西突厥

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西突厥可汗?
(On-oq)
突厥 582年 - 741年 突騎施
カルルク
回鶻
ハザール
西突厥の位置
7世紀、西突厥の最大版?
公用語 古テュルク語 [1] ( テュルク諸語 のひとつ)
首都 スイアブ (三?山)
千泉
鏃曷山の西(北庭)
?合水の北(南庭)
可汗
581年 - 587年 阿波可汗
619年 頃 - 628年 統葉護可汗
651年 - 657年 阿史那賀魯
?遷
突厥より?立 582年
唐の支配下 657年
滅亡 741年

西突厥 (にしとっけつ、せいとっけつ)は、 582年 突厥 が東西に分裂した際の西側の勢力。これに?し東の勢力を 東突厥 という。

西突厥は 中央アジア を支配し、東は アルタイ山脈 、南は タリム盆地 ? トハリスタン 、西は カスピ海 までをその版?とした。 657年 、西可汗の 阿史那賀魯 に捕らえられて以降、西突厥は唐の 羈?政策 下に入った。 741年 頃に西突厥の 阿史那氏 が滅ぶと、その後は 突騎施 や葛邏?( カルルク )が??を握るようになった。西突厥は別に 十姓 (オン?オク、on-oq、 [2] )とも呼ばれた。

?史 [ 編集 ]

以下の記述は『 ?唐書 』(列?第百四十四下 突厥下)?『 新唐書 』(列?百四十下 西突厥)に依るもの。

西面突厥 [ 編集 ]

突厥の 伊利可汗 (在位: 552年 )は 柔然 から?立すると、 シル川 方面に弟の 室點蜜 を配置し、西方の守備と攻略を任せた。

木汗可汗 (在位: 553年 - 572年 )の代になり、室點蜜は サ?サ?ン朝 と協同で エフタル の攻略に?り出し、 567年 頃までにエフタルを滅ぼした。

576年 頃に室點蜜が亡くなったため、子の?厥(てんけつ)はその後を?いで、 達頭可汗 (西面可汗)に任ぜられ、 中央アジア の統治を任された。

??と東西分裂 [ 編集 ]

581年 、大可汗の 他鉢可汗 (タトパル?カガン、在位: 572年 - 581年 )は病にかかり、子の 菴羅 に「 大邏便 を避けよ」と言い?して死去した。?中は大邏便を立てようとしたが、その母が卑賤の生まれだったので、?人たちは貴人の母をもつ菴羅を可汗とした。大邏便はまたも可汗位に就けなかったので、?回人を遣わして菴羅を罵辱させた。これに??しきれなかった菴羅は可汗位を?兄の爾伏可汗(ニワル?カガン)??に?り、第二可汗に退いた。可汗に?位した??は 沙鉢略可汗 (在位: 581年 - 587年 )となり、大邏便に 阿波可汗 の??を?えた。

582年 冬、 文帝 は河間王 楊弘 ? 上柱? 豆盧勣 ? 竇?定 ? 左僕射 高? ? 右僕射 虞慶則 元帥 とし、 長城 を出て征討に出た。沙鉢略可汗は阿波可汗? 貪汗可汗 らを率いて迎?するが、敗走し、飢えと疫病に?まされ、あえなく撤退した。沙鉢略可汗は阿波可汗の?性が荒いのを危?し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲?し、阿波可汗の母を殺した。これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の達頭可汗のもとへ亡命した。このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に10万の兵をつけて沙鉢略可汗を攻?させた。このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の?弟の地勤察などが沙鉢略可汗から離反し、阿波可汗に附いた。これによって阿波可汗は突厥から分かれて西突厥を建?し、 西域 諸?を?えた。

587年 、沙鉢略可汗が亡くなり、 東突厥 葉護可汗 (ヤブグ?カガン、在位: 587年 )が?位すると、隋の支援により西突厥が攻?され、阿波可汗は捕えられた。

7世紀初めの東西突厥可汗?。

泥??羅可汗 (在位: 603年 頃 - 612年 )の代になり、西突厥は彼の失政のために諸?の離反を招いた。 大業 6年( 610年 )、隋の 煬帝 は泥??羅可汗を狩りに誘ったが、泥??羅可汗がこれに?じなかったため、煬帝の怒りを買い、煬帝は泥??羅可汗を?して達頭可汗の孫の射?を大可汗の位に就けようとした。これによって射?は泥??羅可汗を襲?して大敗させ、泥??羅可汗は妻子を棄てて 高昌 の東に遁走した。 ?門侍? 裴矩 は向氏を送って泥??羅可汗を諭し、隋に?順させた。これ以降、泥??羅可汗は中?に移住し、 高句麗遠征 などに?軍し、隋のために?いた。

