大山?

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大山 おおやま ? いわお
大山 巖
大山?(日露??後)
生年月日 1842年 11月12日
天保 13年 10月10日
出生地 日本 薩摩? 鹿?島郡 加治屋町
(現: 鹿?島? 鹿?島市 加治屋町)
?年月日 ( 1916-12-10 ) 1916年 12月10日 (74??)
死?地 日本における郵船商船規則の旗 日本 東京府
前職 武士 薩摩藩 士)
陸軍 軍人
?? ?一位
大?位菊花章頸飾
大?位菊花大綬章
功一級金??章
功二級金??章
?一等旭日桐花大綬章
?一等旭日大綬章
?二等旭日重光章
元帥 陸軍大?
公爵
配偶者 大山?(先妻)
大山捨松 (後妻)
子女 次男: 大山柏
親族 西?隆盛 (?兄)
西??道 (?弟)
吉井友? (義父)
山川浩 (義兄)
山川健次? (義兄)
山川二葉 (義姉)
井田磐楠 (娘?)
大山梓 (孫)
大山桂 (孫)
渡?昭 (孫)

日本における郵船商船規則の旗 第4代 ?大臣
在任期間 1915年 4月23日 - 1916年 12月10日
天皇 大正天皇

日本における郵船商船規則の旗 第3代 陸軍大臣
?閣 第2次伊藤?閣
第2次松方?閣
在任期間 1892年 8月8日 - 1896年 9月20日

?閣 ?田?閣
在任期間 1889年 2月16日 - 1889年 3月22日

?閣 第1次伊藤?閣
?田?閣
第1次山縣?閣
第1次松方?閣
在任期間 1885年 12月22日 - 1891年 5月17日

日本における郵船商船規則の旗 第2代 大警視
在任期間 1879年 10月16日 - 1880年 2月28日

その他の職?
日本における郵船商船規則の旗 貴族院議員
1895年 8月5日 [1] - 1907年 9月20日
1907年 9月21日 - 1916年 12月10日
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大山 ? (おおやま いわお、 ?字? 大山 巖 1842年 11月12日 天保 13年 10月10日 〉- 1916年 大正 5年〉 12月10日 )は、 日本 政治家 陸軍大臣 (初代?第3代)、 陸軍?謀?長 (第4?6代)、 大警視 (第2代)、 文部大臣 臨時兼任 )、 ?大臣 (第4代)、 元老 貴族院議員 を?任した。 ?? ? 階級 元帥 陸軍大? ?典 ?一位 大?位 功一級 公爵 雅? 赫山 瑞岩 ?海 西?隆盛 ? ?道 兄弟は?兄弟。

生涯 [ 編集 ]

?年期 [ 編集 ]

薩摩? 鹿?島城 加治屋町 ?本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士? 大山綱昌 (彦八)の次男として生まれた。 幼名 岩次? 通? ?助 家紋 佐?木源氏 大山氏として典型的な「 丸に隅立て四つ目 」である。

同藩の 有馬新七 らに影響されて過激派に?したが、 文久 2年( 1862年 )の 寺田屋?動 では 公武合? 派によって??され、大山は?? 謹? ?分となる。 薩英?? に際して謹?を解かれ、砲台に配?された。ここで西?列?の軍事力に衝?を受け、幕臣? 江川英龍 の塾にて、 ?田?隆 らとともに 砲術 を?ぶ。

戊辰?? [ 編集 ]

戊辰?? では新式銃隊を率いて、 鳥羽?伏見の?い ?津?? などの各地を??。また、 12ドイム臼砲 四斤山砲 の改良も行った。これら大山の設計した砲は「?助砲」と?され、後に 日露?? まで長く使用された(?助は大山の幼名から) [2]

?津??では薩摩藩二番 砲兵 隊長として?軍していたが、 鶴ヶ城 攻?初日、 大手門 前の北出丸からの?城側の射?で攻略に手間どる 土佐藩 部隊の援護に出動するも、?丸が右股を?側から貫き負傷し、翌日後送されている。そのため、?際大山が鶴ヶ城で?ったのは初日のみで砲?を指揮した?でもなく、よく言われる「?津若松城に向けて、大砲を雨霰のように?ちこんで勝利に貢?した」というのも事?ではない。このとき?城側(?津藩側)は主だった兵がほとんど出?中で、城?には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で?っていたのは 山本八重 とわずかな兵たちだった。そのため狙?者は八重であるとも言われている。この時の?津若松城には、のちに後妻となる 山川捨松 とその家族が籠城していた。

