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(
2021年12月
)
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本項目では、
コスタリカの?史
(コスタリカのれきし、
スペイン語
:
Historia de Costa Rica
,
英語
:
History of Costa Rica
)について述べる。
?要
[
編集
]
北米大陸と南米大陸を結ぶ中米地?に位置する
コスタリカ
は、紀元前12000年ごろから人類の足跡が確認できる。
マヤ文明
の影響を受けつつも
コスタリカの石球
など、?特の文化を形成していく。やがて
コロンブス
が1502年に同地を
コスタリカ
と命名し
[1]
、1570年代にスペインの支配下に組み?まれる。?物資源に乏しい土地であった同地は、農業を主とした?展を見せ、1821年、
メキシコ帝?
への?合という形をもって?立を果たし、その後
中米連邦
のひとつに?えられた。中米連邦が崩?し1838年に???家として?立を果たす。1870年代以降はコ?ヒ?産業が目?しい?展を遂げ、同時にバナナ栽培も盛んとなった。20世紀に入ると?境問題やコ?ヒ??格の下落による大不況からくる??など、??の問題を抱えつつも近代化が促進された。
1950年以降、中米諸?において、民主的生活を享受してきた唯一の?であり、「軍隊を持たない?」「非武?中立?」といった理想的な民主主義?家として見られる向きがある
[2]
が、?史?者
小澤卓也
は、その一方的に神格化?美化された見方を否定している
[3]
。
先史時代
[
編集
]
約4万年前、
ユ?ラシア大陸
から
ベ?リング海
を渡り、
アメリカ大陸
北西部に居住していた狩?民族の集?は徐?に南下し、紀元前12000年から紀元前8000年にかけて、現在の
コスタリカ
の地にたどり着いた。
トゥリアルバ
では、彼らが使用したとされるナイフやハンマ?といった石器が?見されている。やがて紀元前8000年から紀元前4000年にかけて、植物の栽培を始めたことにより定着性が?まり、徐?に人口が?えていった。
地理的に北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の接点となった同地は紀元前1000年頃までに
ユカイモ
や
サツマイモ
、
トウモロコシ
などを栽培する農耕民族へと移行を遂げ、テコマテと呼ばれる?のような食料を貯?する土器などが使用された。
定住は技術の多?化をもたらし、800年頃までに
首飾り
、メタテ
[注? 1]
、
オカリナ
といった芸術性を伴った土器の製造が確認されている。同時に人口の?加は群集社?から部族社?への社?的ネットワ?クの?散を見せ、分業化、?門化と同時に人?の平等性が次第に薄まっていった。500年には
カシカスゴ
と呼ばれる頭領(カシケ)を頂点とした階級社?が誕生し、?力と富が特定の定住地へと集中した。彼らの部族社?は交易の基盤となり、
パナマ
、
コロンビア
、
エクアドル
などの住人と交易を行っていたようである。
また、宗?的?念もこのころ誕生したとされ、コスタリカ南部では
コスタリカの石球
などが盛んに造られた。これらの意味や用途は考古?者を?ませ、
スト?ンヘンジ
や
モアイ像
に?ぶ巨石
オ?パ?ツ
として今なお?心が集められている
[4]
。
カシカスゴ制度は
スペイン人
に征服される1550年頃までの永きに渡って?いた。後期には階層の分化が進み、軍人や貴族、シャ?マンといった特?階級と、奴隷階級に完全に分かれた。また、集落同士の衝突も頻繁に?生し、カシカスゴを統合しより?大な政治力と軍事力を持つ首長領(
セニョリオ
)も出現した。
16世紀初頭までに人口は約40万人を?え、
ニカラグア
