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征夷大?軍 - Wikipedia

征夷大?軍

日本の朝廷の令外官のひとつ

征夷大?軍 せいいたいしょうぐん ?字? 征夷大將軍 )は、「 征夷 (= 蝦夷 征討 する) 大?軍 」を指す。 朝廷 令外官 の一つであり、 武人 の最高??職である [注? 1] 唐名 大樹 (たいじゅ)、 柳? (りゅうえい)、 幕府 (ばくふ)、 幕下 (ばくか、ばっか)。

江?幕府を創設した ?川家康
(在任:慶長8年 - 同10年)

朝廷は、武人を?史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大?軍へ 補任 することで、 源?朝 以降、江?幕府が倒れるまで、 武家の棟梁 と認めることが通例となった。合わせて 公卿 三位 以上) [注? 2] へ時間の前後はあるが 補任 され公?力の行使や?園所有なども正?に認められた存在だった。この?軍が首班となる政治?制はのちに 幕府 政治と呼ばれる。

?要 編集

飛鳥時代 ? 奈良時代 以?、 東北地方 蝦夷征討 事業を指揮する臨時の 官職 は、?東?軍?持節征夷?軍?持節征東大使?持節征東?軍などさまざまにあった。また「 大?軍 」については、 下毛野古麻呂 大伴安麻呂 大伴旅人 などが 蝦夷征討 以外の目的で任じられた。

東?? ?州 を征伐する?軍としては、 太平洋 側を進軍する征夷?軍(征東?軍)と 日本海 側を進軍する ?狄?軍 (征狄?軍)がいる。また 陸?? に置かれた軍政府である ?守府 の長官として ?守府?軍 がある。

蝦夷征討 の初めての 大?軍 は、 藤原宇合 が持節大?軍に補任された。その後、奈良末期に、 紀古佐美 征東大?軍 に補任され、その後、 大伴弟麻呂 が初めて「征夷大?軍」に任命された。

この征夷大?軍(征夷?軍)の下には、 征夷副?軍 ? 征夷軍監 ? 征夷軍曹 がなどの役職が置かれ、征東?軍(大使)の下には、征東副?軍(副使)?征東軍監?征東軍曹などが置かれた。

坂上田村麻呂 は大伴弟麻呂の後任の「征夷大?軍」に任じられ、 阿?流? を降して勇名を馳せた。

しかし、その後の征夷の?軍は、次の 文室綿麻呂 は征夷?軍に任ぜられ、征夷大?軍への補任の例は途絶えた, [1]

源?朝 平氏政? ? ?州藤原氏 を滅ぼして 武家政? 幕府 )を創始し、朝廷へ「 大?軍 」の??を望み、朝廷は征夷大?軍を吉例として任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事?上の日本の最高?力者である征夷大?軍を長とする 鎌倉幕府 ? 室町幕府 ? 江?幕府 が、一時的な空白を?みながら?いた。 慶? 3年( 1867年 ?川慶喜 大政奉還 を受けた 明治新政府 王政復古の大?令 を?し、征夷大?軍職は?止された。

なお、この三幕府の間、源?朝から?川慶喜に至るまで?軍の官位は 公卿 の中でも?一位~正二位に任じられ、公?力の行使が正?に認められ、?倒的な?威と地位を持った [2] 。?軍を補佐する執?、管領、大老はおおむね?四位どまりであった [3] [4]

?史 編集

奈良?平安時代 編集

征夷?軍(大?軍)は、「夷」征討に際し任命された?軍(大?軍)の一つである。「東夷」に?する?軍としては、 和銅 2年( 709年 3月6日 に陸??東?軍に任じられた 巨勢麻呂 が最初となる [注? 3] 養老 4年( 720年 9月29日 には 多治比縣守 が持節征夷?軍に任じられ [注? 4] 、同日、「北狄」に?する持節 ?狄?軍 阿倍駿河 が任じられた。天平9年(737年)に持節大使に任じられた 藤原麻呂 は?三位に補任されていた。「 大使 」はまた別に「?軍」とも呼ばれた。

「征東?軍」の初見は、 延? 3年( 784年 )2月に任命された 大伴家持 であり、「 征東大?軍 」の初見は、延?7年( 788年 12月7日 に?見した 紀古佐美 である [注? 5] [注? 6]

延?10年( 791年 7月13日 に、 大伴弟麻呂 が征東大使 [注? 7] に就任。延?12年( 793年 2月17日 、「征東使」は「征夷使」と改められる。

延?13年( 794年 1月1日 、『 日本紀略 』にある「 征夷?軍 の大伴弟麻呂に 節刀 を賜うた」の記述が、「 征夷?軍(征夷大?軍) 」の初見とされる。弟麻呂の副使( 副?軍 )は 坂上田村麻呂 だった。

延?16年( 797年 11月5日 坂上田村麻呂 征夷大?軍 に昇格。田村麻呂は ?? の蝦夷の アテルイ を?破し、捕虜として京へ送った。田村麻呂は ?三位 (のちに 正三位 )へ補任された。

弘仁 2年( 811年 4月17日 には 陸?按察使 だった 文室綿麻呂 が、蝦夷との交?に際し征夷?軍 [注? 8] に任じられ、同年閏 12月11日 には蝦夷征討の終了を奏上した。弘仁5年( 814年 11月17日 、綿麻呂は再度征夷?軍に任じられたものの、?際には征討は行われなかった。

源?朝 編集

 
鎌倉幕府を創設した 源?朝
?源?朝像 、在職期間:建久3年 - 建久10年)

?朝は朝廷に?し「前大?」に代えて「 大?軍 」?を求め、朝廷は消去法的に「征夷大?軍」を採?し補任した( 建久 3年、 1192年 [5]

