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小倉城
(こくらじょう)は、
福岡?
北九州市
小倉北?
にある
日本の城
。勝山城
[3]
、
勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城など
[
要出典
]
の別名がある。
?要
[
編集
]
1569年(永?12年)、
中?地方
の毛利氏が城を築いたことから始まり、
高橋鑑種
や
毛利勝信
が居城した。1602年から
細川忠興
が約7年かけて
唐造
の
天守閣
を築城し
[4]
、細川氏の熊本?封の後、1632年に
譜代大名
である
小笠原忠?
が入城し、以後幕末まで小笠原氏が居城した。
1837年に失火のため天守閣が?失し、?る城郭も1866年、
第二次長州征討
の混?の中で
小倉藩
が自ら城を?却した
[4]
。
明治時代から第二次世界大?中には、?兵第12旅?や第12師?の司令部が城?に置かれた。?後、
1959年
に天守閣が再建された
[5]
。
?史
[
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]
江?時代中期の
小倉藩
士の春日信映が編纂した「倉城大略誌」には、
- 最初の築城年代は明らかではないが
文永
年間(
1264年
-
1274年
)に?方大膳亮惟重が居城した。
- ?方惟重の孫の?方石見守惟?は、
延慶
年中(
1308年
-
1311年
)に水原備中守定允に城を攻め落とされ、伊予?宇和島まで落ち延びた。
- 1330年
(
元?
2年)に?崎土佐守景?が小倉に城を築き居城としたが、
建武
元年に長野七?貞家によって攻め滅ぼされ、長野貞家が城主となった。
- 長野但馬守?家のとき、
?永
年中に
大?氏
によって滅ぼされ、大?氏の持城となり城代として杉左馬助重兼、杉主膳重之、杉宮?左衛門重植、小林六?兵衛光任等が置かれた。
- 1442年
(
嘉吉
2年)に太宰少??冬が攻め落とし番兵を置いたが、三四ヶ月後には原田近江守種虎に奪われた。
- 文明
年間(
1469年
-
1486年
)には菊池出羽守武村入道一玄とその子の菊池荒太?武陸が在城していた。
- 延?
2年8月に臼杵掃部助高直によって攻め落とされ、菊池武陸の子の平?は里見源三?の介錯により切腹した。
- 永正
年間から
享?
年間にかけては小野田兵部少輔種?が在城した。
- 享?
4年4月から
天文
年間は、長野?岐克盛が在城した。
- 弘治
から
永?
の頃は大?の一族の冷泉五?高祐が在城した。
と記されているが、上記は同時代の信?性の高い史料には無い。
- 1569年
(
永?
12年)、
毛利氏
らと結んで
大友氏
に?し反?を起こしていた???岩屋城督
高橋鑑種
が降伏した結果、小倉城に領地替えとなる。
- 1587年
(
天正
15年)、高橋鑑種の養嗣子?
高橋元種
は豊臣軍の侵攻に小倉城を開城。
豊臣秀吉
の家臣であった
森勝信
が
豊前?
企救郡、田川郡の6万石(一?に10万石)を?えられ、小倉城に入城する。この?時の城の?子については、記?がなく詳しく分かっていない。なお、子の
勝永
にも豊前?に1万石(4万石とも)を?えられ、この際に秀吉の計らいによって、元の姓である森に?えて中?地方の太守?
毛利氏
の姓を名?らせている。毛利勝信?勝永父子は
?ヶ原の?い
で西軍に付き
改易
となる。
- 1600年
(
慶長
5年)、?ヶ原の?いの論功行賞で丹後?宮津18万石の領主であった
細川忠興
が豊前?1?と、豊後?速見郡、?東郡合せて39万9千石で入封。初め?田氏の居城であった豊前?の
中津城
に入城するが、
1602年
から7年かけて毛利氏の居城であった小倉城を改築し居城した。なお、この時に
城下町
も整備され
紫川
で東西に二分し、西は主として
侍町
、東は
町人
や下級武士達の町とした。
- 1632年
(
?永
9年)、
細川家
が54万石で
肥後?
に移封後、
播磨?
明石から
譜代大名
の
小笠原忠?
