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草野心平

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
草野 心平
(くさの しんぺい)
1955年頃
誕生 1903年 5月12日
福島? 石城郡 上小川村 (現? いわき市 田中小川町
死? ( 1988-11-12 ) 1988年 11月12日 (85??)
埼玉? 所?市
墓地 常慶寺(福島?いわき市)
職業 詩人
言語 日本語
?籍 日本の旗 日本
最終?? ?東嶺南大?(現? 中山大?
代表作 冬眠、春殖、天?
親族 草野櫻子 (孫)
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草野 心平 (くさの しんぺい、 1903年 明治 36年) 5月12日 - 1988年 昭和 63年) 11月12日 )は、 日本 詩人 福島? 石城郡 上小川村 (現? いわき市 田中小川町 )出身。 日本芸術院 ?員、 文化功?者 文化?章 受章者。

慶應義塾普通部 を中退、 中? ?東 嶺南大? 芸術科に?んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に 逸見猶吉 創刊の詩誌「 ?程 」に?加。その後、日本の 傀儡政? である 南京 汪兆銘 政府の宣?部顧問となった。南京でできた『富士山』(1943年)に?制的思想の影響を指摘する評もある。?後、「?程」を復刊して多くの詩人を育て、 を愛した。

?? [ 編集 ]

生い立ち [ 編集 ]

1903年(明治36年)5月12日、福島?石城郡上小川村に、父?草野馨、母?トメヨの次男として生まれる [1] 1907年 (明治40年)5月に妹が生まれ、その後一家は上京するが心平のみ生家の祖父母の元で育てられる [1] 1910年 (明治43年)4月、上下小川組合村村立小川尋常高等小?校に入?する [1] 1911年 (明治44年)2月、祖父が67?で死去、祖父の高?は福島??議員や村長を務めた地主だった [1]

1916年 (大正5年)1月、兄が結核性 カリエス のため東京で16?で死去、2月、上小川で療養中の母が 肺結核 のため46?で死去する [1] 。4月、福島?立磐城中?校(現? 福島?立磐城高等?校 )に入?する [1] 。8月、姉が 腸チフス のため22?で死去する [1]

1919年 (大正8年)11月、磐城中?校を4年生で中退、翌月上京し、父、?母、弟妹と小石川?白山上の借家に同居する [2] 1920年 (大正9年)4月、 慶應義塾普通部 3年生に編入したが9月に中退し、??にある?母の知人宅に寄宿して 正則英語?校 善隣書院 で?ぶ [2]

1921年 (大正10年)1月、 中? に出航する [2] 。?東?業公司で?きながら YMCA で英語を?び、9月には ?州 嶺南大? (現? 中山大? )に入?する [2] 1922年 (大正11年)、兄?民平の遺した詩稿に影響を受け、詩を作り始める [2]

初の詩集 [ 編集 ]

1923年 (大正12年)3月、詩誌『詩聖』に投稿誌「無題」が?載される [2] 。7月、 ?兵?査 のため??中に、自筆の 謄?版 による兄との合著詩集『?園の喇叭』を刊行する [2] 。9月、?州に?る [2] 1924年 (大正13年)2月から4月にかけて謄?版詩集『空と電柱』Ⅰ?Ⅲを刊行する [2] 。6月、 北京 タゴ?ル と?う [2] 。7月、夏期休暇で??中に謄?版詩集『月蝕と花火』を刊行する [2] 。9月には嶺南大?の最終過程に進み、また新設された日本語講座の講師を務めるようになる [2] 。同月、謄?版詩集『BATTA』を刊行 [2] 。同じ頃、日本から送られてきた 宮?賢治 の詩集『 春と修羅 』を?み感銘を受ける [2] [3] 。12月、謄?版詩集『??』を刊行する [2]

1925年 (大正14年)2月、謄?版詩集『919』を刊行する [4] 。4月、同人誌『銅?』を創刊 [4] 、宮?賢治や 八木重吉 らを同人に誘う [3] 。賢治は?加したが [3] 、重吉は 佐藤?之助 の『詩之家』に?加していたため加入しなかった [5] 。それでも心平は に住んでいた重吉を自宅まで訪ねている [6] 。7月、 排日運動 の激化により大?は卒業せずに日本に??する [4] 。8月、『銅?』の同人の1人がモデルをしていたことから、 高村光太? を訪問し知り合い、以後親交を深める [4]