?境近くのボ?ト族、カリブ海沿岸低地のスエレ族、ポコシ族、タリアカ族、タラマンカ族、太平洋岸南部のケ?ポ族、コ?ト族、ボルカ族、中央盆地のグアルコ族、ガラビト族など、地域ごとに多?のカシカスゴ及びセニョリオが存在していた。部族間は基本的な共通語としてウエタル語を解した
[5]
が、地方によって文化的差異や宗?的差異が?著に見られ、太平洋岸北部では
首狩り
や
食人
の風習も見られた
[6]
。
現代のコスタリカにおいてこうした先住民の人口割合は全?の2%程度に留まっており、1977年に成立した先住民法を基に土地や居住環境の保障がなされている
[7]
。
スペイン植民地時代
[
編集
]
1502年
9月18日
、
クリストファ??コロンブス
がリモン?付近に上陸し、
ヨ?ロッパ人
としてはじめてこの地に渡?した
[8]
。
コスタリカにおける?育ではスペイン人渡?時には先住民は?に未知の病にかかり、存在していなかったとされていたが、前述のとおり、?際には約40万人の先住民族が生活を?んでいた。しかしその人?は1569年には12万人に、1611年には1万人へと激減している
[9]
。これは、スペイン人との征服??の打?に加え、彼らが運んできた
天然痘
、
インフルエンザ
、
チフス
、
百日咳
といった免疫のない新しいウイルスの猛威によるものと考えられている。
1519年に始まったスペイン人による
中米地?征服
は、コスタリカにおいては1522年の
ヒル?ゴンザレス?ダビラ
によるニコヤ地方の探?を最初とした
[10]
。1524年には
フランシスコ?エルナンデス?デ?コルドバ
によって
ビリャ?ブルセラス
が建設され、スペイン人にとってのコスタリカにおける最初の定住地となったが、先住民の攻?により、1527年に消滅している。しかし、ビリャ?ブルセラスの建設は、先住民が奴隷として輸出されるなど、太平洋側北西部のカシカスゴの急速な崩?を招いた。
他方、カリブ海側では1534年
フェリペ?グティエレス
、1539年
エルナン?サンチェス=デ=バダホス
、1540年
ロドリゴ=デ?コントレラス
、1543年
ディエゴ?グティエレス
など複?の征服者との激しい武力衝突が繰り返され、スペイン人は1535年に
ビリャ?デ?ラ?コンセプシオン
を、1540年に
バダホス
、
マルベリャ
などを建設し、先住民の抵抗沈?化を試みたが、いずれも失敗に終わり、1544年最後の征服者ディエゴ?グティエレスの死を以って、しばらくの間、放棄されることとなった。1560年、
ファン=デ=エストラダ?ラバゴ
が
ニカラグア
の
グラナダ
を離れ、
ボガス?デル?ト?ロ
に到達、
カスティリョ?デ?アウスト
を建設するなど、17世紀ごろまで散?的に征服と定住化が試みられたが、同じような結末を?った。
中央盆地方面においても、征服は容易ではなかった。1561年に
フアン=デ?カバリョン
による最初の?陸部の探?が行われた。
カスティリョ?デ?ガルシムニョス
や
ロスレイェス
、
ランデチョ
などの町を建設したが、先住民の抵抗激しく、非常に危?な情勢であった。その後、
フランシスコ?バスケス?デ?コロナド
によるカシケの?柔政策が奏功し、中央盆地の詳細な探?と調査が可能となった。先住民グル?プとの同盟を締結する過程で、コロナドは植民地時代のコスタリカの首都となる
カルタゴ
の建設を行った。それでも局所的な??は頻?し、1568年にはカルタゴ放棄寸前まで?ったが、救援物資を運び?んだ
ペラファン=デ?リベラ
により制?された。こうして、16世紀には中央盆地におけるスペイン人による支配が確立した。なおも激しく抵抗する一部先住民(インディオ?ブラボ)は、カリブ海沿岸のジャングル、サンカルロス平原、タラマンカ山地など、スペイン人の支配が行き?かない?境地へと逃亡した
[注? 2]
。
1570年以降、交易は多?化が進み、工業品の輸入と引き換えに、
トウモロコシ
、
蜂蜜
、
豆類
、
?
、
小?粉
、
ニンニク
などの食料をはじめ、
陶器
、
毛布
、
ハンモック
といった
工芸品
や、
?珠
、
インディゴ
、
綿?
