宮家

半保護されたページ
出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

皇室






宮家 (みやけ)とは、 日本 において、 宮? を賜った皇族男子( 親王 又は 諸王 )を祖とする、 皇族 の一家のことである。

?要

全般

宮(みや)とは、元?、 天皇 および皇族の邸の事を指し、?じて(邸宅に住んでいる) 皇族 の尊?となった [1]

さらに、親王の 身位 とともに「○○宮」との??( 宮? )を 世襲 することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮?に?じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根?を持つものではない。また、 宮?の授?と、宮家の創立は必ずしも同時ではない (例: 賀陽宮 家)。「○○宮」の??は個人 [注? 1] ?? であり、その家族は用いない。

宮家のうち、特に 天皇 の子や兄弟が創設した宮家を 直宮家 (じきみやけ)という。

宮家の?承?創設??絶

江?時代までは、特に定められた4つの宮家( 世襲親王家 )( 伏見宮 有栖川宮 閑院宮 桂宮 )のみが?承され、嗣子が不在の場合はほかの宮家あるいは?廷皇族(天皇の最近親)の男子が?承していた。

幕末になると 伏見宮邦家親王 の皇子達が複?の宮?を立て、1889年(明治22年)に施行された 皇室典範 により、 永世皇族制 が確立され、宮?の?減が起こるようになる。

基本的に、各宮家の?嗣 [注? 2] が宮?を?承し、他の男子は新たに宮家を創設するか、あるいは 臣籍降下 する。

皇室典範では新?ともに 養子 を認めていないため、宮家に嗣子が不在(男子が生まれない、あるいは早世等した場合)の場合は、他宮家の皇族への宮??承は行えず、宮家は?絶する。嗣子がいない場合は、たとえ?世襲親王家であっても、?絶は回避されない。また、嗣子に?不治の病?がある場合、 ?嫡 が行われたが(例: 伏見宮 家の 邦芳王 )、宮??承後に?病した場合は弟が健在でも、宮家存?の措置は取られなかった(例: 山階宮 家の 武彦王 )。

最後の宮?保有者 [注? 1] が薨去後した後も、配偶者(未亡人)や未婚の女子等が皇族として留まっている間は、宮家としては存?する。

宮家に所?した最後の人物が薨去した後、1年後の命日に「一周年祭の儀」が執り行われる [2] 。最後の人物に?する葬儀としては、これで終了する [2]

その2日後、最後の人物の御?に通常の食事を供え、 「??の儀」 を執り行い、 皇居 ?の 皇?殿 に?魂を移す [2] 。すなわち、最後の人物は、宮家の御??には祀られない。そして、?該宮家の御??で、御??に?っていた御?(過去に薨去した皇族の 分? )に?し 「神昇の儀」 を執り行う [2] 。この儀式( 神事 )を?て、宮家は正式に 絶家 となる [2]

祭祀の?承例

上述のように、??現皇室典範下では、宮家自?を他家の皇族が?承することはできないが、宮家の 祭祀 については他家の皇族が?承した例がある。

有栖川宮 家は、1908年(明治41年)、嗣子の 栽仁王 が早世し絶家が確?になったのち、 有栖川宮威仁親王 は、 伊藤博文 に「有栖川宮先代ノ系統ヲ思ヘバ、先例ニ倣ヒ、皇子孫ノ入ラセラレンコトヲ希望スル他意ナシ」と認め、皇子孫による?承を?く希望した [3] 。1913年(大正2年)6月、重篤となった威仁親王に、後?者問題の?諭が?達された [4]

同年7月6日、大正天皇の第三皇子 光宮宣仁親王 に「 高松宮 」の??が?えられた [5] 。高松宮は有栖川宮の??であり、また威仁親王の外孫 ?川喜久子 と宣仁親王の婚約も?定した [6] 。1923年(大正12年)、有栖川宮家は 威仁親王妃慰子 の薨去をもって?絶すると、高松宮はその葬儀で喪主を務め [7] 、高松宮家が有栖川宮家の祭祀を?承し、また、同家にまつわる資料を刊行した。

祭祀の?承により、宣仁親王を?質的に有栖川宮家の後?に疑したことは、伊藤による「 超法規的措置 」として受け止められた [8]

