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(
2017年5月
)
|
祁答院氏
(けどういんし)は、
日本
の
氏族
のひとつ。
相模?
?谷氏
の庶流で、
薩摩?
?祥の一族
。薩摩?
伊佐郡
祁答院(現?
鹿?島?
薩摩郡
さつま町
および
薩摩川?市
祁答院町
)を本貫地とした
。
??
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]
薩摩下向と?く養嗣子
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]
祖は
桓武平氏
秩父氏
で、相模?
?谷?
を領し
?谷氏
を名?った一族
。?主
?谷重?
の長子である
?谷光重
が、本貫地である?谷?を長男の
重直
に?え、次男から六男には
?治合?
の
恩賞
として?えられた薩摩?の領地をそれぞれに分?、三男の
吉岡重保
には祁答院を?えた
。
?治
2年(
1248年
)に他の兄弟らともども薩摩?へ下向、その地名を?したのが祁答院氏の始まりとなる
。なお祁答院氏と固定されるまで、吉岡?恩馬?柏原?平川などの名字を?しているが、系?上は重保を初代に?える。
重保は最初、柏原(現:
鶴田町
)へ館を築き
柏原氏
を?した。この地に館を築いた理由は、同じ?谷一族である
東?氏
が本貫地であるはずの東?に館を築かなかったのと同?、在地
郡司
である
大前氏
(おおくまし)が一?に大きな勢力を有していたからである。大前氏と祁答院氏は?立を深くし、この??で重保の嫡男
朝重
が?死している。大前氏が滅びると祁答院氏はその?点の一つである
虎居城
に入り、以後ずっとここを本?とした。また、この地を領していた大前氏の分家も祁答院氏を?していたが、?落すると時吉氏を?するようになった。
初代重保が亡くなるとその跡目は養子の
重?
が?いだ。重?は重保の長兄
?谷重直
の子である。重保に嫡男の朝重以外の男子がいなかったわけではなく、次男の惟重がいたのだがなぜか惟重は中津川氏を?いでいる。また2代重?の跡目も、重?に?子
?重
がいたにもかかわらず、惟重の子(一?に惟重の弟)の
重松
が?いでいる。その重松の跡目である4代
行重
も養嗣子で、
武??
荏原郡
大森の領主
大森??
の子で、祁答院氏に養育され最初は中津川氏を?いだが、重松に男子なくその養嗣子となったものである。
南北朝期の混?
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南北朝時代
、
九州探題
として
今川貞世
(了俊)が九州へ下向すると、祁答院氏は他の?谷一族である東?氏、
鶴田氏
、
入?院氏
、
高城氏
と共に
幕府
方についた。ただし、?谷一族?部は必ずしも足?みが?っておらず、
永和
3年/
天授
3年(
1377年
)の了俊による
南九州?人一揆
?加の求めに祁答院氏や東?氏の一族が?じる反面、入?院氏など?じない者もまたあった。またこの頃、7代
重茂
は
出水
の豪族
大重?四?
の軍勢を?退し、さらに下城(現?
宮之城町
)を奪い勢力を?大している。
明?
2年(
1392年
)、南北朝は合一されるが
守護
島津氏が
?州家
と
?州家
とに分かれて?立に及ぶ。?谷一族もこの?いに?き?まれ、祁答院氏、東?氏、入?院氏、高城氏は?州方に、鶴田氏は?州方にと分かれて?い始めた。この?いにより重茂の次男
重義
が討ち死にしている。?いはやがて?州家が優勢となり、
?永
8年(
1401年
)に鶴田氏が?落、?谷一族は四氏となった。以後、?谷一族は領主?維持のため?州家と?州家の間を渡り?くようになった。それが落ち着きを見せるのは、?州家が?州家に降伏した頃で、以降守護職は?州家が相?すると決した。しかし、
永享
4年(
1432年
)に守護
島津忠?
が
日向?
山東の
伊東氏
攻略に失敗すると、?谷一族を中心とした?人らによる
?一揆
が勃?、一揆は一時的に?束するが
文安
年間の初め頃に再び蜂起する。ただし、一揆は守護方により??され、?谷一族は?絶の憂き目を見ぬよう島津氏に?う道を選んだ。
島津氏との協調と?立
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長?
3年(
1459年
)9代
?重
の頃、虎居城の傍の
川?川
で?重の娘が侍女と共に入水する事件が起こる。これは一?に、娘が父の行?を?めるための自殺ともされる。
文明
8年(
1476年
)1月、島津宗家11代守護の
忠昌
に?し、
薩州島津家
の
島津?久
ならびに
豊州島津家
の
島津忠廉
が
肥後?