一方、西突厥の本?では大可汗が不在となったため、?人たちは射?を可汗に推戴し、 射?可汗 (在位: 612年 - 619年 頃)とした。射?可汗は?位すると、一度離反した西域諸?をふたたび服?させるべく、東は金山( アルタイ山脈 )、西は海( カスピ海 ?)に至り、 玉門? より西の諸?をすべて役?させ、東突厥と敵?した。そして可汗庭(首都)を ?? の北の三?山に建てた。

最盛期 [ 編集 ]

射?可汗が死去すると、弟の統葉護(トン?ヤブグ)が立って大可汗(在位: 619年 頃 - 628年 )となる。 統葉護可汗 は智謀があり、武勇に優れ、遂に北の ?勒 を?合し、西の波斯( サ?サ?ン朝 )を拒み、南の ?賓 (けいひん)と境を接するまでになり、西域に覇を唱えた。西域の諸?王は?利?(イルテベル:官名)の官位を授かり、統葉護可汗は吐屯(トゥドゥン:官名)1人を派遣して統括させ、その征賦を監督した。? 烏孫 の地に?り、可汗庭(首都)を 石? (チャ?シュ:現 タシュケント )の北の千泉(ビルキ? birk?:現 ジャンブ?ル州 メルキ)に移した。

時に中?では隋が滅んで が成立しており、統葉護可汗はたびたび遣使を送って朝貢した。また、隣?の東突厥とも和睦し、一時 中央ユ?ラシア に平和が訪れた。しかし、統葉護可汗は次第に自?が?盛であるのを自負し、支配下の?に恩がなく、部衆は怨みを抱き始め、遂に葛邏?( カルルク )種の多くがこれに離反した。そうした中、 貞? 2年( 628年 )、統葉護可汗は伯父の莫賀?(バガテュル)に殺され、可汗位を簒奪されてしまう。

2可汗?立 [ 編集 ]

貞?2年( 628年 )、小可汗であった統葉護可汗の伯父(諸父)の莫賀?は統葉護可汗を殺し、自ら大可汗となり、 莫賀?侯屈利俟毘可汗 (在位: 628年 - 630年 )と?した。しかし、西突厥の?人たちはこれに臣?せず、 弩失畢部 は共に 泥孰莫賀設 を推して可汗にしようとするが、泥孰は?わなかった。時に統葉護可汗の子の?力特勤は莫賀?の難を避けて 康居 に亡命していたので、泥孰は彼を迎えて立て、 肆葉護可汗 (在位: 628年 - 632年 )とした。?者は遣使を唐に送って、各?朝貢した。

貞?4年( 630年 )、莫賀?可汗は唐に求婚した。 太宗 は西突厥の??が?まっていないということで求婚を許さなかった。そのころ、西域諸?及び?勒は以前から西突厥に役?していたが、これに?じてことごとく叛いたので、西突厥??は?耗した。肆葉護可汗は?主の子ということで、衆心を?服させ、西面の都陸可汗や莫賀?可汗の部豪帥の多くがこれに臣?してきた。そこで肆葉護可汗は兵を興して莫賀?可汗を?ち、これを大敗させた。莫賀?可汗は金山(アルタイ山脈)に遁走し、泥孰に殺された。ここでようやく西突厥の?人たちは肆葉護可汗を奉じて正式に大可汗とした。肆葉護可汗はさっそく大?兵して北の?勒を征伐した。しかし、?勒の 薛延陀部 はこれを迎?し、逆に肆葉護可汗を破った。