が豊前?企救郡、田川郡、京都郡、中津郡、築城郡、上毛郡、計6郡15万石で入封。小倉城を居城とする。以後、幕末の慶?年間まで小笠原氏の居城となる。
- 1837年
(
天保
8年)、本丸御殿、天守を?失
[4]
し、それ以後天守は再建されず。
- 1863年
(
文久
3年)4月、海防?化のため、城の外郭で海からの入口に?たる紫川河口?岸に
砲台
(東浜台場?西浜台場)を建設
[6]
[7]
。
- 1866年
(
慶?
2年)、
第二次長州征討
で
小倉藩
と
長州藩
の??の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年
8月1日
、小倉藩の付火により小倉城を?却
[4]
し、幼少の藩主は
熊本藩
に退避。家老以下の藩首?は
香春
で指揮を執った。
- 1867年
(慶?3年)、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城を含む
企救郡
は長州藩の預りとされ、引き?き占領されたままとなったため、以後も藩?は香春に置かれ、お茶屋(藩主巡察時の?在施設)を中心に付近一?の町人宅も多?借り上げて設置された(その後、
1870年
(
明治
2年)に
京都郡
豊津(現在の
みやこ町
)に藩?を新設し移?)。
- 1875年
(明治8年)、
陸軍
の
?兵第14連隊
と
?兵第14連隊
を管轄する?兵第12旅?本部が松の丸跡に置かれる。
- 1898年
(明治31年)、陸軍
第12師?
司令部??が本丸跡に建てられる(
1925年
(
大正
14年)
久留米
に移?)。
- 1934年
(
昭和
9年)、
八坂神社
が?物師町より城?に
遷座
された。
- 1959年
(昭和34年)、
?筋コンクリ?ト構造
で天守が外?復興された。?部は?土資料館として利用された。
- 1990年
(
平成
2年)、?部全面リニュ?アル、ジオラマ?からくりシアタ?等を導入し、??型施設に?更された。
- 1998年
(平成10年)、小倉城庭園および
北九州市立松本?張記念館
が開館した。
- 2004年
(平成16年)春から秋にかけての調査により、篠崎口から?水門の外堀(
?構
)で
畝堀と堀障子
が?見される
[2]
。忠興?時のものと考えられている。
- 2007年
(平成19年)、瓦屋根約9万枚を全面葺き替え。
- 2017年
(平成29年)、
?日本100名城
(181番)に選定された
[8]
。
- 2019年
(平成31年)3月30日、2018年8月より閉館して改?を行い、?部全面リニュ?アル
[9]
。エレベ?タ?新設。同時に、大手門?場に?光客施設「しろテラス」オ?プン
[10]
。
構造
[
編集
]
本丸
を中心に、南に松丸、北に北の丸、それらを?い?むように
二の丸
、
三の丸
、外郭が配された
梯郭式
平城
であった。建物は、
野面積み
の
石垣
の上に大天守と平の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、
櫓門
12、
?間
3271を配していた。城下は、城の東を流れる紫川を天然の
堀
として活用し城?に町を取り?んだ
?構え
を採っていた。
天守
[
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]
細川忠興によって建てられた
天守
は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の
入母屋
破風
以外に破風が無い簡素な外?を大きな特?としていた。最上階は、3間四方の御上段を取り?むように東西に2間×5間と南北に1間×3間の?側をめぐらせ、外側には?板で覆った半間幅の??がせり出しており、「
唐造り
(南?造り)」と?された
[11]
。この?板は?塗りで、下階の白漆?塗籠とは?照的であったため、「?段」と呼ばれていた
[11]
。『倉府見聞集』には、この唐造りの構造の由?が記載されている
[12]
。?代一流の茶人であり文化人であった忠興の美意識が現れた個性的で?特な外?の天守は?時他に類を見ないものであり、視察が訪れるほどの評判を呼んだ。
津山城
天守と
高松城
天守は小倉城天守を?考にしたものと?わる
[13]
。
この天守は天保8年(1837年)に失火によって御殿とともに?失し、?った天守台には「御三階」と呼ばれる建築を建て、天守の代用としていた
[11]
。
天守寸法?要
階層
|
梁間
(南北)
|
桁行
(東西)
|
高さ
|
|
5階
|
6間
|
8間
|
1間半
|
4階
|
5間
|
7間
|
1間半
|
3階
|
7間
|
9間
|
2間半
|
2階
|
10間
|
12間
|
2間半
|
1階
|
13間
|
15間
|
1間半
|
?高
(天守台上から棟)
|
12間3尺5寸
|
出典
|
『豊前小倉御天守記』
[11]
|
イラストによる江?時代の小倉城天守の景?再現
|
現在見られる天守は『豊前小倉御天守記』『小倉城??』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに
藤岡通夫
の設計考?により?筋コンクリ?ト構造によって復興されたもので、6千万円の費用を掛けて1959年に完成した。
藤岡の?初案は資料考?に基づいたものであったものの、建設資金を捻出した地元商工?の「お城の恰好をよくするためには必要」
[14]
という要望によって、大入母屋破風や千鳥破風?唐破風などの破風が追加されてしまったため、外?は史?と大きく異なる。
藤岡は「破風がなければ天守らしくない、ぜひ破風を付けてもらいたい、あれがなければ?光客に訴える力がない、と?硬に責められるので、仕方がなくくっつけたが、やはり本?はない方がよかった」
[13]
と述べている。
小倉出身の小?家で地元の文化振興に?力した
劉寒吉
は「破風のないノッペラボ?の葺きおろしを特色とする天守である方が、資料的?値とともに、どんなにか?光的であったろうに」
[13]
と述べている。
ギャラリ?
