?田忠之

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?田忠之
?田忠之像、小方守房 [1] 福岡市美術館 ?
時代 江?時代 前期
生誕 慶長 7年 11月9日 1602年 12月22日
死? 承? 3年 2月12日 1654年 3月30日
改名 万?丸(幼名)→忠長→忠政→忠之
神? 島岡大明神
戒名 高樹院傑春宗英
墓所 福岡? 福岡市 博多? の南岳山 東長寺
福岡? 宗像市 の?風山 ??寺
東京都 港? 六本木 の瑠璃山 正光院
和歌山? 高野山 ?の院
官位 ?四位下 筑前守 右衛門佐
幕府 江?幕府
主君 ?川 秀忠 家光
福岡藩
父母 父: ?田長政
母: ?? ?川家康 養女? 保科正直 娘)
兄弟 忠之 、甚四?、 長興 高政 、??( ?原忠次 室)、?子?( 池田輝興 室)
正室: 久? (?川秀忠養女、 松平忠良 娘)
?室: 養照院 (坪坂氏の娘)
光之 之勝
養女: 池田輝興 娘、 ?田之勝 室)
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?田 忠之 (くろだ ただゆき)は、 江?時代 前期の 大名 筑前? 福岡藩 2代藩主。江?三大 御家?動 の一つ、 ?田?動 の原因を作った?主として記?に?る。

生涯 [ 編集 ]

慶長 7年( 1602年 11月9日 、福岡藩初代藩主? ?田長政 ?室 ? ?? (大?院? ?川家康 養女)の 嫡男 として 筑前 福岡城 ?の藩筆頭家老? 栗山利安 の屋敷にて生まれる。のち 駿府城 において、長政と共に ?軍 ??川家康に?謁している。

慶長19年( 1614年 )、 大坂冬の陣 では長政が幕府から江?城留守居を命じられたため、代わりに出陣している。長政はその際、 ?ヶ原の?い の折に家康より?領した金羊?前立南?鉢兜を忠之に?え、1万の軍を率いさせている。

福岡藩2代藩主 [ 編集 ]

元和 9年( 1623年 )、 ?川家光 ?軍宣下の先役を命じられた長政と京都へ同行したが、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を?ぐ。?初、 江?幕府 2代?軍? ?川秀忠 から 偏諱 を授かり、 忠長 (ただなが)や 忠政 (ただまさ)を名?っていたが、この時に 忠之 に改めた。以後、?川?軍家は福岡藩の?代藩主?嫡子に松平の名字と?軍の偏諱を授?していく [2]

また、父の遺言で弟の 長興 に5万石( 秋月藩 )、 高政 に4万石( 東蓮寺藩 )を分知した。これにより石高は43万3千余石となった。

?田?動 [ 編集 ]

忠之は生まれながらの大藩の御曹司であり、祖父や父とは違い、性格も奔放でわがままであったという。外見は華美で派手なものを好み、藩の財力でご禁制の大型船舶「鳳凰丸」などを建造したり、自らの側近集?を組織し、 倉八正俊 、郡慶成らを重用した。一方で筑前六端城(領?主要6?点の支城)城主を始め、父?長政時代からの重臣たちと?立し、忠之は所領減封や改易などの?硬策をとった。

?永 9年( 1632年 )、六端城の一つ麻底良城の城主? 栗山利章 (大膳)によって幕府に「?田家、幕府に謀反の疑いあり」と訴えられ、?田家は 改易 の危機に立たされた。いわゆる?田?動である。3代?軍??川家光は自ら裁定を下し、栗山の訴えは「精神的に異常であり藩主への逆恨み」と裁?し、のち幕命により倉八は 高野山 、栗山は 盛岡藩 南部家 へ預けられ追放された。藩主?田家はお咎めなし(正確には名目上いったん改易後、?領に再封する形を取った)であったが、このこともあり、長政と懇意の仲であった幕府 老中 安藤直次 、幕府古老? 成?正虎 らから連署で忠之へ書?が送られ、「御父上のように 年寄 どもとご相談の上」藩政を進めるように促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、福岡藩の政治は元の「重臣を中心とした合議制」色が?くなった。

?永14年( 1637年 )、 島原の? に出陣し、武功を?げる。

?永18年( 1641年 )、江?幕府が海外貿易の窓口として長崎を(いわゆる 鎖? )幕府直轄地( 長崎奉行 地)に定めると、 肥前 佐賀藩 鍋島家 と交代で、長崎警護の幕命を受ける。忠之は長崎に警護屋敷、港を造?し、末次家や伊藤家、藩御用大賀家など?多くの博多商人も長崎と博多を船で往?するようになる。また、このことにより福岡藩の江??勤に於ける回?、?主の江??在期間短縮など幕府から優遇を受ける。

承? 3年( 1654年 2月12日 福岡城 にて死去した。享年53(?51??)。跡を長男? 光之 が?いだ。

人物 [ 編集 ]

  • 忠之は 高野山 ?言宗 を信仰していたために、 菩提寺 を父の?宗寺院 崇福寺 ではなく、 空海 が開いた博多の 東長寺 にするように遺言を?した。東長寺墓所の石塔は??で2番目に巨大なものである。また江?においては麻布に瑠璃山正光院を開基、また中屋敷には父長政の菩提を弔い興雲院(現在の 祥雲寺 )を開基している。
  • 空?守欣 の弟子を小姓として差し出すように命じて?られた?に、空?を?虐な方法(背中を太刀で切り割り、そこに熱く溶けた鉛を流し?む)で?刑したとされる。
  • ?島市 に、?田家祀社の ?井神社 を創建した。忠之は島岡大明神として祀られる。
  • 細川家文書 によれば、?初は 藤堂高虎 の娘を正室に迎える予定だったというが、 ?川秀忠 の養女を正室に迎えた(高虎の娘は 蒲生忠? の未亡人である??のこととされ、最終的に?組が?現しなかったことから ?修寺 堯朝 に再嫁したという [3] )。
  • ?川?軍家から忠之に下賜された「短刀銘則?」(重要美術品)が、 最上義光?史館 に所?されている。
  • 博多の豪商、 神屋宗湛 から父長政の遺言と?して、名物茶器「博多文琳」を?金2千?の代?で召し上げ、代??田家の家?となった。 福岡市美術館 所?。
  • 福岡市中央?に?座する 光雲神社 ?社 堅磐神社に先祖 重隆 職隆 らと共に祀られる。 [4]

系譜 [ 編集 ]

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 福岡藩 御用?師 尾形(小方)家の3代目守房(友元)のこと。なお、福岡市美術館には他に、 狩野探幽 が30代から40代に描き、 ?庵宗彭 が?をした、 束? 姿で傍らの犬を見つめる忠之像も?っている。
  2. ^ 村川浩平『日本近世武家政?論』近代文芸社、2000年。
  3. ^ 尾下成敏「蒲生氏と?川政?」(初出:日野町史編さん委員?編『近江日野の?史』第二? 中世編 第四章第三節、2009年/所?:谷徹也 編著『シリ?ズ?織豊大名の?究 第九? 蒲生氏?』(戒光祥出版、2021年) ISBN 978-4-86403-369-5 )2021年、P236-237?261.
  4. ^ 光雲神社公式ホ?ムペ?ジ ”. 光雲神社. 2022年4月6日 ??。

?考文? [ 編集 ]

  • 『福岡?史 通史編 福岡藩 (一)』 福岡?地域史?究所

?連作品 [ 編集 ]