留? [ 編集 ]

維新 後の 明治 2年( 1869年 )、渡?して 普??? などを視察。明治3年( 1870年 )から6年( 1873年 )の間は ジュネ?ヴ 留? した。留?時、 ロシア の革命運動家 レフ?メ?チニコフ と知り合う。メ?チニコフは後に 東京外?語?校 に?師として赴任したが、これは大山の影響によるといわれる。

西南?? [ 編集 ]

西南?? をはじめ、相次ぐ 士族反? を??した。西南??では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の 西?隆盛 を相手に?ったが、大山はこのことを生涯?にして、二度と 鹿?島 に?ることはなかった。ただし西?家とは生涯にわたって親しく、特に 西??道 とは親戚以上の盟友?係にあった。明治13年(1880年)には陸軍卿となり [3] 第1次伊藤?閣 において最初の 陸軍大臣 となった。

1884年2月16日、陸軍卿として、川上操六?桂太?2大佐らを?え、?州兵制視察のために?浜を出?し、1885年1月25日、??した。

日?日露?? [ 編集 ]

日露??中、 ?洲

日??? (1894年 - 1895年)直前には右目を 失明 していたという記?が?っているが、日???では 陸軍大? として 第2軍 司令官 となった。明治32年(1899年)5月16日には ?謀?長 に就任し、 元帥 に列せられた [3]

1903年6月22日、?謀?長として朝鮮問題解決に?する意見書を?閣に提出した。 日露?? (1904年-1905年)では元帥陸軍大?として ?州軍 ?司令官 を務め(1904年6月20日)、日?日露ともに日本の勝利に大きく貢?した。同?の 東?平八? と?んで「陸の大山、海の東?」と言われた。ドイツ ライプチヒ の新聞は、 ニコライ2世 (ロシア皇帝) が「猿のような」と評した日本人が??で大?ロシアに勝てるとは考えられないとして、大山は長年ロシアに苦しめられてきた フィンランド人 であると報道した [4]

元老 [ 編集 ]

大山は陸軍を代表する存在であり、最重要の重臣である元老のメンバ?としても活動した。ただし、大山は陸軍?の意向に?う傾向があり、 ?田?隆 ?西??道?後は?議?のバランスをとるためしばらく元老?議のメンバ?から外されている [5] 。大正4年(1915年)4月23日には ?大臣 となり [6] 、宮中入りした。

薨去 [ 編集 ]

大正5年(1916年)、 大正天皇 に供奉し、 福岡? で行われた 陸軍特別大演習 を??した?途に、胃病から倒れ、 ??炎 を??。療養中の12月10日に?大臣在任のまま 薨去 。享年75。病床についてから死ぬ間際まで、 永井建子 作曲の『 雪の進軍 』を聞いていたと?えられている。本人は大?この曲を?に入っていたという。

臨終の枕元には 山縣有朋 川村景明 寺?正毅 ?木?楨 などが一堂に顔を?え、まるで 元帥府 が大山家に引っ越してきたようだったという。大山の死は 夏目漱石 の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の ?葬 では、?列する駐日ロシア 大使 とは別にロシア 大使館付武官 のヤホントフ少?が直に大山家を訪れ、「全 ロシア陸軍 を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら?前に供えた。かつての敵?の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東?平八?の2人だけだった。

那須に葬られた。墓所は?木? 那須?原市 。遺品は 陸上自衛隊 宇都宮駐屯地 に多???され、資料館に展示されている。

?典 [ 編集 ]

位階
?章等
外??章佩用允許

家族?親族 [ 編集 ]

晩年の大山??捨松夫妻

人物?逸話 [ 編集 ]

第1次伊藤?閣 成立時の高官を描いた錦?
日露??における二元帥六大?
(中央が大山?)

