アルマダの海?
(アルマダのかいせん)、
アルマダ??
(アルマダせんそう、
英語
:
Battle of Armada, Armada Wars
)は、
スペイン無敵艦隊
(
英語
:
Spanish Armada
、
スペイン語
:
Grande y Felicisima Armada
)の
イングランド
侵攻において、
1588年
7月から8月(
??
7月)に
英?海?
で行われた
諸海?
の??である。
?く知られる「
無敵艦隊
」の名?はスペイン語
Armada Invencible
の?で、スペイン海軍のC?F?ドゥロ大佐が1884年に著した論文
[8]
の題名が原典とされている
[注? 2]
。イングランド側視点での?史書では、“the Invincible Armada”の名?が揶揄的な表現として稀に用いられている
[9]
。本?スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(
Grande y Felicisima Armada
)と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈では
Spanish Armada
、
the Armada
などと呼ぶ
[注? 3]
。
なお、??での?が異なる
[注? 4]
ため、記?上の日付も異なっている。日付はスペイン側のグレゴリオ?とイングランド側の??(
ユリウス?
)を?記する。
?要
[
編集
]
?時、スペインとイングランドとの?係は宗?問題やイングランドの
ネ?デルラント
への介入によって?化しており、また、イングランド
私掠船
によるスペイン船や
入植地
に?する
海賊
行?も
スペイン王フェリペ2世
が侵攻を決意した要因のひとつにあげられる。
1588年
5月、
メディナ?シドニア公
率いる約130隻のスペイン無敵艦隊が
リスボン
を出?した。無敵艦隊は7月末から8月初め(??7月)に行われた一連の海?のあとのグラヴリンヌ沖海?でイングランド艦隊に敗北して作??行を?念し、
北海
方向へ退避した。無敵艦隊は
スコットランド
と
アイルランド
を迂回して??を目指すも、?天候によって大損害を被ってしまい、結局スペイン本?に?還できたのは約半?の67隻だった。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった
[10]
。ただし、この?いのあとイングランドは反攻作?に失敗して??の主導?を失い、一方、スペインは艦隊を再建して
制海?
を守り通しており、??は
1604年
にスペイン側有利で終わっている。
イギリス
(=イングランド)が海洋覇??家となるのにはまだ長い年月を必要とした
[11]
[12]
[13]
。
背景
[
編集
]
スペイン王
フェリペ2世
は、妻のイングランド女王
メアリ?1世
が
1558年
に死去するまで
イングランドの共同王
であった。敬虔な
カトリック
である彼は、
プロテスタント
である義妹
エリザベス1世
を
異端者
であり、違法なイングランド統治者であるとみなしていた。フェリペはエリザベスを打倒して、カトリックであり、かつイングランド
王位?承?者
である前スコットランド女王
メアリ??スチュア?ト
を王位につけようとする陰謀を支持していたが、メアリ?を幽閉していたエリザベスが
1587年
に彼女を?刑したために阻止されてしまった
[14]
。
また、スペインが植民地から自?に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの
私掠船
に襲われたため、フェリペはエリザベスに
海賊
行?を取り締まるよう申し入れたが、エリザベスは聞き入れるどころか海賊行?に加?していたことも、英西?係を?化させていた
[15]
。
加えて、プロテスタント信仰の?大を策するエリザベスがスペインに敵?する
オランダ人の反?
を支援して軍事介入し、1585年以降、??は?質的な???態になっていた。これらの報復のために、フェリペ2世はプロテスタント?制を打倒すべくイングランド侵攻を計?した。そしてこれによって、イングランドによる
ネ?デルラント連邦共和?
[注? 5]
への支援を終わらせ、
新世界
のスペイン交易路と入植地への攻?
[16]
を?つことができる。フェリペ2世は
?皇シクストゥス5世
からの支持を受けており、?皇は侵攻を
十字軍
として扱い、スペイン軍が上陸した際の特別補助金を約束している
[17]
。
1583年
、サンタ?クルス侯
アルバロ?デ?バサン
(
レパントの海?
の英雄)が艦隊計?を?案した
[18]
。史料が?っている1586年の計?では船舶796隻を動員し、予算?額は15億2,642万5,898
マラベディ?
におよび
[19]
、レパント海?の予算の?に約7倍となった。あまりの高額であり、代案として艦隊規模を縮小し、上陸部隊はスペイン領ネ?デルラント?督
パルマ公
アレッサンドロ?ファルネ?ゼ
の陸軍を活用することになった
[20]
。
1587年
4月29日
から
30日
(??4月19日 - 20日)、
フランシス?ドレ?ク
率いるイングランド艦隊が準備妨害のため
カディス
港に?襲し、スペイン船37 - 24隻が破?または捕獲された
[21]
。その後、ドレ?クはポルトガル沿岸部を襲?して100隻以上を破?または拿捕し、この際に捕獲した大量の
樽材
を?却している
[22]
。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗?な板を使用することになり、このあとの遠征で?料水?食料品へ甚大な被害を?えることになる
[23]
[注? 6]
。これにより、艦隊計?を大幅に?更する。(「
スペイン王の?焦がし
」事件
(
Singeing the King of Spain's Beard
)
)
スペイン艦隊は波の?やかな
地中海
での??が主で、特に
レパントの海?