1928年 (昭和3年)6月、同人誌『銅?』を16?をもって終刊する [4] 。同月、?母の異母妹にあたる江島や?と結婚、9月には東京から群馬? 前橋市 へ?居する [4] 。11月、 活版印刷 としては初の詩集となる『第百階級』を刊行する [4] 。全篇が をテ?マにしたものであり、以後も、この生物を扱った詩を書き?けた。12月、詩誌『?校』を創刊する(翌年の10月に7?で終刊) [7]

『?程』創刊 [ 編集 ]

1929年 (昭和4年)6月、 上毛新聞社 に入社し校正部に勤務する [4] 。7月、長男が生まれる [7] 。9月頃から前橋に??していた 萩原朔太? と交流をもつ [8] 1930年 11月、上毛新聞社を退社し??する [8]

1931年 (昭和6年)1月、 小野十三? ? 萩原恭次? との共?で『アメリカプロレタリヤ詩集』を刊行する [8] 。2月に上京、5月に 麻布十番 で屋台の?き鳥屋を開店する(翌年5月に閉店) [8] 。9月、謄?版詩集『明日は天?だ』を刊行する [8] 。1932年(昭和7年)、 ?業之世界社 に入社し、編集校正を??する [8]

1934年 (昭和9年)1月、宮?賢治が前年9月に亡くなったことを受け『宮?賢治追悼』を編集?刊行する [8] 。賢治には生前に?う機?はついになく、高村光太??由で訃報を知り 花? の?家を訪れることになった。5月、 帝都日日新聞 (?行: ?業之日本社 )に移籍する [8] 。10月、心平が共同責任編集者となった『宮?賢治全集』( 文圃堂書店 )の第1?が刊行、全集は全3?で翌年9月に完結した [8]

1935年 (昭和10年)5月、詩誌『 ?程 』を創刊する [8] 。創刊時の同人は、心平、 岡崎?一? 尾形?之助 高橋新吉 中原中也 土方定一 菱山修三 逸見猶吉 、宮?賢治(物故同人)の9名で、その後、 山之口? 伊藤信吉 、小野十三?らが加わった [8] 。『?程』は 1944年 (昭和19年)3月に中?するまでに26?まで刊行された [9] 。11月には詩誌『コスモス』の創刊に?加した [10]

南京時代 [ 編集 ]

1938年 (昭和13年)2月から4月まで、帝都日日新聞の記者として ?州 ? 中? を視察する [10] 。そのときの模?を『支那点?』(三和書房、1939年)にまとめている(なお、同時期の日記は現存しない。また南京?落の 1937年 12月 には南京には?在していない)。12月、詩集『蛙』を刊行する [10] 1939年 (昭和14年)2月、『蛙』出版記念?を開催、 谷川徹三 、萩原朔太?らも出席する [10] 。3月、祖母のトメが89?で死去する [10] 。11月、帝都日日新聞を退社し、翌月、 東?解放社 に入社、月刊『東?解放』の編集長となる [10]

1940年 (昭和15年)7月、 中華民? 中央政府(南京政府)の招き [注? 1] で同政府の宣?部顧問として中?へ渡る [11] 。翌年7月からは家族も?同し、1946年までの約6年間を 南京 で過ごすことになる [12] 大東?文?者大? (帝?劇場)に中華民?(汪兆銘政?)代表として出席、1943年に汪兆銘政?が英米に宣?布告した際には「宣?布告」という詩を「??新聞」に?げている。

1945年 (昭和20年)7月、南京駐在陸軍により現地召集され兵役につく [12] 。陸軍二等兵。8月の敗?で全財産が??され、南京日僑集中?に約半年間?容される [12] 1946年 (昭和21年)3月、上海から ?還船 LSTに?船、31日、生家着。

『?程』復刊 [ 編集 ]