また以下の?もある。

東?の?立政? 編集

源?朝 の一族( 河?源氏 )は軍事を家業として朝廷に仕える 軍事貴族 であった。しかし、 伊豆 の流人生活から 東? 武士? を率いて反平氏の旗を揚げた。?朝の?初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。?朝は、まず朝廷から相?的に?立した「東?王?」を築き上げ、京都の朝廷では元?を 養和 と改元したが、?朝は、そのまま 治承 の年?を使用した [6] 。その後、朝廷との?係も含め、先行する 平氏政? ? 源義仲 ? ?州藤原氏 地方政?の3パタ?ンの比較?討から次第に政?構想が練られたのではないかといわれている。

  • 平氏政?は、?存の 貴族 家格 秩序に?って官位昇進をし、天皇の外戚として朝廷の?力を掌握する道を選んだが、平氏の繁?を誇示するだけになり、地方の??支配者としての武士の代表としてうまく機能しなかった。これに?し、?朝は東?の一定の?立性は保ちつつ朝廷に武家?力としての自主的統治?を認めさせるために交?を重ねていくことになる。
  • 平氏 を追い落として 京都 を制?した源義仲は、200年以上前に存在した征東大?軍に 任官 された。征東大?軍の官名は東方を征伐する職務を示すもので、東?の?朝に?抗する義仲の意?が推定される。義仲を滅ぼした?朝もまたこれに匹敵する??を望むこととなる。
  • ?時の 東北地方 は、朝廷の支配が及ばない ?州藤原氏 の?立した地方政?だった [7] 。?州藤原氏は ?守府?軍 の地位を得て、 陸?? ? 出羽? における 軍政 という形での地方統治?を認められ100年支配した [8] 。?境常備軍(征夷大?軍の場合は臨時遠征軍)の現地 司令官 という性格を持つが故に在京の必要がなく、地方政?の首領には都合が良かった。?朝自身も鎌倉に留まり?け、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の?立性を保持しようとした。

近衛大?から征夷大?軍へ 編集

建久 元年( 1190年 )、?朝は 右近衛大? (右大?)に 任官 したが、 近衛大? は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も?ぬうちに?任した。この右大?は 官位相? こそ高いものの、源義仲の征東大?軍のように武士を統率して地方の??を??する地位ではなく、また?州藤原氏の?守府?軍のように東?に?立の勢力?を擁するに相?しい地位でもない。

そこで注目したのが、征夷大?軍という官職であった。 坂東 の武士を率いて行う蝦夷(?州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また?守府?軍と同?に軍政(地方統治?)を敷く名分としても相?しく、故?からも?守府?軍より格上である格好の官職だった。

つまり、

  • 東?武士の棟梁たる 鎌倉殿 という私的地位
  • 守護 追捕使 )? 地頭 を全?に置き、軍事?警察?を掌握する 日本??追捕使?日本??地頭 という公的地位
  • 右大?として認知された、 家政機? 政所 などの公的な政治機?に準ずる扱いを受ける?限

を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一?的地位とするのが征夷大?軍職であったという見方もできる。

征夷大?軍の意義 編集

しかし、?朝にとって征夷大?軍職は、?州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、 ?州合? を?て?際に任官した 建久 3年( 1192年 )にはすでに必要なくなっていたという見方もある。?際に?朝は征夷大?軍職にあまり固執せず、2年後には?官の意向を示している [9] [注? 9]

また、嫡男の ?家 は家督?承にあたり、まず 左近衛中? 、次いで 左衛門督 任官 されており、征夷大?軍に任官したのはその3年後である。?家が失脚する 比企能員の? の際、?追撫使??地頭の地位の?承が問題となった一方、征夷大?軍職は?象とされていない。?って、この段階の征夷大?軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる?追撫使??地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが窺える。

ただ、?家の弟 ?朝 の家督?承の際にはまず征夷大?軍に任官されている。これはク?デタ?である比企能員の?によって?家やその嫡子 一幡 が存命する中で?朝を擁立した 北?氏 や、幕府を統御し?朝を諸?守護の任に?たらせようと考えた 後鳥羽上皇 にとって、鎌倉殿?朝の?威化という点で重要な意味を持ち、なおかつ無官の?朝にも任官できる令外官である征夷大?軍が好都合な官職だったからだと考えられている [11]

?朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相?する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政??態を?しつつ全?に武家支配政?を形作ったため、以降その神格化とともに 天下人 としての征夷大?軍の??が徐?に浸透していく。また、後年に至るまで執??管領?大老などの幕府次席職の官位は?四位止まりであり、(??が伴わないとしても)?軍のみが隔絶して高い?威として全ての武士の上に君臨する慣習も、この時期に確立されている。

近年明らかになった新事? 編集

これらの 通? を覆す新 史料 として、『三槐荒??書要』 [注? 10] 所?の『 山槐記 』建久3年( 1192年 )7月9日?および12日?に?朝の征夷大?軍任官の?緯の記述が見つかった。それによると?朝は、この時、「前右府」の?に代わる「 大?軍 」を望んだが、「征夷大?軍」を直接望んではいなかった。

それを受けた朝廷で「 ?官 」「 征東大?軍 」「征夷大?軍」「 上?軍 」の4つの候補が提案されて?討された結果、 坂上田村麻呂 の任官した「征夷大?軍」が吉例であるとして、?朝を「征夷大?軍」に任官することにしたという。他の候補は、 平宗盛 の任官した「?官」や、義仲の任官した「征東大?軍」 [注? 11] は凶例であり、また「上?軍」も日本では先例がないとして斥けられた。これは?然の選定と言えるが、?朝がこれを予期していたのかは不明である。なお??の多く?究で、その前提に基づいた「征夷」に重点を置いた解?がされてきたが再?討の必要が生じている [12] [13]

