでの ?造 の支配に依?してきた地方支配を改め、「 」と呼ばれる行政??を全?に設置した。信濃?は?初、 伊那(伊奈)評 ? 諏方(諏訪)評 ? 束間(筑摩)評 ? 安曇(阿曇)評 ? 水?評 ? 高井評 ? 小懸(小?)評 ? 佐久評 ?科野評(後に 更級 埴科 に分立)などが成立していたと考えられ [13] 、現在の 木?地方 を欠く大部分を領域とした。これらの評は、 大?律令 の成立後、 に改組された。 越? に大化3年(647年)に 渟足柵 が、大化4年(648年)に 磐舟柵 が作られて科野から 柵? が派遣された。また、 ?明天皇 6年(660年)12月には、科野?が、 ? の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを 朝廷 に報告した [14] とあり、それに先立つ 推古天皇 35年(627年)5月には、?の集?が信濃坂を越えて東の方へ行き、 上野? で散り失せるとあることから [15] 、?に?して??する特?的な記述がされている。

天武天皇元年(672年)の 壬申の? には、科野の兵が 土師馬手 らに?い、大海人皇子( 天武天皇 )の側に立って活躍した。天武天皇14年(685年)には 高田新家 らに「束間?湯」(つかまのゆ)に 行宮 (あんぐう)を造らせている。 持統天皇 5年(691年)の「須波神」「水?神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大?2年(702年)12月に、始めて美濃?に木曾山道を開くという記述があり [16] 、和銅6年(713年)7月には、美濃?と信濃?の?境の道が?阻であり、往還が難しいということで、 木?路 が開通している [17] 。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に 踏ましなむ はけ我が背」( 万葉集 ?14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃?における 官道 の開?がすすんでいた。

奈良時代 には、 左馬寮 の管轄下で 望月牧 など、官?による16の 勅旨牧 と、それを統括するための牧監?が置かれた。 養老 5年( 721年 6月26日 に南部を 諏方? として分置したが、 天平 3年( 731年 3月7日 に合?して元に復した。 養老 3年( 719年 )以後は 美濃按察使 の管轄下に置かれた。8世紀前半のものとみられる屋代遺跡出土の木簡には、「埴科郡大穴?高家里」と「守部安万呂」の名前が?記されており、この「高家(たかやけ)」は、大きな高い建物の宅( 屯倉 )の意味で、ここに住んでいた守部安万呂は屯倉の管理者であったと考えられる [2] 神護景雲 2年( 768年 )には、各?の善行に?して朝廷から褒美を得た全?9人のうち、信濃?からは 水?郡 刑部 智麻呂と 倉橋部 ?人や 更級郡 建部大垣 伊那郡 他田?人千世? と4人までもを占めた。

奈良時代末期から 平安時代 初期にかけては、信濃??の 渡?人 の改姓が??と進んだ。『 ?日本紀 』によれば、 天平?字 5年( 761年 )3月に、 百? 人の余民善女等の4人が百?公、韓遠智などの4人が中山連、王?嶋など5人が楊津連、甘良東人等3人が?篠連、刀利甲斐麻呂等7人が丘上連、??道等4人が松井連、憶?子老等41人が石野連、竹志麻呂等4人が坂原連、生河?等2人が?湍連、面得敬等4人が春野連、高牛養等8人が?野造、卓?智等2人が御池造、延爾豊成等4人が長沼造、伊志麻呂が福地造、陽麻呂が高代造、烏那?神が水雄造、科野友麻呂などの2人が?田造、斯葛?足等2人が?海造、佐魯牛養等3人が小川造、王?受等4人が楊津造、答他伊奈麻呂等5人が中野造、調阿?麻呂等20人が豊田造(ここまで百?人)、高麗人の達沙仁?等2人が朝日連、上部王?麻呂が豊原連、前部高文信が福?連、前部白公等6人が御坂連、後部王安成等2人が高里連、後部高?野が大井連、上部王?夜大理等10人が豊原造、前部選理等3人が?井造、上部君足等2人が雄坂造、前部安人が御坂造(ここまで 高句麗 人)、 新羅 人の新良木舍姓?麻呂等7人が?住造、須布呂比?麻呂等13人が狩高造(ここまで新羅人)、漢人の伯??足等6人が雲梯連、伯?諸足等2人が雲梯造に改姓した [6] 天平神護 2年( 766年 )には、?七位上? 科野石弓 が石橋連の姓を賜っている。また 延? 8年( 789年 )には、 筑摩郡 人の外少初位下 後部 牛養が田河造の姓を賜っている [18] 。延?16年(797年)には、外從八位下 前部 綱麻呂が安坂姓を下賜され [19] 、これに?くように延?18年(799年)には、信濃?人の外從六位下 卦婁 眞老、後部?足、前部?麻呂、前部佐根人、 下部 奈?麻呂、前部秋足、 小縣郡 人の无位上部豊人、下部文代、高麗家?、高麗?楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に?化していることと天平勝?9年(757年)4月4日の勅令 [20] を根?として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部?足等は豊岡姓、前部?麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は?岡姓。高麗家?等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された [21] 。田河造は 田川 、安坂は 筑北村 安坂、須須岐は 松本市 や千曲市 須?岐水神社 、豊岡は 長野市 ??豊岡、村上は 坂城町 村上や大町市村上、篠井は 長野市 篠ノ井、御井は 東御市 深井に由?する [6] [22] 、前部秋足が住んでいたと考えられる篠ノ井には、 軻良根古神社 (からねこじんじゃ)が存在しているが、この神社は「韓(から)の根子(高貴な男性に?する尊?)」という意味で、秋足のような高句麗系渡?人が祭祀していた神社であった可能性が指摘されている [23] 。そして千曲川?岸の雨宮には唐崎神社があり屋代には須須岐水神社もあって同?に渡?人の祭祀が?連するものと考えられる。

