草野 心平
(くさの しんぺい、
1903年
(
明治
36年)
5月12日
-
1988年
(
昭和
63年)
11月12日
)は、
日本
の
詩人
。
福島?
石城郡
上小川村
(現?
いわき市
田中小川町
)出身。
日本芸術院
?員、
文化功?者
、
文化?章
受章者。
慶應義塾普通部
を中退、
中?
?東
の
嶺南大?
芸術科に?んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に
逸見猶吉
創刊の詩誌「
?程
」に?加。その後、日本の
傀儡政?
である
南京
の
汪兆銘
政府の宣?部顧問となった。南京でできた『富士山』(1943年)に?制的思想の影響を指摘する評もある。?後、「?程」を復刊して多くの詩人を育て、
蛙
を愛した。
??
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]
生い立ち
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]
1903年(明治36年)5月12日、福島?石城郡上小川村に、父?草野馨、母?トメヨの次男として生まれる
。
1907年
(明治40年)5月に妹が生まれ、その後一家は上京するが心平のみ生家の祖父母の元で育てられる
。
1910年
(明治43年)4月、上下小川組合村村立小川尋常高等小?校に入?する
。
1911年
(明治44年)2月、祖父が67?で死去、祖父の高?は福島??議員や村長を務めた地主だった
。
1916年
(大正5年)1月、兄が結核性
カリエス
のため東京で16?で死去、2月、上小川で療養中の母が
肺結核
のため46?で死去する
。4月、福島?立磐城中?校(現?
福島?立磐城高等?校
)に入?する
。8月、姉が
腸チフス
のため22?で死去する
。
1919年
(大正8年)11月、磐城中?校を4年生で中退、翌月上京し、父、?母、弟妹と小石川?白山上の借家に同居する
。
1920年
(大正9年)4月、
慶應義塾普通部
3年生に編入したが9月に中退し、??にある?母の知人宅に寄宿して
正則英語?校
、
善隣書院
で?ぶ
。
1921年
(大正10年)1月、
中?
に出航する
。?東?業公司で?きながら
YMCA
で英語を?び、9月には
?州
の
嶺南大?
(現?
中山大?
)に入?する
。
1922年
(大正11年)、兄?民平の遺した詩稿に影響を受け、詩を作り始める
。
初の詩集
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]
1923年
(大正12年)3月、詩誌『詩聖』に投稿誌「無題」が?載される
。7月、
?兵?査
のため??中に、自筆の
謄?版
による兄との合著詩集『?園の喇叭』を刊行する
。9月、?州に?る
。
1924年
(大正13年)2月から4月にかけて謄?版詩集『空と電柱』Ⅰ?Ⅲを刊行する
。6月、
北京
で
タゴ?ル
と?う
。7月、夏期休暇で??中に謄?版詩集『月蝕と花火』を刊行する
。9月には嶺南大?の最終過程に進み、また新設された日本語講座の講師を務めるようになる
。同月、謄?版詩集『BATTA』を刊行
。同じ頃、日本から送られてきた
宮?賢治
の詩集『
春と修羅
』を?み感銘を受ける
[3]
。12月、謄?版詩集『??』を刊行する
。
1925年
(大正14年)2月、謄?版詩集『919』を刊行する
。4月、同人誌『銅?』を創刊
、宮?賢治や
八木重吉
らを同人に誘う
[3]
。賢治は?加したが
[3]
、重吉は
佐藤?之助
の『詩之家』に?加していたため加入しなかった
[5]
。それでも心平は
柏
に住んでいた重吉を自宅まで訪ねている
[6]
。7月、
排日運動
の激化により大?は卒業せずに日本に??する
。8月、『銅?』の同人の1人がモデルをしていたことから、
高村光太?
を訪問し知り合い、以後親交を深める
。
1928年
(昭和3年)6月、同人誌『銅?』を16?をもって終刊する
。同月、?母の異母妹にあたる江島や?と結婚、9月には東京から群馬?
