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?洲善後?約
(まんしゅうぜんごじょうやく、
?字?
:
滿洲善後條約󠄁
)は、
1905年
(
明治
38年)
12月22日
に
??
の
北京
において
日本
?????間で締結された
?約
。正式名?は日?間「
?洲ニ?スル?約
(
?字?
:
滿洲ニ關スル條約󠄁
)」
[3]
。中?では「
中日?議東三省事宜正約及附
」と呼ばれる
[4]
。
?要
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日本側は特派全?
大使
小村?太?
(
外務大臣
)及び特派全?公使
?田康哉
と??側は
欽差全?大臣
慶親王奕?
及び瞿鴻
?
?
袁世凱
の間で調印され、全3?の本文と12ヶ?の付?協定、16項目の付?取決から構成された。日露??後の
ポ?ツマス?約
(日露講和?約、1905年
9月5日
)を批准し、
帝政ロシア
から日本に?渡された
?洲
利?の移動を??が了承する?容であり、講和?約で生じた日本と??の共同?係を示している。
この?約において、
南?洲?道
の
吉林
までの延伸と同?道を守備するための
日本陸軍
の常駐?と沿線?山の採掘?保障、
安奉?道
の使用???と??共同事業化、
?口
?
安東
?
奉天
における
日本人
居留地
の設置の許可、
鴨?江
右岸の森林伐採合弁?獲得などが盛り?まれ、以後の?洲??の基礎となった。
これらの?項は
辛亥革命
以後も
北洋政府
?
奉天軍閥
などに?承された。
中華民?
建?後、日本の支援下にいた
奉天派
の
張作霖
が何者かによって殺害される(
張作霖爆殺事件
)と、?洲の奉天軍閥を?承した息子の
張?良
が?行?道の建設を推進し、
?洲事?
の遠因となった。
締結までの?緯
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露?密約下の?洲
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三?干?
下で日本から遼東半島を返還させた??は、?日賠償金の
借款
供?と引き換えにロシア帝?と
露?密約
(
1896年
6月)を締結し、?洲でのロシア帝?の駐留や?益?大を了承した。これにより日露??終結までの?洲は、現地居住民地域などで
アム?ル川事件
(
1900年
)などの大虐殺も?生するような不?な情勢となっていた。
1904年2月に
日露??
が勃?し、 4月30日から5月1日の
鴨?江??
でのロシア軍?破などが報じられると、同年5月13日に?の
慶親王
はこの?洲に?する密約の存在を初めて公表した。慶親王は露?密約の破棄を一方的に訴えたが、ロシア帝?側でも?洲は?に支配下の半植民地?態であり、日露??の原因となった密約の存在が?際的に周知されただけであり、開?後の一方的な破棄宣言は何ら?力も生じなかった。
日露??後の日本と??の?況
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日露??終結後の
1905年
8月からのポ?ツマス講和?議に際して、??が同?議への出席を
ル?ズベルト
大統領
に訴えるが、???事?でない?の講和?約?議への出席は、
英?
や
米?
などの?米が許さず、また???事?も承認しなかった。
米?のポ?ツマス海軍基地で開かれた講和?議後、同年9月5日に締結されたポ?ツマス?約で、南?洲?道や
?東州
の
租借?
