ミケランジェロ?ブオナロ?ティ

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミケランジェロ から?送)
ミケランジェロ?ブオナロ?ティ
Michelangelo Buonarroti
ダニエレ?ダ?ヴォルテッラ が描いたミケランジェロの肖像?
本名 Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni
誕生日 ( 1475-03-06 ) 1475年 3月6日
出生地 フィレンツェ共和? カプレ?ゼ
死?年 1564年 2月18日 (1564-02-18) (88?)
死?地 ?皇領 ロ?マ
運動?動向 盛期ルネサンス
芸術分野 彫刻、??、建築、
代表作 ダビデ像
アダムの創造
ピエタ
システィ?ナ??堂天井?
テンプレ?トを表示
ミケランジェロのサイン
ミケランジェロの肖像がデザインされている10000リラ紙幣。1963年 - 1977年?行。

ミケランジェロ?ディ?ロドヴィ?コ?ブオナロ?ティ?シモ?ニ : Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni [1] 1475年 3月6日 - 1564年 2月18日 )は、 イタリア 盛期ルネサンス期 彫刻家 ?家 建築家 詩人

西洋美術史 上のあらゆる分野に、大きな影響を?えた 芸術家 である [2] 。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、??な分野で優れた芸術作品を?したその多才さから、 レオナルド?ダ?ヴィンチ と同じく、ルネサンス期の典型的な「 万能(の)人 」と呼ばれる。

ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評?を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている [2] 。ミケランジェロが制作した??、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている [2] 。長?を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想?なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記?が詳細に?っている人物でもある。

ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『 ピエタ 』(1498年 - 1499年、 サン?ピエトロ大聖堂 )と『 ダヴィデ像 』(1504年、 アカデミア美術館 )は、どちらもミケランジェロが20?代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は??作品を?視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を?えた2点の フレスコ? システィ?ナ??堂 の『 システィ?ナ??堂天井? 』と祭壇壁?『 最後の審判 』を描いている。

さらに建築家としてもフィレンツェの ラウレンツィア?ナ?書館 英語版 で、 マニエリスム建築 の先?けといえる?式で設計を行っている。74?のときには アントニオ?ダ?サンガッロ?イル?ジョヴァネ の死去をうけて、?時改築中だったサン?ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは?前の設計を?更し、建物西側(?)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ド?ム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に?更されて完成している。

システィ?ナ??堂天井? 』の『ユディトとホロフェルネス』の部分?大?像。描かれているホロフェルネスは、ミケランジェロの自?像といわれている。

ミケランジェロは、存命中に?記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえる [3] 。そのなかで ジョルジョ?ヴァザ?リ が著した『 ?家?彫刻家?建築家列? 』では、ミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として絶?し、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用するだろうとしている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 ( Il Divino )」と呼ばれることもあり [4] 、?時の人?からは偉人として 畏敬 の念を持って見られていた。ミケランジェロの作品に見られる情熱的で?特な作風は後?の芸術家たちの模範となり、 盛期ルネサンス の次の西洋芸術運動である マニエリスム となって結?していった。

生涯と作品 [ 編集 ]

幼少期 [ 編集 ]

『階段の聖母』(1491年頃)
カ?サ?ブオナロ?ティ(フィレンツェ)

ミケランジェロは1475年3月6日 [注? 1] に、現在の トスカ?ナ州 アレッツォ 近郊にあたる フィレンツェ共和? カプレ?ゼ に生まれた [5] [6] 。ミケランジェロの一族は?世代にわたってフィレンツェで小さな銀行業を?んでいたが、ミケランジェロの父ルドヴィ?コ?ディ?レオナルド?ディ?ブオナロ?ティ?シモ?ニは銀行??に失敗し、共和?政府の臨時職員として生計を立てていた [3] 。ミケランジェロ誕生?時のルドヴィ?コはカプレ?ゼの小さな町の判事職と、 キウ?ジ の首席行政官を務めていた。母親の名前はフランチェスカ?ディ?ネリ?デル?ミニア?ト?シエ?ナである [7] 。ルドヴィ?コは、トスカ?ナ女伯 マティルデ?ディ?カノッサ の末裔を自?しており、ミケランジェロもこれを信じていたが、事?かどうかは立?されていない [8] 。ミケランジェロの誕生後?ヶ月で一家はフィレンツェへと?り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで送った。1481年、ミケランジェロが6?の時、母フランチェスカが長い?病生活の末に死去している。?時のミケランジェロ一家は石工の一家と共に セッティニャ?ノ に住んでおり、父ルドヴィ?コはこの地で大理石採石場と小さな農園を??していた [7] ジョルジョ?ヴァザ?リ は著書でミケランジェロの言葉として「私が幸運だったのは、アレッツォの?細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を?みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」と記載している。

『ケンタウロスの?い』(1492年頃)
カ?サ?ブオナロ?ティ(フィレンツェ)