1947年 (昭和22年)7月、『?程』を復刊する [12] 。10月、故?の小川??前に貸本屋「天山」を開店する [12] 1948年 (昭和23年)、貸本屋を8か月で閉店後、8月に?身上京する [12] 。千葉?の浦安に落ち着き、のち江?川?へ。 1949年 (昭和24年)8月、練馬?下石神井の御岳神社社務所に移り、?里から家族を呼ぶ。 神田神保町 にある ラドリオ が開業した同年のクリスマスには 古田晁 とラドリオで初めて?面している [13] 。またラドリオでは、中華がゆが提供されていたことがあり、草野の友人から習って提供したことから「心平がゆ」と名付けてもよいといわれていた [14]

1950年 (昭和25年)1月、一連の「蛙の詩」により第1回 ??文?賞 (詩歌部門)を受賞する [15] 。11月、 日本文芸家協? 理事に就任する [16] 1951年 (昭和26年)3月、 現代詩人? が創設した H氏賞 の第1回選考委員を務める [16]

居酒屋「火の車」 [ 編集 ]

1952年 (昭和27年)3月、文京? 小石川 田町に居酒屋「火の車」を開店する [16]

1953年 (昭和28年)、 福島? ?葉郡 川?村 長福寺 の住職 矢?俊晃 の招聘で同村 平伏沼 モリアオガエル を見に行く。

1954年 (昭和29年)4月、現代詩人?幹事長に選出される [16] 。「??新聞」に、汪兆銘を描いた小?「運命の人」を連載した。

1956年 (昭和31年)、平伏沼畔に心平の歌碑が建立される。12月、居酒屋「火の車」を閉店する [16] 1957年 (昭和32年)4月、 日本ペンクラブ 理事に就任する [16]

天山文庫 [ 編集 ]

1960年 (昭和35年)6月、新宿御苑前にバ?「?校」を開店する [17] 。9月、福島?川?村の名?村民となる [17]

1963年 (昭和38年)10月、北多摩郡東村山町南秋津(現: 東村山市 秋津町)に建てた家に?居する [17]

1965年 (昭和40年)8月、 日本現代詩人? ?長になる [17]

1966年 (昭和41年)7月、川?村名?村民の褒賞として建設された 天山文庫 が完成する [17] 。その後?年7月に 天山祭り が開催されるようになる。

詩業の集成 [ 編集 ]

1956年 4月2日、親交が厚かった高村光太?が肺結核により死去。光太?の死を受けて心平は翌4月3日付の『朝日新聞』に「高村光太?死す」と題する詩を寄稿した [18] [注? 2]

1969年 には前?の詩「高村光太?死す」などを??したエッセイ集『わが光太?』 [19] を刊行。

1970年 (昭和45年)1月、『わが光太?』が第21回??文?賞(評論?記部門)を受賞する [20] 。6月、詩集『太陽は東からあがる』を刊行する [20] 。7月、 韓? ソウルで開催された第37回 ?際ペン 大?に 川端康成 と共に招待される [20] [21] 。9月、評論『わが賢治』を刊行する [20]

1973年 (昭和48年)5月、『草野心平詩全景』(筑摩書房)が刊行される [20] 1974年 (昭和49年)9月、妻?や?が66?で死去する [20] 。この年から1年の1冊のペ?スでの「年次詩集」の刊行を開始し、1986年までに12冊の詩集を出す [20]

1975年 (昭和50年)、 日本芸術院 ?員となる [22]

1976年 (昭和51年)、3月29日、 東京都 東村山市 秋津にある自宅に隣家の火事が類?し半?。草野本人は避難して無事だった。 1977年 (昭和52年)4月、 ?三等瑞?章 を受章する [22] 1978年 (昭和53年)5月、筑摩書房より『草野心平全集』の刊行開始、1984年5月に全12?で完結した [22]

1983年 (昭和58年)10月、 文化功?者 になる [22] 1984年 (昭和59年)7月、いわき市名?市民となる [23]

最晩年 [ 編集 ]