前橋市
へ?居する
。11月、
活版印刷
としては初の詩集となる『第百階級』を刊行する
。全篇が
蛙
をテ?マにしたものであり、以後も、この生物を扱った詩を書き?けた。12月、詩誌『?校』を創刊する(翌年の10月に7?で終刊)
。
『?程』創刊
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]
1929年
(昭和4年)6月、
上毛新聞社
に入社し校正部に勤務する
。7月、長男が生まれる
。9月頃から前橋に??していた
萩原朔太?
と交流をもつ
。
1930年
11月、上毛新聞社を退社し??する
。
1931年
(昭和6年)1月、
小野十三?
?
萩原恭次?
との共?で『アメリカプロレタリヤ詩集』を刊行する
。2月に上京、5月に
麻布十番
で屋台の?き鳥屋を開店する(翌年5月に閉店)
。9月、謄?版詩集『明日は天?だ』を刊行する
。1932年(昭和7年)、
?業之世界社
に入社し、編集校正を??する
。
1934年
(昭和9年)1月、宮?賢治が前年9月に亡くなったことを受け『宮?賢治追悼』を編集?刊行する
。賢治には生前に?う機?はついになく、高村光太??由で訃報を知り
花?
の?家を訪れることになった。5月、
帝都日日新聞
(?行:
?業之日本社
)に移籍する
。10月、心平が共同責任編集者となった『宮?賢治全集』(
文圃堂書店
)の第1?が刊行、全集は全3?で翌年9月に完結した
。
1935年
(昭和10年)5月、詩誌『
?程
』を創刊する
。創刊時の同人は、心平、
岡崎?一?
、
尾形?之助
、
高橋新吉
、
中原中也
、
土方定一
、
菱山修三
、
逸見猶吉
、宮?賢治(物故同人)の9名で、その後、
山之口?
、
伊藤信吉
、小野十三?らが加わった
。『?程』は
1944年
(昭和19年)3月に中?するまでに26?まで刊行された
。11月には詩誌『コスモス』の創刊に?加した
。
南京時代
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]
1938年
(昭和13年)2月から4月まで、帝都日日新聞の記者として
?州
?
中?
を視察する
。そのときの模?を『支那点?』(三和書房、1939年)にまとめている(なお、同時期の日記は現存しない。また南京?落の
1937年
12月
には南京には?在していない)。12月、詩集『蛙』を刊行する
。
1939年
(昭和14年)2月、『蛙』出版記念?を開催、
谷川徹三
、萩原朔太?らも出席する
。3月、祖母のトメが89?で死去する
。11月、帝都日日新聞を退社し、翌月、
東?解放社
に入社、月刊『東?解放』の編集長となる
。
1940年
(昭和15年)7月、
中華民?
中央政府(南京政府)の招き
[注? 1]
で同政府の宣?部顧問として中?へ渡る
。翌年7月からは家族も?同し、1946年までの約6年間を
南京
で過ごすことになる
。
大東?文?者大?
(帝?劇場)に中華民?(汪兆銘政?)代表として出席、1943年に汪兆銘政?が英米に宣?布告した際には「宣?布告」という詩を「??新聞」に?げている。
1945年
(昭和20年)7月、南京駐在陸軍により現地召集され兵役につく
。陸軍二等兵。8月の敗?で全財産が??され、南京日僑集中?に約半年間?容される
。
1946年
(昭和21年)3月、上海から
?還船
LSTに?船、31日、生家着。
『?程』復刊
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]
1947年
(昭和22年)7月、『?程』を復刊する
。10月、故?の小川??前に貸本屋「天山」を開店する
。
1948年
(昭和23年)、貸本屋を8か月で閉店後、8月に?身上京する
。千葉?の浦安に落ち着き、のち江?川?へ。
1949年
(昭和24年)8月、練馬?下石神井の御岳神社社務所に移り、?里から家族を呼ぶ。
神田神保町
にある
ラドリオ
が開業した同年のクリスマスには
古田晁
とラドリオで初めて?面している
。またラドリオでは、中華がゆが提供されていたことがあり、草野の友人から習って提供したことから「心平がゆ」と名付けてもよいといわれていた
。
1950年
(昭和25年)1月、一連の「蛙の詩」により第1回
??文?賞
(詩歌部門)を受賞する
。11月、
日本文芸家協?
