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この項目では、?史上の?について?明しています。中?福建省の地名については「
新羅?
」を、古代日本の郡については「
新座郡
」をご?ください。
|
- 新羅?
[1]
- 新羅國
[2]
-
|
(新羅の印章)
|
三?時代
後半の576年頃の半島
-
-
- ^
『?唐書』新羅?
- ^
舊唐書/卷199上
新羅
(しらぎ/しんら、シルラ、
前57年
-
935年
)は、
古代
の
朝鮮半島
南東部にあった?家。?初は「斯蘆」(しろ、サロ)と?していたが、
503年
に「新羅」を正式な
??
とした
[1]
。朝鮮半島北部の
高句麗
、半島南西部の
百?
との?立時代を?て、
7世紀
中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、
高麗
、
李氏朝鮮
と?くその後の半島?家の祖形となった。
??
や
飢饉
で?力を弱?化させ、
高麗
に降伏して滅亡した。
朝鮮の?史
?分では、新羅、高句麗、百?の3か?が鼎立した
7世紀
中盤までの時代を
三?時代
(さんごくじだい)、新羅が朝鮮半島唯一の?家であった時代(
668年
-
900年
)を
統一新羅時代
(とういつしらぎじだい)、新羅から
後高句麗
と
後百?
が分裂した
10世紀
の時代を
後三?時代
(ごさんごくじだい)という。ただし
1970年代
以降の
韓?
では、
渤海
を
朝鮮民族
の?史に組み?む意?(
朝鮮の?史?
)から、統一新羅時代を
南北?時代
(なんぼくこくじだい)と?しているので注意が必要である。
?要
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]
『三?史記』の新羅本紀は「辰韓の
斯蘆?
」の時代から含めて一貫した新羅の?史としているが、史?性があるのは
4世紀
の第17代
奈勿王
以後であり、それ以前の個?の記事は??的なものであって史?性は低いとされる。
6世紀
中頃に半島中南部の
加羅
諸?を滅ぼして配下に組み入れた。唐が
660年
に百?を、
668年
に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で?軍した(
羈?支配
)。その後、唐が
吐蕃
と??を始めると、反?を起こして?百?領全土と?高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲?して官員を殺戮し(
唐?新羅??
)朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の
慶?北道
慶州市
)にあった。
9世紀
末には新羅の?力は衰え、百??高句麗の再興を?る勢力が出て
後百?
?
後高句麗
との鼎立による
後三?時代
となり、最終的には後高句麗から起こった
高麗
に?順して新羅は滅亡した。
新羅の?史は、『
三?史記
』新羅本紀?
敬順王
紀に記されるように、始祖から第28代
??女王
末年(
654年
)までを上代、第29代
武烈王
(金春秋)?位から第36代
?恭王
末年(
780年
)までを中代、第37代
宣?王
から滅亡までを下代と分類する。
呼?
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]
?初の「斯蘆」という文字の?音は現代日本語では「しろ」、現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。
日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と?むが、
奈良時代
までは「しらき」と?音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも?音である。これは元?「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が?を指す物に?化したのではないかという?がある。
?史
[
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起源と神話
[
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]
新羅の前身は朝鮮半島南東部にあった
辰韓
十二?のうちの1つ、
斯蘆
?である
[2]
[3]
。文?史料からは正確な建?の時期については明確にわからない。『
三?史記
』「新羅本紀」冒頭の記述に?うと、新羅の建?は
前漢
孝宣帝
の
五鳳
元年、
甲子
の年であり、
西?
に直すと
紀元前57年
となる
[4]
。これはいわゆる古代朝鮮の3?(
高句麗
?
百?
?新羅)の中で最も早い建?であるが、
末松保和
らの?究によって後世に造作されたものであることが明らかにされている
[5]
。初期の時代における『三?史記』「新羅本紀」の記載は??的色彩が?いが、韓?の?界においては20世紀半ば頃にはこれを史?とする見解が出され、有?な??の一つとなっている。20世紀後半以降、この新羅の?承は紀年の修正はされているものの事?が反映されたものであるとし、建?年を3世紀前半まで引き下げる?などが提出されている。しかし、これらは具?的な論?を欠き?得力に乏しいと評される
[5]
。
中?史料では、高句麗、百?、新羅の順に登場する
[6]
。『三?史記』において高句麗の建?よりも新羅の建?が早く設定されたのは、著者の
金富軾
が、
慶州
出身で新羅王家の
一族
だったためであると考えられる
[6]
。金富軾は、新羅王家の一族だったが、高麗王家に仕えて、
平?
が高麗から?立した反?を??して武?を上げた人物であった
[6]
[註? 1]
。
『三?史記』が?える建?神話によれば、
慶州
盆地に6つの村(閼川楊山、突山高墟、?山珍支、茂山大樹、金山加利、明活山高耶)があり、その六村が卵から生まれた
赫居世
を王に推戴したのが新羅の始まりであるという
[3]
[8]
。
新羅の建?神話は他の朝鮮諸?と比較して特異であり、三姓の王の交代という形をとる。?ち初代赫居世に始まる
朴氏
、第4代
?解
に始まる
昔氏
、第13代
味鄒
に始まる
金氏
(始祖は味鄒より?代前の
閼智
とされる)である
[3]
[9]
。その?容の??的色彩が?いことや、?際に新羅で姓が使われ始めるのが6世紀に入ってからである点などから、これらの神話は基本的に史?としては扱われない
[9]
。しかし三姓がそれぞれに異なる由?を語り、6つの村(後の新羅六部の前身とも考えられる)が?わる?特の建?神話は、新羅王?の成立過程の複?な?相を反映したものであるかもしれない
[10]
。
朴氏の始祖?話
[
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]
朴氏の初代とされているのは
赫居世
(赫居世居西干)である。
辰韓
の六村の長の一人が、蘿井(
慶州市
塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼?が出てきて育て上げたが、10?を越えた頃、彼の出生が神秘的であったことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名?った。赫居世は
紀元前57年
に13?で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と?された)に就き、??を徐那伐とした
[4]
。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される
[11]
)に龍(
娑蘇夫人
)が現れ、その左脇(『
三?史記
』では右脇)から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人?を備えていたので赫居世は彼女(
閼英夫人
)を王妃に迎えた。人?は赫居世と閼英夫人とを二聖と?した
[12]
。なお、日本側?承では新羅の祖は?葺草葺不合命の子で神武東征に?った?飯命だとされている。また、『
三?遺事
』には赫居世と閼英夫人はともに
中?
から
辰韓
に渡?した中?の
王室
の娘
娑蘇夫人
の子であるとする?承が?えられており、『三?史記』
敬順王
?末尾では編者
金富軾
が中?の接待官から類似の話を聞いた記?が?されている
[13]
。また、赫居世の臣下には倭?から?たとされる
瓠公
がおり、辰韓が??であると主張する
馬韓
王に?峙させたという?話がある
[14]
が、瓠公こそが
赫居世だとする見方もある。
昔氏の始祖?話
[
編集
]
昔氏初代は?解(第4代
?解尼師今
)である。『三?史記』によれば、倭?東北一千里のところにある
多婆那?
(日本の丹後、但馬)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生んだが、多婆那王は不吉であるとして卵を捨てるように命じた。王妃は捨てるに忍びず、絹の布で卵を包み、?物と共に箱に入れて海に流した。その後
金官?
に流れ着いたが、金官?の人?は警戒してこれをとりあげなかった。次いで辰韓の
阿珍浦
に流れ着き、そこに住んでいた老婆が箱を拾って開けると、中から一人の男の子が出てきたので、育てることにした。男の子は成長するに?い身長九尺にもなり神の如き風格を備えた。姓氏がわからなかったので、ある人が、箱が流れ着いたときに鵲(
カササギ
)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「?解」と名付けるのが良いとした。?問を身に着けた?解は倭人の宰相であった
瓠公
の邸宅を見て吉兆の地であると判?し、相手を騙して土地を取り上げた。これが後の新羅の?点である
月城
になった。新羅の第2代王
南解
は?解が賢者であるのを見て娘(阿孝夫人)を?え、第3代の
儒理
王は死に際して?解に後事を託した。こうして?解が王となった
[15]
。
金氏の始祖?話
[
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]
金氏始祖とされている
金閼智
は第13代
味鄒
(味鄒尼師今)の7世祖であるとされる。?解の治世に、首都金城の西方の始林の地で?の鳴き?を聞こえたので、夜明けになって倭人の
瓠公
に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い?が鳴いていた。報告を受けた?解が役人に小箱を回?させ開かせると、中から小さな男の子が現れた。容姿が優れていたので?解は喜んでこれを育てた。長じて?明であったので「閼智」(知?者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を?林と改名した。後に金氏が新羅王となると、その始祖である閼智にちなんで??も?林とした
[16]
。
新羅の登場と時代?分
[
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]
以下本節の月日はすべて
??