1986年 (昭和61年)6月、最後の詩集となる『自問他問』を刊行する [24] 。8月、 ?梗塞 で倒れ入院、12月に退院する [24] 1987年 (昭和62年)3月、再び?梗塞で倒れ入院、7月に退院するが9月に再入院する [24] 。10月、文化?より 文化?章 授章の打診を受け、11月に車椅子で?達式に出席する [24]

1988年 (昭和63年)11月12日、自宅で?調を崩し、搬送先の 埼玉? 所?市 所?市市民?療センタ? 急性心不全 のため死去 [25] 。85??。同月28日に?山葬儀場で「未?を祭れ?草野心平を送る集い」と題された葬式が行われた [24]

?後 [ 編集 ]

1998年 平成 10年)7月、心平の功績が?えられ、 福島? いわき市 いわき市立草野心平記念文?館 が開館した [24]

2003年 (平成15年)4月、 草野心平生家 が一般公開された [26]

墓石は、福島?いわき市小川町上小川の 常慶寺 にある [27]

家族 [ 編集 ]

心平は5人きょうだいの3番目で、9?上の姉、4?上の兄、1907年生まれの妹、1910年生まれの弟がいる [1]

兄の民平は1916年(大正5年)1月に結核性 カリエス のため16?で東京で死去した [1] 。姉の綾子も同年8月に 腸チフス のため22?で死去している [1] 。心平は兄の遺していた詩稿に影響を受け詩作を始め、1923年(大正12年)には自筆の謄?版刷りで兄との合著詩集『?園の喇叭』を刊行している [2]

1910年(明治43年)2月に東京小石川?林町で生まれた弟の天平も詩人で、1952年(昭和27年)に 肺結核 のため42?で死去した [1] [16]

詩作品 [ 編集 ]

初期の作品を除くと、ほとんどの詩において、文末に句点が用いられている。そのかわりに?点はほとんど使われていない。『第四の蛙』から『侏羅紀の果ての昨今』まで 新?名 を採用していたが、それ以前と以後は ??名 である。

「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテ?マとした詩を書き?けた。この分野では、蛙の鳴き?がさまざまな オノマトペ で表現されている一方、いくつかの前衛的な試みが行われている。たとえば「 冬眠 」を構成するのは?丸1文字のみである。また、「Nocturne. Moon and Frogs」「天?」などでは??的な手法が用いられている。

 るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる

                      」

蛙について心平は『第百階級』のあとがきで「僕は蛙なんぞ愛してゐない!」と叫んだことがあった。?際、蛙についての詩作をやめようと思ったこともあったと詩集『第四の蛙』の「?え書I」にはある。1948年(昭和23年)に『定本 蛙』を出したいきさつについて、「もう蛙も年貢の納めどきだろうから」と語っている。しかしその後も心平は蛙の詩を書くことを止めなかった。

『第四の蛙』の最初の後書きである「?え書I」は1961年(昭和36年)1月に書かれた。すぐに出版されたわけでなく、蛙に?する詩を作り?けた結果、同年10月に「?え書II」を?すことになる。詩集では、最初の?え書と2番目の間に8篇の詩が書かれている。その後も蛙の作品をいくつか作り、結局、「?え書III」「?え書IV」を入れて、ようやく1964年(昭和39年)に出版された。出版によって「一?の終結」(「?え書IV」)をみせたと語りながら、「III」の中では再び蛙の作品を書きたくなったと告白している。「IV」においては、蛙の詩に「終り」をつけようとしながら、一方で「蛙に?する詩がこれで終ったとは言い切れないような?がする」とも書いている。そして、蛙のモチ?フはこの後、『こわれたオルガン』や『太陽は東からあがる』などにも現れ、最後の詩集『自問他問』にも2編の詩がある。「かへるのコはかへる」「性?性」である。

この生物に?する詩集を4冊(『第百階級』『蛙』『定本 蛙』『第四の蛙』)?しているが、蛙の詩群は、心平の詩作品の全てではない。 富士山 をはじめとした山についてのもの、海に?するもの、 シルクロ?ド を扱ったもの(詩集『絲綢之路』はこれを集めたもの)もある。身??記に?するものもかなり書かれているが、 中原中也 の訃報に寄せた詩篇「空間」(『絶景』所?)では、「地球」という言葉を用いて、作者(あるいは語り手)が冷酒を?む詩「豊旗酒」(『乾坤』所?)では、「 八岐大蛇 」「 古事記 」「富士(山)」という言葉を配置している。