人柄 [ 編集 ]

大山は?年期まで俊異として際立ったが、?年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。日露??の 沙河?? で、苦?を??し?司令部の雰??が殺?立ったとき、??から起きて?た大山の「?玉さん( ?玉源太? ?謀長)、今日もどこかで?(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空?がたちまち明るくなり、皆が冷?さを取り?したという逸話がある。ただし俊異の性格は日露??中も?っており、?玉が旅順に 第3軍 督?のため出張している間は、大山が自ら?謀?議を主宰し、積極的に報告を求め作?を指揮したという公式記?が?っている。

桂太? は大山の?謀?長時代の話として、次のような話を述べている。?玉、 川上操六 、桂が大議論を繰り?げていると、いつも大山が仲裁役となった。三人はそれぞれ理屈を述べるが、結局大山に唯?諾?と?ったという [32] 大?重信 は世事に疎い武人と見られていた大山が新聞や?誌を手元に置いていた常識人であったと述べている [33]

明治38年(1905年)12月7日にようやく東京? ?田 の私邸に凱旋??した大山に?し、息子の が「??中、?司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに?し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを?げている。「茫洋」か「俊異」かという事項についての大山自身によるひとつの解答との指摘がなされている [34]

?養 [ 編集 ]

石?忠悳 は、大山と旅をしていると、その土地??の有名な詩を暗誦していて驚かされたと回想している [35] 。稀に和歌を?むこともあったが、てにをはの使い方などを注意されることがあっても?に留めなかったという [36]

容貌 [ 編集 ]

?兄弟の西?隆盛も大柄で 肥?? だったが、大山もなかなかのものであった。その?型と顔の印象から「ガマ」( ガマガエル )という ニックネ?ム で呼ばれていた。しかもかなりの 美食家 であった。息子の大山柏の回想によると40cm以上もある 蒲? がのった 鰻? をペロリと完食し、 ビ?フステ?キ フランス から輸入した 赤ワイン が好物で、?重は最も重いときで95kgを越えていたという。その結果晩年は 糖尿病 に?まされていた。妻の捨松は友人への手紙で「主人は最近ますます太り、私はますますやせ細っています。」と愚痴をこぼしていたという。ただし、『元帥公爵大山?』(大山??刊行?編、1935年)では肥?になったのは晩年のことで、?初はどちらかというと?せ?味であったといい、 槍術 を得意としたという。

西?隆盛像のモデル [ 編集 ]

キヨッソ?ネによる 西?隆盛 の肖像?。顔の下半分は大山?がモデルといわれる。

大山の?兄弟である西?隆盛の肖像?として、イタリア人?家 エドアルド?キヨッソ?ネ が描いた肖像?がよく知られているが、西?は生前に??や肖像?を?していなかったため、キヨッソ?ネはこの肖像?を顔の上半分を 西??道 、下半分を大山?をモデルにして描いたといわれている [37] [38] [39] 東京?上野にある西?隆盛像 などもキヨッソ?ネの肖像?を基にしているとされる [37]

西洋かぶれ [ 編集 ]

大山は 西洋かぶれ で非常に西洋文化への憧憬が?く、また造詣も深かった。 後藤象二? 西園寺公望 らと共に「 ルイ?ヴィトン の日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが?っている。捨松との再婚の時の披露宴招待?は全文が フランス語 で書かれた物で人?を仰天させたという。陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸は ドイツ の古城をモチ?フとした物だった。しかし、見た目の趣味はお世?にもいいとはいえない代物で、ここを訪ねた捨松の?友 アリス?ベ?コン にも酷評されている。?はこの新居に?足していたが、妻?捨松は「あまりにも洋式生活になれると日本の風俗になじめないのでは」と、自分の??から子供の??を心配し、子供部屋は 和室 にしつらえていた。

政治家として [ 編集 ]

明治前期には 陸軍卿 として 谷干城 ? 曾我祐準 ? 鳥尾小?太 ? 三浦梧? のいわゆる「四?軍派」との?紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、彼等の?点と化していた 月曜? を解散させた。以後明治中期から大正期にかけて 陸軍大臣 を長期にわたって務めた。 元老 としても重きをなし、陸軍では 山縣有朋 と?ぶ大?力者となったが、政治的野心や?力欲は乏しく、元老の中では 西??道 と?んで ?理大臣 候補に擬せられることを終始避け?けた。

大?重信は大山が薩摩人でありながら、?土の?故をもって?み事をされても?らず、超越した存在として公平に振る舞い、?大臣の適任者であったと回想している [33] 。また山縣有朋も私心がなく公平であったと回想している [33]

君が代 [ 編集 ]