、年は?該??年を
西?
に?純置換したものである。
新羅が?際に外?史料にあらわれるのは『三?史記』で物語るよりも後の時代であり、文?史料で確認できる新羅の初出記事は、『
資治通鑑
』?104?太元2(
377年
)年?にある、高句麗とともに
前秦
に
朝貢
したという記事である
[17]
。このことから、4世紀頃が?家形成における?期であったと見られ、文?史?的には?ね建?の時期として扱われる
[2]
[3]
[18]
。考古?的には
積石木槨墳
という新たな墓制の登場をもって新羅の成立と見る
[18]
。積石木槨墳は木槨の上に20から30センチの石を積み、その上をさらに土を盛った構造の墳墓であり
円墳
または複?の円墳が複合した
?円墳
、
集合墳
の形態を取る
[19]
。また、新羅が「成立」した4世紀頃は、
原三?時代
に置いて文化的差異が曖昧であった弁韓と辰韓の考古?的遺物が明確に分化する時期でもあり、それまで小?の連合?がひしめき合っていた朝鮮半島島南部はこの頃から、おおよそ
洛東江
を境にして東側は新羅、西側は
伽耶
として異なる政治的?文化的な領域を明確に形成し始める
[20]
。
『
三?史記
』「新羅本紀」の記述に依れば、新羅人は始祖から
??女王
までを
上代
、
武烈王
から
?恭王
までを
中代
、
宣?王
から
敬順王
までを
下代
と呼んでいたという
[13]
。現代の?究者による??書は?ね新羅による統一以前と統一以後(
統一新羅
)で記述を分ける。
周?諸?と新羅
[
編集
]
377年の前秦への遣使が高句麗と共同で(高句麗の影響下で)行われたことに見られるように、新羅の登場は
高句麗
と密接にかかわっている。初期の新羅は高句麗に?し相?程度??的な地位にあった。382年に新羅は再度??で前秦への遣使を行っているが、これもその地理的?件から見て、高句麗の承認があって初めて可能であったものと考えられる
[3]
。同時に新羅は建?初期から
倭人
の脅威にも?されていた。『三?史記』「新羅本紀」は建?初期からたびたび倭人の侵入があり?いを繰り返していたことを記?している
[21]
。また、西隣の
百?
、それに同調する
伽耶
諸?とも?立しており、それらに?して倭が軍事支援を行っていたとも?えられる
[10]
。
4世紀末から5世紀にかけてこうした?況は『三?史記』や
韓?
で?見された
中原高句麗碑
などの?掘史料、そして何よりも?開土王碑など多くの史料によって良く示されている。?開土王碑は新羅を高句麗の?民として描くとともに
[10]
、この時期に朝鮮半島で行われた大きな?いを記?している。それによれば高句麗は古より百?を「?民」としていたが391年に倭が百?、新羅を「臣民」としたために出兵し倭軍を?退した
[22]
。その?いの中、400年頃には新羅の王都が倭軍に占領されたために高句麗が新羅に出兵し、倭を?退し「任那加羅」まで追ったという
[22]
。この?開土王碑文の解?を巡っては??な議論があるが、『三?史記』や『日本書紀』にこれらと??すると見られる記?として、新羅が高句麗と倭の?方に王子
?海
(卜好)と
美海
(未斯欣)を人質として送ったことが?えられる
[10]
[23]
。また、中原高句麗碑は高句麗が新羅領?で人夫を??していたことを記?している
[10]
[註? 2]
。同碑文は高句麗王と新羅寐錦(王)の?係を兄弟に擬制し、高句麗王を兄とした明確な上下?係を表現している
[10]
。
新羅が?力を?し、高句麗からの自立を?るようになるのは5世紀の半ば頃からである
[25]
。450年、新羅が高句麗の??を殺害するという事件が起きた
[26]
。これによって高句麗が新羅征討を計?したが、新羅が謝罪したため一旦問題は?まった
[26]
。しかし、454年には高句麗が新羅領に侵入して??となり、翌年には高句麗と百?の?いで百?へ援軍を送るなど新羅は次第に高句麗に?する自立姿勢を明確にしていった
[25]
[26]
。
新羅の?展
[
編集
]
5世紀末頃から新羅は?力の??に向けて改革を??し、大きな飛躍を遂げた。5世紀末、新羅は
慶州
盆地の丘陵に
月城
と呼ばれる王城を築いた。この盆地には喙部、沙喙部、牟梁部、本彼部、習比部、漢岐部と?する6地域(
新羅六部
)があり、それぞれ自律的な政治集?を形成しつつ、?外的には王京人として結束するという連合?を形成した
[25]
。特に喙部、沙喙部は突出して大きな力を持っていた
[25]
。西?500年に?位した
智?麻立干
(在位:500年-514年)は、それまで不定であった??を正式に新羅とし、王?を??の麻立干から王へと?更したとされる
[27]
。この時代に王という??が使用されたことは503年の日付を持つ『
迎日冷水碑
』で智?(本文では至都蘆、智?の異表記
[28]
)が「葛文王」を?していることや、524年の日付を持つ『
蔚珍鳳坪碑
』において
法興王
(在位:514年-540年)が「寐錦王」と?していることから確認できる
[27]
[28]
。新羅史を上古、中古、下古の三期に?分する『
三?遺事
』は智?王の時代を?期と見なし、上古と中古の境界とする
[28]
。ただし、この時代の新羅王?が政治的連合?としての性格を?く持っていたこともこれらの碑文からうかがわれる。『迎日冷水碑』は有力者の資産問題に?する裁定を下したことを記?した碑文であるが、その中で裁定を下した集?のメンバ?は「七王」と呼ばれており、全員が王とされていた
[28]
。
智?王の跡を?いだ法興王は更なる改革を?け、520年に「
律令
」を?布し、?自の官位制を整えた
[29]
。さらに140年ぶりとなる中?(南朝、
梁
)への遣使を行い、522年には
大伽耶
(
高?
)と婚姻を結ぶなど、周?地域への?外活動を活?化させ、532年に伽耶地方の金官?を降伏させて?呑し、さらに536年には?自の年?である「建元」を制定した
[29]
。また、彼は527年、
??
を
導入
し、新羅における??の端?を開いたという
[30]
。「法を興す」という彼の名はこの業績にちなんでおり、この王は??派の群臣たちと?峙して?刑された
異次頓
、??的な僧侶
阿道
とともに新羅??の三聖人に?えられている
[30]
。こうして新羅の?家?制の整備と勢力?大に大きな功績を?した法興王であるが、先に述べた『蔚珍鳳坪碑』では犯罪者に
杖刑
を裁定する際の裁定者としてやはり「牟?智(法興)/寐錦王」と「?夫智/葛文王」が登場しており、複?の「王」が?存する?制が??していたことが確認できる
[27]
[31]
。こうした?制は『三?史記』などの記?には無く同時代史料によって確認できるものである
[28]
。
こうした?制の整備を?て、6世紀中頃には急激な領域?大が可能となった。
?興王
(在位:540年-576年)の時代、新羅は高句麗と?い、551年に
小白山脈
を超えて高句麗の10郡を奪った。さらに翌552年には高句麗と百?の?いの中で漁夫の利を得る形で
漢城
(現:
ソウル
)を手中に?めて「新州」を置き、朝鮮半島の西海岸に勢力を伸ばした
[32]
[33]
。漢城は元?百?の首都であったが、475年に高句麗によって奪われた都市であり、新羅の行動は百?との?係?化を招いた
[33]
。しかし553年、百?の
聖王
が率いる軍勢を新羅軍が?破し、聖王を?死させたことで漢城周?の確保は確定した
[34]
。
562年
には伽耶地方の
大伽耶
を滅ぼして占領し、
洛東江
下流域の伽耶諸?が新羅の支配下に入った
[34]
。この時代、領土の?大に伴い地方統治組織が整備される一方で、王都では??の隆盛とともに寺院建築、??儀?が盛んとなり、
花?