では
ガレ?船
により華?しい?果を?めており、
帆船
への移行がなかなか進まなかった。ドレ?クのカディス港襲?の際に新型帆船に?するガレ?船の無力さが露呈したこともあり
[24]
、?初計?のガレ?船40隻を4隻へと大幅に減らし
[25]
、また機動性と攻?性を重視し、漕ぎ手の上層部に大砲を配置した帆船とガレ?船の混合型
ガレアス船
を導入するが、波の荒い英?海?ではかえって安定性を得ることができず、??では成功しなかった
[26]
。
さらにスペイン軍の大砲の?を2倍とし
[27]
、??で敵船の動きを止めて??の
接舷斬り?み?法
に持ち?むための、重量の大きい砲?を放つ、威力は?いが短射程の
カノン砲
や
全カルバリン砲
が多用されていた
[28]
[29]
。また、接舷切り?み直前の接近?で人員殺傷を狙うため、
ペリエ?ル砲
以下の?砲が搭載砲約2,500門の3分の2を占めていた
[30]
。この多?の?砲を搭載するため、主力??艦である
ガレオン船
には大規模な船首??船尾?が設置されていたが、トップヘビ?で船?を不安定にし、航洋性と備砲の命中率の低下の原因となった
[31]
。?して、イングランド軍の大砲の95パ?セントが、?量?を放つ長射程の半カルバリン砲であった
[29]
。短射程?砲を積まないのに合わせて大きな船首尾?は?止され、航洋性や運動性の優れた低重心設計の船?となっていた
[31]
。半カルバリン砲が長射程といっても長距離では命中率が低く、命中しても?量?では船?に致命傷にはならないため、?初から接近?を志向したスペイン艦隊の?術理論の方が先進的との評?もある
[30]
。スペイン側もこのような?軍の?備の違いを把握しており、フェリペ2世は、イングランド艦隊が長距離砲?を試みるだろうから、スペイン艦隊は接近して敵艦を鉤綱で拘束して攻?するよう艦隊出?前に指示していた。ただ、イングランド側の方が砲甲板の設計や砲員の技量に優れたこともあり、イングランド側が砲?で終始主導?を握る展開へとつながった
[30]
。
?初1588年1月出?の予定だったが、フェリペ2世の病?のため出?は延期になった。さらに
2月9日
、艦隊司令官だったサンタ?クルス侯アルバロ?デ?バサンが急逝する。代わりにフェリペ2世は
メディナ=シドニア公
アロンソ?ペレス?デ?グスマン
を?司令官に任命した。メディナ=シドニア公は?厚な人物で優れた行政官でもあったが、海?の??は皆無だった
[32]
[33]
[34]
。?初、彼は就任を固?して別人を推薦したが、?司令官には高位の名門出身者がふさわしいと考えたフェリペ2世はこれを認めなかった
[35]
。代わりにフェリペ2世は、有能な海軍軍人である
ディエゴ?フロ?レス?デ?ヴァルデス
(
es
)を補佐役として任命した
[36]
。
無敵艦隊の出?
[
編集
]
遠征が?行される前に、
ロ?マ?皇シクストゥス5世
はフェリペ2世に
十字軍?
の??を許し、彼の兵士たちに
贖宥?
を?えた。無敵艦隊の旗への祝福は、
1571年
の
レパントの海?
での儀式と同?の方法で執り行われた。
1588年
5月9日
(??4月29日)、無敵艦隊は
リスボン港
(ポルトガルはスペインに?合されていた)を出港して英?海?へ向かった
[37]
[38]
。艦隊は船130隻、水夫8,000人、兵士1万8,000人からなり、?鍮砲1,500門、?製砲(iron guns)1,000門を?備していた。全艦隊が出港するのに2日を要している。艦隊は正規の軍艦を28隻含んでいた(
ガレオン船
20隻、
ガレ?船
4隻、ナポリ製
ガレアス船
4隻)。そのほかの大型船のほとんどは武?
キャラック船
と
ハルク船
で、さらに小型船34隻が?伴していた。スペイン領ネ?デルラントでは兵3万
[39]
が無敵艦隊の到着を待ち、ロンドン近くの地域に兵を上陸させる艀を軍艦が護衛する計?になっていた。この作?には合計5万5,000人の兵士が動員されており、これは?時においては膨大な規模の軍隊だった。
迎え?つイングランド艦隊は、王室所?船34隻(1,100トンのトライアンフ?が最大で
[31]
、19隻が100 - 300トンのガレオン船
[40]
)と臨時にかき集めた163隻の武?商船(30隻が砲42門の200 - 400トンで、そのうちの12隻が
チャ?ルズ?ハワ?ド?エフィンガム卿
、
ジョン?ホ?キンス
、
フランシス?ドレ?ク
所有の
私掠船
[1]
)で編成されていた。
無敵艦隊が出帆した日、エリザベスの駐ネ?デルラント大使
バレンタイン?デ?ル
(
en
)
がパルマ公の代理人たちと?見して和平交?を行い、一方でドレ?クら軍人たちは無敵艦隊に?する先制攻?を計?し、
ビスケ??
まで南下したが、?い南風を受けて引き返している
[41]
[42]
。
7月26日
(??7月16日)に交?は打ち切られ、エリザベスの艦隊は
プリマス
で迎?準備に入り(補給は不足していたが)、スペイン軍の動向の知らせを待った。イングランド艦隊は200隻?130隻と?では勝っていたが
[43]
、スペイン軍はイングランド軍に砲?で勝り、その火力は50パ?セント以上高かった
[44]
。ただ、スペイン艦の火砲の3分の2は人員殺傷用の短射程小型砲で、中型砲以上の火砲?では逆にイングランド側が2倍の優勢だった
[30]
。
無敵艦隊の航海は?天候のために?れ、ガレ?船4隻とガレオン船1隻が艦隊から?落しており、
コ?ンウォ?ル
の
セント?マイケル山
から視認されたのは
7月29日
(??7月19日)のことだった。この知らせは南部海岸沿いに構築された
狼煙連絡網
(
en
)
[45]
によってロンドンへ?えられた。その夕刻、プリマス港のイングランド艦隊は上げ潮に囚われていた。スペイン軍は
作??議
(
en
)
を開き、防御側の船は錨を降ろして無力化しており、潮に?じて港を襲?して、ここからイングランド本土を攻?することが提案された。しかしメディナ=シドニア公は、そのような攻?はフェリペ2世から明白に禁止されていると却下し
[37]
、東方へ進み
ワイト島
へ行くことを選んだ。それからほどなく、チャ?ルズ?ハワ?ド?エフィンガム卿を司令官、ドレ?クを副司令官
(
en
)
とする55隻のイングランド艦隊が、無敵艦隊と?するべくプリマス港を出港した。ハワ?ドはドレ?クの????を認めて?限の一部を?っており、ジョン?ホ?キンスが後衛司令官
(
en
)
となった。
英?海?での諸海?
[
編集
]
前哨?
[
編集
]
7月31日
(??7月21日)の夜、イングランド艦隊は攻?を?行するために無敵艦隊の風上に針路を?えて、有利な位置を占めた。夜明けとともにイングランド艦隊が無敵艦隊の右翼後方から接近し、砲?を加えた。その後、イングランド艦隊は左翼後方のビスケ??船隊へ攻?を加えた。船隊司令
リカルデ提督
(
es
)の?艦サン?ファン?(
San Juan
)
[注? 7]
とエル?グラングリン?(
El Gran Grin
)の2隻がイングランド艦隊の攻?の矢面に立たされた
[46]
。2時間ほどの?方決定的な打?を?えられない砲?の?酬ののちに、メディナ=シドニア公の援軍が?けつけたためハワ?ドは後退を命じた
[47]
。(
プリマス沖海?
