タンジマ?ト

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1839年 11月3日 布告『 ギュルハネ勅令

タンジマ?ト または タンズィマ?ト ( オスマン語 : ??????? Tanzimat ; 現代 トルコ語 : Tanzimat ) とは、「タンジマ?ティ?ハイリエ」( 恩?改革 )の略語である [注? 1] 1839年 ギュルハネ勅令 ?布から 1876年 制定の オスマン帝?憲法 (通?、ミドハト憲法)にいたるまでの、 オスマン帝? がおこなった諸改革あるいは改革運動の??である [2] 19世紀 半ば、 ヨ?ロッパ 列? の軍事的?政治的?力、?州 金融資本 バルカン半島 進出、 ギリシャ エジプト など帝?領の諸地域?諸民族の自立?離反という「?憂外患」のなかでおこなわれた一連の西?化?近代化政策であり、1839年から1876年までを「 タンジマ?トの時代 」「 タンジマ?ト期 」と?することがある [2] [3]

タンジマ?ト諸改革は、 トルコ が神?的な イスラ?ム?家 から近代的 法治?家 西ヨ?ロッパ をモデルとした 多民族?家 へと?貌する第一?であった [2]

?要 [ 編集 ]

タンジマ?ト改革を先取りしたスルタン、マフムト2世
マフムト2世の子で改革を始動させたスルタン、アブデュルメジト1世

1808年 にオスマン帝?の 皇帝 スルタン )に?位した マフムト2世 イェニチェリ を?止して軍の西?化を推進し、外務??務?財務の3省を新設して政府機構の近代化を?り、??局を設置して 留?生 をヨ?ロッパ諸?に派遣して人材を育成し、さらに帝??の「 ア?ヤ?ン 」(「地方名士」「地方名望家」)と?される半?立の勢力を抑えるなどして中央支配の再確立を目指した [4] [5] 。しかし、 シリア をめぐる、エジプトの太守 ムハンマド?アリ? との?立は 第二次エジプト?トルコ?? へと?展し、 1839年 7月、エジプト軍がシリアの?いでオスマン軍を打ち破ったという知らせが帝都 イスタンブル に?こうとする直前、マフムト2世は病に倒れた [2] [6]

マフムトが死去し、子の アブデュルメジト1世 が新スルタンとして?位した [6] 。この?難のなか、エジプトとの?係を好?させるべく ヨ?ロッパ を奔走していたのが、外務大臣の ムスタファ?レシト?パシャ であった [6] 。彼はエジプト問題におけるイギリスの外交的支援を得るために、前年( 1838年 )、同?との間に バリタ?リマヌ?約 (オスマン=イギリス通商?約、英土通商?約)を結んだ [6] 。この?約は、その後、イギリスがアジア諸?と結ぶことになる一連の通商?約の雛形となった [7]

1839年 11月、新皇帝アブデュルメジト1世は、ムスタファ?レシト?パシャの起草による ギュルハネ勅令 (タンジマ?ト勅令)を?布して全面的な改革政治を開始することを宣言、 行政 から 軍事 財政 文化 ?育 に至るまで西?的?制への?向を?った [2] [8] 。タンジマ?トの始まりである [2] 。以降、タンジマ?ト諸改革のもとでオスマン帝?は 中央集? 的な 官僚 機構と近代的な 軍隊 を確立し、西?型?家への?換を進めていった [9] 。改革政治は、途中、ヨ?ロッパにおける「 1848年革命 」の影響を受け、 クリミア?? 1853年 - 1856年 )の末期には 改革勅令 を?布、西?化の方針はその後も受け?がれ、その集大成というべき オスマン帝?憲法 (通?、ミドハト憲法)が制定される 1876年 までの約37年におよんだ [2]

