加藤 秀司
(かとう ひでじ、
1948年
5月24日
- )は、
?岡?
榛原郡
川崎町
(現:
牧之原市
)出身の元
プロ野球選手
(
一?手
、
外野手
)?
コ?チ
?
監督
、
解?者
。
日本プロ野球名球?
?員。
加藤 英司
(?み同じ)の
登?名
での活動していた時期あり。
通算
?牲フライ
で?代2位の記??を持つ(
野村克也
に次ぐ105個)。
??
[
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]
プロ入り前
[
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]
父は
漁師
であったが幼少の頃に死別し、?身
PL?園高校
に進?する
[1]
。2年次の
1965年
に控え
一?手
として
春の選?
へ出場するが、準?決勝で
高松商
の
小坂敏彦
に抑えられ敗退
[2]
。1?年先輩に
福嶋久晃
?
得津高宏
?
長井繁夫
が、2?年先輩に
中村順司
がいた。3年次の
1966年
の
選?
にも4番?一?手として連?出場するが、1回?で、この大?に優勝した
中京商
に敗れた
[2]
。高校同期にエ?スの
加藤英治
、
?野手
の
野口善男
がいる。
同年のドラフト
で
東映フライヤ?ズ
から4位指名を受けるが入?を拒否し、卒業後は
1967年
に
松下電器
へ入社。同年には
都市?抗
に出場し、
ドラフト
では
南海ホ?クス
から10位指名を受けるが再び入?を拒否。
1968年の都市?抗
では同僚の
福本豊
?
岡田光雄
と共に
富士製鐵?畑
の補?選手として出場し、4番打者として活躍。岡田と
神部年男
の好投もあって決勝に進出し、
河合?器
を降しチ?ムを優勝に導く
[3]
。
同年のドラフト
で
阪急ブレ?ブス
から2位指名を受け入?。この時の1位指名に
山田久志
、7位指名に福本と、後の名球??員となる3人を獲得することとなった。加藤を視察に?た阪急の?係者が「ついで」として福本をリストアップしていた?緯があり
[4]
、著書で福本は「松下電器に加藤がいたおかげで、僕も阪急ブレ?ブスの一員になれた」と記している
[5]
。
現役時代
[
編集
]
プロ入り?時はまだチ?ム全員による合同自主トレの習慣があった頃だが、初日から阪急の選手達の練習量に?倒され、「これについて行こうと思ったら?をゆわせて
[6]
しまう。慌てても仕方ない。1年じっくりやろう」と思うようになった
[7]
。また、守備も苦手で、松下電器時代の監督であった
仁木安
が「阪急は加藤にどこを守らせるつもりだ?」と不思議がったという逸話がある
[8]
。
1970年
は9月から外野手として17試合に先?出場。シ?ズン終了後の秋季キャンプで
西本幸雄
監督に「?年からはスタメンで使うぞ」と打ち?みを課せられたことから「これからは徐?にやっていかないかんのかな」と意識するようになった
[7]
。
1971年
には高知キャンプの時に「今年の三番打者」を問われた記者から西本は「加藤でしょう」と答え、それが新聞に載ると加藤は記者に向かって「ホンマですか」と興奮して尋ねたと福本は記している
[5]
。開幕から西本の言うとおり
左翼手
、三番打者に?擢され、6月には
一?手
に回る。打率.321(
江藤?一
に次ぐリ?グ2位)、25本?打の好成績を記?し、中心打者としてチ?ムを2年ぶりのリ?グ優勝に導く。
膝
を深く曲げ、折り?むように構える?特の打法で勝負?い打?をみせた。しかし
巨人
との
日本シリ?ズ
では全5試合で18打?4安打2打点とあまり活躍の場はなかった。
1972年
もリ?グ2連覇に貢?、日本一には?かなかったが、巨人との
日本シリ?ズ
では第3?で2本?打を放ち?を吐く。
1973年
は打率.337で
