松平 直政
(まつだいら なおまさ)は、
江?時代
前期の
大名
。
上?
姉ヶ崎藩
主、
越前
大野藩
主、
信濃
松本藩
主を?て
出雲
松江藩
初代藩主。
官位
は
?四位上
?
左近衛?少?
、
贈
?三位
(
1907年
)。雲州松平家の祖。
生涯
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幼少期
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慶長6年(1601年)8月5日、越前
北?藩
(福井藩)主?
結城秀康
の三男として誕生。母は側室で三谷長基の娘月照院
。兄に
忠直
?
忠昌
、弟に
直基
?
直良
がいる
。また
江?幕府
初代
?軍
?川家康
は祖父、2代?軍
?川秀忠
は叔父、3代?軍
?川家光
は?弟に?たり、家光とは幼少時から懇意だったという
。
秀康が
伏見
から越前へ入部する途中の
近江?
伊香郡
中河?で生まれたため、河?丸と名付けられた(後に?松丸)
。福井の豪商金谷家に?わっていた
岩佐又兵衛
作『?金谷?風』に描かれている「官女?菊?」付?の??書によれば、生まれた直後の直政は乳母1人を差添えて金谷家に預けられ、成人後に金谷家?主へ?風を下賜したという金谷?風の由?が書かれており、福井藩の正史『?事叢記』にも?わっている
。
慶長10年(
1605年
)、家臣の
朝日重政
に預けられて養育されたが、ほどなく重政が退去したため父の下に?ったとされる。慶長12年(
1607年
)に父が病死すると、跡を?いだ長兄忠直の庇護を受ける。慶長16年(
1611年
)
4月17日
には、忠直の計らいにより
京都
二?城
で祖父家康と叔父秀忠に謁見した。慶長18年(
1613年
)に元服、重政と忠直それぞれの
偏諱
により
直政
を名?るようになった
。
大坂の陣に??、相次ぐ移封
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慶長19年(
1614年
)からの
大坂の陣
に出陣し、忠直の陣に加えられた。冬の陣では
12月4日
に
?田信繁
(幸村)が守る
?田丸
にて?い奮?したが、味方の
井伊直孝
軍などに損害が出た負け?だった(
?田丸の?い
)
。夏の陣でも忠直に?って活躍し、慶長20年(
元和
元年?
1615年
)
5月7日
の
天王寺?岡山の?い
で忠直軍は信繁を始めとする多くの敵?兵の首を獲り、直政も騎馬武者2人を討ち取り敵首30余りを獲るという大いなる?功を?げた。陣後は?功を家康から褒め?えられ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を?えられた。忠直も直政の活躍を賞?し、元和2年(
1616年
)に自身の領?に1万石の所領(越前
大野郡
木本
)を?えている
。元和5年(
1619年
)6月には?五位下?出羽守に?任され、12月に幕府から次兄忠昌の領地だった上?姉ヶ崎藩1万石に封じられて、正式な大名となった
。
元和9年(
1623年
)3月、忠直が?行や叔父秀忠との不仲から家督の座から?退させられて
豊後
に配流されたが(事?上の
改易
)、直政は8月の家光の上洛に供奉し?四位下に昇?(出羽守如元)した。翌
?永
元年(
1624年
)4月、家光の命令で甥の仙千代(後の
松平光長
)と忠昌が領地交換の形で
越後
高田藩
と福井藩へ移封、福井藩の領地は減封?分割され、減封分は直政と弟の直基?直良、
若?
小浜藩
主
京極忠高
、忠直の元
附家老
本多成重
に分け?えられ、直政?直基?直良はそれぞれ越前大野藩5万石?
越前勝山藩
3万石?越前木本藩2万5000石を分?、忠高は
敦賀郡
2万2000石を分?、成重は越前
丸岡藩
4万8000石を?えられ?立した。こうして直政は
6月8日
に大野藩5万石へ加?移封され、?永3年(
1626年
)
8月19日
に家光の再上洛に供奉し
侍?