富士山は心平の詩句に頻出し、これを題材とした詩集『富士山』も編んでいる。1940年(昭和15年)から富士についての詩を?表しはじめた。同じ年、南京に渡り、以後?年間この地を中心に創作活動に?事する(「作品第壹」では本文中で、「作品第拾?」では注?のなかで、?際の山を見ているわけではないことが示されている)。1943年(昭和18年)に、17篇をまとめて『富士山』として 昭森社 から刊行する。その後も、折に?れて富士にまつわる詩を?表した。『大白道』『日本沙漠』『牡丹?』『天』におさめられた9つの詩篇は、『草野心平詩全景』(1973年〔昭和48年〕)において、作品番?が振られ、26の連作詩集『富士山』の一部となった。これとは別に、1966年(昭和41年)には 岩崎美術社 から同名の詩集を刊行している。18の詩篇から成り、先の26篇と重複するものはない。

心平が蛙と同?、生涯にわたって追い求めた「富士山」は、やはり最後の詩集にも登場する。「何何富士」という詩では、富士山が唯一無二であるという前提の下、「富士」という名のつく山を皮肉りながらも、それぞれの山の美しさや?自性などを?美しようとする。

また「天」という言葉もよく現れ [注? 3] 、この言葉を題名にした作品も少なくない(「天のベンチ」「猛烈な天」「空?天」「宇宙天」など)。

コウノトリの。
鳴き?の。
あと。
音なく。
一切なく。
ここは地球の。
ドまんなか。

動かない。
天の。
?鎌の。
月。

「夜景」から

昭和30年代を除けば心平は多作な詩人であり、『第百階級』以前にも1923年(大正12年)から1925年(大正14年)にかけて8冊の詩集が編まれている。1973年(昭和48年)には、それまでの詩業の大部分をおさめた『草野心平詩全景』が 筑摩書房 から刊行されたが、その翌年から同社の協力の下、1年に1冊のペ?スで詩集を出版する企?がスタ?トした。いわゆる「年次詩集」である。出版社が倒産した1978年(昭和53年)を除き、1986年(昭和61年)まで刊行が?けられた(1985年〔昭和60年〕刊『絲綢之路』は 思潮社 からのものであり、年次詩集には含まれない)。この間に、同社から『草野心平全集』(1978-1984年 全12?)が刊行されたが、出版年から分かるように、年次詩集は途中(『乾坤』)までしか??されていない。『侏羅紀の果ての昨今』からは、『第四の蛙』のように一度?え書(後書き)をしたためた後にできた?篇の詩が?え書の後に配置され、「?え書 II」が書かれるようになる。

晩年の詩のいくつかでは、過去の自作からの引用が積極的に行われている。たとえば、『牡丹?』(1948年〔昭和23年〕)??の「ゆき」は、?科書にも?載され、?く知られる詩の1つであるが、この作品に登場する文章を一部改?した上で『幻象』(1982年〔昭和57年〕)の同名詩に使用した。そして、「ゆき」の擬音は、「童詩?ゆき」(1985年〔昭和60年〕刊『幻景』)でも取り入れられている。また、『全天』『植物も動物』『原音』に??された「dying-fantasy」「Okhotsk-fantasy」「Nojiri-fantasy」というタイトルの詩は、いずれも『絶景』(1940年〔昭和15年〕)の冒頭詩「Bering-Fantasy」を意識したものと見られる。

