天?川

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天?川
天竜川
天?川( 浜松市 天?? 、2012年5月12日)
水系 一級水系 天?川
種別 一級河川
延長 213 [1] km
平均流量 135 m³/s
(鹿島?測所1939年?2002年)
流域面積 5,090 [1] km²
水源 諏訪湖 (長野?)
水源の標高 759 m
河口?合流先 遠州灘 (?岡?)
流域 日本の旗 日本
長野? ? 愛知? ? ?岡?
地図
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諏訪湖 より流れ出た天?川(長野?岡谷市)

天?川 (てんりゅうがわ、天龍川)は、 長野? から 愛知? ?岡? を?て 太平洋 へ注ぐ天?川水系の本流で、 一級河川 のひとつ。幹川流路延長は213km [1] (日本全?9位)、流域面積は5,090 km 2 [1] (日本全?12位)。

名? [ 編集 ]

?史書『 ?日本紀 』が 遠江? の「?玉河」が ?? 元年(715年)に水害を起こしたことを記す [2] 。同書の別の箇所には「荒玉河」ともあり、どちらも「あらたまがわ」であろう [3] 平安時代 には「??川」、 鎌倉時代 には「天の中川」、その後は「天?川」と呼ばれるようになった。「天?」はもともと、天から降った 諏訪湖 へ流れ出て天?川の流れとなることから、「あめのながれ」と?まれたが、のちに 音?み となったという?がある [4]

「?」の字が使われたのについては2つの?がある [4]

  • 天?川の水の流れが速く、 ? が天に昇っていくかのように見える。
  • 天?川の流れ出る 諏訪湖 の近くにある 諏訪大社 に祭られている ?神 から取った。

地理 [ 編集 ]

天?川の源流は長野?と山梨?にまたがる 八ヶ岳連峰 にあり、その最高峰の 赤岳 が源となっている [1] 諏訪盆地 諏訪湖 に集まった水は、西岸の 釜口水門 (長野? 岡谷市 )から「天?川」として流出する [1] 。一般的には、「天?川」としての水源は諏訪湖とされている [5] [6] [7] [8] 。?土交通省による幹線流路延長は213キロメ?トル [1] 、流域面積は5,090平方キロメ?トル [1]

水門をでると、 赤石山脈 (南アルプス)と 木?山脈 (中央アルプス)のあいだを流れ南へ向かう。この谷あいは 伊那谷 と呼ばれる。その後は一部愛知?をかすめ、?岡?へ?ける。 浜松市 天?? 二?町鹿島で平野部に出、 三方原台地 (浜松市)と 磐田原台地 磐田市 )の間の低地を流れ、 遠州灘 に注ぐ。

上流部の伊那谷は、幅約30キロメ?トル、南北約70キロメ?トルの盆地で、天?川はその中央を北から南に流れる [9] 。開けた地形であるが、河川勾配は100分の1から250分の1で、かなりきつい [10] 。東の 赤石山脈 と天?川の間には、1600から1800メ?トル級の山が連なる 伊那山地 があり、これと赤石山脈の間を 中央構造線 が通っている。その?しい谷を南あるいは北に流れた支流が、伊那山地の切れ目から西に出て天?川に合する [11] 。西の 木?山脈 からは急勾配を下る短い川がいく本も流れこむ。

中流部の山地?は直線で約65キロメ?トルであるが、谷間を曲がりくねっていくため、流路の長さは約100キロメ?トルにもなる [12] 。深い?谷が?く地形で、多くのダムが造られている [13] 。河川勾配は上流部とあまり?わらない。

平地に出てから海までは約25キロメ?トル、そのうち 扇?地 が南北約23キロメ?トルである [13] 。河口付近の河川勾配は960分の1である [10]

主な支流 [ 編集 ]

流域の自治? [ 編集 ]

長野?
岡谷市 上伊那郡 辰野町 箕輪町 南箕輪村 伊那市 、上伊那郡 宮田村 駒ヶ根市 、上伊那郡 飯島町 中川村 下伊那郡 松川町 高森町 豊丘村 喬木村 飯田市 、下伊那郡 下條村 泰阜村 阿南町 天龍村
愛知?
北設?郡 豊根村 東?町
?岡?
浜松市 天?? ? 浜名? ? 中央? )、 磐田市

?史 [ 編集 ]

天?川の浮き橋の綱が切れ、とっさに宙を跳んで?岸に渡る 新田義貞 船田義昌 月岡芳年 ?