、
アガベ
、
ラ?ド
など??な物資が輸出された。1601年には「
王の道
」と呼ばれるカルタゴと
ニカラグア
を結ぶ
ラバ
を用いた陸上ル?トが拓かれた。また、多くの港を保有し、カリブ海側ではスエレ港、モイン港、マティナ港、太平洋岸ではカルデラ港、アバンガレス港、アルバラド港などが?えた。
1650年になり、
カカオ
が輸出市場を席?し、植民地??はさらに活性化した。1709年には通貨銀の不足から一定量のカカオを1ペソとするカカオ?ペソという珍しい通貨?位が登場していることからもそのブ?ムがうかがえる。しかし、これらのブ?ムは長くは?かず、
カラカス
、
マラカイボ
、
グアヤキル
といった優良なカカオ産地との生産競?に敗れ、次第に衰退していった。また、??力として使用できる先住民の人口も目に見えて激減し、スペイン人たちは供給源の確保のために、インディオ?ブラボが支配する地域(カリブ海および太平洋岸南部、北部平地)に興味を持ち始めるようになった。征服活動は1611年ごろから1709年ごろまで?けられたが、思うような?果が上がらず、次第に??力の供給は現地ではなく、
?人奴隷
の輸入という形態が取られるようになった。こうした?緯から、コスタリカにおける?人奴隷は非常に高?な??力であったため、かなり注意深く使用された。奴隷たちは自らの自由を買う?利がしばしば?えられ、1648年から1824年までの間に430名の奴隷が自由を?えられている。しかし、カカオブ?ムの衰退にあわせてこうした
奴隷制度
も衰退していった。現代のコスタリカは他の中米諸?と異なり、白人とメスティソが人口構成の97%を占めるが、上述のように奴隷制度文化があまり浸透しなかったことがその要因のひとつとして?げられる。
18世紀にはいり、首都カルタゴ近?では人口密度の?加から、農地の確保が難しくなった。このため、住民は中央盆地の西側を開拓し、矢?ぎ早に新しい町が生まれた。1706年に
エレディア
が、1736年には
サンホセ
が、1782年には
アラフエラ
が建設された。これらの町を支配したのは、工芸品生産で財産を築いた者たちであった。彼らは政治、??、軍事の主要な役職を?占し、貨幣の流通を支配した。潤?な資金で農業地を買いあさり、貧しい農民に?穫物と引き換えに貸し?えることで、貧富の差は格段に?がっていった。こうしてコスタリカで生産された物資は主にニカラグアやパナマへ輸出された。
また、このころ誕生した
スペイン?ブルボン朝
は、王室??入の?大を?げ、コスタリカにおける
タバコ
と
アルコ?ル
の販?を?占化した。これを背景にコスタリカ?部ではタバコと
サトウキビ
の栽培が一時的に盛んになり、トラピチェ
[注? 3]
などの工業製品の需要も?加した。?陸部での生産業の活性化は首都カルタゴにも刺激を?え、カルタゴからエレディアやサンホセなどの町に仕事を求めて人が集まった
[注? 4]
。1800年にはコスタリカ人口5万のうち、?に80%が中央盆地に集中した。
中央アメリカの?立
[
編集
]
1812年、
ナポレオン?ボナパルト
の
スペイン?立??
を契機として
カディス憲法
が制定された。この憲法の制定により、アメリカ大陸の至る場所に
カビルド
が誕生した。コスタリカにおいても同?で、各地に誕生したカビルドにより地域の?自性が?化されることとなった。また、1822年のメキシコ?立はコスタリカ住民に少なからぬ衝?を?え、植民地からの解放が叫ばれるようになった。
このとき、コスタリカはひとつの?家というよりも、カルタゴ、エレディア、サンホセ、アラフエラという4つの都市の集まりであったと言える。これらの都市はそれぞれのカビルドで?自に新しい世界情勢に??するための?策が?討された。カルタゴとエレディアは
メキシコ帝?
との合?を提唱し、サンホセとアラフエラは?立共和?の設立を叫んだ。
この?立は
1823年
4月5日
オチョモゴの??
へと?展した。コスタリカにおける最初の??はサンホセがカルタゴを下し、サンホセが新しい首都となった。
一方、メキシコ帝?は1823年に崩?を喫し、
中米連邦
として新しいスタ?トがきられた。コスタリカもこれに?加し、
グアテマラ市
の議?へ代表を送るなどしたが、
フランシスコ?モラサン
率いる
エルサルバドル
の
自由主義
者と
ラファエル?カレ?ラ
率いる
グアテマラ
の
保守主義
者の?立紛?が興り、議?は混沌とし、コスタリカにとっては有意なものとは言えなかった。やがて1835年に?生した同盟??により、サンホセがカルタゴ、エレディア、アラフエラを?破すると、その地位は確固たるものとなり、資本主義農業の中心として?展を見ることとなった。1838年に
ホンジュラス
が中米連邦から離?すると、他の地域と同じくして、コスタリカもそれに?き、
コスタリカ共和?
