|
「
源光?
」はこの項目へ
?送
されています。平安時代の武?については「
源光?
」をご?ください。
|
?川 光?
(とくがわ みつくに、
?永
5年
6月10日
〈
1628年
7月11日
〉 -
元?
13年
12月6日
〈
1701年
1月14日
〉)は、
江?時代
前期の
大名
。
常陸
水?藩
の第2代
藩主
。後世の創作における脚色を含めて「
水??門
」としても知られる
[注 1]
。
諡?
は「義公」、
字
は「子龍」、
?
は「梅里」。また
神?
は「高?味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水?藩初代藩主?
?川?房
の三男。
江?幕府
初代
?軍
?
?川家康
の孫に?たる。
儒?
を??し、
彰考館
を設けて『
大日本史
』を編纂し、
水??
の基礎をつくった。
?要
[
編集
]
藩主時代には
寺社
改革や
殉死
の禁止、「
快風丸
」建造による
蝦夷地
(後の
北海道
石狩?
)の探?などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、
古典
?究や文化財の保存活動など??の文化事業に力を注いだ。さらに、
?川御三家
の長老として、
?川綱吉
期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行?や?記を通じて
名君
??が確立しているが、特に江?時代後期から
近代
にかけて、白?と頭巾姿で諸?を行脚してお上の?暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての?門漫遊譚が形成された。水??門は
講談
や
歌舞伎
の題材として大衆的人?を獲得し、
昭和時代
には映?やテレビドラマなどの題材とされた(「
水??門
」?照)。『大日本史』の編纂に必要な資料?集のために家臣を諸?に派遣したことや、?居後に水?藩領?を巡視した話などから諸?漫遊がイメ?ジされたと考えられるが、?際の光?は
日光
、
鎌倉
、
金?八景
、
房?
などしか訪れたことがなく、
?東
に隣接する
勿?
と
熱海
(
新編鎌倉志
?照)を除くと、現在の?東地方の範?から出た記?はない。
光?の主導した多方面の文化事業が評?されている一方で、
?政者
としては、
石高
に?し高い格式のため(「
?川御三家
」?照)、?房時代から?に?化していた藩財政に?し、?範な文化事業がさらなる財政?化をもたらしたとの指摘がされている。
生涯
[
編集
]
幼年時代
[
編集
]
?永
5年
6月10日
(西?
1628年
7月11日
)、
水??川家
?主?
?川?房
の三男として
水?城
下柵町(現在の
茨城?
水?市
宮町)にある家臣?
三木之次
の屋敷で生まれる
。
母は谷重則
[注 2]
の娘?
久子
(高?局)。『桃源遺事』によれば、?房は三木夫妻に?して久子の
?胎
を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。久子が?妊した際に、父の?房はまだ
御簾中
(
正室
)を迎えていなかった。
後年の光?自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は?付きの老女養心院の娘で、正式な
側室
ではなかった。母につき?って?に出入りするうちに?房の寵を得て、光?の同母兄である
松平?重
を?妊したが、久子の母はこのことに憤慨してなだめられず、正式な側室であったお勝の方(円理院)も機嫌を損ねたため、?房は?胎を命じた。?房乳母で?付老女の之次の妻?
武佐
が?房の
准母
英勝院
と相談し、密かに
江?
?町の別?で?重を出産したという。光?にも同?に?胎の命令が出され、光?は水?の三木邸で生まれた。
?重と光?の間には次男??丸を含め5人の兄弟姉妹がいるが、彼らには?胎命令の?承はなく、光?になぜ?胎の命が出されたかは不明である。母に勢力がなかったためだろうかと、後年の光?は語ったようである(『義公遺事』)。
『西山遺文』によれば、幼少時には三木夫妻の子(年?的には孫)として育てられたと言われ、『玄桐筆記』には生誕後間もない光?と?房が?面していることをうかがわせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆記』などの?記史料には、幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。
?永9年(
1632年
)に水?城に入城した。翌?永10年(
1633年
)
11月
に光?は
世子
に決定し、翌月には江?
小石川
の
藩邸
に入り世子?育を受ける。世子?定の時期や?緯は諸書で若干異なっているが、?房の付
家老
?
中山信吉
が水?へ下向して行われており、3代?軍?
?川家光
や英勝院の意向もあったという。翌?永11年(
1634年
)には英勝院に伴われて
江?城
で家光に?謁している。
藩主相?まで
[
編集
]
?永13年(
1636年
)には
元服
し、?軍?家光からの
偏諱
を?えられて
光?