父ルドヴィ?コは、ミケランジェロ少年を 人文主義者 フランチェスコ?ダ?ウルビ?ノのもとへ送り、?問を?ばせようとした [5] [9] [注? 2] 。しかしミケランジェロは?問には興味を示さず、??の?飾??の模?や?家たちと交際することを好んた [9] 。ミケランジェロは13?のときに?家 ドメニコ?ギルランダイオ に弟子入りし [1] [10] 、わずか14?でギルランダイオに一人前の?家と認められたが、これは?時としては極めて異例のことだった [11] 。1489年にメディチ家?主でフィレンツェの最大?力者 ロレンツォ?デ?メディチ がギルランダイオに、最も優れた弟子を2名、自分のところへ寄こすように求め、このときにミケランジェロと フランチェスコ?グラナッチ 英語版 がロレンツォの元へと派遣されている [12] 。1490年から1492年にかけて、ミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義の プラトン?アカデミ? に?加している。?時のミケランジェロは ベルトルド?ディ?ジョヴァンニ 英語版 のもとで彫刻を?んでおり、16?の頃には、私的なサ?クルであるプラトン?アカデミ?に集う マルシリオ?フィチ?ノ ピコ?デラ?ミランドラ アンジェロ?ポリツィア?ノ など?代一流の人文主義者や詩人たちと交流していた [13] 。この時期にミケランジェロが制作した レリ?フ として『 階段の聖母 英語版 』(1490年 - 1492年)、『 ケンタウロスの?い 英語版 』(1491年 - 1492年)が?げられる。『ケンタウロスの?い』はポリツィア?ノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソ?ドをもとに制作されたもので、ロレンツォ?デ?メディチがミケランジェロに依?した作品だった [14] 。ベルトルド?ディ?ジョヴァンニのもとで修行していた17?のミケランジェロは、ロレンツォ?デ?メディチの後援で彫刻を勉?していた3?年長の ピエトロ?トッリジャ?ノ 英語版 に顔を?られて鼻骨が曲がってしまい、現存するミケランジェロの肖像?の多くはこの特?がはっきりととらえられている [15]

?年期 [ 編集 ]

1492年4月8日に後援者のロレンツォ?デ?メディチが死去したことにより、ミケランジェロを取り?く環境は激?し [16] 、ミケランジェロはメディチ家の庇護から離れて父親の元へと?った。その後?ヶ月をかけて、フィレンツェのサント?スピリト修道院長への奉?用に、木彫の『 キリスト?刑像 英語版 』(1492年、フィレンツェ、サント?スピリト??)を制作している。修道院長は修道院付?病院で死去した人の身?を、解剖?の勉?のためにミケランジェロに提供した人物だった [17] 。ミケランジェロは1493年から1494年にかけて、ギリシア神話の英雄 ヘラクレス の大きな立像制作のために大理石の塊を購入している。このヘラクレス像はフィレンツェに送られたという記?が?っているが、18世紀に行方不明になっている [14] [注? 3] 。大雪が降り積もった1494年1月20日に、ロレンツォ?デ?メディチの後?者 ピエロ?ディ?ロレンツォ?デ?メディチ からミケランジェロに雪像制作の依?が舞い?み、再びミケランジェロはメディチ家宮廷に迎えられることとなった。

しかし同年、フィレンツェの支配者メディチ家は、フランス軍の イタリア侵攻 と修道士 ジロラモ?サヴォナロ?ラ の扇動による排斥運動でフィレンツェから追放されてしまう。ミケランジェロもこの政?の直前にフィレンツェを去っており、 ヴェネツィア を?て ボロ?ニャ へと居を移した [16] 。移住先のボロ?ニャでミケランジェロは、サン?ドメニコ聖堂の聖遺物櫃の小さな人物像彫刻を完成させる仕事を引き受けている。その後、1494年の終わりごろにはフィレンツェの政?は落ち着きつつあり、フランス王 シャルル8世 率いるフランス軍もロ?マ?皇、神聖ロ?マ皇帝らが結んだ軍事同盟の前に撤退したため、?面の危機は回避した?態だった。ミケランジェロはこのような情勢下のフィレンツェへと?ったが、メディチ家不在のフィレンツェ政府からは作品制作の注文を受けることはなく、フィレンツェ外のメディチ家からの庇護に?らざるを得なかった [18] 。ミケランジェロがフィレンツェで制作した彫刻に、『幼?洗?者ヨハネ』と『キュ?ピッド』の2つの小品があるが、どちらも現存していない。 アスカニオ?コンディヴィ 英語版 が著した16世紀のミケランジェロの?記によれば、これらの作品をミケランジェロに作らせたのはメディチ家傍流のロレンツォ?ディ?ピエルフランチェスコ?デ?メディチである。ロレンツォはミケランジェロに「これ(『キュ?ピッド』をさす)をどこかからの?掘品のように加工しろ」と命じ「古代ロ?マの古美術品としてロ?マに送れば……高値で?ることができる」と考えたとしている。『幼?洗?者ヨハネ』をロレンツォから購入した ?機卿 ラファエ?レ?リア?リオ 英語版 はこの作品が?物であることに?付いたが、彫刻自?の出??えに感銘を受けてミケランジェロをロ?マへと招いた [19] [注? 4] 。自身の彫刻作品がロ?マで認められたことと、?時のフィレンツェの保守的な情勢とが、ミケランジェロに?機卿からの招待に?じることを決意させた [18]

ロ?マ時代 [ 編集 ]

ピエタ 』(1498年 - 1500年)
サン?ピエトロ大聖堂

ミケランジェロがロ?マに到着したのは1496年6月25日で [20] 、ミケランジェロが21?のときだった。同年7月4日に、ミケランジェロをロ?マに招いた?機卿ラファエ?レ?リア?リオからの依?を受け、ロ?マ神話のワインの神をモチ?フとした『 バッカス像 英語版 』 の制作を開始した。しかし、この作品はリア?リオから受け取りを拒否されてしまい、後に銀行家ヤコポ?ガッリのコレクションとしてその庭に飾られている [注? 5]

1497年11月にミケランジェロは?皇?のフランス大使から、代表作の一つである『 ピエタ 』の制作を打診され、翌年8月に正式な契約を交わした。完成した『ピエタ』は?時「人間の?在能力の?露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評?され、ヴァザ?リは「間違いなく奇跡といえる彫刻で、?なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない、あたかも?物を目の前にしているかのような完璧な作品」だとしている。