慶長 11年( 1607年 )、 角倉了以 東大寺 大?殿改築に用いる木材の運搬のため、天?川を 浚渫 し、信濃?平出(長野?辰野町)から遠江?掛塚(?岡?磐田市)まで通船させて以?、江?の建築用木材が流域の山林で伐採され、天?川を使った 木材流送 流し)により?けられた。

1950年代 に入ると天?川でも 電源開? が進み、ダムの建設が進んだことから、 1956年 前後には木材の輸送は筏流しから陸送に?換された [14]

天?川の治水開? [ 編集 ]

伊那谷と天?川上流域

赤石山脈 ? 木?山脈 という日本の屋根に?まれながら流れる天?川水系は、その急峻な地形ゆえに古?より 水害 に?まされた。度?溢れる土砂まじりの濁流から、「暴れ天?川」の異名をとった [15] 。特に伊那谷の出口に?たる 天?? 付近は川幅が急激に?隘となることから、伊那谷は特に 洪水 の被害が?著であった。天?川最大の 洪水 1715年 の「未(ひつじ)?水」と呼ばれる洪水で、伊那谷はあたかも湖水のようなありさまであったと記?に?されている。これに?し、流域の住民は??な方法で水害に??していた。

上流(信濃?) [ 編集 ]

上流部の 信濃 においては江?時代中期の 1746年 飯田藩 主?堀親長は重臣の?須楠右衛門を普請奉行、中村?兵衛を作事奉行として現在の 下伊那郡 高森町 の天?川に堤防を建設。さらに「天?井」という用水路を開削し 灌漑 を?ろうとした。この「 ?兵衛川除 」は 1752年 に完成し、飯田藩?の水害を?減した。上流の 上伊那郡 片桐(現在の 中川村 片桐)では 1772年 より「 理兵衛堤防 」の建設が始まった。これはこの地の名主である 松村理兵衛忠欣 が天?川の 治水 を目的に護岸工事を始めたものである。この事業はやがて 高遠藩 の事業に昇格、忠欣の跡を?いだ子の常邑、孫の忠良の代にも??され、松村家3代に亘るこの事業は 1808年 の完成まで?に58年間、57万6千人の人員を費やし近世天?川最大の河川工事となった。

釜口水門

1832年 には 美濃 高須藩 の飛び地である座光寺(現 飯田市 座光寺)に「石川除」が建設された。利水においては「天?井」の他1832年に伊東?兵衛武敬によって天?川流域一?に農業用水を供給するため、天?川各所に 固定堰 を建設、取水した。これらは「 ?兵衛井筋 」と呼ばれ、流域の 新田 開?に大いに役立ったのである。明治時代に入り、天?川の治水は 1885年 (明治17年)に??の?堤を連結堤防に修築することから始まった。 1927年 (昭和2年)には引堤や川幅の?幅は行われたが水害の根本的解決には至らなかった。この後、 諏訪湖 の洪水調節を?り 諏訪盆地 を水害から守るため 釜口水門 が天?川の流出部に 1937年 (昭和12年)に建設された。

下流(遠江?) [ 編集 ]

山岳と平野部の境界、 秋葉ダム 船明ダム 天?二??
上空からの天?川下流域

下流域では天?川を ?玉河 (あらたまがわ)ないし荒玉河と呼んでいた。『 ?日本紀 』において ?? 元年( 715年 )5月20日に「 遠江?地震 。山崩れて?玉河を塞ぎ水これがために流れず、?十日を?て敷地、長下、石田三郡の民家百七十余?を??する」と記載されている。さらに、 761年 天平?字 5年)7月19日?には「遠江?荒玉河の堤決すること三百余丈、?功三十万三千七百余人を役し、糧を充てて修築せしむ。」とあり、 761年 以前から堤が造成されていたことを示している。 平安時代 の『 日本文?天皇?? 』仁?3年( 853年 )?では、「??河」と?されている。度重なる洪水で河道が?化していた事が推測できる。?玉川は浜松平野の西側( 三方原台地 側)を流れていた。そして 鎌倉時代 の頃には東側(磐田原台地側)に本流が移ったと推測されている。西側の河道も?っていて、 1572年 頃の河道の?子が 甲陽軍鑑 に記?されている。それには?玉川ではなく「小天?」と記載されている。ちなみに、小天?の河道の名?は現在、 馬?川 となっている。