?朝が「大?軍」を望んだ理由としては、 10世紀 - 11世紀 の?守府?軍を先祖に持つ 貞盛流 平氏 ? 良文流 平氏? 秀?流 藤原氏 ? ?義流 源氏 などが?守府「?軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた?時において、貞盛流の平氏一門?秀?流の?州藤原氏?自らと同じ?義流源氏の源義仲? 源行家 ? 源義? などといった?守府「?軍」の末裔たちとの覇??いを制して唯一の武門の棟梁となり、 ?州合? においても意識的に?守府「?軍」 源?義 の後?者であることを誇示した?朝が、自らの地位を象?するものとして、武士社?における?守府「?軍」を超える?威として「大?軍」の??を望んだとする?が出されている [14] [15] [16] 。また、?軍職が武家にとり、?いを指揮統制する地位で重んじられ、それらの上に立ちまとめる「大?軍」が、武門の棟梁として指揮統制するのに重要だったという?がある [13]

また、?朝が征夷大?軍を望んだものの 後白河法皇 に阻まれたとされる点については、『 吾妻鏡 』建久3年( 1192年 )7月26日?の「?軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の ?永 3年( 1184年 )4月10日?の記事がこれと矛盾する?容を持つことが指摘された。この記事は?朝が3月27日の 除目 正四位下 に?されたことを 源義? の使者が知らせるもので、同?には除目の?緯が書かれている。それによれば、義仲討伐の?功として、 藤原忠文 の先例に倣って征夷?軍の地位を?えることを後白河が?討したものの、議論によって ?位 のみとなったとされている。ところが『 玉葉 』の?永3年( 1184年 )2月20日及び3月28日?には?朝からの申?によって、後白河から?えられるはずであった全ての官職を?退して?位のみを受けたことが記されている。この『吾妻鏡』と『玉葉』の記述を?明するには、後白河が?に終わった合?の?功として征夷?軍(=征夷大?軍)を?えようとしたものの?朝が?退したと解する他なく、 平安時代 初期の蝦夷征討が終わって久しい?時において、後白河??朝が共に征夷大?軍を名?的な官職と見なし、「武家の棟梁」「東?の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性がある。

さらに、?永以後?朝の征夷大?軍補任までの間に征夷?軍?征夷大?軍の地位や職?について議論された形跡が、京都?鎌倉?方の同時代史料からは確認できず、鎌倉殿の持つ?限は特定の官職によるものではなく、 ?永二年十月宣旨 文治の勅許 等、 鎌倉殿 が朝廷によって承認されてきた東?支配?や諸?守護?等各種の軍事的?警察的諸?限によるものであり、?朝??家??朝3代の征夷大?軍自?は職掌???のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。

この?によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大?軍補任記事は征夷大?軍の?威が確立した後の脚色記事であり、?際に征夷大?軍補任が政治的意味を持つようになるのは、 河?源氏 嫡流 が?絶して武家源氏ではない鎌倉殿( ?家?軍 )を迎えた時とされる。?家?軍を擁立した 執? 北?氏 鎌倉幕府 側は、鎌倉殿の後?者の地位及び?朝以?認められてきた諸?限を?朝以?の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大?軍の職?として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である?家?軍や 宮?軍 への?承を求め、 承久の? 後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大?軍が「武家の棟梁」「東?の支配者」の官職に?換されたとする見解を採っている [17]

ただし?朝に?してはそれ以前に朝官の??が皆無の者を征夷大?軍に任じた例がなく、さらに?朝が 元服 以前だったことを考慮するとその任官は前例を見ない緊急事態の中での特異な措置だったと言え、任官時にすでに 公卿 だった?朝??家と比べればその特異性は明白であって、鎌倉殿を征夷大?軍と一?視する?念は?朝期に成立するとされている [18]

?朝以降、武家の棟梁は、征夷大?軍に任官され、高い位であり、皇室に?がる血筋 [注? 12] の?統となった。

?家?軍?宮?軍 編集

鎌倉時代 以降、幕府の政治力は徐?に高まっていった。しかし?朝の?子として鎌倉殿??軍に就いた 源?家 は?臣の北?氏に 比企能員の? で幽閉?暗殺され、その北?氏によって擁立され鎌倉殿??軍に就いた?家の弟の 源?朝 は?家の子の公?に暗殺された。

?朝の直系血統が絶えると、 公卿 の?件に適う?軍を?東?で戴くことができなくなったため、?初北?氏は皇族の?軍就位を求めたが、 後鳥羽上皇 に拒絶された [19] 。このため?朝妹の血統をもつ??家から2?の三寅を鎌倉殿に迎え、 北?政子 ?二位 )が後見した。

正室となったのは?家の娘であり、?朝正室 西八??尼 の猶子であった 竹御所 であった [20] 。三寅は6年後に元服した後に 藤原?? を名?り征夷大?軍に就くが、??は乏しく、傀儡であったと見られている [21] 。しかし 北?泰時 死後の混?につけこみ、反 得宗 家の御家人を糾合して長子北??時の執?就任に反?するなどの動きを見せた [22] 。この直後、子の 藤原?嗣 が6?で元服し、?軍職を?らされるが、これはその影響であったと見られている [22] 。しかし??はその後も?然とした勢力を保ち [23] 名越光時 ら反得宗勢力と連携して 北?時? と?立し( 宮?動 )、その直後京都に送還された [22] [24] 。また?嗣も、僧 了行 らの謀反事件の煽りを受けて?位されている [25] [26]