この間、 法令 の改革においては、ヨ?ロッパ諸?の法に依?した 立法 作業が進められ、それぞれの法に?する 法廷 も設置された。しかし、一方で シャリ?ア (イスラ?ム法)にもとづく法廷も?存していたため、シャリ?アとヨ?ロッパ起源の法が?行して適用され、こうした二元?制には社?的混?がともなった [3] 。また、「 イルティザ?ム 英語版 」と?される、オスマン帝?の??請負制度は段階的に?止されていった。 1840年代 初頭、帝?はイスタンブルの ガラタ地? ラリ家 英語版 など80名に 銀行 業務を認可したが、 1850年代 半ばには統合が進んで18名となり、かれらは19世紀後半、さかんに列?の大銀行と提携するようになった [10] 1856年 には オスマン帝?銀行 英語版 が設立された [11] [12] 。ヨ?ロッパ式の 軍隊 ?校 も整備され、中央集?的な 官僚 機構が整えられ、また、最高?高等司法審議?議や州議?の設立をとおして、地方?督になりがちであった州長官や地方に根を張っていたア?ヤ?ンの?力基盤は徐?に弱められていった [2]

タンジマ?トは、?米地域以外における最初の?系的な近代化の試みでもあり、 ?? 洋務運動 タイ王? チャクリ?改革 日本 明治維新 などアジアの「?化」の先?けとなった [2]

前史 [ 編集 ]

タンジマ?ト期前後のオスマン帝?周?の?況。エジプト?督ムハンマド?アリ?の勢力範?(橙)、ギリシャ?立による領土喪失(紫)、クリミア??時のロシアによる占領地域(?)

オスマン帝?はヨ?ロッパ、西アジア、アフリカにまたがって君臨した大?であったが、18世紀以降、?次にわたる 露土?? などでの相次ぐ敗北によって、その軍事力や政治機構が?州諸?のそれと比較して劣っていることが帝??において認識されつつあった [13] [14] 。さらに??の各地では「 ア?ヤ?ン 」(「地方名士」「地方名望家」)と呼ばれる有力者たちの勢力が?し、中央政府の統制が緩んでいた [13] 。そして バルカン半島 ではギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人などが、自立傾向を見せていた [13]

Sekban-ı Cedid

このような?憂外患の中で、中央集?支配の再確立を目指す改革が試みられた [13] 1792年 にロシアとの?いに敗れ クリミア半島 を喪失した セリム3世 ニザ?ム?ジェディ?ド (新秩序)と??される改革を行い、 フランス から招聘した軍事顧問?の指導の下で新設軍を組織し、陸海軍の技術?校の設立や情報?集のために?州諸?への常設駐在大使の設置などを行った [13] 。しかしア?ヤ?ン層や イェニチェリ 、守?派官僚などからの?範な抵抗を受けたことに加え、1798年の ナポレオンのエジプト侵攻 をきっかけにエジプトの支配?を握った ムハンマド?アリ? が?質的にオスマン帝?から自立し、 1804年 にはバルカン半島でスラブ系諸民族の反?が?生するなど、オスマン帝?をめぐる環境は?化した [13] 。そして、バルカン半島の反?をきっかけに始まった 露土?? (1806年 ? 1812年)の最中、守?派に扇動された反?が?生してセリム3世は殺害され、 ムスタファ4世 が擁立された [13] 。改革派を保護したア?ヤ?ンの アレムダル?ムスタファ?パシャ 英語版 はムスタファ4世を?して マフムト2世 を擁立し、セリム3世の政策を?承することを宣言した [13] 。彼はア?ヤ?ン層の支持を取り付ける必要を感じ、 1808年 に主要なア?ヤ?ンを イスタンブル に召集してマフムト2世との間に「 同盟の誓約 英語版 」(セネディ?イッティファク)の署名をさせた [13] 。これはア?ヤ?ンに兵力の提供や治安の維持、スルタンへの服?を要求する代わりに??請負?や大土地所有などの?得?益を認めるもので、スルタンによる?制支配を建前としたオスマン帝?の?史において?期的な?容のものであった [13] 。アレムダルはさらにニザ?ミ?ジェディ?ドに換えて セクバ?ヌ?ジェディ?ド 英語版 と呼ばれる西洋式軍隊を創設したが [13] 、最終的に1808年11月のイェニチェリによるク?デタ?によって守?派が政?を奪回し、アレムダルは殺害された [13] 。しかし、その後もマフムト2世はその後も?い決意をもって改革を??した。