として?立を果たした。中米連邦は1841年の
エルサルバドル
の離?を以って、完全に瓦解した。
コスタリカを含む中米諸?が統合、連合政府樹立への動きを見せたにもかかわらずそのことごとくが瓦解し、細分化?分離していった理由のひとつとして中米地?の地理的な問題が指摘されている
[11]
。例えば、グアテマラの?督府からコスタリカの首都カルタゴまでは距離にして1400kmであるが、道路事情が?く、乾季にしか通行ができない上、急勾配の山岳地?を通過する必要があるなど、連合政府としてその行政?の影響が行き?かなかった
[11]
。こうした地理事情が各地方の?特の社?形成を育み、小?家群が誕生した要因となった
[11]
。
中米地?での政治不安のさなか、
ブラウリオ?カリ?リョ
がコスタリカを統治し始め、最初の?裁政?が誕生した
[12]
。目的なく旅をすることを禁じるなど、?裁色の?い政治を行った
[12]
。また、1779年よりサンボ?モスキ?ト族へ支?っていた資金を1841年に停止した。その後、1842年4月にフランシスコ?モラサンが軍隊を率いてカルデラに上陸、カリ?リョは?外逃亡せざるを得ない?況となった。暫定大統領となったモラサンはコスタリカを新たな中米統合運動の政治?点にしようと?策したが、同年9月、サンホセ市民による武力蜂起によって計?は失敗に終わった。モラサンは捕らえられ、現サンホセ中央公園に位置する場所で銃殺?刑された。その後1844年には
直接選?制
を盛り?んだ新憲法が制定され、資産200ペソ以上を持つ人に
市民?
が?えられた。しかし、この制度は失敗に終わり、1847年には
間接選?制
に?されている。
中米連邦を離れて以降、政治勢力間の?いに端を?する??に見舞われたが、他の中米諸?と違い、長期に渡り??が停?するようなことは無かった。これは中米連邦結成時に散?的に起こった都市間の武力抗?により、軍部が?固な力を持つことが出?なかったことが大きな要因であるとされている
[12]
。
このころのコスタリカの??基盤を根底で支えたものに、
コ?ヒ?
があった。17世紀ごろよりサンホセとその周?で局所的にはじまったこの「?金の豆」の栽培は、1830年ごろよりイギリスのコ?ヒ?ブ?ムを受けて、劇的な?張を遂げた
[注? 5]
。1850年に入ると産地はカルタゴ、エレディア、アラフエラへと?がり、さらに?地のサンラモンまで?大した。コ?ヒ?の輸出で得られた富により、新しい技術や流行の商品がコスタリカ??を賑わせた
[8]
。
1854年、??の只中にあった
ニカラグア
のひとつの勢力が、アメリカの
傭兵
ウィリアム?ウォ?カ?
を雇用した。ウォ?カ?はニカラグアに到着するやニカラグア南部を占領した
[13]
[注? 6]
。?時のコスタリカ大統領
フアン=ラファエル?モ?ラ
はこの事態を受け、中米諸?の政府と?民、及び反ウォ?カ?だったイギリス、アメリカ合衆?の
コ?ネリアス?ヴァンダ?ビルト
などの支援を受け、ウォ?カ??退に?り出した
[14]
。
1856年3月、グアナカステ地方のサンタロサの?いで勝利を飾ったコスタリカ軍は?けざまに4月11日、リバスにてウォ?カ?の主力部隊を?破、12月末にはサンファン川を支配、
1857年
5月1日
、アメリカ人侵略者はついに降伏した
[注? 7]
。しかしこの??の影響により、軍隊によって持ち?まれた
コレラ
が一般市民を襲い、人口の約10%を失うこととなった
[15]
。??力不足と、??の莫大な?費によってコスタリカは??不況に?り、回復に約3年を要した。
このウォ?カ?との一連の?いは
?民??
と呼ばれ、コスタリカ人が若い?を守るために莫大な??を支?った??として?史にその名が刻まれている
[注? 8]
。しかし、そんなモ?ラも1859年のク?デタ?で?外へと追放される
[注? 9]
など、政治情勢は不安定であった。1840年から70年にかけて、コ?ヒ?産業の派閥?立などを背景とした、軍事力による?力者の追放と交代が??的に行われた
[16]
。
1870年、
トマス?グアルディア=グティエレス
?軍が政?を握ると、政治に?化が見られ始めた。
近代?家
と
近代社?
