コンスタンティン?チェルネンコ

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コンスタンティン?チェルネンコ
Константин Черненко
1973年3月7日
ソビエト連邦共産?
中央委員?書記長
任期
1984年 2月13日  ? 1985年 3月10日
中央委員?第二書記 ミハイル?ゴルバチョフ
前任者 ユ?リ?アンドロポフ
後任者 ミハイル?ゴルバチョフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
第9代 最高?議幹部?議長
任期
1984年 4月11日  ? 1985年 3月10日
第一副議長 ヴァシリ??クズネツォフ
前任者 ヴァシリ??クズネツォフ (代行)
後任者 ヴァシリ??クズネツォフ (代行)
ソビエト連邦共産?
中央委員?第二書記
任期
1982年 1月25日  ? 1982年 5月24日 (代理)
中央委員?書記長 レオニ?ド?ブレジネフ
前任者 ミハイル?ス?スロフ
後任者 ユ?リ?アンドロポフ
任期
1982年 11月10日  ? 1984年 2月9日
中央委員?書記長 ユ?リ?アンドロポフ
前任者 ユ?リ?アンドロポフ
後任者 ミハイル?ゴルバチョフ
ソビエト連邦共産?
中央委員? ?務部長
任期
1965年 8月30日  ? 1982年 11月12日
中央委第一書記→書記長 レオニ?ド?ブレジネフ
前任者 ウラジ?ミル?マリン
後任者 クラヴジ??ボゴリュ?ボフ
ソビエト連邦共産?
第25-26期 書記局員
任期
1976年 3月5日  ? 1985年 3月10日
ソビエト連邦共産?
第25-26期 政治局員
任期
1978年 11月27日  ? 1985年 3月10日
ソビエト連邦共産?
第25期 政治局員候補
任期
1977年 10月3日  ? 1978年 11月27日
個人情報
生誕 ( 1911-09-24 ) 1911年 9月24日
ロシア帝国の旗 ロシア帝? ボリシャヤ?テシ村
死? 1985年 3月10日 (1985-03-10) (73?)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 モスクワ
墓地 ロシアの旗 ロシア連邦 モスクワ クレムリン共同埋葬地
政? ソビエト連邦共産?
配偶者 アンナ?チェルネンコ
子供 アルベルト?チェルネンコ
ベラ?チェルネンコ
エレナ?チェルネンコ
ウラジ?ミル?チェルネンコ
出身校 キシニョフ?育大?
宗? 無神論
署名
兵役??
所?? ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
所?組織 赤軍
軍? 1930年 ? 1933年
指揮 ?境警備隊

コンスタンティン?ウスチ?ノヴィチ?チェルネンコ ロシア語 : Константи?н Усти?нович Черне?нко ラテン文字表記の例 Konstantin Ustinovich Chernenko 1911年 9月24日 [注? 1] - 1985年 3月10日 )は、 ソビエト連邦 の政治家。 ソ連共産?中央委書記長 最高?議幹部?議長 の職にあって、1年余りに渡って同?の 最高指導者 であった。

生い立ちから?力の掌握まで [ 編集 ]

生い立ち [ 編集 ]

1911年 9月24日 ロシア帝? シベリア ? クラスノヤルスク のノヴォショ?ロヴォ地?ボリシャヤ?テシ村にて生まれる。チェルネンコは貧農の出身であり [1] 、父親は?山で?き、母親は農作業に?事していた。チェルネンコ自身は、幼少時には富農(クラ?ク)に雇われて?いた。 1929年 コムソモ?ル に入り、同年、ノヴォショ?ロヴォ地?宣??煽動部長となる。翌 1930年 、軍に志願し、 ソ連 中華民? の間の?境警備隊に配?される。

共産? [ 編集 ]

1931年 ソビエト連邦共産? に入?し、軍を除隊した後はクラスノヤルスク地方?宣?部副部長となる。 第二次世界大? 中はクラスノヤルスク地方?書記を務めた。モルダビア(現在の モルドバ )の キシニョフ ?育大?を卒業し、 第二次世界大? 終結後の 1945年 ペンザ州 ?委員?書記を?て、 1948年 にモルダビア共和?共産?中央委員?宣?扇動部長となる。この時のモルダビア共産?第一書記が、後にソ連共産?書記長となる レオニ?ド?ブレジネフ であった。