大山は日本 ?歌 となる 君が代 の制定にも?わっているとされることがあるが、曾孫 [注? 1] 大山格 は?が?歌制定に?わったという話は大山家に全く?わっていないとしている [40]

大山?自身の談話によれば、明治3年の末、もしくは4年の始めごろ( グレゴリオ? では 1871年 )、 御親兵 における 薩摩バンド 薩摩藩 軍?隊)の隊員に?し イギリス 公使館護衛隊?兵大隊の軍?隊長 ジョン?ウィリアム?フェントン は、?歌あるいは儀?音?的な物があれば、それから指導すると述べた。これを薩摩バンド隊員が?時の藩砲兵隊長であった大山に報告した際、大隊長の 野津?雄 と薩摩藩大?事の 大迫貞? も臨席していた。この際に大山は「( イギリス?歌 のように)宜しく?祚の隆昌天?無窮ならむことを祈り奉れる歌を撰むべきである」と述べ、愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬?山」を提案したところ、野津も大迫も?成した [41] 。大山はその後どのような?緯を?て「君が代」が?歌となったのかは知らないと述べている [41] 。ただし「君が代」を提案したのは?岡藩士の 乙骨太?乙 であるという?も存在している [42]

史跡??彰 [ 編集 ]

九段坂上の大山?騎馬像

邸宅 [ 編集 ]

大山が生前に建設した本邸は大正12年( 1923年 )の ?東大震災 により崩?した。その後大山家は、東京? 表?道 ?田 一丁目=?時) [注? 2] に?大な私邸を持っていたが、 太平洋?? 大東??? )末期の 昭和 20年( 1945年 )5月の 東京大空襲 で?失した。その際 アメリカ軍 は大山邸などを目標にしていたといわれる。

また本邸の他に ?岡? 沼津市 [注? 3] ?木? 那須(?時の 西那須野村 、後の 那須?原市 )に別?を所有していた。このうち那須にあった別邸は、後に大山記念洋館(大山別邸)として?指定文化財となっており、 ?立那須拓陽高等?校 が管理している [43] 。那須では 農場 も持っており [注? 4] 、暇があれば山仕事に?事していたという [44]

銅像 [ 編集 ]

現在、大山の騎馬姿の銅像が九段坂上に存在している。千代田??光協?の解?によれば、この像は 新海竹太? の作によるもので、大正8年(1919年)11月3日に??前庭北地?洋式庭園に建てられていたといわれているが、その後?緯は不明ながらも現在の位置に移設されたとしている [45] 。一方で、?の曾孫で?史ライタ?の 大山格 は、公刊?記『元帥公爵大山?』や 二反長半 の『大山元帥』 [46] を例示し、銅像は?初三宅坂の陸軍?謀本部の構?にあったとしている [47] 。大山格によれば、銅像はその後 東條?閣 期に 金?供出 され三宅坂から撤去されたが、?後になって上野の 東京芸術大? 構?で?倒しとなって放置されていたところを?見され、 昭和 39年( 1964年 )5月17日に現在の地に再建された [47] 。?の子である 大山柏 は著書『大山元帥と雪の進軍』において、再建に協力した人?に感謝の?を述べている [47]

墓所 [ 編集 ]

?木?那須?原市の大山?墓所?道

?木?那須?原市にある大山の墓所?道には モミジ ? ヒノキ の?木が整備されており、秋には紅葉のトンネルのような景?となる [48] [49] 。?道の設計は 山本直三? によるもので [49] 、?初はモミジと交互に?も植えられていたが、?は枯れてしまったため伐採され?っていない [49]

?彰碑 [ 編集 ]

明治39年に 日露?? の功を?えて、 三島中洲 により 赤城神社 (新宿?) に巨大な石碑が建立されたが、平成22年、同神社のマンション建設に伴う建て直し時に撤去された [50] [51]

評? [ 編集 ]