の創造という明確な目標と革命計?を携え、その自由主義的な改革は1890年ごろまで?いた
[注? 10]
。新しい民法と刑法が制定され、出生や死亡、婚姻を?が管理し始め、??の影響を排除した?が管理する義務?育制度を策定した。
これらの努力により?民の識字率は驚異的に上昇する
[注? 11]
など、生活水準は大幅に引き上げられた。しかし一方で、
??
の非合法化や、安?な?品の使用禁止、義務?育化による?童??の禁止といった、より?しくなった管理行政に?民は少なからず不?を持っていた。
グアルディアの意思を次ぐ
ベルナルド?ソト
は、1889年の大統領選?において、カトリック??の支援を受けた
ホセ=ホアキン?ロドリゲス
に敗れた。しかし、ホセの得票は不正選?であるとし、政?の維持を?ろうとしたことが市民の逆鱗に?れ、1889年11月7日、聖職者に煽られた農民や職人が武?蜂起し、首都を包?した。ソトはホセを大統領に認める旨の?明を出し、??は回避された。
この1889年11月7日は、本?の意味でコスタリカ民主主義の原点であるとして?えられる
[17]
。以降、コスタリカの政治は公正な選?による民主主義へと動き始めた。
??と民主主義
[
編集
]
コスタリカはその地理的要因から、?外交易のほぼ全てが、太平洋側の港を?由して行われていた。1870年、グアルディアはこの現?を打破しようと、イギリスの金融?社と340万ポンドという莫大な借款契約を結び、
大西洋?道
の敷設を立案した。しかし、技術的な問題に加え、政治腐敗
[注? 12]
や資金不足によりこの計?は頓挫し、借金のみが?された。この負債を補うため、1871年、
パナマ地?
より
バナナ
が導入されることとなる
[注? 13]
。
1884年、プロスペロはイギリスと負債の交?を行い、?道の完成を引き受けたアメリカの企業家
マイナ??キ?ス
と契約を結んだ。キ?スは1899年にボストンに
ユナイテッド?フル?ツ
を設立すると、カリブ海全域のバナナ産業を?占した。
1890年までに?道敷設のための??者が、??外
[注? 14]
よりかき集められた。彼らの半?は?道敷設の??が終わった後もコスタリカに?り、バナナ産業の??者や、船舶への積み?み??者となった。彼らはたびたび激しい
ストライキ
を決行
[注? 15]
し、1920年ごろまで、
??運動
が盛んに行われた。こうした民衆の動きに呼?して、?時の大統領
リカルド?ヒメネス
は1913年、直接投票?を承認し、有?者に?する政治の責任をより明確にした。
19世紀終わりごろより?家はインフラを含む公共設備の投資に力をいれ、?育、保?、年金、公衆衛生といった設備が急速に?いつつあった。1927年には公衆衛生省が、翌28年には??省が設置された。インフラの充?は大衆文化の?展に寄?し、1920年には大衆スポ?ツとして
サッカ?
が登場した。また、
ラジオ
は1930年ごろまでに一般庶民へ普及し、小さな箱から流れる音?を?しんだ。1930年には、
アルマンド?セスペデス
による初の?産映?『?還』が上映された。一方で酒場やビリヤ?ド場では非合法化されていなかった
アヘン
や
マリファナ
などが?買されるなど、無法者の?窟となった
[18]
。
一見景?のよさそうな市場は、コ?ヒ?とバナナという
モノカルチャ?
??の富に依存して出?上がっていたもので、非常に脆弱であった。
1927年
に起こった、コ?ヒ?とバナナの値崩れや、1929年の
世界恐慌
は、こうしたコスタリカの??に深刻なダメ?ジを?えることとなった。
政治不安と??不況
[
編集
]
1929年の世界恐慌から1932年ごろにかけて、コスタリカの?輸出額は1800万ドルから800万ドルへと落ち?んだ
[19]
。この影響で
??
?入が激減し、?家は深刻な赤字財政に襲われた。大量の失業者を生み出し、1933年にはサンホセで暴動に?展したことなどを受け、政府は??への介入をさらに?めた。1933年にコ?ヒ?保護協?を設立し、1935年に農業??者の最低賃金が定められた。さらに1936年には銀行改革を行い、紙幣の供給に?してより?い?限を持った。また、失業者救?のために公共建設事業費が3倍に?加し、?時の大統領
レオン?コルテス
は「セメントと?の政府」と揶揄された。
復興の兆しを見せ始めた1939年、
第二次世界大?