この他、皇族男子が 臣籍降下 して?絶した宮家の祭祀を?承した例に、 華頂博信 侯爵 伏見宮博恭王 の第3男子)や 東伏見慈洽 伯爵 久邇宮邦彦王 の第3男子)がある。

現存する宮家

宮家 ?み 現?主 創設 創設者 現人? 備考
秋篠宮 あきしの 文仁親王 1990年 (平成 0 2年) 0 6月29日 上皇 (第125代天皇 明仁 )第二皇男子文仁親王 4人 直宮家
常陸宮 ひたち 正仁親王 1964年 (昭和39年) 0 9月30日 昭和天皇 第二皇男子正仁親王 2人 直宮家
三笠宮 みかさ 崇仁親王妃百合子 1935年 (昭和10年) 12月 0 2日 大正天皇 第四皇男子 崇仁親王 4人 直宮家
高円宮 たかまど 憲仁親王妃久子 1984年 (昭和59年) 12月 0 6日 崇仁親王第三男子 憲仁親王 2人

系?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇
 
秩父宮
 
高松宮
 
三笠宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇 明仁
 
常陸宮
 
 
桂宮家
 
高円宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今上天皇 ?仁
 
秋篠宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

宮家一?

現在の宮家皇族

宮家 名/?み ?柄 世? [注? 3] 生年月日/年? 皇位?承
順位
?政
就任順位
秋篠宮 文仁親王 ふみひと 親等1/ 皇弟 1 一世 ( 1965-11-30 ) 1965年 11月30日 58? 第1位( 皇嗣 0 1位
紀子 きこ 親等99/ 文仁親王妃 ( 1966-09-11 ) 1966年 9月11日 57?    
佳子?親王 かこ 親等2/ 皇姪 2 二世 ( 1994-12-29 ) 1994年 12月29日 29? 0 5位
悠仁親王 ひさひと 親等2/ 皇甥 2 二世 ( 2006-09-06 ) 2006年 9月6日 17? 第2位 (未成年)
常陸宮 正仁親王 まさひと 親等2/ 皇叔父 1 一世 ( 1935-11-28 ) 1935年 11月28日 88? 第3位 0 2位
華子 はなこ 親等99/ 正仁親王妃 ( 1940-07-19 ) 1940年 7月19日 83?    
三笠宮 百合子 ゆりこ 親等99/ 崇仁親王 ( 1923-06-04 ) 1923年 6月4日 100?    
信子 のぶこ 親等99/ 寬仁親王 ( 1955-04-09 ) 1955年 4月9日 69?    
彬子女王 あきこ 親等5/ 皇再?妹 3 三世 ( 1981-12-20 ) 1981年 12月20日 42?   0 6位
?子女王 ようこ 親等5/ 皇再?妹 3 三世 ( 1983-10-25 ) 1983年 10月25日 40?   0 7位
高円宮 久子 ひさこ 親等99/ 憲仁親王 ( 1953-07-10 ) 1953年 7月10日 70?    
承子女王 つぐこ 親等5/ 皇再?妹 3 三世 ( 1986-03-08 ) 1986年 3月8日 38?   0 8位

?史

古代~中世

平安時代 末期から 鎌倉時代 初期に掛け、皇族ゆかりの神官が特殊な舞や神事を?承した際に「宮」の名を持たせる習慣が生まれる。

そしてこの習慣は 親王宣下 の制度以降、特に皇族の慣習として?著となり、本?その資格のない2世王以下の皇族が天皇? 太上天皇 養子?組 ? 猶子 となって代?親王宣下を受けることで 親王 の身位を保持し?けるようになり、後世「 世襲親王家 」と呼ぶようになった。これが現在の「宮家」の源流である。

たとえば、鎌倉時代中期に 順?天皇 の皇子 忠成王 岩倉宮 善統親王 四?宮 を名?り、子孫に宮?が?わっている。また、宮?は?していないものの、 親王?軍 (宮?軍)も、 惟康親王 の娘が 久明親王 の正室となって後?者を儲けたことを考えると、初代の 宗尊親王 後嵯峨天皇 の皇子)から最後(4代目)の 守邦親王 まで代? 征夷大?軍 の職と親王の身位を世襲した「親王?軍家」とみなすことが出?、これも「宮家」の先?とみなす見解もある [9]