ロ?マでのミケランジェロは ロレ?ト聖母?? 英語版 の近くに住んでいた。ミケランジェロが住んでいた建物は1874年に取り?され、新たな所有者によって?されていた遺構も1930年に破?された。その後復元されたミケランジェロの住居が、ロ?マ西部の ジャニコロの丘 で公開されている。また、 バチカン美術館 が所?する有名な古代彫刻『 ラオコ?ン像 』は、この時代のミケランジェロの作品であると主張する者も一部存在する [21]

また、現在 ロンドン ナショナル?ギャラリ? が所?する、以前はミケランジェロの作品かどうか異論の多かった『 マンチェスタ?の聖母 』も、この時期にミケランジェロがロ?マで描いた作品だと考えられている [22]

ダヴィデ像 [ 編集 ]

ダヴィデ像 』、1504年
アカデミア美術館 (フィレンツェ)

メディチ家のフィレンツェ追放に大きな役割を果たした、ルネサンス美術を含む芸術否定論者にしてフィレンツェの指導者だった聖職者 ジロラモ?サヴォナロ?ラ は失脚し、1498年に?刑された。代わって ゴンファロニエ?レ ピエロ?ソデリ?ニ が台頭して、以前とは?況が?わったフィレンツェ共和?に、ミケランジェロは1499年から1501年にかけて?還している。ミケランジェロは羊毛ギルドの?事たちに、40年前に彫刻家 アゴスティ?ノ?ディ?ドゥッチオ 英語版 によって開始されたものの、??な理由で放棄されていた彫刻群制作計?の完遂を申し?まれた。このときミケランジェロに打診されたのは、フィレンツェの自主性を表す象?として?大な ダヴィデ の彫刻を制作し、 ヴェッキオ宮殿 に面した シニョリ?ア?場 に設置するというものだった。ミケランジェロが、この最も有名な代表作といえる『 ダヴィデ像 』を完成させたのは1504年である。イタリア北部の都市 カッラ?ラ の採石場から切り出され、前任者による大まかな下?が描かれていた大理石を原材料として制作されたこの『ダヴィデ像』が、ミケランジェロが持つ彫刻家としてのたぐいまれな才能、技量、創造力への評?を決定的なものとしたのである。

また、ミケランジェロはフィレンツェに?在していたこの時期に 聖母マリア 聖ヨセフ 、幼?キリストを描いた円形の??『 聖家族 』を完成させている。この作品はアニョロ?ド?ニとマッダレ?ナ?ストロッツィの結婚記念として注文されたもので、17世紀にはフィレンツェ??(現在の ウフィツィ美術館 )の通?「護民官の間」と呼ばれる部屋に飾られていた。

システィ?ナ??堂天井? [ 編集 ]

システィ?ナ??堂天井? 』(1508年 - 1512年)
システィ?ナ??堂 ヴァチカン

1505年にミケランジェロは、新しく選出されたロ?マ?皇 ユリウス2世 にロ?マへと呼びもどされ、ユリウス2世が死後に納められる?廟の制作を命じられた。?皇の後援を受けたミケランジェロだったが、ユリウス2世以外にも後?の?代?皇から??と?注された多くの芸術作品の制作に追われ、?初の目的だったユリウス2世の?廟制作作業を何度も中?せざるを得なかった。このため、最終的にユリウス2世の?廟の完成までに40年の?月を要している。司?座聖堂 サン?ピエトロ?イン?ヴィンコリ 英語版 に安置されている、中央にミケランジェロの彫刻『 モ?ゼ像 英語版 』が配されたこの?麗な?廟は、ミケランジェロ自身には?足のいくものではなかった。

『アダムの創造』(1508年 - 1512年)
システィ?ナ??堂 ヴァチカン

ユリウス2世の?廟制作途中にミケランジェロは、その完成までに約4年を費やすことになる システィ?ナ??堂 天井? 制作をユリウス2世に引き受けさせられた。ミケランジェロ自身の記?によれば、 ドナト?ブラマンテ ラファエロ が、ミケランジェロのことをよく知らないにもかかわらず、ユリウス2世に推薦したとされている。さらに、自身は彫刻家であるとの自負を持っていたミケランジェロにとって、システィ?ナ??堂天井?制作は好ましい仕事ではなく、?時フレスコ?家の第一人者として絶頂期にありユリウス2世お?に入りの?家だったラファエロに比べると不快な??だったとされている。しかしこれらのエピソ?ドは、現存する?時の資料から現在の美術史家たちに疑問視されており、ミケランジェロ側からの一方的な見方にすぎないと考えられている。

もともとミケランジェロに?えられた計?は、システィ?ナ??堂の天井に空を背景とした 十二使徒 を描くというものだった [23] 。しかしミケランジェロはこの?初計?を破棄し、『 創世記 』のエピソ?ドをもとにした人類の?天と救?を、 預言者たち とキリストの家系に連なる人?によって描きだすという、はるかに複?な構成を採用した。そしてこの天井?は、 ペルジ?ノ サンドロ?ボッティチェッリ ギルランダイオ らの壁?、そして後年にミケランジェロが描いた祭壇?『 最後の審判 』などとともに、ロ?マ?カトリック??の?義を描きだすという?大な計?の一部を?う作品となっている [24] [25]

システィ?ナ??堂天井?は『創世記』の九つのエピソ?ドを主題として構成されており、描かれている人物像は300を超えている。これらのエピソ?ドはさらに、「天地創造」、「アダムとイヴ」、「 ノア とその一族に?託した人類の現?」の三つに大別できる。天井を支える ペンデンティヴ 部分には、キリスト降誕を予言したとされる男女である、7人の 預言者 と5人の 巫女 が描かれている。このシスティ?ナ??堂天井?では『 アダムの創造 』、『 原罪と?園追放 』、『大洪水』、『イザヤ』、『クマエの巫女』などが有名で、その他、窓の周りにはキリストの祖先とされている人物が描かれている。