と改める。この年、
伊藤友玄
、小野言員、?藤高康の3人が傅役となる。また水?藩家老職の
山野?義忠
の?陶を受ける
[注 3]
。だが、少年の頃の光?の言動はいわゆる
不良
であった。兄(?重)を差し置いての世子決定が光?の?持ちに複?なものを抱かせたといわれ、派手な格好で不良仲間と出?き、
相撲
大?で?加した仲間が次?と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いを行っており、
吉原遊廓
へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを?えたりもした
[4]
。さらには
?斬り
を行うなど?行を?いている
[5]
[注 4]
。光?16~17?のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。光?18?のとき、
司馬遷
の『
史記
』
伯夷
?を?んで感銘を受け、これにより勉?に打ち?むこととなる
[4]
[6]
。
承?
元年(
1652年
)、
侍女
の
?智
(玉井親次の娘)との間に男子(
?常
)が生まれるが、母の?智は妊娠中に家臣?
伊藤友玄
に預けられて出産し、生まれた子は翌年に
高松
に送られて兄??重の
高松城
?で育てられた。光?に?面したのは13?の時であったが、このとき光?は親しみの?子を見せなかったという。
承?
3年(
1654年
)、前
?白
?
近衛信尋
の娘?
尋子
(泰?)と結婚する。
明?
3年(
1657年
)、
駒?
邸に史局を設置し、
紀??
の?史書である『
大日本史
』の編纂作業に着手する。
万治
元年閏12月23日(西?
1659年
2月14日)妻?泰?が21?で死去。以後は御簾中を娶らなかった。
藩主時代
[
編集
]
?文
元年(
1661年
)
7月
、父??房が水?城で死去。葬儀は
儒?
の?式で行い、領?
久慈郡
に新しく作られた儒式の墓地?
瑞?山
に葬った。?時の風習であった家臣の
殉死
を禁じ、光?は自ら殉死の?された家臣宅を廻り、「殉死は?房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死をやめさせたといわれている。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後であるので、『義公行?』では殉死の禁止の初例としている。ただし、同じ頃、
紀州藩
、
彦根藩
、
?津藩
でも殉死を禁ずる旨の記?があるので、水?藩が初例かどうかはわからない。
8月19日
、幕府の上使を受け水?藩28万石の第2代藩主となる。『桃源遺事』では、この前日、兄??重と弟たちに「兄の長男?松千代(
綱方
)を養子に欲しい。これが?えられなければ、自分は
家督
相?を?り、遁世するつもりである」と言ったという。兄弟は光?を?得したが、光?の意志は固く、今度は弟たちが?重を?得し、?重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされている。しかし?際には、綱方が光?の養子となったのは、
?文
3年(
1663年
)
12月
である。翌?文4年(
1664年
)
2月
、光?の?子??常が?重の養子となる。さらに?文5年には?重の次男?采女(
綱條
)が水?家に移り、綱方死後の?文11年(
1671年
)に光?の養子となった。また、弟?
?元
に
那珂郡
2万石(
額田藩
)を、
?隆
に
久慈郡
2万石(
保?藩
)を分?する。
藩主就任直後の?文2年(
1662年
)、
町奉行
?望月恒隆に
水道
設置を命じた。?房時代に造?された水?下町は元?は
?地?
であったため
井?
水が濁り、住民は?料水に不自由であった。望月は
笠原
不動谷の
湧水
を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩?でつなぐ
笠原水道
を着工。?際の敷設は
永田勘衛門
とその息子が??した。約1年半で完成した。笠原水道は改修を重ね、
明治時代
に近代的な水道が整備されるまで利用された。
?文3年(1663年)、領?の寺社改革に?り出し、村?位に「開基帳」の作成を命じた。?文5年(
1665年
)、
寺社奉行
2人を任じ、翌年寺社の破却?移?などを?行した。開基帳には2,377寺が記されているが、この年?分されたのは1,098寺で、46%に及ぶ。うち破却は713寺。主な理由は不行跡であった。
神社
については、社僧を別院に住まわせるなど
神?分離
を徹底させた。また、藩士の墓地として、特定の寺院宗派に?さない共有墓地を、水?上町?下町それぞれに設けた(現在の
常磐共有墓地
と
酒門共有墓地
)。一方で、由?正しい
寺院
、
長勝寺 (潮?市)
や願入寺(
大洗町
)などについては支援?保護した。神社については、
?神社
(
那珂市
)、
吉田神社
(水?市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、
神道
を?ばせている。
?文5年(
1665年
)、
明
の遺臣?
朱舜水
を招く。朱舜水の?風は、?理を重んじる
??
派であった。朱舜水を招いた主な目的は、?校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から?現しなかった。しかし、その儒?と??を結びつける?風は、水?藩の?風の特?となって?った。朱舜水は、17年後の
天和
2年(
1682年
)死去し、
瑞龍山
に葬られた。
延?
元年(
1673年
)、5回目の就藩からの江??府に際し、通常の?路でなく、
上?
