?山 隆一 (よこやま りゅういち、 1909年 5月17日 [1] [2] - 2001年 11月8日 [1] [4] [5] )は 高知? 高知市 [1] 出身の日本の 漫?家 、 アニメ?ション 作家。
政治風刺漫?が主流だった1930年代日本の漫?界において、簡略な?柄と明快なギャグによる?米流の「 ナンセンス漫? 」を志向した若手グル?プ「 新漫?派集? 」を結成し [6] 、やがて?中??後初期の漫?界をリ?ドした。?後にはアニメ?ション制作?社「 おとぎプロダクション 」 [3] を設立したほか、 ?告 ? ?本 のイラストレ?ションや、 油彩? を描いた [1] 。
高知市堺町 [2] [4] [5] に生まれる。公式の誕生日(?籍上の生年月日)は5月17日であるが、?山自身は母から、名付けの?れのために?け出が?れ、本?の生まれた日付は5月10日であったことを?え聞いているという [7] 。6人きょうだいの第2子 [7] で長男 [1] 。もとの生家は裕福な生?問屋であった [7] が、14?のときに父親が死去。一家は?落し、母親が出稼ぎのために高知市を離れたため、きょうだいは複?の親類宅に離れ離れに預けられ、その後?山が??的に成功するまで、長らく離散?態となる [8] 。このころ、似顔?や、 チョ?ク に裸婦像を彫刻したものを同級生に?って小遣いを稼いでいた [8] 。
1927年 [4] 、?制高知?立高知城東中?校(のちの 高知?立高知追手前高等?校 )卒業 [1] [2] の翌日より [5] 、就職を目指すため ?浜市 の叔父(父の弟)宅に寄寓し、中?時代の??から美術家をこころざすも、 東京美術?校 の受?に2回 [1] [6] 、また 東京高等工芸?校 の受?にも失敗する [9] 。 ?浜職業補導所 へ通い、 大工 の技術を?ぶかたわら、 ?東?院 英語科夜間部に通った [9] 。やがて、いとこが美術モデルをしていた?係で、?家? 高橋虎之助 と知遇を得て、1928年 [1] 、高橋の?えを受けて 川端??校 に合格 [10] 。同年暮れには同?の新聞記者?澤本孟虎( 澤本江南 )の紹介 [11] で、やはり同?の 彫刻家 ? 本山白雲 に弟子入り [1] 。
この頃、居候生活から逃れるために入り浸った?書館で、?誌に多く?載されていた海外のナンセンス漫?にはじめて接し [9] 、それまでの日本の風刺漫?などと異なり「描かれた線がきれいで」「?容がわかりやすく、くり返し見てもおかしく面白かった」と大きな衝?を受ける [12] 。また?時、日本の漫?界では 山本鼎 、 石井柏亭 らファインア?トの?家による「コマ? [13] 」制作が盛んな時期であり、これらの持つ?情性やユ?モアにも大きな影響を受ける [12] 。居候生活の?却を目指した?山は、1929年頃 [5] からギャグを志向した1コマ漫?の投稿を開始する [9] 。叔父宅を離れ、本山宅に住み?むようになると、『 アサヒグラフ 』『 新?年 』 [1] など本山のもとに?く大量の?誌の懸賞漫?に次?と?募するようになり、より?く作品が採用されるようになる [11] 。?力に乏しかった?山は、重??である銅像制作の現場に不向きと判?され、東京の本山の本邸を離れ、 神奈川? 鎌倉郡 片?村(のちの 藤?市 片? )にあった本山の別邸の管理をまかされるようになった [14] が、本山は?山の漫?の腕に理解を示し、投稿活動の??を許す [14] 。?山は買い出しに訪れた鎌倉郡 鎌倉町 (のちの 鎌倉市 )の書店で新創刊の『 月刊マンガ?マン 』を知り、投稿常連となる [14] [6] 。やがて?山は、本山に 漫?家 への?身をすすめられて 堤寒三 を紹介され、堤の門下に [1] 、のちに 岡本一平 の門下に?じる [2] 。また、若手投稿家のグル?プ「漫??究?」に入?するも、 プロレタリア漫? が主流のグル?プで、?合はほとんど政治論?となって「ペンの話」にならなかったため、すぐにグル?プを離れる [15] 。
1930年、いとこ(上記とは別人)が東京? 大塚 に書店を開業し、手?いを請われたため、本山の元を離れる [16] 。かつての投稿先である『新?年』で、1931年2月?より?載小?の??の??を開始し、?質的なプロデビュ?を果たす [17] 。また同年、 ピ??シ??エル映?製作所 に入社し、アニメ?ション技術の習得と?究に?事する [18] 。???家としての活動と?行し、『アサヒグラフ』連載の ジョ?ジ?マクマナス ( 英語版 ) 『ジグス( 親爺?育 ( 英語版 ) )』の書き文字の日本語リライトを??した(??は 中里富次? ) [19] 。