首位打者
を獲得。
1975年
は32本?打、97打点(
打点王
)で、
パ?リ?グ
MVP
に選出される。
日本シリ?ズ
でも
?島
を降し、念願の日本一に到達。この頃は3番加藤秀、4番
長池?士
の打順が定番で、長池は「加藤はすごくチャンスに?くて、あいつがみんな走者を返してしまうので、そこで打つなよと言いたくなる時もあったよ」、「他の選手は普通にやってりゃ勝てると思ったけど、加藤だけは『負けたくない』と思わせる奴だった」とライバル意識を見せた一方で、「1番福本、2番
大熊(忠義)
、3番加藤、前にこれだけ?っていると4番も?。加藤のおかげで打点王取らせてもらった年もあった」と振り返っている
[7]
。一方、加藤は長池について「僕がホ?ムラン25本くらいってときに長池さんは40本以上打っていた。10本差くらいまでならともかく、ここまで差がついちゃうともう勝負はできない。僕は芯に?てる自信はあったので、長池さんがホ?ムランなら僕はヒットで勝負しようと思った。それがある意味ライバル意識だったかもしれない」と語っている
[7]
。長池同?、加藤も「?まれた3番だった。福さんが?に出て??、大熊さんが進めて1アウト三?って多かったので、重?もあったけど結構?しかった。」と優秀な1、2番コンビの存在に敬意を表している。?際、
?牲フライ
のリ?グトップが6回(うち阪急時代に5回記?)もあり、加藤は?代2位の105本の?牲フライを記?している
[9]
。長池が衰えてからは4番を打つことも多くなったが、「だからと言ってバッティングを?えたことはない」と語っている。
1976年
には2年連?の打点王を獲得。
1977年
まで
ダイヤモンドグラブ賞
を3年連?で受賞した。
1979年
に
登?名
を
加藤 英司
に?更するが、同年は腰痛に苦しみながらPL?園高の後輩?
新井宏昌
との首位打者?いを制し、打率.364で2度目の首位打者、104打点で3度目の打点王の二冠を獲得。本?打王も近?の
チャ?リ??マニエル
と激しく?ったが、33本で?んでいた時に目の前で
今井雄太?
がマニエルにまともに34?を打たれ、「消化試合なのに何やってんだ」とガックリきたという
[7]
。結局自己最多の35本?打を記?したものの、37本?打のマニエルに及ばず、
三冠王
は逃した。
1981年
に、
上田利治
が3年ぶりに監督に復?した際、加藤は上田が主力選手に??としてかけた電話に「なにしに?ってくるんですか?」と?じたといい、復?後の上田との?係は良好ではなかった
[10]
。加藤によれば、
1978年の日本シリ?ズ
最終?後に
阪神タイガ?ス
からのトレ?ド申し入れの話を上田が記者の前で口にした?緯があり、不信感を抱いていたという
[10]
。
1982年
に打率.235、21本?打の成績に終わると、上田による若手切り替え方針に則り、
水谷?雄
との交換
トレ?ド
により
?島東洋カ?プ
に移籍した
[11]
。
1983年
、?島ではまずまずの成績を?めていたものの、シ?ズン半ばで
肝炎
を患い休養。75試合出場、打率.261、10本?打の成績に終わる。さらにドラフトで同じ一?手でPL?園高の後輩でもある
法政大
の
小早川毅彦
が2位指名で入?した。シ?ズン終了後、
福井保夫
?
森脇浩司
とのトレ?ドで
大原徹也
と共に
岡本伊三美
監督率いる
近?バファロ?ズ
に移籍。
1984年
は主に
指名打者
として130試合出場し、打率.253?14本?打の成績を?した。
1985年
も指名打者として打率.286?26本?打。
1986年
に
??ジャイアンツ
に金?トレ?ドにて移籍。
5月10日
の?島?(
?島市民球場
)で4回表に
北別府?
から3ラン本?打を放って史上3人目の「
全球?から本?打
」という記?を達成するものの、
中畑?