と呼ばれる貴人の私邸をリ?ダ?とする?年組織が制度化されるなど、新羅?家の制度的な基礎が整っていった
[34]
。
この?力??を背景として、564年に
北?
に朝貢し、その翌年「使持節東夷校尉?浪郡公」に冊立された
[35]
。次いで568年に
南朝
の
陳
にも朝貢した。こうした?力による南北?王朝との外交?係の構築は新羅が高句麗や百?と?んで東アジアの中で確固たる地位を確保したことを象?するものであった
[35]
。こうした新羅の?張と中?王朝との?係構築は、その?者によって?まれる高句麗に脅威を?え、高句麗が570年に始めて
倭?
に使者を送って外交?係の構築を模索するなど
[註? 3]
、?際?係の?化をもたらした
[35]
。
中?の?展と三?時代の終焉
[
編集
]
589年、
隋
が中?を統一し、?世紀にわたる中?の
南北朝時代
が終わった。高句麗と百?、そしてやや?れて新羅が隋に朝貢し、朝鮮三?を包含する隋を中心とした?際秩序が形成されたことで、朝鮮半島における安全保障上の環境が激?した
[39]
。とりわけ隋と?境を接する高句麗はその軍事的?力を?く受け、度重なる隋の侵攻を受けるようになる。しかし隋の高句麗遠征は失敗に終わり、これも一因となって王朝は倒れ618年に新たに
唐
が興った
[40]
。新羅はすぐに、高句麗、百?と同じように唐から冊封を受けた
[41]
。各?は互いの?を非難しあい、新羅も百?と高句麗が連年攻め?んできていることを訴えて唐の?心を得ようとした
[41]
。唐は?初三?の和解を促しつつ情勢の安定化を試みたが、やがて640年代に入ると隋代に失敗した高句麗への遠征を再び繰り返すようになった
[42]
。
こうした事態に??して、各?で?力の集中と?家?制の整備が進むようになった。高句麗では642年に
淵蓋蘇文
がク?デタ?を起こして??を握り、唐の侵攻に備えた
[43]
。一方百?では
義慈王
(在位:641年-660年)が?位し、高句麗のク?デタ?と同じ642年に新羅に侵攻した
[44]
。新羅は大きな敗北を喫し、伽耶地方を中心に40城余りを失い、さらに大耶城(
慶?南道
陜川郡
)の失?の際には城主が妻子もろとも殺害された
[44]
。この城主の妻は新羅の王族
金春秋
の娘であり、この事件は新羅の政界に大きな衝?を?えた
[44]
。新羅では一連の敗北を「大耶城の役」と呼び、城主一家の死にこだわり?けることになる
[44]
。翌年には高句麗と百?が和睦を結び、さらに倭?とも連携する動きも生じて新羅は?際的に孤立することとなった
[45]
。敗?の後、新羅では王位にあった
善?女王
、金春秋、そして?金官?の王族に連なる
金庾信
が結束して新たな指導?制を敷き始めた
[46]
。これらのことから
642年
は最終的に
676年
の新羅による朝鮮半島統一に?着する東アジアの大?動が始まる?期となったと評される
[47]
[44]
。
高句麗と百?からの?迫を受けて、新羅は
643年
に唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを要求された
[48]
。このことが契機となって、新羅??では親唐派と反唐派の?立を生じ、上大等の
毗曇
が女王の?位を求めて反?を起こした。ほぼ同じ頃に善?女王が急死した
[48]
。
毗曇
の反?は結局半月程度で??され、その後
金春秋
(後に武烈王となる)は新たに
??女王
を立てて唐との?係構築を模索した
[48]
。金春秋は中?の
律令制度
を取り入れる改革を始め、
650年
にはそれまで新羅?自で用いていた年?(
太和
)を?止し、唐の年?を用いるなどして、唐との連携を?めていった
[49]
。
新羅は655年にも高句麗と百?から攻?を受け、唐に救援と出兵を依?した
[50]
。唐は658年から高句麗遠征を行ったが、隋代と同じく度重なる失敗に終わった
[50]
[51]
。このため唐は高句麗を征服するにあたってまず百?を先に攻略することを決定し、660年に海路から百?を攻?した
[50]
[51]
。新羅もこれに呼?して百?に出兵し、百?の?軍?白を?破した
[51]
。百?の首都
泗?
が唐によって攻略され、最後の?点
熊津
も攻?を受けて百?は滅亡した
[50]
[52]
。百?の遺臣は倭?や高句麗の支援を?みに反?を起こしたが、倭?から派遣された援軍が663年に
白村江の?い
で大敗し、百?復興も失敗した
[50]
[53]
。南北から高句麗を包?した唐は百?遺臣の反?を??する前から高句麗への攻?を行ったが、これも失敗に終わった
[54]
。しかし、高句麗の?質的な支配者淵蓋蘇文が666年に死去すると、その息子たちの間で不和が生じ、これに?じた唐は667年に更なる高句麗遠征を開始した
[54]
。新羅の
文武王
(在位:661年-681年)は唐に呼?して30人の?軍と共に高句麗に攻め入った
[54]
。
668年に唐軍が高句麗の首都
平?
を?落させ、高句麗は滅亡した。唐軍は20万とされる捕虜を連れ?り、新羅軍もまた7000人の捕虜を得て王都へと?り先祖廟に高句麗と百?の滅亡を報告した
[55]
。
唐の排除と渤海の台頭
[
編集
]
唐は一連の征服に伴い、?百?領に
熊津都督府
を、?高句麗領に
安東都護府
を設置して
羈?
州として組み?むと共に、新羅の文武王を
?林大都督
として朝鮮半島全域を支配下に置くことを目論んだ
[55]
[56]
。唐の脅威に?抗すべく、新羅は高句麗最後の王である
??王
(在位:642年-668年)の外孫とされる
安勝
を「高句麗王」(後に「報?王」)に封じて庇護下に置き、「高句麗の使者」を倭?に朝貢させた
[56]
。以後しばらくの間、新羅の使者が?同して高句麗使が倭?へ送られた
[56]
。これは新羅が高句麗を保護下に置いていることを外交的に示威する行?であり、「報?王」の冊立とともに、新羅王?の正統性を?外に示し、唐が設置した安東都護府に?抗する姿勢を明らかにするものであった
[56]
。
また、新羅は?百?領の一部を事?上?呑していたが、唐は百?故地に置いた熊津都督府の都督に?百?王族の
扶余隆
を据え、新羅王と?盟を行わせ、制?した城や遺民の返還を要求した
[57]
。新羅は謝罪使を派遣し、朝鮮半島全?を羈?州とする唐の論理を逆手にとって「百?と新羅は共に唐の羈?州であり境界をわかつべきではない」と主張して自らの行動を正?化した
[57]
。その後、670年にも軍事行動を起こして?百?領に侵攻し、672年に2度目の謝罪使を派遣するなど、侵攻と謝罪を繰り返しつつ勢力を扶植した
[57]
[58]
。これに?し唐は674年に新羅征討軍を起こし、翌675年に新羅は3度目の謝罪使を派遣したが唐皇帝
高宗
(在位:649年-683年)の逆鱗に?れ、文武王の官職?奪の問題にまで進展した
[59]
[58]
。新羅は謝罪外交と?行して更なる軍事的?置を取り、676年には
伎伐浦
で唐軍を破って事?上?百?領全域の支配を掌握することに成功した
[59]
。この事態に、唐は同年中に熊津都督府を遼東の建安城に、安東都督府も遼東城に後退させた
[58]
[59]
。唐はなお新羅征討を計?したが、
チベット
の
吐蕃
の勢力?張によって朝鮮半島に兵力を回す余裕がなくなり、678年に新羅征討を?念した
[58]
[59]
。こうして新羅は朝鮮半島中部以南から唐の勢力を排除し、またこれによって存在意義を失った安勝の高句麗亡命政?も684年に取り潰した
[58]
[59]
。
?高句麗領には新たに?高句麗遺民や
靺鞨
などが中心となって
渤海
が興った(698年)。渤海は唐の退潮による東北アジアの?力の空白を埋める形で現在の中?東北地方(
?洲
)南部、朝鮮半島北部、ロシア沿海州に相?する地域に勢力を?げた
[60]
。8世紀には
?水部
に?する渤海の勢力?張を巡る紛?から唐と渤海の?立が深まり、732年に渤海が唐の登州(現:
山東省
蓬?市
)を襲?して武力衝突に?展した
[61]
。唐は新羅に渤海攻?を要請し、新羅はこれを受け入れた
[61]
。新羅による攻?はほとんど?果がなかったが、唐と新羅の?係は改善し、翌年に新羅は渤海攻?の功績によって
浿江
以南の地を冊封された
[61]
。一方の渤海は、8世紀後半の
文王
の頃にはかつての高句麗の後?者であることを意識して「高麗?王」をなのるようになった
[62]
。共に?力を??していた新羅と渤海の間では緊張が高まり、このことが??の?唐??日本?係にも影響を及ぼした
[63]
。
統一新羅
[
編集
]
朝鮮半島中南部以南の統一に合わせ、文武王および次の
神文王
(在位:681年-692年)の時代には官僚機構の整備、?大した領土の統合?制の構築が進められた。文武王は679年に首都月城の王宮を修築し、付近に築いた苑地(月池、現在の
雁鴨池
)に東宮を建造した(
臨海殿
)
[64]
。王宮周?には
