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樺太民政署
(からふとみんせいしょ)は、
1905年
(明治38年)
8月19日
から
1907年
(明治40年)
3月31日
まで、
樺太
開拓のために設けられた
行政
組織
である。
?要
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樺太は
1875年
(明治8年)に
明治
政府が
ロシア
政府と結んだ
樺太?千島交換?約
でロシア領となり、
コルサコフ
に日本
領事館
を置いていた。しかし、1905年に
日露??
における
樺太の?い
で日本軍が樺太全領を占領し、1905年
7月31日
[注? 1]
全島に
軍政
が布かれた
[1]
が、
8月19日
にこれを解除して、
?務省
下に、樺太民政署を設置し?初は本?を
北樺太
のアレクサンドロフスク(現在の
アレクサンドロフスク?サハリンスキ?
)、支所を南樺太のコルサコフ(
大泊町
)に設置した。
同年
8月29日
の、
日露講和?議
にて、ロシアは南樺太を?渡することになり
[注? 2]
、
11月13日
樺太?境?定?議
にて正式に北樺太をロシアに返還したため、本?をコルサコフにした。
現地の行政は、民政長官の
熊谷喜一?
が執り、
港?
の整備?
?道
の敷設と現地に住んでいた
アイヌ
?
ロシア人
の??や、
北海道
との定期航路、
開拓
に必要な人民の
?籍
?
衛生
などを急ぎ進めた。
1907年(明治40年)4月1日、
樺太?
が設置されたことにより?展的解消を遂げた。
脚注
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注?
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]
- ^
大本?達示にあるように軍政開始は7月31日。8月1日はこの旨の大本?達示の日付
- ^
樺太全域を占領していたが、領有?を獲得していたわけではないので、「北樺太の領有?を放棄」ではない
出典
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