セリム3世の遺志を?いだアレムダル?ムスタファ?パシャ

1821年 ギリシャ人 が蜂起すると、イェニチェリ軍?の無力が白日の下にさらされ、自力での??が不可能であることが明らかとなった [15] [16] 。マフムト2世はエジプト?督ムハンマド?アリ?に??を命じ、ギリシャに派遣されたエジプトの西?式軍隊であるジハ?ディヤ(聖?軍)は赫?たる?果を?げた [15] [16] 。このことはマフムト2世にイェニチェリの解?を決意させた。彼は新たな西?式軍隊 エシキンジ トルコ語版 を編成するとともに、1826年にはイェニチェリの軍?本部を襲?してこれの?止を宣言した [15] 。さらに西?諸?への留?生の派遣、?政の中心となっていた大宰相府からの外務??務?財務三省分割、?勢調査、最高軍事?議と最高司法審議?議の設置による法治?制の基盤固めなどが次?と?施された [15] 。また、これまで ?? 業務を主に?っていたギリシャ人にかわって トルコ人 の通?官を養成するため1833年に??局が設置された。これはその後台頭する若手トルコ人官僚に出世の機?を提供する組織となった [15]

マフムト2世は??の不?を抑えつつこうした改革を?固として?施したが、エジプトのムハンマド?アリ?との?係が諸外?を?き?む重大な問題となっていた [15] 。ムハンマド?アリ?はギリシャの反???(最終的に??には失敗したが)における貢?の代償として シリア の統治?を要求した。マフムト2世はこれを拒否したが、ムハンマド?アリ?は?力でシリアを切り取りにかかり、西アナトリアにまで侵攻した [15] 。進退窮まったマフムト2世はやむなく ロシア帝? に支援を求め、 イギリス フランス も介入した結果1833年に キュタヒヤの和約 英語版 が結ばれ、エジプトへのシリアの?渡を約してエジプト軍は撤退した [15] 。しかしシリアをめぐるオスマン帝?とエジプトの紛?は??し、1839年6月には再びシリアで武力衝突が?生しオスマン帝?軍は敗れた [15] 。マフムト2世はこの知らせが?くより前の1839年7月1日に死去した [15]

ギュルハネ勅令と初期の改革 [ 編集 ]

『ギュルハネ勅令』を?み上げる ムスタファ?レシト?パシャ (1839年11月3日)

イスタンブルにエジプト軍がせまるなか、 アブデュルメジト1世 ?位の知らせを聞いた開明派官僚 ムスタファ?レシト?パシャ (?時、外務大臣)は、急遽??し、西洋 列? とくにイギリスと フランス リベラル 世論 の支持を獲得すべく、改革の基本方針をスルタンの「 宸筆 (ハットゥ?ヒュマユ?ン)」というかたちで起草した [8] 。この?容を、 1839年 11月3日 、ムスタファ?レシト?パシャがスルタン隣席のもと、帝??の文官?武官、 ウラマ? (イスラム法?者)、民間人代表、外?からの使節の前で?み上げた [8] 。これが、 トプカプ宮殿 裏庭のギュルハネ( 薔薇 の園、薔薇宮)でおこなわれたことだったので「 ギュルハネ勅令 」と呼ばれている [8] 。ただし、この勅令の?容の一部はすでに先帝マフムト2世の改革によって?現していた [2] [8]

タンジマ?ト改革を主導した官僚、ムスタファ?レシト?パシャ

この勅令は、スルタンの「御意志」が前面に出ているため、必ずしも立憲思想にもとづくものとはいえないが、 ムスリム ?非ムスリム( ズィンミ? )にかかわらず、全ての帝?臣民には 法の下の平等 があたえられること、また、帝?は全臣民の 生命 ? 名? ? 財産 を保障することなどを繰り返し述べているところに 1789年 フランス人?宣言 の影響を確認することができる [2] [8] 。また、 裁判 を公開すること、スルタン自身も「法」に違反しないことを宣言するなど、スルタンの?力のうえに「法の力」が存在することを認めている点などでも?期的な意味をもっていた [2] [8] シャリ?ア におけるムスリムと非ムスリムの不平等な共存という?統的な仕組みは放棄され、これは、オスマン帝?が キリスト?徒 系の 少?民族 を不?に扱っているという口?を用いて ?政干? しようとする 列? への牽制という意味合いも兼ねていた [2] 。ただし、「法」を指し示す語として「シャリ?ア」と「 カ?ヌ?ン 」(世俗法)を注意深く使い分けるなど、シャリ?アを?門とするウラマ?や保守派知識人に?する慰撫の?遣いをも示している [8] 。タンジマ?トの中心的な機?としてはオスマン帝?最高司法審議?議が組織され、新規の「法」の立案??討がここを中心になされることとなった [8] 。しかし、ヨ?ロッパ近代法とシャリ?アの均衡問題はつねに重大な緊張?係をはらんでいた [8]