メディチ家出身のロ?マ?皇との?係 [ 編集 ]

ロ?マ?皇レオ10世 』(1518年 - 1519年)、 ラファエロ
ウフィツィ美術館 (フィレンツェ)
左に描かれている?機卿は後の クレメンス7世 であるジュリオ?デ?メディチである。

1513年に?皇ユリウス2世が死去し、後?のロ?マ?皇に レオ10世 が選出された。レオ10世はロレンツォ?デ?メディチの次男ジョヴァンニ?デ?メディチであり、ミケランジェロとは全くの見知らぬ他人というわけではなかった。このような背景のなかで、レオ10世が、未完成のままだったメディチ一族の?? サン?ロレンツォ大聖堂 ファサ?ド 再建と彫刻による?飾をミケランジェロに依?するのはごく自然なことだった [26] 。ミケランジェロの前任者 フィリッポ?ブルネレスキ は、大聖堂の??は完成させていたが、ファサ?ドは未完成のまま死去していた。ブルネレスキの作業を引?がせるにあたってレオ10世は何人かの建築家を招いており、必ずしもミケランジェロが第一人者ではなかったが、1518年になってレオ10世はミケランジェロに一任している。ミケランジェロにとって、このサン?ロレンツォ大聖堂のファサ?ド建築が建築家として事?上の初仕事であり、過去に大規模な建設作業計?の作成や見積などの??はなかった。ミケランジェロはこの作業を??するに?たって、イタリア北部の都市 カッラ?ラ の採石場に足を運び、産する石材を試掘している。そして2年をかけて工程表を作成し、切り出す石材の選別、大理石搬出の指揮などの計?を立てた。大聖堂の円柱、 コ?ニス などに使用された建築用大理石は、それまでミケランジェロが彫刻に用いていた大理石とはまったく異なるものだった [27]

ミケランジェロはファサ?ドのデザインや計?作成に3年を費やしており、カッラ?ラだけではなく、 ピエトラサンタ にもこの事業のために新しく大理石採石場を設けることも決定していた。しかしフィレンツェへと大理石を運ぶ道路の整備が?らず、計?全?が?延し始めた。このためレオ10世は採石場を セラヴェッツァ へと?更することを要求したが、?時のセラヴェッツァの採石場は放棄されており、石工もおらず道路も整備されていない場所だった。これらの問題に?するミケランジェロの意見は無視され、一方的に採石場をセラヴェッツァへと?更する指示がなされた。カッラ?ラとの石材購入契約を破棄したとして、不?にもミケランジェロが非難される結果となり、ミケランジェロとレオ10世の間で論?となっている。結局サン?ロレンツォ大聖堂のファサ?ド再建は、3年間の?延の後に放棄されてしまった [28] 。以?、現在にいたるまでサン?ロレンツォ大聖堂にはファサ?ドは設置されておらず、レオ10世がファサ?ドを放棄した理由については?史家の間でも大きな謎となっている [28]

レオ10世は1521年に急死し、後?の ハドリアヌス6世 も?皇就任後1年足らずで死去した。ハドリアヌス6世の後を襲ったのは、レオ10世の?弟にあたるメディチ家出身の クレメンス7世 だった。クレメンス7世はミケランジェロにとって最重要なパトロンの一人となっていった。クレメンス7世はミケランジェロを?に入って寵愛したが、ミケランジェロのほうは自分が?心のあることにしか興味を示さない身勝手な芸術家のままだった [29]

ロ?マ略奪 に後押しされたフィレンツェ市民は、1527年に再びメディチ家を追放してフィレンツェ共和?の再興を?ったが、政情はなお混沌としており、ミケランジェロも愛するフィレンツェのために要塞建築監督の任にあたった。しかし、1530年に神聖ロ?マ皇帝 カ?ル5世 がフィレンツェを?落させ、このときにメディチ家もフィレンツェへと?還して往年の?力を取り?し、公爵位を獲得した。メディチ公爵家のフィレンツェ施政は苛烈なもので、メディチ家??堂の制作途中だったミケランジェロも、??堂を完成するに足る弟子を?して、自身は1530年代半ばにフィレンツェを離れている。

『最後の審判』と晩年 [ 編集 ]

最後の審判 』(1541年 - 1547年)
システィ?ナ??堂 (ヴァチカン)

システィ?ナ??堂の祭壇壁?である、 フレスコ で描かれた『 最後の審判 』は、メディチ家出身のロ?マ?皇 クレメンス6世 の注文による??だが、クレメンス6世はミケランジェロとの制作契約が締結されて間もなく死去している。メディチ家支配下のフィレンツェを離れたミケランジェロはロ?マに落ち着くことに決め、1505年に作業を開始したまま、半ば放置していたロ?マ?皇 ユリウス2世 の?廟の完成に集中しようとしていた。しかしながらクレメンス6世の後を襲ったロ?マ?皇 パウルス3世 もこの祭壇?制作の?行を望み、ミケランジェロはユリウス2世の?廟制作を中?してシスティ?ナ??堂のフレスコ壁?に取りかからざるを得なかった [26]

最後の審判 』の?大?像(1537年 - 1541年)
システィ?ナ??堂 (ヴァチカン)
聖バルトロマイ が手にしている自身の皮は、頭部がミケランジェロの自?像だとされている。