心平の詩(特に蛙もの)はいくつも曲がつけられている。例えば「蛇祭り行進」(『第百階級』)は、 ??保二 多田武彦 堀?子 南弘明 によって 男?合唱 曲にされ、いずれも出版されている。「蛙の?明(しょうみょう)」(『こわれたオルガン』)という詩は、 石井眞木 によって、?際に ?明 化された。心平は、詩人と作曲家の共同によって、新しい歌曲を生み出そうとする音?グル?プ「 ランディの? 」に?加していたことがあり、自身の詩の音?化に?心を持っていた詩人の1人である。 ?水脩 の「蛙の歌」はここで?表されている。 1992年 三木稔 が作曲したフォ?クオペラ「よみがえる」は、心平のさまざまな詩を素材に、 ふじたあさや が物語として構成したものであり、登場人(ではなく蛙)物の「ごびらっふ」「ぐりま」「るるる」などは原作にも登場している。

草野の詩の評?としては、宇宙的なまでに?がった世界?のなかで存在の孤?をニヒリスティックに、あるいはまた瑞?しく描いたともいわれ、彼の詩には「存在の愛(かな)しさ」と孤?が?調されながら、一方で野性的なまでの生命力に?ちている [28] 。だが、その世界の時空間が宇宙的?太古的に昇華されることで、社?的?係性が欠如しているという批判もかつてはあった [29]

主要著書 [ 編集 ]

物語 [ 編集 ]

  • 三つの虹(1949年)
  • 運命の人(1955年)
  • 七つの愛と死(1957年)
  • ???智?子抄(1975年)
  • ばあばらぶう(1977年)
  • 茫?半世紀(1983年)

?筆?詩論など [ 編集 ]

  • 火の車(1951年)
  • 詩と詩人(1954年)
  • わが?春の記(1965年)
  • わが生活のうた(1966年)
  • わが光太?(1969年)
  • アベベの猫柳(1970年)
  • わが賢治(1970年)
  • 蛙の全?(1974年)
  • 私の中の流星群(1975年)
  • 止まらない時間のなかを(1976年)
  • ????(1976年)
  • ?想招宴(1977年)
  • 酒味酒菜(1977年)
  • ??私の中の流星群(1977年)
  • 凹凸の道(1978年)
  • 小動物抄(1978年)
  • 口福無限(1981年)

紀行 [ 編集 ]

  • 支那点?(1939年)
  • 点?線?天(1957年)
  • 所?方?(1975年)

著書 [ 編集 ]