ブレジネフの知遇を得たチェルネンコは、 1956年 にソ連共産?宣?部大衆煽動活動課長に登用される。以後ブレジネフの側近として昇進を?け、 1960年 にブレジネフが憲法上の ?家元首 ポストである 最高?議幹部?議長 に就任すると同時に、彼の首席補佐官に就任した。 1964年 フルシチョフ が失脚し、ブレジネフが 第一書記 (後に書記長)に就任すると、翌 1965年 にチェルネンコは「書記長官房」の異名を取る ソ連共産?中央委員? ?務部長に指名された。その中で、政治局の議題の設定や、中央委員?が策定した多?の法案と決議案を準備するという任務や、さまざまな?幹部の電話を??し、行動を監視するという任務を司った。また、?日何百もの?文書に署名する仕事が?えられ、?務部長就任以?20年間に渡って書記長に就任してなおも?務部から提出された文書に署名し?けた。また中央委員?に投書部を設け、下僚の意見を積極的に吸い上げようとした。

1971年 、中央委員?委員に昇進。 1976年 3月、中央委員?書記に?擢された。さらに 1977年 政治局員候補 に、 1978年 11月には政治局員へと昇進した。

ブレジネフ政?末期の頃には?のイデオロギ???の仕事に?事した。外?訪問の際にはソ連代表を率いた他、重要な?議にはブレジネフに同伴して出席した。 1977年 には憲法改正委員?の委員として新憲法の制定に?力した。

1979年にテヘランのアメリカ大使館が作成したドキュメント

最高指導者として [ 編集 ]

書記長に就任 [ 編集 ]

1984年 2月9日 にアンドロポフが死去すると葬儀委員長に就任。 2月13日 の?中央委員?臨時??において書記長に選出され、急激な?化を嫌う?成勢力を背景とするチェルネンコが後?者となった。同年4月11日からは、 ?家元首 である 最高?議幹部?議長 を兼務することになった。

しかし、就任?初から健康?態がすぐれず、 赤の?場 で執り行われたアンドロポフの?葬の中では、レ?ニン廟上の講壇で追悼演?を行う際に階段の登り降りをすることもままならず、新設されたエスカレ?タ?を介し、2人の護衛の助けを借りて登降した。また、 ?歌 演奏の下でアンドロポフの遺?が埋葬される際にも、他の政治局員が居?んで敬?する中、チェルネンコは?足に敬?することもできず、途中で手を下ろしてしまう場面が見受けられた。同葬儀に?列した イギリス 社民? ?首で ?師 でもあった デイヴィッド?オ?ウェン は、「チェルネンコ氏は 肺?腫 を患っていると思われる」との見解を示した。皮肉にも1年後のチェルネンコの死によって、オ?ウェンの「診?」の正しさが?明される格好になった。

?政??運? [ 編集 ]

チェルネンコは就任後、ブレジネフ時代後期の政策への回?を表明した。しかし彼は同時に、技術??門?育を重視する?育改革やプロパガンダ改革に着手したほか、アンドロポフ政?で導入された企業の自主性?大の??も?象を?大させて??した [2] 。更にチェルネンコが自らの政策として努力した形跡が窺われるのは、 イデオロギ? 政策であり、規律?化?愛?心高揚? ブルジョア 文化の排?等のキャンペ?ンが展開され、また次の第27回?大?を目ざして、?綱領及び?規約の改正にも自らのイニシアティブを?揮した。

人事面では、アンドロポフが後?指名していた ミハイル?ゴルバチョフ を?ナンバ?2たる第二書記に任命するなど、改革派への配慮も見せた。ゴルバチョフはチェルネンコの下でイデオロギ?、農業、?組織及び??計?の?範かつ重要な分野を管掌した。加えて、重要人事を?行する力はないと思われていたが、1984年 9月6日 にソ連軍の制服組トップで、?に?し批判がましい言動を繰り返していた ?謀?長 ? ソ連邦元帥 ニコライ?オガルコフ を電?的に解任し、後任の?謀?長に セルゲイ?アフロメ?エフ を任命し、世界を驚かせた。ただしオガルコフの解任については、チェルネンコの夏期休暇明け翌日の政治局?議で?且つ グリゴリ??ロマノフ の海外出張中に決定されたという?況から、ゴルバチョフなどの非チェルネンコ派によるチェルネンコ人脈の切り崩しだという見方も存在する。