から一?手のレギュラ?を奪えず、指名打者制度のないジャイアンツでは
代打
での出場が目立った。68試合出場し、打率.219?3本?打の成績で2,000本安打まで?り13安打にこぎ着けたものの、同年オフに
自由契約
となる
[12]
。
1987年
、阪急時代の監督であった西本が
立?大?
の後輩で?時南海監督の
杉浦忠
に仲介し、南海へ移籍
[13]
。西?と同?の1987安打で開幕という点も注目されつつ、
5月7日
の阪急?でかつての同僚?山田から本?打を放ち、2,000本安打を達成。同年限りで現役引退。
プロ入りから長く在籍した阪急、その後の移籍先の近?、引退直前の南海という、?時の?西パ?リ?グ3球?に現役選手として在籍した?少ない選手である
[14]
。移籍を繰り返した現役後半時代は、?西(阪急)→?島→?西(近?)→東京(巨人)→?西(南海)と?西を離れてはまた?西に?ってくる、の連?であったために「渡り鳥生活」と呼ばれた。
引退後
[
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]
引退後は
フジテレビ
?
?西テレビ
?
ラジオ大阪
野球解?者(
1988年
-
1994年
)として活躍し、
三菱ギャラント?ナメント
のリポ?タ?も務めたことがある。
1995年
から
1997年
まで上田利治監督率いる
日本ハムファイタ?ズ
一軍打?コ?チを務め、
小笠原道大
を育てた
[15]
。上田からのコ?チ就任要請に加藤は困惑したが、西本幸雄と相談した結果、就任要請を快諾した
[16]
。
日本ハム退?後は2年間の充電期間(
1998年
-
1999年
)があった。
2000年
[17]
から
2003年
途中まで
KBS京都テレビ
[18]
野球解?者を務めた。
2003年は阪急の後?球?であるオリックスの春季
キャンプ
臨時打?コ?チを務め、シ?ズン途中から同球?二軍の
サ?パス神?
監督へ就任。1982年以?21年ぶりの古?復?となり、
坂口智隆
や
嶋村一輝
ら若手を指導した。
2005年
退任。
2006年
より
J SPORTS
の野球解?者を務める。
2007年
より
サンテレビ
[19]
の野球解?者を務めた。
2013年
より
FOX SPORTS
の野球解?者を務める(この頃より、活動名義も本名に?している)
[20]
。
2008年
から
[21]
2009年
まで
[22]
履正社?療スポ?ツ?門?校
?で組織された社?人チ?ム?履正社?園のコ?チを務めていた。
2015年
までは
大阪ガス
臨時打?コ?チを務め、2015年
11月13日
に
中日ドラゴンズ
一軍チ?フ打?兼野手?合コ?チに就任
[23]
。?え子の嶋村が一軍打?コ?チ、小笠原が二軍監督に就任している。
落合博?
ゼネラルマネ?ジャ?
から「昔の打ち方を?えてくれないか」との要請を受け、伸び?む若手野手の起爆?にと大きな期待をされた。
2017年
には嶋村と共に二軍打?コ?チに異動し、同年10月4日に退任することが?表された
[24]
。
2018年
2月2日
、
BASEBALL FIRST LEAGUE
?
兵庫ブル?サンダ?ズ
シニアディレクタ?、同チ?ムと提携?係にある
芦屋大?
野球チ?ム「インパルス」監督に就任することが?表された
[25]
。1シ?ズン務め
[26]
、同年
8月22日
にはサンテレビのゲスト解?者として出演。
2019年
4月5日
、?西?立リ?グ選?チ?ムの?任監督に就任することが?表された
[27]
。
人物
[
編集
]
- 愛?はコメディアン?
加藤茶
にちなんで「
チャ
」
[28]
または「
カトちゃん
」
[29]
。松下電器と阪急で長く同僚だった福本豊は著書で「
ヒデ
」と記している
[30]
。
- シ?ズンオフに『
アップダウンクイズ
』(
?日放送
)で阪急代表として出場し、1問も正答できなかったことから、
大阪球場
で
南海?援?
