- 西突厥可汗?
- (On-oq)
-
7世紀、西突厥の最大版?
-
西突厥
(にしとっけつ、せいとっけつ)は、
582年
に
突厥
が東西に分裂した際の西側の勢力。これに?し東の勢力を
東突厥
という。
西突厥は
中央アジア
を支配し、東は
アルタイ山脈
、南は
タリム盆地
?
トハリスタン
、西は
カスピ海
までをその版?とした。
657年
、西可汗の
阿史那賀魯
が
唐
に捕らえられて以降、西突厥は唐の
羈?政策
下に入った。
741年
頃に西突厥の
阿史那氏
が滅ぶと、その後は
突騎施
や葛邏?(
カルルク
)が??を握るようになった。西突厥は別に
十姓
(オン?オク、on-oq、
[2]
)とも呼ばれた。
?史
[
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]
以下の記述は『
?唐書
』(列?第百四十四下 突厥下)?『
新唐書
』(列?百四十下 西突厥)に依るもの。
西面突厥
[
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]
突厥の
伊利可汗
(在位:
552年
)は
柔然
から?立すると、
シル川
方面に弟の
室點蜜
を配置し、西方の守備と攻略を任せた。
木汗可汗
(在位:
553年
-
572年
)の代になり、室點蜜は
サ?サ?ン朝
と協同で
エフタル
の攻略に?り出し、
567年
頃までにエフタルを滅ぼした。
576年
頃に室點蜜が亡くなったため、子の?厥(てんけつ)はその後を?いで、
達頭可汗
(西面可汗)に任ぜられ、
中央アジア
の統治を任された。
??と東西分裂
[
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]
581年
、大可汗の
他鉢可汗
(タトパル?カガン、在位:
572年
-
581年
)は病にかかり、子の
菴羅
に「
大邏便
を避けよ」と言い?して死去した。?中は大邏便を立てようとしたが、その母が卑賤の生まれだったので、?人たちは貴人の母をもつ菴羅を可汗とした。大邏便はまたも可汗位に就けなかったので、?回人を遣わして菴羅を罵辱させた。これに??しきれなかった菴羅は可汗位を?兄の爾伏可汗(ニワル?カガン)??に?り、第二可汗に退いた。可汗に?位した??は
沙鉢略可汗
(在位:
581年
-
587年
)となり、大邏便に
阿波可汗
の??を?えた。
582年
冬、
隋
の
文帝
は河間王
楊弘
?
上柱?
の
豆盧勣
?
竇?定
?
左僕射
の
高?
?
右僕射
の
虞慶則
を
元帥
とし、
長城
を出て征討に出た。沙鉢略可汗は阿波可汗?
貪汗可汗
らを率いて迎?するが、敗走し、飢えと疫病に?まされ、あえなく撤退した。沙鉢略可汗は阿波可汗の?性が荒いのを危?し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲?し、阿波可汗の母を殺した。これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の達頭可汗のもとへ亡命した。このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に10万の兵をつけて沙鉢略可汗を攻?させた。このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の?弟の地勤察などが沙鉢略可汗から離反し、阿波可汗に附いた。これによって阿波可汗は突厥から分かれて西突厥を建?し、
西域
諸?を?えた。
587年
、沙鉢略可汗が亡くなり、
東突厥
で
葉護可汗
(ヤブグ?カガン、在位:
587年
)が?位すると、隋の支援により西突厥が攻?され、阿波可汗は捕えられた。
泥??羅可汗
(在位:
603年
頃 -
612年
)の代になり、西突厥は彼の失政のために諸?の離反を招いた。
大業
6年(
610年
)、隋の
煬帝
は泥??羅可汗を狩りに誘ったが、泥??羅可汗がこれに?じなかったため、煬帝の怒りを買い、煬帝は泥??羅可汗を?して達頭可汗の孫の射?を大可汗の位に就けようとした。これによって射?は泥??羅可汗を襲?して大敗させ、泥??羅可汗は妻子を棄てて
高昌
の東に遁走した。
?門侍?