の勃?により、ヨ?ロッパ市場が閉鎖され、再び不況の波がコスタリカを襲った
[注? 16]
。こうした事情から、買取?格の安いアメリカと貿易を行う他無く、?家の?入は激減した。1940年、
社?民主主義
から
ラファエル=アンヘル?カルデロン=グアルディア
政?が誕生し、野心的な社?改革計?が進められた。同年にコスタリカ大?を創立、1941年には社?保障制度が確立、1943年には生活保護が規定され、??法が制定され、福祉?家の基礎が築かれた。
こうしたグアルディア政?の行った社?改革は富裕層の反?を招き、社?的緊張をもたらした。1944年の選?において、?民共和?から立候補した
テオドロ?ピカ?ド
は、反カルデロン派から選?に不正があったと?定され、?民の持つ政治制度への不信感が?大した。これに伴い、
テロリスト
らによる爆破事件が頻?するようになり、改革の?行が困難になった
[20]
。1946年、反カルデロン派にありながらコルテス派のリ?ダ?として平和的交?による?立の解消を目指していたレオン?コルテスが死亡すると、?硬派が勢い付き、コスタリカ日報の編集者
オティリオ?ウラテ
を指名し、1948年の選?が開始された。この選?は2期目を狙うグルディアとウラテの一騎討ちとなり、大統領選でウラテが勝利、??議員選でグルディアが勝利した。この結果、カルデロン派や共産?支持派がウラテの大統領選に不正があったと糾?、カルデロン派で占める議?において、先の大統領選?の結果を公式に無?とした
[21]
。
カルデロン派とグアルディア派はこの選?問題に?しての妥協点を模索していたが、1948年3月12日、農業?業家
ホセ?フィゲ?レス?フェレ?ル
は、民主主義的な?民選?を守るという口?で反?を起こした。4月19日まで?いたこの武力??は、4000人以上の死者を出すコスタリカ史上最?の??となった。カリブ外人部隊を用いたフィゲ?レスの?民解放軍は?靭で、太刀打ちができないままグアルディア政?は降伏した。フィゲ?レスはグアルディア支持者?千人を?外へ追放し、共産?を非合法化すると、1948年5月1日、暫定政?の主導者として名?りを上げた
[22]
。
フィゲ?レスは、銀行の?有化、資本利得に?する特別?の??を行い、あらゆる支配的?力の排除に?り出した
[22]
。翌年、
1949年憲法
(
英語版
)
が施行されると、親米を基調とし、政治を混?させる?置にしかならない軍隊は?止され
[23]
、それまで軍隊の?っていた役割は警察に移管された。また、女性や?人の政治?加も認められた。この軍隊?止により、コスタリカは以降他のラテンアメリカ諸?で繰り?げられたような軍事ク?デタ?は起こらなくなった。選?舞台の?化を一通り終えたフィゲ?レスはウラテが大統領に就任することを認め、1951年、?民問題?究センタ?の知識人や支援企業などをまとめあげ、
?民解放?
を組織した。
1948年12月には?政府軍が
アナスタシオ?ソモサ?ガルシア
に支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻するも失敗に終わった。1949年8月には暫定政?の公安大臣であった
エドゥガル?ガルドナ
がク?デタ?を企てたが、失敗に終わった。1955年1月には、元コスタリカ大統領だったムチャイスキの息子、ピカ?ド2世が再びソモサに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカド2世軍は幾つかの都市を攻略したものの、コスタリカ武?警察の反?と、
OAS
の仲介により同年2月に停?し、侵攻軍は武?解除した。
このようにして?難を?り越えると、1949年憲法による政治の安定が?家の成長を助け、1950年から1973年までにおいて、第二次世界大?後の世界??の成長に?調を合わせる形で、コスタリカでは人口80万人から200万人まで?加するという
人口爆?
