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暲子?親王

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
暲子?親王
八?院像( 安??院 ?)

?? 八?院
身位 ?親王
出生 保延 3年 4月8日 1137年 4月29日
死去 建? 元年 6月26日 1211年 8月6日
子女 猶子: 二?天皇 以仁王 九?良輔
養女: 三??宮 昇子?親王
父親 鳥羽天皇
母親 藤原得子
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暲子?親王 (しょうし/あきこないしんのう、 保延 3年 4月8日 1137年 4月29日 ) - 建? 元年 6月26日 1211年 8月6日 ))は、 平安時代 末期から 鎌倉時代 初期にかけての 皇族 。初めて 后位 を?ずに 女院 となり、 八?院 (はちじょういん)と?した [1]

系譜 [ 編集 ]

鳥羽天皇 の皇女で、母は美福門院(皇后? 藤原得子 )。 近衛天皇 は同母弟、 崇? ? 後白河 ?天皇は異母兄にあたる。ほかに母を同じくする姉妹に、早世した 叡子?親王 二?天皇 中宮となった 姝子?親王 (高松院)がいる。

終生、未婚であったが、甥の 二?天皇 准母 となったほか、 以仁王 とその子女、 九?良輔 兼? の子)、 昇子?親王 (春華門院、 後鳥羽上皇 の皇女)らを養育した。以仁王は八?院の 猶子 であり、王が八?院女房?三位局との間に儲けた子女のうち、男子は 東寺 長者? 僧正 となった 安井宮道尊 であり、女子は 三??宮 と呼ばれた。九?良輔は2?、昇子?親王は生後3ヶ月ほどで、いずれも幼くして八?院の養子女となり、その著袴? 元服 などは女院御所で行われた。

生涯 [ 編集 ]

保延3年(1137年)に誕生。保延4年( 1138年 )4月、 ?親王宣下 。?親の鍾愛を受けて育ち、皇后? 泰子 の養女となって 高陽院 で育った姉?叡子?親王と違って、暲子?親王は父? 鳥羽法皇 が「朝夕の御なぐさめ」として手元に置いて育てた。『 今鏡 』には、同母弟??仁親王( 近衛天皇 )が立太子した時、3?だった暲子?親王が「若宮は春宮になりたり、我は春宮の姉になりたり」と言って父?鳥羽法皇を興じさせた話がある。

久安 2年( 1146年 )4月、 准三后 となる。 久? 2年( 1155年 )に近衛天皇が崩御した際、父?鳥羽法皇は暲子?親王を次の天皇にする事を??に考えたともいわれている(『 愚管抄 』)。

鳥羽法皇崩御後の 保元 2年( 1157年 )6月に落飾する。法名は 金剛? 。この出家は?に?門に入っていた母? 美福門院 の?めによるものという。その後、父母の菩提のための?事や社寺?詣に明け暮れる日?を送ったが、父母の資産の大部分を?承した暲子?親王は同時代人から「鳥羽院の正統を?ぐ 嫡流 の皇女」として認識されていた。彼女は保延6年( 1140年 )、わずか4?の時に父?鳥羽法皇から 安??院 領などを??され、その後に生母美福門院から相?した所領、および新たに寄進された所領をあわせて、全?に二百?十箇所に及ぶ ?園 があった。これらは女院の管領下にあって 八?院領 と呼ばれ、中世皇室領の中?をなす一大?園群をなした。

皇太子?守仁親王(後の 二?天皇 )の 准母 となって、その養育を任され、その異母弟の 以仁王 の養母となる。守仁親王が?位すると、 ?保 元年( 1161年 )12月16日、女院?宣下を受けて八?院と?する [2] 。これは養母であった美福門院の死や?父である 後白河上皇 との?立によって打?を受けた二?天皇が、准母である彼女への?威づけによって、結果的に自分自身の?威づけをも?ろうとしたとする?もある [3] 。また、美福門院の?娘である 高松院 との婚姻?係が事?上終焉したために、二?天皇が鳥羽法皇?美福門院の後?者としての?威づけを彼女の存在を通じて?ろうとしたもので、彼女自身には特別な政治力は無かったとする?もある [4] 。その後も異母兄である後白河法皇の 院政 を影から支えており、 平?盛 でさえも彼女の動向を無視することは出?なかった。二?天皇が彼女を准母として自らの正統性を示し、後白河院も幾度となく八?院御所へ御幸していることからも、彼女の存在が重く見られていた事?がわかる。