弘仁 8年(817年)には 最澄 東山道 神坂峠 の信濃側に ?拯院 を建立した。 初期?園 の立?と?行して、 仁和 元年( 885年 )には 公?田 の設置が見られた。同4年( 888年 )には前年に?生した 仁和地震 の影響により八ヶ岳の山麓が大規模に崩?し千曲川を約1年に渡って堰き止め、日本最大規模とされる河道閉塞を形成した。これはその後決?し、「仁和大水」と言われる大 洪水 を起こした。この被害は100km以上下流まで及んだとされる。そして千曲市では屋代?里田が4mの堆積砂、その?岸に?たる長野市の石川?里田は2mの堆積砂の下に各??見されている。

また、信濃?は罪人の配所に定められ、 中流 の範?とされた [24] 。なお、 元慶 3年(879年)9月に 鳥居峠 をもって美濃?信濃の?境と定められた。

平安時代の中期には 桓武平氏 平?門 が、東山道を京に向かう 平貞盛 に追?の兵を差し向け、小?郡?分寺付近で貞盛に助勢した 滋野氏 や小?郡の郡司 他田氏 と合?に及ぶなど(938年2月29日)、この時代における平氏?紛の舞台ともなった。また ?和源氏 ?基王 以?、信濃守に任官される者が多く、源氏の土着が相次いで見られた( 信濃源氏 )。この頃には 古今和歌集 大和物語 集、 今昔物語集 によって信濃に姨捨??の存在することが知られ 月見 名所 としても 姨捨 の名を高める。古代の 律令?制 から中世の ?門?制 に移行する中で、 院政 の時代になると、 院宮分?制 の進展により 白河法皇 鳥羽法皇 の知行?となり、その後は 公卿 に引き?がれた。11世紀後半以降には最高?力者である院や??家への 寄進地系?園 の立?が本格化し、 ?衙領 は縮小する傾向にあった。1108年(天仁元年)には、?間山で 天明噴火 の?倍と言われる規模の大噴火(天仁噴火)が?生し、山麓では大火?流によって複?の集落が埋?した可能性がある。

平安時代末期に入ると、源氏?紛による 久? 2年(1155年)の 大?合? で敗れた 河?源氏 源義賢 の遺? 源義仲 が木曾谷の 中原兼遠 の元に匿われた。 保元 元年(1156年)の 保元の? 平治 元年(1159年)の 平治の? に際して、滋野氏、 諏訪氏 片桐氏 平賀氏 など多くの信濃武士は、源義賢と敵?した兄の 源義朝 に?った。ただし、 崇?上皇 の近臣であった 村上氏 は、信濃に所領を持つ 伊勢平氏 平家弘 らと共に上皇方についた。 後白河法皇 の第三皇子 以仁王 は信濃を含む東山?東海?北陸道の武士に平家追討の令旨を?し、 源行家 によって、新羅三? 源義光 の子孫である 平賀盛義 ? 義信 父子(平賀冠者)、 岡田親義 (岡田冠者)、そして源(木曾)義仲に?えられた(『 平家物語 』)。義仲は信濃の兵を統べて?兵し、 ?田河原の?い で平氏の軍勢を破ると、以仁王の遺? 北陸宮 を奉じて北陸道?由で入洛したが、この動きに?し、源義朝の嫡男 源?朝 北?時政 をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、 ??川の?い に出陣させた。村上氏、平賀氏らも?朝に?った。その後、義仲は西?の平家追討のため京を離れたが 水島の?い で敗れ、さらに上洛した?朝の弟 範? 義? らに 近江? で討伐された( 粟津の?い )。 平安時代 から 鎌倉時代 に、美濃?から木?地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期は不明で、 室町時代 後期の木?地方は公式にはまだ美濃?に?しており ??時代 にまで下る可能性があるとする? [25] もある。