から船で
鎌倉
に渡り江?へという?路をたどった。鎌倉では
英勝寺
を?点として名所?名跡を訪ね、この旅の記?を『甲寅紀行』(
1674年
)、『
鎌倉日記
』(同年)として纏めた。
貞享
2年(
1685年
)、『鎌倉日記』をもとに河井恒久らにより、地誌『
新編鎌倉志
』が編纂された。創作の『水??門』では日本全?を諸?漫遊しているが、藩主は江?になければならず、領地を視察や移動中に寄り道することはあったが、光?は遠出といっても鎌倉にある養祖母?英勝院の
菩提寺
(
英勝寺
)に?度足を運んだ程度である
[1]
[6]
。
延?5年(
1677年
)、生母を弔うため、
久昌寺
を建立した
[7]
。
延?7年(
1679年
)頃、諱を
光?
に改める(光?52?)
[注 5]
。
貞享から
元?
の初めにかけて、建造した巨船「
快風丸
」を使い、三度にわたる
蝦夷地
探?を命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元?元年(
1688年
)出航の3度目は松前から北上して
石狩
まで到達した。
米
?
?
?
酒
などと引き換えに、?
?
一万本、
熊
や
ラッコ
、
トド
の皮などを積んで?還した。この航海により、水?藩は幕末に至るまで蝦夷地に?い?心を持った。しかし、この巨船での航海は、光?が藩主であったから幕府も?認して?現したようで、これ以降行われず、光?の死から3年目に快風丸も解?された。
?居時代
[
編集
]
元?3年(
1690年
)
10月14日
に幕府より
?居
の許可がおり、養嗣子の綱條が水?藩主を?いだ。翌
15日
、
?中納言
に任じられた。
11月29日
に江?を立ち、
12月4日
に水?へ到着。5か月ほど水?城に逗留ののち、元?4年(
1691年
)
5月
、
久慈郡
新宿村西山に建設された?居所(
西山?
)に?棲した。
佐?宗淳
ら60余人が伺候した。
光?は、元?5年(
1692年
)に
古墳
の
?掘
調査を行わせた。事の始まりは、
下野?
(現在の
?木?
)で水?藩領だった
那須郡
小口村(現?
那珂川町
)の
庄屋
?大金重貞が延?4年(1676年)、旅僧の円順から「
湯津上村
に古い碑がある」と聞いて現地を訪れ、この
那須?造碑
に刻まれた文章を調べて『那須記』という本にまとめ、光?に?上した
[8]
(湯津上村は藩領でなく
旗本
知行地であった)。光?は、碑を
那須?造
の墓ではないかと考え、貞享4年(
1687年
)に佐?宗淳に調査を命じた
[8]
。碑の下からは何も出土しなかった
[8]
が、佐?は碑を修繕して?堂を建てた。佐?は元?5年(1692年)、碑の近くにあり、那須?造のものと?承される侍塚(
上侍塚古墳
と
下侍塚古墳
)を?掘して
鏡
、
甲?
、石釧、
管玉
などを見つけたが、埋葬者を明記した墓誌などはなく、光?は出土品を
松
の箱に?めて埋め?させた
[8]
。この折の記?は、『湯津神村車塚御修理』と、水?藩が保管していた?面をもとに明治9年(
1876年
)に栗田?が記した『葬?私考』に?されている
[8]
。日本初の?術的着想による?掘といわれるこの調査は、翌元?6年(
1693年
)
4月
に終了し、6月には光?が湯津上村を訪れ、那須?造碑と?古墳を視察した。
また、古墳の調査を終えた同年4月、佐?を
楠木正成
が自刃したとされる
?津?
湊川
に派遣し、正成を?える墓を建造させた(
湊川神社
[注 6]
)。墓石には、光?の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。このほか同年、藩?であった?積甫庵(鈴木宗?)に命じて『救民妙?』を編集し、
?草
から397種の製?方法を記させた。
元?6年(1693年)から?年間、水?藩領?において、「
八幡改め
」または「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行う。
神?習合
神である
八幡社
を整理し、神?分離を?ったものである
[注 7]
。藩?66社の八幡社の?、15社が破却、43社が
祭神
を?更された。
元?7年(
1694年
)3月、5代?軍?
?川綱吉
の命により?居後初めて江?にのぼり、小石川藩邸に入った。
11月23日
、小石川藩邸?で幕府の
老中
や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の
藤井紋太夫
を刺殺した。光?が自ら能?束で「
千手
」を舞ったのち、
?屋
に紋太夫を呼び、問答の後、突然刺したという。現場近くで目?した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の?子が書かれている。幕府に出された?出によると、紋太夫が光?の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が?がるようになっていたためであり、?嗟の殺害ではなく、以前からの?罰が念頭にあり、?日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が
柳?吉保
と結んで光?の失脚を謀ったためとも言われている。翌元?8年(
1695年
)1月、光?は江?を?ち、西山?に?った。
元?9年(
1696年
)
12月23日
、亡妻?泰?の命日に
出家
する。寺社改革を?行した光?であるが、久昌寺に招いた僧?日?らと交流し、年?を重ねるごとに
??