その後、皇族が?軍として迎えられ、いわゆる「 宮?軍 」となったが、「 得宗?制 」と?される幕府の中では、得宗家の傀儡に過ぎなかったという見方が支配的である [19] 。六代?軍 宗尊親王 は正室の密通事件が?生する中で謀反の嫌疑をかけられて京都に送還され [27] 、七代?軍 惟康親王 は自身の地位を 持明院統 大?寺統 による ?統迭立 問題に?弄された形となり『 ?鏡 』において「?軍宮こに流され」と表現されるように、ほぼ罪人扱いで京都に追放されている [19] 久明親王 は理由は不明であるが33?で?任して京都に?り、 守邦親王 鎌倉幕府 の滅亡とともに出家した [19]

建武政??室町時代の?軍 編集

 
室町幕府を創設した 足利尊氏
?土寺 所?の?足利尊氏像、在職期間:延元3年 - 延文3年)

元弘の? で鎌倉幕府を打倒した 後醍?天皇 は、天皇公家の親政と?衙復活を目指したが、その時期に征夷大?軍に就任したのが 護良親王 成良親王 で、鎌倉時代後期の 宮?軍 以降は皇族が?軍であるのが常識だった [28] 。だがその後、後醍?の建武政?は恩賞や領地を巡り、武家との?立が勃?した。 足利尊氏 の叛旗で建武政?は瓦解し、尊氏は 北朝 を奉じて征夷大?軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏?斯波氏??山氏などとの連立政?となり、公武政?の特色が?した。

だが、 室町幕府 3代?軍 足利義? は公武??力の頂点に立った。それ以降、征夷大?軍は 武家 の最高?威となった(ただし、?質的?力については、前?軍である 室町殿 大御所 が握っている場合もあり、必ずしも征夷大?軍が握っていたわけではない)。足利義?の王?簒奪で朝廷は統治?を失い、政治?力は史上最も低下した。?軍職を嫡男の 足利義持 へ?ったのちも、?力は 治天 の位置を占めた義?に集中したままだった。

?永15年(1408年)5月、義?の急死後に?軍の?限が急速に回復し、細川管領と 斯波義? ら宿老との連携の中、?軍?力と幕府機能が復活し、義?の政? 北山第 も現? 金閣 を?し取り?した [29] 。以降に天皇と朝廷は?り?しや??大名の貴族化と?官への接近による?威再建はあったが、統治?のない?威としての政府となり、幕府こそが日本全土を?質統治する政府となった [30]

足利義? の代には頻繁に守護大名家の相?に介入して?裁的な?力を行使したが、その殺害と守護大名主導の叛???により再び?軍?力は低下した。義政の代には、守護大名間の武力抗?に?し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の 足利義? は??回復を?り 六角氏 討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。

南北朝時代 には、 南朝 北??家 が?守府?軍を?守府大?軍として名?ることを認められているが、これは ?華家 の家格を有する 北?家 にとっては、?守府?軍は明らかに卑職であることを?家が嫌ったためである。

??時代の?軍 編集

?軍 足利義材 は義?の果たせなかった六角親征に成功したが、これで自信を高めたことで 細川政元 と?立し、?山征伐として河?に出兵した留守にク?デタ?を起こされ?軍職を失った( 明?の政? )。幕政は細川氏支配が確立し、また幕府と?軍の全?統治の?力は消滅して室町幕府は畿?を支配する地方政?となる。

武家に?する?軍の?威はある程度は?ったが、??大名が成立して、?軍は有力大名の意向には逆らいにくく、敵?すると大永元年(1521年)頃から出奔逃亡し京都に常にとどまれず「流れ公方」と嘲笑された [31] 。?軍の守護補任?が??的になり天皇の ?司 任命が復活し、官位の朝廷取次?限が行使できず直奏となり、?軍?力が縮小した [32]

天文22年(1553年)、13代?軍の義輝は 三好政? を成立させた 三好長慶 に反?を試み、洛外の 近江? 朽木 に追放され、5年後和睦し?ったが、永?8年5月(1565年6月) 永?の? 二?御所 を軍勢で襲われ殺害され、?軍といえども不犯の存在ではなくなった。そのため、弟の 足利義昭 織田信長 の協力を得て、三好政?が擁立した14代?軍 足利義? が急死する中、奉じられ上洛し15代?軍となり、室町幕府を再建し畿?支配を復活させた。

だが、義昭は室町幕府創設時からの?統の、 武田信玄 など他の有力大名との複?提携を目指したためやがて信長と?立、義昭は信長へ兵を?げたが捕らえられ京都から追放された。室町幕府は官僚の奉公衆の 伊勢氏 など多くは 明智光秀 に引き?がれ?質消滅した。だが足利家の家職化した?軍を朝廷は積極的に解官せず [33] 、その後の織豊政?は、征夷大?軍?幕府?制とは異なる政?樹立をしたので、義昭は豊臣政?の初めに?官するまで?軍職だった。

江?時代の?軍 編集

 
江?城 吹上 で?軍が訴訟を審理する?。 楊洲周延 ?
 