坊里制
がしかれ、方形の??で?切って上流階級の邸宅?寺院が建設されるようになった
[64]
。官僚機構の整備も進められ、神文王代までに上級の13の官?と下部機構からなる行政機構が整えられ、682年には官吏の養成機?として??が創設された
[65]
。
統合された領土は元?の新羅の支配地、?高句麗領、?百?領がそれぞれ3州ずつ、全?で9つの州(九州)に?分けされ、それぞれの州はさらに州?郡??に分けられて地方統治?制が整備された
[65]
。元?の新羅の領土が朝鮮半島南東部に位置していたため王都
慶州
が地理的に偏った位置となったため、五小京(北原京〈
原州
〉、中原京〈
忠州
〉、西原京〈
?州
〉、南原京〈
南原
〉、金官京〈
金海
〉)が置かれた。九州の州治や五小京の一部は王都と同じく碁盤目?の都市整備が行われた
[66]
[65]
。
軍制の整備も進められ、
九誓幢
(9つの軍?)が首都におかれた。これは新羅人の軍?が3つ、高句麗人の軍?が3つ、百?人の軍?が2つ、そして靺鞨人の軍?が1つからなる?騎混成軍であり、これとは別に各地に十停とよばれる騎兵軍が置かれた
[65]
。
地方の田地を?家が直接支配することを目指して、??の食邑(貴族や豪族が支配することを王朝から認められている土地)の縮小が進められ、689年には?邑(下級官僚の共同所有地)の?止が行われた。そして食邑に?わって職田(畑)が?えられ、?邑にかわって祖米を支給することとされた
[67]
[65]
。このような新羅のいわゆる
律令制
の整備は?態がよくわかっていないが、食邑や?邑の?止は?い抵抗にあったものと見られ、その?施は不徹底であったかもしれない
[68]
。
景?王
(在位:742年-前765年)時代には唐との外交?係も安定し?力が?した
[63]
。この頃には唐の制度?文化の積極的な移入が試みられ、全?の地名を唐式に改め、官??官名も唐式に改名された
[63]
[69]
。また、??寺や石?寺などの??寺院が建立され、?時作られた石?などは新羅??文化を代表するものとなっている
[63]
[69]
。
社?の?容と王?の弱?化
[
編集
]
?恭王
(在位:765年-780年)の時代に入ると767年の大恭?大廉の兄弟の大規模な反?を始めとして??が相次ぎ
[註? 4]
、政治的混?の中で?恭王は
776年
正月に?書を出し、律令?制を?固に推進した景?王が唐風に改名した百官の名?を??のものに?した
[72]
[註? 5]
。
最終的に780年に?恭王は王妃とともに殺害された
[63]
。以降、反?と簒奪が常態化し滅亡に至るまで王位は不安定なものとなった
[63]
。『三?史記』ではこの?恭王殺害以降の衰退の時代を「下代」と呼んでいる
[63]
。
?恭王に代わって王位に就いた
宣?王
は、
782年
閏正月、
唐
に?して
朝貢
を行った。勢力を?めている
渤海
に備え、北方面の守備に努め、
781年
7月には
浿江
(
大同江
)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には
漢山州
(
京畿道
?州市
)の住民を
浿江
?(
?海北道
平山郡
または
金川郡
)へ移住させている。在位6年目の
785年
正月になってようやく唐の
?宗
から<?校太尉??林州刺史?寧海軍使?新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。
?く
元聖王
は、?位後直ち(785年2月)に自祖先への追封を行い、五廟を再整備した
[74]
。
788年
には官吏登用の制度として、
科?
に類似する「
?書三品
」を定めたように、儒?的?律令?制的な政策を打ち出した。また、度?の天災により民が餓えることがあったが、律令?制の下で貢納された租粟を振舞って民の救?を行っている。?恭王の末年以?の政治的混?の?拾に努めたが、こうした天災が?いたこともあって、
788年
秋には?の西部で?賊が現われ、
791年
には元の
侍中
の悌恭が反?を起こして誅殺されるなど、安定はしなかった。
唐
に?しては
786年
に使者を派遣して貢納し、
?宗
からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をいただいている。また、宣?王に?えられた官爵〈?校太尉??林州刺史?寧海軍使?新羅王〉をそのまま引き?いだ
[75]
。
哀?王の時代
[
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]
第40代の王
哀?王
の時代(在位 : 800年 - 809年)の
801年
10月には、
耽羅?
(
?州島
)からの朝貢を受けた。耽羅?は
文武王
19年(
679年
)に新羅に隷?していたが、後に?立していた。
802年
には順??利貞らの高僧に命じて
伽耶山
に
海印寺
(
慶?南道
陜川郡
伽耶面)を創建させた。
803年
には日本とも?交が再開されたが、??の交?について『
三?史記
』新羅本紀が哀?王の4年(803年)7月「?交を開き通好した」、5年(
804年
)5月「日本から?金三百?が進上された」、7年(
806年
)3月「日本からの使者を朝元殿で引見した」、9年(
808年
)2月「日本?の使者を厚くもてなした」という4例を?えるのに?し、『
日本後紀
』では
延?
23年(804年)9月己丑?で「大伴宿?岑万里を新羅に遣わした」の1例を?えるのみである
[76]
。
805年、
唐
で
順宗
が?位し、先王の昭聖王への哀悼の使者が送られ、哀?王も新たに
冊封
されて<開府儀同三司??校太尉?使持節大都督??林州諸軍事??林州刺史?兼持節充寧海軍使?上柱??新羅王>へと官爵を進められた。唐には
朝貢
及び、冊命の謝恩使の派遣を行う。
809年7月、?政の金彦昇(後の
憲?王
)が
伊飡
(2等官)の悌邕(ていよう)とともに反?を起こし、哀?王は弟の?明侍衛とともに殺害された。『三?遺事』王?に?れば、
元和
4年(809年)7月19日に王の叔父の憲??興?の2人によって殺害された、としている。
憲?王の時代
[
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]
憲?王
は?位するとただちに
唐
に使者を派遣して先代の哀?王の死を?え、唐の
憲宗
からは〈開府儀同三司??校太尉?使持節大都督??林州諸軍事?兼持節充寧海軍使?上柱??新羅王〉に
冊封
された。唐に?しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の?像などを?上したほか、定期的に
朝貢
を行った。また、
819年
7月には唐の
?州
(
山東省
?寧市
)で
李師道
が反?を起こすと、兵馬を??する憲宗の詔勅に?えて?軍金雄元ら3万の援軍兵を派遣している。
812年
9月には
渤海
へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王
大仁秀
が?位するに及んで緊張を?し、後に
826年
7月には
漢山州
(
京畿道
?州市
)以北の州?郡から1万人を??して
浿江
(
大同江
)沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。
飢饉と地方豪族の反?
[
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]
一方、??では度?災害が起こって民が餓える事態が?生した。
租
を免じたり穀倉を開いたが、
816年
には
浙江省
東部へ流入した民が170人にものぼった
[77]
[78]
。
この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位?承に敗れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反?を起こす。
819年
3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて??される。しかしこうした地方勢力を王?のもとに確?に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に?して地方勢力は反感を持ちながらも、?結して?抗するための中心を求めていた。
金憲昌?梵文の反?
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]
822年
3月、
武珍州
(
全羅南道
、
光州?域市
)?
菁州
(
慶?南道
晋州市
)?
熊川州
(
忠?南道
公州市
)の都督職を?任した
金憲昌
が反?を起こし、熊津(公州市)を都として
長安?
と?すると、その支配領域は武珍州?菁州?熊川州?