  • 『第百階級 草野心平詩集』銅?社, 1928
  • 『母岩 詩集』?程社, 1936
  • 『蛙 詩集』三和書房, 1938
  • 『支那点?』三和書房, 1939
  • 『大白道』甲鳥書林, 1944
  • 『日本沙漠 草野心平詩集』 ?磁社 , 1948
  • 『牡丹?』鎌倉書房, 1948
  • 『三つの虹』ともだち文庫 茂田井武 ?、 中央公論社 , 1949
  • 『草野心平詩集』創元選書, 1950
  • 『草野心平詩集』 角川文庫 , 1950
  • 『火の車』 創元社 , 1951
  • 『天 草野心平詩集』 新潮社 , 1951
  • 『宮澤賢治?書』創元社, 1951、 講談社文芸文庫 , 1991
  • 『カンガル?の子』 世界の?本 ?水崑 ?、新潮社, 1951
  • 『草野心平詩集』 豊島?志雄 編、 新潮文庫 , 1952
  • 『?細?幻想 詩集』創元社, 1953
  • 『詩と詩人』和光社, 1954
  • 『運命の人』新潮社, 1955
  • 『火の車?筆 貧乏も愉し』?書房, 1955
  • 『点?線?天 以前の中?と今の中?』 ダヴィッド社 , 1957
  • 『七つの愛と死』 ?生書房 , 1957
  • 『わが?春の記』オリオン社, 1965
  • 『わが生活のうた 草野心平?想集』( 現代?養文庫 ) 社?思想社 , 1966
  • 『マンモスの牙 草野心平詩集』 思潮社 , 1966
  • 『草野心平詩集』 ( 田村隆一 編、世界の詩)?生書房, 1966
  • 『富士山』 棟方志功 ?、岩崎美術社, 1966
  • 『こわれたオルガン』昭森社, 1968
  • 『わが光太?』 二玄社 , 1969 講談社文芸文庫、1990
  • 『アベベの猫柳』?娥書房, 1970
  • 『止る?く』 (ピルグリム?エッセイシリ?ズ4) 東京美術 , 1970
  • 『太陽は東からあがる』?生書房, 1970
  • 『わが賢治』二玄社, 1970
  • 『侏羅紀の果ての昨今 詩集』八坂書房, 1971
  • 『草野心平詩全景』 筑摩書房 , 1973
  • 『凹凸 詩集』筑摩書房, 1974
  • 『蛙の全?』落合書店, 1974
  • 『所?方?』?生書房, 1975
  • 『私の中の流星群 死者への言葉』新潮社, 1975
  • 『??私の中の流星群』新潮社, 1977.2
    • 『新編 私の中の流星群 死者への言葉』筑摩叢書, 1991.5
  • 『???智?子抄』?生書房, 1975
  • 『全天 詩集』筑摩書房, 1975
  • 『止まらない時間のなかを 草野心平?想集』 PHP?究所 , 1976
  • 『植物も動物 詩集』筑摩書房, 1976
  • 『天竺 詩?集』棟方志功 ?、筑摩書房, 1976
  • 『???? ユ?モアエッセイ集』番町書房, 1976
  • 『?想招宴』 (あまカラ選書) ロングセラ?ズ , 1977.10
  • 『ばあばらぶう』筑摩書房, 1977.12
  • 『詩集原音』筑摩書房, 1977.12
  • 『酒味酒菜』ゆまにて, 1977.2
  • 『小動物抄』新潮社, 1978.11
  • 草野心平全集 』全13? 筑摩書房, 1978-84
  • 『凹凸の道 ?話による自?』 文化出版局 , 1978.5
  • 『草野心平詩集』 宗左近 編、 旺文社文庫 , 1978.8
  • 『乾坤 詩集』筑摩書房, 1979.3
  • 『詩集雲?』筑摩書房, 1980.3
  • 『玄玄 詩集』筑摩書房, 1981.3
  • 『口福無限』 講談社 , 1981.4、講談社文芸文庫, 2009
  • 『草野心平詩集』 現代詩文庫 思潮社, 1981.7
  • 『幻象 詩集』筑摩書房, 1982.3
  • 『未? 詩集』筑摩書房, 1983.3
  • 『茫?半世紀』新潮社, 1983.4
  • 『玄天 詩集』筑摩書房, 1984.4
  • 『?綢之路 シルクロ?ド詩篇 詩集』思潮社, 1985.12
  • 『幻景 詩集』筑摩書房, 1985.4
  • 『自問他問 詩集』筑摩書房, 1986.6
  • 『草野心平詩集』 入?康夫 編、 岩波文庫 , 1991.11 - 以下は?後刊
  • 『作家の自? 16 草野心平』 (シリ?ズ?人間?書館) 日本?書センタ? , 1994.10
  • 『草野心平詩集』 粟津則雄 編、(芸林21世紀文庫) 芸林書房, 2002.6
  • 草野心平日記 』全7? 思潮社, 2004
  • 『草野心平 わが?春の記』 (人間の記?)日本?書センタ?, 2004.9
  • 『草野心平詩集』 ハルキ文庫 角川春樹事務所 , 2010.3

編著?共著 [ 編集 ]

  • 『宮澤賢治追悼』編 次?社, 1934
  • 『宮澤賢治?究』編 十字屋書店, 1939.9、筑摩書房, 1958 のち全集別?
  • 『日本?愛詩集』編 (世界?愛文?名作選) 羽田書店, 1951
  • 『高村光太??究』編 筑摩書房, 1959
  • 『高村光太?と智?子』編 筑摩書房, 1959
  • 『東北の旅』 大池唯雄 ? 富木友治 共著、社?思想?究?出版部?現代?養文庫, 1961
  • 『草野民平詩集』編 ?娥書房, 1971
  • 日本の名?筆 2 鳥』編 作品社 , 1983.4

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?校歌 [ 編集 ]

