高遠藩
(たかとおはん)は、
信濃?
(
南信地方
)
伊那郡
(現在の
長野?
伊那市
)
高遠
に所在した
藩
。居城は
高遠城
。
藩の前史
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高遠の地は
??時代
、
諏訪氏
の一族であった
高遠??
が治めていた。??が
武田信玄
(晴信)との?いで?落した後、高遠は
武田氏
の支配下に入る
。
後に信玄の5男で
勝?
の異母弟
仁科盛信
が高遠城主となり、
天正
10年(
1582年
)2月に
織田信長
による
甲州征伐
が開始されると、信濃の武田勢は次?と信長の嫡男
信忠
率いる織田軍に降伏していくが、高遠城を守る盛信のみは信忠の降伏?告を拒絶して果敢に抗?、織田軍は3月2日に高遠を攻?して1日で落城させ、城主盛信は自害した
。武田家は盛信の玉?で?崩れになり、勝?は3月11日に
天目山
で自害し、武田家は滅亡した。
その3ヵ月後の6月、
本能寺の?
が起こって信長?信忠が?死。信濃の織田勢は武田?臣の一揆で追放されて無主?態になると、
?川家康
?
北?氏直
?
上杉景勝
らによる?武田領をめぐる
天正壬午の?
が起こる。高遠は高遠氏の?臣
保科氏
が
?藤昌月
の支援を得て奪回し
、昌月の?父である
保科正俊
が城主となった。10月、正俊の子
正直
は家康に服?し、
伊那郡
2万5000石の所領を宛がわれた
。正直はその後、伊那箕輪の
藤??親
を降伏させた
。天正12年(
1584年
)に
小牧?長久手の?い
が起きると、家康は正直や
諏訪?忠
、
小笠原貞慶
ら信濃衆を木曾に派遣したがこの木曾攻めは成果を上げず、正直を抑えに?して撤退した
。天正13年(
1585年
)、家康と北?氏直の和睦の?件である
上野
沼田領の?渡問題で
?田昌幸
が家康から離反したため、家康は
大久保忠世
に正直ら信濃衆をつけて攻?するも
大敗して撤退。しかも11月に
石川?正
が?川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が高遠に攻?をかけるが、保科正俊が
?持除の?い
で退けた
。正直はその後、家康の異父妹
久松氏
と?戚となって勢力を伸ばし
、天正18年(
1590年
)の
小田原征伐
でも?川軍の後備えとして??した
。
後北?氏
が滅亡して家康が?東に移封されると、正直は家康に?って
下?
多胡
で1万石を?えられた
。
家康が?東に移ると、??川領は
豊臣秀吉
の家臣が入封することとなり、伊那には
毛利秀?
が10万石で入った
。甲州征伐の功により伊那郡を?えられて信長?後の混?で失領し、復?したものである
。秀?は入封した直後に3か?からなる??を?布して統治方針を示し、
太閤?地
も?施したが、?際の政務は勝?(姓不詳)と
篠治秀政
が??していた
。秀?は
文?
2年(
1593年
)に病死
。その妹?である
京極高知
が跡を?いだ。高知時代には
岩崎重次
が城代として統治を??したが、統治?制には不明な点が多い
。
慶長
5年(
1600年
)の
?ヶ原の?い
で高知は東軍に?力して
岐阜城
攻略?に?加し、9月15日の?ヶ原本?にも?加した功績から
、?後に
丹後
宮津
に移封され、岩崎も甲斐に??した
。
藩史
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保科家の時代
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?ヶ原の?いの後、高遠には正直の子
正光
が2万5000石で入部したことにより高遠藩が成立した
。正光は慶長11年(
1606年
)の
江?城
石垣修理や5年後の堀普請、
大坂の陣
??など幕府に奉仕している
。しかし正光には嗣子が無かったので
、正光は第2代?軍?
?川秀忠
の?し子(生母が正室?
於江?