理事に就任する
。
1951年
(昭和26年)3月、
現代詩人?
が創設した
H氏賞
の第1回選考委員を務める
。
居酒屋「火の車」
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]
1952年
(昭和27年)3月、文京?
小石川
田町に居酒屋「火の車」を開店する
。
1953年
(昭和28年)、
福島?
?葉郡
川?村
長福寺
の住職
矢?俊晃
の招聘で同村
平伏沼
に
モリアオガエル
を見に行く。
1954年
(昭和29年)4月、現代詩人?幹事長に選出される
。「??新聞」に、汪兆銘を描いた小?「運命の人」を連載した。
1956年
(昭和31年)、平伏沼畔に心平の歌碑が建立される。12月、居酒屋「火の車」を閉店する
。
1957年
(昭和32年)4月、
日本ペンクラブ
理事に就任する
。
天山文庫
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]
1960年
(昭和35年)6月、新宿御苑前にバ?「?校」を開店する
。9月、福島?川?村の名?村民となる
。
1963年
(昭和38年)10月、北多摩郡東村山町南秋津(現:
東村山市
秋津町)に建てた家に?居する
。
1965年
(昭和40年)8月、
日本現代詩人?
?長になる
。
1966年
(昭和41年)7月、川?村名?村民の褒賞として建設された
天山文庫
が完成する
。その後?年7月に
天山祭り
が開催されるようになる。
詩業の集成
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]
1956年
4月2日、親交が厚かった高村光太?が肺結核により死去。光太?の死を受けて心平は翌4月3日付の『朝日新聞』に「高村光太?死す」と題する詩を寄稿した
[18]
[注? 2]
。
1969年
には前?の詩「高村光太?死す」などを??したエッセイ集『わが光太?』
[19]
を刊行。
1970年
(昭和45年)1月、『わが光太?』が第21回??文?賞(評論?記部門)を受賞する
。6月、詩集『太陽は東からあがる』を刊行する
。7月、
韓?
ソウルで開催された第37回
?際ペン
大?に
川端康成
と共に招待される
[21]
。9月、評論『わが賢治』を刊行する
。
1973年
(昭和48年)5月、『草野心平詩全景』(筑摩書房)が刊行される
。
1974年
(昭和49年)9月、妻?や?が66?で死去する
。この年から1年の1冊のペ?スでの「年次詩集」の刊行を開始し、1986年までに12冊の詩集を出す
。
1975年
(昭和50年)、
日本芸術院
?員となる
。
1976年
(昭和51年)、3月29日、
東京都
東村山市
秋津にある自宅に隣家の火事が類?し半?。草野本人は避難して無事だった。
1977年
(昭和52年)4月、
?三等瑞?章
を受章する
。
1978年
(昭和53年)5月、筑摩書房より『草野心平全集』の刊行開始、1984年5月に全12?で完結した
。
1983年
(昭和58年)10月、
文化功?者
になる
。
1984年
(昭和59年)7月、いわき市名?市民となる
[23]
。
最晩年
[
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]
1986年
(昭和61年)6月、最後の詩集となる『自問他問』を刊行する
。8月、
?梗塞
で倒れ入院、12月に退院する
。
1987年
(昭和62年)3月、再び?梗塞で倒れ入院、7月に退院するが9月に再入院する
。10月、文化?より
文化?章
授章の打診を受け、11月に車椅子で?達式に出席する
。
1988年
(昭和63年)11月12日、自宅で?調を崩し、搬送先の
埼玉?
所?市
の
所?市市民?療センタ?
で
急性心不全
のため死去
[25]
。85??。同月28日に?山葬儀場で「未?を祭れ?草野心平を送る集い」と題された葬式が行われた
。
?後
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]
1998年
(
平成
10年)7月、心平の功績が?えられ、
福島?
