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三島 通庸
(みしま みちつね、
1835年
6月26日
(
天保
6年
6月1日
) -
1888年
(
明治
21年)
10月23日
)は、
日本
の
?務
官僚
。
位階
?
?等
?
爵位
は
正三位
?二等
子爵
。
通?
は
?兵衛
。
林太?
、
千木
とも。
?令
時代は、反?派を押し切り?力に
土木工事
を進める手法から「
土木?令
」や「
鬼?令
」の異名
[
誰によって?
]
で呼ばれた。
生涯
[
編集
]
薩摩藩士時代
[
編集
]
薩摩藩
士で
鼓
指南役の
三島通純
と秀(?姓?池上)の長男として、薩摩?鹿?島郡武村(現在の
鹿?島市
上之園町
[* 1]
)に生まれる。
幼名
は
?兵衛
。3?下の弟に?之丞、妹?ぬい、がいる。三島家は藩の御能方で
金春流
の
鼓
指南役を勤め石高は50石弱であった。上之園
?中
[注? 1]
に?し、小野道場で
示現流
とともに
?丸自?流
の?術を習得した。なお、小野道場には3?年上の
海江田信義
がいた。また、
伊地知正治
から
兵?
を?んだ。
嘉永
6年(1853年)に弟の?之丞が
?中
で侮辱を受けたことから相手を斬ったため、?之丞が
切腹
。
安政
2年(1855年)、?兵衛が起こした決?を巡る裁定により謹?を命じられ、鹿?島城下から西へ十二里離れた隅之城で3年間生活する。
安政5年(1858年)、父?通純が死去。?兵衛は許されて鹿?島城下へ?る。
文久
2年(1862年)3月、
島津久光
の警護のための軍勢140人余りの一人に選ばれ、十三番隊に?して上洛。大阪藩邸に?在中、
柴山愛次?
と
橋口?介
、
弟子丸龍助
らから同じ?中出身の
柴山景綱
と共に
精忠組
へ?誘される。一度は?わったものの、その後さらに
田中謙助
に?められ
、柴山と共に4月23日、精忠組の一員として
寺田屋?動
に??、降?の?得に?じる。この時期、「赤心 報 皇?」等と書いた書を縫い付けた羽織を着用していたという
[注? 2]
。同月30日に
篠原?幹
、
吉原重俊
、
西??道
、
柴山景綱
等と大阪から船で日向の
細島港
まで護送され、自宅での
謹?
を命じられる。10月、久光の?藩後に謹?を解かれる。
文久3年(1863年)、?兵衛を改め
通庸
と?する。また、7月に
桐野利秋
、
野津道貫
らと共に京都護衛として選ばれ上京。京都で
薩英??
の勃?を知り、通庸が「イギリスとの??に薩摩が負ければ京都を守る意味がない」と仲間に意見したことが容れられて薩摩に?ることに決するも、伏見にて薩英??が終わったことを?えに?た
高崎正風
に出?い、藩邸に引き返している。
元治
元年(1864年)に柴山?助の次女で
柴山景綱
の妹である柴山和歌子と結婚。2月、大阪土佐堀藩邸に移り
折田要?
らと
大阪?
の海防を?う。折田、
?田政風
らと海防論を
二?城
にて閣老に建策
[2]
。3月には
大久保利通
に報告の書簡を折田らと連名で送っている
[3]
。なお、2月から4月まで折田の下で?んでいた
???一
の面識を得ている
[4]
。その後、
沖永良部島
から?った
西?隆盛
に取り立てられる。7月、
第一次長州征伐
において西?の下で小荷?方に任じる
。
慶?
2年(1866年)、藩主?
島津忠義
の率兵上洛に
伊地知貞馨
らと反?
[6]
。
慶?3年(
1867年
)、長男?
三島彌太?
が生まれる。10月、薩長連合による討幕の軍勢の一員として、薩摩藩所有の豊瑞丸で
大山綱良
らと約400人の兵を率い
三田尻港
に集結。
明治
元年(1868年)、藩主?島津忠義から人馬奉行に?擢され、
戊辰??
においては1月の
鳥羽?伏見の?い
で
小荷?隊
を率いるなど活躍した。その後、山陰道?撫?督の
西園寺公望
に?い小荷?差引として山陰地方へ。3月に?京、鹿?島に?り新政府の神祇事務局の依?を受け、
高屋山上陵
など薩摩?大隅の神代山陵調査を薩摩の??者?