  • 大?重信 「常識には非常に富んでおられ、決して世間の想像するが如く、世事に暗い一個の武弁たるに止まるものでは無い。しかし公はかくの如くして????を事とする君子のおもかげはあるが、進んで積極的に?を斥け善をなさるる如き言動には出でられない。畢竟するに公は一個の君子人であった」 [33]
  • 山縣有朋 「沈?寡言を以て、あるいは茫漠として捕捉する所なきが如く解する人あらんも、その?明にして事物の推移を洞察し、大局の?趨を達?するの明に至りては、?に敬服の外なく、更に??の間に人を見るの慧眼には、公を知る者の畏敬措かざる所なり」 [52]
  • 伊藤博文 「西?翁(隆盛)は人を知って任せるし、大山は人を見て任せる。どっちも偉い」 [44]
  • 土方久元 「?の高い至って質素な大海の如き大量の人物であった。下に使わるる人?は誰として敬服、心服せぬ者はなかった。一言にして評せば?に?たる大?軍であった。こういう人物はただ生きているという事それだけで?家に?して利益のあるものである。?ち??と申すべき人物である」 [53]
  • 桂太? 「大山さんの偉いところは、大山さんの下僚に居った者でなければ分らぬ」 [32]
  • 川村純義  「?年時代から矢張り肥って居たが、酒も煙草も一切やらず、?日の起居動作はすべて軍隊式で非常な?生家であった。一時邸?に玉突台を設けた事もあるが、遊?に耽るという事は決してない。無口の?だが、あれでなかなか人を笑わせる?な面白い冗談を云う事があった」 [54]
  • 樺山資紀
    • 「大山と俺共とは明治十二三年からの知合いで、?道と大山と俺共と三人は無二の?友であった。この三人は飯よりも?が好きで、?週土曜から日曜にかけて泊りがけで浦和保土ヶ谷熊谷方面へ雉打に出かける。大山が一番の健脚で、朝暗いうちから山へ行くと?飯までは一休みもしないで鳥を追っかけ回し、ちっとも草臥れた?子もない。その代わり夜は?になると雷の?な大?で、大山の傍へ?ると眠られたものではない。?道は人が?いから樺山は?ん中に?ろと云って、自分は成るべく大山に遠い方に?たりした」 [55]
    • 「ある晩鳩ケ谷に泊った所が、隣座敷で五六人の客が芸者を揚げて大?ぎを遣って居る。流石の大山も眠られないので??を起し、宿の女中を呼んで安眠妨害だと小言を云う。女中が隣座敷へお?かにと?みに行くがなかなか?まらぬ。大山は二三度女中を使者に遣ったが手?えがない。夜中の一時頃未だ盛んに?いで居る。大山も堪えられなくなったと見え起き上がって?砲をドンドン打ち出した。隣の客が驚くまい事か芸者も客も急に?かになった」 [56]
    • 「大山が大警視になった時、保土ヶ谷であったと思うが、三人茶店に上って?飯を?って居ると、表に?いで置いた大山の犬が通りかかりの巡査に吠え附いてズボンを?んだ。宿の女が出て?びを云ったが巡査が承知しない。犬の飼主に出ろと云う。それから大山が平謝りに謝って勘弁しろと云うが、巡査は益?威丈高でお前の名前は何と云うか名刺を出せと如何しても諾かない。大山も仕方がないから不承??に大警視と肩書のある名刺を出すと、巡査は飛び上がって驚き、今後は地位?倒だ。巡査は平蜘蛛の?になって無?を?びる。それから警察の署長が?て謝罪するやら、こんな滑稽もあったよ」 [56]
  • 石?忠悳
    • 「公爵は決して才智を表に現す事のない人です。?ち智というものを全く超越している人であると思います」 [57]
    • 「一見何事をも知らざるが如く、しかして何事をも知っていた。公の本領はもちろん、軍?として三軍を叱咤するにあったが、一面政治をも解し??にも通じ、八方無凝の大才であった」 [58]
  • 福島安正 「ああいう偉人は?似が出?ぬ。山が崩れても地が裂けてもビクともしないあの大きな所は?に天下の珍で?家の柱石である。公は中正廉潔で少しの私心ももたない。薩摩人であって薩摩??をするでなく、私?私派を作ることを絶?しない。私行上何一点非難の打ち所のない立派な人で、ことに??の?に富み相手が豪い人であろうが凡人であろうがその態度に少しも差別は無い」 [59]
  • ?富蘇峰
    • 「公の智は、自ら私するの小智にあらずして、天下の大局に?するの大智なり。古人曰く、その智には及ぶ可く、その愚には及ぶ可からずと。愚は智の極致なり。ただ我が大山公に於いて、之にちかし。公の智は大勢を見るに長じ、人を鑑別するに長じ、特に自ら?するに長じたり。公はある意味に於いて、個人主義者なり。親分もなければ、子分もなし。?って藩閥心もなければ、?閥心もなし。然もまた利己的個人主義者にあらずして、偉大なる個人主義者なり」 [60]
    • 「大山公は非常に公平な人で藩閥魂性などは微塵もなかった。すなわち特に子分を養ったり味方を造ったり、或いは?派を組むなど云うことは少しもなかった。常に一本立ちで堂?と天下を押し通した。この?は現代人と余程調子が違って居る」 [61]
    • 「大山公はまた節?力行の人で、彼の如き高位高官の地位にありながら、驕奢をほしいままにするとか?賄するなど云うことは更になかった。彼の?田の家を造る時の如きも、その木材は那須の自分の山林から切り出したものである。また他人から贈り物などあった時は、?令如何程些細なものに?しても一?それ相?の返?をしたものだ」 [62]
  • 吉田?英
