大院君政?
(だいいんくんせいけん)とは、
李氏朝鮮
末期において第26代朝鮮?王?
高宗
の父、
興宣大院君
(こうせんだいいんくん、フンソンテウォングン)による政?。大院君は?時の朝鮮における
保守
派勢力を代表する
衛正斥邪派
の首領であり、?王の父という立場で執政をおこなった。大院君政?においてはきびしい
攘夷
政策がとられたことで知られる
[注? 1]
。
第一次大院君政?
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]
第一次政?の成立
[
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]
同治
2年
12月8日
(
1864年
1月16日
)、
哲宗
が嗣子のないままに死去すると、
興宣君昰?
の第2子が王位にむかえられた
[1]
。
高宗
である。新?王が若年であるため、大王大妃趙氏(
神貞王后
)が同治5年(1866年)
2月13日
まで高宗の養母の資格で
垂簾?政
をおこなったが、政治の??をにぎったのは高宗の生父として「大院君」の??を得た興宣君李昰?であった
[1]
。
人事と??政治
[
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]
大院君は、勢威をふるっていた
安東金氏
と
老論派
を抑えるとともに、
北人
と
南人
から多くの人物を登用した
[1]
。また、
備?司
の?能を
外交
?
防衛
?治安維持に限定し、
1865年
にはこれを
議政府
に統合、議政府に再び最高行政官?の地位をあたえた
[1]
。軍政機?として
三軍府
を設置し、堂上として多くの
武臣
を取り立てた
[1]
。さらに、王族の官?であった
宗親府
の改組もおこない、?二品以上の璿派人(王族
全州李氏
)の
官僚
が就任する新しい官職を用意した
[1]
。『
大典?通
』を編纂するなど法整備もおこなった
[1]
。こうして、興宣大院君は弱小?派や武臣、璿派を重用して自身の勢力基盤?大を?った
[1]
。
興宣大院君は、
文??慶長の役
(壬辰倭?)の際に?失したとされる
景福宮
を約270年ぶりに再建して?威の?揚と王室?威の向上をはかり、そのための財源として「
願納?
」を??した
[1]
。また、
江華島
防衛のために「
沁都砲糧米
」を新設した
[1]
。大院君政?はこのように大土木事業や軍備?化に力を注ぎ、上記のほか、?貨である
?百?
を?行したり、首都
漢城
(現、
ソウル特別市
)の城門を通過する人に
通行?
を課すなどして、これを財源にあてた
[1]
。しかし、これらの負?は民衆の生活をいちじるしく?化させたので大院君政?への不?は高まった
[1]
。
1864年から
1871年
にかけては
書院
(私塾)の?止が推進され、最終的には「賜額書院」と?される格式高い書院47か所をのぞくすべてが?止された
[1]
[注? 2]
。これは、書院に所?していた
土地
や
良民
を課??象として
?家
に編入し、いっそうの財源?張をはかるとともに、書院を?点とする地方の
?班
の勢力を抑え?もうという意?にもとづいていた。?時?班は、特?身分として地方に君臨し、
農民
を?奪し、?暴の限りをつくしていたのである。
1871年
には?班からも、その所有する
奴
の名義で軍布を??することが定められた
[1]
。これを「
班?奴名出布法
」という
[1]
。
思想統制と鎖?維持政策
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]
大院君政?は、
思想統制
として「邪?」「邪?」を排斥して?家の「正?」である
朱子?
を保護する
衛正斥邪
政策を?力に推し進め、
新興宗?
である
東?
や
西洋
からもたらされた天主?(
カトリック??
)に激しい??を加えた
[2]
。
東?は、
慶?北道
慶州
に生まれた
崔?愚
が創始した排外的な宗?であり、?義は
儒?
?
??
?民間信仰などを融合したもので、「東?」という名?には「西?」すなわち
キリスト?
に?抗する意?がみられる
[2]
。崔?愚は、やがて理想的な「後天開闢」の時代が訪れるので、人びとは東?の信者となり、?心をこめて
呪文
を唱え、修養して?符を?めば天と人が一?となり、
現世
において
神仙
となると?いたが、政府はこれを危?視し、
1863年
に崔?愚を逮捕し、
1864年
、
大邱
において「左道惑正」(異端)の罪で?刑した
[2]
。その
?典
はすべて?却された。
大院君政?は、
1866年
、天主?に「
丙寅?獄
」と呼ばれる大??を加えた
[2]
。
南鐘三
らをはじめとする8,000名近くのカトリック信者とフランス人神父9名が?刑された
[2]
。その後も天主?に?する??は長期にわたってつづいた
[2]
。
1866年7月(朝鮮?、以下1894年まで同じ)、
アメリカ合衆?