後醍院彦次?
らと共に行う
[7]
。8月、再び大隊の差引として越後路に出?、9月に?津に??
[8]
。
若松城
落城後は薩摩に?り
川村純義
らが推進する
藩政改革
にも?加。10月、藩命により?計?民事奉行となる。
明治2年(1869年)2月、長女?
三島園子
が生まれる。?
都城
領主?
島津久?
が鹿?島へ移り、9月に通庸が日向都城地頭として着任。
明治3年(1870年)、次女?
三島峯子
が生まれる。
母智丘
に神社を建て?を植える。
明治4年(1871年)11月、鹿?島に?任。なお、後任は
桂久武
である。
明治政府時代
[
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]
東京府?事
[
編集
]
明治4年(1871年)9月、それまでの業績が認められ、
高崎五六
、
高崎正風
らと共に上京命令を受け、10月に海路で東京に至る。大久保利通の計らいにより、11月には六等出仕(奉任官)として東京府?に??事として入り、これ以後、新政府に出仕する。
明治5年(
1872年
)1月、?
?六位
。2月に東京中心部は大火災で焦土となっていた。再建には
大?省
の監督下に東京府が進めることとなったが、手法を巡り?立。4月には
宮島誠一?
に大?省の暴走を阻止するため「??」「民法」を左院において制定してほしい旨を?えた
。5月、
東京府
?事
となる。その後、三島は府知事?
由利公正
を?得、ところが由利は7月に
岩倉使節?
に加わるため免官。大?省建設局が主導することとなり、大?省大輔の
井上馨
と
???一
が、岩倉使節?からの報告による
シカゴ大火
の復興策を?考にしたレンガ造建築の計?を提唱。三島もこれに?同し大?省土木寮の
原口祐之
らと着工
、後に
銀座煉瓦街
となる
。
同年、大?省の?限が過度であると問題視する宮島誠一?が
?務省
設置案を政府要人に提案。その協議の場に左院議長?
後藤象二?
、副議長?
江藤新平
、?事?
板垣退助
、陸軍少輔?西??道らと共に三島も?加
[12]
。三島は設置に?成だった
[13]
。
10月に布告された
芸娼妓解放令
にも?力。11月、
?部
大丞
となる。同じく?部官僚だった
?宮??
とは意見を異にした。
同年、妻子が上京し?町永田町に居住。
明治6年(1873年)3月、三女?
三島竹子
が生まれる。
鶴岡(酒田)?山形?令
[
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]
明治7年(
1874年
)12月、?務卿?大久保利通により
酒田?
令(現在の
山形?
酒田市
など?
庄?藩
を所管)に就任する
。この人事には伊藤博文が?わったとされる
[14]
。着任早?の課題は、
ワッパ?動
と呼ばれる農民抗議への?策であった。これは、?庄?藩時代からの?令や官吏が、明治政府の布告を無視して?庄?藩時代同?の?と?役を課したことに?する農民の反抗であった。三島は官吏を全面的に更迭するとともに、農民に?しては??で臨んだ。翌年、裁判により過納金を農民に返すことで?動は決着した。
明治8年(1875年)、次男?
三島?二
が生まれる。2月、ワッパ?動の報告のため上京。8月、酒田?が
鶴岡?
に改名される。
同年、鳴鶴?校を海晏寺に作り
英才?育
を行う。この?校には酒田??渡川原の各?校より優等生120名を選んで入れる
[* 2]
。
明治9年(1876年)7月、三男?
三島?六
が生まれる。
8月21日
に、鶴岡?、?山形?、
置賜?