には心を寄せていたことがうかがえる。
元?13年12月6日(1701年1月14日)に死去した。
享年
74(?72??)。72?頃から食欲不振におちいっていたため、死因は
胃癌
や
食道癌
が推定されている。
修史事業
[
編集
]
修史事業の目的
[
編集
]
光?が18?の時、『史記』「
伯夷
?」を?んで感銘を受け、それまでの素行を改めて?問に精を出すようになった。この??により、
紀??
の日本の史書を編纂したいと考えるようになったと、後年、
京都
の
遣迎院
?空宛の書簡(元?8年
10月29日
付)に書いている。?後15年後に書かれた『大日本史』の序文には「善は以て法と?すべく、?は以て戒と?すべし、而して?賊の徒をして懼るる所を知らしめ、?に以て世?に裨益し綱常を維持せんとす」とあり、紀??の史書を編み?史を振り返ることにより、物事の善?や行動の指針としようという考えであった。個人がいかなる役割を果たしたかを明らかにし、それにふさわしい「名」をその人物に?えるという、
儒?
の
正名
論に基づいたものである。
また、遣迎院?空宛の書簡には、
武家
に生まれたが、太平の世のため武名が立てられないので、書物を編纂すれば後世に名が?るかもしれない、とも書かれており、後世に名を?すことも目的だったようである。
?緯
[
編集
]
明?3年(1657年)2月、光?は修史のための史局を設ける。1か月前の
明?の大火
で
小石川
邸が全?し、駒?邸の?け?った屋?に?住まいする中での開設であった。?初の史局員は4名。
林羅山
門下で水?藩に仕えていた人見卜幽、?端亭などだった。?時、光?はまだ藩主ではなかった上に?住まいの中、あえて史局を開設したのには、江?時代最大といわれる大火で多くの書籍?諸記?が失われ、親交のあった林羅山が落?のあまり死去したことに衝?を受けたものと思われる。修史事業が本格的になるのは、藩主に就任した?文期以後のことである
[注 8]
。
光?が藩主となった翌年の?文2年(
1662年
)頃から、藩主就任に伴い修史事業が次第に本格化し、?文8年(
1668年
)には史局員は20名となった。?文11年(
1671年
)、
神武天皇
から
桓武天皇
までの本紀26冊の草稿ができた。
?文12年(
1672年
)春、駒?邸?にあった史局を、小石川邸?に移し、「
彰考館
」と名付けた。『
春秋左氏?
』序の「彰往考?」が由?である。
延?8年(
1680年
)、神武天皇から
後醍?天皇
までの本紀の?書が終わり、3年後の天和3年(
1683年
)、「新撰紀?」と?される104?(本紀21?、皇后紀5?、諸女列?1?、皇子?5?、諸子列?1?、列?70?)が完成した。
しかし、仔細を?討したところ、一?完成した「新撰紀?」についても、重複や?落があった。またこの頃、?に
南朝
の正統性に信念を抱いていた光?としては、少なくとも
南北朝合一
時の
後小松天皇
までは編纂したいと考えていたが、それには、史料の少ない南朝史の紀?を新たに執筆しなくてはならない。このため、「新撰紀?」の修正?紀?の追加と、南北朝史の編纂とを?行して進めていくこととなった。編纂の統一を?るとともに?率よく作業を進める目的から、史館員の長である?裁を選任することとなり、人見懋?が初代彰考館?裁となった。なお、同年には
安積澹泊
が彰考館に入る。
元?3年(1690年)、光?は藩主を退き、水?藩領の
西山?
に?居するが、修史事業は?けられた。元?9年(
1696年
)、69?となった光?は、生存中の本紀?列?の完成を望み、修史以外の編纂事業を縮小させ、校訂?補正作業を持ち越すように方針を?更させた。史館員も?員され、この年5人が加わり、?勢53人となっている。
同じく元?9年(1696年)、安積澹泊?
佐?十竹
?中村篁?の三者に命じて、本紀?列?を編纂するための詳細な書法や執筆の基準を記した「重修紀?義例」(元?3年に作られた「修史義例」の修正版の意)を作成させる。
翌元?10年(
1697年
)、後小松天皇までの本紀、「百王本紀」が完成した。なお、
北朝
の天皇5人は「後小松天皇紀」の初めに?書された。光?は「百王本紀」の完成を大?喜ぶとともに、未完の列?の編纂に力を注ぐために、史館員の主力を水?城に移し、編纂を促進させた。この後、江??水?の?彰考館で編纂が進められていった。
元?12年(
1699年
)の年末、
皇后
?