の
裴矩
は向氏を送って泥??羅可汗を諭し、隋に?順させた。これ以降、泥??羅可汗は中?に移住し、
高句麗遠征
などに?軍し、隋のために?いた。
一方、西突厥の本?では大可汗が不在となったため、?人たちは射?を可汗に推戴し、
射?可汗
(在位:
612年
-
619年
頃)とした。射?可汗は?位すると、一度離反した西域諸?をふたたび服?させるべく、東は金山(
アルタイ山脈
)、西は海(
カスピ海
?)に至り、
玉門?
より西の諸?をすべて役?させ、東突厥と敵?した。そして可汗庭(首都)を
??
の北の三?山に建てた。
最盛期
[
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]
射?可汗が死去すると、弟の統葉護(トン?ヤブグ)が立って大可汗(在位:
619年
頃 -
628年
)となる。
統葉護可汗
は智謀があり、武勇に優れ、遂に北の
?勒
を?合し、西の波斯(
サ?サ?ン朝
)を拒み、南の
?賓
(けいひん)と境を接するまでになり、西域に覇を唱えた。西域の諸?王は?利?(イルテベル:官名)の官位を授かり、統葉護可汗は吐屯(トゥドゥン:官名)1人を派遣して統括させ、その征賦を監督した。?
烏孫
の地に?り、可汗庭(首都)を
石?
(チャ?シュ:現
タシュケント
)の北の千泉(ビルキ? birk?:現
ジャンブ?ル州
メルキ)に移した。
時に中?では隋が滅んで
唐
が成立しており、統葉護可汗はたびたび遣使を送って朝貢した。また、隣?の東突厥とも和睦し、一時
中央ユ?ラシア
に平和が訪れた。しかし、統葉護可汗は次第に自?が?盛であるのを自負し、支配下の?に恩がなく、部衆は怨みを抱き始め、遂に葛邏?(
カルルク
)種の多くがこれに離反した。そうした中、
貞?
2年(
628年
)、統葉護可汗は伯父の莫賀?(バガテュル)に殺され、可汗位を簒奪されてしまう。
2可汗?立
[
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]
貞?2年(
628年
)、小可汗であった統葉護可汗の伯父(諸父)の莫賀?は統葉護可汗を殺し、自ら大可汗となり、
莫賀?侯屈利俟毘可汗
(在位:
628年
-
630年
)と?した。しかし、西突厥の?人たちはこれに臣?せず、
弩失畢部
は共に
泥孰莫賀設
を推して可汗にしようとするが、泥孰は?わなかった。時に統葉護可汗の子の?力特勤は莫賀?の難を避けて
康居
に亡命していたので、泥孰は彼を迎えて立て、
肆葉護可汗
(在位:
628年
-
632年
)とした。?者は遣使を唐に送って、各?朝貢した。
貞?4年(
630年
)、莫賀?可汗は唐に求婚した。
太宗
は西突厥の??が?まっていないということで求婚を許さなかった。そのころ、西域諸?及び?勒は以前から西突厥に役?していたが、これに?じてことごとく叛いたので、西突厥??は?耗した。肆葉護可汗は?主の子ということで、衆心を?服させ、西面の都陸可汗や莫賀?可汗の部豪帥の多くがこれに臣?してきた。そこで肆葉護可汗は兵を興して莫賀?可汗を?ち、これを大敗させた。莫賀?可汗は金山(アルタイ山脈)に遁走し、泥孰に殺された。ここでようやく西突厥の?人たちは肆葉護可汗を奉じて正式に大可汗とした。肆葉護可汗はさっそく大?兵して北の?勒を征伐した。しかし、?勒の
薛延陀部
はこれを迎?し、逆に肆葉護可汗を破った。