1840年 には、 刑法 の?布、 人口 調査、イルティザ?ム(??請負制)の?止と??官の任命、州 議? の設置、地方官の 俸給 制?施、 賄賂 の禁止などの改革が?施された [17] 。しかし、イルティザ?ムは名望家を中心とする多くの人びとの?止反?論?復活待望論や??官そのものの不足によってまもなく復活した [17]

イギリスは、 1825年 以降、3度にわたって ストラトフォ?ド?カニング をオスマン帝?駐在の外交官としてイスタンブルに派遣し、帝?の維持と領土保全に意を?くした [18] 。カニングにとって3度目のイスタンブル勤務となったのが 1842年 から 1858年 までで、その間、タンジマ?ト諸改革を支援した [18] 。これは、オスマン帝?を主とする 中近東 地域が 綿織物 市場としてきわめて重要な 輸出 市場となっていて、その 治安 維持と 商人 の保護を?る必要があったことと、 インド の保全のためには スエズ地? を他?、とくに「 グレ?ト?ゲ?ム 」における敵??であるロシアに渡すことを絶?阻止しなければならなかったためである [18]

改革派の中心人物であったムスタファ?レシト?パシャが 1841年 3月末にいったん外務大臣の職を解かれてフランス駐在大使に?ずるとタンジマ?ト改革は停?したが、 1846年 から 1848年 までは 大宰相 に?擢され、1846年の 公務員 法、一般?育審議?議設置(翌年、文部省に改組)、 1847年 には混合裁判所 [注? 2] の設置、農業?校開設、1848年には 師範?校 の開設などの改革が急進展した [17] 。かれは1848年に大宰相を罷免されたが、以後、再任と罷免を繰り返しながら計5回この職に就き、タンジマ?ト改革を推し進めた [17] 。その一方で人材登用にも意を注ぎ、 ア?リ?パシャ フアト?パシャ ミドハト?パシャ らを取り立てている。改革派の力はまだ弱く、初期のタンジマ?トはこのような 人事異動 にともなって一進一退したものの、中央政府の影響力は「法の力」によってゆっくりと地方にも浸透し、改革路線は定着していった [17]

クリミア??と改革勅令 [ 編集 ]

クリミア?? でのトルコ兵(1854)

シチリア革命 パリ二月革命 ウィ?ン三月革命 英語版 ベルリン三月革命 など、1848年はヨ?ロッパに革命の嵐が吹き荒れ、それは 北? 東? をも?き?んだ [19] [注? 3] 1848年革命 はしかし、まもなくそれに?する反動の嵐をも引き起こして、 オ?ストリア帝? ロシア帝? で??された大量の ハンガリ?人 ポ?ランド人 がオスマン領?になだれこんだ [19] 。ロシア政府はオスマン帝?に?し、亡命者たちの身柄を引き渡すよう要求したが、オスマン帝?政府はこれを拒否、ヨ?ロッパのリベラルな世論からは?迎された [19] 。一方、「諸?民の春」の?況はオスマン帝?にとっても諸刃の?であり、帝?領の一部、 バルカン半島 ブルガリア では、 1850年 に大規模な農民反?が起こっている [19] 。これは、ブルガリア農民が ギュルハネ勅令 の「約束」を信じ、ムスリムの地主層から課せられていた?制??などの「封建的義務」を拒否したことに端を?していたが、中央政府のバルカン半島支配は、むしろこうしたムスリム地主層の土地所有や「封建的義務」そのものに依存していたために、勅令に示された方針を貫徹することができなかった [19] ヴィディン (ブルガリア)の農民反?に?しても オスマン帝?軍 はこれを完全に??することができず、わずかにア?ヤ?ン連合の私兵によって抑えられたにすぎなかった [20]