中世 [ 編集 ]

鎌倉時代初期には ?東御分? の1つとして鎌倉幕府の 知行? であった。その後の知行?は 公卿 興福寺 ? 東大寺 等の有力寺院の手に移るが、 在?官人 ?人 衆の 幕府御家人 化が進み、京都の 遙任 ?司や知行?主、?園 領家 らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには?の??も困難となり、「?司その用あてざる?」と揶揄された(『 明月記 』)。??時代まで存在した 守護 職には 比企氏 執? 北?氏 小笠原氏 諏訪氏 吉良氏 上杉氏 斯波氏 武田氏 らがいた。

幕府樹立後、初代の信濃守護には 比企能員 が就任し、信濃? 目代 を兼?して?衙機構も掌握したが、 建仁 3年(1203年)の 比企能員の? で北?時政に滅ぼされ、?軍 源?家 の近習で、 十三人の合議制 に?抗する側近であった 中野能成 小笠原長? も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の??を進め、 元久 2年(1205年)には平賀義信の次男 平賀朝雅 を傀儡の新?軍として擁立しようとしたが、失脚した( 牧氏事件 )。 建? 3年(1213年)、御家人 泉親衡 が、信濃武士と結んで?家の遺? 千?丸 を?軍に擁立し、信濃守護も兼?する執? 北?義時 の打倒を?る陰謀が??した( 泉親衡の? )。 承久 3年(1221年)の 承久の? では幕府の 仁科盛遠 への?遇も?勃?の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の 武田信光 小笠原長? に?い、 後鳥羽上皇 方の仁科氏らは 北?朝時 の北陸道軍に敗れた。幕府方についた信濃武士は 新補地頭 として西?に所領を得たが、それまで東?に限定的であった幕府の?威を浸透させる目的で西遷を余儀なくされた者も多かった。また幕府が朝廷に?して優位に立ち、信濃??における北?氏の所領も ?東御領 の春近領 [注? 4] を中核として?大すると、 ?治 元年(1247年)の ?治合? で武功を?げた 諏訪盛重 ?管領 を務めた 諏訪盛? に代表されるように、北?氏の 得宗 被官 御?人 )として活躍する者も現れた。 得宗?制 が?化されてゆく中、 弘安 8年(1285年)の 霜月?動 では幕府の有力御家人 安達泰盛 の姻戚であった 伴野氏 や、小笠原氏が?き?まれ、逼塞を余儀なくされた。

この時代の??の信者で多いのが 臨?宗 曹洞宗 などの ?宗 一向宗 ?土宗 (?林寺派)などである。特に ?田流北?氏 の?田?は「信州の?海」(『?心?師大明?師無?大和?塔銘』)と?されるほど、?宗文化の中心地となった。 弘安 年間、興福寺が知行?主であった時、目代に補任された願舜坊定?なる僧は信濃からの ?注物 や年貢を?領し、弘安7年(1284年)、 本所法 である「?寺評定」によって、?外追放刑となった。 延慶 2年(1309年)の?衙領の?注の調進は?司目代が行っているが、 ?安 6年(1373年)には守護使に代わっている [26] 。このように信濃においても?衙は次第に形骸化され、?司の?能は守護に遷移していったことがうかがえる。

鎌倉時代末期、 元弘 元年(1331年)からの 元弘の? では、信濃の御家人は、信濃守護を兼?する 探題北方 北?仲時 に?い、 後醍?天皇 の?る 笠置山 や赤坂城を攻めた(『 光明寺?篇 』)。しかし 元弘 3年/ 正慶 2年(1333年)に後醍?天皇が 鎌倉幕府 追討の宣旨を下し、 足利尊氏 新田義貞 ら幕府の有力御家人が幕府から離反すると、 小笠原貞宗 もこれに?って 鎌倉攻め に加わり、後に新たな信濃守護に補任された。一方、北?仲時は京都から逃る途中で自害に追い?まれた。 東勝寺合? では御?人の 諏訪直性 が得宗 北?高時 に殉じて自害するが、高時の遺? 北?時行 は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、 諏訪神? 諏訪?重 や滋野氏?仁科氏らは時行を奉じて?兵し、 鎌倉 を奪還したが( 中先代の? )、わずか20日で??され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると 北?時興 が南朝に呼?して京都から 麻績御? に入って?兵し(『 市河家文書 』)、小笠原貞宗や 村上信貞 の軍勢と衝突したが破れた。その後は 吉良?義 が守護となり、北???一掃のため 吉良時衡 が派遣された。