時に肆葉護可汗の性格は猜?信讒で、人?を統率する能力がなかった。そうした中、小可汗の乙利可汗(イリ?カガン)にあらぬ疑いをかけ、その一族を滅ぼした。これにより民衆の心は次第に離れていった。さらに、肆葉護可汗はもともと自分の?位に協力してくれた泥孰を憚っていたが、密かに彼を排除しようと考えるようになり、それを事前に察知した泥孰は
焉耆
?に亡命した。こうしたことが積って、設卑達干(?卑達干)が?陸?弩失畢二部の豪帥らと?謀して肆葉護可汗を?ち、肆葉護可汗は?騎で康居に遁走することになったが、まもなく死去した。
?陸可汗
[
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]
貞?6年(
632年
)、泥孰は肆葉護可汗に命を狙われ、焉耆?へ亡命した。一方で肆葉護可汗の暴虐ぶりに耐えかねた設卑達干(?卑達干)は、弩失畢部の諸豪と肆葉護可汗の?位を謀り、遂に肆葉護可汗を放逐した。これにより西突厥の?人たちは泥孰を焉耆で迎えて?位させ、
?陸可汗
(在位:
632年
-
634年
)とした。?陸可汗は大可汗となると、さっそく唐へ遣使を送って臣下の?をとった。
貞?8年(
634年
)、?陸可汗が
卒去
すると、弟の同娥設が立って
沙鉢羅?利失可汗
(在位:
634年
-
639年
)に?位した。
沙鉢羅?利失可汗は部衆に?服されず、遂に離反されてしまい、統吐屯(トン?トゥドゥン:官名)に襲われ、麾下は亡散した。沙鉢羅?利失可汗は弟の?利設のもとへ逃れ、焉耆?に立てこもった。阿悉結(アスケ?ル)部の闕俟斤(キュル?イルキン:官名)は統吐屯らと?人を召して、欲谷設(ユクク?シャド:官名)を立てて大可汗とし、沙鉢羅?利失可汗を小可汗にしようとした。しかし、統吐屯が殺され、欲谷設の兵もその俟斤(イルキン:官名)に破られたので、沙鉢羅?利失可汗はふたたび?地を取り?し、弩失畢部??密部などが沙鉢羅?利失可汗に?順することとなった。
2度目の2可汗?立
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]
貞?12年(
638年
)、西部竟は欲谷設を立てて
乙毘?陸可汗
(在位:
638年
-
653年
)とした。乙毘?陸可汗が立つと、沙鉢羅?利失可汗と大規模な??に入り、?軍の多くが死に、各?撤退した。これ(
イリ川?約
(
英語版
)
)によって、沙鉢羅?利失可汗と二分し、伊麗河(
イリ川
)以西は乙毘?陸可汗に?し、伊麗河以東は沙鉢羅?利失可汗に?した。乙毘?陸可汗は可汗庭(首都)を鏃曷山の西に建て、北庭とした。厥越失??悉蜜(バシュミル)?駁馬?結骨(キルギズ)?火尋??木昆(?木昆)の諸?は皆これに臣?した。
貞?13年(639年)、沙鉢羅?利失可汗の吐屯俟利?(トゥドゥン?イルテベル:官名)は乙毘?陸可汗と密通し造反した。沙鉢羅?利失可汗は?汗那?に逃れたが死去した。弩失畢部落の酋帥は沙鉢羅?利失可汗の弟の伽那の子である薄布特勤を迎えてこれを立てて、
乙毘沙鉢羅葉護可汗
(在位:
640年
-
641年
)とした。
乙毘沙鉢羅葉護可汗は、
碎葉水
(スイアブ川)の北に可汗庭(首都)を建て、これを南庭とした。東は伊麗河(イリ川)をもって境界とし、
??
??
?善
??
且末
??
吐火羅
??
焉耆
??
石?
?
史?
?
何?
?
穆?
?
康?