皇子
?
皇女
?の?書が西山?に?けられたが、この頃から、光?は?調を崩していた。
翌元?13年(1701年)12月、光?の死の前後には、本紀67冊、后妃?皇子?皇女?40冊、列?5冊(神武天皇から
持統天皇
の代まで)、計112冊が出?上がった。本紀は一?完成し、
文武天皇
以降の列?の草稿も半分以上出?ており、『大日本史』の根本部分は光?の生前に出?上がっていた。
史料の探訪
[
編集
]
延?2年(1674年)、
佐?十竹
が彰考館に入り、同4年(1676年)から史館員を遠隔地に派遣しての史料調査が行われた。
史料の??を許可された場合には、金?を支?う場合の他、水?藩の
和紙
や
海苔
、?を謝?に送った。
吉野
の
吉水院
には、秘?の文書を特別に旅籠まで貸した院主の計らいに?し、?を述べる光?の書?が?されている。しかし、文書の秘?や?損を理由に、文書の??を?られることもあった。
史料調査では、訪問先の神社?閣はもとより、通過??在する藩や旗本領などの協力が必要であったが、史館員の記?や書簡からすると、ほとんどの領主は派遣員を?迎し、手厚く接待した。史館員の派遣に幕府の許可を得ていたかは不明であるが、少なくとも?認はしていたようであり、後の諸?漫遊譚形成の一因になったと考えられる。
その他編纂文書
[
編集
]
彰考館では、第一の目的である修史(大日本史の編纂)の他にも、多くの書籍が編纂された。主なものは以下のとおり。
- 『?儀類典』 - 朝廷の恒例?臨時の朝儀?公事に?する記事を抽出?分類して部類分けした書。目?1?、恒例230?、臨時280?、附?3?の計514?。
- 『
万葉代匠記
』 - 『
万葉集
』の注?書(
契沖
著)。元?3年(1690年)完成(精撰本)。20?。
- 『扶桑拾遺集』 - 序?跋?記?日記?紀行??などの?名文313点をほぼ年代順?作者別におさめた書。30?。
- 『草露貫珠』 - 中?の
漢
から
明
までの
草書
を法帖から?き出して集?した草書
字典
。中村立節?岡谷義端編。元?8年(1695年)成立。21??拾遺1?。
- 『花押藪』 - 古記?文についての諸家の
花押
を集めて姓名と事?を記した書。丸山活堂編。7?。同じく丸山活堂編『?花押藪』7?もある。
- 『
新編鎌倉志
』 - 光?が延?元年(1673年)の鎌倉旅行をもとに、河井友水らに編纂させた地誌8?。
光?の人物像
[
編集
]
| この節には
複?の問題があります
。
改善
や
ノ?トペ?ジ
での議論にご協力ください。
- 出典
がまったく示されていないか不十分です。?容に?する
文?や情報源
が必要です。
(
2012年4月
)
- ?自?究
が含まれているおそれがあります。
(
2012年4月
)
|
- 19?の時には、上京した侍??人見卜幽を通じて
冷泉?景
と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光?について「朝夕文武の道に?む向?の?年」と話している。しかしながらその?い性格、果?な本質は年老いても?わることはなかった。
- 光?は、?者肌で非常に好奇心の?いことでも知られており、??な逸話が?っている。
- 日本の?史上、最初に光?が食べたとされるものは、
餃子
、
チ?ズ
、
牛乳
酒、
?豆
納豆
がある。
ラ?メン
も光?が最初と言われてきたが、光?が食した時期より200年以上前の『蔭?軒日?』(
相?寺
の僧による公用日記)に、ラ?メンのル?ツとされる???を食べたことが記されていたことが
平成
29年(
2017年
)に判明した
[10]
。
肉食
が忌避されていたこの時代に、光?は?軍?綱吉が制定した
生類憐れみの令
を無視して
牛肉
、
豚肉
、
羊肉
などを食べていた。
野犬
20匹(一?には50匹)を捕らえてその
皮
を綱吉に?上したという俗?も生まれた。
- オランダ
製の
靴下
、すなわち
メリヤス
足袋
(日本最古)を使用したり、
ワイン
を愛?したりするなど
南?
の物に興味を示し、海外から
朝鮮人?
や
インコ
を取り寄せ、育てている。
蝦夷地
探索のため
?人
を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒?者?朱舜水を招聘し、?授を受けている。
- ?も好物であり、カマとハラスと皮
[注 9]
を特に好んだ。
- 朱舜水が?上した
中華?
をもとに、?の作り方や味のつけ方を?えてもらい、光?はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して
長崎
から輸入される
中?