後醍?天皇の 建武の新政 では 公家 中心の政治に?して 武士 の不?が高まった。 延元の? で尊氏が建武政?から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海?東山?道に大軍を?し、 忠房親王 率いる東山道軍が 大井城 を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた 南北朝時代 に入ると、 南朝 方の 諏訪氏 仁科氏 ? 香坂氏 ? ?津氏 ? 望月氏 ? 海野氏 らと 北朝 方の小笠原氏や 村上氏 ? 高梨氏 との間で抗?が繰り?げられた。??3年/興?元年(1340年)には、北?時行が 遠江? から伊那谷に入り大?王寺城に?ったが、小笠原氏がこれを破った。??元年(1350年)の ??の擾? では南朝方 足利直義 派の 諏訪直? らも呼?して?兵し、 高師冬 を討つなどの?功を?げ、直義が守護の任免?も掌握すると、??2年(1351年)には直?が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと 薩?山?制 により守護は小笠原氏に復した。

南朝方は後醍?天皇の皇子で、 興? 5年(1344年)から信濃に入?した 征夷大?軍 宗良親王 (信濃宮)を奉じて、 香坂高宗 の?る伊那谷に一大?点を築いた。 文和 元年( 1352年 )には親王が信濃の南朝勢を糾合して 武?野合? に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の 桔梗ヶ原の?い でも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に?返って、ついには?軍 足利義詮 に??するようになり、 文中 3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は ?? 2年/延元4年(1339年)から康永3年/興?5年(1344年)までと、貞治4年/正平20年(1365年)から?安3年/建?元年(1370年)まで、 室町幕府 から 鎌倉府 の管轄に移行したが、再び幕府に取り?された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推?で 上杉朝房 が守護に任じられたが、?軍 足利義? と公方 足利氏? が?立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一?して、京都の政情が大きく影響するようになった。 天授 5年/ 康? 元年(1379年)の 康?の政? での大幅な守護改替により 斯波義種 が守護に補任された。

明? 3年(1392年)の 明?の和約 による南北朝の合一後、幕府は在地豪族の?園や公領の?領?濫妨を守護に命じて停止させようとしたため、複?な?立?係が?生し、斯波氏に?する?人衆の反?が起きた。その後、 明?の? ?永の? で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、?人衆(大文字一揆)を?き?んで?い( 大塔合? )、 小笠原長秀 は京都へ追放された。 ?永 9年(1402年)信濃は室町幕府料?(直轄地)となり、 政所 の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として 細川氏 が派遣されたが、?永10年(1403年)から翌年にかけて、村上氏や高梨氏を中心とした?人衆の反?が起きた。その後は?軍と 鎌倉公方 、鎌倉公方と ?東管領 との?立が大きく影響を及ぼし、?力な支配?を持つ自立した大名が登場することはなかった。?軍 足利義? により信濃守護に復し、 上杉?秀の? 永享の? 結城合? などで活躍した 小笠原政康 は、公方 足利持氏 派の村上氏 を抑えて信濃を一時平定したが、 嘉吉の? で義?の後ろ盾を失い、政康の?後、小笠原氏の家督相?と守護?任に幕府有力者の ?山氏 と細川氏の?立?係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府による 享?の? への出陣命令にも?えられないほど衰亡し、守護?力も地に?ち、 上杉房定 に半?守護を抑えられた。

室町末期にかけて 下克上 の?相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を?けた。埴科郡を?点に北部や東部に勢力を?大する 村上氏 、諏訪大社の信仰を背景とする 諏訪氏 、信濃 守護 家として幕府と?い?がりを持つ 小笠原氏 木?谷 に割?する 木曾氏 らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大?」と呼ぶ。他にも小笠原一族で 守護代 を務め、幼少期の 古河公方 足利成氏 を庇護した 大井氏 越後 長尾氏 と?戚?係を結ぶ 高梨氏 、?東管領 山?上杉氏 を後ろ盾とした 海野氏 、逸早く土着し信濃源氏の祖となった 井上氏 、京武者として朝廷と?く結びつき、安曇郡に?って一大勢力を築く 仁科氏 などの??の名族も健在であった。 ?仁 元年(1467年)からの ?仁の? では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原?氏、諏訪大社上社などが東軍( 細川勝元 )、府中小笠原氏が西軍( 山名宗全 )についた。 長享 元年(1487年)の 長享?延?の? に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが?軍 足利義? 足利義稙 に?って出兵した。

