分島問題
(ぶんとうもんだい)
[1]
[2]
とは、
1879年
(明治12年)の
日本政府
による
琉球?合
後に、
アメリカ合衆?
前大統領
ユリシ?ズ?グラント
の斡旋により開始された日
?
間の交?の中で問題となった、
琉球諸島
を日本と?との間で分割する構想である。
沖?本島
周?を日本、
宮古列島
、
八重山列島
を?に分割する案でいったん日?間の合意が成立したものの、?に亡命した
??人
による粘り?い反?運動と、?が同時期に抱えていた?とロシア間の?境紛?であるイリ問題が解決に向かったことにより?側が調印を回避したため、琉球諸島の分割は行われなかった。
分割と
日?修好?規
の改正をセットにした案については、
分島改約案
や
分島?約案
と呼ばれている。
琉球?分後の?側の動き
[
編集
]
1879年4月4日、明治政府は琉球?分の?行を日本??外に公表した
[3]
。その直後、東京に駐在中の駐日公使の
何如璋
は、琉球?分の?行を本?に報告した
[4]
。琉球?分?行の報を受け、?の政府?では??策について意見交換がなされた
[5]
。?としては琉球そのものに?してはさほど大きな?心を持っていなかったものの、
琉球王?
滅亡という事態の影響が朝鮮半島に波及することを恐れており、琉球?分を受け入れることは出?なかった
[6]
。
?理衙門
は?の?力を考えると、海を隔てた琉球への武力介入は非現?的であると判?した
[5]
。また、日本側からも駐?公使の任命が決定されたこともあり、諸外?を?き?んだ形の外交交?を展開して、事態の好?を?る方針を主張した
[4]
。
議論の中で、前駐英?公使の
郭嵩燾
は、?理衙門と
李鴻章
に?して、?事?である日本、?が?加する形の?際?議を開催し、?議の席で、各?が琉球を保護する中で、?を建てて自主させることを決定した上で、?は
朝貢
を免除するという建議を行った
[注? 1]
[8]
[9]
。李鴻章は郭嵩燾の提案を評?し、琉球の朝貢免除には?意を示した
[10]
。しかし?際?議の開催とその席での各?による琉球の保護と自主の保?が成立し得るのかどうか危ぶんだ
[11]
[12]
。また李鴻章は?理衙門が諸外?を?きこんだ形での外交交?の席での問題解決を唱えたことを受けて、各?とともに問題解決を?ること自?は一つの方法としてありとした上で、仲裁にかこつけて諸外?が?に?して??な要求を突き付けてくる可能性を指摘した
[注? 2]
[11]
。
?理衙門は1879年5月12日に琉球?分は日?間の信??係を損ね、
日?修好?規
に違反するとの抗議を行った
[14]
。日本側からは8月2日に反論の回答が送られ、それに?する?理衙門の再反論が8月22日に日本側に送付された
[15]
。
駐日公使の何如璋も
寺島宗則
外務卿
に5月20日、琉球問題について日?間で協議中であったのにもかかわらず、琉球?分を?行したことは承服しがたいとの抗議を行った
[16]
[17]
。日本側にとってみれば琉球問題はもはや?政問題であり
[18]
、寺島外務卿は前年1878年10月8日付の何如璋の抗議文を問題とした。何如璋が1878年10月8日付で外務省宛に送付した、日本政府が琉球に?して行った朝貢禁止等の措置を激しく非難した文章に?して、日本側は?容が無?であり日???の友好に反すると判?した。そのため問題の文章について謝罪が無い限り琉球問題に?しての協議には一切?じられないとする??を取っていたが、何如璋からの琉球?分に?する抗議も引き?きやはり門前?いをしたのである
[19]
[15]
。日?間の交?が暗礁に?り上げたかに見えた中、アメリカ前大統領のグラントが世界周遊の過程で日???を訪問し、琉球??問題の調停に?り出すことになる
[16]
。
グラントによる調停
[
編集
]
?でのグラントの調停活動
[
編集
]
琉球問題をめぐり日???の交?が暗礁に?り上げる?況下、李鴻章は世界周遊中のアメリカ前大統領グラントが?を訪問するとの情報をキャッチした。李鴻章はイギリス、フランスとは異なり、アメリカは?に友好的であると見なしており、グラントによる琉球問題の調停に前向きであった
[18]
[20]
。
?に到着したグラントは
上海
から
天津
?由で
北京
へ向かい、6月3日には?理衙門の
恭親王奕?
と面談し、その席で琉球問題に?しての調停を依?された。その後6月12日、グラントは天津にて李鴻章と琉球問題を主題とした?談に臨んだ
[21]
[22]
。?談の席で李鴻章はまず
朝貢
の有無は問題としないと前置きした上で、これまで琉球が?の
冊封
を受け朝貢を行ってきたのにもかかわらず、日本が一方的に滅亡させたのは?際法に違反すると批判した
[16]
[22]
。その上で琉球はアメリカとの通商?約を結んでおり、アメリカと??間の貿易ル?トを考えると、?からみて太平洋への出口にあたる琉球の日本領化は貿易の妨げとなりかねず、もし日?間で??勃?という事態にまで?展してしまったら、?とアメリカの貿易は?滅的打?を被ることになると、琉球?分がアメリカの?益をも害するものであるとの主張を展開した
[22]
。
グラントは李鴻章の意見におおむね?同の意を示し、中でも日?間の不和が高じて開?という事態に?展してしまうことを恐れており、日??係の調停が成立すれば万人にとって利益となるとの見解を示した
[22]
。また琉球問題に?して?側としては朝貢については?わず、土地の問題での?いであることを理解したので、別に「特別?項」を設ける必要があるとの問題解決へ向けての方針を示した
[23]
[24]
。グラントの念頭にあった「特別?項」とは、南北に長い琉球列島を日???で分割する妥協案であった
[25]
。李鴻章はグラントの意見に?意を示した上で、改めて琉球問題に?しての日?間の調停を依?した
[23]
。琉球問題に?してグラントが?側の要求は土地、すなわち領土問題であり、解決には「特別?項」を設ける必要があるとの認識を示し、李鴻章もその意見に同意したことから、琉球諸島を分割することによって日???の合意を得るアイデアが浮上することになった
[25]
。
日本におけるグラントの調停活動
[
編集
]
グラントは1879年7月3日に?浜に到着した
[26]
。そして7月22日にグラントは
?務卿
伊藤博文
、陸軍卿
西??道
らに日光へ案?され、日光にて琉球問題について日本側からの事情?明を受けるとともに協議を行った。なお、東京ではなくて日光で琉球問題の?議を行ったのは、諸外?などから注目を集めてしまうことを恐れたためと考えられる
[27]
。日本側はグラントに?して琉球問題の?緯を?え、琉球は?史的に見て日本本土と一?不可分の地であるとして、琉球?分が正?なものであるとの?明を行った
[28]
。グラントは日本側の?明を聞き、日本の立場として設置したばかりの
沖??