完山州
(
全羅北道
全州市
)?
沙伐州
(
慶?北道
?州市
)の五州及び
?原
(
忠?北道
忠州市
)?
西原
(忠?北道
?州市
)?
金官
(慶?南道
金海市
)の三小京に及んだように、?
百?
の領域を中心として?土の大半が金憲昌を支持し、王?に?抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反?は1ヶ月ほどで??されたが、?の??に活躍した討伐軍は貴族の私兵と
花?
集?であり、律令?制の下での兵制は有名無?化していることが露見した。
825年
1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道
驪州郡
)を根?として反?を起こしたが、これは北漢山州(京畿道?州市)の都督によって??された。
これらの反?の平定の論考功賞においては、反?をいち早く王都に知らせた者を重視する王都中心主義が?く見え、また反?に加?しなかった地方には7年間の租?を免除するなどしており、地方行政を疎かにするだけではなく、王?の地方への??を放棄して地方の自治を公認するかのような政策に?したと見られている
[79]
。
826年10月に憲?王は死去した。
興?王の時代
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]
第42代の王
興?王
は、
唐
の
文宗
からは、〈開府儀同三司??校太尉?使持節大都督??林州諸軍事?兼持節充寧海軍使?新羅王〉に
冊封
されて以降、唐への
朝貢
を?けて文物の招?に努め、
827年
に唐に入った?
高句麗
系の僧の丘?は?典を持ち?った。また、
828年
に??した金大廉が
茶
を持ち?り、新羅での
喫茶
が盛んになった。827年に
漢山州
(
京畿道
?州市
)瓢川?から
速富の術
(すぐに富貴になれる方法)という信仰が流行り出す。政府は?祖を遠島へ流刑とした。
832年
の春夏の旱魃、7月の大雨で凶作となり、餓えた民衆が?賊となって蜂起する。10月には各地に使者を派遣して慰撫に努めた。翌
833年
にも凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者を出すと、
834年
10月には王自らが巡幸して民に穀物を分け?え、民心の安定を?ろうとした。同834年には、身分の上下に?じて色服?車騎?器物?家屋などの?別を?然とさせて違反者には刑罰を用いるとする?書を?布
[80]
して、奢侈を禁じるとともに王都の住民に?する身分序列を明確化させることとした。この?書の中で規定された身分序列は「?骨?六頭品?五頭品?四頭品?平人のそれぞれ男女」としており、7世紀中葉に成立していた王族を中心とする身分序列である「骨制度」(聖骨??骨)に?して「頭品制度」とされる。これら骨制度?頭品制度をあわせて新羅の
骨品制度
という。
張保皐の?
[
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]
張保皐
のもとに集結した
金祐?
らの一派は838年3月に軍事活動を起こし、祐?派の
金陽
が
武州
(
光州?域市
)を下してさらに
南原小京
(
全羅北道
南原市
)を?落させた。12月になって金陽が武州?冶?(全羅南道
羅州市
)まで軍を進めたところで新羅王
閔哀王
は金敏周を派遣して迎?したが、金陽軍の前に?滅した。839年1月19日、金陽軍が達伐(
大邱?域市
)にまで及び、王は禁軍を用いて防?に努めたがかなわず、兵の半?以上が?死した。この敗?を聞いた王の側近は皆逃げ出してしまい、王も殺害された
[81]
。祐?は王の儀?を以て閔哀王の屍を埋葬し、また、古?に則って?位式を執り行い、王位を?承し、
神武王
として?位した。しかし、神武王は病で同年、死す。その子
文聖王
は、政?交代に役のあった張保皐に官位を?えるが、張保皐は不?を持ち、846年、
?海?
(
全羅南道
莞島)で反?を起こしたが、王軍は張保皐の暗殺に成功する。
しかしながら、これらの動?は地域社?にも波及し、
9世紀
末には、農民の反?や豪族の?立が頻?する。
景文王
[
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]
第48代の王
景文王
は、
唐
へ
862年
7月に使者を派遣して土産物を貢納した。
864年
4月に日本からも?使を迎えたとされるが、日本側の史書には??する記事はない
[82]
。
865年
4月には
懿宗
から<開府儀同三司??校太尉?使持節大都督??林州諸軍事?上柱??新羅王>に
冊封
された。
869年
7月には王子の金胤らを唐に派遣し、馬二匹?砂金百??銀二百?ほか、??の進奉を行った。翌
870年
2月には
沙飡
(8等官)の金因を唐に宿衛させ、
874年
には
僖宗
からの宣諭使を受け、唐との交流は盛んになった。
しかし、
866年
10月には
伊飡
(2等官)の允興がその弟の叔興?季興とともに反逆を謀った。事前に??して允興らは岱山郡(
慶?北道
星州郡
)に逃走したが、捕縛されて斬刑に?され、一族が誅滅された。
867年
5月には王都金城(
慶?北道
慶州市
)で疫病が流行り、同年8月には洪水が起こった。地方各地でも穀物が?らず、王は各地へ安撫の使者を派遣して慰問に努めた。
868年
1月には伊飡の金??金鉉らが反?を起こして誅殺された。
870年
には王都が地震?洪水に見舞われ、その冬には再び疫病が流行った。
873年
にも飢餓と疫病が起こり、王は民に穀物を?えて救?したが、政情は安定しなかった。さらに
874年
5月にも伊飡の近宗が反?を起こして宮中まで至り、王は近衛兵を派遣して?破し、逃れた近宗一味を捕らえて車裂きの刑にした。875年7月8日に景文王は死去。
憲康王
[
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]
憲康王
の時代(在位 : 875年 - 886年)には、
唐
へ
876年
7月に朝貢を行い、
878年
4月には
僖宗
から
冊封
された。同年7月に使者を送ろうとしたが、
??
の?の起こったことを聞き及んで使者の派遣は中止した。後に
885年
10月になって、??の?の平定されたことを祝賀する使者を唐に送った。
878年
8月には日本からの使者を朝元殿で引見したこと、
882年
4月には日本?王が?金300?と明珠10個とを進上する使者を派遣してきたことを『三?史記』新羅本紀は?えているが、日本側の史料には??する記事は見られない。
869年
に新羅の海賊船が博多を襲って以?、新羅と日本との間には緊張?係が生じており(
新羅の入寇
を?照)、『
日本三代??
』
元慶
四年(
880年
)?によれば、新羅の賊が侵入するという情報を得た日本海沿岸の諸?は?重な警戒態勢をとっていた。しかしその間にも、公私にわたる使者の往?はあったものと見られている
[83]
。
『三?史記』新羅本紀には憲康王の時代は順調であったと記しているが、
879年
6月に
一吉飡
(7等官)の信弘が反?を起こして誅殺された。
?聖女王
[
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]
新羅下代唯一の女王
?聖女王
は、
三?史記
によればもともと角干(官位)の魏弘と通じていたが、?位すると常に入?させて用いていた。間もなく魏弘が卒して後は少年美丈夫2?3名を密かに引き入れて姦淫し、彼らに要職を授けて?政を委ねた。このため綱紀はおおいに弛緩した。この女王の治世には??で反?が??し、
後三?時代
の幕開けとなる。治世11年の
897年
、女王は「?賊蜂起、此れ孤の不?なり」と宣言し、「太子」に?位してしまう。この年12月女王は金城(慶州)の北宮で死去。
後三?時代
[
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]
有力な勢力となった農民出身の
甄萱
が
892年
に南西部に
後百?
を、新羅王族の
弓裔
が
901年
に北部に
後高句麗
を建て、
後三?時代
に入る。新羅の
孝恭王
は、これに?抗する事ができず酒色におぼれ、新羅の領土は日?しに削られて行き新羅は滅亡の道をたどることになる。
高麗の建?
[
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]
後高句麗の武?であった
王建
は後百?との??で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし
弓裔
には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、民衆の不?が高まった。また自分を
?勒菩薩
と呼ばせて?心法で人の心を見ることができると言い、反?派を??した。王建は弓裔の暴政に?して政?を起こして弓裔を追放し
918年
に
高麗
を興した。
新羅の
景明王
は
920年
、王建と誼を通じて後百?に?抗したが、924年に亡くなった。次の
景哀王
は927年に宴?をしている最中、後百?の
甄萱
に奇襲を受け、殺された。その次の
敬順王
は甄萱により王位に就けられた。
後百?の政?と新羅滅亡
[
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]
以降、高麗と後百?の??が?いたが、
935年
、後百?の王の
甄萱
が四男に王位を?がせようとすると、長男の
甄神?
