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藤原 殖子
(ふじわら の しょくし/たねこ、
保元
2年(
1157年
) -
安貞
2年
9月16日
(
1228年
10月15日
))は、
平安時代
末期から
鎌倉時代
初期の
女性
。
高倉天皇
の
後宮
。
後高倉院(守貞親王)
と
後鳥羽天皇
の母。
女院
。
坊門 殖子
とも。父は
?三位
藤原(坊門)信隆
。母は藤原休子(
大?卿
藤原(持明院)通基
の女)。
?大臣
坊門信?
は同母弟。
院?
は
七?院
(しちじょういん)。
??
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]
『
?鏡
』には、はじめ兵衛督君といって
中宮
平?子
に仕えたとある。
高倉天皇
に召され、
典侍
に任じられ、第二皇子?守貞親王、第四皇子?尊成親王(
後鳥羽天皇
)を産む。守貞親王が平家の都落ちと共に
西?
に連行されたことから、
後鳥羽天皇
が
?位
する。
建久
元年(
1190年
)
?三位
?
准三后
、その後立后を?ず
女院
となり、七?院と呼ばれる。
元久
2年(
1205年
)
出家
。後鳥羽天皇より水無?殿など多くの七?院領を?られた。
承久の?
で後鳥羽院と4人の孫(
土御門院
、
順?院
、
雅成親王
、
?仁親王
)が
配流
となった後も、
後堀河天皇
(守貞親王の皇子)の祖母として
京都
に留まる。晩年は後高倉院に先立たれ、また後鳥羽院との再?も?わぬまま、安貞2年(
1228年
)72?で
薨去
。その所領(七?院領)の大半は
修明門院
に?られた。
備考
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建久6年(
1195年
)の
元日
、
公卿
たちは後鳥羽天皇の生母である七?院?殖子に新年の??をしたが、
?白
である
九?兼?
だけは??しなかった。兼?は同日の日記(『
玉葉
』)にその理由として、「故殿(父?
藤原忠通
)以?の故?」「女院が上皇と同居していない」ことを?げている。前者は忠通が
美福門院
を「諸大夫の女」であるとして??を拒否した事件(『台記』康治3年正月1日?)を指し、??家は諸大夫出身の
?母
?
女院
を一段低く見る慣例があったと考えられ
[1]
、後者は殖子が夫である高倉上皇と生前同居していなかったために、上皇の正妻とはみなされず天皇の生母であっても?母としての資格を欠くと見る慣例によるとする
[2]
。
脚注
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]
- ^
山?益次?『今鏡の周?』和泉書院、1993年、P95-96
- ^
栗山圭子『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年、P198
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平安時代
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鎌倉時代
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南北朝時代
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室町?安土桃山時代
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江?時代
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カテゴリ
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