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昇子?親王
(しょうし(のぼるこ)ないしんのう、
建久
6年
8月13日
(
1195年
9月18日
) -
建?
元年
11月8日
(
1211年
12月14日
))は、
鎌倉時代
の
皇族
。東宮守成親王(
順?天皇
)の
准母皇后
、
女院
。
院?
は
春華門院
(しゅんかもんいん)。
後鳥羽天皇
の第一皇女。
中宮
九?任子
(宜秋門院、?政?白
九?兼?
女)の唯一の所生。
生涯
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建久6年(
1195年
)10月16日、
?親王宣下
。まもなく
八?院
の猶子となり、八?院のもとで育てられた。建久7年(
1196年
)正月、病床にあった八?院は、膨大な八?院領のほとんどを昇子?親王に?るという?容の??を作成しているが
[1]
、その後八?院は病?から回復している。同年4月、一品
准三后
。
承元
2年(
1208年
)8月8日、異母弟の東宮守成親王(のちの
順?天皇
)の准母として皇后宮に
冊立
される。承元3年(
1209年
)4月25日院?宣下、春華門院となる。建?元年(1211年)6月26日、八?院が薨去しその所領の大部分を相?したが、昇子?親王も同年11月8日に17?で
崩御
した。八?院領はその後順?天皇に相?された。
脚注
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- ^
ただし同じ八?院の猶子であった
以仁王
の王女(三??宮)の生存中は、全所領は以仁王の王女のものとした。結局、こののち回復した八?院に先立って、元久元年(1204年)に以仁王の王女は死去している。(服藤、134頁)
?考文?
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大?律令
施行(
701年
)以後で、?親王と公?した人物とする。
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