いわき市
に
いわき市立草野心平記念文?館
が開館した
。
2003年
(平成15年)4月、
草野心平生家
が一般公開された
[26]
。
墓石は、福島?いわき市小川町上小川の
常慶寺
にある
[27]
。
家族
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]
心平は5人きょうだいの3番目で、9?上の姉、4?上の兄、1907年生まれの妹、1910年生まれの弟がいる
。
兄の民平は1916年(大正5年)1月に結核性
カリエス
のため16?で東京で死去した
。姉の綾子も同年8月に
腸チフス
のため22?で死去している
。心平は兄の遺していた詩稿に影響を受け詩作を始め、1923年(大正12年)には自筆の謄?版刷りで兄との合著詩集『?園の喇叭』を刊行している
。
1910年(明治43年)2月に東京小石川?林町で生まれた弟の天平も詩人で、1952年(昭和27年)に
肺結核
のため42?で死去した
。
詩作品
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"草野心平"
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(
2024年1月
)
|
初期の作品を除くと、ほとんどの詩において、文末に句点が用いられている。そのかわりに?点はほとんど使われていない。『第四の蛙』から『侏羅紀の果ての昨今』まで
新?名
を採用していたが、それ以前と以後は
??名
である。
「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテ?マとした詩を書き?けた。この分野では、蛙の鳴き?がさまざまな
オノマトペ
で表現されている一方、いくつかの前衛的な試みが行われている。たとえば「
冬眠
」を構成するのは?丸1文字のみである。また、「Nocturne. Moon and Frogs」「天?」などでは??的な手法が用いられている。
「
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
」
蛙について心平は『第百階級』のあとがきで「僕は蛙なんぞ愛してゐない!」と叫んだことがあった。?際、蛙についての詩作をやめようと思ったこともあったと詩集『第四の蛙』の「?え書I」にはある。1948年(昭和23年)に『定本 蛙』を出したいきさつについて、「もう蛙も年貢の納めどきだろうから」と語っている。しかしその後も心平は蛙の詩を書くことを止めなかった。
『第四の蛙』の最初の後書きである「?え書I」は1961年(昭和36年)1月に書かれた。すぐに出版されたわけでなく、蛙に?する詩を作り?けた結果、同年10月に「?え書II」を?すことになる。詩集では、最初の?え書と2番目の間に8篇の詩が書かれている。その後も蛙の作品をいくつか作り、結局、「?え書III」「?え書IV」を入れて、ようやく1964年(昭和39年)に出版された。出版によって「一?の終結」(「?え書IV」)をみせたと語りながら、「III」の中では再び蛙の作品を書きたくなったと告白している。「IV」においては、蛙の詩に「終り」をつけようとしながら、一方で「蛙に?する詩がこれで終ったとは言い切れないような?がする」とも書いている。そして、蛙のモチ?フはこの後、『こわれたオルガン』や『太陽は東からあがる』などにも現れ、最後の詩集『自問他問』にも2編の詩がある。「かへるのコはかへる」「性?性」である。
この生物に?する詩集を4冊(『第百階級』『蛙』『定本 蛙』『第四の蛙』)?しているが、蛙の詩群は、心平の詩作品の全てではない。
富士山
をはじめとした山についてのもの、海に?するもの、
シルクロ?ド
を扱ったもの(詩集『絲綢之路』はこれを集めたもの)もある。身??記に?するものもかなり書かれているが、
中原中也