の
商船
ジェネラル?シャ?マン?が
大同江
をさかのぼって
平?府
に至り、開?通商を求めて?砲におよんだため、平?の軍民は平安道?察使
朴珪?
の指揮下にこれを?き?って座礁させ、?組員を全員殺害した(
ジェネラル?シャ?マン?事件
)
[2]
。同年8月、フランス極東艦隊司令長官
ピエ?ル=ギュスタ?ヴ?ロ?ズ
(
英語版
)
は3隻の軍艦を
江華島
付近に侵入させ、そのうち2隻は
漢江
を遡航して首都漢城をおびやかした
[2]
。これは、先の大虐殺の際に助命された
神父
の1人
フェリックス=クレ?ル?リデル
が
朝鮮人
天主?徒に助けられて?獄し、??に逃亡して
天津
のフランス租界でロ?ズに助けを求めた結果だった。フランス艦隊は9月、7隻に
?浜
に駐屯していた海兵隊員を?船させて江華島沖に再び侵入し、江華府を占領し、神父殺害者の?罰と
?約
の締結を朝鮮政府に要求した
[2]
。大院君政?は漢城から部隊を派遣し、射?を得意とする地方の
?師
を動員して砲軍として組織した
[2]
。10月、朝鮮軍は
鼎足山城
においてフランス軍に勝利し、フランス艦隊は撤退した
[2]
。このアメリカ、フランスの侵攻のことを合わせて「
丙寅洋擾
」と呼?している。
1866年
の朝鮮軍によるアメリカ商船奇襲事件(ジェネラル?シャ?マン?事件)の全容と商船?組員の安否確認のため、アメリカ合衆?は
1867年
、軍艦ワチュセット(
USS Wachusett
)を派遣し、
1868年
4月には事件の究明のため軍艦シェナンドア(
USS Shenandoah
)を派遣した
[3]
。
1871年
、
??
駐在アメリカ公使の
フレドリック?ロ?
(
英語版
)
は、シャ?マン?事件への謝罪と
?約
締結を求めて
アジア艦隊
に朝鮮派遣を命じた
[4]
。同年4月、アメリカのアジア艦隊司令官
ジョン?ロジャ?ズ
(
英語版
)
は
日本
の
長崎
で艦隊を編成した
[5]
。同年5月にロジャ?ズは旗艦コロラド(
USS Colorado
)、アラスカ(
USS Alaska
)、パロス(
USS Palos
)、モノカシ?(
USS Monocacy
)、ベニシア(
USS Benicia
)の5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった
[6]
。軍艦にはロ?公使も搭?した
[2]
。アメリカ軍は江華島に上陸し、3か所の
砲台
を占領したが、朝鮮側が抗?態勢を?めて交?も拒否したため、撤退した
[2]
。これを「
辛未洋擾
」と呼んでいる。
このとき興宣大院君は、朝鮮全土八道四郡にこの思想を??する「
斥和碑
」を建立した
[2]
。この碑には、「洋夷侵犯非?則和、主和??(洋夷侵犯す、?わざるは則ち和なり、和を主するは??なり)と刻まれている
[2]
。この碑はまた「斥洋碑」とも呼ばれ、鎖?維持の固い意志を示すものであった
[2]
。その後、大院君政?は、西洋文明を受け入れた
日本
も西洋諸?と同一視して(
倭洋一?
)、通商を求める日本に?しても?硬な姿勢をとった
[2]
。
大院君政?は丙寅洋擾に際して抗??制を構築するため、?固な
華夷思想
の持ち主で
朱子?者
の
奇正?
