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後光明天皇
(ごこうみょうてんのう、
1633年
4月20日
〈
?永
10年
3月12日
〉-
1654年
10月30日
〈
承?
3年
9月20日
〉
[1]
)は、
日本
の第110代
天皇
(在位:
1643年
11月14日
〈
?永
20年
10月3日
〉 - 1654年10月30日〈承?3年9月20日〉)。
諱
は
紹仁
(つぐひと)。幼名は
素?宮
(すがのみや)。
後水尾天皇
の第四皇子。母は贈
左大臣
園基任
の女の
園光子
(壬生院)。養母は後水尾中宮の
?川和子
(東福門院)。
生涯
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]
?永
10年(
1633年
)
3月12日
に誕生。
?永19年(
1642年
)
9月2日
儲君
となり、
12月15日
に
親王宣下
。
?永20年(
1643年
)
9月27日
に11?で
元服
、
10月3日
明正天皇
の
?位
を受けて
?祚
、同月21日に
?位?
を?行した。
在位期間の12年は、
?軍
?川家光
から
家綱
の時代に相?している。東福門院(
?川和子
)が
養母
とされたため、
?川氏
は形式的ながら
外戚
の地位を保ち?けた。
承?
3年(
1654年
)9月20日、
痘瘡
により
崩御
。
?算
22。10月15日に
後光明院
と追?された。
崩御前年から?調を崩し、末弟の高貴宮(後の
?元天皇
)を
猶子
に迎えている
[注? 1]
。突然の崩御のため、後年には幕府による
毒殺
?も生じた
[注? 2]
。また、天皇の急な崩御により、次の天皇を建てる?議が開かれたが、弟の
高貴宮
はまだ幼すぎるので、弟の
花町宮
良仁親王
が中?ぎの天皇となった。
人物
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天皇は
儒?
に傾倒して
典?
を重んじ、
朝儀
再興を目指した。また、天皇は
武芸
を?ぶなど激烈で直情?行的な
性格
の持ち主であり、反
幕府
的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から
?問
を好み、特に
儒?
や
漢?
を尊重して、これを??した。初め
明?家
の
伏原賢忠
から『
周易
』の?授を受け、後に
程朱?派
に傾倒すると、
二?康道
の推薦で
民間
から
朝山素心
を招き入れて
進講
を受けている。
慶安
4年(
1651年
)9月には、
儒者
藤原惺窩
の功績を?えてその
文集
に勅序を?えた。天皇が
庶民
の書に序文を賜うことは、これが最初という。また、
漢詩文
の
詩
作を好み、御集に『鳳啼集』がある。このような
??
への傾倒に?し、
和歌
や『
伊勢物語
』?『
源氏物語
』などの
古典
を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は
朝儀
再興に心を?いており、
正保
3年(
1646年
)に
神宮
例幣
の儀を再興した。
?奠
や
大?寮
の復興、服制の
改革
をも意?していたというが、これらは崩御のために?現しなかった。
逸話
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]
- 天皇は
?術
を好んだが、
京都所司代
の
板倉重宗
が「
?東
へ聞こえましてはよろしくございません。もしお止めなさらぬ時は、この重宗、
切腹
せねばなりませぬ」と?めた。すると、天皇は「未だ
武士
の切腹を見たことがない。
南殿
(なでん)に壇を築いて切腹せよ」とのこと。これに?して、重宗は大いに閉口し、
幕府
も畏服したという
[2]
。
- 天皇は常?「朝廷が衰微したのは、
和歌
と
源氏物語
が原因」と論じて、源氏物語を
淫?