の訃報に寄せた詩篇「空間」(『絶景』所?)では、「地球」という言葉を用いて、作者(あるいは語り手)が冷酒を?む詩「豊旗酒」(『乾坤』所?)では、「
八岐大蛇
」「
古事記
」「富士(山)」という言葉を配置している。
富士山は心平の詩句に頻出し、これを題材とした詩集『富士山』も編んでいる。1940年(昭和15年)から富士についての詩を?表しはじめた。同じ年、南京に渡り、以後?年間この地を中心に創作活動に?事する(「作品第壹」では本文中で、「作品第拾?」では注?のなかで、?際の山を見ているわけではないことが示されている)。1943年(昭和18年)に、17篇をまとめて『富士山』として
昭森社
から刊行する。その後も、折に?れて富士にまつわる詩を?表した。『大白道』『日本沙漠』『牡丹?』『天』におさめられた9つの詩篇は、『草野心平詩全景』(1973年〔昭和48年〕)において、作品番?が振られ、26の連作詩集『富士山』の一部となった。これとは別に、1966年(昭和41年)には
岩崎美術社
から同名の詩集を刊行している。18の詩篇から成り、先の26篇と重複するものはない。
心平が蛙と同?、生涯にわたって追い求めた「富士山」は、やはり最後の詩集にも登場する。「何何富士」という詩では、富士山が唯一無二であるという前提の下、「富士」という名のつく山を皮肉りながらも、それぞれの山の美しさや?自性などを?美しようとする。
また「天」という言葉もよく現れ
[注? 3]
、この言葉を題名にした作品も少なくない(「天のベンチ」「猛烈な天」「空?天」「宇宙天」など)。
「
|
コウノトリの。
鳴き?の。
あと。
音なく。
一切なく。
- ここは地球の。
- ドまんなか。
動かない。
天の。
?鎌の。
月。
「夜景」から
|
」
|
昭和30年代を除けば心平は多作な詩人であり、『第百階級』以前にも1923年(大正12年)から1925年(大正14年)にかけて8冊の詩集が編まれている。1973年(昭和48年)には、それまでの詩業の大部分をおさめた『草野心平詩全景』が
筑摩書房
から刊行されたが、その翌年から同社の協力の下、1年に1冊のペ?スで詩集を出版する企?がスタ?トした。いわゆる「年次詩集」である。出版社が倒産した1978年(昭和53年)を除き、1986年(昭和61年)まで刊行が?けられた(1985年〔昭和60年〕刊『絲綢之路』は
思潮社
からのものであり、年次詩集には含まれない)。この間に、同社から『草野心平全集』(1978-1984年 全12?)が刊行されたが、出版年から分かるように、年次詩集は途中(『乾坤』)までしか??されていない。『侏羅紀の果ての昨今』からは、『第四の蛙』のように一度?え書(後書き)をしたためた後にできた?篇の詩が?え書の後に配置され、「?え書 II」が書かれるようになる。
晩年の詩のいくつかでは、過去の自作からの引用が積極的に行われている。たとえば、『牡丹?』(1948年〔昭和23年〕)??の「ゆき」は、?科書にも?載され、?く知られる詩の1つであるが、この作品に登場する文章を一部改?した上で『幻象』(1982年〔昭和57年〕)の同名詩に使用した。そして、「ゆき」の擬音は、「童詩?ゆき」(1985年〔昭和60年〕刊『幻景』)でも取り入れられている。また、『全天』『植物も動物』『原音』に??された「dying-fantasy」「Okhotsk-fantasy」「Nojiri-fantasy」というタイトルの詩は、いずれも『絶景』(1940年〔昭和15年〕)の冒頭詩「Bering-Fantasy」を意識したものと見られる。
心平の詩(特に蛙もの)はいくつも曲がつけられている。例えば「蛇祭り行進」(『第百階級』)は、
??保二
、
多田武彦
、
堀?子
、
南弘明
によって
男?合唱
曲にされ、いずれも出版されている。「蛙の?明(しょうみょう)」(『こわれたオルガン』)という詩は、
石井眞木
によって、?際に
?明
化された。心平は、詩人と作曲家の共同によって、新しい歌曲を生み出そうとする音?グル?プ「
ランディの?
