藤原明子 (染殿后)

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藤原 明子
第56代天皇母
皇太后 貞? 6年 1月7日 864年 2月17日
太皇太后 元慶 6年 1月7日 882年 1月29日

誕生 天長 6年( 829年
崩御 昌泰 3年 5月23日 900年 6月22日
別? 染殿后
父親 藤原良房
母親 源潔?
配偶者 文?天皇
子女 ?和天皇
儀子?親王
女御宣下 嘉祥 3年 7月9日 850年 8月19日
皇太夫人 天安 2年 11月7日 858年 12月15日
立后前位階 ?一位
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藤原 明子 (ふじわら の あきらけいこ [1] 、ふじわら の めいし、 天長 6年( 829年 ) - 昌泰 3年 5月23日 900年 6月22日 ))は、 文?天皇 女御 で、 ?和天皇 の母。父は太政大臣 藤原良房 、母は 嵯峨天皇 皇女の 源潔? [2] [3] 。のち 皇太夫人 、ついで 皇太后 染殿 里邸 だったため [4] 染殿后 (そめどの の きさき)とよばれた [2] [3]

略? [ 編集 ]

文?天皇が 皇太子 だったときに入?して東宮 御息所 となる。 嘉祥 3年( 850年 )3月19日に?位あって文?天皇が?位、直後の3月25日に第四皇子?惟仁親王( ?和天皇 )を産む。明子は第三皇女の 儀子?親王 も産んでいる(生年不詳)。7月9日には女御の宣下を被る。このとき惟仁親王にはすでに3人の異母兄がおり、天皇は更衣? 紀?子 所生の第一皇子 惟喬親王 を鍾愛してこれに期待していたが、結局良房の?力に屈し、惟仁親王が同年11月に生後8か月で 立太子 した。 仁? 3年( 853年 )に ?三位 に、 天安 2年( 858年 )には ?一位 に?された。所生の惟仁親王の?位( ?和天皇 )に伴い同年 皇太夫人 となる。さらに 貞? 6年(864年)には 皇太后 、孫の 陽成天皇 の?位後の 元慶 6年( 882年 )に 太皇太后 となった [2] [3]

父の良房が「年?れば ?は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」と詠じて、明子を?花とみた話が『古今集』によって?わっており、大?な美貌の持ち主だったという [2] [3]

貞? 7年( 865年 )ごろから、物の怪に?まされるようになったという記述が『 今昔物語集 』(?第二十「染殿后?天宮被橈?語 第七」)『 古事談 』(?第三第十五話)『 平家物語 』(延慶本)『 宇治拾遺物語 』(第百九十三話)などに散見され [5] 、これらの記述にある言動により一種の ?極性障害 に罹患していたとみる?もある [6]

明子の存在は結果的には藤原氏に ??政治 をもたらす一つの?史的要因となったが [2] [3] 、本人は病のせいもあってか引きこもりがちで自ら表に出ることはなかった。

6代の天皇の治世を見?けたのち、72?で崩御した。

藤原明子 (染殿后)を扱った作品 [ 編集 ]

  • 『?の鬼』-今昔物語「染殿の后」が原作の?面劇?曲(白神貴士-2011年)

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 「藤原明子」『世界大百科事典 第2版』?『大?林』
  2. ^ a b c d e 谷口美樹「藤原明子」『朝日日本?史人物事典』朝日新聞出版 。
  3. ^ a b c d e 「藤原明子」『世界大百科事典』平凡社。
  4. ^ 『日本史蹟大系 第3?』平凡社,p1108-p1111「染殿跡」。染殿は父の良房の本邸。?和天皇も、染殿の南部分( ?和院 )を?位後の在所とした。
  5. ^ 趙文珠「『平家物語』の建?門院造形 : 延慶本を中心に」『日本文??究』第36?、梅光?院大?、2001年2月20日、 NAID   110000993918  
  6. ^ 高橋正雄「文?に見るリハビリテ?ション『今昔物語』の染殿の后?躁病的な特?」『?合リハビリテ?ション』第43?第10?、MedicalFinder、2015年10月10日。