が合?され、現在の山形?が設置されると、三島は初代?山形?令に就任した。明治10年(1877年)に着任するが、この時、「(明治十年三月)町口で岩切や職員たちの出迎えを受けた通庸は、彼等の用意した人力車で香澄町(現?木の?町)の公邸に入る。公邸には薄井と船越が待っていた。(略)公邸は、
水野氏
(山形最後の藩主)の藩校?誼館を改築したもので、??を兼ねている。通庸以前の?令は、水野氏の新御殿を??にしていたが、大山形?となり、手?なために通庸が、新御殿から通りを隔てた?誼館に移した」という
。なお、この年に、同??同い年で共に精忠組の一員として寺田屋?動にも?わった義兄の
柴山景綱
を山形に招き、以後も終生、公務を共に進める。
明治10年(1877年)、山形市?に
湯殿山神社
を建立。
在任中に、藩校の
?誼館
を「庭を望む建物の一部を改築して、貴紳?官の接待所兼宿?-迎賓館にした。現在、?誼館のあとには?育?館が建っているが、大正十五年、?館建設が決議されるまではそっくり庭が?っていたという。(略)?太?が下?をつっかけ、??に出て行ったのは、迎賓館の東隣がロ?レツの官?、庭を隔てた南隣が三島邸だからである」という
。自身が住む官?は、?藩主の?居所であった茅屋とした。「立派な私邸どころか官?に居住していた。しかも茅葺の陋屋である。後に煉瓦づくりの官?が新築されるが、そこに住んだのは、次の山形?令
折田平?
から」
だという。
- 山形での道路事業
山形?における政策の中心は、道路?橋梁整備と公共施設の建築であった。?時、山形?から東京方面あるいは宮城?へ出るには山越えしなければならず不便だったため、新道の開削工事を推進。三島が山形?令になったときに、?務卿の大久保利通に?政の方針を問われ、第一に新たな道路を開いて交通の便を良くすることを?げると、三島の主張を聞いた大久保は「あまり一時に大事業を行うのはどうか」と疑問を投げかけたが、三島の決?は堅く、大久保もそれを許したという
。
江?時代
まで、現在の山形?、特に
庄?地方
(?鶴岡?)は、
日本海
と
最上川
を?由する舟運により、
江?
よりも
大坂
と?く結びついていた。しかし、明治時代に陸運が重視されると、陸路による東京までの交通整備が進められた。
明治9年(
1876年
)、東京と東北諸?を結ぶ
萬世大路
(万世大路)の一部である山形福島間の建設計?の告示を出し、?額14万5千円の工事金を地元負?とするように?長
[注? 3]
に要請
。
- まず、米?から福島へ出るための道として刈安新道を計?。それまで、?羽山脈を越える山形?福島間の道路は、川越石から栗子山の南鞍部を通って福島市の大?に至るもので、この峠は標高が高く地形は急峻で、道路としての利便性は低いものであった。そのため、往?する人?は板谷峠を越えることが多かった
[* 3]
。予算のおおよそ半分にあたる9万5千円を費やし、明治9年、途中に?時日本最長になる
栗子山隧道
の掘削に着工した
。東アジア初の本格的な山岳路工事であり、栗子隧道の掘削は山形側の岩盤が固いために難航した。そのため?時、世界に3台しかないといわれていた蒸?エンジンの米?製削岩機を導入、削岩した穴にはニトログリセリンを詰め、爆破しながら進める大事業だった
[20]
。同隧道は明治14年10月に貫通、現場にいた三島は「ぬけたりと よう一?に夢さめて 通ふもうれし 穴の初風」との歌を?した。他にも
?橋
などを整備した。
- 山形?仙台間の?存の街道では、冬場の積雪と?しい山道のため、?加する人?の往?や物流に??できないとして、馬車が通れる新道の整備を行ったものである。
?山街道
の
?山隧道
(
?山トンネル
)は、標高600メ?トルの位置に掘られた延長287メ?トルの隧道で、この完成により山形から宮城?まで馬車での通行が可能になった。また、
雄勝峠
、
加茂坂峠
なども改良?整備。磐根街道の開削中には?泉が湧出し
草??泉
となった。
- やはり峻?で積雪時に通行が困難な小?街道を開鑿した。明治14年10月に着工され、主に
宇津峠
、
舟形橋
を改良?整備し、明治19年秋に完成した。途中にある片洞門は、明治16年の竣功であった。
- 明治11年(1878年)、山形市と上山を結ぶ
早坂新道
が開通。なお、この道は明治20年に文相
森有?
が東北の?校を視察する折に通り、金?尋常小?校の生徒だった
?藤茂吉
がこの道で森に敬?した
。?時造られた堅磐橋(山形?上山市大字川口字川原)、中山橋(山形?上山市中山)、?橋(山形?上山市楢下)などが現存する。
- 主に
上台峠
、
常盤橋
、
?師山
、
猿羽根峠
、
主?坂峠
などを改良?整備した。新橋(山形?上山市楢下)、吉田橋(山形?南陽市小岩?、明治13年竣工)が現存。
これらにより山形?の産物が陸路で福島や仙台に出て、ついで
?州街道
や
?道
による東京への輸送路が確立した結果、???は活況を呈した。「土木?令」とあだ名されたのも、ちょうどこの頃からである
。これらの道は後に
?道13?
