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暲子?親王
(しょうし/あきこないしんのう、
保延
3年
4月8日
(
1137年
4月29日
) -
建?
元年
6月26日
(
1211年
8月6日
))は、
平安時代
末期から
鎌倉時代
初期にかけての
皇族
。初めて
后位
を?ずに
女院
となり、
八?院
(はちじょういん)と?した
[1]
。
系譜
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]
鳥羽天皇
の皇女で、母は美福門院(皇后?
藤原得子
)。
近衛天皇
は同母弟、
崇?
?
後白河
?天皇は異母兄にあたる。ほかに母を同じくする姉妹に、早世した
叡子?親王
と
二?天皇
中宮となった
姝子?親王
(高松院)がいる。
終生、未婚であったが、甥の
二?天皇
の
准母
となったほか、
以仁王
とその子女、
九?良輔
(
兼?
の子)、
昇子?親王
(春華門院、
後鳥羽上皇
の皇女)らを養育した。以仁王は八?院の
猶子
であり、王が八?院女房?三位局との間に儲けた子女のうち、男子は
東寺
長者?
僧正
となった
安井宮道尊
であり、女子は
三??宮
と呼ばれた。九?良輔は2?、昇子?親王は生後3ヶ月ほどで、いずれも幼くして八?院の養子女となり、その著袴?
元服
などは女院御所で行われた。
生涯
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]
保延3年(1137年)に誕生。保延4年(
1138年
)4月、
?親王宣下
。?親の鍾愛を受けて育ち、皇后?
泰子
の養女となって
高陽院
で育った姉?叡子?親王と違って、暲子?親王は父?
鳥羽法皇
が「朝夕の御なぐさめ」として手元に置いて育てた。『
今鏡
』には、同母弟??仁親王(
近衛天皇
)が立太子した時、3?だった暲子?親王が「若宮は春宮になりたり、我は春宮の姉になりたり」と言って父?鳥羽法皇を興じさせた話がある。
久安
2年(
1146年
)4月、
准三后
となる。
久?
2年(
1155年
)に近衛天皇が崩御した際、父?鳥羽法皇は暲子?親王を次の天皇にする事を??に考えたともいわれている(『
愚管抄
』)。
鳥羽法皇崩御後の
保元
2年(
1157年
)6月に落飾する。法名は
金剛?
。この出家は?に?門に入っていた母?
美福門院
の?めによるものという。その後、父母の菩提のための?事や社寺?詣に明け暮れる日?を送ったが、父母の資産の大部分を?承した暲子?親王は同時代人から「鳥羽院の正統を?ぐ
嫡流
の皇女」として認識されていた。彼女は保延6年(
1140年
)、わずか4?の時に父?鳥羽法皇から
安??院
領などを??され、その後に生母美福門院から相?した所領、および新たに寄進された所領をあわせて、全?に二百?十箇所に及ぶ
?園
があった。これらは女院の管領下にあって
八?院領
と呼ばれ、中世皇室領の中?をなす一大?園群をなした。
皇太子?守仁親王(後の
二?天皇
)の
准母
となって、その養育を任され、その異母弟の
以仁王
の養母となる。守仁親王が?位すると、
?保
元年(
1161年
)12月16日、女院?宣下を受けて八?院と?する
[2]
。これは養母であった美福門院の死や?父である
後白河上皇
との?立によって打?を受けた二?天皇が、准母である彼女への?威づけによって、結果的に自分自身の?威づけをも?ろうとしたとする?もある
[3]
。また、美福門院の?娘である
高松院
との婚姻?係が事?上終焉したために、二?天皇が鳥羽法皇?美福門院の後?者としての?威づけを彼女の存在を通じて?ろうとしたもので、彼女自身には特別な政治力は無かったとする?もある
[4]
。その後も異母兄である後白河法皇の
院政
を影から支えており、
平?盛
でさえも彼女の動向を無視することは出?なかった。二?天皇が彼女を准母として自らの正統性を示し、後白河院も幾度となく八?院御所へ御幸していることからも、彼女の存在が重く見られていた事?がわかる。
治承
4年(
1180年
)、猶子である以仁王が反平氏の兵を?げた(
以仁王の?兵
)。この際、八?院が密かに支援しているのではと言われ、?際、八?院は以仁王の子女(生母は八?院女房)を自身の御所で匿っていたが、?盛も社?的な反響を恐れて結局は以仁王の男子を
出家
させることを?件に女院の行?を不問にせざるを得なかった。更に八?院は以仁王の助命についても?盛との間で行っていたものの、以仁王が園城寺に逃げこんで連携を?ろうとしたことで交?が挫折したとする指摘もある
[5]
。だが、全?各地にあった八?院領には「以仁王の令旨」が回されて現地の武士?による
反平氏蜂起
が促されていった。以仁王が?した平家追討の令旨を各地に?達したとされる
源行家
は八?院の
?人
であり、また別の八?院?官も
源?朝
と連絡を取っていた。また、池大納言
平?盛
(?盛の異母弟だが、仲が良くなく、?立行動が目立つ)も八?院乳母子を妻として女院の官人となっていた。八?院自身の立場はさておき、彼女の周?には、反平家の人?が集っていた。なお、