ではなかったため、その??に?れることを恐れた秀忠が正光に預けていた)である幸松こと
保科正之
を養育することになった。
元和
4年(
1618年
)には正之の養育料として
筑摩郡
に5000石を加?された
。
?永
6年(
1629年
)6月に正之は兄の第3代?軍
?川家光
と初?面し、
?永
8年(
1631年
)11月、正光の死により正之が家督と3万石を?いで?五位下肥後守に?任されたが
、この頃になると於江?が?に亡く、正之が秀忠の息子であることも周知の事?となったため、?川家光の計らいにより、正之は?永13年(
1636年
)7月に
出羽
山形藩
20万石に加?移封された
。
鳥居家の時代
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正之と入れ替わりで、山形より
鳥居忠春
が3万2000石(3万200石
)で入る。この忠春は?ヶ原の?いの前哨?である
伏見城の?い
で?死した
元忠
の孫である。鳥居家は元忠の?功やその子
忠政
の功績もあり、24万石まで?進していた。ところが忠政の子
忠恒
は病弱で公務が務まらず、しかも?嗣が無く33?で病死したので、
末期養子
の禁令に?れてしまい、鳥居家は山形24万石を??された
。しかし幕府は元忠の?功を認めて、忠恒の?弟忠春に3万200石を?えることで高遠藩に移封した
。
忠春は兄の時代に失った24万石を取り?そうと幕府の御用に?んだ
。だがそのために藩財政は大きな負?を伴い、忠春は財源確保のために
慶安
2年(
1649年
)に年貢を??したため、領民は生活困窮と賦役に耐え切れず、
承?
3年(
1654年
)6月に3000人の百姓が
尾張藩
領の木曾に逃散する事件も起きた
。また忠春自らも豪遊したりした
。?文2年(
1662年
)、忠春は侍??
松谷??
により斬りつけられ、それが原因で客死した
。
忠春の跡を?いだ子の
忠則
は、
元?
2年(
1689年
)2月に
江?城
馬場先御門の警備を??していた家臣
高坂?兵衛
が職務中、幕府御側衆の
平岡?恒
の屋敷を?いていたところを、平岡家の家臣に取り押さえられる事件が起こった(
高坂?兵衛事件
)
(高坂は主家に累が及ぶことを恐れ、取り調べ中に自害)。この事件で忠則は家中不取締の責任を追及されて
閉門
となり、その最中の7月に急死した(自害したといわれる)
。忠則の死により、鳥居家は再度
改易
となった
。
忠則の後?者であった
忠英
は、先祖元忠の?功により、1万石を?えられて
能登下村藩
を立藩している
。
?藤家の時代
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鳥居家改易後、高遠藩は?藩となり、元?4年(
1691年
)まで
天領
となった
。その後、
?藤?枚
が3万3000石で入る
。
第2代藩主?
?卿
の時代から財政難が始まり、藩政改革が試みられた。
正?
4年(
1714年
)3月の
江島生島事件
に?わり、高遠に流罪にされた?島の身柄を預かっている
。第3代藩主
?由
は藩士に?して俸?制を採用して財政問題解決に邁進した
。第5代藩主の
長好
は幼少で藩主になった事情もあるが、自らが頻繁に外出して遠?りや狩り、花火見物に視察などを繰り返して領民に負?をかけ、諸費用もかなりの額に上った
。
第7代藩主?
?寧
は博?多才で
、産物?所設置による産業??、?問の??、新田開?計?、藩直?の桑園??などに手腕を?揮して藩政改革に成功を?めた。幕政においても日米?係の上申書を提出したり、兵備を西洋式に改?して藩士に訓練させた
。
安政
6年(
1859年
)に最後の藩主となった
?藤?直
は、
藩校
である進?館の設立や
長州征伐
?加で活躍した。
慶?
4年(
1868年
)の
戊辰??
では新政府軍に?し、
北越??
?
?津??
に??した。明治2年(
1869年
)の
版籍奉還
で、?直は藩知事となる。そして明治4年(
1871年
)の
?藩置?
で高遠藩は?藩となって
高遠?
となり、同年12月には
筑摩?
に編入された。
社?
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農民
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鳥居家の時代に多?の百姓が逃散して藩?の田畑は無主?態が多くなり、荒?した
。このため鳥居家では
明?
2年(
1656年
)から2年がかりで?地を藩全土で?施し、貢租の確保を?った
。しかし鳥居家の2人の藩主はいずれも豪遊して藩財政を傾かせ、領民には重い賦役を課したようで現在に至るまで?多くの借用?文が?っており
、田畑を?保にしたり、自分の妻子や家族を質草にして借用した?文も存在している
。また?文9年(
1669年
)12月などに年貢が納められないので妻子を?保にするなど、わずかな借金で妻子や家族を質入れして領民の生活が苦しめられていた
。
?藤家の時代では藩主長好の領?生活が原因で?油など不必要な?費が浪費されて町民や農民の負?が?した
。このため
文政
5年(
1822年
)7月に
わらじ?動
(興津?動)、8月に
洗馬?動
と?される藩領一揆にまで?展した
。
軍隊
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?藤?寧は幕末の情勢を見て藩?の軍備を西洋化して藩士に訓練させ、領?で演習させた
。また
江川英龍
、
肥田金之助
、
?藤?九?
、
桂小五?
らを高遠に招聘したり藩士を派遣して訓練させている
。?藤?直の時、調練された軍隊は
長州征伐
、
戊辰??