)
??後、スペインのガレオン船サン?サルバドル?(
San Salvador
)が爆?事故を起こして炎上し、?いてアンダルシア船隊司令ペドロ?デ?ヴァルデスの?艦ヌエストラ?セニヨ?ラ?デル?ロサリオ?(
Nuestra Senora del Rosario
)が衝突事故を起こして行動不能に?り、救出はかなわず、メディナ=シドニア公はやむなく?船を遺棄した
[48]
。サン?サルバドル?は主計?監と金庫を載せた?計艦であったため、その放棄はスペイン側の士?を甚だしく低下させた
[49]
。
その日の夜、イングランド艦隊は敵を追尾すべく出港した。ドレ?クがランタンを?してイングランド艦隊を導いていたが、正?不明の船影を見た彼が、突然明かりを消して?け出す事件が起こった。このため、取り?された艦隊は散り散りになり、夜明けまで混??態に?ってしまった。イングランド艦隊が再集結するまでに丸1日を要している
[50]
。一方、艦隊を?け出したドレ?クは漂流していたロサリオ?と遭遇し、ヴァルデス提督を降伏させ、船を拿捕している。ドレ?クをライバル視する
マ?ティン?フロビッシャ?
は、艦隊全?を危?に?らせた明らかな軍紀違反行?を非難したが、多くの船?りたちはドレ?クを賞?した
[51]
[52]
。また、サン?サルバドル?もイングランドに拿捕されている。
それから、イングランド船は優勢な速度と機動性を生かし、丸1日かけてスペイン船に追いつくべく帆走した。
8月2日
(??7月23日)、イングランド艦隊は逆風にもかかわらず果敢に攻?を敢行した。ハワ?ドの本隊と無敵艦隊が激しい砲?を交わすなか、北方へ突出したフロビッシャ?の船隊と
聖ヨハネ騎士?
の騎士ウ?ゴ?デ?モンカ?ダ率いる
ガレアス船
隊
[注? 8]
とが交?し、フロビッシャ?は巧みな操船でガレアス船を?弄して大損害を?え、ガレアス船は帆船に敵わないことを?明した
[53]
。ハワ?ドは苦?したが、午後になって風向きが有利に?わるのを待っていたドレ?クが??し、イングランド艦隊は逆襲に?じた。激しい砲?が交わされたがスペイン船の砲?は?かず、イングランド船の長射程だが?量のカルバリン砲は有?な打?を?えることができなかった
[54]
[55]
。(
ポ?トランド沖海?
)
東に移動した無敵艦隊は、
ソレント海?
の保護水域のワイト島において一時的な基地を構築する機?を得て、パルマ公の軍隊からの知らせを待った。
8月5日
(??7月25日)、イングランド艦隊はフロビッシャ?、ハワ?ド、ホ?キンスそしてドレ?クの4つの集?に分かれて、全面的な攻?を仕掛けた。?いはポ?トランド沖と類似した?緯をたどり
[56]
、まずフロビッシャ?、ハワ?ドが敵と砲?を交わし、ホ?キンスとドレ?クは風向きが有利になるのを待ってから側面攻?を仕掛けている。メディナ=シドニア公は潮流に流されて
砂州
へ追いこまれるのを避けるべく、外洋に出るよう命じた
[57]
。この?いでもポ?トランド沖海?と同?、?方沈んだ船はなく、スペイン側の砲?は?かず、イングランド側の打?力が不足していることが明らかになった
[57]
。ワイト島から退避した無敵艦隊の近くに安全な港はなく、パルマ公の軍隊の準備に?わりなくカレ?へ向かうことを?いられた。(
ワイト島沖海?
)
カレ?沖海?
[
編集
]
8月7日
(??7月28日)、無敵艦隊は密集態勢の半月陣形で
カレ?
沖に投錨し、そこから遠くはない
ダンケルク
にはパルマ公の陸軍
[注? 9]
が
フランドル
諸港から集められた艀の船?を用意して、艦隊に合流すべく待機しているはずだった。連絡は予想していたよりもはるかに困難であり、ここに至ってメディナ=シドニア公は陸軍は未だに準備がまったくできていないと知らされ、投錨して艦隊を待機させざるをえなかった
[注? 10]
。
一方、ダンケルクはオランダ人反?軍の
ユスティヌス?ファン?ナッサウ
(
en
)
提督率いる30隻の
快速船
(
en
)
によって
海上封鎖
されていた。艦隊の備蓄は減っており、メディナ=シドニア公はパルマ公へ??と食料の補給のために?量の快速船(
petaches
)を送るよう要請したが、パルマ公はこの要請に?えることができなかった
[58]
。パルマ公はこの作?において消極的な態度が目立っており、?初からイングランド上陸は不可能だと考え、作?を中止させるために意?的にサボタ?ジュを行っていたとする見方もある
[59]
[60]
。
ダンケルク近くは??が多いため先に進めず
[61]
(これは遠征のおもな障害であるとすでに認識されていた)、夜が更けるとスペイン人たちは自らの脆弱さに?付かされる。メディナ=シドニア公は、スペイン艦隊が風下側に停泊していることから、
火船
攻?を受ける危?があると考えた。そこで、小型船やボ?トを前列に?べて阻止線を築くとともに、各艦に錨を捨てての緊急出港に備えるよう命じた
[62]
。
8月7日
(??7月28日)深夜、イングランド艦隊は150 - 200トン級軍艦に
樹脂
や
硫?
、火?そして
タ?ル
を?載した火船8隻を風下に位置し、密接して投錨している無敵艦隊へ向けて送り?んだ。スペイン人はこれらの異常に大きな火船は
アントウェルペン包?
(
en
)
の際にオランダ人が使用し、破?的な?果をもたらした大量の火?を?載した特殊な火船「鉛の機械」(マクィナス?デ?ミナス)
(
en
)
[63]
であると信じて恐怖した
[64]
。2隻は途中で捕らえられて曳航されたが、?りは艦隊に突っ?んだ。メディナ=シドニア公の
旗艦
とおもな軍艦は位置を保ったが、?りの船は錨を切って混?しつつ分散してしまった
[65]
。ナポリ船隊司令ウ?ゴ?デ?モンカ?ダの?るガレアス船サンロレンソ(
San Lorenzo
)は混?の中で事故を起こして行動不能に?り、カレ?に座礁してしまい、ハワ?ドの
ア?クロイヤル?