の乾燥させた
豚肉
からとった。?味には
ニラ
、
ラッキョウ
、
ネギ
、
ニンニク
、
ハジカミ
などのいわゆる五辛を使う。現在でいうラ?メンである。光?はこの自製うどんに
後?うどん
という名をつけた。後に西山?で客人や家臣らにふるまったとの記?も?っている。
[12]
。
- ?時の人物としては普通に
衆道
のたしなみもあった。光?は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は?方が快?を得るが男色は片方だけ快?であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように?政者も民も?方が快?を得るようにしなくてはならないという意味である。
- 『大日本史』完成までには光?の死後250年もの時間を費やすこととなり、光?の事業は後の水??と呼ばれる
?史?
の形成につながり、思想的影響も?えた。
- 父の?房が死の床にあったとき自ら看病に?たり、死去すると3日も食事をしなかった。
- 綱吉期に
大老
の
堀田正俊
が
?葉正休
に刺殺され、正休も
大久保忠朝
らによってすぐに殺害された。光?は幕閣の前で「如何に?葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に?して?い不信を抱いたという。
- 『玄桐筆記』によれば、光?が若い頃、知り合いの武士と出かけて?りが?くなった。?き疲れて
?草
あたりの
?堂
で一休みしていると、連れの武士が「この堂の床下に
非人
どもが?ているようだ。引っ張り出して、刀の試し斬りをしよう」と言った。光?が「つまらないことを言うものではない。罪のない者を斬ることなどできない。それに、非人の中にも手?い者がいるかもしれない。どのような反?を受けるか分からない。無用なことだ」と言うと、武士は光?を「臆病風に吹かれたのか」と罵倒した。やむなく光?は床下に?り?み、非人を捕まえて引きずり出そうとした。非人は「自分も命が惜しいのです。無慈悲なことはやめてください」と哀願した。光?は「自分も無慈悲な振る舞いだとは思うが、仕方がない。前世の因?だと思って諦めてくれ」と言い、非人を引き出して斬り捨てた。光?は連れの武士に「さてさて、むごいことをしてしまいました。あなたが、そんな人間とは知らずにこれまで付き合っていたことが悔やまれます。今後は、もう、お目にかかることもないでしょう」と言い、その日を境に絶交したという
[13]
。
- 『盛衰記』によれば、「御手討被遊候??人御貰被遊」(自分で斬ってみようと死罪人を一人頂戴し試し斬りをした)が、光?の手が返って刀の峰(刀の背の部分)で斬ったため罪人は助かり、光?は再度斬ろうとせず罪人を放免した。?時は大名が幕府から罪人を貰い受け、刀の切れ味を試すために生きたまま試し斬りにする風習があったが、光?は最初から罪人の命を助けるつもりで貰い受けたようだという
[14]
。
- 『盛衰記』によれば、水?の領?で親を殺した男がいた。牢屋に入れられた男は「殺したのは自分の親だ。自分の考えに反?したので殺しただけだ。それを御上が問題にするのはおかしい。自分は
年貢
もきちんと納め、御上の法にも違反していない。いったい何の罪で牢に入らなければならないのか」と言った。それを聞いた光?は「
五常
の道(仁義?智信)さえ知らない(倫理?を持たない)者を殺すのは藩主の誤りである」と考え、男に
論語
の講?を聞かせた。三年目に男は親殺しの罪の重さを知り、自ら死刑にするよう願い出た。光?は男が自分の非を悔い改めたと聞き、初めて?刑を命じたという
[15]
。
- 『桃源遺事』によれば、?居した光?は
松前藩
から?上され江?屋敷で飼育していた
タンチョウヅル
を西山?(現在の茨城?
常陸太田市
)に放したが、この鶴を長作という男が殺してしまった。長作は捕らえられ、激怒した光?は「自ら成敗する」と言って長作を牢から引き出した。光?は「憎い奴め。憎んでも憎み足らぬ」と言って長作を斬り捨てようとしたが、「この者を殺しても鶴は生き返らぬ。禽?のために人を殺すわけにはいかない。許してやれ」と言い長作を追放した。さらに光?は「このような者が無一文で放り出されれば、またどこかで?事を?くしかないだろう。どこかに落ち着くまで?と米飯を?えてやれ」と命じた。作家の
仁科邦男
は「
生類憐みの令
で
?川綱吉
は犬殺しの犯人を極刑に?したが、光?は愛する鶴を殺されても犯人を助命したばかりでなく、犯人の更生に手を貸した。光?の方がよほど生類を憐れみ、人命を尊重する名君だった」と評している
[16]
。
光?とその後の水?藩
[
編集
]
水?藩は『大日本史』の編纂に多大な費用を掛けた。一?に藩の?入の3分の1近くをこの事業に注ぎ?んだといわれている(3分の1?の他、8万石?、3.5分の1?、3万石?5万石?7万石?、10万石?などがあるが、いずれも根?は明確でない)
[18]
。
水?藩の財政は初代の父??房の藩主時代から苦しく、光?の藩主時代後期には財政難が表面化していた。光?は藩士の俸?の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな?果は上がっていない。光?の養子?綱條も財政改革に?り出すが、水?藩領全?を?き?む大規模な
一揆
を招き、改革は失敗する。その後も水?藩にとって財政の立て直しは重要課題であり?け、??な改革と幕府からの借金を繰り返した。一方で『大日本史』の編纂は光?の死後も??され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされる。
また光?は他の
御三家
に?抗するため、?時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、
表高
が28万石だった水?藩を見かけ上36万9千石にした。この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが上記『大日本史』編纂事業とあいまって水?藩困窮の要因となった。
光?の?芸振興は「
水??