??時代 には隣? 甲斐? 越後? との?係が深くなった。諏訪氏は甲斐守護 武田氏 と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は 武田信虎 と共同して小?郡へ侵攻し海野氏を?逐するが( 海野平の?い )、同年に甲斐で 晴信 (信玄)への?主交代が起こると武田と諏訪の?係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と 高遠諏訪家 の?立が絡んで、晴信による 信濃侵攻 が本格化する。武田氏は 諏訪?重 仁科盛政 を滅ぼし、守護 小笠原長時 村上義? らを追い、 木曾義康 ?田幸隆 を??させ、佐久郡において?東管領 上杉憲政 を破ると( 小田井原の?い )、信濃の大半を領?化し有力?衆を家臣?として?えていくが、それに?して、高梨氏や井上氏など北信?衆は越後の長尾景虎( 上杉謙信 )を?り、武田?長尾(上杉)間の北信? 川中島 を巡る 川中島の?い へと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合?後には?軍 足利義輝 は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の?いは最大の衝突となった永?4年(1561年)の第四次合?を契機に?束し、その後も甲越?係は?立し北信地域は最前線として緊張?態にあったが、以後は安定して信濃の武田領?化が?く。晴信は元?2年(1571年)、 三河? 山間部を攻略する過程で、同? 加茂郡 から現? 根羽村 の地域を信濃?に編入し伊那郡の一部とした。

武田晴信の死後、その後を?いだ 武田勝? 上杉景勝 と同盟を結び、信濃を統一支配したが、 天正 10年( 1582年 )、 織田信長 に敗れて滅亡し、 高遠城 仁科盛信 らが?死した。その後は織田家の版?に加えられ、 森長可 (北信)、 ?川一益 (東信)、 毛利長秀 (伊那)、 河尻秀隆 (諏訪)、 木曾義昌 (安曇、筑摩)らに?えられた。しかし約三ヵ月後には 本能寺の? が起き、信濃においても 一向一揆 が?生したことで織田家の勢力は瓦解し、?力の空白地?となった信濃には ?川氏 ? 後北?氏 ?上杉氏の勢力が進出した( 天正壬午の? )。やがて後北?氏は?川氏と和解?同盟して領地交換により?東へ撤退した。

この結果、北信濃四郡は上杉氏、それ以外は?川氏の領?となったが、?者の?立の?間で ?田昌幸 が自立し第一次 上田合? を生じた。この?立はのちに ?川家康 豊臣秀吉 の?立に?じ、家康が秀吉と和睦し後に臣?することで、天正18年( 1590年 )に?東に移封されると、?川方の?衆も?行し、 譜代大名 旗本 となった者も多かった。信濃は 豊臣 方の武?の支配下に?まり、 仙石秀久 (佐久)、 石川?正 (安曇、筑摩)、 毛利秀? (伊那)、 日根野高吉 (諏訪)が入封し、木?は秀吉の?入地となった。さらに 慶長 3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から?津に移封されると、北信濃には ?一政 田丸直昌 が入封したが、秀吉の死後、家康は?者を美濃に移し、代わって配下の 森忠政 を入封させた。

?田氏はかつては?川氏に仕えながら豊臣氏の配下に?じ、 ?ヶ原の?い において西軍方についたため、 ?川秀忠 の軍勢は、小山評定から ?ヶ原 に向けて中山道を進軍する途上、 ?田昌幸 信繁 父子の居城 上田城 を攻めたが敗れた(第二次 上田合? )。しかし 石田三成 ら西軍首?が本?で敗れたため、昌幸は 高野山 に流罪となった。その後、東軍の ?田信幸 が上田から 松代城 に入った。西軍の?田信繁は豊臣方について後年の 大坂の陣 で武名を?げた。

近世 [ 編集 ]

江?時代 は、途中?絶も含めて 松代藩 等大小計19藩が置かれた(?藩置?時点では松代藩の他、 松本藩 上田藩 飯山藩 小諸藩 岩村田藩 龍岡藩 田野口藩 )、 高島藩 高遠藩 飯田藩 須坂藩 )。また木?地方は全域が 尾張? 名古屋藩 領(山村代官所)であり、伊那郡?には 美濃? 高須藩 (竹佐陣屋)及び 陸?? 白河藩 (市田陣屋)、高井郡?には 越後? 椎谷藩 (六川陣屋)、佐久郡?には 三河? ?殿藩 (後に藩?を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他 善光寺 ??神社 諏訪大社 等の 寺社領 、天領支配のための 中野 ? 中之? ? 御影 ? 飯島 ? ?尻 の5つの 代官所 伊那衆 三家を含む 旗本 知行所 (維新まで存?したものは12ヶ所)などが置かれた。