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]
-
本丸の空堀
-
水堀
-
大手門跡
-
虎ノ門跡
-
櫻門跡
-
復興天守
海城としての小倉城
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]
小倉城は
海城
であるが、豊臣氏政?時代から?川氏政?初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多い
[15]
。豊臣政?時代に森氏が小倉城に入城した。?川氏政?初期段階には細川氏が入城したが、細川氏はこれまた海城である豊前
中津城
(
大分?
中津市
)を同時使用している。細川氏がそれ以前に居城としていた丹後
宮津城
(
京都府
宮津市
)も海城であり、細川氏の海城に?する執着が窺える
[16]
。
祭事?イベント
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]
- 小倉城
薪能
- 9月下旬
- 北九州小倉城まつり - 10月中旬
- 夜?見物 - 3月下旬-4月上旬(期間に限り、天守閣前?場を22時までの開門)
[17]
そのほか
[
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]
- 北隣に
リバ?ウォ?ク北九州
が完成して以?、
中央?書館
側からは城の背景にリバ?ウォ?クの赤い建物が見える。
- 1960年
(
昭和
35年)から10年間、小倉城?(
北九州市役所
敷地付近)に遊園地が設置されていた
[18]
。「小倉城とジェットコ?スタ?」(
昭和37年
頃)という?葉書が?されている。
[19]
- 天守閣?場は多?の花見客で賑わう花見の名所としても知られているが、花見の時期の?場では、バ?ベキュ?機材やシ?トが放置されるなどマナ?の改善が見られないため、2019年(平成31年)3月、北九州市は天守閣?場における花見について、2017年(平成29年)に設定したル?ルを改定、全てのエリアにおいて火?使用禁止、場所取りは?日午前8時開始とした
[20]
。
- バリアフリ???として
2001年
(平成13年)に天守閣?にある各階段に
階段昇降機
が設置され、2019年(平成31年)のリニュ?アル時にはエレベ?タ?が設置された。
- 城?にある着見櫓(つきみやぐら)は現在、漬物?「糠?」の店?として?業しており、2011年からは元女子
プロレスラ?
の
デビル雅美
が店長を務めている
[21]
。
メディアへの登場
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]
- プラモデル
- フジミ模型
株式?社からフジミ建築モデルシリ?ズ天下の名城No.6として1/400スケ?ルで
プラモデル
が製造販?されている。
- NHK地デジCM「地デジ侍 テレビ維新の?」
- 劇?
ギンギラ太陽'S
が出演、
加賀美幸子
ナレ?ションを??。制作にあたったのは地元
北九州局
ではなく
福岡局
であったが、ロケシ?ンは城前と小倉城庭園で撮影された。2分版の最後のシ?ンにはハロ?ワ?ク小倉が移?した跡に建てられた超高層アパ?トの上層が映りこんでいる。
交通
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]
脚注
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]
?考文?
[
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]
?連項目
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]
外部リンク
[
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]
ウィキメディア?コモンズには、
小倉城
に?連するカテゴリがあります。