治承 4年( 1180年 )、猶子である以仁王が反平氏の兵を?げた( 以仁王の?兵 )。この際、八?院が密かに支援しているのではと言われ、?際、八?院は以仁王の子女(生母は八?院女房)を自身の御所で匿っていたが、?盛も社?的な反響を恐れて結局は以仁王の男子を 出家 させることを?件に女院の行?を不問にせざるを得なかった。更に八?院は以仁王の助命についても?盛との間で行っていたものの、以仁王が園城寺に逃げこんで連携を?ろうとしたことで交?が挫折したとする指摘もある [5] 。だが、全?各地にあった八?院領には「以仁王の令旨」が回されて現地の武士?による 反平氏蜂起 が促されていった。以仁王が?した平家追討の令旨を各地に?達したとされる 源行家 は八?院の ?人 であり、また別の八?院?官も 源?朝 と連絡を取っていた。また、池大納言 平?盛 (?盛の異母弟だが、仲が良くなく、?立行動が目立つ)も八?院乳母子を妻として女院の官人となっていた。八?院自身の立場はさておき、彼女の周?には、反平家の人?が集っていた。なお、 安?天皇 の西走後にも彼女を中?ぎの女帝として擁立する動きがあったと言われている [6] 。また八?院に仕えた 健?御前 の『 たまきはる 』によれば、安?の後?について後白河院の意中の候補は 高倉上皇 の第4皇子( 後鳥羽天皇 )であり、八?院が以仁王の遺? 北陸宮 を?く推す 源義仲 の憤激を憂慮したのに?して、後白河は「木曾は何とかは知らん(木曾など問題ではない)」と語り、北陸宮が皇位?承?を喪失していることを指摘した上で、自らが鳥羽法皇の第4皇子であったことを吉例として?げたという。

以仁王の王女? 三??宮 を養女とし、大病に罹った 建久 7年( 1196年 )正月、所領の大部分を彼女に?った。ほかの小部分をこれも猶子とした 九?良輔 に??した(良輔の系統は九?家の一員では無く、八?院領を?承して九?家とは別の家を創始したとする?もある [7] )。三??宮は八?院がもっとも長く養育していた子供で、思い入れも深かっただろうが、?際の??には後鳥羽上皇の?持ちを考えてか、まず三??宮に管領させ、?宮一期の後、上皇の皇女である 昇子?親王 へ?るとあった。 元久 元年( 1204年 )、?宮の死去によって再び?園を管領した。その後、もう一人の養女である昇子?親王に八?院領の大部分を?えた。 建? 元年( 1211年 )、75?で薨去。

八?院領は後に 順?院 ? 後高倉院 ? 安嘉門院 の手を?て、やがて 大?寺統 の重要な??基盤となった。

人となり [ 編集 ]

鷹揚な人柄の?君であったらしい。 健?御前 (はじめ 建春門院 に仕え、のち八?院にも仕えた)の『 たまきはる 』によれば、八?院は生活面において非常に無頓着?無造作で、およそ身?の?事について指示することが無く、女房たちを思いのままに自由にさせたという。健?御前は、塵が積もった御所の中で、女房がちぐはぐな衣?を着ても?に留めなかった八?院の?子を見て、華美好きで整然とした建春門院御所との違いに感嘆した。

?連作品 [ 編集 ]

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 平安京 左京 八?にある八?殿を御在所としたため。
  2. ^ 院?宣下の前に立后されなかったのは出家していたため。
  3. ^ 栗山圭子『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年、P87-91
  4. ^ 佐伯智?「鳥羽院政期の王家と皇位?承」初出:『日本史?究』598?(2012年)/所?:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大?出版?、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5
  5. ^ 永井、2021年、P103-112.
  6. ^ 山田彩起子『中世前期女性院宮の?究』思文閣出版、2010年、P281-282
  7. ^ ?口健太?「八?院領の?領と八?良輔」(初出:『年報中世史?究』40?(2015年)/所?:?口『中世王?の形成と??家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3

?考文? [ 編集 ]

  • 永井晋『八?院の世界 武家政?成立の時代と誇り高き王家の女性』山川出版社、2021年 ISBN 978-4-634-59122-6

?連項目 [ 編集 ]