(
en
)
がこれを攻?して?組員および漕ぎ手奴隷との死?の後に捕獲され、その?骸は最終的にイングランドとフランスが入手した
[66]
。
炎上したスペイン船はなかったが、半月陣形は崩され、そこへイングランド艦隊が??を仕掛けるべく迫っていた。メディナ=シドニア公は?砲を鳴らさせてスペイン艦隊にカレ?への再集結を命じたが、多くの艦は錨をすべて失っており停止することができず、海岸線に沿って北東へ流されていくばかりだった。メディナ=シドニア公は、やむなく旗艦サン?マルチ?ニョ?(
Sao Martinho
)を?進させて部下の艦を追い、もっと先で艦隊を再編成することにした
[62]
。
グラヴリンヌ沖海?
[
編集
]
?時の
グラヴリンヌ
(
en
)
は
スペイン領ネ?デルラント
に?する
フランドル
の一部であり、フランス?境に近く、イングランドにもっとも近いスペイン領であった。メディナ=シドニア公はここで艦隊の再編を?り、これまで不手際を繰り返してきた彼だが、勇敢にも旗艦サン?マルチ?ニョ?をもって敵に立ち塞がる
[60]
[67]
。メディナ?シドニア公は、旗艦サン?マルチ?ニョ?を艦隊最後尾に置いて部下を援護させ、その間にリカルデ提督のサンタ?アナ?を中心に艦隊を再編しようと試みた。
英?海?での小競り合いによって、イングランド人は無敵艦隊の?力と弱点を?び、スペイン船のオ?ク材の船?を貫通するには近距離に近づく必要があると結論づけていた。一方、スペイン軍の大砲は?い配置間隔と甲板に?容できる砲?に限りがあるため容易に再??ができず、このことをドレ?クは捕獲したスペイン船ロザリオを調査した際に知った
[68]
。無敵艦隊は水兵の倍の?兵を?船させており、
移?攻?
で勝敗を決しようとするスペインの?法が彼らの弱点となった
[40]
。この?法は
レパントの海?
や
1582年
の
ポンタ?デルガダの海?
(
en
)
では有?だったが、イングランド人は敵の?力を知り、距離を取って白兵?を避ける?法をとっていた。
サン?マルチ?ニョ?には、まずドレ?クの船隊が攻?したが、理由は不明ながら短い砲?を交わしただけで彼は針路を?えて去り、代わってフロ?ビシャ?の船隊が無敵艦隊の旗艦に襲いかかった
[69]
。サン?マルチ?ニョ?は集中砲火を浴びて大きく損傷するが、やがてほかのスペイン船も救援に?けつけて無敵艦隊は陣形を再編しつつ??に入る
[70]
。
イングランド艦隊は優勢な機動性を用いて、無敵艦隊に射程距離外から?砲させて砲?を消費させ、スペイン船の砲?が?きたところでイングランド艦隊は接近して繰り返し?砲して、敵船に損害を?えた
[71]
[72]
。また、これによって彼らは風上を維持することができ、傾いた無敵艦隊の船?は喫水線下を敵の攻?にさらすことになった。午後4時ごろに無敵艦隊の陣形は崩れ始めてフランドル方面へ敗走したが、午後6時ごろに激しい土砂降りの嵐となり、イングランド艦隊は攻?を取り止めざるを得なかった
[73]
。
スペインのガレオン船サン?マテオ?(
San Mateo
)とサン?フェリペ?(
San Felipe
)は沈みかけた?態で漂流し、浜に座礁してオランダ人に捕獲された
[74]
。ガレアス?隊旗艦のサン?ロレンソ?も座礁して拿捕され、?隊司令官のモンカ?ダ提督は?死した
[62]
。さらにキャラック船1隻が
ブランケンベルヘ
近郊に座礁している。その他のスペイン船の多くもひどく損害を受けており、特に??のはじめにイングランド船の集?からの激しい攻?の矢面に立ったサン?マルチ?ニョ?をはじめとするスペインとポルトガルのアトランティック級ガレオン船の損傷は激しかった。一連の海?によるスペイン船の損失は史料によって異動があり確定的でないが、9 - 11隻程度が喪失したと考えられる
[5]
[6]
。砲?でスペイン艦3隻が沈?、2隻が航行不能の大損害を受けたとする?もあり、事?であれば?時の低威力の艦砲によるものとしては大きな成果といえる。
パルマ公の陸軍と合流する計?は挫かれ、イングランド人は休息する余裕を得た。しかし、無敵艦隊の存在は依然としてイングランドにとっての大きな脅威であった。
ティルベリ?演?
[
編集
]
グラヴリンヌ沖海?の翌日、風は南西方向へ向きを?え
[75]
、メディナ=シドニア公は艦隊をフランス沿岸部から動かすことができた。イングランド艦隊は??がほとんど?きていたにもかかわらず、艦隊が再びパルマ公の護衛任務に?ることを阻止すべく追?した。
8月12日
(??8月2日)、ハワ?ドはスコットランドの
フォ?ス?
で追?中止を命じた。この時点で、スペイン兵は疲?と?きに苦しめられており、メディナ=シドニア公にはスペイン本?へ?還する針路をとる以外の選?肢はなくなっており、それは非常に危?な航路だった。
イングランド人は依然としてネ?デルラントからの侵略の脅威を?視しておらず、
レスタ?伯
ロバ?ト?ダドリ?
は敵が
テムズ川河口
(
en
)
から遡上してロンドンへ攻め?まぬよう
エセックス州
ウェスト?ティルベリ?