元? ? 天正 年間の 1573年 、?時 浜松城 主であった ?川家康 が遠江を領有していたが、天?川流域を境にして激しく?っていた 武田信玄 ? 武田勝? から本?地である 浜松城 三河 を防衛するため、また新田開?を?施して?穫高を?やして?力を高める目的で天?川の整備を始めた。第一次小天?(現? 馬?川 )の締め切り。及び右岸 堤防 、寺谷用水取入口に伴う左岸堤防構築を計?。 1588年 (天正16年)には「伊奈流」治水事業で名高い 伊奈忠次 に治水事業を命じる。 1590年 (天正18年)に家康が 豊臣秀吉 の命で?東に?封された後も天?川の治水事業は後任の浜松城主? 堀尾吉晴 に引き?がれ、翌 1591年 に一?の治水事業は終了した。

江?時代における下流域の治水事業では 彦助堤 の築造が代表的である。一? 1573年 家康により西側の河道(小天?)が締め切られたが、天?川の流れに?して耐えられる工事?容ではなかった。?って、それ以後も大雨の度に小天?の河道に水が?入して洪水被害が?生していた。 1656年 に彦助堤は、小天?の完全な締め切りを目的に築造された。 松野彦助 は新原村(現 浜名? )の庄屋で大地主であった。しかし、 1674年 の大洪水で彦助堤は崩?してしまった。翌年 1675年 に復?した。そして 1745年 に彦助堤が切れた時に?生する被害予測を「天?川通水工附帳」として、 浜松藩 および幕府にさしだした。(その後、藩?幕府の??記?は無い。)

同時期、天?川の支流である二?川でも大規模な治水事業が計?された。二?川は地形の?係で、大雨の時には通常より約10m近く天?川の水位が上昇する地点で合流している?、被害は甚大であった。そこで、?時の二?村名主 袴田甚右衛門 により河道の附替工事を行った。この工事には代官所の許可が費用の問題等でなかなか得られず、完成したのは 1798年 で20年以上の?月を要した。

下って 明治時代 に入り、下流域の治水事業は 明治 初期に 金原明善 (株式?社 丸運 ?創業者)により始まった。金原明善は、天?川が原因による浜松市(?時は 浜松? )の洪水災害を防ぎ、安定した市民生活および、産業?展を願い私財を投じて 治水 事業を開始した。主に堤防の整備を行ったが、山間部における植林作業を行い雨水が直接川に流入する事を防ぎ?果をあげ、浜松市の 天?? における林業?展のきっかけにもなった。それから、近代治水事業が本格的に始まり、 明治 後期に 豊岡村 (現 磐田市 )の流路を整備し、 昭和 初期には 浜北市 (現浜松市 浜名? )上島地?の流路(大平川)の締め切りを行い、 1944年 (昭和19年)に天?川東派川を締め切り、流路修正を行った。(東派は掛塚地?で水運に利用されていたために締め切り計?は?初は住民の理解を得られず一時中止となっていた。)そして、 1958年 (昭和33年)には西派川の締め切りを終了し、河道の一本化が完了した。

天?川電源開?事業 [ 編集 ]

佐久間ダム

一方、水量が豊富で急峻な地形の天?川は 水力?電 の適地であって、 福澤桃介 率いる 天?川電力 (後に 矢作水力 となり、 日本?送電 に吸?)による水力?電計?が進められた。 1935年 (昭和10年)、天?川本流に 泰阜ダム (やすおかダム)が建設され、本格的な ダム 式?電所の建設が始まった。その後 1936年 (昭和11年)に支流の岩倉川に 岩倉ダム が、天?川にも 平岡ダム の建設が開始された。しかし、??の激化に伴い治水事業も利水事業も中止となった。

?後、 連合?軍最高司令官?司令部 (GHQ)によって 過度??力集中排除法 の指定をうけた日本?送電は 1951年 (昭和26年)に分割?民?化。これに伴って 長野? ?の天?川水系は 中部電力 によって?電用水利?と水力?電施設が承?された。中部電力は??で工事が中?した平岡ダムを?社?足の年に完成させている。一方 ?岡? ?は 1952年 (昭和27年)の電源開?促進法施行によって?足した 特殊法人 ? 電源開?株式?社 によって大規模に進められた。 1956年 (昭和31年)に天?川中流部に約3年の工程で建設された 佐久間ダム は、高さ155メ?トルと?時世界で10番目に高いダムとなった。佐久間?電所から?電される電力は天?川の包?水力の3分の1を賄い、天?川における水力?電の中核施設となった。