正保 元年(1644年)、幕府は 正保??? の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には 貞享 3年(1686年)の松本藩 貞享?動 ?? 11年(1761年)の上田藩 ???動 など大規模な農民 一揆 が?生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの 出稼ぎ ??者を江?に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの?しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「 ?鳥 」と呼ばれ、「大飯?らい」「でくのぼう」の象?として江? 川柳 狂歌 に多く詠まれることとなった [27] 天明 年間の ?間山大噴火 天明の大飢饉 も農民の都市への逃散の一因を成した。 文化 13年(1816年)には天領代官所に信濃???取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名?旗本領に立ち入り、他?から流入する 無宿者 の取締りに?事する事例が?加した。 弘化 4年(1847年)には 善光寺地震 が?生し、死者8000-12000人と?範?に大規模な被害が及んだ。その一方で 五?兵衛用水 拾ヶ堰 などの 灌漑 用水の開削によって、 新田開? が進み、信濃一?の石高は慶長3年(1598年)には約40万石であったものが、天保5年(1843年)には約75万石まで?加した。また ?文 年間ころから農閑期の農民が?い手となり、 中馬 という新たな?陸交通手段が?達したが、 宿場町 ?馬制 を?迫し、軋轢を生じたため、 明和 元年(1764年)に幕府は裁許?を?し、?件を付けて公認した。

幕末になると、東海地方から南信濃に 平田 ?? が移入され、 水?? の影響も加わって、俄かに 勤王 ? 攘夷 思想が盛んになった。 嘉永 6年(1853年)に ?船が?航 し、幕府から松代藩は 品川台場 の警固、松本藩、飯田藩、田野口藩は浦賀の警固を命ぜられ、重い負?を?いられた。 文久 元年(1861年)の 和宮 の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が?輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。 元治 元年(1864年)には 天狗?の? が?東から京へ向けて信濃??を通行したが、?際に交?したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗?に畏怖し通行を?認した。同年、 開? 派の松代藩士 佐久間象山 は京都で 尊王攘夷 派に暗殺された。 慶? 3年(1867年)には東海地方から「 ええじゃないか 」と御札降りの?動が信濃?全?に波及し、庶民の間に世直しの機運が?成された。

戊辰?? では外?の松代藩?須坂藩はいち早く 倒幕 を表明、その他の譜代諸藩は、?初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な 佐幕 論は見えない中、次第に 官軍 に恭順していった。 慶? 4年( 1868年 )官軍より信濃諸藩に 赤報隊 の捕縛命令が下り、 下諏訪宿 相??三 らが?刑された。4月下旬、越後から進出した 衝鋒隊 飯山城 下を占領すると、信濃諸藩は 東山道 先鋒?督府の 岩村精一? の軍監に入り、連合してこれを?退し、そのまま 北越?? ?津?? に??した。 賞典? は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金?は?殿藩5000?、高遠藩2000?等であった。明治維新に前後して、折柄の?金の流通による??の混?も相まって信濃各地で 木??動 上田?動 ?田?麻績?動 松代?動 などの 世直し一揆 が多?し、中でも最大規模の 中野?動 では???が?失し、??の長野移?の契機となった。

近世以降の沿革 [ 編集 ]

現代 [ 編集 ]

現代では、?信濃?の領域は、ごくわずか(? 神坂村 ?? 山口村 )が 岐阜? 中津川市 に編入されているほかは、長野?の領域と一致している。?大な?域を持つ長野?では、地域間、特に 長野市 松本市 との?立の?史がある。そのため、?を表す名?としては、長野市を由?とする「長野?」よりも、「信州」「信濃」の名?がニュ?トラルであるとして好まれる傾向にある(?歌「 信濃の? 」、 信州大? など) [28]

??の施設 [ 編集 ]

全ての座標を示した地? - OSM
全座標を出力 - KML

?府 [ 編集 ]

?史的文?に現れる?府の所在地として、『 和名類聚抄 』、『 拾芥抄 』、『 易林本 』の節用集のいずれにも全て 筑摩郡 と記述されている [注? 5] 。現在の 松本市 域に比定される。

ただし諸?として、 ?分寺 [注? 6] 及び ?社 のひとつである科野大宮社が 上田市 にあること、 東山道 のル?トや宿?の配置(小?郡亘理(曰理)?)、科野?造の本?地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には 小?郡 に?府があったとする??もあるが [29] 、1次史料による?明?裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2022年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も?掘されていない。