(
en
)
を兵4,000で守っていた。
8月18日
(??8月8日)、エリザベス1世は兵を鼓舞すべくティルベリ?へ赴き、翌日、もっとも有名になる演?を行った。
我が愛する民よ、私は私の身を案じる者たちから忠告を受けて?た。謀反の恐れがあるから武器を持った群衆の前に出るのは?をつけよと。しかし、私は貴方たちに自信を持って言う。私は我が忠?かつ愛すべき民を疑って生きたくはない。そんな恐れは暴君にさせておきましょう。私は常に神のもとで私の最大の力と安全を我が臣下の忠?な心と善意に委ねてきたのです。それ故に、いま貴方たちが目にしているように、私は貴方たちの中にやって?たのです。
遊びでも?晴らしでもなく、?いの熱?の?っ只中に、貴方たちの中で生きそして死ぬためにです。たとえ塵となろうとも我が神、我が王?、我が民、我が名?そして我が血のために。
私はか弱く脆い肉?の女だ。だが、私は?王の心?と胃を持っている。それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨ?ロッパの諸侯が我が王?の境界を侵そうと望むなら、汚れた?蔑の念を持って迎えよう。不名?を蒙るよりも私は自ら?を持って立ち上がります。
私自らが指揮官、審判官となり、貴方たち全員の?場での勇?に報いましょう。私は?に報酬と??に値する貴方たちの意??みを知っています。私は王の言葉において約束します、貴方たちは正しく報われます。
[76]
スペインへの?還
[
編集
]
1588年8月下旬から9月、無敵艦隊は
大西洋
のスコットランド、アイルランド周?海域に入った。船は長い航海による損耗を見せ始めており、何隻かは太綱で船?を束ねていた。食料と水は不足しており、軍馬は海に投げ?まれた。艦隊はスコットランドとアイルランドの西側の比較的安全な外洋の航海を意?し、この判?自?は正しかったが
[77]
、多くの船が艦隊に追?できずに?落してしまった。また、リカルデ提督をはじめとする一部の船が、水と食料の不足を理由にカトリックの多いアイルランドへ向かっている
[78]
。
一般的なイメ?ジとは異なり、?際には?路の航海中は嵐も少なくメディナ=シドニア公のサン?マルチ?ニョ?以下本隊は比較的順調に??できたが
[79]
、分離してアイルランドへ向かった集?や?落した船には悲?な運命が待っていた。無敵艦隊の航海士たちはアイルランド周?の海岸線についてまったく無知であり
[79]
、多くの船がここで難破して沈?し、上陸した?組員たちも土着民やイングランド兵によって虐殺された
[80]
。
溺死や餓死、そして虐殺された?牲者は??によるものよりもはるかに多く、スペイン無敵艦隊の半?だけがスペインに?還できた
[81]
。無敵艦隊のアイルランド沖航海はスペイン水兵への?虐行?やサバイバルの記?に溢れている
[82]
。一部の生き?りはアイルランド人に匿われたが、わずかな?のスペイン人が生き?ってアイルランド反?軍に身を投じ、本?に?還できた者はさらに少なかった。
9月22日
(??9月12日)にサン?マルチ?ニョ?がスペイン北部サンタデル港に?還し、ほかの船も?日のうちに到着した
[83]
。最終的に67隻と約1万人が生き?ったが、?還船の半?は再使用不能な?態で、入港した途端に沈み始めた船まであった
[83]
[84]
。食料と水が?きた船に閉じ?められていたため、?組員の多くが病?によって瀕死の?態だった。?還兵の多くがスペイン本土や港?に停泊した病院船の中で病死している。遠征の結果を聞かされたフェリペ2世は「私は艦隊を人間に?して送ったのであり、神の風や波浪に?してではない」と語ったと?えられる
[85]
。ひどく失望してはいたが彼はメディナ=シドニア公を許し、領地へ?した
[86]
。高位指揮官ではペドロ?デ?ヴァルデスは捕虜になり、モンカ?ダは?死し、副司令官リカルデとオケンドは??後ほどなく病死した。?謀本部長ディエゴ?フロ?レス?デ?ヴァルデスは生還できたが罪に問われ投獄されている
[87]
。
?後
[
編集
]
イングランドの損害は死者50から100、負傷者400に留まり、沈?した船はなかったが、イングランド艦隊はグラヴリンヌ沖海?で無敵艦隊の再集結を阻止しえなかったので、なお艦隊に兵を配置し?ける必要があった。このため、艦隊に疫病が?生し、
チフス
や
赤痢
、飢餓によって?千人の水夫や兵士が死亡している
[3]
。政府の資金不足により、彼らは給?を支?われることなく解隊されており、ハワ?ドが?利品や私財を使って?組員を救?したが到底足りず
[88]
、イングランドの守護者たちが無給のまま何か月も放置されたことで、士?を低下させる論?が引き起こされた。これはスペイン政府が艦隊の生き?りに援助を?えたこととは?照的であった
[89]
。
この海?の結果は、それまでは
衝角突?
や接舷斬り?み??の補助でしかなかった砲手の地位の向上という、海上??上の?革を明示している。グラヴリンヌ沖海?は一部の軍事史家から、??の海軍技術や兵?の差などといった海軍バランスのイングランドへの移行を反映していると考えられており
[90]
、これは次の世紀まで?いた。
?史?者ジェフリ??パ?カ?
は、「1588年におけるエリザベス海軍の主力艦は、全世界でもっとも?力な艦隊を構成していた」と語っている
[91]
。しかし、アルマダの?いでの敗北以降、
スペイン海軍
もまた大規模な組織改革に着手しており、次の世紀においても本?海域や外洋航路の支配を維持し?けた。
イングランドでは?年にわたり?威が高揚し、エリザベス??は彼女の死後も長く生き?り、そして成長した。スペイン海軍の?退はヨ?ロッパ中のプロテスタントに勇?を?え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「
神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた
」(
He blew with His winds, and they were scattered
)という文言によく現れている。そのほかにも
ユリウス?カエサル
の言葉「
?た、見た、勝った
」(
Veni, vidi, vici
)をもじった「彼は?た、彼は見た、彼は逃げた」(
Venit, Vidit, Fugit
)を刻印した、より陽?なメダルもある。
しかし、イングランドの優位は翌
1589年
に?行されたポルトガルおよび
アゾレス諸島
遠征の失敗によって失われてしまった。ノリス=ドレ?クの遠征または
イングランド無敵艦隊
(
English Armada
)
と呼ばれる遠征は、
ポルトガル人
との連携に失敗して多大な損害を出して?還している。
スペインは艦隊を再建し、
1596年
以降にイングランド攻?を目指す4回の無敵艦隊を編成した。1596年10月に派遣された2回目の無敵艦隊は約100隻、1万2,000人の陣容でアイルランドを目指したが、?天候によって75隻3,000人を喪失して失敗した
[92]
。
1597年
10月に派遣された112隻からなる第3回無敵艦隊は、敵に?付かれずにイングランド本土に迫ったが、またも嵐に?き?まれて頓挫している
[93]
。
1599年
に編成された第4回無敵艦隊は、出港直前に作?を?更してオランダ艦隊を迎?すべくアゾレス諸島へ向かった
[94]
。最後の第5回無敵艦隊は、1601年春にアイルランドの反?軍を支援すべく派遣され、アイルランドに兵3,000を上陸させることに成功したが、その後の陸?に敗れて撤退している
[95]
。
外洋での海賊行?やネ?デルラントやフランスでのフェリペ2世の敵への?援は?けられたが、イングランドにはごくわずかの?質的な見返りしかもたらさなかった
[96]
。
英西??