この他にアンドロポフ政?による綱紀?正路線の?承を明らかにするため、汚職の廉で?相??中央委員から解任されていた ニコライ?シチョ?ロコフ の軍階級?奪に踏み切った [3]

外交政策 [ 編集 ]

チェルネンコ政?は デタント の再構築という課題を引き?いだ。この課題に?しソ連は?初、軍備管理問題で?硬な姿勢をとることにより 西側諸? に?力をかけ、米?分?や西側各?の政府と世論の分?を生じさせることを通じ、アメリカの??を求めていくとの方針をとった。しかし、この?術は奏功しないことが 1984年 夏には明らかになった。そのこともあり、同年9月のグロムイコ外相の訪米後、ソ連は「?話」路線に?換することとなった。そして、 1984年 晩秋には軍備管理協議を 1985年 初頭に再開することで合意した。

?中?係では、 1982年 3月のブレジネフ?タシケント演?に端を?する?係改善路線を踏襲し、 1984年 3月と10月に外務次官級の政治協議が?施された。延期されていたアルヒポフ第一副首相の中?訪問の?現(同年12月)、貿易協定締結交?の開始、 1985年 3月の中?の全人代代表?のソ連訪問に見られた ごと く、貿易と人的交流は引き?き?大傾向にあった。 1984年 6月には 北朝鮮 金日成 主席のソ連訪問が23年振りに?現した。更にカ?ピッツァ外務次官が11月に北朝鮮を訪問してソ朝間の?境?約に調印するなど、???係に一定の進展が見られた。

中東に?しては、基本的にはアラブ首??議のフェズ提案と大差の無い?際?議方式による中東和平提案を打ち出した。また、 エジプト との大使交換再開? クウェ?ト ヨルダン に?する軍事援助などにより、いわゆる?健派 アラブ 諸?への接近に意を用いた。 1984年 10月に キュ?バ において初の コメコン ??を開催し、また同?との間で新しい??協力協定を締結するなど?係?化に努めた。

アフリカ諸?との?係は、一般に低調であり、 エチオピア との友好協力?係の?化に力を注ぎ、?レベルにおいても交流を深めるなどの努力が目立つ程度であった。

ロサンゼルス五輪への不?加 [ 編集 ]

1984年 5月8日 、チェルネンコの下で ロサンゼルスオリンピック への不?加が決定された。これは 1980年 モスクワオリンピック への西側諸?の不?加を受けてのものである。このボイコットには キュ?バ など14の東側諸?も加わった。ボイコットした?は同年夏に?自の「 フレンドシップ?ゲ?ムズ (友情ゲ?ム)」を開催した。

「只今よりアメリカ軍及び日本軍と交??態に入る」 [ 編集 ]

1984年 8月15日に「只今より極東地域でアメリカ軍及び日本軍と交??態に入る」という電文を極東ソ連軍からモスクワに向けて?信させた。これは日米?政府を大いに慌てさせた。だが、しばらくして同軍は動員?制に入っていないことが確認された。

日米?政府はこれを?初「誤報か演習だったと見られる」と判?したが、後にゴルバチョフ政?下の グラスノスチ によって、 ロナルド?レ?ガン 大統領による「 我?は5分後に爆?を開始する 」という ジョ?ク ?アナウンスに?する“報復”だったことが判明した。

晩年 [ 編集 ]

?時在モスクワ 日本大使館 政務 ?門調査員 だった 秋野豊 によると、書記長就任直後からチェルネンコが何を話すかより1分間に何回呼吸をしているのかということに着目し、健康?態を知ろうとしていたという。また、入院中のチェルネンコの病室をあたかも執務室であるかのように見せかけ、その模?がテレビや新聞などで報道された。この時、背?を着たチェルネンコの?を支える?行員の手が??などに?った [1]