を無くすことは出?ないことを理解した
[29]
。
一方グラントは日光での日本側との琉球問題協議の席で、日本が琉球諸島を占?している?況は、太平洋への出口を塞がれた形となるため、?とアメリカとの交易に重大な支障を?えていると、?が琉球問題を深刻に受け止めていると指摘した
[26]
。そしてもし日?間で??が勃?したら、日???はヨ?ロッパ列?の餌食になると?調し、琉球問題は日?間で平和裏に解決されなければならないとした
[26]
[30]
。その上でグラントは琉球問題は日???間の問題であり、本?的には他?が干?すべき事柄ではないとしつつも、自分の調停によって事態が解決すれば名?なことであると調停に意欲を示した
[31]
。
8月10日、
浜離宮
で
明治天皇
との?談に臨んだグラントは、琉球?分について日本側の立場に理解を示しつつも、琉球問題に?しては日???の主張に大きな食い違いがあることを指摘した
[26]
[31]
。台?出兵以降、?は日本に?しての不信感を募らせており、今後、琉球に?いて台?も日本に奪われる事態となれば太平洋への出口を喪失してしまうのではないかとの危機感を抱いていると?明した
[26]
。またヨ?ロッパ諸?は日?間の紛?を己の利益のために利用すると指摘して、琉球問題に?するヨ?ロッパ諸?による干?を排除するよう忠告した
[32]
。その上で中?には?大な市場があり、?の近代化に日本が寄?していく日?連携の重要性を指摘した。さらにグラントは琉球問題に?しては日???が互いに??し、平和的に解決すべきであり、具?的には琉球諸島に境界線を引き、??で分割すれば?としても太平洋への出口を確保できるため、妥協が可能なのではないかと提案した
[26]
[31]
。
仲裁裁判論の浮上
[
編集
]
?側は?初、グラントに?して琉球問題に?する公正なジャッジ、すなわち「公評」を求めたものの、グラント側は「公評」ではなく日?間の調停を約束したものと推測されている
[33]
。?理衙門も李鴻章も?際的に影響力があるとみられるグラントが、琉球王?を?絶させた琉球?分の不?性を明言することを期待しており、グラントの「公評」を琉球王?の復活に?げていこうと考えていた
[34]
。しかしグラントは訪日時には日本側の主張にも理解を示しており、訪?、訪日を通じて日???の主張に?して正邪を判?することは無かった
[29]
。
グラントはあくまで日???が相互に??することによる事態の解決を?ろうとしていた。具?的には問題となっている琉球諸島の日???による分割案である。これは日????係の調停役を買って出た形のグラントにとっては、??にとって公正かつ平和的な解決を?る案であったものの、その一方で分?されることになる琉球諸島に?する配慮が全くないものであった
[29]
。グラントは日???へのヨ?ロッパ諸?、中でもイギリスの影響力?大に神?を尖らせていて、その一方でアメリカの影響力を?めることをもくろんでいた
[29]
。そのためグラントは日本側のみならず?側に?しても?立の平和的解決とヨ?ロッパ諸?による琉球問題への干?を避けるように提言していた
[35]
。そしてグラントは、琉球問題の解決は日???間の直接交?によるべきであるとしながらも、?立が解消されない場合、
仲裁裁判
に付託することも提案していた。そしてもし仲裁裁判に付託することになった場合、諸外?からの干?を防ぐ意味で仲裁者に日???駐在の外?公使を選ぶことが無いよう助言も行っていた
[29]
。
ところで日本側は1879年8月22日付の?理衙門からの琉球?分に?する再反論の?容に注目していた。再反論の中で琉球問題に?して仲裁裁判への付託を?わせる表現があったためである。?容を確認した伊藤博文は、部下の
井上毅
に仲裁裁判に?して警戒し、準備を進めていくよう指示を出している
[36]
。
??人の活動開始
[
編集
]
琉球?分の?行前の1876年12月10日、
向?宏
(幸地朝常)、蔡大鼎(伊計大鼎)、
林世功
(名城世功)らは日本政府の進貢?冊封の禁止命令について?側に?える密命を?び、琉球を密かに出?した
[37]
[38]
。琉球?分後も向?宏らは日本側から出されていた??命令に?うことなく福州に留まっていた
[10]
。向?宏は琉球?分?行前後に琉球に書簡を送り、日本政府が琉球王?を?絶させるような?力行使を取る前は徹底抗?すべきとしながらも、?絶させた後は衝動的かつ?硬な抵抗は避けながら時間稼ぎを行って?の救援を待つよう指示し、?琉球王?指導者クラスは向?宏の指示に?い、?調を合わせる方針となった
[39]
[40]
。