における?津?越後??で官軍として出兵、越後??では若き日の
西園寺公望
の危急を救った
。
文化
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?寧の時代に文化が大いに?展した。?寧は
文政
年間に領民の?化策から?問所設立の必要性を痛感し
、?直の時代に
藩校
進?館
が設立された
。また多くの文人??者らを?寧は招聘した。茶道?調理術?能??書?など多芸に通じ、高遠藩は?寧の時代に全盛になり、次代の?直にも受け?がれた。
産業???
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農民の生活は困窮し藩財政も逼迫した。このため年貢??などを試みるも、譜代?藤家は幕府の公務に?加することが多くそのために出費は多かった
。さらに文政3年(
1820年
)の旱魃、翌年の天候不順などで計2万5000石の損害を受け、財政は破綻に近い?態にまで追い?まれていた
。このため農民に御用金を課すことで解決を?るもわらじ?動が?生して失敗し、藩は不正を?いた
郡代
興津紋左衛門を?分した
。
重臣
岡村忠輔
は
天保
3年(
1832年
)2月に産物?所を設置して殖産興業政策を?る
。農閑期に?草を採取させて他?に?り出し、木綿業を製作させて資金の乏しい者には貸付を行なった
。また
弘化
年間には
高遠?
を再興させた
。産物?所には機織所を設けて絹織業の?展に寄?している
。
?藤家の石高は3万3000石であるが、これは高遠の農業生産力の限界に近い値であった
。このため年貢率は4割5分から5割を推移し
、豪商農層からの御用金、領?の林にかかる?金など諸?で財政は支えられていた
。このため藩士の俸?を下げたり、
?見法
から
定免法
への?換も行なわれている
。文政9年(
1826年
)には財政再建のために豪農四名を採用しての藩財政再建政策が試みられるも失敗し、
幕末
にも
和宮
降嫁による負?などで高遠は苦しかった。
年表
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- 1545年
- 高遠??、武田晴信に敗れて追放。高遠は武田領に。
- 1582年
- 織田信忠に攻められて高遠城落城。城主仁科盛信自害。
- 1590年
- 豊臣秀吉家臣の毛利秀?が入封。
- 1593年
- 秀?病死。?の京極高知が入封。
- 1600年
-
?ヶ原の?い
で高知は丹後宮津へ。?川家臣の保科正光が入封し高遠藩成立
- 1631年
- 正光死去。養子正之が新藩主に。
- 1636年
- 正之、出羽山形20万石に移封。鳥居忠春が入封。
- 1689年
- 高坂?兵衛事件。鳥居忠則急死して改易。天領に。
- 1691年
- ?藤?枚、3万3000石で入封。
- 1714年
- ?島生島事件で?島を預けられる。
- 1822年
- わらじ?動、洗馬?動
- 1869年
- 版籍奉還で?藤?直、知藩事に。
- 1871年
- ?藩置?。高遠藩消滅。
?代藩主
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保科家
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譜代
2万5000石→3万石
- 正光
(まさみつ)?五位下。肥後守。
- 正之
(まさゆき)正四位下。肥後守。左近衛中?。
鳥居家
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譜代 3万2000石
- 忠春
(ただはる)?五位下。主膳正。
- 忠則
(ただのり)?五位下。左京亮。
?藤家
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]
譜代 3万3000石
- ?枚
(きよかず)?五位下。丹後守。
- ?卿
(よりのり)?五位下。伊賀守。
- ?由
(よりゆき)?五位下。大和守。
- ??
(よりたか)?五位下。伊賀守。
- 長好
(ながよし)?五位下。大和守。
- ?以
(よりもち)?五位下。大和守。
- ?寧
(よりやす)?五位下。大和守。
- ?直
(よりなお)?五位下。大和守。
幕末の領地
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江?屋敷
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元?11年(1698年)、
甲州街道
に面した藩の中屋敷の一部が?公され、
?藤新宿
(現在の
新宿?
?藤町
)として?展した。上屋敷は神田元鷹匠町(現在の
千代田?
神田小川町
)、下屋敷は下?谷村(現在の
?谷?
?比?
)に存在した。
脚注
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]
?考文?
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]
?連項目
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]
外部リンク
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北海道地方
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東北地方
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?東地方
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北陸?甲信地方
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中部地方
| |
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近畿地方
| |
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中?地方
| |
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四?地方
| |
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九州地方
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?連項目
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藩?の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移?している藩もある。順番は『
三百藩戊辰??事典
』による。
明治期の?更: ★=新設、●=?止、○=移??改?、▲=任知藩事前に
本藩
に?合。()?は移??改???合後の藩名。()のないものは?に編入。
|