本格的な世襲親王家の嚆矢とされるのが、 室町時代 に成立した ?山天皇 の皇子 恒明親王 を始祖とする 常盤井宮 と、 後二?天皇 の皇子 邦良親王 を始祖とする 木寺宮 である。?親王とも、 皇位 を?承する可能性があったが、?時の 持明院統 大?寺統 ?統迭立 の情勢に?弄され、?際には皇位に就く事がなかった。これらの親王には所領があり、子孫に代???的基盤として?えられた。

常盤井宮、木寺宮?家は、室町時代の後期頃には?絶したと考えられるが、この2つの宮家に次いで創設され、以後、約550年間の長きに渡って?いたのが 伏見宮 である。

さらに、 室町時代 には、? 南朝 の末裔である 小倉宮 玉川宮 のような例も見られる。いずれにしても、皇位?承?いに敗れた皇族が、皇位を確保した本家に政治的に?抗するかたちで分家を創立する、というパタ?ンは共通する。そのときどきの天皇にとっては、むしろ不本意な事態として、世襲親王家は?足したのである。

しかし、 ?仁の? 以降は、 朝廷 の極度の衰退により、世襲親王家の創設は朝廷外部からの??的支援がなければ不可能になり、朝廷にとってむしろ?迎すべき事態へと?わってゆく。統一政?の成立以降に、 桂宮 有栖川宮 閑院宮 の3家が創設され、 伏見宮 とあわせて、この4つの世襲親王家を「四親王家」と呼ぶ。

中世の宮家の問題については、 松??の?究 [10] に詳しい。中世における宮家の成立に、中世における「王家」の?容が?係深いことと、近世以降の「世襲親王家」という?念は、中世の宮の「家」には存在しないことなどを論じている。

中世~近世:四親王家

伏見宮 は、 北朝 第3代 崇光天皇 の第一皇子 ?仁親王 が始祖である。第3代 貞成親王 (さだふさしんのう)の第一王子彦仁王が傍系にあたる ?光天皇 が後嗣なく崩御したことにより、 正長 元年( 1428年 )に第102代 後花園天皇 となって皇位を?承した。この後花園天皇が現在の皇室の男系の祖となっている。一方、貞成親王の第二王子 貞常親王 (後花園天皇の弟)の男系子孫は代?伏見宮を?承し、特に第20代?23代 邦家親王 からは多くの子孫が宮家を創設した(いわゆる 伏見宮系皇族 )。しかし敗?を?て、 昭和 22年( 1947年 )に、現行の皇室典範下で臣籍降下を余儀なくされた。世襲四親王家の中では最古であり、現在の皇室?びに、以下に?げる桂宮?有栖川宮?閑院宮は、全て伏見宮家が始祖である。

桂宮 は、 正親町天皇 の第1皇子 誠仁親王 の第6王子 智仁親王 (としひとしんのう)によって創設された。智仁親王は、 豊臣秀吉 の猶子であったが、 天正 17年( 1589年 )に秀吉に?子 鶴松 が生まれたために?組が解消された。秀吉の奏請により、智仁親王に所領が?えられ「八?宮」の宮?を賜ったのが始まりである。以後、「常盤井宮」「京極宮」、そして「桂宮」と改?し、 明治 14年( 1881年 )の第12代?主 淑子?親王 [注? 1] 薨去まで存?した。

有栖川宮 は、 ?永 2年( 1625年 後陽成天皇 の第7皇子 好仁親王 (よしひとしんのう)によって創設された。初めは「高松宮」と?した。好仁親王には後嗣が無く、 後水尾天皇 の第6皇子で親王の甥に?たる良仁親王(ながひとしんのう)が第2代を?承し、花町宮または、桃園宮と?した。ところが、 承? 3年( 1654年 )兄の 後光明天皇 が?したため、良仁親王は第111代 後西天皇 として皇位を?承した。宮家は後西天皇の第2皇子 幸仁親王 が?承し有栖川宮と改?された。1913年(大正2年)6月、 有栖川宮威仁親王 が薨去し?絶した。