最後の?軍となった ?川慶喜
(在任:慶?2年 - 同3年)

慶長5年(1600年)の ?ヶ原の?い に勝利し、 豊臣政? ?での?抗勢力を一掃した ?川家康 は、豊臣氏に??しない?自の 公儀 としての立場を確立するため、慶長8年(1603年)に征夷大?軍に就く。

そして早くも2年後には嫡男の ?川秀忠 に?軍職を?り、?軍職を 家職 として今後も ?川家 が代? 武家の棟梁 であり?けることを示した。

後に 江?幕府 と呼ばれるようになるこの?川政?では、かつての鎌倉幕府や室町幕府では常態化した?臣の力が?軍のそれを凌駕するような事態は一切生じなかった。

しかし 幕末 になると 開? 問題を契機として朝廷の?威と 雄藩 の政治力が高まり、それと共に?軍の公儀としての力は失墜、 公武合? 大政委任論 で公儀の再定義を試みるが行き詰まる。

慶? 3年(1867年)、 ?川慶喜 は征夷大?軍を?任、名目上の「大政」?を朝廷に返上( 大政奉還 )しつつ、引き?き日本最大の領主である?川家?主が 公議政? の?質的主宰者たらんことを狙った。しかし直後の 王政復古の大?令 で慶喜を締め出した新政?が?足、同時に征夷大?軍や ?白 など天皇親政を??する官職は?止された。

內大臣源朝????臣

左中辨藤原朝????臣光廣傳宣 權大納言藤原朝????臣兼勝宣 奉 ?件人宜爲征夷大將軍?

慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿?孝亮奉

(訓?)

?大臣 源朝臣(?川家康)

左中弁 藤原朝臣(烏丸)光? ?へ り、 ?大納言 藤原朝臣(?橋)兼勝 る。
勅を うけたまわ るに、 くだん の人、 よろ しく征夷大?軍と?すべし てへり

慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士 小槻宿?孝亮 うけたまわ る。

???川家康への?軍宣下(官宣旨)、日光東照宮文書

征夷大?軍に?する?とそれ以外の武家政? 編集

源平交代思想と源氏?軍 編集

源?朝が東?の軍政(地方統治?)という意味に注目し征夷大?軍という官職を望んだという?以外にも、日本史上の武家政?は、平氏( 桓武平氏 )と 源氏 ?和源氏 )が交代するという 源平交代思想 や、源氏であることが征夷大?軍に任ぜられる?件であるという 源氏?軍 ?が存在した。しかし?際には、?朝以降に限っても、 ?家?軍 皇族?軍 の例があり、 ?和源氏 以外に 藤原氏 皇族 、後嵯峨源氏も就任しており、 平氏 を自?していた 織田信長 も天皇によって征夷大?軍に推任されたとされる( 三職推任 )など、征夷大?軍になれるのは源氏に限られているわけではない。また征夷大?軍ならば 源氏長者 のような印象があるが、これは 足利義? 以降の事である。

豊臣秀吉 編集

豊臣秀吉 は、 ??時代 を統一して 天下人 となりながら、他の天下人である源?朝や足利氏、?川家康とは異なり征夷大?軍になることはなかった。そのため、?は秀吉も征夷大?軍の就任を目指していたが、出自の?係から結局なることができなかったとする?が、江?時代の儒?者である 林羅山 著書の『豊臣秀吉譜』において、秀吉は?軍になるために前?軍の 足利義昭 養子 になろうとしたが失敗したとする逸話が書かれ?まった。しかしそれは?川幕府??のための捏造という指摘もある [34] 。また、秀吉は?家の人事紛?に?じ 近衛前久 猶子 となることで、征夷大?軍の就任よりも困難である ?白 への就任を?現させている。公家以外の身分で?白に就任したのは豊臣秀吉が初であり、朝廷にとっては征夷大?軍就任よりも?白就任の方が?かに抵抗感が?かったとされる。そもそも秀吉は朝廷から公卿就任時に、征夷大?軍の兼任を?められていたと記載する史料もある [注? 13] [35] [34] [36]

なお、織田?豊臣期の征夷大?軍に?しては、?時の人?の間に征夷大?軍は足利家の 家職 と認識されており、源氏出身か否かとは別の意味で「?軍職は足利家以外にありえない」という?念が存在していたために、京都を追放されて??を失った 足利義昭 が征夷大?軍として認められ?け、朝廷も積極的な解任を行わなかったとする見方もある [33]

征夷大?軍の一? 編集

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  • 源?朝より前については、 蝦夷 征討使の長官にして、征夷大?軍に準じる性質のものを全て採?した。古例の場合、「大使」は「大?軍」と同義であるとされる。