琉球?分の?行を知らされた向?宏は、早速李鴻章のもとへ蔡大鼎らを送り、琉球?分について?えた
[41]
[42]
。その後1879年6月6日に、向?宏は?絶された琉球王?の世子、
?典
から、至急北京に赴いて琉球復活に向けた請願活動を行うべしとの密書を受け取る
[43]
。密書を受け取った向?宏は、座して(琉球王?の)滅亡を受け入れるよりも行動あるのみと、?の?局の許可を得ることなく密かに天津へ向かった。天津に着いた後、李鴻章に?する2度の嘆願書提出の中で、琉球滅亡の??を察していただいた上で、速やかに琉球出兵を願い、琉球出兵の?には向?宏本人が先鋒を務めたいと主張した
[44]
。
前述のように?としては日本との武力衝突は避ける方針であったため、向?宏の請願が受け入れられることはなかったものの、李鴻章は向?宏が中?語、日本語に堪能である上に日本の事情にも通じていることを知り、向?宏を身近に匿って??的支援を?えるようになった
[45]
。1879年9月29日には毛精長(?頭盛?)、蔡大鼎、林世功らが北京に向かい、向?宏とともに??局に?して琉球復興に向けての請願活動を行っていくことになる
[注? 3]
[42]
[47]
。
日?間の交?開始
[
編集
]
交?開始までのやり取り
[
編集
]
グラントは1879年8月13日付の恭親王奕?宛の書簡で、琉球問題に?して日本側との直接交?を?め、交?に先立ち、日本側が問題としている1878年10月8日付の何如璋の抗議文の撤回を助言した
[48]
。グラントの書簡はアメリカ駐天津領事から李鴻章に手渡され、李鴻章から?理衙門の恭親王奕?のもとに9月上旬になって?けられた。?理衙門はグラントの?めに?う形で、9月20日付で日???が琉球問題について協議する場を設けることを提案する文書を送付したが、何如璋の抗議文の撤回については特に?れなかった
[49]
。
日本側は?側が日本に代表?を派遣し、??が琉球問題について協議することは了承する旨回答し、琉球問題の外交交?に?じる姿勢を示した。しかし何如璋の抗議文の撤回問題、日???のいずれが全?を派遣し、どちらで交?を行うのかで日???の意見の?立が?き、?際の交?開始は?れた
[49]
[50]
。結局1879年12月になって?理衙門は、何如璋の抗議文を含むこれまでの日?間のやり取り全てを棚上げする提案を行い、日本側がその提案を受け入れたことによって暗礁に?り上げていた日?間の交?が始められることになった
[49]
。なおどちらが全?を派遣し、どこで交?を行うかについては日本側が??して北京駐在の駐?公使、
??璣
が全?として北京で交?を行うことになった。これは駐日公使の何如璋の裁量?が少ないため、どうしても交?姿勢が?硬なものとなることを見越して、?理衙門と直接交?をした方が良いとの判?があった
[51]
。
日本側はグラントによる日?間の調停活動を受けて、琉球諸島のうち宮古列島と八重山列島を?側に引き渡す琉球諸島二分割案の?討を進めていた。ただし琉球?分によって、いったん日本領となった地を?に見返り無しで引き渡すのは日本の威信にも?わる事態であるため、日?修好?規の改定をセットとして?に要求する方針となった
[52]
。1880年3月4日、
井上馨
外務卿は
太政官
に、琉球諸島の日???での分割と日?修好?規の改定をセットで行う「分島改約」の方針を?明した
[52]
。井上外務卿は?時、?がその??に苦慮していた?ロシアとの外交課題であるイリ問題を利用して、日本に有利な情勢を利用して??で交?に臨む意向であった
[53]
。
琉球?分の前後、日?間の交?が暗礁に?り上げている期間も、日本側は非公式に
竹添進一?
を派遣して李鴻章との交?に?たらせていた。竹添は李鴻章との秘密交?の他に、向?宏ら
??人
の動向を探る任務も?っていた
[49]
[54]
。井上外務卿は?側との正式交?開始前に改めて竹添を?に派遣し、李鴻章と予備交?に?たらせることとした。そして北京駐在の??公使に?しては、?側との交?方針について?明した上で、竹添による予備交?の後に?理衙門との本交?へと移るよう指示を出した
[55]
。
グラントによる調停に沿った形で琉球問題解決のための日?間の交?が開始されたことで、琉球問題は日?間の二?間の問題という?組みが確定し、交?の場から琉球自?は排除された。その結果として琉球と諸外?との間に締結され、琉球が外交?を所持していたことを示し、?立性を?明する一つの根?となっていた
琉米修好?約
、
琉?修好?約
、
琉蘭修好?約
の3?約は、事?上?値を失った
[56]
。
竹添による予備交?
[
編集
]
日本側が琉球諸島の日?分割の交換?件としたのは、
最??