    • 「(少年時代の)大山公は今の?に肥えては居ない?せた貧相な方であった。殊に公は家中でも評判の槍使いで能く庭で槍の稽古をして居るのを見た。此の頃の武士の?問と云えば?書と源平以後の軍書であったが、大山公の好きで得意なのは元?天正の軍書中にも武田三代記、?田幸村などで悉く之を暗唱し、武田三代記の何?目と云えば?に?じて宙で?んだものだ。しの記憶の好いのには感服して居た」 [63]
    • 「今でこそあのように円?に見えるものの、大山公の若い時は?道さんの上を越した腕白者で、豪?で思い切った?着者であった。そうして機敏で機略に富んで居た。?し長ずるに?い其の敏捷も機略も?に包んで外に現わさないようになった。あの人が巴里から?った明治初年の頃は日本一の大ハイカラで加治屋町時代の叛骨?助どんとは受け取れなかった」 [64]
  • 末松謙澄  「大山公の人物は他の薩摩の豪傑連と等しく、小さい事務の才幹のある人ではなく、万事は下僚任せにするという人の頭目に適して居った。吾輩が嘗て書生時代に 福地?痴 居士が『大山さんは愚物のような人であるが?はこの愚物のような性格で成功する人であろう』と言ったが果して其通りであった。公は大義に?って?然大西?と砲煙の間に相見ゆる?になった。公は大義名分の?には?に一諾千金の人であった。公の?家に?する方針は大久保公と相均しく、その?め大久保公も公を見?いて少しも疑うことなく軍隊を?えて?場に赴かしめたのである。斯く大義名分の?に身を?するという公の大義点に比すれば、事務の才に乏しいなど言うことは論ずるに足らぬ」 [65]
  • 吉田茂八  「御前はこの地(大山開墾地)に御出でになると必ずものさしを持って森林中へ足を入れ、手を伸ばして木を撫で『おまえは大きくなったな、去年よりは一寸大きくなった』とものさしを?てて木と話をされます。この農場が何よりも好きで此?に墓地を作りたいと言っていられました」 [66]
  • ジョルジュ?デラ?ファイユ?デ?ル?ヴェルゲン オランダ語版 伯爵( ベルギ? 公使 ) 「公は常に我?外?人に接して、愉快な印象を?えられた。宮中などで山縣公と大山公に?った時の印象を?別すれば、山縣公は此方からの問あれば答えんと云う、極めて?格な風の方であると思わるるが、大山公は何か話題を作って話しかけようと思われている?子がありありと見える、ごく平民的の方であった。公爵邸に行って種?お話している間に、公爵は外?に?する事を正確に話された。それで私は公爵が外?の書物や、外?の話に始終注意しておらるる方だと思っていました。と言うていたずらに外?の話をしてその知識を示そうという方ではなく、間?にはごく平易なお話もあり、ある時は公爵は私の最も好きなのは田園生活で、自然ほど自分を喜ばすものは無いなどと語られた」 [68]
  • ニコ?ミリアレッシ? ギリシャ 軍事通信員) 「元帥も年を重ねられて大分頭が古いなどという人もありましたが、私はそうは思いませんでした。私は昨日?逸から?ったばかりなどという新しい?校に?って話を聞きますが、それ等の人?の意見よりも却って老元帥の意見の方が新式で、また?かに?に?たっているのに驚きました。私は老元帥は先天的の軍人で軍人中には珍しい遠大な計?を腹?していると思いました」 [69]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 大山?子(大山柏の長女)と大山健次(?子の?養子)の子。
  2. ^ 現在の 東京都 ?谷? 神宮前 5丁目。
  3. ^ 牛臥山 南斜面にあった。
  4. ^ 農場敷地は現在の 西那須野? 東側、 那須?原市 南町?西朝日町一?であり、現在も別邸?門衛所?墓所がある。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 『貴族院要?(丙)』昭和21年12月?訂、6頁。
  2. ^ ?鉛筆『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月13日朝刊、13版、23面
  3. ^ a b アジア?史資料センタ? .
  4. ^ 20世紀初頭のライプチヒ-植物?者大野直枝のドイツ日記 ?田芳雄、人間環境科? 8 9-38, 1999 帝塚山大?人間環境科??究所
  5. ^ 伊藤之雄 2016 , p. 102-103.
  6. ^ 『官報』?外「?任」1914年04月23日。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 大山? 」  アジア?史資料センタ? Ref.A06051166100 
  8. ^ 『官報』第993?「?任及?令」1886年10月20日。
  9. ^ 『官報』第3746?「?任及?令」1895年12月21日。
  10. ^ 『官報』第1308?「?任及?令」1916年12月11日。
  11. ^ 『官報』第307?「授爵??任及?令」1884年7月8日。
  12. ^ 『官報』第1928?「?任及?令」1889年11月30日。
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  16. ^ 『官報』第4363?「?任及?令」1898年1月21日。
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  21. ^ 『官報』?外「勅令」1916年12月11日。
  22. ^ 『官報』第1311?「故大山?大臣葬儀」1916年12月14日。
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?考文? [ 編集 ]