一? 編集

?代 補任 解任 備考 [注? 14]
古例(源?朝以前)
? 巨勢麻呂 和銅 2年 3月5日
(709年4月19日)
? ?東?軍
左大弁 正四位下
? 多治比?守 養老 4年 9月29日
(720年11月3日)
養老5年4月
(721年5月)
持節征夷?軍
播磨 按察使 正四位下
? 藤原宇合 神? 元年 4月7日
(724年5月4日)
神?2年閏1月
(725年3月)
持節大?軍
式部卿 正四位上
? 藤原麻呂 天平 9年1月
(737年2月)
? 持節大使
?議 ?三位 兵部卿
? 藤原?? ?? 11年 3月28日
(780年5月7日)
? 征東大使
中納言 ?三位兼兵部卿
? 藤原小?麻呂 ??11年 9月23日
(780年10月25日)
天? 元年8月
(781年9月)
持節征東大使
?議 正四位下 右衛士督
? 大伴家持 延? 3年 2月24日
(784年3月19日)
延?4年 8月28日
(785年10月5日)
持節征東?軍
中納言 ?三位 春宮大夫 陸?按察使 → 同左
? 紀古佐美 延?7年 7月6日
(788年8月11日)
延?8年 9月8日
(789年10月1日)
征東大?軍 (『 公卿補任 』は征夷大?軍に作る)
?議 左大弁 正四位下 兼春宮大夫 → 同左
? 大伴弟麻呂 延?10年 7月13日
(791年8月17日)
延?14年 1月29日
(795年2月23日)
初め 征東大使 、延?13年(794年) 征夷大?軍 として初見
?四位下 ?三位 ??二等
? 坂上田村麻呂 延?16年 11月5日
(797年11月27日)
延?20年 10月28日
(801年12月7日)
陸?出羽 按察使 ?四位下 陸?守 大納言 正三位
?二位
(還任) 延?23年 1月28日
(804年3月13日)
大同 5年 9月10日
(810年10月11日?)
? 文室綿麻呂 弘仁 2年 4月17日
(811年5月12日)
? 征夷?軍
?議 正四位上 大?卿 兼陸?出羽按察使 → ?議 ?三位
(還任) 弘仁4年 5月30日
(813年7月1日)
弘仁7年
(816年)
? 藤原忠文 天慶 3年 1月19日
(940年2月29日)
天慶3年 5月15日
(940年6月23日)
征東大?軍
?議 正四位下 修理大夫 右衛門督
? 源義仲
(木曾義仲)
?永 3年 1月10日
(1184年2月23日)
?永3年 1月20日
(1184年3月4日)
征東大?軍
?四位下 伊予守
鎌倉
鎌倉 :1 源?朝 建久 3年 7月12日
(1192年8月21日)
建久10年 1月13日
(1199年2月9日)
建久5年(1194年)解任の?あり。
正二位 ?大納言 → 同左
鎌倉:2 源?家 建仁 2年 7月23日
(1202年8月12日)
建仁3年 9月7日
(1203年10月13日)
?二位 左衛門督 正二位
鎌倉:3 源?朝 建仁3年9月7日
(1203年10月13日)
建保 7年 1月27日
(1219年2月13日)
?五位下 右大臣 正二位 左近衛大?
鎌倉:4 藤原??
(九???)
嘉? 2年 1月27日
(1226年2月25日)
?元 2年 4月28日
(1244年6月5日)
?家?軍 九?道家 の子。
正五位下 右近衛?少? 正二位 前?大納言
鎌倉:5 藤原?嗣
(九??嗣)
?元2年4月28日
(1244年6月5日)
建長 4年 2月20日
(1252年3月31日)
?家?軍、藤原??の子。
?五位上 右近衛?少? → ?三位 左近衛中?
鎌倉:6 宗尊親王 建長4年 4月1日
(1252年5月10日)
文永 3年 7月20日
(1266年8月21日)
宮?軍 後嵯峨天皇 皇子
三品 → 一品 中務卿
鎌倉:7 惟康親王 [改 1] 文永3年 7月24日
(1266年8月25日)
正? 2年 9月14日
(1289年9月29日)
宮?軍、宗尊親王の王子。
?四位下 → 二品
鎌倉:8 久明親王 正?2年 10月9日
(1289年10月24日)
?治 3年 8月4日
(1308年8月20日)
宮?軍、 後深草天皇 皇子
三品 → 一品 式部卿
鎌倉:9 守邦親王 ?治3年 8月10日
(1308年8月26日)
正慶 2年 5月22日
(1333年7月4日)
宮?軍、久明親王の王子。
三品 → 二品
建武
建武 護良親王 元弘 3年 6月13日
(1333年7月25日)
元弘3年9月
(1333年10月)
宮?軍、 後醍?天皇 の皇子。
二品 兵部卿 → 同左
建武 成良親王 建武 2年 8月1日
(1335年8月19日)
建武3年2月
(1336年3月)
宮?軍、後醍?天皇の皇子。
上野 太守 四品 → 同左
建武 足利尊氏 [改 2] 建武2年 8月9日
(1335年8月27日)
建武2年 11月26日
(1336年1月9日?)
征東?軍
中先代の? 討伐に伴う東下を追認する形で補任される。
室町 / 南朝
室町 :1 足利尊氏 建武5年 8月11日
(1338年9月24日)
正平 7年 閏2月6日
(1352年3月22日)
正二位 ?大納言
南朝 興良親王 延元 4年
(1339年)
? 宮?軍、護良親王の王子。
二品 兵部卿
南朝 宗良親王 正平 7年 閏2月6日
(1352年3月22日)
? 宮?軍( 征東?軍 か)、後醍?天皇の皇子。
一品 式部卿 → 同左
室町:1
(還任)
足利尊氏 ?? 3年 6月27日
(1352年8月20日)
延文 3年 4月30日
(1358年6月7日)
足利尊氏の還任。
正二位 ?大納言
贈?一位太政大臣
室町:2 足利義詮 延文3年 12月8日
(1359年1月7日)
貞治 6年 12月7日
(1367年12月28日)
?議 ?三位 左近衛中? 正二位 ?大納言
?一位 左大臣
室町:3 足利義? ?安 元年 12月30日
(1369年2月7日)
?永 元年 12月17日
(1395年1月8日)
?五位下 左馬頭 准三宮 ?一位 左大臣
?軍解任後、 太政大臣
南朝 尹良親王 元中 3年 8月8日
(1386年9月2日?)
? 宮?軍、宗良親王の王子という。
同時代史料に見えないため、?在が疑問視されている。
室町:4 足利義持 ?永 元年 12月17日
(1395年1月8日)
?永30年 3月18日
(1423年4月28日)
正五位下 左近衛中? ?一位 ?大臣
贈太政大臣