から節度を受けた。乙毘沙鉢羅葉護可汗はしきりに唐へ遣使を送って朝貢した。
貞?15年(
641年
)、この頃西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘?陸可汗が頻繁に攻?し合っていたので、太宗は乙毘?陸可汗が遣使を送って宮闕に詣でて?た時に、和睦するよう?得した。この時の乙毘?陸可汗の兵衆は次第に?盛となっていったので、西域諸?はふたたびこれに?服した。しばらくして、乙毘?陸可汗は石?に吐屯(トゥドゥン:官名)を派遣して、乙毘沙鉢羅葉護可汗を攻?させた。乙毘沙鉢羅葉護可汗は捕えられ、乙毘?陸可汗のもとへ送られて殺された。
再統一
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]
貞?15年(641年)、乙毘?陸可汗配下の屋利?らは謀って乙毘?陸可汗を?位しようと考え、唐に遣使を送ってきて新たな可汗を立てるよう請願した。太宗は遣使を送り、莫賀?乙毘可汗の子を立てて、
乙毘射?可汗
(在位:
641年
-
651年
)とした。
乙毘射?可汗は?位すると、弩失畢部の兵を?し、白水胡城にて乙毘?陸可汗を?った。弩失畢部の兵が敗れたが、乙毘?陸可汗は民から見離されたことを知り、西の吐火羅?へ亡命した。
貞?23年(
649年
)2月、中?の使者が以前から乙毘?陸可汗に拘束されていたので、乙毘射?可汗はことごとく?資をもって
長安
に送り?し、ふたたび遣使を送って方物を貢納し、請婚した。太宗はこれを許可し、詔令で???
于?
?
疏勒
?
朱?波
?
?嶺
の五?を分割し、聘?(結納品)とした。5月、太宗が
崩御
すると、
阿史那賀魯
が反?を起こし、乙毘射?可汗の部落はそれに?合された。
阿史那賀魯
[
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]
永徽
2年(
651年
)、阿史那賀魯は子の阿史那?運とともに衆を率いて西に逃れ、乙毘?陸可汗の地に?り、
西域
諸郡を?有し、牙を雙河(ボロ川)及び千泉に建てて自ら沙鉢羅可汗(イシュバラ?カガン)と?し、?陸?弩失畢の十姓を統領した。兵?10万を擁し、西域諸?の多くが附?した。阿史那賀魯は阿史那?運を立てて莫賀?葉護(バガテュル?ヤブグ:官名)とし、たびたび
西蕃
諸部を侵掠し、
庭州
を寇掠した。
?慶
2年(
657年
)、
高宗
は右屯衛?軍の
蘇定方
?燕然都護の
任雅相
?副都護の
蕭嗣業
?左驍衛大?軍?瀚海都督の?紇
婆閏
らに軍を率いて討?させ、右武衛大?軍の
阿史那?射
、左屯衛大?軍の
阿史那??
に安撫大使とさせた。蘇定方が曳?河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡?居闕?など2万余騎を率いて迎え?った。蘇定方は副?管の任雅相らを率いてこれと交?し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡?居闕?の?騎は遁走し、伊麗河(イリ川)を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本?を突き、阿史那?射は進軍し、伊麗河(イリ川)に至り、?月??密などの部落は各?衆を率いて?降した。阿史那?射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に?失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ?った。阿史那?射?阿史那??はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を碎葉水(スイアブ川)で攻め、これも大破した。
阿史那賀魯は阿史那?運と鼠?設のもとに身を寄せようと思い、石?の蘇?城近?まで?たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネル?タルカン:官名)は酒?食料を持って?って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城?に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石?に到着すると鼠?設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて
崑陵
?
?池
の2都護府を置き、諸?を役?することとなり、州府を分けて置き、西は波斯(
サ?サ?ン朝
)、
安西都護府
に隷?した。これにより西突厥は唐の
羈?政策
下に入る。
羈?(きび)政策下
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]
羈?政策下では、阿史那賀魯征討に功のあった阿史那?射?阿史那??の2人によって西突厥諸部が統括され、その?家が代?可汗位を襲名し、唐の反???などに?加した。
長?
年間(
692年
-
694年
)に?射家の興昔亡可汗が途絶え、
741年
頃には、??家である十姓可汗の
阿史那昕
が
突騎施
(テュルギシュ)の
莫賀達干
(バガ?タルカン)に殺されると、西突厥の阿史那氏可汗が滅亡し、西突厥では突騎施部が台頭する。以後、突騎施部は
?姓
と
?姓
に分かれて互いに?うようになった。
大?
年間(
766年
?
779年
)の後は、葛邏?(
カルルク
)族が盛んになり、?姓と?姓の突騎施二姓は葛邏?に臣?し、その他は
回?