?項が規定されていない日?修好?規に、?地通商?の規定が盛り?まれていた?米諸?の通商?約と同等の?利を得ることと、??的に日本と?米諸?との間の通商?約が改定された場合、改定?容を日?間の通商?約に反映させることに?してあらかじめ?側の同意を取り付ける2点に?してであった
[52]
[57]
。つまり日本側としては宮古列島と八重山列島を?に?る代わりに、まず?米諸??みに???で日本商人が活動できるよう日?修好?規の改定を要求した
[52]
[58]
。そして?が?地通商?を認めなかったとしても、日本と?米諸?との間の通商?約が改定された場合、改定?容を日?間の通商?約に反映させることに?しては??をしない方針であった
[59]
。そもそも日?修好?規の調印?初から、日本側は最???項が盛り?まれずに?地通商?が認められていなかったことに?して不?を持っており、これまでもしばしば?約の見直しを提起して?たものの?側が?じなかった?緯があった
[60]
。結局、日本政府としては日?修好?規の改正が主目的であり、琉球の分島問題は?約改正の交?用カ?ドであった
[59]
[61]
。
1880年3月26日、竹添進一?は李鴻章と予備交?を開始した。日本側の琉球諸島分割と日?修好?規の改定をリンクさせる方針に?し、李鴻章はグラントの日?間調停の?件に盛り?まれていない話であり、そもそも琉球問題と通商?約の改正は別の話であり、それぞれ別個に議論すべきと?く反?した。その一方で先島諸島を?側に?渡する案に?しては、?としては?渡された場合、宮古列島と八重山列島は琉球人に返すべきと考えており、その案で行くしかないのではないかと日本側の主張に理解を示した。ところが李鴻章から?談?容の報告を受けた?理衙門は、宮古列島と八重山列島を?に?る案に難色を示した
[62]
。
4月4日の竹添進一?と李鴻章の再交?では、まず?約改正問題では日本人に?地通商を許せば、?の?政に?影響を?え、そもそも琉球問題と?約改正は別問題でありリンクさせるべきではないと、改めて?約改正問題を交?の俎上に?せた日本側に?して?い不信感を示した
[62]
。そして琉球問題に?しては3月26日の交?時とは異なり、?はあくまで琉球王?の復活を求めており、琉球諸島南部を引き渡されたとしても?は受け取るわけにはいかないと?えた
[62]
。更に1879年8月11日付の駐日公使の何如璋からの書簡によれば、グラントと駐日アメリカ公使のビンガムが協議の上、?側に提示された分割案は琉球列島の二分割案では無くて、琉球の中部、沖?本島とその周?の島?に琉球王?を復活させ、北部(奄美諸島)を日本領、南部(宮古列島と八重山列島)を?領とするという三分割案であり、しかもこの案はグラントによる「公評」、すなわち仲裁裁判の判決案であると主張した
[63]
[64]
。
グラントが二分割案、三分割案のいずれを提案したのか、そもそも具?的な分割案を示したことがあったのかどうかについては明らかになっていない
[65]
。しかしこの李鴻章が三分割案がグラントによる仲裁裁判の判決案と主張したことは日本側に混?をもたらすことになる
[66]
。
??璣の問題提起
[
編集
]
竹添による予備交?後に、駐?公使の??璣による?側との交?が開始される予定であり、?際、??は竹添から外務卿井上馨からの?側との交?開始を指示する?訓?を手渡されていた。しかし??は、グラントが三分割案を日?間の仲裁裁判判決案として提示したとの情報の??を確かめるのが先決であると、交?開始の順延を主張する
[66]
。
??による指摘を待つまでもなく、日本側としてはグラントが?際に三分割案を提示したのかどうかについては至急確認を進めており、ビンガム公使から1880年4月12日に口頭で、4月20日には文書でグラントと三分割案について相談したり?側に提案したりしたことが無いとの回答を得た
[67]
。ビンガムから口頭での回答を得た後の4月17日に、廟議において琉球諸島の分島(二分割案)と日?修好?規の改定をセットで?側と交?していく方針と、交?の責任者として駐?公使の??璣を正式決定した
[67]
[68]
。井上毅は井上外務卿名の
三??美
太政大臣宛の琉球問題に?する伺書を作成しているが、伺書の中で?側との交?においては琉球分島問題と?約改正問題をリンクさせて交?していくことを?調するとともに、イリ問題に?して?とロシアとの?係が緊張感が高まっていることに着目し、?露?係を注視しながら交?を進めていく必要性を指摘していた
[69]
。
4月20日、井上馨外務卿は??に?してビンガムからの回答を?えるとともに、交?を補佐するために井上毅を派遣すること、先日竹添から渡された?訓?、そして井上毅が持?する指示書に?って、早急に?側との交?を開始するように指示した
[67]
。井上毅は5月8日に北京に到着したが、??は早急な交?開始の指示を「最下策」と評?し、激しく反?する
[66]
[70]
。??は、琉球問題と?約改正問題をリンクさせ、更に?露間の緊張を利用して交?を進めようとする日本側の姿勢が、諸外?から相手側の困難に?じて、後になって?件を追加したと判?され仲裁裁判に持ち?まれた場合、心情的に不利に?くと判?していた
[67]
[注? 4]
。そこで交?では?約改正について扱わないか、グラントに日本の交?方針について納得してもらうか、さもなければ政府の交?方針に?って交?を進めはするが、交?に?たっての判?は全て政府に丸投げするかの三?を提案した
[71]
。
??の問題提起を受けて、??の?示した解決案の2番目、つまり琉球問題と?約改正問題を同時に交?する日本側の方針について、グラントに理解を求めることになった
[72]
。6月19日、
吉田?成
駐米公使がグラントと?談し、グラント本人からも三分割案の提案が無かったことを確認するとともに、日本側の琉球問題と?約改正問題を同時交?する方針への了解を得た
[72]
[73]
。グラントからの回答を得た井上外務卿は、左大臣
有栖川宮熾仁親王
に方針通り、??に?との交?を開始させる旨を報告の上、6月29日付で?理衙門宛に??に日?間交?の全?委任を行う旨の文書を?行する
[72]
。??もグラントが日本側の交?方針を了承したことを受けて?との交?開始に同意して、7月26日、?理衙門に井上外務卿からの文書を手渡し、交?開始を求めた
[72]
。?側は交?開始を認め、8月18日から日?間の正式交?が始められることになった
[74]
。
イリ問題とのリンク
[
編集
]
?は18世紀半ばに
ジュンガル
との長期間に及んだ
??ジュンガル??
に勝利し、
新疆
をその版?に加えた。しかし新疆での?による統治は安定せず、19世紀になると反?が頻?するようになった
[75]
。そして1864年にはイスラム?徒の大反?が勃?する。大反??生?時、?力が低下していた?は新疆に?する支配?をほぼ失った。?力の空白?態となった新疆では、
コ?カンド?ハン?
の軍人であった
ヤクブ?ベク
が
カシュガル
で自立し、?自にロシア、イギリスとの通商?約を締結するに至る
[75]
。ヤクブ?ベクの支配地域の北方にあたる
イリ地方
には別の勢力が自立した。ところがロシアとの間に紛?が勃?し、1871年、ロシアはイリ地方を占領する
[75]
。
新疆のイスラム?徒大反?以前から
左宗棠
は
陝西省
、
甘?省
のイスラム?徒反?の??に?たっていたが、1873年にほぼ??に成功する
[76]
。陝西、甘?の反???に成功し、?力な軍事力を擁するようになった左宗棠は、西の新疆の反???にも意欲を見せた
[76]
。1875年に?は左宗棠を新疆問題の責任者として
欽差大臣
に任命した。左宗棠は新疆に進攻してヤクブ?ベク政?を倒し、1878年には反?の??に成功する
[77]
[78]
。
ヤクブ?ベク政?を倒したものの、イリ地方はロシアに占領されたままである。こうして琉球問題と?行してロシアとイリ地方の領土問題を抱えてしまうことになった。?もロシアも武力衝突は避ける方針であったため、
崇厚
がロシアに派遣され、1879年に
リヴァディア?約
(
英語版
)
が調印された。しかし同?約はロシアに?して大幅な領土割?と多額の賠償金支?いが盛り?まれており、???で?約に?する激しい批判が沸き起こり、皇帝による批准が得られなかった
[77]
[79]
。1880年6月には左宗棠はハミに進駐し、イリ地方を占領中のロシア軍と?峙するようになり、?露間の緊張が高まっていた
[79]
。?はイリ問題の再交?のために
?紀?