この頃、『月刊マンガ?マン』の投稿者から社員に?じていた 吉田貫三? と親しくなった [16] ことをきっかけに、『月刊マンガ?マン』の寄稿者で、岡本門下だった 近藤日出造 や 杉浦幸雄 らと知り合った [1] 。昭和初期の漫?界は文壇??壇をもじって「漫?壇」とも呼ばれ、新聞や?誌は少?のベテランが?占しているような?態で、?山ら若手はプロとしての?表の場がなかなか得られなかった。?山?近藤?杉浦の3人を中心に「漫?市場に若手が結束して?り?もう」「?り?みをかける」といった意見が高まり [6] 、1932年 [1] [4] に「新漫?派集?」の結成にいたった。同年には [17] 、 北澤?天 が?山の漫?に惚れ?み、 時事新報社 の自身の部屋に?山を招き、面?をしている。この??は?山に自信を?えたという [6] 。
「線を大?に簡略化した?と奇?な?想 [6] 」で?きん出ていた?山は、「新漫?派集?」の中で最初に名が?れていった。杉浦は?山の作風を「昭和の ピカソ 」と評し、「奇想天外の?想はだれもついていけなかったのに、みんながマネをしようとして失敗した」と語っている [6] 。
??的に余裕が出た?山は、離れ離れになっていた母や妹を東京? 本? に呼び寄せ、同居を再開する [20] 。1935年10月、?里の知人の妹と結婚 [20] 。1936年1月、 朝日新聞 東京版朝刊に『江?っ子健ちゃん』を連載開始。サブキャラクタ?のフクちゃんに人?が集まったため、同年に『 フクちゃん 』と改題。?載媒?を?えながら1971年まで連載が??し、?山の代表作となった。1937年、一家で鎌倉に移住する [21] 。
開?後の1942年1月 [22] 、 陸軍 報道班員として、 小野佐世男 、 大宅?一 、 武田麟太? [23] らとともに ジャワ島 へ派遣された。ジャワへ向かう際、 バタビア沖海? に?き?まれ、?っていた輸送船? 佐倉丸 が沈?するも、九死に一生を得る。復員後の1945年3月末、空襲の激化にともない、母と妹を?里の高知に、妻と子供を近藤日出造の世話で 長野? 小?郡 神科村 (のちの 上田市 )に疎開させる [24] 。?山も5月に神科の妻子のもとに合流するが、8月2日に妻が病死 [25] 。ほどなく終?となり、失意のうちに鎌倉に?るも、心?や?養失調のために腎?を病む [25] 。多くの漫?家たちが?召や疎開のために東京を留守にする中、鎌倉在住で仕事場や?材が?けなかった?山がいち早く病を押して仕事を再開し [25] 、 ?水崑 、 矢崎武子 、 田河水泡 らとともに『 新夕刊 』漫?部の?託となる [26] 。10月、?山らは「新漫?派集?」を「 漫?集? 」に改組 [26] 。?後初期から昭和中期を通じ、新進の漫?家を多く世に出すことに貢?した [6] 。
やがて、 ?日新聞 の?? [27] となり、『 ペ子ちゃん 』『 デンスケ 』 [5] をへて、『フクちゃん』の連載を再開。また、?前から?山の仕事場を手?っていた前妻の兄の娘(義理の姪)と再婚する [28] 。1951年、?日の特派員?の一員として サンフランシスコ講和?議 取材のためアメリカ合衆?に長期?在 [27] 。その際、?前からの念願であるアニメ?ション制作の?考のため、 ウォルト?ディズニ??アニメ?ション?スタジオ を見?。その際に ウォルト?ディズニ? 本人とも?談を果たした [29] 。
1956年 [5] 、アニメ?ション制作?社「おとぎプロダクション」 [3] (おとぎプロ)を設立。自主上映の短編アニメ、劇場用アニメ映?、テレビ CM 用のアニメ素材 [30] のほか、1961年に、日本初の連? テレビアニメ シリ?ズ『 インスタントヒストリ? 』を制作した [31] 。
1971年の『フクちゃん』連載終了後は連載漫?家としての活動を控え、?童文?の??や?本の制作を手掛けた。
2001年11月8日 [5] 、?梗塞 [4] のため鎌倉市?の病院で死去 [3] 。翌年に「 ?山隆一記念まんが館 」が開館することが決定していたが、開館を待たずに亡くなった。
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