ミケランジェロは1541年から1547年10月まで、この困難な壁?制作に?事した。『最後の審判』はシスティ?ナ??堂の主祭壇の背後の壁一面に描かれた、1370cm×1200cmにおよぶ非常に大規模な作品で、キリストの再臨と現世の終末を、天使に?まれたキリストが生前の行いによって人?の魂を裁いている情景で描いている。『最後の審判』に描かれているキリストの位置は、15世紀のイタリア人?家 メロッツォ?ダ?フォルリ が1480年ごろにロ?マの サンティ?アポストリ?? 英語版 に描いた天井フレスコ?『キリスト昇天』 [注? 6] に影響を受けている。

?初ミケランジェロが完成させた『最後の審判』は、キリストも聖母マリアも裸?で表現されていた。裸?が不信心、不道?であるとして、カラファ?機卿(後のロ?マ?皇 パウルス4世 )と マントヴァ公? 公使セルニ?ニが、壁面から除去するなどの?置を講じるべきだと主張したが、パウルス3世はこれに?じなかった。しかし、ミケランジェロの死後に、裸?で描かれた人物の局部を?すことが決定された。この仕事を任され、『最後の審判』の人物像の局部に下穿きを描いたのが、ミケランジェロのもとで??を?んでいた ダニエレ?ダ?ヴォルテッラ である。その後、1993年に『最後の審判』が修復されたときにも、ダ?ヴォルテッラが加筆した下穿き部分が全て除去されたわけではなかった。これは、?史的資料として一部保存するという意味合いと、後世の?家たちの「?み深い」加筆によってミケランジェロのオリジナル部分がすでに削り取られて失われていたことによる。 ナポリ カポディモンテ美術館 には、 マルチェッロ?ヴェヌスティ が描いた、修正前の『最後の審判』の模?が所?されている。

『ミネルヴァのキリスト』(1521年) サンタ?マリア?ソプラ?ミネルヴァ?? (ロ?マ)
股間を覆う布の彫刻は後世になってから付け加えられた。

道?的、宗?的な??はミケランジェロについてまわり、「わいせつ美術の考案者 ( inventor delle porcherie )」とまでいわれたこともあった。16世紀の ?抗宗?改革 が推進した、??や彫刻の裸身を?そうと試みる?名高き「 イチジクの葉 運動」は、ミケランジェロの作品が契機となって開始されたものである。大理石彫刻『 ミネルヴァのキリスト 英語版 』(1521年、ロ?マ、 サンタ?マリア?ソプラ?ミネルヴァ?? )の下半身には彫刻に布が後からかぶせられており、現在に至るまでこの?態で所?されている。さらに、彫刻『 ブルッヘの聖母 英語版 』(1501年 - 1504年、ブルッヘ、聖母??)の、裸?の幼?キリストには?世紀にわたって覆いがかけられていた。また、ロンドンの ヴィクトリア&アルバ?ト博物館 キャストコ?ト展示室 英語版 が所?するダヴィデ像の複製彫刻の背後には箱に納められた「イチジクの葉」があり、女性王族が?を?くしないようにダビデ像の局部を?すために使用されていた。

1546年にミケランジェロは、それまで ブラマンテ ラファエロ らが40年以上にわたって?けてきた、ヴァチカンの サン?ピエトロ大聖堂 改築の設計とド?ムのデザインを一任された。最終的にミケランジェロはド?ムの完成を待たずしてこの世を去っているが、存命時にはド?ム下部と支持環まで着工?みであり、ド?ム全?の基本的なデザインはすでに完成していた。ミケランジェロは1564年、88?でロ?マで死去した。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言どおりに、遺?はロ?マからフィレンツェへと運ばれて、 サンタ?クロ?チェ聖堂 に埋葬された。

遺作の?見 [ 編集 ]

2007年12月7日に バチカン秘密文書館 で、ミケランジェロがその?年の1564年に赤いチョ?クで描いたサン?ピエトロ大聖堂のデザイン?スケッチが?見された [30] [31] 。ミケランジェロは自身でスケッチを破棄していたため、現存するサン?ピエトロ大聖堂のデザイン?スケッチは極めて稀少なものである。このスケッチには、半球の屋根(ク?ポラ)を支える放射?の柱の構成計?が描かれていた [32]

??が疑われている作品 [ 編集 ]

ミケランジェロの作品とされるものには多くの??論?がある。有名な作品としては、フィレンツェの アカデミア美術館 が所?する彫刻『 パレストリ?ナのピエタ 』や、フォ?トワ?スの キンベル美術館 が近年購入した『聖アントニウスの苦?』 [注? 7] などがある。1996年にニュ?ヨ?クのフランス大使館でミケランジェロ作として「再?見」され、現在は メトロポリタン美術館 に貸?されているキュ?ピッドの彫刻も、??がはっきりとしていない作品である [33]

建築作品 [ 編集 ]

ミケランジェロが設計したサン?ピエトロ大聖堂のド?ム。

ミケランジェロには別人が始めた計?を引き?いだ建築物も多く、それらの中でも最も有名なのがブラマンテ、ラファエロらの作業を受け?いだロ?マの サン?ピエトロ大聖堂 である。 カンピドリオ?場 の、建物と空間とで明快に表現された設計も、ミケランジェロがサン?ピエトロ大聖堂と同時期に手がけたものである。カンピドリオ?場は正方形ではなく菱形で構成されており、このことが見かけ上の遠近感を弱める役割を果たしている。

フィレンツェでミケランジェロが建築に?わった有名な建物としては、 サン?ロレンツォ大聖堂 の未完に終わったファサ?ド、同じくサン?ロレンツォ大聖堂付?のメディチ家??堂、 ラウレンツィア?ナ?書館 英語版 、要塞などがある。