は膠着?態に?り、フェリペ2世とエリザベス1世の?後の
1604年
にスペイン側に有利な?容の
ロンドン?約
(
en
)
が締結されて終結した。
スペインはその後もしばらく?州およびアメリカ大陸での覇??家であり?けており、イギリスがこれに代わる?力な海軍を擁する海洋覇??家になるにはなお長い?月が必要であった
[11]
[12]
[13]
。
その後もスペイン海軍は、泊地に停泊しているところを襲?されて大混?のうちに大打?を受けるというカレ?沖海?のパタ?ンを何度も繰り返している。
??船舶一?
[
編集
]
イングランドおよびネ?デルラント連合共和?
[
編集
]
王室直?船
船名
|
船長
|
トン?
|
砲?
|
船種
|
ア?クロイヤル
(
Ark Royal
)
|
チャ?ルズ?ハワ?ド
提督
(
en
)
|
800
|
50
|
ガレオン船
|
エリザベスボナベンチャ?
(Elizabeth Bonaventure)
|
ジョ?ジ?クリフォ?ド
|
600
|
?
|
ガレオン船
|
レインボ?(
Rainbow
)
|
ヘンリ??シ?モア卿
(
en
)
|
500
|
?
|
ガレオン船
|
ゴ?ルデンライオン(Golden Lion)
|
トマス?ハワ?ド卿
|
500
|
28
|
ガレオン船
|
ホワイトベア?(White Bear)
|
アレクサンダ??ギブソン
|
500
|
?
|
ガレオン船
|
ヴァンガ?ド(
Vanguard
)
|
ウィリアム?ウィンタ?
|
500
|
?
|
ガレオン船
|
リベンジ
(
Revenge
)
|
フランシス?ドレ?ク
卿
|
500
|
32
|
ガレオン船
|
エリザベス(Elizabeth)
|
ロバ?ト?サウスウェル
|
900
|
41
|
ガレオン船
|
ビクトリ?(Victory)
|
ジョン?ホ?キンス
提督
|
600
|
32
|
ガレオン船
|
アンテロ?プ(
Antelope
)
|
ヘンリ??パ?マ?
|
400
|
18
|
ガレオン船
|
トライアンフ(
Triumph
)
|
マ?ティン?フロビッシャ?
(
en
)
|
1100
|
44
|
ガレオン船
|
ドレッドノ?ト(
Dreadnought
)
|
ジョ?ジ?ビ?ストン
|
400
|
22
|
ガレオン船
|
メアリ??ロ?ズ(
Mary Rose
)
|
エドワ?ド?フェントン
(
en
)
|
600
|
28
|
ガレオン船
|
ノンパ?エイル(Nonpareil)
|
トマス?フェナ?
|
500
|
29
|
ガレオン船
|
ホ?プ(
Hope
)
|
ロバ?ト?クロ?ス
|
600
|
26
|
ガレオン船
|
ガレ??ボナボリア(Galley Bonavolia)
|
|
?
|
?
|
ガレオン船
|
スウィフトシュア(
Swiftsure
)
|
エドワ?ド?フェナ?
|
400
|
22
|
ガレオン船
|
スワロ?(Swallow)
|
リチャ?ド?ホ?キンス
(
en
)
|
360
|
16
|
ガレオン船
|
ラ?ク(Larke)
|
ア?サ??チチェスタ?
(
en
)
|
?
|
?
|
|
フォ?サイト(
Foresight
)
|
クリストファ??ベイカ?
|
300
|
24
|
ガレオン船
|
エイド(
Aid
)
|
ウィリアム?フェナ?
|
250
|
12
|
小型ガレオン船
|
ブル(Bull)
|
ジェレミ??タ?ナ?
|
200
|
16
|
小型ガレオン船
|
タイガ?(Tiger)
|
ジョン?ボストック
|
200
|
18
|
小型ガレオン船
|
トラモンタ?ナ(Tramontana)
|
ルカ?ワ?ド
|
150
|
?
|
小型ガレオン船
|
スカウト(Scout)
|
ヘンリ??アシュリ?
|
120
|
10
|
小型ガレオン船
|
アチェイツ(Achates)
|
グレゴリ??リッグス
|
100
|
6
|
小型ガレオン船
|
ジョ?ジ(George)
|
リチャ?ド?ホッジス
|
100
|
?
|
小型ガレオン船
|
チャ?ルズ(Charles)
|
ジョン?ロバ?ツ
|
70
|
?
|
小型帆船
|
マ?リン(Merlin)
|
ウォルタ??ガワ?
|
20
|
?
|
小型帆船
|
スパイ(Spy)
|
アンブロ?ズ?ワ?ド
|
50
|
?
|
小型帆船
|
サン(Sun)
|
リチャ?ド?バックリ?
|
40
|
?
|
小型帆船
|
シグニット(Cygnet)
|
ジョン?シェリフ
|
30
|
?
|
小型帆船
|
ブリガンディ?ン(Brigandine)
|
トマス?スコット
|
90
|
?
|
小型帆船
|
8月7 - 8日の火船攻?に使用された船:
- バ?ク?タルボット(Bark Talbot)
- ホ?プ(Hope)
- トマス(Thomas)
- バ?ク?ボンド(Bark Bond)
- ベア??ヨンジ(Bear Yonge)
- エリザベス(Elizabeth)
- パステル(Pastel)
- 病院船(Cure's Ship.)
スペイン無敵艦隊
[
編集
]
ポルトガル船隊
指揮官:メディナ=シドニア公アロンソ?ペレス?デ?グスマン
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
サン?マルチ?ニョ(
Sao Martinho
)
|
1000
|
48
|
船隊旗艦
|
サン?ジュァン(Sao Joao)
|
1050
|
50
|
船隊副提督艦
|
サン?マルコス(Sao Marcos)
|
790
|
33
|
船長ロペス?デ?メンド?サ:
9月10日、アイルランド沖で座礁
|
サン?フェリ?ペ(Sao Filipe)
|
800
|
40
|
船長
フランシスコ?デ?トレド
(
en
)
:
8月8日、
ニ?ウポ?ルト
と
オ?ステンデ
の間で放棄。8月9日、哨戒中のネ?デルラント連合に捕獲される。
|
サン?ルイス(Sao Luis)
|
830
|
38
|
船長アグスティン?メキシア
|
サン?マテウス(Sao Mateus)
|
750
|
34
|
船長ディエゴ?ピメンテル:
ニ?ウポ?ルトとオ?ストエンデの間で座礁。8月9日、哨戒中のネ?デルラント連合に捕獲される。
|
サンティア?ゴ(Santiago)
|
520
|
24
|
|
サン?フランシスコ(San Francesco)
|
961
|
52
|
船長ニッコロ?バルトリ:
フィレンツェ共和?