を
ペテルブルク
に派遣し、1880年8月4日から交?が始まった
[79]
[80]
。しかし?側は自?に不利なリバティア?約を白紙に?した?態からの交?を求めたものの、ロシアはリバティア?約をもとに修正を行うことを要求し、?とロシア間の交?は難航を極めた
[77]
。イリ問題の?とロシアとの交??過は、琉球問題に?しての日?間の交?にも影響を及ぼすことになる
[81]
。
正式交?
[
編集
]
??と?理衙門による交?開始
[
編集
]
1880年8月18日、日?間の第一回交?が北京の日本公使館で開催され、琉球問題の日?間正式交?が始まった
[82]
。日本側全?の??璣は?議冒頭に正式交?における日本側の方針を?明した書類を、?側の交???者である?理衙門所?の5名に手渡した上で、本?琉球?分は日本の??問題であり、?が??すべきものではないが、インドがイギリスの植民地となり、ベトナムにフランスの勢力が伸長している例などを?げた上で、日???は協力してヨ?ロッパ列?の侵略に備えるべきではないかと日?連携の重要性を?調した上で、グラントの調停もあり、?側からも琉球問題解決に向けての案を出してもらいたいと要請した
[82]
。初回交?の席では日???とも具?案の提示はされなかったものの、日???連携の立場に立って、交?成立に向けて努力することで合意した
[83]
。
第二回交?は8月24日に?理衙門で行われた。??は?側に改めて琉球諸島の分島と?約改正をセットにした日本案を?明した節略を提示し、この案で合意したいと主張した
[83]
。?側は?理衙門の責任者である恭親王奕?に案を示し、熟考の上回答したいと?えた上で、日本が?側に引き渡すとした宮古列島、八重山列島の位置について質問した。??は地?上での位置を?明した上で、改めて日本側の琉球諸島の分島と?約改正をセットとした解決案に基づく交?を要求した
[84]
。
9月3日に日本公使館で行われた第三回交?の席では、今度は?側から節略の提示がなされた。まず?約改正の?地通商?に?しては、必ずしも拒否をするものではないが、日???が相互に認め合う?等の原則に基づく解決を要求した
[85]
。一方、宮古列島と八重山列島の分島案に?しては恭親王奕?も肯定的であったとした上で、?際問題としては宮古列島と八重山列島が?に編入されたとしても官吏を派遣することは困難であり、?って?としては領有の意?は無く、琉球王?を復活させるつもりであることを示唆した
[85]
。??は?側の回答を受け取った上で、?約改正に?しては後日書面で回答したいとした。また?側からは宮古列島と八重山列島の土地や人口等の?地調査を行いたいとの要求が出されたが、??はその要求を拒否した上で、後日日本側による調査?容を示したいと回答した
[85]
。日本側の現地調査拒否の理由は、?による調査?を現地に派遣すれば混?が?生し、困難な事態が起きることが予想されるというもので、分島案が現地に漏洩することを恐れてのことであった
[86]
。結局、?側から更なる?地調査の要求は無かった
[85]
。
?氏の復?を巡る攻防
[
編集
]
日本側全?の??は、まず?約の改正についての協議を優先させ、目途が立った時点で琉球分島問題について協議したいとの意向を示した
[87]
。そのため9月11日の第四回交?、9月25日の第五回交?では?約改正について協議が進められた。日本側と?側と間に意見の相違はあったが、??の?硬な交?姿勢を前に?側は日本案を受け入れる方針を固め、9月30日には第五回交?の席で日本側から提示された?約草案を改めて取り寄せて、正式な?約案の?討を開始した
[88]
。?側が日本案を受け入れる方針を固めた背景には、後述のようにイリ問題による?ロシア?係の緊張があった
[89]
。
10月7日に行われた第六回交?では、まず?側から日本の?約草案について原則合意すると?えた。日本側からは第三回交?で?側から提起された、宮古列島と八重山列島の土地や人口等に?する資料が手渡された
[90]
。
第六回、第七回交?で焦点となったのが?琉球王?の王族である?氏の引き渡し問題であった
[91]
。琉球王?を復活させるという建前上、?は?琉球?王の?泰ないしその子息を宮古列島と八重山列島に迎え入れて?王にするもくろみであった
[92]
。しかし日本側にとってみれば引き渡した後、宮古列島と八重山列島の扱いを?に任せるのはやむを得ないとしても、いったん滅亡させた琉球王?を明確な形で復活することは?面上認め難かった
[89]
。?側は第六回交?の席で?泰やその子息の引き渡しを要求したが、??は拒否した。すると?側はせめて庶子ないし?氏の王族の引き渡しを願ったものの、??ははっきりとした回答を避けた
[93]
。
?理衙門は10月10日に、琉球王族の現?について日本本?に照?して欲しいという文書を日本公使館に送った
[94]
。すると10月12日の第七回交?の席で??は、琉球王?を滅ぼしておきながら改めてその復活をさせるのは日本の立場として矛盾するので、10月10日の照?を本?に送ることは出?ないとしつつも、宮古列島と八重山列島を?に引き渡した後のことに日本側が??するつもりはなく、宮古列島と八重山列島の住民の中にも?王に冊立できそうな人物はいるだろうし、また、琉球王族の?氏ではなく、?氏の一族にあたる向氏を?王とすることも考えられるのではないかと、暗に向?宏を冊立してはどうかと提案した
[注? 5]
[97]
。また??のサポ?トをしていた井上毅は、「
琉球?王
」でなくて「琉球土司」とするのならば?氏の?側への引き渡しを認める妥協案を?討していた
[89]
。
10月21日に第八回の最終交?となった。?側は日本側の草案とこれまでの7回にわたる交?結果をまとめた?約案を日本側に提示した。?容を確認した??は?意を示して、調印、批准書交換の手?き等について?側に提起した。??は日?間の合意が成立した以上、一?日中に調印を行うよう要求した
[98]
。??の要求に?して?側は、?奏の手?きなどもあるので調印まで10日ほどの猶予を貰いたいと申し出た。??は?側の申し出を了承するとともに、?側と3カ月以?の批准書交換について約束を交わした
[99]
。
?約ではまず宮古列島と八重山列島を?の領土とし、沖?本島とその周?の島?を日本領として??間の?境を定めるとされた
[100]
。そして
光?