ロ?マでは、サン?ピエトロ大聖堂、 ファルネ?ゼ宮殿 パラッツォ?ファルネ?ゼ とも。1530~46年)や、 サン?ジョヴァンニ?ディ?フィオレンティ?ニ?? 英語版 サンタ?マリア?マッジョ?レ大聖堂 スフォルツァ家??堂、 ポルタ?ピア サンタ?マリア?デリ?アンジェリ?エ?デイ?マルティ?リ大聖堂 パラッツォ?デル?セナト?レ (ロ?マ、カンピドリオの丘、1592年~ [34] )などがある。

ラウレンツィア?ナ?書館 [ 編集 ]

ラウレンツィア?ナ?書館の階段と付柱

メディチ家の私設?書館を欲したロ?マ?皇 クレメンス7世 の依?で、ミケランジェロがフィレンツェのサン?ロレンツォ大聖堂付?ラウレンツィア?ナ?書館の設計を開始したのは1523年ごろである。下部に行くにつれて細くなっていく?飾用の 付柱 や直線と曲線が組合された階段など、新しい要素を設計に取り入れている。その後13年の間、ミケランジェロは設計作業を??的に進め [26] 、?書館が完成、開館したのはミケランジェロの死後、1571年になってからだった [27] 。現在では、このラウレンツィア?ナ?書館はマニエリスム?式の代表的建築物と見なされている [35] [36]

メディチ家??堂 [ 編集 ]

サン?ロレンツォ大聖堂でミケランジェロは メディチ家??堂 の設計も手がけ、構成はミケランジェロに一任された。メディチ家??堂は「君主の??堂 ( Cappella dei Principi )」と「新聖具室 ( Sagrestia Nuova )」で構成され、?部にはメディチ一族に捧げられた記念碑が存在している。ミケランジェロはこの??堂の完成を見ずにフィレンツェを離れており、??堂は最終的にミケランジェロの弟子たちの手によって仕上げられた。メディチ家の墓所としても使用されている新聖具室の入り口には、壁際に ロレンツォ ジュリア?ノ のメディチ家兄弟の墓所として用意された2つの?廟がある。?廟は一日の時間?を表現した裸?の人物彫刻で飾られており、ロレンツォの側には『 夕暮 英語版 』と『 英語版 』が、ジュリア?ノの側には『 英語版 』と『 ? 英語版 』が、それぞれ存在する。さらにロレンツォの?廟には『聖母子』と、メディチ家の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアンの彫刻で飾られており、この『聖母子』はミケランジェロ自身の作品である。ミケランジェロが彫刻と??計?の?方を??した仕事のなかでも、サン?ロレンツォ大聖堂メディチ家??堂の聖具室は、ミケランジェロの彫刻と建築の才能が?合的に?揮された好例といえる [37] 。また、1976年には聖具室の下に、壁にミケランジェロのドロ?イングがある?し廊下が?見されている [38] [39]

私生活 [ 編集 ]

ミケランジェロの私生活は禁欲的なもので、弟子で?家、?記作家の アスカニオ?コンディヴィ 英語版 に「自分は金持ちなのかもしれないが、つねに質素な暮らしを送っている」と語っている [40] 。コンディヴィは、ミケランジェロが食べ物や?み物に無?心で「?しむためではなく、?に必要にせまられて」食事をとり、「服を着たままで靴も履いたままで眠り?むことがよくあった」としている [40] 。このような習慣を持っていたこともあって、ミケランジェロは私生活で他人から好かれる性質ではなかった。ミケランジェロの?記を書いた パオロ?ジョヴィオ も「洗練されていない粗野な人柄で、その暮らしぶりは信じられないほどむさ苦しく、そうでなければ彼に師事する者もいたであろうに、結局は後世に弟子を?さなかった」と記している [41] 。ミケランジェロは本質的に孤?を好む陰鬱な性格で、人付き合いを避けて引き?もり、周?にどう思われようと頓着しない人物だった [42]

性的指向 [ 編集 ]

大英博物館が所?する、ヴィットリア?コロンナを描いたミケランジェロのドロ?イング。ミケランジェロ65?、ヴィットリア50?のときの作品と考えられている

アスカニオ?コンディヴィはミケランジェロが「修道僧のように貞節」と書いているが、ミケランジェロが持った肉?的交?を明らかにすることは不可能である [43] 。しかしミケランジェロが?した詩文、美術作品から、その一端を垣間見ることができる可能性はある [44]

同性愛的傾向
ミケランジェロは300以上の ソネット マドリガ?レ を書いた。最も長い作品は1532年の、57?のミケランジェロと出?ったときに23?前後だった トンマ?ゾ?デイ?カヴァリエ?リ 英語版 に捧げたものである。このソネットは、男性が他のひとりの男性に話しかける構成で書いたまとまった量の詩歌としては現存する最古のもので、男性にあてて多くのソネットを書いた シェイクスピア に先立つことおよそ50年となる。
他にもミケランジェロは友人だったチェッキ?ノ?デイ?ブラッチが、知り合って1年後に15?で死去したときに、その死を悼む エピグラム を書いている [45]
ミケランジェロが同性愛的傾向のある詩歌を書いたことは、後世 [ いつ? ] の人?に忌避感を持って受けとめられた。このため、甥の息子で同名のミケランジェロが、1623年に男女の性別を入れ替えた形でミケランジェロの詩歌集を出版している [46] 。そして1893年にイギリスの詩人、文芸評論家 ジョン?アディントン?シモンズ 英語版 が英語?版を出版するときまで、この性別の?更は元に?されることはなかった。ただし、ミケランジェロに?際に同性愛的傾向が見られたかどうかについては?明されていない。「精神的?愛感情を、無感動で洗練された筆致で表現した想像上の詩歌である。官能的とされる詩歌も上品で感受性が豊かであることの表出にすぎない」と?言する?究者もいる [43]
未亡人との?
ミケランジェロは1536年か1538年にロ?マで知り合った、40?代後半の詩人で貴族階級の未亡人 ヴィットリア?コロンナ に大きな愛情を抱いた。互いにソネットを送りあうなど、2人の交?はヴィットリアが死去する1547年まで絶えることがなかった。アスカニオ?コンディヴィはミケランジェロが、ヴィットリアの手にキスをしたことはあったが、?にキスをしなかったことが生涯唯一の後悔だと語っていたことを記している [47]