草野心平が作詞を手掛けた校歌??歌。?考:草野心平作詞校歌?集サイト [30] 、いわき市立草野心平記念文?館「草野心平の校歌」 [31]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 南京に成立した 汪兆銘 中華民??民政府 の宣?部長を務めていた 林柏生 (心平の 嶺南大? の同窓生)に誘われたとされる。
  2. ^ 「高村光太?死す」は 新潮文庫 版『 智?子抄 』の解?で心平が生前の光太?との交流について綴ったエッセイ「悲しみは光と化す」にも??されている。
  3. ^ 詩集『天』では、これまでに書いた作品の約7割に天が出てくると書いている。 豊島?志雄「『草野心平詩集』解?」 を?照。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 年譜 2010 , p. 243.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 年譜 2010 , p. 244.
  3. ^ a b c 堀尾?史 『年譜 宮?賢治?』 中央公論社 < 中公文庫 >、1991年、pp.223 - 224
  4. ^ a b c d e f g h 年譜 2010 , p. 245.
  5. ^ “房?の作家 八木重吉(13) 念願の友を得る” . 千葉日報 . (2011年4月11日) . https://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/39632 2018年11月11日 ??。  
  6. ^ 澤村修治 『八木重吉のことば こころよ、では行っておいで』 理論社 、2015年、pp.179 - 180
  7. ^ a b 年譜 2010 , p. 245-246.
  8. ^ a b c d e f g h i j k 年譜 2010 , p. 246.
  9. ^ 年譜 2010 , p. 246-247.
  10. ^ a b c d e f 年譜 2010 , p. 247.
  11. ^ 年譜 2010 , p. 247-248.
  12. ^ a b c d e f 年譜 2010 , p. 248.
  13. ^ 林 2002 , p. 204.
  14. ^ 高田 1993 , p. 41.
  15. ^ 年譜 2010 , p. 248-249.
  16. ^ a b c d e f g 年譜 2010 , p. 249.
  17. ^ a b c d e 年譜 2010 , p. 250.
  18. ^ 第66回連翹忌。 ”. 高村光太?連翹忌運?委員?. 2024年2月29日 ??。
  19. ^ 講談社文芸文庫 現代日本のエッセイ わが光太? ”. 版元ドットコム . 2024年2月29日 ??。
  20. ^ a b c d e f g 年譜 2010 , p. 251.
  21. ^ 日本ペンクラブ 小史 ”. 日本ペンクラブ . 2023年12月26日 ??。
  22. ^ a b c d 年譜 2010 , p. 252.
  23. ^ 名?市民制度の?要 ”. いわき市 (2016年1月24日). 2023年12月25日 ??。
  24. ^ a b c d e f 年譜 2010 , p. 253.
  25. ^ 岩井? 『作家の臨終?墓碑事典』(東京堂出版、1997年)126頁
  26. ^ いわき市草野心平生家 ”. いわきユニバ?サル?光ガイド . NPO法人いわき自立生活センタ?. 2023年12月22日 ??。
  27. ^ 常慶寺 ”. いわき市?光サイト . 2023年12月22日 ??。
  28. ^ (佐?木 1979) p.57
  29. ^ (佐?木 1979) p.55
  30. ^ 草野心平作詞校歌?集サイト ”. 島村?究室 . 2023年12月24日 ??。
  31. ^ いわき市立草野心平記念文?館「草野心平の校歌」4月14日(土)~6月17日(日) ”. ふくしまの旅 . 福島??光物産交流協? (2018年4月15日). 2023年12月24日 ??。
  32. ^ 長野?野?北高等?校校章?校歌 ”. www.nagano-c.ed.jp . 2022年3月10日 ??。

?考文? [ 編集 ]

  • 佐?木順子「草野心平?究史( 西尾光雄 先生記念?)」『日本文學』第51?、東京女子大?、1979年2月28日、46-63頁、 NAID   110007185023  
  • 「年譜」『草野心平詩集』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2010年3月18日、243-253頁。 ISBN   978-4758434621  
  • 林哲夫 『喫茶店の時代』筑摩書房、2002年。 ISBN   978-4480436450  
  • 高田講治「特集「文化と?統を育てた 名門老?喫茶店」」『サライ』第5?第12?、1993年6月17日、37-51頁、 大宅?一文庫 所?: 100039344  

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]