時に肆葉護可汗の性格は猜?信讒で、人?を統率する能力がなかった。そうした中、小可汗の乙利可汗(イリ?カガン)にあらぬ疑いをかけ、その一族を滅ぼした。これにより民衆の心は次第に離れていった。さらに、肆葉護可汗はもともと自分の?位に協力してくれた泥孰を憚っていたが、密かに彼を排除しようと考えるようになり、それを事前に察知した泥孰は 焉耆 ?に亡命した。こうしたことが積って、設卑達干(?卑達干)が?陸?弩失畢二部の豪帥らと?謀して肆葉護可汗を?ち、肆葉護可汗は?騎で康居に遁走することになったが、まもなく死去した。

?陸可汗 [ 編集 ]

貞?6年( 632年 )、泥孰は肆葉護可汗に命を狙われ、焉耆?へ亡命した。一方で肆葉護可汗の暴虐ぶりに耐えかねた設卑達干(?卑達干)は、弩失畢部の諸豪と肆葉護可汗の?位を謀り、遂に肆葉護可汗を放逐した。これにより西突厥の?人たちは泥孰を焉耆で迎えて?位させ、 ?陸可汗 (在位: 632年 - 634年 )とした。?陸可汗は大可汗となると、さっそく唐へ遣使を送って臣下の?をとった。

貞?8年( 634年 )、?陸可汗が 卒去 すると、弟の同娥設が立って 沙鉢羅?利失可汗 (在位: 634年 - 639年 )に?位した。

沙鉢羅?利失可汗は部衆に?服されず、遂に離反されてしまい、統吐屯(トン?トゥドゥン:官名)に襲われ、麾下は亡散した。沙鉢羅?利失可汗は弟の?利設のもとへ逃れ、焉耆?に立てこもった。阿悉結(アスケ?ル)部の闕俟斤(キュル?イルキン:官名)は統吐屯らと?人を召して、欲谷設(ユクク?シャド:官名)を立てて大可汗とし、沙鉢羅?利失可汗を小可汗にしようとした。しかし、統吐屯が殺され、欲谷設の兵もその俟斤(イルキン:官名)に破られたので、沙鉢羅?利失可汗はふたたび?地を取り?し、弩失畢部??密部などが沙鉢羅?利失可汗に?順することとなった。

2度目の2可汗?立 [ 編集 ]

貞?12年( 638年 )、西部竟は欲谷設を立てて 乙毘?陸可汗 (在位: 638年 - 653年 )とした。乙毘?陸可汗が立つと、沙鉢羅?利失可汗と大規模な??に入り、?軍の多くが死に、各?撤退した。これ( イリ川?約 英語版 )によって、沙鉢羅?利失可汗と二分し、伊麗河( イリ川 )以西は乙毘?陸可汗に?し、伊麗河以東は沙鉢羅?利失可汗に?した。乙毘?陸可汗は可汗庭(首都)を鏃曷山の西に建て、北庭とした。厥越失??悉蜜(バシュミル)?駁馬?結骨(キルギズ)?火尋??木昆(?木昆)の諸?は皆これに臣?した。

貞?13年(639年)、沙鉢羅?利失可汗の吐屯俟利?(トゥドゥン?イルテベル:官名)は乙毘?陸可汗と密通し造反した。沙鉢羅?利失可汗は?汗那?に逃れたが死去した。弩失畢部落の酋帥は沙鉢羅?利失可汗の弟の伽那の子である薄布特勤を迎えてこれを立てて、 乙毘沙鉢羅葉護可汗 (在位: 640年 - 641年 )とした。

乙毘沙鉢羅葉護可汗は、 碎葉水 (スイアブ川)の北に可汗庭(首都)を建て、これを南庭とした。東は伊麗河(イリ川)をもって境界とし、 ?? ?? ?善 ?? 且末 ?? 吐火羅 ?? 焉耆 ?? 石? ? 史? ? 何? ? 穆? ? 康? から節度を受けた。乙毘沙鉢羅葉護可汗はしきりに唐へ遣使を送って朝貢した。

貞?15年( 641年 )、この頃西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘?陸可汗が頻繁に攻?し合っていたので、太宗は乙毘?陸可汗が遣使を送って宮闕に詣でて?た時に、和睦するよう?得した。この時の乙毘?陸可汗の兵衆は次第に?盛となっていったので、西域諸?はふたたびこれに?服した。しばらくして、乙毘?陸可汗は石?に吐屯(トゥドゥン:官名)を派遣して、乙毘沙鉢羅葉護可汗を攻?させた。乙毘沙鉢羅葉護可汗は捕えられ、乙毘?陸可汗のもとへ送られて殺された。