」を生み出して後世に大きな影響を?えたが、その一方で藩財政の?化を招き、ひいては領民への負?が重くなり、農民の
逃散
が絶えなかった。
一方、光?が彰考館の?者たちを優遇したことにより、水?藩の士や領民から、?問によって立身?出世を目指す者を他藩より多く出すことになる。低い身分の出身であっても、彰考館の?裁となれば、200石から300石の?高とそれに見合う役職がつけられた。光?時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めた。また、
那珂湊
の船手方という低い身分から、14?の時、光?に認められ、後に?裁になった打越樸?がいる。他藩から招聘者のなくなった後期の彰考館員、後期水??の?者は、ほとんどが下級武士や武士以外の身分から出た者たちであり、
藤田幽谷
や
??正志?
は彰考館を?て立身した典型的な例である。彼ら後期水??者にとって光?は絶大な人?があり、彼らの著作を通じて、光?の勤皇思想が?態より大きく?められたとの見方もある。
水??川家
は
?勤交代
を行わず江?に
定府
しており、??は申し出によるものであった(常に?軍の傍に居る事から水?藩主は俗に「
(天下の)
副?軍
」と呼ばれるようになる)。財政?化もあり、中?後期の藩主はほとんど??しなかった。光?は藩主時代計11回??しており、?代藩主の中では最多である。また?代藩主唯一の水?生まれであり、誕生から江?に出るまでの5年と、?居してから?するまでの10年を水?藩領?で過ごした。そのため、水?藩領?における?連した史跡は後の藩主に比べると格段に多い。
年譜
[
編集
]
※日付=
明治
5年(
1872年
)12月2日までは??
系譜
[
編集
]
- 御簾中:
近衛尋子
(泰?) -
近衛信尋
の娘
- 侍女:
?智
(親量院) - 玉井親次の娘
- 養子女
- 養女:鍋?(
英勝寺
2代住持?松??山尼、姪、妹?市?の娘)
- 養子:
綱方
(甥、兄?
?重
の長男。世子としてもらい受けるが襲封前に早世)
- 養子:
綱條
(甥、綱方の弟。のちの水?藩3代藩主)
御簾中の泰?には結婚5年ほどで先立たれており、また終生正式には側室を持たなかった(?常を生んだ侍女??智は出産後、家臣
望月信?
と結婚した。夫の死後、?常の願いにより
高松
に移り住む)。??のほどは不明であるが、いくつかの
落胤
?がある。領?
額田村
の
豪農
鈴木家に嫁いだ「万妃」。
磯原村
の
?士
野口家(
野口雨情
の祖先)に下げ渡した侍女の子。菓子商?志屋に嫁いだお島の子
[注 11]
。また
成田山新勝寺
の中興一世
照範
も光?の落胤との?がある。
また、私的な養女として系?には記載されないが、
?土?宗
願入寺
15世
如高
の娘を養女としたことが知られている。願入寺門主は
親鸞
の長男?
善鸞
の子?
如信
の子孫であるが、?時水?藩領?の
久米村
で零落していた。親鸞末女の子孫である
本願寺
の隆盛に?し、嫡系といえる願入寺の零落に心を痛め、娘を養女とし城?に入れて鶴子?と?し、
東本願寺
第14代門主?
琢如
の次男?
如晴
(瑛兼)を?に迎え、寺領300石を?えて願入寺を再興させた。光?との親交は厚く、遺品や多?の書?が?っている。
?記
[
編集
]
多?の?者が側近にいたことにより、光?の?記?言行?は同時代人に比べて多い。主なものは以下のとおり。
- 『義公行?』 - 元?14年(1701年)。中村篁溪?
栗山?鋒
?
酒泉竹軒
?