作品 [ 編集 ]

  • 作品一?がイタリア語版「Opere di Michelangelo」にある [48]

彫刻 [ 編集 ]

?? [ 編集 ]

建築 [ 編集 ]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ミケランジェロの父はミケランジェロの誕生日を1474年3月6日と記?している。ただし、この記?は?時フィレンツェで用いられていた年記法によるもので、ロ?マで採用されていた年記法では1475年となる。
  2. ^ ミケランジェロが?問を?ぶために親元を離れた年?は文?ごとに相違がある。ド?トルナイは10?とし、アスカニオ?コンディヴィの?記を??したセジウィクは7?としている。
  3. ^ ヘラクレス像を購入したのはストロッツィ家である。1529年に一族のフィリッポ?ストロッツィがこの彫刻をフランス王 フランソワ1世 に?却した。1594年には アンリ4世 フォンテ?ヌブロ? の別宅に持ち?んだ記?があるが、1713年にその別宅が破?されて以降、行方不明となっている。
  4. ^ ヴァザ?リ の『 ?家?彫刻家?建築家列? 』には、このエピソ?ドに?する記述はない。 パオロ?ジョヴィオ の『ミケランジェロの生涯』には、ミケランジェロがこの彫像を古美術品として?却しようとしたことを示唆する記述がある。
  5. ^ 現在はフィレンツェの バルジェロ美術館 が所?している。
  6. ^ 『キリスト昇天』はキリストとともに多くの天使などが描かれていた作品で、現在ではキリストを描いた部分はロ?マの クイリナ?レ宮殿 に、その他の部分はバチカン美術館サンピエトロ大聖堂聖具室に??されている。
  7. ^ 以前はギルランダイオの工房作といわれており、ミケランジェロの作品ではないかとする?は2度否定されていた。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b Web Gallery of Art, image collection, virtual museum, searchable database of European fine arts (1100?1850) ”. wga.hu. 2008年6月13日 ??。
  2. ^ a b c “Michelangelo biography” . Encyclopædia Britannica . http://www.britannica.com/EBchecked/topic/379957/Michelangelo  
  3. ^ a b Michelangelo. (2008). Encyclopædia Britannica. Ultimate Reference Suite .
  4. ^ Emison, Patricia. A (2004). Creating the "Divine Artist": from Dante to Michelangelo . Brill. ISBN   978-90-04-13709-7 . https://books.google.co.jp/books?id=1EofecqX_vsC&pg=PA144&lpg=PA144&dq=michelangelo+%22il+divino%22&redir_esc=y&hl=ja  
  5. ^ a b J. de Tolnay, The Youth of Michelangelo , 11
  6. ^ メルロ, クラウディオ 著、坂??樹 ?『ルネサンスの三大芸術家』PHPエディタ?ズ?グル?プ、42頁。 ISBN   4569608833  
  7. ^ a b C. Clement, Michelangelo , 5
  8. ^ A. Condivi, The Life of Michelangelo , 5
  9. ^ a b A. Condivi, The Life of Michelangelo , p.9
  10. ^ R. Liebert, Michelangelo: A Psychoanalytic Study of his Life and Images , p.59
  11. ^ C. Clement, Michelangelo , p.7
  12. ^ C. Clement, Michelangelo , p.9
  13. ^ J. de Tolnay, The Youth of Michelangelo , pp.18 - 19
  14. ^ a b A. Condivi, The Life of Michelangelo , p.15
  15. ^ Will the Real Michelangelo Please Stand Up? ”. 2009年12月14日 ??。
  16. ^ a b J. de Tolnay, The Youth of Michelangelo , pp. 20 - 21
  17. ^ A. Condivi, The Life of Michelangelo , p.17
  18. ^ a b J. de Tolnay, The Youth of Michelangelo , pp.24 - 25
  19. ^ A. Condivi, The Life of Michelangelo , pp.19 - 20
  20. ^ J. de Tolnay, The Youth of Michelangelo , p.26 - 28
  21. ^ Catterson, Lynn. "Michelangelo's 'Laocoon?'" Artibus et historiae. 52. 2005: p. 33
  22. ^ ナショナル?ギャラリ?公式サイト
  23. ^ Giacometti, Massimo (1986). The Sistine Chapel.
  24. ^ Shearman 1986b, pp.38 - 87
  25. ^ O'Malley 1986, pp.92 - 148
  26. ^ a b c Stanley, Diane (2000). Michelangelo . Harper Collins. ISBN   0-688-15085-3  
  27. ^ a b Michelangelo: artist and man . Dir. Michael Crain. Perpetual Motion Films, 1994. VHS.
  28. ^ a b Copplestone, Trewin (2002). Michelangelo . Wellfleet Press. ISBN   0-7858-1461-2  
  29. ^ The Genius of Michelangelo . Dir. William E. Wallace. The Teaching Company, 2007. DVD.
  30. ^ Michelangelo sketch for St Peter's dome found The Guardian)
  31. ^ Preston, John (2010年6月1日). “The Vatican Archive: the Pope's private library” . The Daily Telegraph . http://www.telegraph.co.uk/culture/books/7772052/The-Vatican-Archive-the-Popes-private-library.html  
  32. ^ “Michelangelo 'last sketch' found” . BBC News. (2007年12月7日) . http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7133116.stm 2009年2月9日 ??。  
  33. ^ Budd, Denise (2010年). “ Michelangelo's first painting (exhibition review) ”. Metropolitan Museum of Art . New York: thefreelibrary.com. 2012年6月26日 ??。
  34. ^ 『新?版 ?? 西洋建築の?史』河出書房新社、2022年、65-66頁。  
  35. ^ Medicean-Laurentian Library. Encyclopædia Britannica. 2007.
  36. ^ 池上英洋 『神のごときミケランジェロ』 新潮社 、2013年、21頁。 ISBN   978-4-10-602247-0  
  37. ^ James Beck, Antonio Paolucci, Bruni Santi Michelangelo. The Medici Chapel , Nhames and Hudson, New York,1994
  38. ^ Peter Barenboim, Sergey Shiyan, Michelangelo: Mysteries of Medici Chapel , SLOVO, Moscow, 2006 . ISBN 5-85050-825-2
  39. ^ Peter Barenboim, "Michelangelo Drawings ? Key to the Medici Chapel Interpretation", Moscow, Letny Sad, 2006, ISBN 5-98856-016-4
  40. ^ a b Condivi, The Life of Michelangelo , p. 106.
  41. ^ Paola Barocchi (ed.) Scritti d'arte del cinquecento , Milan, 1971; vol. I p. 10.
  42. ^ Condivi, The Life of Michelangelo , p. 102.
  43. ^ a b Hughes, Anthony: "Michelangelo.", p.326. Phaidon, 1997.
  44. ^ Scigliano, Eric: "Michelangelo's Mountain; The Quest for Perfection in the Marble Quarries of Carrara." Archived 2009年6月30日, at the Wayback Machine ., Simon and Schuster, 2005. Retrieved 27 January 2007
  45. ^ "Michelangelo Buonarroti" by Giovanni Dall'Orto Babilonia n. 85, January 1991, pp. 14?16 (イタリア語)
  46. ^ Rictor Norton, "The Myth of the Modern Homosexual"., page 143. Cassell, 1997.
  47. ^ A. Condivi (ed. Hellmut Wohl), 'The Life of Michelangelo,' p. 103, Phaidon, 1976.
  48. ^ Opere di Michelangelo