再統一 [ 編集 ]

貞?15年(641年)、乙毘?陸可汗配下の屋利?らは謀って乙毘?陸可汗を?位しようと考え、唐に遣使を送ってきて新たな可汗を立てるよう請願した。太宗は遣使を送り、莫賀?乙毘可汗の子を立てて、 乙毘射?可汗 (在位: 641年 - 651年 )とした。

乙毘射?可汗は?位すると、弩失畢部の兵を?し、白水胡城にて乙毘?陸可汗を?った。弩失畢部の兵が敗れたが、乙毘?陸可汗は民から見離されたことを知り、西の吐火羅?へ亡命した。

貞?23年( 649年 )2月、中?の使者が以前から乙毘?陸可汗に拘束されていたので、乙毘射?可汗はことごとく?資をもって 長安 に送り?し、ふたたび遣使を送って方物を貢納し、請婚した。太宗はこれを許可し、詔令で??? 于? ? 疏勒 ? 朱?波 ? ?嶺 の五?を分割し、聘?(結納品)とした。5月、太宗が 崩御 すると、 阿史那賀魯 が反?を起こし、乙毘射?可汗の部落はそれに?合された。

阿史那賀魯 [ 編集 ]

永徽 2年( 651年 )、阿史那賀魯は子の阿史那?運とともに衆を率いて西に逃れ、乙毘?陸可汗の地に?り、 西域 諸郡を?有し、牙を雙河(ボロ川)及び千泉に建てて自ら沙鉢羅可汗(イシュバラ?カガン)と?し、?陸?弩失畢の十姓を統領した。兵?10万を擁し、西域諸?の多くが附?した。阿史那賀魯は阿史那?運を立てて莫賀?葉護(バガテュル?ヤブグ:官名)とし、たびたび 西蕃 諸部を侵掠し、 庭州 を寇掠した。

?慶 2年( 657年 )、 高宗 は右屯衛?軍の 蘇定方 ?燕然都護の 任雅相 ?副都護の 蕭嗣業 ?左驍衛大?軍?瀚海都督の?紇 婆閏 らに軍を率いて討?させ、右武衛大?軍の 阿史那?射 、左屯衛大?軍の 阿史那?? に安撫大使とさせた。蘇定方が曳?河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡?居闕?など2万余騎を率いて迎え?った。蘇定方は副?管の任雅相らを率いてこれと交?し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡?居闕?の?騎は遁走し、伊麗河(イリ川)を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本?を突き、阿史那?射は進軍し、伊麗河(イリ川)に至り、?月??密などの部落は各?衆を率いて?降した。阿史那?射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に?失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ?った。阿史那?射?阿史那??はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を碎葉水(スイアブ川)で攻め、これも大破した。

7世紀 、西突厥崩?後の周??。Eastern Gokturk Khanate= 東突厥 (第二可汗?)、Tang Dynasty= 、Kimak Turks= キメク 、Karluk Turks= カルルク 、Guzz Turks= オグズ

阿史那賀魯は阿史那?運と鼠?設のもとに身を寄せようと思い、石?の蘇?城近?まで?たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネル?タルカン:官名)は酒?食料を持って?って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城?に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石?に到着すると鼠?設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて 崑陵 ? ?池 の2都護府を置き、諸?を役?することとなり、州府を分けて置き、西は波斯( サ?サ?ン朝 )、 安西都護府 に隷?した。これにより西突厥は唐の 羈?政策 下に入る。

羈?(きび)政策下 [ 編集 ]

羈?政策下では、阿史那賀魯征討に功のあった阿史那?射?阿史那??の2人によって西突厥諸部が統括され、その?家が代?可汗位を襲名し、唐の反???などに?加した。

長? 年間( 692年 - 694年 )に?射家の興昔亡可汗が途絶え、 741年 頃には、??家である十姓可汗の 阿史那昕 突騎施 (テュルギシュ)の 莫賀達干 (バガ?タルカン)に殺されると、西突厥の阿史那氏可汗が滅亡し、西突厥では突騎施部が台頭する。以後、突騎施部は ?姓 ?姓 に分かれて互いに?うようになった。