  • ?島襄 『大山?』(全4?、 文藝春秋 のち 文春文庫 )(?方とも品切絶版。日???までを描く、?編は『日露??』 同)
  • 長南政義「日本の活?? 大山?」ゲ?ムジャ?ナル編集部『坂の上の雲5つの疑問』(?木書房、2011年) ISBN 4890632840
  • 西村文則 『大山元帥』(1917年、忠誠堂) NDLJP : 951560
  • 明治功臣?刊行?編輯局編『武?大山公』(1917年、明治功臣?刊行?) NDLJP : 955878
  • 伊藤之雄『元老―近代日本の?の指導者たち』 中央公論新社 、2016年。 ISBN   978-4121023797  
  • 『貴族院要?(丙)』昭和21年12月?訂、貴族院事務局、1947年。
  • 大山? ”. 日露??特別展 . アジア?史資料センタ?. 2019年6月22日 ??。

大山?が登場する作品 [ 編集 ]

テレビドラマ

外部リンク [ 編集 ]

公職
先代
貞愛親王
?大臣府出仕
日本の旗 ?大臣
第4代:1915年4月23日 - 1916年12月10日
次代
松方正義
先代
高島?之助
(新設)
日本の旗 陸軍大臣
第3代:1892年8月8日 - 1896年9月20日
初代:1885年12月22日 - 1891年5月17日
次代
高島?之助
高島?之助
先代
(新設→欠員)
日本の旗 ?務 大輔
1879年 - 1880年
次代
前島密
先代
川路利良
日本の旗 大警視
第2代:1879年10月16日 - 1880年2月28日
次代
樺山資紀
先代
鳥尾小?太 (→欠員)
日本の旗 陸軍 少輔
1874年 - 1878年
次代
(欠員→) 小?武雄
軍職
先代
山?有朋
川上操六
?謀?長
第6代:1905年12月20日 - 1906年4月10日
第4代:1899年5月16日 - 1904年6月20日
次代
?玉源太?
山?有朋
先代
山?有朋
監軍
1889年 - 1890年
次代
三好重臣
先代
山?有朋
?謀本部長
第3代:1882年9月4日 - 1884年2月13日
次代
山?有朋
先代
(新設)
?謀本部 次長
1878年 - 1880年
次代
(欠員→) ?我祐準
先代
?我祐準
陸軍士官?校長
1878年 - 1879年
次代
谷干城
先代
種田政明
熊本?台司令長官
1876年
次代
谷干城
日本の爵位
先代
陞爵
公爵
大山家 初代
1907年 - 1916年
次代
大山柏
先代
陞爵
侯爵
大山家 初代
1895年 - 1907年
次代
陞爵
先代
?爵
伯爵
大山家 初代
1884年 - 1895年
次代
陞爵