閑院宮 は、皇統の?絶を危?した 新井白石 の建言で創設された。 東山天皇 の第6皇子であり 中御門天皇 の傍系(弟)にあたる 直仁親王 (なおひとしんのう)が、幕府から1000石の所領を?上され、 享保 3年( 1718年 )祖父の ?元法皇 から「閑院宮」の宮?を賜った。新井白石の危?は現?のものとなり、中御門天皇の曾孫にあたる 後桃園天皇 安永 8年( 1779年 )に後嗣なく崩御した事により、第2代 典仁親王 の第六王子祐宮が第111代 光格天皇 として皇位を?承した [注? 4] 。先帝の傍系にあたる宮家から皇位を?承したのは光格天皇が最後であり、光格天皇の皇子 仁孝天皇 以後は、その男子( 皇太子 )が次代天皇に?位し、現在の皇室まで連なっている。

一方で宮家としては、典仁親王第一王子 美仁親王 (光格天皇の兄)が第3代として?承するが、その孫の第5代 愛仁親王 が子孫なく薨去した?、一度途絶える。その後 明治時代 になって、伏見宮邦家親王の王子 載仁親王 が第6代として?承するも、その子である第7代 春仁王 に再び子孫なく、臣籍降下後の 昭和 63年( 1988年 )に死去した事で絶家した。

以上、宮家出身の皇族が皇統を?いだのは、3例である。

  1. 第102代 後花園天皇 伏見宮貞成親王 の第1 皇子
  2. 第111代 後西天皇 有栖川宮 第2代?主。
  3. 第119代 光格天皇 閑院宮典仁親王 の第6王子。

近現代

幕末 から 明治時代 にかけては新しい宮家が??と新設され、それまで 出家 していた皇族 [注? 5] 還俗 して天皇の藩?としての役割を?うことになった。

まず、文久3年( 1863年 )に中川宮(のちに賀陽宮を?て 久邇宮 に改?)、元治元年( 1864年 )に 山階宮 、以後明治3年( 1870年 )までに 梨本宮 、聖護院宮(改?し 北白川宮 )、 華頂宮 東伏見宮 (改?し 小松宮 )の各宮家が設立された。

明治22年( 1889年 )、 皇室典範 (いわゆる?皇室典範)の制定によって 永世皇族制 が確立された。これにより、皇族の 家格 は?止される。皇室典範の制定後、明治33年( 1900年 )には 賀陽宮 が諸王家に列せられ [注? 6] 、明治36年( 1903年 )には 東伏見宮 、明治39年( 1906年 )には 竹田宮 朝香宮 東久邇宮 の3宮家が設立された。竹田?朝香?東久邇の各宮家は、いずれも 明治天皇 皇女を妃に迎えている。

その後、 大正天皇 の3皇子のうち、大正2年( 1913年 )に 宣仁親王 が?絶した 有栖川宮 の祭祀を?承するために8?の時に 高松宮 の宮?を賜り宮家を創立した。また、20?で?立したのを機に、大正11年( 1922年 )に 雍仁親王 秩父宮 の宮?を、昭和10年( 1935年 )に 崇仁親王 三笠宮 の宮?を賜り、それぞれ宮家を創設した。

?皇室典範は?初は 永世皇族制 を本則として採用する一方、明治40年( 1907年 )に公布された皇室典範?補は、王が勅旨または情願により 華族 に列せられるべきことを定めていた。さらに大正9年( 1920年 )には「皇族ノ降下ニ?スル施行準則」が制定され、天皇から5~8世王は請願の有無を問わず賜姓降下することとされた。以降、12人が降下し、華族(次男は侯爵、三男は侯爵又は伯爵、四男?五男は伯爵)に列せられている。

第二次世界大? 敗? 後には 占領下 での 連合?軍最高司令官?司令部 (GHQ)の指令に基づいて、 皇室財産 の?有化、皇族の財産に?する特?の停止などが決定され、敗?後の窮乏した?家財政では?前の規模の皇室を維持できなくなったことから、秩父宮、高松宮、三笠宮の三 直宮家 大正天皇 所生)を除く11宮家51人が皇族の身分を離れることとなった。

現在の 皇室典範 は昭和22年( 1947年 5月3日 に施行され( 日本?憲法 施行と同日)、同年 10月14日 に11宮家51名(いわゆる ?皇族 ?伏見宮系皇族)が、形式上は自?的な意思によって 臣籍降下 (いわゆる皇籍離?)した。

現代では、宮家創設は、?主を引き?ぐ最年長の男子以外の男子が結婚や?立を機に行われてきた [12] 。昭和39年(1964年)に 常陸宮 、昭和59年(1984年)に 高円宮 、昭和63年(1988年)に 桂宮 の、各宮家が創設されたが、いずれも嗣子がいない。そして、1990年(平成2年)に 秋篠宮 家が創設された。