室町:5 足利義量 ?永30年3月18日
(1423年4月28日)
?永32年 2月27日
(1425年3月17日)
正五位下 右近衛中? ?議 正四位下 右近衛中?
贈?一位 左大臣
室町:6 足利義? [改 3] 正長 2年 3月15日
(1429年4月18日)
嘉吉 元年 6月24日
(1441年7月12日)
?議左近衛中? ?四位下 → ?一位前左大臣
贈太政大臣
室町:7 足利義勝 嘉吉2年 11月17日
(1442年12月19日)
嘉吉3年 7月21日
(1443年8月16日)
正五位下左近衛中? → ?四位下左近衛中?
贈左大臣?一位
室町:8 足利義政 [改 4] 文安 6年 4月29日
(1449年5月21日)
文明 5年 12月19日
(1474年1月7日)
正五位下 左馬頭 准三宮 ?一位前左大臣
贈太政大臣
室町:9 足利義? [改 5] 文明5年12月19日
(1474年1月7日)
長享 3年 3月26日
(1489年4月26日)
?五位下左近衛中? → ?一位 ?大臣 右近衛大?
贈太政大臣
室町:10 足利義材 [改 6] 延? 2年 7月5日
(1490年7月22日)
明? 2年 6月29日
(1493年8月11日)
?四位下 右近衛中? ?議 右近衛中??四位下
室町:11 足利義澄 [改 7] 明?3年 12月27日
(1495年1月23日)
永正 5年 4月16日
(1508年5月15日)
正五位下 左馬頭 → ?議 ?三位 左近衛中?
?一位 太政大臣
室町:10
(還任)
足利義稙 [改 6] 永正5年 7月1日
(1508年7月28日)
大永 元年 12月25日
(1522年1月22日)
足利義材の還任。
?三位 ?大納言 ?二位 ?大納言
贈?一位太政大臣
室町:12 足利義晴 大永元年12月25日
(1522年1月22日)
天文 15年 12月20日
(1547年1月11日)
正五位下 左馬頭 → ?三位?大納言 右近衛大?
贈?一位 左大臣
室町:13 足利義輝 [改 8] 天文15年12月20日
(1547年1月11日)
永? 8年 5月19日
(1565年6月17日)
?四位下 左馬頭 → ?議 左近衛中? ?四位下
贈?一位左大臣
室町:14 足利義? [改 9] 永?11年 2月8日
(1568年3月6日)
永?11年9月
(1568年10月)
?五位下 左馬頭 → 同左
室町:15 足利義昭 [改 10] 永?11年 10月18日
(1568年11月7日)
天正 16年 1月13日
(1588年2月9日)
?議左近衛中??四位下 → ?三位?大納言
?軍解任後、 准三宮
江?
江? :1 ?川家康 [改 11] 慶長 8年 2月12日
(1603年3月24日)
慶長10年 4月16日
(1605年6月2日)
?一位 右大臣 ?一位 前右大臣
?軍解任後、 太政大臣 。贈 正一位 東照大?現
江?:2 ?川秀忠 慶長10年4月16日
(1605年6月2日)
元和 9年 7月27日
(1623年8月23日)
?大臣 正二位 右近衛大? ?一位 右大臣 右近衛大?
?軍解任後、太政大臣。贈正一位
江?:3 ?川家光 元和9年7月27日
(1623年8月23日)
慶安 4年 4月20日
(1651年6月8日)
?大臣正二位右近衛大? → ?一位左大臣右近衛大?
太政大臣宣下固?。贈 太政大臣 正一位
江?:4 ?川家綱 慶安4年 7月26日
(1651年9月10日)
延? 8年 5月8日
(1680年6月4日)
?大臣正二位右近衛大? → 右大臣正二位右近衛大?
贈太政大臣正一位
江?:5 ?川綱吉 延?8年 7月18日
(1680年8月12日)
?永 6年 1月10日
(1709年2月19日)
?大臣正二位右近衛大? → 右大臣正二位右近衛大?
贈太政大臣正一位
江?:6 ?川家宣 [改 12] ?永6年 4月2日
(1709年5月11日)
正? 2年 10月14日
(1712年11月12日)
?大臣正二位右近衛大? → 同左
贈太政大臣正一位
江?:7 ?川家? 正?3年 3月4日
(1713年3月29日)
正?6年 4月30日
(1716年6月19日)
?大臣正二位右近衛大? → 同左
贈太政大臣正一位
江?:8 ?川吉宗 [改 13] 享保 元年 7月18日
(1716年9月3日)
延享 2年 9月25日
(1745年10月20日)
?大臣正二位右近衛大? → 右大臣正二位
贈太政大臣正一位
江?:9 ?川家重 延享2年 10月7日
(1745年10月31日)
?? 10年 5月13日
(1760年6月25日)
?大臣正二位右近衛大? → 右大臣正二位
贈太政大臣正一位
江?:10 ?川家治 ??10年 7月2日
(1760年8月12日)
天明 6年 9月8日
(1786年9月29日)
?大臣正二位右近衛大? → 右大臣正二位右近衛大?
贈太政大臣正一位
江?:11 ?川家? 天明7年 3月6日
(1787年4月23日)
天保 8年 4月2日
(1837年5月6日)
?大臣正二位右近衛大? → ?一位太政大臣
贈正一位
江?:12 ?川家慶 天保8年 8月5日
(1837年9月4日)
嘉永 6年 6月22日
(1853年7月27日)
?一位左大臣左近衛大? → 同左
贈太政大臣正一位
江?:13 ?川家定 [改 14] 嘉永6年 10月23日
(1853年11月23日)
安政 5年 7月6日
(1858年8月14日)
?大臣正二位右近衛大? → ?大臣?一位右近衛大?
贈太政大臣正一位
江?:14 ?川家茂 [改 15] 安政5年 10月25日
(1858年11月30日)
慶? 2年 7月20日
(1866年8月29日)
?大臣正二位右近衛大? → ?一位右大臣右近衛大?
贈太政大臣正一位
江?:15 ?川慶喜 [改 16] 慶?2年 12月5日
(1867年1月10日)
慶?3年 12月9日
(1868年1月3日)
正二位 ?大納言 右近衛大? → ?大臣正二位右近衛大?
明治維新 後、 ?一位 公爵 貴族院 議員 ?一等旭日大綬章
?一等旭日桐花大綬章
贈征夷大?軍(?後に征夷大?軍を追贈された人物)
?川綱重 ?永 7年 8月23日 (1710年9月16日) 追贈 甲斐 甲府藩 主、 江?幕府 6代 ?川家宣 の父。
?議 正三位 、贈 ?中納言 ?三位 、のち贈 太政大臣 正一位