、
?道48?
となり、トンネルや橋梁の代替わりや
バイパス道路
化を?ながらも、明治時代以降の物流の?化によく??し
[* 4]
、現在でも??の主要道路であり?けている
[* 5]
など、山形??陸部の交通インフラ整備には成果を上げている。
- 公共施設建設
建築では、???病院??校などを?時としては大きな規模で多?作った。現存するものに?
?生館
病院本館(重要文化財)、
?東村山郡役所
、
?西村山郡役所
、?東田川郡役所、?西置賜郡役所(現?
文?の杜ながい
)、鶴岡の
朝暘?校
、
三川橋
、などがある。現存しないものでは?山形???がある。
?生館
病院建造に先立つ明治10年7月に一等?の
筒井明俊
を病院建築掛に任命し、
長谷川元良
院長と共に上京させて東京大???部病院、陸軍病院、?浜海軍病院といった東京??浜方面の病院建築の?情を視察させた。それと前後して三島も上京して東京大?(
東京帝?大?
の前身)??長の
三宅秀
に病院建築の設計?作成を依?した
。なお、筒井が平面?を作成
[23]
。塔の部分は山形?の十等出仕になった
原口祐之
によって完成
。
明治17年には、
高橋兼吉
が建設を請け負っていた鶴岡警察署??が完成。
これらは
擬洋風建築
で建てられたが、作業に?事した
棟梁
たちがその後も形式を踏襲したため、東北地方には多?の擬洋風建築が存在することとなった。
- 米?製?場
明治9年(1876年)8月、宮島誠一?が三島を訪ねる
。その後、宮島の提唱により士族授産のための製?場設立が三島の下で進められた。
- 高橋由一による描?
明治14年に山形市を訪問した洋?家の
高橋由一
は、これらの建築物や都市の景?を描いている。この時、高橋は新道を?生して石版?帖を刊行することを三島に建言。これにより明治17年、三島から石版?の製作を依?、高橋が山形?福島??木の3?の新道を描いて「三島?令道路改修記念?帖」とした。石版?の構成は、山形が55?、福島が53?、?木が20?で全128?である
[* 6]
。
なお、天童出身の
菊地新?
を御用??師として雇い入れ、山形?で施工したすべての土木事業を撮影させている。特に、山形官?街の??は、大通りに全?が見渡せる櫓を組んで撮影する、大掛かりなものであった
[* 6]
。
これらのうち現存する建物?遺構は、
??産業省
により
近代化産業遺産
に認定されている
[* 5]
。
- サクランボ栽培の導入
明治9年(1886年)、東京の
三田育種場
と北海道開拓使?から果樹苗木を取り寄せ、山形市?の?模範場に植えさせた。このうちサクランボの品種名は、最初に輸入した時の苗木につけた番?がそのまま名?になったといわれ、?玉が8?、ナポレオンが10?などと呼ばれていた。現在は、品種改良により佐藤錦、高砂、ナポレオンなどが主流であるが、最近では紅秀峰、紅さやか、紅てまりなどの新品種も栽培されている
[* 7]
。
- 西南??
明治10年(1877年)2月21日、鶴岡士族が不?な動きを見せるが、三島は重病のため前年末から東京に?っており、船越?務?大書記官を現地に派遣。27日、「鶴岡士族西?に呼?す」との誤報により船越書記官?薄井山形?大書記官が仙台?台へ派兵依?を打電。三島は病をおし東京を?つ。3月8日、山形入り13日には??に着いた。庄?の士族?
松平親?
と?談し反?の志がないことを確認した
[8]
。
明治11年(1878年)8月、四女?
三島鶴子
が生まれる。この年、山形市を訪れた英?人女性
イザベラ?バ?ド
は、著書『
日本?地紀行
』で、近代的な山形市街に受けた?い印象を記している。
同年、巡業で山形を訪れた力士
朝日嶽鶴之助
を?綱免許を?給していた
五?家
に推薦した。
明治12年(1879年)12月、五女?
三島千代子
が生まれる。
- 那須野ヶ原開拓
明治13年(1880年)、?木?令になる以前から地方の開墾に熱意を示しており、?木?の
那須野ヶ原
に開拓のため政府から約992haの土のを貸下げを受け、鹿?島士族ら18人と法人を設立。後の
三島農場
である。長男の
彌太?