7年正月(1881年(
明治
14年)2月)に?は八重山列島に役人を派遣し、そこで日本側から受け取りを行うこと。それに先立ち日本側は宮古列島と八重山列島の住民に?に引き渡されることを?明し、混?が起きないようにすること。そして琉球分?後に日???に分かれることになる琉球の住民は、それぞれの?の法を守り、お互いに干?しないことが取り決められていた
[101]
。
なお?氏の冊立に執念を見せていた?側に?する妥協案として?討されていた、?氏を「琉球土司」として擁立するアイデアはお?入りとなり、結局、?側は第七回交?の席で??が示唆した向?宏の冊立を進めていく方針となった
[89]
[102]
。そして?は結局、日本との琉球問題、?約改正問題に?して仲裁裁判に提訴することは無かった。これはグラントによる仲裁裁判に持ち?んでみたところで、?側に不利な裁定が下されると判?したためと考えられる
[103]
。
調印されなかった?約
[
編集
]
琉球?係者の動き
[
編集
]
2か月余り?いた琉球問題と?約改正に?する日?間の交?は、?重に秘密が守られたために交??過は日?の?事者以外にはほぼ外部には?わらなかった
[99]
。一方、毛精長、蔡大鼎、林世功らの??人らは?理衙門の恭親王奕?らに琉球王?復活、琉球?王の復?を主旨とした琉球救援の嘆願を繰り返していた
[104]
。
交?途中の1880年9月初旬の時点で、?側は分割案に?する琉球人の意向を確認する必要に迫られた。そこで?理衙門は何如璋に東京に在住するようになった
?泰
とその側近に、?琉球王族の構成と宮古列島と八重山列島に琉球王?を復活させる案に?する?否の確認を要請した
[105]
。確認の結果、?泰の親族の現?把握と、?泰としては宮古列島と八重山列島に琉球王?を復活させる案には反?である意向を確認した。何如璋は?泰の反?意見は、?くかつ貧しく、琉球王?時代、行政組織も未整備であった宮古列島と八重山列島に琉球王?を復活させたところで、地元民に受け入れられて?が維持できるのかどうか危ぶんだからだと推測している
[106]
。
何如璋から?泰とその側近に?して、宮古列島と八重山列島に琉球王?を復活させる案についての打診があった話は、東京在住の琉球人に瞬く間に?まり激しい議論が沸き起こった
[107]
。9月末には北京の琉球人にも琉球諸島分割案が?わり、毛精長らは早速、そもそも?くかつ貧しい琉球諸島を分割したところで?として成立し難く、琉球分島案は琉球王?滅亡と何ら?わりがないとの請願書を?理衙門に提出した
[108]
。
前述のように日?間の交?過程の後半で焦点となったのが、?が宮古列島と八重山列島に琉球王?を復活させる際に冊立する?王のことであった。日本側が?氏の引き渡しを拒み、向?宏の冊立を示唆したことにより、向?宏を庇護している李鴻章が調整に?たることとなった
[102]
。
イリ問題と日?交?
[
編集
]
北京で日?間の交?が始まった直後の1880年8月30日、井上外務卿は??に、?露間の?係に緊張が高まり、?が苦境に立っている情勢を利用し、??かつ速やかな交?を指示した
[109]
。?とロシア間の交?は、そもそもいったんリバティア?約の調印後に?が再交?を求めてきたものであり、難航を極めた
[110]
。9月半ば、
柳原前光
駐ロシア代理公使から、ペテルブルクで行われていた交?が北京に舞台を移す予定であるとの情報が?えられた
[109]
。これは難航する交?に業を煮やしたロシア側が、北京に全?を派遣して談判を行う方針へと?更したためである
[111]
。ロシアは?側との交?の長期化は望んでおらず、武力による威?を交えて北京での交?で問題解決を?った
[112]
。
ロシア側がリバティア?約を上回る過酷な要求を突き付けてくる恐れが拭えず、また北京では日?間の琉球諸島の分島と?約改正交?が進行中であり、日露が連携して?力をかけてくるという?にとって最?のシナリオも危?され、?理衙門はロシア全?を北京に迎えることはぜひとも避けたかった
[111]
。そこで?は?紀?全?を通じてペテルブルクでの交???をロシア側に要請するとともに、リバティア?約をもとに修正する方針へと??することを決めた。9月末にはロシア側は?側の要請を受け、北京での交?方針を引っ?め、ペテルブルクで交?が??されることになった
[113]
。
このような緊張感を孕んだ?露間の交?を、日本側は最大限利用しようと試みた。井上外務卿は品川忠道上海?領事には、日?間の交?を有利かつ早期に進めるため、ロシア人と積極的に接?して日露提携を流布するように?きかけた。そして??公使にも日露提携に?しての疑心暗鬼の念を利用して交?を有利に進めるよう指示を行った
[114]
。
ところが、9月末のイリ問題に?するペテルブルクでの交???決定は、?とロシア間の緊張を低下させ、?は日露提携の可能性も消滅したと判?した
[81]
。その結果、イリ問題に振り回されていた琉球分島問題に?し、?側がこれまでよりも??な交?態度に出ることが可能となった
[115]
。
李鴻章の?意
[
編集
]
日?間の交??過を踏まえ、李鴻章は向?宏に琉球の分島案と、宮古列島と八重山列島に向を?王として冊立する構想について打診を行い、10月19日付で結果を?理衙門に送付した
[102]
。李鴻章の報告によると、?在住の向姓の琉球の人物は向?宏しかおらず、また地位的にも?在住の琉球?係者で最も高位にあるとした上で
[注? 6]
、向は琉球王?復活に向けて粉骨?身努力しており、その忠節は見上げたものであり、
春秋時代