この後 1958年 (昭和33年)には 秋葉ダム (天?川)、 1969年 (昭和44年)には 水窪ダム 水窪川 )が建設される等電源開?は進められるが、 1972年 (昭和47年)の 新豊根ダム (大入川。 ?土交通省 中部 地方整備局 )完成に伴う 新豊根?電所 は、佐久間ダムとの間で 揚水?電 を行うことによって最大出力112万5,000 キロワット の?電を行う中部有?の水力?電所となった。 1976年 (昭和51年)の 船明ダム 建設で水力?電施設の建設は一段落付いたが、天?川は日本有?の水力?電地?となった。

天?東三河特定地域?合開?計? [ 編集 ]

第一次三峰川?合開?で建設された 美和ダム 三峰川
三六水害を機に建設された 小?ダム (小?川)

天?川は電源開?だけではなく、 治水 かんがい 整備といった河川?合開?事業も行われた。契機となったのは 1950年 (昭和25年)の ?土?合開?法 である。?後疲弊した??を回復させるため 第3次吉田?閣 閣議 決定し??で可決成立したもので、全?22地域を?象に河川開?や工業地域開?、かんがい整備事業が行われた。天?川水系もこの法律の?象地域に指定され、 天?東三河特定地域?合開?計? としてまとめられた。まず開?の?象になったのが 三峰川 (みぶがわ)で、第一次三峰川?合開?事業が手掛けられ 1959年 (昭和34年)建設省によって 美和ダム が、長野?によって 高遠ダム が建設されて三峰川の 洪水調節 と沿岸 河岸段丘 上の農地にかんがいを行った。

ところが 1961年 (昭和36年)6月の「昭和36年6月 梅雨前線 豪雨」、通?「 三六水害 」は伊那谷に?滅的な被害をもたらした。この時も天???隘部で水が堰き止められ、飯田盆地は一面湖水のようになっている。各地で 土石流 や崖崩れ、家屋流失が起こり死者130人、負傷者1,555人、被害?額1,200億円というものであった。この災害では小?川からの洪水被害が特に甚大であった。

このような水害から流域住民を守るためには根本的に治水計?が必要となり、 建設省 (現? ?土交通省 中部 地方整備局 )は天?川水系を 1970年 (昭和45年)に 一級水系 に指定し小?川?合開?事業に着手。天?川水系に 多目的ダム を建設し治水?利水を?ろうとした。1969年に 小?ダム 小?川 )を建設し美和ダムと共に天?川ダム統合管理事務所によって?合的に運用した。天?川下流部の治水においては、 1944年 (昭和19年) 掛塚 側の東派川を締め切り、そして 1950年 (昭和25年)に天?川西派川を締め切り天?川の河道を一本化。更に大入川に新豊根ダムを建設した。長野?も補助多目的ダムを天?川支流に建設する計?を進め、 松川ダム ? 片桐ダム ? ?川ダム ? 箕輪ダム が建設された。

利水に?しては、東海地方の水需要の?加に伴い 豊川用水 の建設が水資源開?公?(現? ?立行政法人 水資源機構 )によって進められた。この中で水源を佐久間ダムに求めることとなり、佐久間湖から大入川頭首工を?て豊川水系に送水され、 宇連ダム ?大野頭首工( 宇連川 )を?て豊川用水を通じ 知多半島 と共に水の便が?かった 渥美半島 および 豊橋市 を中心とした 東三河 地域へ水を供給している。ここにおいて佐久間ダムは?電のみならず、浜松市等の?岡?遠州地域?愛知?東三河地域の水がめとしても重要な役割を持つようになった。

このように治水?利水に?しても開?は進むが、 1982年 (昭和57年)の水害で天?川はまたも大きな被害を受けた。このため建設省は第2次三峰川?合開?事業を計?し、美和ダム上流部に ?草ダム の建設を計?。佐久間ダムに?しても 2003年 (平成15年)の 天?川ダム再編事業 計?で洪水調節機能を付加した多目的ダムとして再開?し、下流の治水を?ろうとしている。釜口水門についても、治水機能を?化するために 1988年 (昭和63年)に全面改築され、?水門の3倍の洪水調節能力を有するようになった。