現在抱えている問題

平成18年( 2006年 )に秋篠宮文仁親王に 悠仁親王 が誕生した。それ以外の宮家(常陸?三笠?高円)については、昭和29年( 1954年 )の 高円宮憲仁親王 以?、宮家を?承する、あるいは新たに宮家を創設することができる皇族男子は誕生していない。よってこの3宮家は、現在の規定では、??の絶家が確?である。

伏見宮系皇族 (?皇族)が皇籍を離?した昭和22年( 1947年 )10月以降、宮?保持者の子女に宮家を?承できる男子(若宮)が存在したのは以下の2例しかない。

  1. 三笠若宮: 寬仁親王 (平成24年( 2012年 )に 薨去
  2. 秋篠若宮: 悠仁親王

このうち?仁親王は、父の 三笠宮崇仁親王 よりも先に 薨去 したため、宮?が次代に?承された例は、1例もない。

皇族男子の著しい減少による皇位?承問題と共に、宮家の存?も危機的な?況である。

その他

皇室における「宮」

名字

法的に名字に「宮(ノミヤ)」を付してはならないという定めはなく、現代でも、特異な神事や舞を?承成し得た神官( 神職 者)に?し「宮(ノミヤ)」を付した全く異なる名字とする習慣が?っているが、それは 宮? ではなく、 皇族 に?係するという定義に於ける現代で云われているところの「宮家」とは一切?係がない。但し特異な神事や舞は、皇族ゆかりの作法や古き神道の作法であることから、 神道 ?では宮家という?語を「連なる者??承する者」の意味で使うこともある。

なお 神職者 襲名 や改名に於いて「宮(ノミヤ)」を付すことについて 神社? は禁止してはおらず、 平成 期にあっても 家庭裁判所 の許可は問題なくおりている( 神道 ?係者以外の者で「宮(ノミヤ)」を付す許可を得た者は、 終? 以降一人もいない)。

?考文?

  • 威仁親王行?編纂?『威仁親王行?』 下、威仁親王行?編纂?、1926年。 全?書誌番? : 43052156  
  • 荒木敏夫 『日本古代の皇太子』 吉川弘文館 古代史?究選書 〉、1985年10月。 ISBN   978-4642021586  
  • 高松宮妃喜久子 『菊と葵のものがたり』 中央公論社 、1998年11月。 ISBN   978-4120028397  

脚注

注?

  1. ^ a b c 宮? を保有するのは皇族男子(親王?又は王)が原則であるが、唯一、 桂宮淑子?親王 仁孝天皇 第三皇女)が宮?を?承し、宮家を維持した。
  2. ^ 基本的に第一男子だが、?皇室典範では 嫡出 の男子を優先していた(→ 身位 を?照)。
  3. ^ 直系 尊? 天皇 から?えた?
  4. ^ 後桃園天皇には唯一の皇女として 欣子?親王 がおり傍系にあたる光格天皇の中宮となり、 ?仁親王 ??仁親王をもうけるがどちらも後嗣なく薨去。中御門天皇からの皇統は女系も含めて?絶した。
  5. ^ 法親王 入道親王 宮門跡 を?照。
  6. ^ 邦憲王 への 宮? の授?自?は、 1892年 (明治25年) 12月17日 [11]

出典

  1. ^ 荒木 1985 p.126
  2. ^ a b c d e 高松宮妃喜久子 1998 p.93
  3. ^ 威仁親王行?(下) 1926 p.228
  4. ^ 威仁親王行?(下) 1926 p.261
  5. ^ 大正2年宮?省告示第8?(『官報』?外、大正2年7月6日)( NDLJP : 2955398/18
  6. ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.19
  7. ^ 『官報』第3277?「宮廷?事」、大正12年7月3日( NDLJP : 2955400/4
  8. ^ 威仁親王行?(下) 1926 p.230
  9. ^ ?我部愛「〈宮家〉成立の諸前提」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7 P243-245.
  10. ^ 松? ? (まつぞの ひとし) 『中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年7月)
  11. ^ 『官報』第2843?「宮廷?事」、明治25年12月17日( NDLJP : 2946108/2
  12. ^ 宮??Webサイト 皇室

?連項目