」に?加していたことがあり、自身の詩の音?化に?心を持っていた詩人の1人である。
?水脩
の「蛙の歌」はここで?表されている。
1992年
に
三木稔
が作曲したフォ?クオペラ「よみがえる」は、心平のさまざまな詩を素材に、
ふじたあさや
が物語として構成したものであり、登場人(ではなく蛙)物の「ごびらっふ」「ぐりま」「るるる」などは原作にも登場している。
草野の詩の評?としては、宇宙的なまでに?がった世界?のなかで存在の孤?をニヒリスティックに、あるいはまた瑞?しく描いたともいわれ、彼の詩には「存在の愛(かな)しさ」と孤?が?調されながら、一方で野性的なまでの生命力に?ちている
[28]
。だが、その世界の時空間が宇宙的?太古的に昇華されることで、社?的?係性が欠如しているという批判もかつてはあった
[29]
。
主要著書
[
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]
物語
[
編集
]
- 三つの虹(1949年)
- 運命の人(1955年)
- 七つの愛と死(1957年)
- ???智?子抄(1975年)
- ばあばらぶう(1977年)
- 茫?半世紀(1983年)
?筆?詩論など
[
編集
]
- 火の車(1951年)
- 詩と詩人(1954年)
- わが?春の記(1965年)
- わが生活のうた(1966年)
- わが光太?(1969年)
- アベベの猫柳(1970年)
- わが賢治(1970年)
- 蛙の全?(1974年)
- 私の中の流星群(1975年)
- 止まらない時間のなかを(1976年)
- ????(1976年)
- ?想招宴(1977年)
- 酒味酒菜(1977年)
- ??私の中の流星群(1977年)
- 凹凸の道(1978年)
- 小動物抄(1978年)
- 口福無限(1981年)
紀行
[
編集
]
- 支那点?(1939年)
- 点?線?天(1957年)
- 所?方?(1975年)
著書
[
編集
]
- 『第百階級 草野心平詩集』銅?社, 1928
- 『母岩 詩集』?程社, 1936
- 『蛙 詩集』三和書房, 1938
- 『支那点?』三和書房, 1939
- 『大白道』甲鳥書林, 1944
- 『日本沙漠 草野心平詩集』
?磁社
, 1948
- 『牡丹?』鎌倉書房, 1948
- 『三つの虹』ともだち文庫
茂田井武
?、
中央公論社
, 1949
- 『草野心平詩集』創元選書, 1950
- 『草野心平詩集』
角川文庫
, 1950
- 『火の車』
創元社
, 1951
- 『天 草野心平詩集』
新潮社
, 1951
- 『宮澤賢治?書』創元社, 1951、
講談社文芸文庫
, 1991
- 『カンガル?の子』 世界の?本
?水崑
?、新潮社, 1951
- 『草野心平詩集』
豊島?志雄
編、
新潮文庫
, 1952
- 『?細?幻想 詩集』創元社, 1953
- 『詩と詩人』和光社, 1954
- 『運命の人』新潮社, 1955
- 『火の車?筆 貧乏も愉し』?書房, 1955
- 『点?線?天 以前の中?と今の中?』
ダヴィッド社
, 1957
- 『七つの愛と死』
?生書房
, 1957
- 『わが?春の記』オリオン社, 1965
- 『わが生活のうた 草野心平?想集』(
現代?養文庫
)
社?思想社
, 1966
- 『マンモスの牙 草野心平詩集』
思潮社
, 1966
- 『草野心平詩集』 (
田村隆一
編、世界の詩)?生書房, 1966
- 『富士山』
棟方志功
?、岩崎美術社, 1966
- 『こわれたオルガン』昭森社, 1968
- 『わが光太?』
二玄社
, 1969 講談社文芸文庫、1990
- 『アベベの猫柳』?娥書房, 1970
- 『止る?く』 (ピルグリム?エッセイシリ?ズ4)
東京美術
, 1970
- 『太陽は東からあがる』?生書房, 1970
- 『わが賢治』二玄社, 1970
- 『侏羅紀の果ての昨今 詩集』八坂書房, 1971
- 『草野心平詩全景』
筑摩書房
, 1973
- 『凹凸 詩集』筑摩書房, 1974
- 『蛙の全?』落合書店, 1974
- 『所?方?』?生書房, 1975
- 『私の中の流星群 死者への言葉』新潮社, 1975
- 『??私の中の流星群』新潮社, 1977.2
- 『新編 私の中の流星群 死者への言葉』筑摩叢書, 1991.5