などの?洲利?が日本に認められた。
??はポ?ツマス?約締結へ異論を唱え、密約のあるロシア帝?でなく、?洲における??の利?復?や軍撤退などを日本の
桂?閣
へ?きかけた。米?ポ?ツマス海軍基地から小村外務大臣が?ると、同年10月17日に閣議を開いて???約締結への方針が?討された。日本側はポ?ツマス?約を批准する立場であり、ロシア帝?による?洲の?益を放置できないとの姿勢で、11月6日に桂?閣は小村外務大臣を北京へ派遣した。
??間の?議
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締結に向けた?議は、??側は袁世凱、日本側は小村外務大臣の??全?委員の間で進められた。1905年11月17日からの計20回の?議で、多く議論された議題は日本軍撤退問題であった。??の主な要求は、軍の撤退期間の12ヶ月への短縮と?道守備兵の撤退であったが、日本?としてはポ?ツマス?約に抵?する?容であり、軍の早期撤退と?道守備隊の撤退は?れなかった。日本の小村外務大臣は、講和?議においてロシア帝?が?道守備兵の名のもとに多くの兵を留めようとしたことからも、?道守備兵の撤退は了承できないとし、?に日本軍の早期撤退が可能であるとしても、この?項についてはポ?ツマス?約の規定に反するとして退けている。
原文
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大日本國皇帝??陛下及󠄁大淸國皇帝??陛下ハ均シク明󠄁治三十八年九月󠄁五日卽光緖三十一年八月󠄁七日調󠄁印セラレタル日露兩國講󠄁和條約󠄁ヨリ生スル共同關係ノ事項ヲ協定セムコトヲ欲シ右ノ目的󠄁ヲ以テ條約󠄁ヲ締結スルコトニ決シ之カ爲メニ大日本國皇帝??陛下ハ特派󠄂全󠄁權大使󠄁外務大臣從三位勳一等男爵󠄂小村壽太郞及󠄁特命全󠄁權公󠄁使󠄁從四位勳二等內田康哉ヲ大淸國皇帝??陛下ハ欽差全󠄁權大臣軍機大臣總理外務部事務和碩慶親王欽差全󠄁權大臣軍機大臣外務部尙書會辦大臣瞿鴻?及󠄁欽差全󠄁權大臣北洋大臣太子少保直?總督袁世凱ヲ各其ノ全󠄁權委員ニ任命セリ因テ各全󠄁權委員ハ互ニ其ノ全󠄁權委任狀ヲ示シ其ノ良好妥󠄁當ナルヲ認󠄁メ以テ左ノ條項ヲ協議決定セリ
第一條
淸國政府ハ露國カ日露講󠄁和條約󠄁第五條及󠄁第六條ニヨリ日本國ニ對シテ爲シタル一切ノ讓渡ヲ承諾ス
第二條
日本國政府ハ淸露兩國閒󠄁ニ締結セラレタル租借地竝鐵道󠄁敷󠄁設ニ關スル原條約󠄁ニ照シ努メテ遵󠄁行スヘキコトヲ承諾ス將來何等案件ノ生シタル場合ニハ隨時淸國政府ト協議ノ上之ヲ定ムヘシ
第三條
本條約󠄁ハ調󠄁印ノ日ヨリ效力ヲ生スヘク且大日本國皇帝??陛下及󠄁大淸國皇帝??陛下ニ於テ之ヲ批准セラルヘシ該批准書ハ本條約󠄁調󠄁印ノ日ヨリ二箇月󠄁以內ニ成󠄁ルヘク速󠄁ニ北京ニ於テ之ヲ交󠄁換スヘシ
右證據トシテ兩國全󠄁權委員ハ日本文󠄁及󠄁漢󠄁文󠄁ヲ以テ作ラレタル各二通󠄁ノ本條約󠄁ニ署󠄀名調󠄁印スルモノナリ
明󠄁治三十八年十二月󠄁二十二日卽光緖三十一年十一月󠄁二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
大日本帝??國特派󠄂全󠄁權大使󠄁外務大臣從三位勳一等男爵󠄂 小村壽太郞(記名)印
大日本帝??國特命全󠄁權公󠄁使󠄁從四位勳二等 內田康哉(記名)印
大淸國欽差全󠄁權大臣軍機大臣總理外務部事務 慶親王(記名)印
大淸國欽差全󠄁權大臣軍機大臣外務部尙書會辦大臣 瞿鴻?(記名)印
大淸國欽差全󠄁權大臣北洋大臣太子少保直?總督 袁世凱(記名)印
締結とその後の動き
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同年12月8日の第20回目の?議、同12月19日の第21回?議において
ポ?ツマス?約
(日露講和?約)第五條および第六條をこの?約に適用する?項(本?約第一?)とこれに伴う詳細な付?協約の文面について協議され、12月22日に??全?委員がこの?約と付?協約について合意、署名に至る。
この?約と付?協約は、署名後の明治39年(
1906年
)1月9日に日本??で批准され、同年1月22日に公布された。
ポ?ツマス?約
の批准とともに日本側が?係各?へこの?約の締結を?えたことにより?際的に知られるに至ったが、??は?政の都合から??で公にすることは困難であるとして、?の??ではこの?約と付?協約の存在は?蔽された。
脚注
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?考文?
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]
- 田島義方『?際法規提要』明治大?出版部、1906年。
- 信夫淳平
『小村?太?』新潮社、1942年。
?連項目
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