(後百?の第2代王)が反?を起こし、甄神?は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。
甄萱
は935年6月、後百?から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を?賓として迎えた。同
935年
11月、新羅の
敬順王
が君臣を?げて高麗に?順した。これにより新羅は滅亡した。
その後、高麗は翌年の
936年
に後百?を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。
民族
[
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]
紀元前後の朝鮮半島は元?、
??
、
?婁
、
沃沮
、
濊
、
濊貊
等、各諸民族の混在地域である。その後、
秦の始皇帝
の?役から逃亡してきた秦人によって移民?家である辰韓が建?される
[84]
。
『
魏志
東夷?』には、東アジアからも「
陳勝
などの蜂起、天下の叛秦、
燕
?
?
?
趙
の民が?万口で、朝鮮に逃避した。」とあり、朝鮮半島は移民?渡?人の受け皿的役割を果たしていた。また隣?、百??高句麗等の
扶余系民族
も??に抱えていた。
『
隋書
』東夷?によると、新羅は「その人には
華夏
(中?)、高句麗、百?のたぐいがまっじている」という
[85]
。
百?
?
任那
?
加羅
?新羅地域においては、倭人特有の
前方後円墳
等の居住跡が?見にされていることから一定?の倭人が同地に居住していたとされる。
王
[
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]
?代王については
朝鮮の君主一?#新羅
を?照。
上代では新羅の王族は姓が一定していない。初代
赫居世(ヒョッコセ)居西干
は
朴
、4代
?解(タレ)尼師今
は
昔
、13代
味鄒尼師今
は
金
となっており、朴氏?昔氏?金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖?話を持っている(詳細については?述)。13代金味鄒は
金閼智
の子孫とされているが、後になってこの金閼智の子孫を?する一族が
金氏王統
となり、統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった。
三?史記では
法興王
の時代
521年
に中?
南朝
の
梁
に使を遣わした新羅王は、姓は募、名は秦と?えられる。
564年
に
北?
の
?
に使を遣わした新羅王は
金?興
であった。募という姓は慕韓とも書かれる馬韓のことで、新羅は
532年
に
金官?
の王である
仇衡王
(金仇亥)を降し、
536年
に初めて
元?
を立て
建元元年
とし、
545年
には初めての
?史
を編纂、
554年
には百?の
聖王
を
管山の?い
で殺し、562年に
加耶?
を征服して
任那
を完全に?合した。
ただし、統一新羅王朝末期には、52代
孝恭王
に子がいなかったために朴景暉が推戴されて王位を?承(53代
神?王
)し、その後55代
景哀王
までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)
敬順王
の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に?ってから間も無く滅亡したことになる。
新羅の王(君主)を表す??としては『
三?史記
』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)、尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由?の表記が見られ、第22代の
智?麻立干
の代で王?を「王」に定め、
諡
の制度が始まったとされる。また、
中原高句麗碑
文や『
日本書紀
』には寐錦、
蔚珍鳳坪碑
文には寐錦王、
迎日冷水碑
文には
葛文王
、『
太平御?
』で引用する『秦書』には?寒(
これについては麻立干に相?すると考えられる
[
要出典
]
)などの表記が見られる。
六部
[
編集
]
建?神話に現れる
辰韓
の六村はのちの新羅六部であり、王都金城(
慶州市
)に居住してそれぞれ自立的な政治的集?として存在していたが、王都外部に?しては王京人として結束して優位性を保ち?けた。新羅が周?諸?を取り?んで領域を?げていく過程で、これら六部の優位性を維持するために、元?は六部の?部的な身分制度が?大していき、
骨品制
が成立したものと考えられている。六部の名には高句麗の五部と類似したものがみられる。六部の勢力は均等でなく、?大なものもあれば弱小で他の部に付?する程度のものもあった。また六部のうち三部はそれぞれ神話上の3つの王家(
朴氏
?
昔氏
?
金氏
)と?係が深い。第3代の
儒理尼師今
9年(
32年
)に、元の六村に?して部名を改めるとともに姓を下賜したと?えられているが、『三?史記』と『三?遺事』との間でも?える?容が異なっており、姓の表記については
高麗
の前半期に整備されて付加されたとする見方もある(→井上?注1980 p.54)。
元の村名
|
比定地(いずれも
慶?北道
慶州市
)
|
『三?史記』に見える部?姓
|
『三?遺事』に見える部?姓
|
閼川?楊山村
|
塔里方面または川北面東川里方面
|
梁部?
李氏
|
及梁部?李氏
|
突山?高墟村
|
南山里?皇南里または西岳里?塔里方面
|
沙梁部?
崔氏
|
沙
?
部?
鄭氏
|
?山?珍支村
|
?東面普門里方面または?東面南部?外東面
|
本彼部?鄭氏
|
本彼部?崔氏
|
茂山?大樹村
|
慶州面忠孝里方面または牟梁川流域
|
漸梁部(牟梁部)?
孫氏
|
漸梁部(
漸?部、牟?部
)?孫氏
|
金山?加利村
|
川北面東川里または?東面普門里、または川北面西部?見谷面
|
漢祇部
?
裴氏
|
漢岐部(韓岐部)?裴氏
|
明活山?高耶村
|
見谷面または?東面南部?陽南面
|
習比部?
薛氏
|
習比部?薛氏
|
政治機構
[
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]
官位制度
[
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]
『
三?史記
』新羅本紀によれば、建?の?初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代
儒理尼師今
の9年(
32年
)に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。?外の官位としては、第23代
法興王
の18年(
531年
)に宰相に相?するものとして「
上大等
(上臣)」が設けられた。また、三?統一に功績のあった
金庾信
を遇するものとして、第29代
武烈王
(金春秋、キム?チュンチュ)の7年(
660年
:この年
百?
を滅ぼす)には伊伐
飡
(角干)の更に上に「大角干(大舒?翰)」、さらに武烈王の息子の第30代
文武王
(金法敏)の8年(
668年
:この年
高句麗
を滅ぼす)には「太大角干(太大舒?翰)」という位が設けられた。
新羅王が新たに?位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて?力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治?制の現れであると見られている。?力な王?が確立した三?統一の後にも上大等が任命されるという慣習は?いているが、
??女王
の代になって
651年
には?家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の
中侍
が上大等に代わって政治?制の要となった。
京位は首都金城に居住する六部のための身分?系でもあり、これに?して地方に移り住んだものに?しては外位という別途の身分?系を?せ持っていた。しかし百??高句麗を滅ぼした後、??の遺民を取り?み
唐
に?抗していくため、京位?外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。
673年
には百?から??してきた者のうち、百?の2等官の
達率
の場合には、金城に移住した者に?しては京位10等の大奈麻に?て、地方に留まった者には外位4等の貴干を?てた。翌
674年
には外位を?止して、京位に一本化した。さらに唐との??を終えて
684年
に
報??
を滅ぼして半島?の混?を?拾した後、
686年
には高句麗人に?しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の
主簿
[86]
に?して京位7等の一吉
飡
を?てた。このようにして、百??高句麗??の官位?系の序列を格下げした形で新羅の身分?系に組み入れることによって、それまで三??自に展開されていた身分?系が新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一?家としての??を整えることに成功したと考えられている。
骨品
|
外位
|
等級
|
京位
|
?み(日本語/韓?語
[87]
)
|
別名と備考(※)
|
?骨
|
|
1
|
伊伐飡
[88]
|
いばつさん/イボルチャン
|
伊罰干(イボルガン)、
于伐飡
(ウボルチャン)、角干(カッカン)、
角飡
(カッチャン)、舒?翰(ソバルハン)、舒弗邯(ソブルハン)
|
|
2
|
伊尺飡
|
いしゃくさん/イチョッチャン
|
伊飡
(イチャン)
|
|
3
|
?飡
|
そうさん/チャプチャン
|
?判
(チャッパン)、蘇判(ソパン)
|
|
4
|
波珍飡
|
はちんさん/パジンチャン
|
海干(ヘガン)、破?干(パミガン)
|
|
5
|
大阿飡
|
だいあさん/テアチャン
|
※
大阿飡
以上の官位は
?骨
だけが任じられ、他の宗族は任命されない。
|
六頭品
|
|
6
|
阿飡
|
あさん/アチャン
|
阿尺干(アチョッカン) ※
重阿飡
(チュンアチャン)から
四重阿飡
(サジュンアチャン)までの4階層が設けられた。
|
嶽干
|
7
|
一吉飡
|
いつきつさん/イルギルチャン
|
乙吉干(ウルギルガン)
|
述干
|
8
|
沙飡
|
ささん/サチャン
|
薩飡
(チャルチャン)、沙?干(サトゥルガン)
|
高干
|
9
|
級伐飡
|
きゅうばつさん/クッポルチャン
|
級飡
(クプチャン)、及伏干(クッポッカン)
|
五頭品
|
貴干
|
10
|
大奈麻
|
だいなま/テナマ
|
大奈末(テナマル) ※重奈麻(チュンナマ)から九重奈麻(クジュンナマ)までの9階層が設けられた。
|
選干
|
11
|
奈麻
|
なま/ナマ
|
奈末(ナマル) ※重奈麻(チュンナマ)から七重奈麻(チルチュンナマ)までの7階層が設けられた。
|
四頭品
|
上干
|
12
|
大?