から「立てば
芍?
座れば
牡丹
?く姿は
百合
の花」(美人を形容する言葉で、元?は生?の用い方をたとえたもの)と『
アホの坂田
』(
コメディNo.1
の?曲)を替え歌にした「打てば三振守ればエラ?走る姿は
ボケ
の花、アホ?アホ?アホの加藤」とよくヤジられていた。最初は南海?援?からだけであったが、結果的にパ?リ?グ在阪3球?全てに在籍したため、阪急?近??援?からも同じようにヤジられていた
[31]
。
- 後に日本野球史上初めて三冠王を3度も達成した
落合博?
はプロ入り?初に?考にした打者の1人に加藤を?げ、そのバットコントロ?ルついて「どうやったら、これができるのだろうと思った」と振り返っている
[32]
。
詳細情報
[
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]
年度別打?成績
[
編集
]
年
度
|
球
?
|
試
合
|
打
席
|
打
?
|
得
点
|
安
打
|
二
?
打
|
三
?
打
|
本
?
打
|
?
打
|
打
点
|
?
?
|
?
?
死
|
?
打
|
?
飛
|
四
球
|
敬
遠
|
死
球
|
三
振
|
?
殺
打
|
打
率
|
出
?
率
|
長
打
率
|
O
P
S
|
1969
|
阪急
|
9
|
9
|
8
|
0
|
1
|
0
|
0
|
0
|
1
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
1
|
0
|
0
|
2
|
0
|
.125
|
.222
|
.125
|
.347
|
1970
|
35
|
74
|
69
|
10
|
23
|
6
|
2
|
4
|
45
|
13
|
2
|
0
|
0
|
1
|
4
|
0
|
0
|
8
|
1
|
.333
|
.365
|
.652
|
.917
|
1971
|
122
|
496
|
445
|
80
|
143
|
35
|
2
|
25
|
257
|
92
|
18
|
4
|
2
|
3
|
39
|
0
|
7
|
74
|
2
|
.321
|
.383
|
.578
|
.960
|
1972
|
118
|
428
|
362
|
59
|
105
|
25
|
2
|
13
|
173
|
54
|
11
|
4
|
1
|
6
|
55
|
6
|
4
|
43
|
3
|
.290
|
.384
|
.478
|
.862
|
1973
|
118
|
494
|
436
|
69
|
147
|
27
|
6
|
20
|
246
|
91
|
16
|
5
|
0
|
10
|
41
|
3
|
7
|
51
|
6
|
.337
|
.395
|
.564
|
.959
|
1974
|
120
|
476
|
428
|
65
|
138
|
25
|
2
|
19
|
224
|
75
|
24
|
11
|
2
|
7
|
37
|
1
|
2
|
55
|
7
|
.322
|
.373
|
.523
|
.897
|
1975
|
126
|
521
|
456
|
74
|
141
|
22
|
1
|
32
|
261
|
97
|
12
|
10
|
0
|
4
|
57
|
6
|
4
|
58
|
4
|
.309
|
.388
|
.572
|
.960
|
1976
|
120
|
497
|
430
|
68
|
129
|
20
|
3
|
28
|
239
|
82
|
8
|
3
|
0
|
9
|
51
|
6
|
7
|
68
|
7
|
.300
|
.376
|
.556
|
.932
|
1977
|
120
|
489
|
423
|
64
|
135
|
27
|
4
|
19
|
227
|
73
|
4
|
3
|
0
|
5
|
53
|
9
|
8
|
64
|
4
|
.319
|
.401
|
.537
|
.937
|
1978
|
120
|
500
|
427
|
65
|
109
|
16
|
4
|
24
|
205
|
86
|
7
|
3
|
0
|
10
|
55
|
6
|
8
|
80
|
6
|
.255
|
.344
|
.480
|
.824
|
1979
|
122
|
520
|
448
|
84
|
163
|
32
|
2
|
35
|
304
|
104
|
14
|
3
|
1
|
7
|
59
|
9
|
5
|
64
|
6
|
.364
|
.437
|
.679
|
1.116
|
1980
|
130
|
561
|
484
|
72
|
154
|
26
|
3
|
28
|
270
|
97
|
5
|
4
|
0
|
10
|
59
|
7
|
8
|
84
|
3
|
.318
|
.394
|
.558
|
.952
|
1981
|
127
|
534
|
468
|
63
|
147
|
25
|
2
|
17
|
227
|
79
|
4
|
3
|
0
|
8
|
54
|
3
|
4
|
67
|
5
|
.314
|
.384
|
.485
|
.869
|
1982
|
129
|
524
|
456
|
57
|
107
|
21
|
1
|
21
|
193
|
84
|
1
|
3
|
2
|
9
|
55
|
2
|
2
|
83
|
10
|
.235
|
.314
|
.423
|
.737
|
1983
|
?島
|
75
|
280
|
253
|
33
|
66
|
9
|
2
|
10
|
109
|
36
|
6
|
1
|
0
|
1
|
25
|
1
|
0
|
49
|
2
|
.261
|
.326
|
.431
|
.757
|
1984
|
近?
|
130
|
572
|
499
|
65
|
126
|
16
|
1
|
14
|
186
|
72
|
1
|
2
|
0
|
9
|
60
|
0
|
4
|
91
|
6
|
.253
|
.332
|
.373
|
.705
|
1985
|
129
|
523
|
455
|
73
|
130
|
24
|
0
|
26
|
232
|
78
|
2
|
3
|
0
|
3
|
64
|
2
|
1
|
58
|
9
|
.286
|
.373
|
.510
|
.883
|
1986
|
巨人
|
68
|
119
|
105
|
6
|
23
|
3
|
0
|
3
|
35
|
13