の
相良氏
や
菱刈氏
と結託し反?に及ぶと、?谷一族は守護方についた。しかし島津?部の混?は常に敵と味方が入れ替わる?況であり、文明16年(
1484年
)10代
重慶
が東?氏?入?院氏?菱刈氏?
北原氏
と島津氏征伐のために結託し領地を
大隅?
の
?良
方面にまで?げたかと思うと、その翌年には重慶が守護方につき、東?氏と入?院氏が豊州方と結び祁答院氏を攻めるといった有?であった。
島津宗家の混?は?き、
永正
5年(
1508年
)に守護の忠昌が
自殺
、その後?である嫡男
忠治
、次男
忠隆
も相次いで
早世
、さらにその後を?いだ14代
勝久
が薩州家よりの逼迫から守護職を伊作忠良(
島津忠良
)の嫡子
貴久
に?ったかと思うと、今度は再び守護に返り?こうとした。さらに薩州家の
島津?久
が守護にならんと企てたために、その三氏のいずれが守護となるかで島津氏はますます混迷し、?谷一族や他の?人らも時に貴久方、時に?久方、時に勝久方と?う相手を?え、また時にこれらへ抗う有?であった。
天文
4年(
1535年
)、島津勝久が島津?久により鹿?島を逐われ、12代
重武
を?って?良の
帖佐城
へ逃れて?る。重武は北原氏と共にこれを支援し鹿?島へ攻め入ったが、初?こそ勝利したものの?久方の後詰に敗れて帖佐へ逃れた。以降、勝久は祁答院氏?北原氏?
北?氏
と?る先を??とし、
豊後?
の
大友氏
を?ると二度と薩摩?へ?ることはなかった。
?落
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その後、島津忠良?貴久父子が薩州家を??させ、天文14年(
1545年
)に貴久が正式に幕府により守護に任官されるが、?人らはいまだ心服せぬ者が大?であった。天文23年(
1554年
)
蒲生範?
が守護島津氏に?う大隅?
肝付氏
の
加治木城
を攻?、島津氏は
蒲生氏
の矛先を?えるべく
岩?城
を攻?する。これに13代
良重
は蒲生方に呼?、他に東?氏?入?院氏?北原氏?菱刈氏も蒲生氏にくみしたがあえなく敗?、この?いで良重は長男の
田中重?
を失った。さらに翌年、貴久に
帖佐城
を攻められ、良重は?良地方より撤退する始末であった。
そして
永?
9年(
1566年
)、良重は?屋にて自らの妻?虎?
[注? 1]
により
刺殺
される
。これにより祁答院氏は自力での領地??が不可能となり、祁答院氏の家長である
大井?勝
?
高城重治
?
久富木重全
の三名の連判により、祁答院氏の領地は全て入?院氏13代
重嗣
に?渡された。その入?院氏は永?12年(
1569年
)
12月28日
に東?氏と共に島津氏に降伏、以後は島津家臣となった。
また祁答院氏も良重次男(養子とも)
重種
、および
日向?
?肥
へ
出奔
していたのを
島津義久
に見出された三男
重加
が、共に島津家臣となり祁答院の家名を存?させた。また、島津義久により重加が嫡流と定められたが、重加に男子なく養子の
重次
が?ぎ、その重次にも男子なく養子の
重房
が?いだ。
?代?主
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- 祁答院重保
(初代、吉岡氏?恩馬氏?柏原氏を名?る)
- 祁答院重?
(養子、?谷重直の子。吉岡氏を名?る)
- 祁答院重松
(養子、初代重保の次男?惟重の子、または惟重の弟)
- 祁答院行重
(養子、
大森??
の子)
- 祁答院重?
- 祁答院公重
(平川城に住み、平川氏を?した)
- 祁答院重茂
(別名は重氏)
- 祁答院久重
(重茂の三男(または重茂の弟)である延重の子)
- 祁答院?重
- 祁答院重慶
(別名は重度)
- 祁答院重貴
(別名は重隆)
- 祁答院重武
- 祁答院良重
(妻?虎?により刺殺される)
- 祁答院重加
(良重の三男、
島津義久
により後?と定められる)
- 祁答院重次
(養子、
本田親紀
の嫡子)
- 祁答院重房
(養子、
谷山重政
の子)
系?
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祁答院氏系?
- 太字は?主、?線は?子、点線は養子。系?は諸?あり。[ ]は、その氏の祖を意味する。
脚注
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]
?考文?
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]
?連項目
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