を社長、親交の深い部下14名を株主として入植者を募集した。同年10月、
小林熊?
他19名が、11月には
島田新次
ら14人が入植。事務所の南側約149haは碁盤目?に??された。
明治14年(1881年)8月、
明治天皇
が東北巡幸、
有栖川宮熾仁親王
に名代として那須野を視察、その後、
右大臣
?
岩倉具視
らも訪れた。10月、?穫米を?上、明治天皇から肇耕社(ちょうこうしゃ)と命名賜る。
三島は肇耕社敷地?に穀物の神である
豊受?大神
を開拓者のために祀り、母智丘(もちお)神社を建立。現在の
那須?原市
三島に別?を構えた。那須には?時の?割りが現在も?っており、古くからの住人には開墾?初の入植者の子孫が多い。
明治19年(1886年)に肇耕社を解散して三島農場として再出?。
明治14年(1881年)2月、六女?
三島?子
が生まれる。
明治15年(1882年)7月、?任。なお、後任は
折田平?
である。
?木?福島?令??務省土木局長
[
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]
明治15年(1882年)1月から
自由民?運動
を推進する
自由?
勢力が盛んな
中通り
(
福島?
中部)と
?津地方
(福島?西部)の
福島?
令を兼任。運動の監視、沈?化に努めた。酒田?令時代からの腹心である
村上楯朝
、
海老名季昌
、柴山景綱、
荒賀直哉
らを福島??の
一等?
に任命
。7月より福島?令?任。在任中は自由?や?議?の
安部井磐根
、
佐藤忠望
、
山口千代作
、
三浦信六
、
白井遠平
、
佐治幸平
、
市原又次?
、
岩崎万次?
らと?立。
- ?津三方道路
明治15年(
1882年
)2月17日に三島は福島??に初登?するや、その10日後の2月28日には早速、?官の海老名季昌と土木課長の中山高明の?名を若松町に派遣して、?津六郡の郡長を集め、?津三方道路の開鑿事業に着手した
。
宇田成一
らの反?があったが、三島は?令として越後街道、?津街道、山形街道の3つの街道(
?津三方道路
)の建設を推進した。主に
車峠
、
小和?橋
、
紅葉山通り
、池ノ入切通し(現?
福島?道129?二本松安達線
)、
白崎橋
、
取上橋
、
釣浜橋
、
岩津橋
などを改良?整備。しかし、道路は完成したものの、?に陸運の中心が?道に切り替わっていたために一部の街道整備は時代?れになっていた。更に道路建設は地元住民に負?を?いたため、自由?との軋轢を?めた。
明治16年(1883年)10月より
?木?
令就任、12月に着任。
田中正造
、
村上定
らと?立。
同年、福島市?を流れる荒川に架かる木製の
信夫橋
が豪雨により流出、三島はただちに原口に架け直させ、石造とした。
- ?原道路
前?令の藤川の下、西那須野から?原?泉を?て?津若松に通じる道路の開鑿が計??着工。?路の?谷宿から?原までの道は幅7mで馬でしか通れなかったものを改善するためである。藤川自身も現地で測量を行った。三島が?令就任後、?議?の決議を?て約12万3,000人の?力を動員し、岩を削り十二箇所の橋を架け、半年で西那須野から?原古町までの?原?谷街道(約20km)が開通。路面には砂利が敷かれていた
。明治17年(1884年)に完成し、
三??美
太政大臣
らが列席する開通式を行った。この?原道路は現在の?道400?線となっている。
さらに、?原から北上し
尾頭峠
を迂回し善知鳥?を?て福島との?境にある山王峠までの?間も整備。述べ約25万人の土木工、1万5000人の村人、これに囚人を加えて動員し、約10ヶ月で完成した。この?間は後に「
三島街道
」と呼ばれる。
他、?原から先の日光方面にある
桃ノ木峠
、を整備、陸?街道のうち宇都宮─氏家間は新道を造り、氏家 - 白川間および宇都宮以南は改修を行った。また、?日光市街の主要道路(現??道119?線)を、神橋までの石段だったものを一般道にした。さらに、佐野市寺岡から桐生市小?までの約24kmを?幅し改修した。
- 安積疎水
明治15年(1880年)10月、かねてから工事が進められていた猪苗代湖の水を引く
安積疏水
の幹線水路と七つの分水路が完成、開成山大神宮で通水式を?行。岩倉具視右大臣、
?大寺?則
宮?卿、
松方正義
大?卿、
品川?二?