(ウイグル)に附くこととなり、ここにおいて西突厥は完全に滅んだ。
習俗
[
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]
習俗はほぼ
突厥
や
東突厥
と同じだが、
言語
が少し異なる
[3]
。?年五月八日には、祭神を行う。
政治?制
[
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]
以下の記述は『
?唐書
』(列?第百四十四下 突厥下)?『
新唐書
』(列?百四十下 西突厥)に依るもの。
君主は大可汗を頂点に、二人の小可汗を東西に置き、東部は
??
?(現在の
クチャ市
)の北に本?を置き、西部は
石?
(現在の
タシュケント
)の北に本?を置いた。政治?制は突厥や東突厥と同じで、葉護(ヤブグ:Yabγu)?特勤(テギン:Tagin)?俟??乙斤屈利??閻洪達??利?(イルテベル:Iltabar)?吐屯(トゥドゥン:Tudun)?俟斤(イルキン:Irkin)?達干(タルカン:Tarqan)などの官職があり、評議して?事をなした。首都である可汗庭は北と南にそれぞれ北庭と南庭を置いた。
統葉護可汗
(在位:
619年
頃 -
628年
)の時に可汗庭を石?の北の千泉(ビルキ? birk?:現
ジャンブ?ル州
メルキ)に移した。
構成民部族は多種で、?陸(都陸、テュルク:Turk)?弩失畢?葛邏?(カルルク:Qarluq)??月??密?哥舒などの諸種が?居し、
?勒
(オグズ:Oγuz)????
焉耆
(
カラシャ?ル
)?
伊吾
(
ハミ
)などの
西域
諸?を??とした。
沙鉢羅?利失可汗
(在位:
634年
-
639年
)の頃に西突厥は十部に分かれ、部ごとに設(シャド:?ad)が置かれ、設にはそれぞれ箭(せん)が授けられ、これを十設、または十箭と呼んだ。さらに十設を左右廂に分けて、碎葉水(スイアブ川)以東の五?陸部を五大?(チュル)、碎葉水以西の五弩失畢部を五大俟斤(イルキン)とした。
- ?陸部の五大?(左廂)
- ?木昆部の律?
- 胡?屋部の闕?(キュル?チュル)
- ??提部の暾?(トン?チュル)
- 突騎施(テュルギシュ:Turgi?)部の賀邏施?(ガルシュ?チュル)
- 鼠尼施部の?半?
- 弩失畢部の五大俟斤(右廂)
- 阿悉結(アスケ?ル:Ask?l)部の闕俟斤(キュル?イルキン:Kul-irkin)
- 哥舒(コシュ:Qo?u)部の闕俟斤
- ?塞干(バルスカ?ン:Barskh?n)部の暾沙鉢俟斤(トン?イシュバラ?イルキン)
- 阿悉結部の泥孰俟斤
- 哥舒部の?半俟斤
その後、一箭を一部落と?したり、大箭頭は大首領と?したりして、これらを?じて
十姓部落
と?した。
地理
[
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]
西突厥はかつて
烏孫
のいた地域(現在の
カザフスタン
南部)に在り、東は金山(
アルタイ山脈
)を境に東突厥と接し、西は雷?海(
アラル海
)、北は瀚海(
バルハシ湖
?)に面し、南は
疏勒
?と接した。
[4]
?代君主
[
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]
以下の記述は『
?唐書
』(列?第百四十四下 突厥下)?『
新唐書
』(列?百四十下 西突厥)に依るもの。
西面可汗
[
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]
- 室点蜜
(イステミ、室点密可汗、瑟帝米)(
562年
-
576年
)…吐務の子、伊利可汗の弟
- 達頭可汗
(タルドゥシュ?カガン、?厥、?迦可汗)(
576年
-
603年
)…室点蜜の子、610年頃死去
西突厥
[
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]
- 阿波可汗
(アパ?カガン、大邏便)(
581年
-
587年
)…