安積澹泊
編。藩主綱條の命で編纂された漢文?の?記。のち
享保
8年(1723年)、光?の文集『常山文集』が出版される際、?末に付?として刊行。安積澹泊により全般的改訂がされた。
- 『桃源遺事』 - 元?14年(1701年)。三木之幹?宮田?貞?牧野和高編。和文?による言行?。別名『西山遺事』。和文のため最も?く流布した。
- 『玄桐筆記』 - 元?14年(1701年)。井上玄桐編。侍?であった玄桐が書いた光?の言行?。光?の死後故?の京都に?り、水?の安積澹泊に向けて書き送ったもの。
- 『義公遺事』 - 成立年不明。中村篁溪(1647年 - 1712年)編。光?に近侍していた時期に見聞した光?の言行?逸話や、光?の命を受けて活動した??などを記す。
- 『西山遺聞』 - 天明6年(1786年)。
立原翠軒
編。光?の逸話で、諸書に?載されていないものを集めたもの。
著作等
[
編集
]
漢文集『常山文集』、
歌集
『常山詠草』、?筆『西山?筆』などがあり、
?川?順
編『水?義公全集』(1970年、水府明??)に??されている。
墓所??廟
[
編集
]
登場作品
[
編集
]
脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
- ^
「
水??門
」とは、水?藩主で
中納言
?
?中納言
に任命された「
水?中納言
」の
唐名
(漢風名?)を意味する。一般に「水??門」といえば光?のことを指すが、中納言??中納言に任命された水?藩主は
?房
、光?、
綱條
、
治保
、
?脩
、
?昭
、
慶篤
が該?し、
水??門は7人いた
ということになる
[1]
。
- ^
重則は、はじめ
下野?
佐野城
城主?
佐野宗綱
に仕え、後に
鳥居忠政
の家臣となり、
?永
7年(
1630年
)、山形で?した
- ^
義忠は
山形藩
の藩祖?
最上義光
の子で、
最上?動
で
改易
される要因になるも、有能な人物として知られている。
- ^
?永17年(1640年)光??え13?の逸話
[5]
。
- ^
a
b
天和
3年(
1683年
)に改名したとの?もある。「?」字は
武則天
(則天武后)の命で定めた
則天文字
の一字であり、他の用例はほとんどない。
- ^
光?が楠木正成の墓を建立した場所は、
明治
5年(
1872年
)、
明治天皇
によって湊川神社が建立され、
昭和
30年(
1955年
)には光?の銅像と頌?碑が建てられている。
- ^
もともとは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて水?藩の領域に進出してきた佐竹氏(源氏)が地域の支配のために石?水八幡宮を?請して地域の祭神を置き換え、更に室町時代に上杉氏(藤原氏)から佐竹義人が佐竹氏を相?して?紛が?生した際に鶴岡八幡宮を?請して石?水系の神社を崇敬する反義人派に?抗しようとした事情があり、光?の神?分離では
神?習合
色の?い八幡信仰が抑?されると共に水?藩領域を長く支配した佐竹氏支配の?滓を排除する目的もあったと指摘されている
[9]
。
- ^
?文2年(1662年)、幕府は林羅山の子
林?峰
に『本朝編年?』の編纂??を命じ、2年後には編纂所として?史館が建てられ、書名も『
本朝通鑑
』となった。この?文4年(1664年)11月、光?は?峰を小石川邸に招いて?史について問答している(『?史館日?』)。『本朝通鑑』は?文10年(1670年)完成するが、こうした幕府?林家の修史事業も光?に影響を?えた。
- ^
そのため「皮厚さ一
寸
の?を持ってきたら、35石と取り替える」という?がたったという話が?わるが、これは原典は
伊達政宗
の同?容の逸話であるとされている
[11]
。
- ^
??のため?際には1701年1月14日。
- ^
森鷗外
は『?阿?の手紙』十九章において、お島が光?の藩主時代(1690年以前)にその胤を宿したと推測している
[19]
。
出典
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
?連項目
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]
|
---|
水??川家
(宗家)
|
- ?房
1609-1661
- 光?
1661-1690
- 綱條
1690-1718
- 宗堯
1718-1730
- 宗翰
1730-1766
- 治保
1766-1805
- 治紀
1805-1816
- ?脩
1816-1829
- ?昭
1829-1844
- 慶篤
1844-1868
- 昭武
1868-1883
- 篤敬
1883-1898
- ?順
1898-1969
- ??
1969-1986
- ?正
1986-現在
|
---|
|
松??川家
|
- 武定
1892-1957
- 博武
1957-1986
- 文武
1986-現在
|
---|
御連枝
(松平家)
|
|
---|
その他の支家
(松平家)
|
松平求馬家
| |
---|
長倉松平家
|
- ?泰
- ?福
- ?匡
- ?忠
- ?脩
- 保福
- ?紹
- ?善
- ?位
- ??
- ?功
- ?遵
|
---|
駒?松平家
| |
---|
松平?書家
| |
---|
松平大膳家
| |
---|
|
---|
水??川家
水?藩
2代藩主 (1661年 - 1690年)
|
---|
武田家
| |
---|
紀伊?川家
| |
---|
水??川家
| |
---|