農商務大輔ら政府高官、安積疎水掛、??高官、地方有志らが列席。この時に?時の?原役場の裏にある丘に三?が植えた?の木が今も?っている
。
- 那須疎水
初代?木?令の
鍋島幹
の下、運河構想に
印南丈作
と
矢板武
らが??したが、政府から工事の許可が下りなかった。そこで印南らは
那須開拓社
を開設したが、荒?たる原野の那須野ヶ原にはやはり水が必要であることから、第2代?木?令?
藤川?親
の下、再度工事申請を行ったところ明治14年(1881年)に許可が下りた。藤川が明治16年(1883年)に箱根?令に?任すると計?が立ち消えとなるおそれが出たため、印南らは明治16年から18年にかけて計6回上京して政府要人に誓願した。また、明治17年には印南?矢板?名で銀行から5,000円を借り入れ、西岩崎付近で隧道の試掘を行った。三島が15年に?令となると、印南らと同時?行で三島も政府と交?を進めるが、16年3月には岩倉具視から「那須引水ニ付品川ノ意向 農商務省出金ハ困難」との書簡を受ける
[30]
。17年に三島が?務省土木局長を兼任すると工事が本格化。明治18年(1885年)4月には?務省から那須疎水開削の許可が下り、那珂川の西岩崎から千本松に至る約15kmの水路工事が着工。土木局直轄事業として10万円が下付される。工事には安積疎水の工事を?った大分の石工集?も?加した。蛇尾川や熊川の地下を?切る伏越の工事では、切石やセメントを用いる技術を採用した
[31]
。同年9月、竣工し肇耕社で通水式を?行、
北白川宮能久親王
をはじめ?務卿?
山?有朋
らが列席。近年設置された
那須野が原博物館
の敷地には、開墾に必須であった
那須疏水
も再現されている。
- 福島事件
福島?議?議長だった自由?の首領?
河野?中
は激?を戒めたが、明治15年3月に三島は
町野主水
らと帝政?を作り、自由?が?行する福島自由新聞に?して官製の福島新聞を作るなど、自由?に?抗した。河野はついに8月、
福島事件
を起こし逮捕?投獄された。
明治15年(1882年)、福島?出身で社?福祉事業家の
瓜生岩子
を知り
[* 8]
、?同する。三島が管?視察で?津に?た際には、瓜生を呼び善行を??した。また、瓜生も三島を訪ね窮民救?について?策をしたという。なお、瓜生は明治19年に三島の?めもあり、末娘のとめと裁縫修行中の娘3人と共に福島に?居、長?寺の境?に住居を構えた
[* 9]
。
同年、現在の福島市近?にあった村の住人らの嘆願を受け、阿武?川に架ける
松?橋
を着工、翌年竣工。
明治16年(1883年)6月、七女?
三島繁子
が生まれる。
- ??移?
去る明治15年(1882年)に宇都宮町の有力者らが?令の藤川および?務省に??移?を請願したが却下されていた。宇都宮町は宇都宮?の??所在地であり、明治5年以??木?の??所在地と?んで因獄、裁判所、招魂社、?台分?、?立病院が設置されていた。千住までの?合馬車の開通、二荒山神社の?弊中社列格など、?木町をしのぐものがあった
。さらに、請願を出した者が、??として陸羽街道に面した上町の熱木町周?に5,000坪の敷地を供し、移?の際の??として台陽寺の伽藍を提供しようと申してでいた
[33]
。こうした背景を踏まえて、明治17年(1884年)、政府は官報で?木?の??所在地を?木から宇都宮に移?する布達を?すると、?令であった三島の指示により??移?が?行された。2月、病?のため一時、東京に?っていたが、病?を押して??移?事務のため?任。?台の分?を借りて事務にあたった。この後、??は宇都宮の
?田
に置き
大通り
を整備。この時期、熱海に療養しているが4月には?木に?っている。
- 若松新道
明治17年(1884年)、?津若松に通じる新道の建設を着工。延べ?力約25万人超(うち15から60?までの近隣??者約1万5000人)で工事を進め、わずか10ヶ月で完成した
。
- 加波山事件
明治17年(1884年)に
?務省
土木局長(?令と兼任)、東京の市?改正に?力。12月、四男?