「?ダム宣言」とその影響 [ 編集 ]

しかし、1990年代以降の 公共事業 見直し論議の波は天?川にも及び、?時 長野? 知事 であった 田中康夫 は「 ?ダム宣言 」を?表、長野??で計?中の全てのダム建設を中止した。天?川水系でも下諏訪ダムを始め?士?ダム?駒?ダム?蓼科ダムが建設中止となった。この宣言に?しては「環境保護」?「利?行政?却」の?点で評?する?が多い一方、具?的な代替案を示さず建設中止を?行したことで流域住民の安全が?保されていないという批判もある。

2006年 (平成18年)7月、天?川上流域を活?な梅雨前線による 集中豪雨 が襲った。 岡谷市 では土石流が?生し死者を出す?事となり、天?川も堤防が決?するなど甚大な被害を受けた。この豪雨は ?象? によって「 平成18年7月豪雨 」と命名された。田中は直ちに現地に赴き陣頭指揮を執り、 陸上自衛隊 災害派遣 要請を迅速に?施するなど行政責任者として迅速な?策を講じた。被害地域は「宣言」で中止したダムこそなかったが、宣言以降の治水整備の??に?する批判が反?派のみならずかつて田中を支持していた層からも噴出。2006年の長野?知事で落選した。後任の 村井仁 は「宣言」の見直しと各河川に合致した河川整備の早急な?施を?げている。

堆砂との格? [ 編集 ]

堆砂率84パ?セントの 泰阜ダム 。上流の小?川より流入する土砂が原因とされる。
美和ダム の恒久堆砂?策で建設された三峰堰。

こうして天?川水系には治水?利水??電を目的に多?のダムが建設された。ところが、これに伴う新たな問題がもたらされた。 堆砂 海岸侵食 である。天?川は?岡?魚川構造線及び 中央構造線 付近を流れている。このため、古?より流域の山腹は崩落が激しく、大量の土砂が天?川を?て 遠州灘 に運ばれてきた。そうして形成されたのが 中田島砂丘 であり、 ウミガメ 産卵の場所になっている。ところが天?川流域に多?のダムが建設されるに及んで、ダムの堆砂と砂丘の後退とが新たな問題となった。特に 泰阜ダム では許容堆砂容量の約84パ?セントが?に砂で埋まり、小?ダムや美和ダムでも堆砂による影響が現れはじめた。屈指の人造湖である佐久間湖を持つ佐久間ダムにおいてさえ、200年間無策のまま放置すれば佐久間湖が完全に土砂で埋まると予測され、堆砂?策が喫緊の課題となっていた。土砂流入防止のための砂防事業や海岸整備事業は行われていたものの、根本的解決法である堆砂の除去と流砂促進については有?な?策を打てずにいた。

1990年代 にさしかかると、土木技術の進展を背景に本格的な?策が取られ始めた。 1989年 (平成元年)の第二次三峰川?合開?事業において美和ダムの恒久堆砂?策が行われた。それは、貯砂ダムと分流堰をダム湖上流に建設し、排砂 トンネル を通して流砂促進を?るというものであり、 2001年 (平成13年)に完成した。それでも 2002年 (平成14年) 11月17日 付けの 朝日新聞 報道によれば、堆砂率上位を占めていたのは天?川水系のダムであった。 2004年 (平成16年)からは、天?川最大規模の佐久間ダムにおいても?土交通省中部地方整備局による「佐久間ダム再開?事業」が進められている。これは、洪水調節機能付加に加えて流砂促進のためのバイパス施設を整備して天?川下流部へ堆砂を流し、中田島砂丘の復元を?ることを目的としたものである。

天?川水系の河川施設 [ 編集 ]

天?川水系においては、 泰阜ダム を皮切りに水力?電事業が進められた。治水?利水に?しては 三峰川 ?合開?事業?小?川?合開?事業?大入川?合開?事業等に基づき ?土交通省 中部地方整備局や 長野? によって、多?の 多目的ダム が建設された。また、 豊川用水 の水源としても天?川は重要で、 浜松市 ? 豊橋市 等の水がめになっている。これら治水?利水??電の何れにおいても重要になるのが 佐久間ダム であり、天?川?合開?の扇の要となっている。