|
だいしゃ/テサ
|
韓?(ハンサ)
|
干
|
13
|
?知
|
しゃち/サジ
|
小?(ソサ)
|
一伐
|
14
|
吉士
|
きつし/キルサ
|
稽知(ケジ)、吉次(キルチャ)
|
一尺
|
15
|
大烏
|
だいう/テオ
|
大烏知(テオジ)
|
彼日(ピイル)
|
16
|
小烏
|
しょうう/ソオ
|
小烏知(ソオジ)
|
阿尺
|
17
|
造位
|
ぞうい/チョウィ
|
先沮知(ソンジョジ)
|
地方行政?分
[
編集
]
九州
[
編集
]
6世紀以?、新羅は一定の領域に州を設けてその下に郡?村を置き、州には軍主を、村には道使を派遣し、さらに在地の有力者を村主に任命して地方を掌握しようとする、州郡制ともいうべき?自の地方統治を行っていた。三?統一を果たした7世紀後半からは村を?に改めて、州?郡??とする支配方法(日本の??郡?里制に相?)に切り替わっていった。州には都督、郡には郡太守、?には?令を中央から派遣し、さらに州?郡に?しては外司正という?察官を別途派遣する二重化を?った。第31代の
神文王
の687年には九州が完成し、州治が地方統治の?点となるとともに、?三?のそれぞれを三州とすることで、三?の統一を改めて印象付けることに成功したとみられている。
五小京
[
編集
]
新羅は一貫して首都を金城(慶州市)に保ち?けて
遷都
をしなかったが、領域の?大に伴って王都が南東?に偏りすぎていることが課題となっていた。軍政的側面の?い州郡制の整備と平行して、6世紀中頃よりかつての敵?の地に小京が副都として設けられた。小京に?しては中央から仕臣?仕大等が派遣されて地方行政支援の役割を?うとともに、王都金城の貴族や住民が移住させられて新羅文化の各地への普及が?られた。これら小京は685年に五小京として整い、九州の州治とあわせて地方統治の徹底がなされたと見られる。
交通
[
編集
]
統一後に首都?金城に設けられた京都?(都亭?)を起点として五通と?される5つの主要街道が整備された。五通は北海通(北側)??池通(西側)?東海通(東側)?海南通(南西側)?北?通(北西側)の5つとされているが、その具?的?路や最終目的地については議論がある
[96]
。
文化
[
編集
]
4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系の
ガラス
器など特異な文物が出土する。こうした6世紀前半以前の新羅出土のガラス器に
ロ?マ
系統の技法のものが極端に多いことに注目して、
ガラス工芸史
の?究者の
由水常雄
は、新羅は北方の遊牧民?由でロ?マ帝?の文化を受け入れていた古代?家であるとする?を唱えた
[97]
。この頃の新羅は中?文化よりも北方の
遊牧騎馬民族
(
匈奴
?
鮮卑
など)の影響が?かったことを示している。
梁
の時代の中?で書かれた
職貢?
には、
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表?方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木?範,言語待百濟而後通焉
斯羅國は元は東夷の
辰韓
の小?。
魏
の時代では新羅といい、
劉宋
の時代には斯羅というが同一の?である。或るとき韓に?し、あるときは
倭
に?したため?王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百?に?伴して初めて朝貢した。斯羅?には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百?の通?で梁と?話を行った。
とあり、?時の新羅には文字が無かったという。
??
[
編集
]
『
三?遺事
』『
三?史記
』によると、??は
胡人
の僧侶の手により新羅と高句麗にもたらされた
[98]
。新羅は
528年
、
法興王
14年に??を公認した。なお、??は
高句麗
へは
372年
(
小?林王
2年)に??し、
百?
へは
384年
(
枕流王
元年)に??している。なお、日本へは
538年
(
戊午
年、
宣化天皇
3年)に??している
[99]
。
新羅の僧侶には
元?
(617年 - 686年)、
義湘
などがいる。
年表
- 576年(新羅?興王37)、安弘法師が南朝陳より胡僧の?摩羅等と??する。
- 627年(新羅?興王49)、新羅僧慧超など3名インド入?する。
- 719?727年、新羅僧慧超が南海?由で五天竺訪問長安に??する。
遺跡
[
編集
]
- 迎日冷水碑
- 6世紀初頭の
智?麻立干
時代の碑石。
- 蔚珍鳳坪碑
- 6世紀初頭の
法興王
時代の碑石。
- 中原高句麗碑
- 高句麗の碑石。高句麗と新羅との?係を兄弟になぞらえながらも、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」と位置づけている。
- 好太王碑
- 高句麗の碑石。
- 慶州
の古墳群
- 赤城碑
(せきじょうひ) - 忠?北道丹陽郡丹陽面にある石碑。新羅の伊史夫智らの高官名と官位、また?興王が赤城の民を慰撫したことが記?。
- ?興王拓境碑
(以下の四つの碑石を指す。赤城碑を含めて5つとする場合もある)
補注
[
編集
]
- ^
武田幸男「隋唐帝?と古代朝鮮」, 339-340頁
- ^
a
b
朝鮮史?究入門 2011
, p. 62
- ^
a
b
c
d
e
田中 2008
, p. 82
- ^
a
b
『
三?史記
』「新羅本紀」第一, 井上?, p. 3
- ^
a
b
朝鮮史?究入門 2011
, p. 63
- ^
a
b
c
岡田 2001
, pp. 130
- ^
a
b
c
岡田 2001
, pp. 132
- ^
李 2000
, pp. 72-73
- ^
a
b
李 2000
, p. 73
- ^
a
b
c
d
e
f
李 2000
, p. 74
- ^
『三?史記』「新羅本紀」井上?
, p. 32, ?注15
- ^
『三?史記』「新羅本紀」井上?
, p. 4
- ^
a
b
『三?史記』「新羅本紀」井上?
, pp. 407-408
- ^
『三?史記』「新羅本紀」井上?
, p. 6
- ^
『三?史記』「新羅本紀」井上?
, pp. 15-17
- ^
『三?史記』「新羅本紀」井上?
, p. 18
- ^
井上 2010
, p. ?413
- ^
a
b
早乙女 2000
, p. 209
- ^
早乙女 2000
, p. 211
- ^
山本 2018
, p. 79
- ^
『三?史記』「新羅本紀」井上?