の忠臣、
申包胥
をも上回ると賞?した。また向が琉球王族の係累であることは明らかであるので、?泰以外で琉球?王として推戴するとすれば向?宏以外は考えられないとした
[117]
。そして向?宏に分島案について打診したところ、生産力が低くて貧しい宮古列島と八重山列島だけでは自立は不可能であると、絶?反?を主張したとしている
[118]
。
その上で李鴻章は、もし?とロシアが???態になったとしても、日本とロシアが同盟を結ぶ可能性は無いと指摘した。そして現?案に基づいて宮古列島と八重山列島に琉球王?を復活させたところで、生産力が低くて貧しいため自立は不可能で、?年のうちに再度日本領となるのがおちで、?領にしたとしても遠隔地であるため官吏と防衛に要する人員派遣に多大な?力がかかり現?的ではないとして、?理衙門がまだ日本側との交?の結論を出していない?況であるのなら、結論を出すことを順延するべきと主張した
[119]
[120]
。10月19日付の李鴻章の書簡が、10月21日の最終交?に間に合うように北京の?理衙門に到着したのかどうかは不明である。いずれにしても李鴻章の順延主張は大きな波紋を引き起こすことになる
[121]
[122]
。
調印の可否をめぐる攻防
[
編集
]
10月28日、?理衙門は日?間の交?の結果、?約締結しか琉球問題の解決策はないとした上奏文を提出する
[123]
。しかし?の政府?では?約調印の可否をめぐって激しい論?が起きた。反?意見に?して?理衙門側は予定通り?約の調印を主張したが、反?意見は?まらなかった
[124]
。そのような中、11月11日には改めて李鴻章がペテルブルクで行われている?露交?の成り行きを見ながら調印の可否を決めるべきであると、調印の延期を主張した
[125]
[126]
。
イリ問題に?するロシアとの交?は、交?場所がペテルブルクと確定した後も?初は難航が?いた
[127]
。しかし11月に入るとロシア側の交?姿勢に軟化が見え始める
[128]
。これはロシア側にとってみても、イリ問題によって?との間に??が勃?したところで利益が無く、損害ばかりが大きくなると判?したためである
[129]
。結局12月末にロシア側が示した?約草案を全?の?紀?は了承し、?本?に照?して承認を得た
[129]
。結局、1881年2月24日には
ペテルブルク?約
が調印される
[130]
。
11月11日の李鴻章による調印順延の主張以後も、調印?成論と反?論の?立は?き、11月18日には調印の可否について?く意見を募る上諭が出された
[131]
。そのような中で??人の毛精長、蔡大鼎、林世功らによる琉球分島反?運動は激化した。11月18日には毛精長、蔡大鼎、林世功の三名連名による琉球分?反?の請願書が?理衙門に提出された
[132]
。そして11月20日には林世功が、琉球分?に反?する請願書を?理衙門宛に書き記した後に自決した。これは琉球を無視したまま、琉球の分割を決めた日???に?する抗議の表れであった
[133]
。この??人による琉球分割に?する激しい抗議は、?約調印問題に大きな影響を?えた
[134]
。
一方、林世功が自決した11月20日、10日の間に調印を行うと約束したのにもかかわらず、なかなか調印に至らない?況に?して??公使が?理衙門を訪れ、激しく抗議した
[135]
[136]
。??の抗議に?し?理衙門側は、?約案を各部局での議論の上で上奏するので、決定まで3カ月かかると明らかな引き延ばし策に出た
[135]
[136]
。その後、日本側と?理衙門側との間で?約調印を巡るやりとりが?いたが、結局、1881年1月17日に調印に至らなかったのは?側の責任であると通告した上で、??は1月20日に北京を離れ、日本へ向かった
[137]
[138]
。
日本側が交?を打ち切った後も、?の政府?では?約調印の可否をめぐる論?は?いていたが、次第に調印延期論が優勢となっていく。そのような中、2月24日にイリ問題のため新疆でロシア軍と?峙していた左宗棠が北京に?還し、
軍機?
と?理衙門の業務に携わるように命じられたため、蔡大鼎らは早速左宗棠に?して琉球王?復活を訴えた
[139]
。3月3日、左宗棠は宮古列島、八重山列島は?くかつ土地が?せていて産業が未?達であり、ここに琉球王?を復活させることは不可能であり、イリ事件も解決したので日本側が??する可能性もあるとして、??通りの琉球王?復活を目指すべきであるとの意見書を提出した
[140]
。そして3月5日には正式に?約の調印は行わず、日本との再交?を命じる上諭が下され、琉球の分島問題は正式に白紙に?ることになった
[141]
。
分島問題のその後
[
編集
]
琉球諸島の分島は、向?宏ら??人による粘り?い反?運動と、?露間の?境紛?であるイリ問題が解決に向かったことにより?が?約調印を行わず、?現しなかった
[135]
[142]
。
正式に?約調印を行わないことを決定した1881年3月5日の上諭では、?としては琉球王?の復活を重視しており、琉球問題の解決後に日?修好?規の改定を行うべきと?理衙門に命じていた
[126]
。つまり?としては琉球王?の復活が?約改正の?件とする方針を決定したことになる。結局、日本が琉球問題と?約改正の問題をリンクさせたことを逆手に取られる形となった
[143]
[144]
。日本側はその後も?と?約改正交?を??したものの、その都度琉球問題の解決とセットで交?すべきとの?側の原則が持ち出されることになり、交?は暗礁に?り上げた
[145]
。結局日?間の?約改正が行われるのは
日???