の書と決め付け、その類のものを一切?まず、また和歌も詠まなかったという
[3]
。なお
漢詩
は生涯に、?代天皇のうち第二位となる98首遺した
[注? 3]
。しかし、禁中に臨幸した後水尾院から詠歌を促されると、天皇は供御の?る間にたちまち10首の歌を詠み上げ、これを見た院が深く感じ入ったという所?もある
[4]
。
- 父の後水尾院が病に罹ったので天皇は見舞いを思い立ったが、所司代の重宗から「
朝覲
行幸
には幕府への伺いが必要である」と?槍が入った。天皇は行幸を中止し、
禁中
の南東隅の築地から院御所の北西隅までの高廊下を急ぎ造らせた。そして「禁裏の?の行幸は常のこと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという
[5]
。
- 平生酒を嗜んだが、ある酒宴の席で
?大寺公信
より酒の?み過ぎについて諫言された。天皇は顔色を?え、?を取って切り捨てようとすると、公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。自らの態度を悔いた天皇は心安まらず、翌朝公信を召して、諫言のとおり今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有?こそ返す返す恥ずかしく思う」と、?を手ずから下賜した。公信は何も言わず、ただ?を抑えていたという
[6]
。
- ??
を「無用の?」と言うほどの??嫌いであった。開けてはならないとされる
三種の神器
が?められた
唐櫃
を開け、鏡の他に
??利
があるのを見ると、「怪しい??利め」として庭に打ち棄てさせた
[7]
。
系譜
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]
系?
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]
后妃?皇子女
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]
在位中の元?
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]
陵??廟
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]
陵
(みささぎ)は、
宮??
により
京都府
京都市
東山?
今熊野泉山町の
泉涌寺
?にある
月輪陵
(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮??上の形式は石造九重塔。
承?
3年(
1654年
)
9月25日
、入棺。10月15日、泉涌寺にて奉葬された。陵は石造九重塔である。この
大葬
の時、禁中に出入していた魚屋
?八兵衛
の進言によって、??の
火葬
(?毘)を改めて
土葬
の制を採用した。その後、
昭和天皇
に至るまで、?代天皇は土葬された
[8]
。
また
皇居
では、
皇?殿
(
宮中三殿
の1つ)において他の?代天皇?
皇族
とともに天皇の
?
が祀られている。
出典
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]
注?
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]
- ^
中御門宣順
の『
宣順公記
』承?3年10月17日?によれば、後光明天皇は高貴宮誕生直後に
勾??侍
を通じて
幕府
から派遣されていた
禁裏附
高木守久
に相談したところ、高木は?軍(家綱)は「(天皇が)善?されるべき」とおっしゃるであろうから、幕府への勅使派遣は急ぐ必要はないのでは、と回答したという。また、天皇の側近である
?修寺??
?
三?西??
?
持明院基定
も崩御直後にその話を後水尾院や?家に述べたという。
- ^
室鳩?
の『
鳩?小?
』によれば、天皇の病??化のため、
?東
から
?師
を?上させて
?
を?めたが、天皇は服用を拒んだ。しかし、
京都所司代
の土井大炊頭が?く?めたので、やむなく服用したところ、容態が急?したという。文中に毒殺とは明記されないが、それを暗示するかのような表現である。しかし、この記事は
正?
5年(
1715年
)
5月6日
付の鳩?の手紙によるとあるから、崩御より60年ほど後のものである。しかも、崩御時の所司代は
板倉重宗
である。「土井大炊頭」で有名なのは
秀忠
?
家光
の下で
老中
?
大老
を務めた
土井大炊頭利勝
だが、利勝は後光明天皇?位の年に死去しており、跡を?いだ
土井利隆
は京都所司代にはなっていない。
土井氏
で京都所司代になったのは後光明天皇の時代より後の18世紀に所司代となった、
土井利里
のみである。幕府が天皇の病??化を知って?師
武田道安
を上洛させたことは事?であるが、天皇は道安出?の前日に崩御している。
- ^
なお第一位は
大正天皇
の1367首で、第三の
嵯峨天皇
が97首の漢詩を遺した。
石川忠久
、『漢詩人 大正天皇 - その風雅の心』p.10
?考文?
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