また、一時的に信濃?から分立した 諏方? の?府も未詳である。

平安中期の 944年 、天災により?衙が倒?し ?司 が?死した記?が?る。

鎌倉初期には 善光寺 近傍に「後?(御?)」(長野市後町)が建てられ、?司の目代や在?官人が置かれた。 1335年 には、 建武の新政 に反旗を?した 諏訪?重 が?衙を襲?し?火で消失、以後再建されることがないまま、 守護 を務める 武家 にその?能が委?され、次第に形骸化していった。

寺院 [ 編集 ]

?分寺 ? ?分尼寺

定額寺

貞? 9年(867年)に 藤原良房 によって定められた。
  • 寂光寺(伊那郡)
  • 錦織寺(筑摩郡)
  • 安養寺(更級郡)
  • 屋代寺(埴科郡)
  • 妙?寺(佐久郡)

安?寺利生塔

神社 [ 編集 ]

延喜式?社

延喜式神名帳 』には、大社7座5社?小社41座41社の計48座46社が記載されている(「 信濃?の式?社一? 」?照)。大社5社は以下に示すもので、全て 名神大社 である。

?社 ? 一宮 以下

『中世諸?一宮制の基礎的?究』に基づく一宮以下の一? [30]

以上のほか、 沙田神社 (松本市島立三ノ宮)を三宮とする?承がある [31]

守護所 [ 編集 ]

守護所は守護の交代によって位置は移り?わり、水?郡善光寺後?、小?郡?田、埴科郡船山、水?郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。

勅旨牧 [ 編集 ]

  • 大室牧(水?郡)
  • 笠原牧(高井郡)
  • 高井牧(高井郡)
  • 新張牧(小?郡)
  • ?原牧 (小?郡)
  • 望月牧 (佐久郡)
  • 長倉牧(佐久郡)
  • ?野牧(佐久郡)
  • 猪鹿牧 (安曇郡)
  • 埴原牧 (筑摩郡)
  • 大野牧 (筑摩郡)
  • 岡屋牧(諏訪郡)
  • 山鹿牧(諏訪郡)
  • 萩倉牧(諏訪郡)
  • 平井手牧(伊那郡)
  • 宮?牧(伊那郡)

埴原牧に牧監?を?設。左馬寮に?し、後に左馬寮領の?園となった。

御? [ 編集 ]

いずれも伊勢神宮領。
  • 芳美御?(高井郡)
  • 保科御?(高井郡)
  • 長田御?(高井郡)
  • 布施御?(更級郡)
  • 富部御?(更級郡)
  • 村上御?(更級郡)
  • 藤長御?(更級郡)
  • 仁科御? (安曇郡)
  • 矢原御? (安曇郡)
  • 麻績御? (筑摩郡)
  • ?田御? (筑摩郡)

地域 [ 編集 ]

[ 編集 ]

信濃?に存在した郡と、現在の長野?に存在する郡の??。

人物 [ 編集 ]

?司 [ 編集 ]

括弧?は任官年。 延喜式 では 上? となっており、?司構成は 除目 により、 四等官 が各1名ずつの他、3名の 史生 からなる。

信濃守 [ 編集 ]

飛鳥?奈良時代 [ 編集 ]
平安時代 [ 編集 ]
鎌倉時代 [ 編集 ]
南北朝時代 [ 編集 ]
室町時代 [ 編集 ]

信濃介 [ 編集 ]

飛鳥?奈良時代 [ 編集 ]
平安時代 [ 編集 ]
鎌倉時代 [ 編集 ]
南北朝?室町時代 [ 編集 ]

信濃? [ 編集 ]

平安時代 [ 編集 ]
南北朝? 室町時代 [ 編集 ]

信濃目 [ 編集 ]

鎌倉時代 [ 編集 ]
南北朝? 室町時代 [ 編集 ]

守護 [ 編集 ]

鎌倉幕府 [ 編集 ]

室町幕府 [ 編集 ]

?人 [ 編集 ]

武家官位としての信濃守 [ 編集 ]