- ^
a
b
田中 1995
, p. 30
- ^
熊谷 2008
, pp. 44-48
- ^
木下、宮島 1993
, pp. 193-236
- ^
a
b
c
d
李 2000
, p. 75
- ^
a
b
c
森 2006
, p. 86
- ^
a
b
c
李 2000
, p. 76
- ^
a
b
c
d
e
武田 1997
, p. 340
- ^
a
b
武田 1997
, p. 341
- ^
a
b
武田 1997
, p. 343
- ^
武田 1997
, p. 342
- ^
武田 1997
, p. 348
- ^
a
b
李 2000
, pp. 77-78
- ^
a
b
c
李 2000
, p. 78
- ^
a
b
c
李 2000
, p. 85
- ^
上田 2015
, p. 185
- ^
李 1998
, pp. 290-293
- ^
森 2006
, p. 183
- ^
李 2000
, p. 87
- ^
武田 1997
, p. 363
- ^
a
b
武田 1997
, p. 364
- ^
武田 1997
, p. 365
- ^
武田 1997
, p. 370
- ^
a
b
c
d
e
武田 1997
, p. 368
- ^
武田 1997
, p. 369
- ^
武田 1997
, p. 371
- ^
森 2006
, pp. 227-233
- ^
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b
c
武田 1997
, p. 372
- ^
武田 1997
, p. 373
- ^
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b
c
d
e
田中 1995
, p. 39
- ^
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b
c
武田 1997
, p. 375
- ^
武田 1997
, p. 376
- ^
武田 1997
, p. 377
- ^
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b
c
武田 1997
, p. 380
- ^
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b
武田 1997
, p. 381
- ^
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b
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d
李 2000
, p. 92
- ^
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b
c
武田 1997
, p. 382
- ^
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b
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李 2000
, p. 93
- ^
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b
c
d
e
武田 1997
, p. 383
- ^
李 2000
, p. 100
- ^
a
b
c
武田 1997
, p. 401
- ^
武田 1997
, p. 402
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
李 2000
, p. 101
- ^
a
b
李 2000
, p. 104
- ^
a
b
c
d
e
田中 2008
, p. 106
- ^
井上 1972
, p. 222
- ^
井上 1972
, p. 223
- ^
井上 1972
, pp. 223-224
- ^
a
b
田中 2008
, p. 107
- ^
a
b
井上 1972
, p. 229
- ^
a
b
井上 1972
, p. 230
- ^
a
b
井上 1972
, pp. 229-231
- ^
a
b
田中 2008
, p. 108
- ^
王家の祖廟を五廟としたことについては『
?記
』王制篇「天子七廟諸侯五廟」に基づく。
- ^
『?唐書』211?新羅??貞元元年其年?
- ^
『日本後紀』?十二 延?二十三年九月己丑?
- ^
井上秀雄1972 p.236.
- ^
『
日本後紀
』?二十五(逸文)
嵯峨天皇
?
弘仁
七年(816年)冬十月:「甲辰。大宰府言、新羅人?石珍等一百八十人?化。」
同八年(
817年
):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等?三人?化。」
- ^
井上秀雄1972 p.238.
- ^
『三?史記』?三十三??志二?色服?
- ^
『三?遺事』王?では、839年1月22日に死去したとしている。
- ^
井上?注1980 p.385 注13
- ^
→井上?注 p.386 注24、p.387 注29
- ^
辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割其東界地與之。其名國?邦、弓?弧、賊?寇、行酒?行觴、相呼?徒、有似秦語、故或名之?秦韓。(辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓?に往き、馬韓は東界の地を彼らに割?したのだと自?する。そこでは?を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と?し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。)
- ^
宮脇淳子
『世界史のなかの?洲帝?』
PHP?究所
〈
PHP新書
387〉、2006年2月。
ISBN
978-4569648804
。
- ^
主簿は?密には高句麗の3等官という序列ではないが、主簿に?けて高句麗官位と新羅官位の?比を記した『三?史記』職官志下の記述から、3等官に相?すると見られている(→武田編著2000 pp.94-95)。あわせて
高句麗#官制
を?照。
- ^
ハングル表記は
ko:新羅의 官職
を?照。
- ^
「飡」の文字について、書籍では「飡(にすいに食)」とするものが多いが、朝鮮の
金石文
では「
?
(さんずいに食)」とするものが多い。(→井上?注1980、p.35)『三?史記』の底本については、奎章閣韓國學?究院の影印本が「飡(にすい)」とし、慶州重刊本(1512年)を1931年に影印とした古典刊行?本(?習院東洋文化?究所の?東叢書本)が「
?
(さんずい)」としている。
- ^
『三?史記』35?地理志?溟州?には、溟州はもとは高句麗の河西良であり、
分注
には何瑟羅とある。新羅本紀や
異斯夫
?の本文には何瑟羅州の名で現れる。
- ^
元の比列忽州、後の朔州に相?する州の687年時点の名?について、井上1972は牛首州とするが武田2000により首若州とする。なお、『三?史記』35?地理志?朔州?では朔州の由?を、本文は
善?女王
6年(
637年
)に設置した牛首州とし、
分注
は
文武王
13年(
673年
)に設置した首若州とする。同書?新羅本紀では、善?女王?文武王の本紀記事には州の改?についての直接的な記事は見られず、景?王の本紀における地名改?記事(景?王16年(
757年
)12月?)では、首若州を朔州としたとしている。また、牛首州の別名として「烏根乃」の記述がある。
- ^
a
b
『三?史記』新羅本紀?神文王6年2月?
- ^
百?故地に?する所夫里州の設置とほぼ同年のことと考えられている。(→井上1972)
- ^
『三?史記』36?地理志?全州?は、完山州の設置を
?興王
16年(
555年
)とし、同26年(
565年
)にいったん?止、
神文王
5年(
685年
)に再設置したとするが、??する?興王本紀の記事には州治を比斯伐(
慶?南道
昌寧郡
)としていたり、6世紀中頃には全羅道は未だ百?の支配下にあるために、は下州の誤りであると考えられている。(→井上1980)
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菁州は神文王5年に?存の州から分割設置されたことについて、『三?史記』新羅本紀?神文王紀では「居烈州」からの分割とし、同?地理志?康州?には、「居?州」からの分割とする。
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景?王によって改めて南原小京と改?されたわけではない。他の小京は『三?史記』地理志の各?に改?記事が見られるが、南原小京のみ改?の記事が見られない。
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田中俊明「朝鮮三?の交通制度と道路」館野和己?出田和久 編『日本古代の交通?流通?情報 1 制度と?態』(吉川弘文館、2016年)
ISBN 978-4-642-01728-2
P294-302
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由水2001
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鈴木靖民
「遣唐使?究と東アジア史論」?修大?東アジア世界史?究センタ?年報第4?2010年3月、61頁
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詳細は、
日本の??
、
??公?
を?照
註?
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『三?史記』が新羅の建?年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。まず、『
漢書
』等の記?によれば
紀元前108年
に、
漢の武帝
が
朝鮮半島
に
漢四郡
を設置し、
昭帝
が
紀元前82年
に朝鮮半島南部の
?番郡
を?止した
[7]
。その後最初におとずれる
甲子
の年(
六十干支
の最初の年)が紀元前57年となる
[7]
。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記?と衝突してしまうため、これより遡って建?年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建?年を置こうとしたが、紀元前57年が
テクニカル
な限界であった
[7]
。
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中原高句麗碑は、高句麗の新羅に?する優越、新羅が高句麗を宗主として仰ぎ臣?したこと、高句麗が新羅の領?で役夫あるいは軍夫を??し組織していたこと、そして朝鮮半島中南部にある現在の
忠州市
に軍を駐屯させていたことなどを?える。しかし、年次部分が摩滅により判?に支障をきたしていること、また干支表記であるため60年の間隔を置いて同一の年次表記が行われることなどから碑文が作成された年代には諸?ある。5世紀後半?を取る?者が多いが、5世紀前半とする?者もいる。この問題については
木下?仁
と
宮島一彦
が連名の論文にて詳細なまとめを行っている
[24]
。
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『日本書紀』にはこれ以前の倭?と高句麗の交?についての記述があるものの確?が得られるものではなく、この570年の高句麗からの遣使が高句麗と倭?の確?な外交?係形成の最初の物であるという点で多くの論者が一致している
[36]
[37]
[38]
。詳細は
高句麗
を?照。
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768年7月に
一吉飡
(7等官)大恭?
阿飡
(6等官)大廉の兄弟が反?を起こした。王都を33日間包?するが、王の軍隊が平定した
[70]
。770年8月には
大阿飡
(5等官)の金融の反?があった。金融は
金庾信
の後裔である
[70]
。775年6月、伊飡の
金?居
の反?が?生した。元侍中の金?居は金融の反?の後に退官しており、後に反?を起こした
[71]
。775年8月、伊飡の
廉相
、侍中(現職)の
正門
が反?を企てたことが??して誅滅された
[71]
。
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井上秀雄はこうした?恭王時代の混?を律令制を推進する律令官人を中心とした派閥と、律令の?施による?得?の損失に反?する?貴族派の?いとして捉えた
[72]
。ただし、李成市や田中俊明などはより新しい??を書くにあたって、?恭王代以降の??を同?の?組みで?明してはいない
[63]
[73]
。いずれにせよ、?恭王の殺害と宣?王の?位は武烈王以??いていた王統が途絶えたことを意味するとともに新羅史上初の王位簒奪であり、新羅史の一つの?期をなすと評される
[73]
。
?連項目
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中?語版ウィキソ?スに本記事に?連した原文があります。
?考文?
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外部リンク
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