が起こった
[24]
。??面においても、バナナの年間輸出量が350万箱から1800万箱に?え
[注? 17]
、コ?ヒ?の販??格が100kgあたり9ドルから68ドルへ跳ね上がるなどし
[注? 18]
、得られた利益を?家システムの改善や技術改良のための開?費へ回すことができるようになった。こうしたインフラの整備は??の多?化を促し、1963年に
中米共同市場
に加盟してからは外資系企業がコスタリカ市場へ次?と??し、多?化した??がそれぞれの分野で急激に成長し、コスタリカ中流階級市民の繁?と安定に寄?した。人?は家電製品を容易に入手できるようになり、1960年にはコスタリカ人による初のテレビ番組が放映された
[25]
。また、?立自治大?、コスタリカ科?技術?究所、?立遠隔地大?などが新設され、高い技術力や?門性を持つ科?者を輩出した。
一方で??に利潤をもたらさない外資系工業により、工業輸入額と工業輸出額の乖離が年??大し、1950年に50万コロンであった財政赤字は1970年には9000万コロンに肥大化した。また、
オイルショック
の影響により、??や?上?などの間接?に依存していた?家?入は政府の負債を?加させ、公的?外債務は1978年までに10億ドルを超え、1980年にコスタリカ??は完全に崩?した
[26]
。
さらに、1978年に
サンディニスタ民族解放?線
が全面蜂起すると
ソモサ王朝
を嫌っていたコスタリカ人は、これを全面的に支援し、
ニカラグア革命
を支えた。その後サンディニスタ?での路線?立により
FSLN
の司令官だった
エデン?パストラ
が亡命すると、パストラを司令官にして
コントラ
の一派
民主革命同盟
(ARDE)が組織され、コスタリカはアメリカ合衆?による?ニカラグア作?の基地となり、中立原則も一時?らいだ。この影響で中米地域に?する通商が?滅的な打?を受け、
IMF
による?家事業の民?化などの?告が?施された。これに?し
ロドリゴ?カラソ
大統領は1981年9月、一切の?外債務の支?い停止を宣言し、IMFとの交?をすべて打ち切り、?係者の?外追放を?行した
[27]
。この政策でコスタリカはアメリカへの依存をさらに?め、1982年、?民解放?から大統領に就任した
アルベルト?モンヘ
は、アメリカの
ロナルド?レ?ガン
大統領に?し、サンディニスタ政?との代理??を引き受ける明確な見返りを要求した
[28]
。レ?ガンは
USAID
をコスタリカに派遣し、13億ドルの資金を?渡し、下部組織としてコスタリカ開?構想連合(CINDE)を組織し、
??モデル
の改?に取り組んだ。
近現代
[
編集
]
??モデルの?化と外?からの資金投下により、コスタリカ??は安定を見せ始めたが、これの是非を巡り、?民解放??に派閥が生まれ、1982年、
キリスト?社?連合?
(PUSC)が創設され、二大政?の時代が始まった
[29]
。??安定化のために資金援助を行ったアメリカ合衆?は、共産主義の脅威に?抗するため、コスタリカにあらゆる協力を要請した。コスタリカの治安警察部隊を掌握し、軍事訓練を行い、??のメディアには反サンディニスタの
プロパガンダ
を?施させ、都合の良い世論を形成し、軍?主義化を?く求めた。これらのアメリカの要求に?し、モンヘは出?得る限りの?容を受け入れたが、ただ一点、??の米軍基地建設にのみ反?の意向を示した
[30]
。この意向を?外的にも明確にするため、モンヘは1983年11月、コスタリカの中立を宣言した
[31]
。
1986年、?民解放?の
オスカル?アリアス?サンチェス
が、大統領選?に勝利する。アメリカの?ニカラグア?硬政策に追?することを良しとせず、平和政策を選?したアリアス政?は中米地?5カ?の代表者によって調印された和平案の仲介役を引き受け、
中米紛?
そのものの解決に?力し、中米地域の??的安定を主導した
[32]
。この活動に?して1987年には
ノ?ベル平和賞
が授?された。やがて1990年、サンディニスタが選?で破れるとアメリカは中米地域に?する?心を失い、??援助額を減少
[注? 19]
、1996年にはUSAIDも活動を停止した。
1990年には初のPUSC政?としてグアルディアの息子である
ラファエル?アンヘル?カルデロン?フルニエル
が大統領に就任した。フルニエルは?化する財政赤字に??するため、?上?の??、?家予算の削減、給?の支?い凍結、???道の休業などの?政を行った。PUSC政?に?する?民の不?は高まり、1994年の大統領選?によって、中道左派の野?
?民解放?
(PLN)から、ホセ?フィゲ?レス?フェレ?ルの息子
ホセ?マリア?フィゲ?レス
が大統領に就任したが、民衆への?力はさらに?まり、抗議を行うための大規模な市民運動がいくつも組織された。
1998年2月の大統領選?によって、PUSCの
ミゲル?アンヘル?ロドリゲス
が大統領に就任したが、ロドリゲスはメキシコの?業家
カルロス?ハンク?ゴンサレス
からの不正?金を受け取っていたことが、1999年にスキャンダルとなった。2001年の9.11テロ後は、
アメリカのアフガニスタン攻?