|
0
|
0
|
0
|
1
|
11
|
1
|
2
|
31
|
4
|
.219
|
.303
|
.333
|
.636
|
1987
|
南海
|
110
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293
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262
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24
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68
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8
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0
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9
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103
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42
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1
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0
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0
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2
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27
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2
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2
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37
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8
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.260
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.331
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.393
|
.724
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通算:19年
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2028
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7910
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6914
|
1031
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2055
|
367
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37
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347
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3537
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1268
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136
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62
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8
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105
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807
|
64
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75
|
1067
|
93
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.297
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.372
|
.512
|
.883
|
タイトル
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]
- 首位打者
:2回 (1973年、1979年)
- 打点王
:3回 (1975年 - 1976年、1979年) ※パ?リ?グ左打者最多タイ(他に
タフィ?ロ?ズ
、
松中信彦
)
- 最高出?率
:3回 (1976年 - 1977年、1979年)
- 最多安打
(?時連盟表彰なし):1回 (1979年) ※1994年より表彰
表彰
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]
記?
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]
- 初記?
- 節目の記?
- 100本?打:1975年7月31日、?太平洋クラブライオンズ後期3回?(阪急西宮球場)、8回裏に
石井茂雄
から3ラン ※史上83人目
- 150本?打:1977年5月29日、?近?バファロ?ズ前期10回?(
島根?立浜山公園野球場
)、5回裏に
井本隆
からソロ ※史上47人目
- 1000安打:1978年5月23日、?