大? 年間( 766年 ? 779年 )の後は、葛邏?( カルルク )族が盛んになり、?姓と?姓の突騎施二姓は葛邏?に臣?し、その他は 回? (ウイグル)に附くこととなり、ここにおいて西突厥は完全に滅んだ。

習俗 [ 編集 ]

習俗はほぼ 突厥 東突厥 と同じだが、 言語 が少し異なる [3] 。?年五月八日には、祭神を行う。

政治?制 [ 編集 ]

以下の記述は『 ?唐書 』(列?第百四十四下 突厥下)?『 新唐書 』(列?百四十下 西突厥)に依るもの。

君主は大可汗を頂点に、二人の小可汗を東西に置き、東部は ?? ?(現在の クチャ市 )の北に本?を置き、西部は 石? (現在の タシュケント )の北に本?を置いた。政治?制は突厥や東突厥と同じで、葉護(ヤブグ:Yabγu)?特勤(テギン:Tagin)?俟??乙斤屈利??閻洪達??利?(イルテベル:Iltabar)?吐屯(トゥドゥン:Tudun)?俟斤(イルキン:Irkin)?達干(タルカン:Tarqan)などの官職があり、評議して?事をなした。首都である可汗庭は北と南にそれぞれ北庭と南庭を置いた。 統葉護可汗 (在位: 619年 頃 - 628年 )の時に可汗庭を石?の北の千泉(ビルキ? birk?:現 ジャンブ?ル州 メルキ)に移した。

構成民部族は多種で、?陸(都陸、テュルク:Turk)?弩失畢?葛邏?(カルルク:Qarluq)??月??密?哥舒などの諸種が?居し、 ?勒 (オグズ:Oγuz)???? 焉耆 カラシャ?ル )? 伊吾 ハミ )などの 西域 諸?を??とした。

沙鉢羅?利失可汗 (在位: 634年 - 639年 )の頃に西突厥は十部に分かれ、部ごとに設(シャド:?ad)が置かれ、設にはそれぞれ箭(せん)が授けられ、これを十設、または十箭と呼んだ。さらに十設を左右廂に分けて、碎葉水(スイアブ川)以東の五?陸部を五大?(チュル)、碎葉水以西の五弩失畢部を五大俟斤(イルキン)とした。

  • ?陸部の五大?(左廂)
    • ?木昆部の律?
    • 胡?屋部の闕?(キュル?チュル)
    • ??提部の暾?(トン?チュル)
    • 突騎施(テュルギシュ:Turgi?)部の賀邏施?(ガルシュ?チュル)
    • 鼠尼施部の?半?
  • 弩失畢部の五大俟斤(右廂)
    • 阿悉結(アスケ?ル:Ask?l)部の闕俟斤(キュル?イルキン:Kul-irkin)
    • 哥舒(コシュ:Qo?u)部の闕俟斤
    • ?塞干(バルスカ?ン:Barskh?n)部の暾沙鉢俟斤(トン?イシュバラ?イルキン)
    • 阿悉結部の泥孰俟斤
    • 哥舒部の?半俟斤

その後、一箭を一部落と?したり、大箭頭は大首領と?したりして、これらを?じて 十姓部落 と?した。

地理 [ 編集 ]

西突厥はかつて 烏孫 のいた地域(現在の カザフスタン 南部)に在り、東は金山( アルタイ山脈 )を境に東突厥と接し、西は雷?海( アラル海 )、北は瀚海( バルハシ湖 ?)に面し、南は 疏勒 ?と接した。 [4]

?代君主 [ 編集 ]

以下の記述は『 ?唐書 』(列?第百四十四下 突厥下)?『 新唐書 』(列?百四十下 西突厥)に依るもの。

西面可汗 [ 編集 ]

  1. 室点蜜 (イステミ、室点密可汗、瑟帝米)( 562年 - 576年 )…吐務の子、伊利可汗の弟
  2. 達頭可汗 (タルドゥシュ?カガン、?厥、?迦可汗)( 576年 - 603年 )…室点蜜の子、610年頃死去

西突厥 [ 編集 ]