を兼任した
。
?永10年(
1633年
)
4月22日
、信濃松本藩7万石へ加?移封となった。翌?永11年(
1634年
)に
松本城
に月見櫓、辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行うが、これは家光が上洛の?路に
木曾路
を?て
善光寺
?詣の後、松本に立ち寄る予定だったためという。?永13年(
1636年
)には松本に新?座を起こして
?永通?
松本?を?造するなど、家光の?兄として小藩では許されない大事業を認可されている。また、松本城の?改築で呼び寄せた職人たちから訴えられたため、それへの??として職人の人足役を免除し、松本町の地子年貢(地役)も免除するなどした
。
松江藩へ移封、出雲?主となる
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?永15年(
1638年
)
2月11日
、出雲松江藩18万6000石(および
?岐
1万4000石を代理統治)へ加?移封され、
?持大名
となった。この移封は幕府が東の
鳥取藩
?西の
長州藩
?南の
岡山藩
?
?島藩
などに?みを利かせるためだったが、姉
喜佐?
が長州藩主
毛利秀就
の正室という?戚?係も重要な理由になっていた。出雲入府の際、朝日重政(7000石、?永元年に直政に請われて復?)?
乙部可正
(5000石)などの側近を重用したほか家臣の新規召し抱えも行い、前領主の
堀尾氏
?
京極氏
の?臣も取り立てている。中でも武名の高かった
福島正則
?臣の大橋茂右衛門と堀尾氏?臣の堀尾但馬をそれぞれ6000石と3000石で召し抱え、家老としている。また入府から翌年の?永16年(
1639年
)に家老以下諸役人に示した施政方針の直書は6ヶ?にわたり、民を富ませ?を治める、奢侈の禁止、利欲の抑制、財政健全化、人材登用の注意、法の運用の注意を書き、人の上に立つ者としての心構えと下の者への思いやりを?いている。?永18年(
1641年
)には
林羅山
の推?で
??石?
を藩儒として迎え入れている
。
幕府から西?大名の監督を期待された直政は大名間の仲裁役を務めた。?永18年に江?への
?勤
途中で後から?勤して?た義兄の秀就へ書?を送り、幕府からの指示ということで自分を追い?いて先に行くことを?めたり、
明?
3年(
1657年
)に起こった
土佐藩
と
伊予
宇和島藩
の?境?いで土佐藩の?戚の伊予
今治藩
主
松平定房
から??を依?され、幕府の
老中
松平信綱
と?談の上で??を行い、2年後の
万治
2年(
1659年
)に家臣を通じて??決定の?書を?事者間で作成したことが?げられる
。
藩政は前藩主京極忠高(小浜藩から移封、?永14年(
1637年
)に死去)の政策を??、
斐伊川
の普請工事に着手して明?3年に若?土手を完成させ、
松江城
の城下町を改造した。農業も重視し、
正保
3年(
1646年
)から
慶安
3年(
1650年
)にかけて水田灌漑のため
石見銀山
から?夫を連れて水路工事(只谷間府)を行ったり、
意宇川
の水害に?む村人の要望を聞き入れ慶安3年から
承?
元年(
1652年
)まで日吉切通しの工事に取り組み新流路を完成させるなどの政策を行っている(ただし日吉切通しはこの時点では?く、村人代表の周藤彌兵衛と子孫の手で?幅が完成することになる)。寺社復興も??、
?岐諸島
?
海士
にある
後鳥羽天皇
陵の修繕、および新社殿の造?を行い、?文2年(
1662年
)から
出雲大社
の社殿造?も手掛けたが、完成は7年かかり次代に持ち越された
。
直政は領?の
キリシタン
を?しく??し、これはかつての領主堀尾氏や京極忠高らを上回るほど?しいものであったらしい。
?文3年(
1663年
)
3月25日
、幕命を受けて
大?基?
と共に
?元天皇
?位の賀使となり、上洛した。
5月26日
に?四位上に昇?し、左近衛?少?に?任した(出羽守如元)。しかし
11月26日
に病となり、?文6年(1666年)2月3日、
江?
赤坂(現在の
東京都
千代田?