主な河川施設 [ 編集 ]

一次
支川名
(本川)
二次
支川名
三次
支川名
ダム名 堤高
(m)
?貯水
容量
(千 m 3 )
型式 事業者 備考
天?川 諏訪湖 釜口水門 62,987 水門 長野?
天?川 大久保ダム 重力式 中部電力 小堰堤
天?川 南向ダム 重力式 中部電力 小堰堤
天?川 泰阜ダム 50.0 10,761 重力式 中部電力
天?川 平岡ダム 62.5 42,435 重力式 中部電力
天?川 佐久間ダム 155.5 326,848 重力式 電源開?
?土交通省
再開?中
天?川 秋葉ダム 89.0 34,703 重力式 電源開?
天?川 船明ダム 24.5 10,900 重力式 電源開?
?川川 ?川ダム 41.0 1,860 重力式 長野?
?川 箕輪ダム 72.0 8,300 重力式 長野?
三峰川 ?草ダム 140.0 61,000 重力式 ?土交通省 計?中
三峰川 三峰堰 固定堰 ?土交通省
三峰川 美和ダム 69.1 34,751 重力式 ?土交通省
三峰川 高遠ダム 30.9 2,310 重力式 長野?
小?川 小?ダム 105.0 58,000 ア?チ式 ?土交通省 再開?中
小?川 生田ダム 重力式 中部電力 小堰堤
片桐松川 片桐ダム 59.2 1,840 重力式 長野?
松川 松川ダム 84.3 7,850 重力式 長野? 再開?中
和知野川 ?木川 岩倉川 岩倉ダム 25.0 435 重力式 中部電力
大千?川 大入川 新豊根ダム 116.5 53,500 ア?チ式 ?土交通省
電源開?
水窪川 ?中川 水窪ダム 105.0 30,000 ロックフィル 電源開?
?田川 ?田ダム 重力式 中部電力 小堰堤
  • ?色欄は建設中?再開?中もしくは計?中のダム(2006年現在)。

[ 編集 ]

源流( 諏訪湖 )側から

姑射橋
つつじ橋

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ a b c d e f g h 中部地方整備局 天?川水系河川整備計?(平成21年7月) 、1-1(第1章第1節第1項 流域及び河川の?要)2022年9月29日??。
  2. ^ 『?日本紀』?第6、??元年5月乙已(25日)?。新日本古典文?大系『?日本紀』1、228 -229頁。
  3. ^ 『?日本紀』?第23、天平?字5年7月辛丑(19日)?。新日本古典文?大系『?日本紀』3、382 - 383頁。
  4. ^ a b 天?川について | 天?川流域を考える | 天?川上流河川事務所 ”. www.cbr.mlit.go.jp . 2019年9月6日 ??。
  5. ^ 日外アソシエ?ツ 編、『河川大事典』(1991年)、658ペ?ジ「天?川」。
  6. ^ 小?館 、『 日本大百科全書 』( コトバンク版 )、北川光雄「天?川」
  7. ^ 平凡社 、『 百科事典マイペディア 』( コトバンク版 )、「天?川」
  8. ^ ブリタニカ?ジャパン 、『 ブリタニカ?際大百科事典 』( コトバンク版 )、「天?川」
  9. ^ 『日本の川 自然と民俗』I、203頁。
  10. ^ a b 『日本の川 自然と民俗』I、202頁。
  11. ^ 『日本の川 自然と民俗』I、204頁。
  12. ^ 流路の長さは『日本の川 自然と民俗』I、206頁。直線距離は地?上で計測。
  13. ^ a b 『日本の川 自然と民俗』I、206頁。
  14. ^ ?藤?吉「いかだ」『新版 林業百科事典』第2版第5刷 p25
  15. ^ 『日本の川 自然と民俗』I、207頁。

?連項目 [ 編集 ]

?考文? [ 編集 ]

  • ?木和夫??岡耕二?笹山晴生?白藤禮幸『?日本紀』(新日本古典文?大系)、岩波書店、1992年。
  • 建設省?北海道開???牧田茂??井??編『日本の川 自然と民俗』第1?、新公論社、1987年。

外部リンク [ 編集 ]