これに?して、ロシアは「 東方問題 」を利用して 南下政策 をすすめようと、オスマン帝??における 東方正?? の信徒の保護と聖地 イェルサレム における 正?徒 の?利?張を名目に兵を進め、 1853年 、オスマン帝?との間に クリミア?? が勃?、オスマン帝???の??では劣勢がつづいたが、オスマンを支援するイギリス?フランスが??して激しい?いとなった [19] [20]

改革勅令 起草の中心人物、 ア?リ?パシャ

この?いでは英?の支援もあってかろうじて勝利を?めることができたが、帝?にとってより重要なのは、軍費の捻出に困窮して 1854年 にイギリスに?して初めて 借款 をしたことであった [11] [19] [注? 4] 。そして、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝?は、非ムスリムの?利を認める改革をさらにすすめることを列?に?し約束した [22] 。これが、 1856年 2月に?布された 改革勅令 である [19] [22] [注? 5] 。勅令は、クリミア??の終わりを告げる3月30日の パリ?約 に先立ち、イスタンブルで英???の ?領事 とオスマン政府との協議を受けて起草された [19] 。その中心にいたのが、オスマン帝?側はア?リ?パシャ(メフメト?エミン?ア?リ?パシャ)、イギリスでは ストラトフォ?ド?カニング であった [11] [19]

改革勅令では、非ムスリム臣民があらゆる公職に?加できること、 信?の自由 、非ムスリム共同?代表の?利の再規定、非ムスリムの公立?校への入?許可、各地方議?でのムスリム?非ムスリムの代表選出方法の改善、非ムスリム代表が最高司法審議?議に?加できるとしたこと、非ムスリムに?して 差別用語 を用いることの禁止、非ムスリムの 兵役 義務、非ムスリム共同?による?校設立と?自の ?育課程 編成の承認、混合裁判所における非ムスリムの ?人 を認めるなどの?容が明確に盛り?まれていた [19]

この勅令の文言は、先のギュルハネ勅令に比べて表現があまりに直接的なものであり、その?容のほとんどが非ムスリムの?利の保障に?わるものであったことから、すでに起草段階より ムスタファ?レシト?パシャ の批判を受け、ムスリムの一部では「特?勅令」と呼ばれて不評であった [24] 。このような勅令の?容は、一方では西?列?の非ムスリム?利擁護要求に?じて作られたものではあったものの、他方では、多民族を?包する帝?にあっては、非ムスリム諸民族の共同?( ミッレト )?部の深刻な?立も看過できないものであり、これを調停する必要があったためでもある [19] 。勅令ではまた、外?人の 不動産 所有? の付?、 ?家予算 の提示、 銀行 の設立、 運河 道路 の建設、ヨ?ロッパを起源とする 近代?育制度 科?技術 、?州資本の導入などについても具?的に述べられている。これを受けて、1856年、イギリス資本によって カモンド家 が支配するオスマン銀行が設立された [11] 。?化をめざす改革に必要な財政支出を、自?の???展からではなく、西?諸?などからの外債導入にたよったことは、タンジマ?ト改革の限界を示すことではあったが、この勅令の?布とパリ?約における ?海 航行の自由化(ロシアの?占排除)を引き換えにオスマン帝?はヨ?ロッパの一員として認められるようになったのである [11] [19]

フアト?パシャ

こうして第二段階に入ったタンジマ?トは新法典、?育制度、土地法を中心に踏み?んだ改革が進められた [25] 。この時期の諸改革を主導したのは、同じ 1815年 生まれで、ともにレシト?パシャの庇護を受けたア?リ?パシャと フアト?パシャ (メフメト?フアト?パシャ)であった [19] [注? 6]

1858年 制定の新 刑法 1861年 制定の新 商法 はともにシャリ?アとヨ?ロッパ近代法の折衷を模索したものであり、一般的にイスラ?ムの法?系においても時代の?遷によって?更の生じうる ?定法 的要素をもつ部分は近代ヨ?ロッパ法の借用が多かったのに?し、宗?的規範にかかわる部分は?統的な要素が色濃くのこされた [19] 。?育分野では、 1859年 の文官養成校( ミュルキエ トルコ語版 )、 1868年 ガラタサライ?リセ 英語版 がそれぞれ重要である [19] 。これらの ?校 では、外?語としては フランス語 、?語としての トルコ語 が重視され、入?は 民族 宗? によって差別されず、 世俗 的な?育が施されたことから、ヨ?ロッパ的 ?養 をもち、世界市民的な考えをもった官僚層?指導者層がここから育っていった [19] [25] 。1858年の土地法は、??の ?有地 原則を改め、その後の一連の改訂プロセスを?て近代的な私的 土地所有? 確立の第一?になったと評?される [25] [27]