のガレオン船でポルトガル船隊に編入された。
|
サン?クリスト?ヴォン(Sao Cristovao)
|
352
|
20
|
|
サン?ベルナルド(Sao Bernardo)
|
352
|
21
|
|
アウグスタ(Augusta)
|
166
|
13
|
|
ジュ?リア(Julia)
|
166
|
14
|
|
カスティ?リア船隊
指揮官:ディエゴ?フロ?レス?デ?ヴァルデス
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
サン?クリスト?バル(San Cristobal)
|
700
|
36
|
船隊旗艦
|
サン?フアン?バウティスタ(San Juan Bautista)
|
750
|
24
|
船隊副提督艦
|
サン?ペドロ(San Pedro)
|
650
|
24
|
|
サン?ファン(San Juan)
|
530
|
24
|
|
サンティア?ゴ?エル?マヨ?ル(Santiago el Mayor)
|
530
|
24
|
|
サン?フェリペ?イ?サンティア?ゴ
(San Felipe y Santiago)
|
530
|
24
|
|
ラ?アスンション(La Asuncion)
|
530
|
24
|
|
ヌエストラ?セニヨ?ラ?デ?パリオ
(Nuestra Senora del Barrio)
|
530
|
24
|
|
サン?リンダ?イ?セレドン(San Linda y Celedon)
|
530
|
24
|
|
サンタ?アナ(Santa Ana)
|
250
|
24
|
|
ヌエストラ?セニヨ?ラ?デ?ベゴ?ニヤ
(Nuestra Senora de Begona)
|
530
|
24
|
|
ラ?トリニダ?ボヒタ?ル(La Trinidad Bogitar)
|
872
|
24
|
|
サンタ?カタリ?ナ(Santa Catalina)
|
882
|
24
|
|
サン?フアン?バウティスタ(San Juan Bautista)
|
700
|
24
|
|
ヌエストラ?セニヨ?ラ?デル?ロサリオ
(Nuestra Senora del Rosario)
|
75
|
24
|
|
サン?アント?ニオ?デ?パドゥア
(San Antonio de Padua)
|
75
|
12
|
|
ビスカヤ船隊
指揮官:ファン?マルティネス?デ?リカルデ及び
アレハンドロ?ゴメス?デ?セグラ
(
es
)
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
サンタ?アナ(Santa Ana)
|
768
|
30
|
船隊旗艦
|
エル?グラン?グリン(El Gran Grin)
|
1160
|
28
|
船隊副提督艦:
9月24日、アイルランドの
クレア島
(
en
)
に座礁
|
サンティア?ゴ(Santiago)
|
666
|
25
|
|
ラ?コンセプション?デ?スベルス
(La Concepcion de Zubelzu)
|
486
|
16
|
|
ラ?コンセプション?デ?フアン?デル?カ?ノ
(La Concepcion de Juan del Cano)
|
418
|
18
|
|
ラ?マグダレ?ナ(La Magdalena)
|
530
|
18
|
|
サン?ファン(San Juan)
|
350
|
21
|
|
ラ?マリ?ア?ファン(La Maria Juan)
|
665
|
24
|
8月8日、グラヴリンヌ北方で沈?
|
ラ?マヌエ?ラ(La Manuela)
|
520
|
12
|
|
サンタ?マリ?ア?デ?モンテマヨ?ル
(Santa Maria de Montemayor)
|
707
|
18
|
|
マリ?ア?デ?アギ?レ(Maria de Aguirre)
|
70
|
6
|
|
イザベラ(Isabela)
|
71
|
10
|
|
パタ?チェ?デ?ミゲル?スソ
(Patache de Miguel de Suso)
|
36
|
6
|
|
サン?エステバン(San Esteban)
|
96
|
6
|
|
ギブスコア船隊
指揮官:
ミゲル?デ?オケンド
(
en
)
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
サンタ?アナ(Santa Ana)
|
1200
|
47
|
船隊旗艦
|
サン?サルバド?ル(San Salvador)
|
958
|
25
|
7月31日爆?、8月1日捕獲。
|
サンタ?マリ?ア?デ?ラ?ロサ
(Santa Maria de la Rosa)
|
945
|
26
|
|
サン?エステバン(San Esteban)
|
736
|
26
|
|
サンタ?クルス(Santa Cruz)
|
680
|
16
|
|
サンタ?マルタ(Santa Marta)
|
548
|
20
|
|
サンタ?バルバラ(Santa Barbara)
|
525
|
12
|
|
ドンセ?リャ(Doncella)
|
500
|
16
|
|
サン?ブエナベントゥ?ラ(San Buenaventura)
|
379
|
21
|
|
ラ?マリ?ア?サン?フアン(La Maria San Juan)
|
291
|
12
|
|
パクタス?サン?ベルナ?ベ(Paxat San Bernabe)
|
69
|
9
|
|
パクタス?ラ?アスンション(Paxat la Asuncion)
|
60
|
9
|
|
ピナ?サ?ヌエストラ?セニヨ?ラ?デ?グアダル?ペ
(Pinaza Nuestra Senora de Guadalupe)
|
?
|
?
|
|
ピナ?サ?マグダレ?ナ
(Pinaza Magdalena)
|
?
|
?
|
|
アンダルシア船隊
指揮官:ペドロ?デ?バルデス
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
ヌエストラ?セニヨ?ラ?デル?ロサリオ
(Nuestra Senora del Rosario)
|
1150
|
46
|
船隊旗艦
8月1日捕獲。
|
サン?バルトロメ(San Barolome)
|
976
|
27
|
|
サン?フランシスコ(San Francisco)
|
915
|
21
|
|
ドゥケ?サ?サンタ?アナ(Duquesa Santa Ana)
|
900
|
23
|
|
ラ?コンセプション(La Concepcion)
|
862
|
20
|
|
サン?フアン?バウティスタ(San Juan Bautista)
|
810
|
31
|
|
サンタ?カタリ?ナ(Santa Catalina)
|
730
|
23
|
|
サンタ?マリ?ア?デ?フンカル
(Santa Maria de Juncal)
|
730
|
20
|
|
ラ?トリニダ(La Trinidad)
|
650
|
13
|
|
サン?ファン?デ?ガルガリン(San Juan de Gargarin)
|
569
|
16
|
|
エスピリトゥ?サント。(Espiritu Santo.)