と
李恒老
の2人を?判クラスの高官に?擢することを決めた。奇正?と李恒老は、官職を?する上疏を呈して、「洋夷」排?の主?論、天主?禁?論、西洋物貨禁止論を唱える一方、土木工事の中止などを求めた
[2]
。これを機に、奇正?と李恒老を筆頭にして、その門人たちなどから成る在地?班層のあいだに、?米諸?を「夷狄」として全面的に排斥し、朱子?原理にもとづく??の支配?制を堅持しようとし、一面では大院君の施政にも批判的な?自の政治理論(
衛正斥邪
)も形成された
[2]
。
興宣大院君の失脚
[
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]
1873年
11月、李恒老の門人で衛正斥邪論者の
崔益鉉
が?曹?判に任命されると、?職上疏を呈して、興宣大院君の施政を攻?し、その?政への不??を?く求めた
[7]
。崔益鉉自身は
流罪
に?せられたが、高宗?
閔妃
夫妻と
閔升鎬
(閔妃の兄)らはこの機?を利用して、大院君を退陣に追い?んだ
[7]
。この政?により、王妃の一族である
驪興閔氏
による
勢道政治
(
閔氏政?
)が始まり、閔氏は老論を奉じたので興宣大院君の腹心(大院君派)や南人?北人の勢力はおさえられ、ふたたび
老論派
の勢力が?大した
[7]
。閔氏政?は、大王大妃の一族である豊?趙氏の
趙寧夏
ら名門の老論と結んで勢力を固め、王宮守備のために武衛所を新設して大院君の反?を封じようとした
[7]
。
閔氏政?は、
1876年
に日本とのあいだに
日朝修好?規
を結んで開?し、開化政策に?じた
[8]
。このような開??開化に最も?硬に反?したのが衛正斥邪派であった
[9]
。
1881年
には年初から中南部各道の衛正斥邪派の在地?班は漢城府に集まって
金宏集
(のちの金弘集)ら開化政策を進める閣僚の?罰と衛正斥邪策の?行を求める上疏運動を展開した(
辛巳斥邪上疏運動
)
[9]
。閔氏政?は、上疏の代表であった
洪在鶴
を
死刑
に?したほか、上疏運動の中心人物を
流罪
に?するなど、これを?しく??した
[9]
。やがて、衛正斥邪派は大院君をリ?ダ?と仰ぐようになり、この年の夏には、
安驥泳
らが閔氏政?を倒したうえで大院君の庶長子(
李載先
)を?王に擁立しようという
ク?デタ?
計?が??している
[9]
。安驥泳と李載先はこの年のうちに刑死しており、大院君派の勢力は大きく後退した
[9]
。
第二次大院君政?
[
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]
「?軍」と?された??からの兵士は、開化派が創設した新式軍隊(
別技軍
)と比較して??な点で差別的に待遇されて不?をつのらせていたところに、
1882年
には俸給米も?配し、ようやく13か月ぶりに支給された俸給米にも支給係の不正によって異物が混入するという事件が起こった
[9]
[10]
[11]
。これは、「?軍」兵士の反?(
壬午軍?
)を引き起こし、不正支給の告?者を罰した
閔謙鎬
の邸宅、首都の治安維持に責任を負う
京畿?察使
陣?、日本公使館などが襲?され、別技軍の?官だった
堀本?造
少尉が殺害された
[9]
。下層民を加えて勢力を?した軍兵は、
官?
、閔妃一族の邸宅などを次?に襲?し、前
領議政
(?理大臣)の
李最?
を邸宅にて殺害し、
昌?宮
にも侵入して閔謙鎬、
金輔鉉
、
閔台鎬
、
閔昌植
ら閔氏系の高級官僚?名を殺害した
[9]
。これは、反?に?じて閔妃などの政敵を一掃し、政?を再び奪取しようとする興宣大院君の?唆煽動によるものであった
[9]
[10]
[11]
。閔妃は高宗を王宮を置き去りにして朝鮮南部の
忠州
に逃亡し、高宗は政?を興宣大院君に委ねた
[9]
。
ここに第二次大院君政?が成立し、9年ぶりに政?の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一?に推進した
[12]
。
興宣大院君は、
統理機務衙門
を?し、3軍府の復活を復活して??の5軍?にもどしたほか、???別技軍を?止した
[9]
[12]
。そして、閔氏とその係累を政?から追放する一方、閔氏政?によって流罪に?せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また
監獄
にあった者の身柄を解放して、自身の腹心を要職に就けた
[9]
[12]
。しかし、一方で軍?は日???軍の派兵をまねいた
[9]
。
軍??生から約1か月後の1882年
8月26日
(朝鮮?7月13日)、反???と日本公使護衛を名目に派遣された漢城駐留の??軍によって
大院君拉致事件
が起こった
[10]
。興宣大院君の排斥と?王の復?という基本方針は??北洋大臣代理職にあった
張樹?