- 『???智?子抄』?生書房, 1975
- 『全天 詩集』筑摩書房, 1975
- 『止まらない時間のなかを 草野心平?想集』
PHP?究所
, 1976
- 『植物も動物 詩集』筑摩書房, 1976
- 『天竺 詩?集』棟方志功 ?、筑摩書房, 1976
- 『???? ユ?モアエッセイ集』番町書房, 1976
- 『?想招宴』 (あまカラ選書)
ロングセラ?ズ
, 1977.10
- 『ばあばらぶう』筑摩書房, 1977.12
- 『詩集原音』筑摩書房, 1977.12
- 『酒味酒菜』ゆまにて, 1977.2
- 『小動物抄』新潮社, 1978.11
- 『
草野心平全集
』全13? 筑摩書房, 1978-84
- 『凹凸の道 ?話による自?』
文化出版局
, 1978.5
- 『草野心平詩集』
宗左近
編、
旺文社文庫
, 1978.8
- 『乾坤 詩集』筑摩書房, 1979.3
- 『詩集雲?』筑摩書房, 1980.3
- 『玄玄 詩集』筑摩書房, 1981.3
- 『口福無限』
講談社
, 1981.4、講談社文芸文庫, 2009
- 『草野心平詩集』
現代詩文庫
思潮社, 1981.7
- 『幻象 詩集』筑摩書房, 1982.3
- 『未? 詩集』筑摩書房, 1983.3
- 『茫?半世紀』新潮社, 1983.4
- 『玄天 詩集』筑摩書房, 1984.4
- 『?綢之路 シルクロ?ド詩篇 詩集』思潮社, 1985.12
- 『幻景 詩集』筑摩書房, 1985.4
- 『自問他問 詩集』筑摩書房, 1986.6
- 『草野心平詩集』
入?康夫
編、
岩波文庫
, 1991.11 - 以下は?後刊
- 『作家の自? 16 草野心平』 (シリ?ズ?人間?書館)
日本?書センタ?
, 1994.10
- 『草野心平詩集』
粟津則雄
編、(芸林21世紀文庫) 芸林書房, 2002.6
- 『
草野心平日記
』全7? 思潮社, 2004
- 『草野心平 わが?春の記』 (人間の記?)日本?書センタ?, 2004.9
- 『草野心平詩集』
ハルキ文庫
角川春樹事務所
, 2010.3
編著?共著
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]
- 『宮澤賢治追悼』編 次?社, 1934
- 『宮澤賢治?究』編 十字屋書店, 1939.9、筑摩書房, 1958 のち全集別?
- 『日本?愛詩集』編 (世界?愛文?名作選) 羽田書店, 1951
- 『高村光太??究』編 筑摩書房, 1959
- 『高村光太?と智?子』編 筑摩書房, 1959
- 『東北の旅』
大池唯雄
?
富木友治
共著、社?思想?究?出版部?現代?養文庫, 1961
- 『草野民平詩集』編 ?娥書房, 1971
- 『
日本の名?筆
2 鳥』編
作品社
, 1983.4
??
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]
- 『アメリカプロレタリヤ詩集』
小野十三?
?
萩原恭次?
共?、?道社, 1931.1
- ニコラ?サッコ
/バルトロメオ?ヴァンセッチ『サッコ?ヴァンゼッチの手紙』?文社, 1932
?校歌
[
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]
草野心平が作詞を手掛けた校歌??歌。?考:草野心平作詞校歌?集サイト
[30]
、いわき市立草野心平記念文?館「草野心平の校歌」
[31]
脚注
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]
注?
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]
出典
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]
?考文?
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]
?連項目
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]
外部リンク
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