  1. 阿波可汗 (アパ?カガン、大邏便)( 581年 - 587年 )… 木汗可汗 の子
  2. 泥利可汗 (ニリ?カガン)( 587年 ) …?素特勤の子、木汗可汗の孫 [5]
  3. 泥??羅可汗 (達漫)( 587年 - 611年 )…泥利可汗の子
  4. 射?可汗 611年 - 619年 )…達頭可汗の孫、?羅可汗の叔父
  5. 統葉護可汗 (トン?ヤブグ?カガン)( 619年 - 628年 )…射?可汗の弟
  6. 乙毗沙鉢羅肆葉護可汗 (?力特勤)( 628年 - 632年 )…統葉護可汗の子
  7. ?陸可汗 (テュルク?カガン、泥孰、莫賀設)( 632年 - 634年 )…莫賀設の子
  8. 沙鉢羅?利失可汗 (イシュバラ?テリシュ?カガン、同娥設)( 634年 - 639年 )…泥孰の弟
  9. 乙屈利失乙毗可汗 (莫賀?乙毗可汗、バガテュル?イルビ?カガン)( 639年 - 640年 )…沙鉢羅?利失可汗の子
  10. 乙毗沙鉢羅葉護可汗 (イルビ?イシュバラ?ヤブグ?カガン、薄布特勤、畢賀?葉護)( 640年 - 641年 )…?利失可汗の弟(伽那)の子
  11. 乙毗射?可汗 641年 - 651年 )…莫賀?乙毗可汗の子
  12. 沙鉢羅可汗(イシュバラ?カガン、 阿史那賀魯 )( 651年 - 657年 )…曳?利設射?特勤の子

羈?(きび)政策下 [ 編集 ]

?射家

  1. 興昔亡可汗( 阿史那?射 )( 657年 - 662年 )…室點密可汗の五代の孫、崑陵都護(唐の官職、以下同?)
  2. 興昔亡可汗( 阿史那元慶 )( 685年 - 693年 )…?射の子、左豹韜衛翊府中??、崑陵都護
  3. 興昔亡可汗( 阿史那? )…元慶の子、崑陵都護

??家

  1. ?往絶可汗( 阿史那?? )( 657年 - 666/667年)…?射の族兄、?池都護
  2. 竭忠事主可汗( 阿史那斛瑟羅 )( 686年 - 690年)…??の子、?池都護
  3. 十姓可汗( 阿史那?道 )…斛瑟羅の子、?池都護
  4. 十姓可汗( 阿史那昕 )( 740年 - 742年 )…?道の子

突騎施の政? [ 編集 ]

酋長(部族長)、可汗
  1. 烏質勒 (??郡王)(? - 706年 )…斛瑟羅の配下(莫賀達干)
  2. 娑葛 (金河郡王、十四姓可汗、?化可汗)(706年 - 709年 、可汗位: 708年 - 709年)…烏質勒の子
  3. 蘇? (忠順可汗)(709年 - 738年 、可汗位: 716年 - 738年)…娑葛の配下
  4. 莫賀達干 (バガ?タルカン)(738年 - 744年 、可汗位: 740年 - 744年)
  5. 伊里底蜜施骨??毘伽(イリテミシュ?クテュルク?ビルゲ、十姓可汗)(突騎施可汗: 742年 - ?、十姓可汗:744年 - ?)…?姓出身
  6. 移撥(イバル)(十姓可汗)(可汗位: 749年 - ?)
  7. 登里伊羅蜜施(テングリ?イルミシュ)(可汗位: 753年 - ?)…?姓可汗
  8. 阿多裴羅(アタ?ボイラ)(可汗位:? - ?)…?姓可汗

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 詳細は #習俗 を?照。
  2. ^ トニュクク碑文 』より。 は右から左へ?む(O-N-OQ)。
  3. ^ 『?唐書』列?第百四十四下「風俗大抵與突厥同,唯言語微差。」
  4. ^ 『?唐書』列?第百四十四下「其國?烏孫之故地,東至突厥國,西至雷?海,南至疏勒,北至瀚海,在長安北七千里。自焉耆國西北七日行,至其南庭;又正北八日行,至其北庭。」
  5. ^ 『昭蘇?石人碑文』

?考資料 [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]