?連文? [ 編集 ]

  • Ackerman, James (1986). The Architecture of Michelangelo . University of Chicago Press. ISBN   978-0-226-00240-8  
  • Clement, Charles (1892). Michelangelo . Harvard University, Digitized 25 June 2007: S. Low, Marston, Searle, & Rivington, ltd.: London . https://books.google.co.jp/books?id=G-sDAAAAYAAJ&printsec=frontcover&dq=michelangelo&redir_esc=y&hl=ja  
  • Condivi, Ascanio; Alice Sedgewick (1553). The Life of Michelangelo . Pennsylvania State University Press. ISBN   0-271-01853-4  
  • Baldini, Umberto; Liberto Perugi (1982). The Sculpture of Michelangelo . Rizzoli. ISBN   0-8478-0447-X . https://books.google.co.jp/books?id=pCEWAQAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja  
  • Einem, Herbert von (1973). Michelangelo . Trans. Ronald Taylor. London: Methuen.
  • Gilbert, Creighton (1994). Michelangelo On and Off the Sistine Ceiling . New York: George Braziller.
  • Hibbard, Howard (1974). Michelangelo . New York: Harper & Row.
  • Hirst, Michael and Jill Dunkerton. (1994) The Young Michelangelo: The Artist in Rome 1496?1501 . London: National Gallery Publications.
  • Liebert, Robert (1983). Michelangelo: A Psychoanalytic Study of his Life and Images . New Haven and London: Yale University Press. ISBN   0-300-02793-1  
  • Neret, Gilles (2000). Michelangelo . Taschen. ISBN   978-3-8228-5976-6  
  • Pietrangeli, Carlo, et al. (1994). The Sistine Chapel: A Glorious Restoration . New York: Harry N. Abrams
  • Sala, Charles (1996). Michelangelo: Sculptor, Painter, Architect . Editions Pierre Terrail. ISBN   978-2-87939-069-7  
  • Saslow, James M. (1991). The Poetry of Michelangelo: An Annotated Translation . New Haven and London: Yale University Press.
  • Rolland, Romain (2009). Michelangelo . BiblioLife. ISBN   1-110-00353-6  
  • Seymour, Charles, Jr. (1972). Michelangelo: The Sistine Chapel Ceiling . New York: W. W. Norton.
  • Stone, Irving (1987). The Agony and the Ecstasy . Signet. ISBN   0-451-17135-7  
  • Summers, David (1981). Michelangelo and the Language of Art . Princeton University Press.
  • Tolnay, Charles (1947). The Youth of Michelangelo . Princeton, NJ: Princeton University Press  
  • Tolnay, Charles de. (1964). The Art and Thought of Michelangelo . 5 vols. New York: Pantheon Books.
  • Wallace, William E. (2011). Michelangelo: The Artist, the Man and his Times . Cambridge University Press. ISBN   1-107-67369-0  
  • Wilde, Johannes (1978). Michelangelo: Six Lectures . Oxford: Clarendon Press.
  • フランク?ツォルナ?/クリストフ?テ?ネス/ト?マス?ペッパ? (2008年) "ミケランジェロ全作品集" TASCHEN. ISBN 978-4-88783-365-4

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]