三島?吉
が生まれる。
同年、自由?員が三島の暗殺を謀った
加波山事件
が起こる。また、
?原街道
を開?整備し、同時に
?原
に別?を構えた。
警視?監?臨時建築局副?裁
[
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]
明治18年(1885年)
12月22日
、第5代
警視?監
に就任した
[注? 4]
。
武術
を振興し、
?生慰?祭記念柔道?道試合
を?年開催することとし、同大?で
?山作次?
と
中村半助
の55分に及ぶ試合を引き分けた。また、武術家を
警視?武術世話掛
に採用した。三島が在任中に死去するまでの2年10か月間に警視?の武術は大きく飛躍したことから、警視?武術の功?者といわれている。代表例では
柔道
が武術世話掛の必修科目となったことから全?に?まった。
明治19年(1886年)2月、五男?
三島?彦
が生まれる。3月、
警視???世話掛
の補充について山岡?舟に相談したところ
高野佐三?
の推薦を受け?採用。
5月8日
、?
勅任官
一等、下級俸賜
[35]
。警視?監として、全?の武術家を芝の?生館に集めて武術大?を開いた
。
同年7月、臨時建築局副?裁に就任。?閣直?で主と建設を進める役であり、?裁は井上馨。
官?集中計?
などを考案。12月、井上と三島が首相の伊藤博文に建議、これには首都移?が提言されていた。
明治20年(
1887年
)5月24日、
維新
の功により
子爵
を授けられた
[37]
。
- 保安?例
同年2月25日
、
三大事件建白運動
や
大同?結運動
など自由民?運動の高揚に?し、
皇居
付近から「危?人物」を排除する事を目的とした
保安?例
が
勅令
として
公布
されると、
警視?監
として?日
施行
した。?時の首相である伊藤は?例に反?であり、?務大臣の山縣も消極的な態度であったものの、三島は?例を積極的に推進していたとされる。??例の?象人物には
尾崎行雄
、
片岡健吉
、
中江兆民
、
星亨
などがいた。
同年11月、警視?監職が多忙に付き建築局を?職
[38]
。
同年、
床次正精
が作成した西?隆盛の肖像?について、床次から意見を求められる。
また、年末に警視?にて
ドイツ語
を解する人材が必要となったので、千葉?令?
船越衛
に問い合わせたところ、
高橋琢也
を紹介された
[39]
。
明治21年(
1888年
)、
山岡?舟
の推?を受け
大炊御門師前
を警視?に採用。4月、千住小塚原に死刑者の法要供養を行い、?司ヶ谷に埋葬場を移し慰?塔を建立。5月、
織田完之
らが進める千葉?の印?沼開削計?のために設立された大明?の?起人の一人として、
???一
らとともに名を連ねた。
晩年
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明治21年(1888年)夏、警視?監在任中に
?溢血
に倒れた
。明治天皇から
?田?隆
に三島の容態の下問があり
[41]
、
原口祐之
が?日見舞いに訪れた。そして同年10月23日、東京?町にあった官?にて、見舞いに訪れた多くの部下?友人たちに看取られ、この世を去った。享年54。なお、警視?監の後任は
折田平?
。葬儀には1万2千名が?列し、
?山墓地
に埋葬された。入院から死の?日までの見舞い客、葬儀?一周忌の?列者まで一人ひとりの名前が記?されている。
死後
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三恩人
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明治33年(1900年)、?原?泉に通じる街道を作ったことを記念して、地元有志が三島を恩人として?船に?せた石碑を?原?泉?の景勝地?七つ岩に建立。以後、?年9月の?泉祭に合わせて三恩人感謝祭が行われている。三恩人とは、三島の他、?原を紹介する書籍を?行し全?に知らしめた
?蘭田
、小?「金色夜叉」を?原で執筆し作中にも登場させやはり知名度上昇に貢?した
尾崎紅葉
である。
三島神社(那須?原)
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]
明治39年(1906年)7月、三島村??原町(現?
?木?