ミドハト憲法と第一議? [ 編集 ]

ミドハト?パシャ
ミドハト憲法 (1876)

1869年 にフアト?パシャ、 1871年 にア?リ?パシャがあいついで?すると、改革の流れはふたたび?るようになった [27] [注? 7] 。しかし、上述のようなシャリ?アとヨ?ロッパ近代法を均衡させるための努力は??し、 1868年 、法律案の起草をおもな任務とする機?として、フランスの コンセイユ?デタ Conseil d'Etat 、フランス?務院)を手本に ダヌシュタイ 英語版 Danı?tay )が設立された [3] 1870年 に着手され、 1876年 に完成した『 メジェッレ 英語版 』( 民法典 )はその結?であり、近代法の一部としてのシャリ?アの成文化の端?となった [19] [29] [30] 。その編纂には司法相 アフメト?ジェヴデト?パシャ 英語版 らがたずさわった [19] [29]

しかし、相次ぐ??の遂行と「上からの改革」はヨ?ロッパ列?からの多額の 借款 を必要とし、さらに貿易?大によってオスマン??そのものが西?諸?への原材料供給源としてのそれに?質したため、 農業 モノカルチャ? 化が進行して、オスマン帝?の半植民地化を促した [27] 。この結果、ヨ?ロッパ??の動向と農産品?穫量の影響を?く受けるようになり、 1875年 、西?金融恐慌と農産物の不作の影響を受けたオスマン帝?は外債の利子支?い不能を宣言して、事?上の 破産 をきたした [22] [27] [29] [31]

こうしてタンジマ?トは財政や??の面では?本的な改革をおこなうことができず、むしろ挫折に終わったことが露呈した [32] 1861年 よりスルタンの位置にあった アブデュルアズィズ の浪費と?制に?し、「 新オスマン人 英語版 」と呼ばれる若い知識人を中心に反?制運動が起こり、 1870年 頃からは、 都市 部では保守的な神?生までアブデュルアズィズ退位を求める デモ に?加するほどであった [33] 。アブデュルアズィズは、1876年 5月30日 、改革派の支持を背景にした ク?デタ? の結果、憲政樹立をめざす ミドハト?パシャ らによって?位された [33] 。かわって で開明派の ムラト5世 が?位したが、?位ののち幽閉され、同年9月に死去した。アブデュルアズィズは6月に自殺し、 8月31日 、新しいスルタンとして アブデュルハミト2世 が?位した [33] [34]

アブドュルハミト2世

アブデュルアズィズによって左遷させられていた ミドハト?パシャ は「新オスマン人」運動のリ?ダ?とみなされ、ムラト5世?位と同時に?家評議?議長に返り?き、アブデュルハミト2世?位後は新帝の勅令に基づいて設立された制憲委員?の委員長に就任した。ミドハト?パシャは反?制運動の指導者 ナムク?ケマル 英語版 らとともに憲法草案の作成に取りかかり、 12月17日 には大宰相に任じられた [33] 。しかし、スルタンとなったアブデュルハミト2世は責任?閣制など自身の帝?に制限を加えるような?項については反?し、その一方でスルタンが?家の安全を脅かすと判?された人物を追放?分にする?利をもつという?容の?文を?し入れることを主張した [33] 。これについては、ナムク?ケマルの反?があったにもかかわらず、憲法?布をいそぐミドハト?パシャはこれに妥協、アブデュルハミト2世の修正を組み入れて1876年 12月23日 、全119?からなる帝?初の憲法、 オスマン帝?憲法 (通?, ミドハト憲法)を公布した [32] [33] 。ミドハト?パシャは、第一次立憲制最初の大宰相となった。