日本ハムファイタ?ズ
7回?(阪急西宮球場)、3回裏に
高橋直樹
から中前安打 ※史上109人目
- 1000試合出場:1978年9月8日、?日本ハムファイタ?ズ後期10回?(
後?園球場
)、7番?一?手で先?出場 ※史上204人目
- 200本?打:1979年5月31日、?日本ハムファイタ?ズ前期8回?(阪急西宮球場)、8回裏に
川原昭二
から右越ソロ ※史上29人目
- 250本?打:1981年5月31日、?近?バファロ?ズ前期10回?(
藤井寺球場
)、8回表に
橘健治
から中越同点2ラン ※史上18人目
- 1500安打:1981年8月29日、?南海ホ?クス後期6回?(阪急西宮球場)、5回裏に
平?隆好
から投手前?野安打 ※史上42人目
- 1000打点:1982年7月6日、?近?バファロ?ズ後期1回?(阪急西宮球場)、1回裏に
谷宏明
から右中間へ2点適時二?打
- 1500試合出場:1982年9月14日、?ロッテオリオンズ後期6回?(
宮城球場
)、5番?一?手で先?出場 ※史上73人目
- 300本?打:1984年6月9日、?南海ホ?クス10回?(藤井寺球場)、9回裏に
金城基泰
から右越逆?サヨナラ??本?打 ※史上16人目
- 1000得点:1985年10月17日、?ロッテオリオンズ26回?(藤井寺球場)、1回裏に
柳原隆弘
の2ラン本?打で生還 ※史上7人目
- 2000安打:1987年5月7日、?
阪急ブレ?ブス
6回?(大阪球場)、6回裏に
山田久志
から右中間へソロ ※史上23人目
- 2000試合出場:1987年8月30日、?近?バファロ?ズ19回?(大阪球場)、3番?一?手で先?出場 ※史上23人目
- その他の記?
背番?
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]
- 10
(1969年 - 1982年、1986年)
- 6
(1983年)
- 5
(1984年 - 1985年)
- 7
(1987年)
- 75
(1995年 - 1997年、2016年 - 2017年)
- 85
(2003年 - 2005年)
登?名
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]
- 加藤 秀司
(かとう ひでじ、1969年 - 1978年、2016年 - 2017年)
- 加藤 英司
(かとう ひでじ、1979年 - 1987年、1995年 - 1997年、2003年 - 2005年)
?連情報
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出演番組
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]
?連書籍
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]
ディスコグラフィ
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]
- ああ王者(1976年、東?レコ?ド) -
山口高志
、
山田久志
、
大熊忠義
と合唱。 ※1999年
バップ
から??のアルバムCD『野球小僧 ?かしの野球ソングコレクション』にも第10トラックに??。
脚注
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?考資料
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?連項目
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]
外部リンク
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]
業績
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1950年代
|
- 1951
川上哲治
,
野口明
,
林義一
- 1952
飯島滋?
- 1953
飯田?治
,
平井三?
,
堀井?男
- 1954
中西太
,
山?和弘
- 1955
山?和弘
,
西?道夫
- 1956
森下正夫
,
吉田義男
- 1957
大下弘
,
宮本敏雄
- 1958
宮本敏雄
,
中西太
- 1959
山?和弘
,
中利夫
|
---|
1960年代
|
- 1960
森下整?
,
金田正一
,
張本?
- 1961
??叔功
,
田宮謙次?
- 1962
ブル?ム
,
張本?
- 1963
近藤和彦
,
王貞治
,
古葉毅
- 1964
金田正一
,
J.マ?シャル
,
J.スタンカ
- 1965
D.スペンサ?
,
高倉照幸
,
江藤?一
- 1966
??叔功
,
?本喜八
,
古葉竹識
- 1967
土井正博
,
長池?二
,
大杉勝男
- 1968
江藤?一
,
柴田?
,
小池兼司
- 1969
土井正博
,
船田和英
|
---|
1970年代
|
- 1970
長池?二
,
江夏豊
,
遠井吾?
- 1971
江夏豊
,
長池?二
,
加藤秀司
- 1972
野村克也
,
阪本敏三
,
池田祥浩
- 1973
若松勉
,
福本豊
,
山崎裕之
- 1974
高井保弘
,
福本豊
,
張本?