改名 編集

  1. ^ 惟康王→源惟康→惟康親王
  2. ^ 高氏→尊氏
  3. ^ 義宣→義?
  4. ^ 義成→義政
  5. ^ 義?→義?
  6. ^ a b 義材→義尹→義稙
  7. ^ 義高→義遐→義澄
  8. ^ 義藤→義輝
  9. ^ 義親→義?
  10. ^ 義秋→義昭
  11. ^ 松平元信→松平元康→?川家康
  12. ^ 綱豊→家宣
  13. ^ 松平?方→?川吉宗
  14. ^ 家祥→家定
  15. ^ 慶福→家茂
  16. ^ 松平昭致→慶喜

脚注 編集

注? 編集

  1. ^ ?守?軍 と同格。
  2. ^ 源?朝 以降は例外が無い。
  3. ^ 同時に 佐伯石湯 が征越後蝦夷?軍に任じられた。
  4. ^ 養老4年9月28日に陸? 按察使 上毛野?人 が殺害され、翌29日に 多治比縣守 が持節征夷?軍に任命された。
  5. ^ 紀古佐美の場合、延?7年7月6日の任命の際は、『?日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東?軍」になっている。
  6. ^ ?軍の名?は、記?上あまり統一されておらず、例えば 藤原宇合 の場合は、任命時は「持節?軍」であり、?京時は「征夷持節大使」となっている。
  7. ^ 「征東大使」として、他に 藤原?? 藤原小?麻呂 などの任命例もある。
  8. ^ 他の征東?征夷の?軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全?を委任されていたが、 文室綿麻呂 に限っては節刀を授かっていない。
  9. ^ 建久3年(1192年)の征夷大?軍就任で下文が「?軍家政所下文」に?わったが、建久5年10月以降に再度、文書の形式が「前右大?家政所下文」に?る。これを?朝が征夷大?軍?官の意思表示をしたための?更と解?する?である。一方で高橋富雄は「?任ならば終官が最も重んじられ『前?軍』が使用されるはずだがそうではなく、『前右大?』が使用されたのは、その方が?威があるからに過ぎない」として?任否定?を取る [10] 。また、受理されたか否かも別問題でこれも論?があり、石井良助は『 尊卑分脈 』の?朝の建久3年(1192年)7月?軍就任記述の後、同5年10月10日?に「??軍」とあることから、?朝が?際に?軍を?任したとの?を取る。
  10. ^ 山槐記 』( 中山忠親 の日記)と『 荒?記 』( 藤原資季 の日記)から 除目 ?諸行事?諸事について抄出したもの。『山槐記』からの??に 藤原定能 の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能?資季の子孫と察せられる。
  11. ^ 同時に、義仲が任官したのも『 吾妻鏡 』などの?える「征夷大?軍」ではなく、『 玉葉 』に記されている「征東大?軍」であったことが明らかとなった。
  12. ^ ?家?軍 はそれに準ずる
  13. ^ 多聞院日記 』天正12年(1584年)10月16日?にある、公卿就任の際に、朝廷から征夷大?軍を兼任するよう?められたが?ったという記述による。
  14. ^ 官位は、?軍補任時と解任時。及び?後の贈官位。

出典 編集

  1. ^ なお平安中期に 藤原忠文 が征東大?軍に任ぜられたが、これは 平?門 討伐のためであって、蝦夷征討を目的としたものではなかった。
  2. ^ なお?川三家、三卿の?主も同じく公卿(?二位??三位)に任じられた。
  3. ^ これは現代の??では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相?する格差である。
  4. ^ ?軍は補佐役以下に??を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の?威は?倒的であった。
  5. ^ 高橋典幸「鎌倉幕府の成立をめぐって」『文化交流?究?: 東京大?文?部次世代人文?開?センタ??究紀要』第26?、東京大?文?部次世代人文?開?センタ?、2013年、31頁。  
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  7. ^ 綱野善彦 1997 , pp.?19?31.
  8. ^ 高橋富雄 1987 , pp.?56?57.
  9. ^ 石井良助 『大化改新と鎌倉幕府の成立』創文社 1958年 p.87-91
  10. ^ 高橋富雄 1987 , pp.?65?66.
  11. ^ 山本みなみ 2021 , pp.?131?133.
  12. ^ 櫻井 2004 .
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  15. ^ 川合 2009 [ 要ペ?ジ番? ]
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  27. ^ 近藤成一 2016 , p.?89-90.
  28. ^ ?口 2018 , pp.?80?81, 鈴木由美 「足利?軍家誕生は、「源氏の嫡流」の復活だったのか?」.
  29. ^ 今谷明 1990 , pp.?110?168.
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  36. ^ 鈴木眞哉『NHK?史番組を斬る!』洋泉社〈?史新書y〉、2012年、154-155頁。

?考文? 編集

?連項目 編集

外部リンク 編集