安?天皇
の西走後にも彼女を中?ぎの女帝として擁立する動きがあったと言われている
[6]
。また八?院に仕えた
健?御前
の『
たまきはる
』によれば、安?の後?について後白河院の意中の候補は
高倉上皇
の第4皇子(
後鳥羽天皇
)であり、八?院が以仁王の遺?
北陸宮
を?く推す
源義仲
の憤激を憂慮したのに?して、後白河は「木曾は何とかは知らん(木曾など問題ではない)」と語り、北陸宮が皇位?承?を喪失していることを指摘した上で、自らが鳥羽法皇の第4皇子であったことを吉例として?げたという。
以仁王の王女?
三??宮
を養女とし、大病に罹った
建久
7年(
1196年
)正月、所領の大部分を彼女に?った。ほかの小部分をこれも猶子とした
九?良輔
に??した(良輔の系統は九?家の一員では無く、八?院領を?承して九?家とは別の家を創始したとする?もある
[7]
)。三??宮は八?院がもっとも長く養育していた子供で、思い入れも深かっただろうが、?際の??には後鳥羽上皇の?持ちを考えてか、まず三??宮に管領させ、?宮一期の後、上皇の皇女である
昇子?親王
へ?るとあった。
元久
元年(
1204年
)、?宮の死去によって再び?園を管領した。その後、もう一人の養女である昇子?親王に八?院領の大部分を?えた。
建?
元年(
1211年
)、75?で薨去。
八?院領は後に
順?院
?
後高倉院
?
安嘉門院
の手を?て、やがて
大?寺統
の重要な??基盤となった。
人となり
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]
鷹揚な人柄の?君であったらしい。
健?御前
(はじめ
建春門院
に仕え、のち八?院にも仕えた)の『
たまきはる
』によれば、八?院は生活面において非常に無頓着?無造作で、およそ身?の?事について指示することが無く、女房たちを思いのままに自由にさせたという。健?御前は、塵が積もった御所の中で、女房がちぐはぐな衣?を着ても?に留めなかった八?院の?子を見て、華美好きで整然とした建春門院御所との違いに感嘆した。
?連作品
[
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]
脚注
[
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]
- ^
平安京
の
左京
八?にある八?殿を御在所としたため。
- ^
院?宣下の前に立后されなかったのは出家していたため。
- ^
栗山圭子『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年、P87-91
- ^
佐伯智?「鳥羽院政期の王家と皇位?承」初出:『日本史?究』598?(2012年)/所?:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大?出版?、2015年)
ISBN 978-4-13-026238-5
- ^
永井、2021年、P103-112.
- ^
山田彩起子『中世前期女性院宮の?究』思文閣出版、2010年、P281-282
- ^
?口健太?「八?院領の?領と八?良輔」(初出:『年報中世史?究』40?(2015年)/所?:?口『中世王?の形成と??家』(吉川弘文館、2018年)
ISBN 978-4-642-02948-3
)
?考文?
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]
?連項目
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]
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大?律令
施行(
701年
)以後で、?親王と公?した人物とする。
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飛鳥時代
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奈良時代
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平安時代
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鎌倉時代
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南北朝時代
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室町?
安土桃山時代
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江?時代
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