永田町
)の上屋敷にて病死した。
享年
66。家督は長男の
綱隆
が?いだ
。
明治
40年(
1907年
)
5月10日
、特旨をもって位階追昇される。贈?三位
[19]
。なお、
昭和
2年(
1927年
)に松江城本丸に
米原雲海
による銅像「直政公初陣像」が建立されたが、昭和18年(
1943年
)に
金?供出
で失った。
平成
21年(
2009年
)、
島根??
前に
倉澤實
による銅像「松平直政公像」が再建された。
逸話
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- 口達者な人物で、「油口」と影では言われていたほどであったという。ちなみに、直政が家康からもらった打飼袋は月照寺にある。
- 大坂の陣の時、生母に「祖父(家康)の目にかなうよう、卑しき母の子として生まれたと後ろ指を差されることのないように」と言われた(『
藩翰譜
』)。?田丸の?いで奮?したことから、家康に賞?されたという(『
君臣言行?
』)
。さらに、この?いにおいて、敵の大?であった?田信繁に若武者ぶりを?えられて軍扇を投げ渡されている。その軍扇は直政が初代藩主となった出雲松江藩の?として?され、今も松江城天守閣の一角に展示されている
。
- 大坂冬の陣の際に、生母の身分が低く部屋住みの身分にあった直政には軍資金がなかったが、家?の
神谷兵庫
が
西本願寺
から2千?もの大金を借りてきたおかげで出陣できたといわれている。
- 大坂夏の陣の際に、直政の家臣?
武藤太兵衛
が直政の性器(
陰?
)を握り、「人は怖?づいた時は縮むものですが、殿のは縮んでおりません」と述べたといわれている。
系譜
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- 父:
結城秀康
(1574-1607)
- 母:月照院 - 三谷長基の娘
- 本人:
松平直政
- 正室:久? - 慶泰院、
松平忠良
の娘
- 長男:
松平綱隆
(1631-1675)
- 次男:
松平近?
(1632-1717) - ??松平家
- 側室:長谷川氏
- 三男:
松平隆政
(1648-1673) - 母里松平家
- 側室:篠塚氏
- 四男:
松平直丘
(1665-1713) - 松平隆政養子
- 生母不明の子女
- 長女:駒? -
松平直矩
正室
- 女子:
鶴?
- ?明院、
佐竹義?
正室
- 女子:竹?
- 女子:万?
- 女子:??
- 女子:喜耶?
- 女子:松? -
大久保大善
室
脚注
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- ^
『官報』第7157?、「?任及?令」1907年05月11日。
?考文?
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]
- 藩主人名事典編纂委員?編『三百藩藩主人名事典 三』
新人物往?社
、1987年。
- 朝倉治彦
?
三浦一?
編『世界人物逸話大事典』
角川書店
、1996年。
- 竹?誠
?
深井雅海
編『日本近世人名?典』
吉川弘文館
、2005年。
- 田中?
『
シリ?ズ藩物語
松本藩』
現代書館
、2007年。
- ?惟雄
『岩佐又兵衛
浮世?をつくった男の謎
』
文藝春秋
(
文春新書
)、2008年。
- 舟澤茂樹
『
シリ?ズ藩物語
福井藩』現代書館、2010年。
- 石井悠
『
シリ?ズ藩物語
松江藩』現代書館、2012年。
- 松江市編集委員?編『松江市史
通史編3 近世Ⅰ
』
松江市
、2019年。
?連項目
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]
雲州松平家
姉ヶ崎藩
藩主 (1619年 - 1624年)
|
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福井松平家
| |
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雲州松平家
| |
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雲州松平家
大野藩
藩主 (1624年 - 1633年)
|
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雲州松平家
| |
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結城松平家
| |
---|
明石松平家
| |
---|
土井家
| |
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雲州松平家
松本藩
藩主 (1633年 - 1638年)
|
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石川家
| |
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小笠原家
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?田松平家
| |
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雲州松平家
| |
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堀田家
| |
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水野家
| |
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?田松平家
| |
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雲州松平家
松江藩
初代藩主 (1638年 - 1666年)
|
---|
堀尾家
| |
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京極家
| |
---|
雲州松平家
| |
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