那須?原市
)の有志が、三島通庸の?と偉業を?え、三島神社祭祀の儀を起して開拓者所?の地に有志の寄進と三島家の援助により造られた。所在地は?木?那須?原市三島5-336-5。祭神の豊受大神以下に三島通庸、合祀神として三島開拓者が百四十二柱が祀られている。現在は母智丘神社を?宮としており、その境?には生前に通庸が詠んだ「神代より 荒れし那須野を開きつつ 民?えゆく 里となさなん」を刻んだ石碑がある。また、三島神社の境?には同?の「きつね鳴く 那須野原も今年より ??そよぎて 秋風ぞ吹く」を刻んだ石碑がある。
人物
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- 人をもてなすことを好み、家族や使用人以外にも食客を多く抱え、食堂には長机を?べて家族や親戚、知人が集まり?食を催していた
[42]
。
?典
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系譜
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- その他の子孫
三島通庸が登場する大衆文化作品
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映?
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テレビドラマ
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脚注
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]
注?
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書籍出典
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]
- ^
『杉浦梅潭目付日記』。
- ^
?立?史民俗博物館所??大久保利通?係文書
- ^
????記念財??門社編『「???一?資料」第一?,292~302頁』???一?記資料刊行?、1955年。
- ^
『「附? 市?四?翁之?(九)」(『史談速記?』第百三十二輯)』1903年 11月 23日、附? 7 頁頁。
- ^
?立公文書館所?『神祇省記?第四?共百七十三本?神祇官及使寮』、「第二十 薩摩大隅神代山陵?調」
- ^
a
b
?立???書館?「三島通庸?係文書」(1977.12)三島通庸略年譜
- ^
警察政策??管理運用?究部?「警察政策??資料 第101?」(平成30(2018)年7月,p94)
- ^
警察政策??警察史?究部?「明治の?家と警察制度の形成」(警察政策??資料 第107?,令和元年8月)
- ^
?立???書館?「三島通庸?係文書目?」から、井上?〓から柴山景綱宛書簡,「大?院?上寺ヘ設置ノ次第 三島氏ヲ酒田?令ニ周旋セシハ伊藤公 ソノ裏ニ?宗ア トノ?アリ」(明治二八年一二月二四日付け)
- ^
山形新聞(2017年11月7日付け、社??合面)
- ^
山形市?土館編『?土館だより 18?』。
- ^
?立???書館?「三島通庸?係文書目?」,明治一六年三月九日付け、岩倉具視から藤川?親?三島通庸宛書簡
- ^
那須?原市企?部シティプロモ?ション課?行「?報なすしおばら」(平成31年1月5日?、No.337)
- ^
?木?議??書委員?編『?木?議?史 第1?』?木?議?、1983年、p.624頁。
- ^
『官報』第854?「?任」1886年5月10日。
- ^
a
b
『
官報
』第1169?、明治20年5月25日。
- ^
?立???書館?「三島通庸?係文書目?」,明治二?年一一月七日、三島通庸から三島?太?宛
- ^
船越衛: 三島通庸への書簡(明治20年12月20日)???書館所?
- ^
?立???書館?「三島通庸?係文書」,明治二一年九月一四日付け,?田?隆から柴山?折田宛書簡
- ^
スカウトと?育編集部「スカウトと?育 第3?」(2022年1月)-?水基輝「三島通陽の幼少期について」
- ^
『官報』第176?「?任」1884年2月2日。
- ^
『官報』第265?「彙報」1884年5月20日。
- ^
『官報』第907?「?任及?令」1886年7月10日。
- ^
『官報』第994?「?任及?令」1886年10月21日。
- ^
『官報』第1219?「彙報」1887年7月22日。
- ^
『官報』第1595?「?任及?令」1888年10月22日。
- ^
三島農場を興した三島通庸?親子
平野孝雄、那須野が原博物館支援???校支援ボランティア「石ぐら?」那須野が原入門講座第15回 平成26年度
- ^
『日本の名門200』中嶋繁雄、1994年、p463
- ^
『ダイヤモンド?社職員?』1951年
- ^
1966-04-22 第51回?? 衆議院 法務委員?大?委員?連合審査? 第1?
??議事?
- ^
沿革
日本模型航空連盟
- ^
村井吉兵衛
『人事興信?』第4版 [大正4(1915)年1月]
サイト出典
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?考文?
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]
外部リンク
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]
公職
|
先代
松平親?
酒田??事
|
鶴岡?令
1875年 - 1876年
酒田?令
1874年 - 1875年
|
次代
(?止)
|
日本の爵位
|
先代
?爵
|
子爵
三島家
初代
1887年 - 1888年
|
次代
三島彌太?
|