後のことになる
[146]
[147]
。
評?
[
編集
]
分島問題と?約改正を絡めた日本の外交交?方針については、?側は?約改正に?り?では無く、軍事力を用いてまでも琉球王?の復活にこだわっているわけでもない?況であった上に、イリ問題に?じて交?を優位に進めようとしたこともあり、交?姿勢そのものが?側から?い反?、不信感を招き、やはり無理があったのではないかとの意見がある
[148]
。
一方?側の外交交?での??については、いったん交?が??間で合意に達した後に、???の反?の結果、再交?や調印中止に追い?まれるという構?が分島問題とイリ問題での共通の特?として指摘できる
[149]
。この点についてはイリ問題で?ロシア交?に携わった?紀?が?際法、?際慣例に?ったやり方で交?に?たるべきであると批判している
[150]
。
また琉球にとってみれば、琉球のあずかり知らぬ場で日???が琉球諸島の分割について協議していたことになる
[151]
[152]
。金城正篤は「琉球?分が民族の統一であるのならば、民族分?をもたらす分島問題をどう解?するのだろうか」との疑問を提起した上で、明治政府の都合次第で琉球を?合したり宮古諸島、八重山諸島を?に?渡しようとした分島問題にこそ、琉球?分の本質があると主張した
[153]
。西里喜行もまた、琉球問題を安全保障や???益といった?益を獲得する手段として位置付けていたと評?している
[154]
。一方、?立を確保して?米諸?と肩を?べるような?家を建設していくことを目指していた明治政府の立場からすると、?の一部を切り?りする分島問題は一見矛盾する政策に見えるが、目標達成に不可欠な
?約改正
を達成させるために琉球諸島の分島を行う必要があると考えており、明治政府の考え方としては特に矛盾はなかったのではとの意見もある
[155]
。
?側の琉球に?する??についても、冊封?の琉球を失う?面的な問題とともに、琉球を失えば台?、朝鮮などに影響が波及していくことを恐れたことによるものに過ぎず、?事者たる琉球のことなど全く考慮していなかったことは明らかであるとの批判がある
[151]
。
脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
- ^
岡本隆司
はこの郭嵩燾の提案は、琉球を?に服?させる?存の?組みを維持した上で、?米諸?に?しては?際法に依?した?家として認知してもらうものであると?明している
[7]
。
- ^
台?出兵
時に日?間の仲裁に?たったイギリス公使から、仲裁の見返りとして?における???益の?大の要求を突き付けられていた
[13]
。
- ^
毛精長(?頭盛?)は、1874年に派遣された琉球最後の進貢使であった
[46]
。
- ^
琉球問題が仲裁裁判に持ち?まれた場合の懸念自?は、井上馨外務卿も共有していた
[67]
。
- ^
1690年、琉球では王家?氏の支流は?氏と同門であることを示すために、姓を向氏とすることが定められた
[95]
。なお向?宏の妻は?泰の父、
?育
の娘、兼城翁主であった
[96]
。
- ^
向?宏は1875年には
親方
となっている
[116]
。
出典
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
- 五百旗頭? 『?約改正史 法?回復への展望とナショナリズム』有斐閣、2010、
ISBN 978-4-641-17370-5
- 岡本隆司 『中?の誕生』名古屋大?出版?、2017、
ISBN 978-4-8158-0860-0
- 岡本隆司 、箱田?子、?山治世『出使日記の時代』名古屋大?出版?、2014、
ISBN 978-4-8158-0778-8
- 我部政男「史潮」107『?約改正と沖?問題 井上外交の日?交?を中心に』大塚史??、1969
- 我部政男『明治?家と沖?』三一書房、1979
- 金城正篤『琉球?分論』沖?タイムス社、1978
- 後田多敦「?史評論」692『?川??????頑派 琉球?合に抗する思想と行動』?史科?協議?、2007
- 後田多敦『琉球救?運動』出版?Mugen、2010、
ISBN 978-4-9904879-5-9
- 後田多敦「?史と民俗:神奈川大?日本常民文化?究所選集」36『「?根??玉四月報告」と「在福州琉人談判ノ始末』:琉球?分時の福州琉球館と琉球人の動向を?える史料』神奈川大?日本常民文化?究所、2020
- 田名?之 『沖?近世史の諸相』ひるぎ社、1992
- 波平恒男『近代東アジア史のなかの琉球?合 中華世界秩序から植民地帝?日本へ』岩波書店、2014、
ISBN 978-4-00-025983-5
- 津田多賀子「?史??究」652『日??約改正の?念と日???』?史??究?、1993
- ティネッロ?マルコ 『世界史からみた「琉球?分」』榕樹書林、2017、
ISBN 978-4-89805-192-4
- ティネッロ?マルコ「沖?文化」52(5)『グラント調停の視点から「琉球?分」をみる』沖?文化協?、2021
- 西里喜行『?末中琉日?係史の?究』京都大?出版?、2005、
ISBN 4-87698-523-5
- 箱田?子「京都女子大?大?院文??究科?究紀要?史?編」17『?末中?における仲裁裁判? 1860、70年代を中心に』京都女子大?大?院文??究科史??攻博士後期課程、2018
- 箱田?子「史窓」77『琉球?分をめぐる日?交?と仲裁裁判制度』史窓編集委員?、2020
- 三國谷宏「東方?報」10(3)『琉球??に?するグラントの調停』東方文化?究所、1939
- 安岡昭男「法政史?」7『日?間琉球案件交?の挫折』法政大?史??、1955
- 山下重一『琉球?沖?史?究序?』、1999、
ISBN 4-275-01764-1
- 山城智史「琉球?沖??究」3『琉球??問題からみる李鴻章の?日政策』早?田大?琉球?沖??究所、2010
- 山城智史「沖?文化?究」37『日?沖???問題と?露イリ境界問題 井上馨?李鴻章の?外政策を中心に』法政大?沖?文化?究所、2011
- 山城智史「?究年報 社?科??究」35『1870年代における日?間の外交案件としての琉球所?問題』山梨?院大?大?院?社?科??究所、2015