- 1975
山本浩二
,
松原誠
,
土井正博
- 1976
有藤道世
,
門田博光
,
吉田孝司
- 1977
若松勉
,
野村克也
,
王貞治
- 1978
A.ギャレット
,
?田浩二
,
掛布雅之
- 1979
王貞治
,
B.マルカ?ノ
,
山本浩二
|
---|
1980年代
|
- 1980
岡田彰布
,
平野光泰
,
江夏豊
- 1981
藤原?
,
掛布雅之
,
山倉和博
- 1982
福本豊
,
柏原純一
,
掛布雅之
- 1983
門田博光
,
梨田昌崇
,
落合博?
- 1984
?田浩二
,
ブ?マ?
,
江川卓
- 1985
高木豊
,
W.クロマティ
,
松永浩美
- 1986
山本和範
,
?原和博
,
吉村禎章
- 1987
高?秀昭
,
石毛宏典
,
?原和博
- 1988
ブ?マ?
,
岡田彰布
,
正田耕三
- 1989
村田兆治
,
彦野利勝
|
---|
1990年代
|
- 1990
R.ブライアント
,
?原和博
- 1991
古田敦也
,
??克己
- 1992
石井浩?
,
古田敦也
,
駒田??
- 1993
?原和博
,
T.オマリ?
- 1994
秋山幸二
,
G.ブラッグス
- 1995
落合博?
,
松井秀喜
- 1996
山本和範
,
?原和博
,
金本知憲
- 1997
松井稼頭央
,
?原和博
- 1998
川上憲伸
,
松井秀喜
- 1999
松井秀喜
,
R.ロ?ズ
,
新庄剛志
|
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2000年代
|
- 2000
R.ペタジ?ニ
,
山?武司
,
?原和博
- 2001
松井稼頭央
,
R.ペタジ?ニ
,
中村紀洋
- 2002
G.アリアス
,
的山哲也
- 2003
高橋由伸
,
金本知憲
- 2004
松坂大輔
,
SHINJO
- 2005
金城龍彦
,
前田智?
- 2006
?木宣親
,
藤本敦士
- 2007
A.ラミレス
,
阿部?之助
- 2008
山?武司
,
荒木雅博
- 2009
?木宣親
,
松中信彦
|
---|
2010年代
|
- 2010
阿部?之助
,
片岡易之
- 2011
?山和洋
,
中村剛也
,
?葉篤紀
- 2012
中村紀洋
,
前田健太
,
陽岱鋼
- 2013
澤村拓一
,
新井貴浩
,
?川聖一
- 2014
B.エルドレッド
,
柳田悠岐
- 2015
藤浪晋太?
,
會澤翼
- 2016
筒香嘉智
,
大谷翔平
- 2017
?川聖一
,
A.デスパイネ
- 2018
森友哉
,
源田?亮
- 2019
森友哉
,
近本光司
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2020年代
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1950年代
| |
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1960年代
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1970年代
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1980年代
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1990年代
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2000年代
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2010年代
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2020年代
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1950年代
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1960年代
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1970年代
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1980年代
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1990年代
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2000年代
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2010年代
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2020年代
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1950年代
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1960年代
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1970年代
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1980年代
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1990年代
| |
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2000年代
| |
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2010年代
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2020年代
| |
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1960年代
| |
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1970年代
| |
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1980年代
| |
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1990年代
| |
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2000年代
| |
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2010年代
| |
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2020年代
| |
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|
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1970年代
| |
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1980年代
| |
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1990年代
| |
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2000年代
| |
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2010年代
| |
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2020年代
| |
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1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
|
|
ドラフト指名
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第1次ドラフト
|
- 1位:
?井憲
- 2位:
島谷金二
(入?拒否)
- 3位:久保陽二(入?拒否)
- 4位:
加藤秀司
(入?拒否)
- 5位:
千葉剛
(入?拒否)
- 6位:笠原弘道(入?拒否)
- 7位:尾?洋司(入?拒否)
- 8位:
井上弘昭
(入?拒否)
- 9位:末永幸士(入?拒否)
|
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第2次ドラフト
| |
---|
|