武家官位としての信濃守 [ 編集 ]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ? 神坂村 ?? 山口村
  2. ^ 『長野?史 通史編』は、「賀茂?淵らの誤?により『みすずかる』が?がったが、今もって通用しているのは地元長野??だけである。通常『みこもかる』と?んでいることは、われわれ長野?人が充分承知しなくてはならない問題点である」と指摘している。(第1? p.849)
  3. ^ 御子神の?は22柱、19柱、13柱と資料によって異なる。
  4. ^ 平安時代後半、?衙領が私領化するにつれ、有力在?が請負人と成り設立した在?名の一つが春近で、?入の安定した?衙領を朝廷の役所に配分してその役所を領家とした。その費用を負?する?邑を春近領という
  5. ^ 10世紀に編纂された『和名抄』(流布本)?五の信濃?の項に「?府在筑摩郡」の注記があることから、平安時代中期には筑摩郡に?府があったことが知られる
  6. ^ 1963年 昭和 38年)からの?掘調査によって?分僧寺??分尼寺跡が 上田市 ?分の地で確認され、?府と?分寺は一般的傾向として通常近接したところに立地するという点から小?郡に?府を推定する?。
  7. ^ 文?上に現れる初代信濃?司。
  8. ^ 橘奈良麻呂の? で?罰され任?配流。
  9. ^ ?衙が倒?し?死。
  10. ^ 紅葉狩 』の登場人物で知られる。(近年の??では969年に維茂が信濃?に赴いたとされるが、『紅葉狩』や江?時代の書物には維茂が信濃?に赴いた年は記されていない。)
  11. ^ 今昔物語集 』の 受領 のエピソ?ドで知られる。
  12. ^ 藤原尹文 の子か。
  13. ^ 源明? に殺害された
  14. ^ 藤原伊通 の孫か。
  15. ^ 信西 (藤原通憲)の子。 平治の? で免職され佐渡島に流罪。後に出家し、 円照 (遊蓮房) となり 法然 の弟子となる [32]
  16. ^ 藤原家長 の子か。
  17. ^ 平氏追討の?功。
  18. ^ 藤原隆房 の子か。
  19. ^ 堀川中納言藤原光?の直前の前任者であるとの記?があり、左近少?入道と同一人物とする?あり。
  20. ^ a b c d 白川伯王家
  21. ^ 1333年10月に就任した?原?人某と同一人物か。 中先代の? で?死。
  22. ^ 解任後、1338年の南都合?で?死。
  23. ^ 守護斯波義種の守護代も務めた。
  24. ^ a b 員外?司
  25. ^ 916年に?守として再任。
  26. ^ 代官に 細川慈忠 細川持有
  27. ^ a b 細川勝元 の推?
  28. ^ ?山持? の推?

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 古川貞雄「風土と人間」(古川貞雄?福島正樹?井原今朝男??木?幸?小平千文『長野?の?史』山川出版社、 2003年) 2頁
  2. ^ a b c d 井上今朝男、牛山佳幸編『論集 東?信濃の古代中世史』(岩田書院、2008年)
  3. ^ ?野和己「『古事記』と木簡に見える?名表記の?比」(『古代?』4?、2012年)17頁?20頁。
  4. ^ 鎌田元一「律令制?名表記の成立」(『律令公民制の?究』?書房、2001年)
  5. ^ 『日本書紀』?七 景行天皇四十年是??
  6. ^ a b c d 佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館、2021年)
  7. ^ 川崎保『「シナノ」の王墓の考古?』(雄山閣、2006年)
  8. ^ 「第三節 大和王?と科野のクニ」『 長野?史 通史編 第一? 原始?古代』(1989年)312頁。
  9. ^ 河?春人「 古代東アジアにおける政治的流動性と人流 」『?修大?社?知性開??究センタ?古代東ユ?ラシア?究センタ?年報』第3?、?修大?社?知性開??究センタ?、2017年3月、103-121頁、 doi : 10.34360/00008258 NAID   120006785668  
  10. ^ 『日本?史地名大系 第20? 長野?の地名』(平凡社、1979年)
  11. ^ 川崎保『赤い土器のクニ」の考古?』(雄山閣、2008年)
  12. ^ a b 傳田伊史『古代信濃の地域社?構造』(同成社、2017年)
  13. ^ 福島正樹「信濃?のなり立ち」 (古川貞雄?福島正樹?井原今朝男??木?幸?小平千文『長野?の?史』山川出版社、 2003年) 42ペ?ジ
  14. ^ 『日本書紀』?二六?明天皇六年(六六?)十二月庚寅?四
  15. ^ 『日本書紀』?二二推古天皇三五年(六二七)五月
  16. ^ 『?日本紀』?二大?二年(七?二)十二月壬寅十
  17. ^ 『?日本紀』?六和銅六年(七一三)七月戊辰七
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  31. ^ 沙田神社由?書。
  32. ^ 『法然上人??(下)』(岩波文庫)211頁
  33. ^ a b 1477年の 興福寺 の記?

?考文? [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]