|
?
|
?
|
|
レパントまたはイタリア船隊
指揮官:
マルティン?ベルテンド
(
es
)
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
ラ?レガツォ?ナ(La Regazona)
|
1249
|
30
|
船隊旗艦
|
ラ?トリニダ?バレンセ?ラ
(La Trinidad Valencera)
|
1100
|
42
|
|
ラ?トリニダ?デ?スカラ
(La Trinidad de Scala)
|
900
|
22
|
|
ラ?ジュリア?ナ(La Juliana)
|
86
|
32
|
|
ラ?ラ?タ?サンタ?マリア?エンコロナ?ダ
(La Rata Santa Maria Encoronada)
|
834
|
26
|
|
サン?ニコラス?プロダネ?リ(San Nicolas Prodaneli)
|
820
|
35
|
|
サン?ファン?デ?シチリア(San Juan de Sicila)
|
80
|
26
|
|
ラ?ラビア(La Lavia)
|
728
|
25
|
|
ラ?アヌンシア?ダ(La Anunciada)
|
703
|
24
|
|
サンタ?マリ?ア?デ?ビソン(Santa Maria de Vison)
|
666
|
18
|
|
ナポリ?ガレアス船隊
指揮官:ウ?ゴ?デ?モンカ?ダ
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
サン?ロレンソ(San Lorenzo)
|
?
|
50
|
船隊旗艦
|
スニガ(Zuniga)
|
?
|
50
|
|
ラ?ジロ?ナ(
La Girona
)
|
?
|
50
|
アイルランド北部
アントリム
で座礁。
|
ナポリタ?ナ(Napolitana)
|
?
|
50
|
|
ポルトガル?ガレ?船隊
指揮官:ディエゴ?メドラノ
船名
|
トン?
|
砲?
|
備考
|
カピタ?ナ(Capitana)
|
?
|
5
|
|
プリンセサ(Princesa)
|
?
|
5
|
|
ディアナ(Diana)
|
?
|
5
|
|
バザ?ナ(Bazana)
|
?
|
5
|
|
- 指揮官:ファン?ロペス?デ?メディナ:23隻
- 指揮官:
アント?ニオ?ウルタ?ド?デ?メンド?サ
(
en
)
:小型帆船22隻
※スペイン船のトン?はスペイン式計算によるもので、イングランド式計算よりも25%以上小さい
[100]
。
備考
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]
比喩としての「Armada」
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]
「Armada」の本?の意味は上記のスペイン艦隊であるが、?じて大艦隊の威容をあらわす比喩的な名?となった。比較的近年のものとしては、ハレ?彗星の1986年地球接近を?測した多?の探査機「
ハレ?艦隊
」は?文字?では「Halley Armada」と呼ばれている。他にも、フィクション中の艦隊(例えば
SF
や
架空?記
の艦隊など)にも用いられることがある
[注? 11]
。また、長い間無敗を?けていた
1998 FIFAワ?ルドカップ?ヨ?ロッパ予選
をはじめとする
サッカ?スペイン代表
の通?として日本のサッカ??誌や?連本が用いている
[注? 12]
。
テニスの俗語では「
スペイン無敵艦隊
」は
ラファエル?ナダル
、
フェルナンド?ベルダスコ
、
フェリシア?ノ?ロペス
、
ダビド?フェレ?ル
、
トミ??ロブレド
、
ニコラス?アルマグロ
、
フェリックス?マンティ?リャ
、
アルベルト?ポルタス
(
en
)
、
フアン?カルロス?フェレ?ロ
、
カルロス?モヤ
など高ランクのスペイン人選手の集?を言い表す際に用いられる。これはまた
デビスカップチ?ム
のニックネ?ムとしても使われる。しかしながら、アルマダ海?の?末から、多分に揶揄の意味を含んで使われたり、また?起の?い呼び名として嫌がられる例もある。
その他
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アルマダの海?を題材とした作品
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]
映?
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]
漫?
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]
脚注
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]
注?
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]
- ^
ウィンタ?から
ウォルシンガム
への書簡によると火船はド?バ?から??したのではなく艦隊のものを使用していた。(John Knox Laughton,
State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada, Anno 1588
, printed for the Navy Records Society, MDCCCXCV, Vol. II, pp. 8?9)
- ^
小林幸雄は、本?ならば無敵であったはずという慨嘆と哀悼の意を題名に?めたのではないかとしている。
- ^
armadaそのものはスペイン語の
普通名詞
で、これに相?する英語はnavyである。ただしヨ?ロッパの言語では、ある??特の組織?地位などを半ば
固有名詞
的に指す場合には、その?の言葉をそのまま用いる習慣がある。
Czar
(ロシア皇帝)、
Shogun
(
江?幕府
の?軍)など。
- ^
?時イングランドはまだ
グレゴリオ?
を採用していない。
- ^
低地諸?
の一部でスペインの統治から離?しようとしていた。
- ^
スペイン視点からこの?いを論じた『アルマダの航海-スペインの物語』(1981年)の著者ディヴィット?ハワ?スは通?である粗?な樽材による水食糧の被害を疑問としている。(海野(1985),pp.175-176)
- ^
?初、船隊旗艦はサンタ?アナ?(
Santa Ana
)だったが、リカルデ提督はサン?ファン?に?り換えている。(石島(1981),p.116)
- ^
帆船とガレ?船の折衷型の船種。
- ^
疫病により1万6,000人に減っていた。
- ^
これはメディナ=シドニア公の?言で、パルマ公は準備はできていたと主張している。ルイス(1996),pp.194-196
- ^
用例:
谷恒生
『超?帝?無敵艦隊』(勁文社、1993年)や
霧島那智
『上杉謙信の野望―北の無敵艦隊』(?樹社、2001年)など。また、ゲ?ムでも例えば『
エ?スコンバット04 シャッタ?ドスカイ
』(ナムコ、2001年)に登場する
エルジア共和?
海軍主力艦隊「エイギル艦隊」の別名として用いられている。
- ^
用例:
“
グラスゴ?の奇跡…いや奇跡じゃない 無敵艦隊を?沈
”.
朝日新聞
デジタル.
2012年7月27日
??。
村松?登(2010)『スペイン代表「美しく勝つ」サッカ?のすべて---“無敵艦隊”の?さを徹底分析! 』、河出書房新社、
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外部リンク
[
編集
]
ウィキメディア?コモンズには、
アルマダの海?
に?連するメディアがあります。