同年 3月10日 、チェルネンコは死去した [4] [5] [6] 。73??。?師?は、チェルネンコの死因は長年患っていた肺?腫の?化による心肺機能不全による心拍動の停止であると?表した。

日本では 3月11日 午後2時2分にNHKで「米?ABCがチェルネンコ書記長死去と報道」と速報が表示された [7]

遺?はモスクワの??組合?館「円柱の間」に安置された [8] [9]

服喪期間の後、 3月13日 13時から 赤の?場 で?葬が執り行われ、後?者となった ミハイル?ゴルバチョフ が葬儀委員長を務めた。 ソ連?歌 の演奏の中、チェルネンコの遺?がレ?ニン廟裏の革命元?墓に埋葬される際には、5分間の弔砲の一?射?がモスクワや各ソビエト連邦構成共和?の首都などの都市で鳴り響いた。その間、ソ連全土の企業や組織は活動を停止した。葬儀には日本の 中?根康弘 首相や 安倍晋太? 外務大臣も?列した。

チェルネンコの死を以って「?大な葬儀の時代」(ブレジネフ時代の 政治局 幹部の大多?が亡くなった 1980年 からの5年間をこのように表現する)は終わりを告げた。そして ブレジネフ アンドロポフ と?く 老人支配 の時代の幕引き役を演じた。

就任から1年余りの死であり、?民には不人?な書記長であったが、一家の家長としてはかけがえのない人物であった。妻のアンナは葬儀の際に溢れ出る?を流しながら亡くなった夫にキスをし?けたという。ソ連時代の秘密主義によって、前任のアンドロポフ同?妻?している事?が葬儀の席上で初めて?外的に判明した [10]

なお、2024年現在、チェルネンコが 赤の?場 の元?墓に埋葬された最後の人物である。

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ユリウス? では9月11日となる。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ Jessup, John E. (1998). An Encyclopedic Dictionary of Conflict and Conflict Resolution, 1945-1996 . Westport, CT: Greenwood Press. p. 121 . https://www.questia.com/read/106899354/an-encyclopedic-dictionary-of-conflict-and-conflict   ( Paid subscription required要購?契約)
  2. ^ 木村明生「クレムリン ?力のドラマ」朝日選書、1985年、p374-375
  3. ^ 木村明生「クレムリン ?力のドラマ」朝日選書、1985年、p395-396
  4. ^ Время. Эфир 11 марта 1985 - YouTube - ソビエト連邦中央テレビ (ロシア語)
  5. ^ Soir 3 : emission du 11 mars 1985 - INA (フランス語)
  6. ^ Soir 3 : emission du 11 mars 1985 - YouTube - INA Actu (フランス語)
  7. ^ ニュ?ス速報?字幕ス?パ? - NHKクロニクル
  8. ^ Время. Эфир 12.03.1985 - YouTube - ソビエト連邦中央テレビ (ロシア語)
  9. ^ Прощание с Константином Черненко в Колонном зале Дома Союзов. Время. Эфир 12 марта 1985 - YouTube - ソビエト連邦中央テレビ (ロシア語)
  10. ^ 木村汎 , 皆川修吾, 西村可明 ほか 共著 「ソビエト?究 ソ連を知りたい人のために」?育社 1985年11月15日、p.6

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]

先代
ユ?リ?アンドロポフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦最高指導者
第6代:1984年2月13日 ? 1985年3月10日
次代
ミハイル?ゴルバチョフ
先代
ユ?リ?アンドロポフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦最高?議幹部?議長
第9代:1984年4月11日 ? 1985年3月10日
次代
アンドレイ?グロムイコ
先代
ユ?リ?アンドロポフ
ソビエト連邦共産?書記長
1984年2月13日 ? 1985年3月10日
次代
ミハイル?ゴルバチョフ
先代
ユ?リ?アンドロポフ
ソビエト連邦共産?第二書記
1982年11月10日 ? 1984年2月9日
次代
ミハイル?ゴルバチョフ
先代
ミハイル?ス?スロフ
ソビエト連邦共産?第二書記(代理)
1982年1月25日 ? 1982年5月24日
次代
ユ?リ?アンドロポフ