憲法はオスマン帝?が西?型の 法治?家 であることを宣言し、帝?議?の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた [32] [33] 。この憲法は、 1875年 フランス共和?憲法 1831年 ベルギ? 憲法に倣い、さらに、イギリスの憲法も?照して制定された 自由主義 的な 立憲君主制 憲法であり、他のアジア諸?にさきがけて??開設を定めるなど?期的な?容をもつものであった [3] [33] 。翌 1877年 3月19日 には議?も招集された [33] 。しかし、議?が政府高官の汚職や特?的金融業者とスルタンとの癒着などを糾?しはじめると、アブデュルハミト2世は 1878年 2月14日 、憲法を停止して議?の閉鎖を命じ、以後、30年におよぶ史上名だたる?制政治を開始した [33]

タンジマ?トの結果と後世への影響 [ 編集 ]

オスマン帝?第一議?(1877)
イラストレイテッド?ロンドン?ニュ?ス

1877年 露土?? の敗北によって ギリシャ 以外のバルカン半島の諸?も?立し、帝?の勢力?はさらにせばめられてバルカンのごく一部と アナトリア アラブ 地域だけとなった。また、タンジマ?トの諸改革は、財政的には、帝?の ?外債務 の累積に拍車をかける結果となった [35]

タンジマ?トを始動させた頃、スルタンの アブデュルメジト1世 は、帝都イスタンブルの郊外に150もの 官?工場 をつくり、?落した ギルド ?社 ??や 協同組合 として組織化するよう努力し、相?の成果をあげたものの、莫大な?庫金を投下した割には?米の投機家や??の ユダヤ人 アルメニア人 などズィンミ?の業者だけが利益を得るような非?率性をともない、これにはムスリムの側からの不?も大きかった [35] 。ムスリムの反?は、外?資本排斥運動には向かわず、多くの場合、 イスラ?ム神秘主義 ??の影響を受け、帝??の少?民族への敵意や反?へと向かった [35] [注? 8] 1854年 に始まった外債依存は、まもなく イズミル - アイドゥン 間の ?道 敷設?を外?人に認可する結果となり、 殖産興業 に地道に取り組む官僚にはめぐまれず、また、スルタンも浪費癖の?いアブデュルアズィズなどは改革派官僚に?し必ずしも協力的とはいえなかった [11] 。外債は 利? をともなうところから、タンジマ?トの改革そのものが西洋諸?の野心を誘う危?もあった [11] 。クリミア??の?費も外債からまかなわれ、相次ぐ??の?費が外債への依存をさらに?めた [11] 。これが、 1881年 の「 オスマン債務管理局 」設立の原因のひとつとなった。それがまた、さらなる外?を招く結果となり、オスマン帝?はやがて「瀕死の病人」「ヨ?ロッパの重病人」とさえ呼ばれるようになった [11]

?年トルコ人革命
ミドハト憲法復活を祝う リトグラフ (1908年)