木汗可汗
の子
- 泥利可汗
(ニリ?カガン)(
587年
) …?素特勤の子、木汗可汗の孫
[5]
- 泥??羅可汗
(達漫)(
587年
-
611年
)…泥利可汗の子
- 射?可汗
(
611年
-
619年
)…達頭可汗の孫、?羅可汗の叔父
- 統葉護可汗
(トン?ヤブグ?カガン)(
619年
-
628年
)…射?可汗の弟
- 乙毗沙鉢羅肆葉護可汗
(?力特勤)(
628年
-
632年
)…統葉護可汗の子
- ?陸可汗
(テュルク?カガン、泥孰、莫賀設)(
632年
-
634年
)…莫賀設の子
- 沙鉢羅?利失可汗
(イシュバラ?テリシュ?カガン、同娥設)(
634年
-
639年
)…泥孰の弟
- 乙屈利失乙毗可汗
(莫賀?乙毗可汗、バガテュル?イルビ?カガン)(
639年
-
640年
)…沙鉢羅?利失可汗の子
- 乙毗沙鉢羅葉護可汗
(イルビ?イシュバラ?ヤブグ?カガン、薄布特勤、畢賀?葉護)(
640年
-
641年
)…?利失可汗の弟(伽那)の子
- 乙毗射?可汗
(
641年
-
651年
)…莫賀?乙毗可汗の子
- 沙鉢羅可汗(イシュバラ?カガン、
阿史那賀魯
)(
651年
-
657年
)…曳?利設射?特勤の子
羈?(きび)政策下
[
編集
]
?射家
- 興昔亡可汗(
阿史那?射
)(
657年
-
662年
)…室點密可汗の五代の孫、崑陵都護(唐の官職、以下同?)
- 興昔亡可汗(
阿史那元慶
)(
685年
-
693年
)…?射の子、左豹韜衛翊府中??、崑陵都護
- 興昔亡可汗(
阿史那?
)…元慶の子、崑陵都護
??家
- ?往絶可汗(
阿史那??
)(
657年
- 666/667年)…?射の族兄、?池都護
- 竭忠事主可汗(
阿史那斛瑟羅
)(
686年
- 690年)…??の子、?池都護
- 十姓可汗(
阿史那?道
)…斛瑟羅の子、?池都護
- 十姓可汗(
阿史那昕
)(
740年
-
742年
)…?道の子
突騎施の政?
[
編集
]
- 酋長(部族長)、可汗
- 烏質勒
(??郡王)(? -
706年
)…斛瑟羅の配下(莫賀達干)
- 娑葛
(金河郡王、十四姓可汗、?化可汗)(706年 -
709年
、可汗位:
708年
- 709年)…烏質勒の子
- 蘇?
(忠順可汗)(709年 -
738年
、可汗位:
716年
- 738年)…娑葛の配下
- 吐火仙
可汗(骨?、クチュル)(可汗位:738年 -
739年
)…蘇?の子
- 爾微特勤
(可汗位:738年 - 739年)…?姓可汗
- 莫賀達干
(バガ?タルカン)(738年 -
744年
、可汗位:
740年
- 744年)
- 伊里底蜜施骨??毘伽(イリテミシュ?クテュルク?ビルゲ、十姓可汗)(突騎施可汗:
742年
- ?、十姓可汗:744年 - ?)…?姓出身
- 移撥(イバル)(十姓可汗)(可汗位:
749年
- ?)
- 登里伊羅蜜施(テングリ?イルミシュ)(可汗位:
753年
- ?)…?姓可汗
- 阿多裴羅(アタ?ボイラ)(可汗位:? - ?)…?姓可汗
脚注
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- ^
詳細は
#習俗
を?照。
- ^
『
トニュクク碑文
』より。
は右から左へ?む(O-N-OQ)。
- ^
『?唐書』列?第百四十四下「風俗大抵與突厥同,唯言語微差。」
- ^
『?唐書』列?第百四十四下「其國?烏孫之故地,東至突厥國,西至雷?海,南至疏勒,北至瀚海,在長安北七千里。自焉耆國西北七日行,至其南庭;又正北八日行,至其北庭。」
- ^
『昭蘇?石人碑文』
?考資料
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?連項目
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外部リンク
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