の指示とみられるが、大院君の軟禁は??より派遣された
馬建忠
?
丁汝昌
?
?長慶
の3名によって計?されたものであった
[10]
。朝鮮王宮はじめ漢城の城門は??兵によって固められ、??軍におびき出された大院君は捕捉され、朝鮮の南陽?から
河北省
天津
に連行された
[10]
。連行理由は、??皇帝が
冊封
した朝鮮?王をしりぞけて政?をみずから奪取するのは?王に?する裏切りであり、皇帝を蔑ろにする所行であるというものであった
[10]
。??軍はまた、漢城府東部の
往十里
、南部の
梨泰院
を攻?して反?に?加した兵士や住民を多?殺傷した
[9]
。こうして第二次大院君政?は約1か月というごく短期間で終結し、その後は閔妃が忠州より?還して閔氏政?が復活、朝鮮は??の?い干?のもとでの開化政策へと?じた
[9]
[10]
[11]
。
第三次大院君政?
[
編集
]
甲申政?
後の
1885年
、興宣大院君は朝鮮への??を果たした。閔氏政?は長期化するなかで官職?買と
賄賂
が?行し、政治の腐敗がいっそう進行して地方官が買官?費の回?や蓄財のために?吏と結んで管下の住民が不法な?奪をおこなうことも慢性化した
[13]
。これに苦しんだ民衆は?奪緩和を求める活?な
請願
活動を展開し、さらに腐敗した地方官??吏を?力で排除する民?を起こした
[13]
。
1888年
以降、民?は?年のように?いた
[13]
。
1894年
2月(これより陽?)、
全羅道
古阜郡
で
東?
の地方幹部だった
全琫準
の指揮下に民?が起こった
[14]
[14]
。これが
甲午農民??
の始まりであり、農民軍は政府軍を次?に打ち破り、占領地を?大させた
[14]
。深刻な危機に?った閔氏政?は自力??を困難とみて、
閔泳徽
の提議により??軍の出兵を求めることを決めた
[14]
。これを受けて政府は
6月3日
袁世凱
に出兵を求め、それに?じて??軍が
忠?道
牙山
に上陸、?抗して日本も公使館と居留民の保護を名目に漢城に軍を送った
[14]
。日本政府は6月なかばに日???共同による反?の??と朝鮮の?政改革を??側に提議したが、これは?の拒否するところなり、6月下旬、日本??での朝鮮?政改革方針を閣議決定し、朝鮮政府に改革の?施をせまった
[15]
。
7月16日
、督弁
趙秉稷
は日本軍の撤兵を求める?明を出して、日本の軍事力を背景とする
?政干?
に抗議した
[15]
。しかし、日本軍は漢城-
釜山
間の軍事用電信機敷設に着手し、
大鳥圭介
公使は逆に??軍の撤退と
中朝商民水陸貿易章程
など3章程の?棄を求めた
[15]
。これを朝鮮政府が拒むと、日本軍は
7月23日
、景福宮などの要地を占領し、朝鮮政府軍を武?解除して興宣大院君を?ぎ出して閔氏政?を倒した
[15]
。第三次大院君政?の成立である。趙秉稷は3章程の?棄を??に通告し、???朝鮮の宗??係は?たれた。直後に日???間に?端がひらかれた(
日???
)。
しかし、第三次政?では大院君自身には??がなかった。日本優勢の?況下、10月の
井上馨
公使の着任後は朝鮮に?する日本の干?はさらに?まり、11月、井上が高宗に「?政改革綱領」を承認させ、大院君、王妃の政治??を禁じた
[15]
。
脚注
[
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]
注?
[
編集
]
- ^
「
大院君
」とは本?、
王子
?王孫の地位になかった?王の?父に?えられる??であるが、そのような立場にある人物のなかで特に有名で、?際の政治にたずさわった唯一の「大院君」であることから、とくに?りのない場合、大院君といえば興宣大院君のことを指している。敬?は、「閣下」および「大院位大監(大院位大監)である。
- ^
「賜額書院」とは、?王から書院?を記した額を?えられた書院のことである。
糟谷(2000)p.223
出典
[
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]
?考文?
[
編集
]
?連項目
[
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]