ミドハト憲法は、世界史的にみれば上記のような?期性を有していたが、露土??の敗北、 アブデュルハミト2世 による?制復活、さらに、?時の?情に合わない部分もあって 1878年 に停止を余儀なくされた [3] 。起草者 ミドハト?パシャ は追放され、議?も閉鎖を余儀なくされた [33] [注? 9] 。それは、首都を中心とする一握りのエリ?トの立憲主義運動と開明派政治家であるミドハト?パシャの卓越した政治力によってかろうじて?現されたものだったのである [38] 。タンジマ?ト全?を見渡しても、列?の外?を契機としており、「恩?」の名が示すように「上からの改革」としての限界をもつものであった [3] 。立憲派の力も、たとえば 自由民?運動 期の 日本 などと比べると非常に弱いものであった [38] 。しかし、分?化の傾向が?著な地域にあっては帝?の再統合を推進し、帝?の本?地であるアナトリアではア?ヤ?ンの自立?分離傾向を抑えることに?果があった [35] 。また、タンジマ?トの期間、出自や家柄には必ずしもこだわらず、能力本位の人材登用がなされ、有?な人物や新しい知識?技術をもつエリ?ト層を養成することが可能となった [39] [注? 10] 。さらに、短期間であれ、オスマン帝?の?政が?民によって審議されたことの意味は大きく、ミドハト憲法もまた 1908年 ?年トルコ人革命 の後、劇的な復活を果たしており、その影響は長く後世におよんだのである [3]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 「タンジマ?ト」のもともとの意味は、「再編成」「組織化」である [1]
  2. ^ タンジマ?ト期に、それまで唯一の?威を持っていたシャリ?ア法廷の外部に設置されたムスリムと非ムスリムとの間の民事?商事訴訟を取り扱う裁判所。
  3. ^ 1848年革命 によって、 ウィ?ン?制 は終焉を遂げ、ヨ?ロッパにおける被抑?民族の ナショナリズム が高揚し、その?相や成果は「諸?民の春」と?された。
  4. ^ オスマン帝?の借款は1854年以降、計17回におよんだ [21]
  5. ^ タンジマ?トは、改革勅令を機に前後に分けるのが一般的である。前期はある程度まで帝?政府の創意のもとに進められたのに?し、後期は列?の?制によるところが大きかったからである [23]
  6. ^ 山?昌之 は、レシト?パシャ、フアト?パシャ、ア?リ?パシャの3人を「タンズィマ?トの三傑」と呼んでいる [26]
  7. ^ ア?リ?パシャの死後、スルタンのアブデュルアズィズははばかることなく無?と?制に走り、恣意的な人事がまかり通るようになって、大宰相のポストも一時?くなった [28]
  8. ^ オスマン領?の深刻な民族問題には、19世紀をとおしての クレタ島 での ギリシャ人 への?迫や19世紀末からの20世紀まで間?なくつづいたアルメニア人に?する抑?や 虐殺 がある [36]
  9. ^ ミドハト?パシャが追放されたのは、アブデュルハミト2世に?する妥協としてその?入を容認した、?益を害する人物をスルタンの?限で?外追放にできるとした?項を利用してのことだった。これは、ミドハト?パシャが立憲派の力を過大に見積もった過信のせいだったともいわれている [37]
  10. ^ 改革を主導したひとり、大宰相ア?リ?パシャももともとイスタンブルの靴屋の息子である [40]

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 山?(1996)p.164
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 山?(1996)pp.163-165
  3. ^ a b c d e f g 小泉洋一「 トルコの政?分離に?する憲法?的考察 : ?家の非宗?性と宗?的中立性の?点から 」『甲南法?』第48?第4?、甲南大?法??、2008年3月、753-819頁、 doi : 10.14990/00000673 ISSN   04524179 NAID   110007119662  
  4. ^ 新井(2009)pp.42-43
  5. ^ 新井(2009)pp.86-88
  6. ^ a b c d 永田(2002)pp.287-289
  7. ^ 永田(2002)pp.294-296
  8. ^ a b c d e f g h i j 永田(2002)pp.289-292
  9. ^ 新井(2009)p.68
  10. ^ R. Kasaba, The Ottoman Empire and the World Economy , State University of New York Press, 1988, pp.75-76, 78-80.
  11. ^ a b c d e f g h i 山?(1996)pp.176-179
  12. ^ 永田(2002)pp.308-314
  13. ^ a b c d e f g h i j k l 永田(2002)pp.281-284
  14. ^ 新井(2009)pp.31-41
  15. ^ a b c d e f g h i j 永田(2002)pp.284-289
  16. ^ a b 新井(2009)pp.42-49
  17. ^ a b c d e 永田(2002)pp.292-293
  18. ^ a b c 山?(1996)pp.166-168
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 永田(2002)pp.296-299
  20. ^ a b 山?(1996)pp.175-176
  21. ^ 永田(2002)pp.296-299
  22. ^ a b c 新井(2009)pp.77-85
  23. ^ 山?(1996)p.176
  24. ^ 新井(2001)pp.52-56
  25. ^ a b c 新井(2009)pp.86-88
  26. ^ 山?(1996)pp.178-179
  27. ^ a b c d 永田(2002)pp.299-302
  28. ^ 山?(1996)p.201
  29. ^ a b c 永田(2002)付?pp.032-033
  30. ^ 堀井 (2016) pp.432-433
  31. ^ 新井(2009)pp.134-138
  32. ^ a b c 新井(2009)pp.172-175
  33. ^ a b c d e f g h i j k 永田(2002)pp.302-305
  34. ^ 山?(1996)pp.210-212
  35. ^ a b c d 山?(1996)pp.168-170
  36. ^ 山?(1996)p.169
  37. ^ 山?(1996)pp.212-213
  38. ^ a b 山?(1996)p.216
  39. ^ 山?(1996)pp.203-205
  40. ^ 山?(1996)p.204

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?連項目 [ 編集 ]