を支持した。
2002年の大統領選?によって、PUSCから
アペル?パチェ?コ
が大統領に就任した。アフガニスタン攻?に?いて2003年の
イラク??
も支持したが、こちらは護民官や市民??の提訴を受けて翌
2004年
12月に最高裁が大統領決定を違憲判定、支持は撤回される。また、同年カルデロンとロドリゲスの二人の元大統領が汚職によって逮捕された。2006年からは再任した
アリアス大統領
が大統領を務めた。
2010年
2月7日
、大統領選?が?施され、?民解放?のラウラ?チンチジャ元副大統領が?選し、初の女性大統領となった。アリアス現政?の政策を??し、米?との
自由貿易協定(FTA)
を?大させる方針である
[33]
脚注
[
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]
注?
[
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]
- ^
硬いものをつぶす?の平たい石で、人物の像など、?飾彫刻が施されたもの。(
大貫p.438
)
- ^
土地は疲弊し、先住民たちはいなくなり、集落は消え果てた。これらの問題はこの地方をパナマの
アウディエンシア
に?合するよう命じてくださるなら解決するでしょう。
(1622年4月-カルタゴ市議?議事、
モリ?ナp.38
)
- ^
サトウキビを?搾するための機械。牛に挽かせて使用する。(
モリ?ナp.54
)
- ^
王立タバコ??管理官マリアノ?モンテアレグレの手記(1818年)(
モリ?ナp.55
)
- ^
1840年に800トンだった輸出量が、1848年には1万トンを超えた。(
モリ?ナp.60
)
- ^
彼らの狙いはサンファン川と
ニカラグア湖
を利用した
パナマ?ル?ト
に代わる大西洋と太平洋をつなぐ運河の建設にあった。(
モリ?ナp.91
)
- ^
その後、ウォ?カ?は1860年、
ホンジュラス
の
トルヒ?リョ
にて銃殺?刑された。(
Juda
)
- ^
また、それを象?するような、リバスの?いにおいて、自らの命を?牲にコスタリカ軍を勝利に導いた
フアン?サンタマリア
は?民的英雄とされた。(
モリ?ナp.78
)
- ^
翌年には銃殺刑が執行された。(
モリ?ナp.85
)
- ^
トマス?グアルディア=グティエレス(1870年-1882年)、以後
プロスペロ?フェルナンデス
(1882年-1885年)、
ベルナルド?ソト
(1885年-1889年)と、グアルディア?軍と同?の目的意識を持った大統領が?けて統治した。(
モリ?ナp.89
)
- ^
1920年までに大都市における住民の87%、地方の都市住民の68%、農村の58%が?み書きができるようになった。(
モリ?ナp.100
)
- ^
340万ポンドのうち、?際に?道計?のために使用されたのは100万ポンドに?たなかったという。(
モリ?ナp.90
)
- ^
?時、コスタリカの?輸出の90%はコ?ヒ?であったが、これを契機としてバナナは?を代表する事業へと成長する。(
モリ?ナp.89
)
- ^
??は中央盆地、グアナカステ、ニカラグアなどの移民??者、?外は中?人、イタリア人、アフリカ系カリブ人など。(
モリ?ナp.92
)
- ^
1874年の中?人??者によるストライキを皮切りに、1879年?1887年のジャマイカ人、1888年イタリア人、1910年?1911年?1913年?1919年?1921年のバナナ産業??者、1906年?1907年?1911年?1919年?1920年のアバンガレス?業地???者のストライキなど。(
モリ?ナp.97
)
- ^
?時のヨ?ロッパ市場は輸出品の50%を占めていた。(
モリ?ナp.116
)
- ^
1944年に350万箱、1952年に1800万箱(
モリ?ナp.136
)
- ^
1940年に9ドル、1956年に68ドル(
モリ?ナp.136
)
- ^
1990年から92年で援助額は7800万ドルから2000万ドルとなった。(
モリ?ナp.172
)
出典
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]
?考文?
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]
書籍
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]
外部リンク
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]
在コスタリカ日本?大使館. “
コスタリカ情報
”.
2009年7月11日
??。
LINGUAMON-世界の言語-. “
ウエタル語
”.
2009年7月11日
??。
略年表
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]
?連項目
[
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