大山 柏
(おおやま かしわ、
1889年
(
明治
22年)
6月2日
-
1969年
(
昭和
44年)
8月20日
)は、
日本
の
考古?者
、
戊辰??
?究家、
陸軍
軍人
、
貴族院
議員。
陸軍少佐
、
?二位
、
公爵
、
文?博士
(
慶應義塾大?
、1945年)。
大山?
の二男。
職業軍人としては近衛?兵のほか、
太平洋??
後期から敗?までに第32警備隊第33警備大隊長、室蘭防衛隊第8?立警備隊長などを務めた。一方で
考古?
の分野でも活躍し、
大山史前??究所
長、
慶應義塾大?
文?部
?授などを?任。日本の
考古?
の基礎を築いた。また、
戊辰??
の?究家としても知られている。
?要
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]
父?
大山?
公爵は
維新の元?
の一人で、
日?
?
日露
の??役では
?謀?長
や
?州軍?司令官
として日本を勝利に導き、晩年に至るまで
元老
の一人として?政の?機に接した
元帥陸軍大?
。母?
捨松
は、明治初年に初の官費女子留?生の一人として11?で渡米し、11年後に日本人女性として初めて米?大?の普通科を卒業して
?士?
を得た。
海軍
に進んだ兄?高が
練習船の火?庫爆?事故
で不慮の
殉職
を遂げたのをうけて嫡男となり、父の死去後に公爵を襲爵して
貴族院議員
となった(公爵議員、
無所???部
所?)。その一方で、父たっての願いにより
陸軍
に進み
陸軍少佐
まで進級したが、生?の?者肌の?質が陸軍の?質と馴染まず、さしたる?績も上げないまま
?え
40?を前に依願
予備役
編入。以後は慶應義塾大?を?究活動の場とし、考古?と?史?の分野に多大な貢?を?した。
近衛文?
公爵の妹?武子を妻とし、その間に、?史?者で
外交史
が?門の
法?博士
?
大山梓
と海洋生物?者で
貝類?
が?門の
理?博士
?
大山桂
の2男がある。
??
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]
大軍人の家に生まれ、自らもはじめは軍人の道を?んだが、ヨ?ロッパ留?を機に考古?の知見を深めた。??後には自邸?に「史前?究?(後に大山史前??究所)」を組織し、?後の日本考古?の基礎を築いた
[1]
。
陸軍大?校
に勤める傍ら行っていた考古?では、?東地方の?文文化の?究やヨ?ロッパ先史?の日本への紹介などでの?績がある
[2]
。
それまで「?探し」の域を出なかった日本の遺跡?掘に最新ドイツの系統だった手法を導入、主に
?文時代
の?究において著しい成果を上げた。特に、
1926年
(大正15年)から
1931年
(昭和6年)にかけて
甲野勇
らと行なった
?東地方
の
貝塚
の?掘調査では貝塚を構成する貝類や
層位?的?究法
による土器型式の新?にまで留意した?究を行ない、
1933年
(昭和8年)に『東京?に注ぐ主要?谷の貝塚に於ける?紋式石器時代の編年學的?究予報 第一編』として共同?表、?東における
?文土器
の
編年
をほぼ完成させた。同時に?時日本には存在しないとされていた
?石器文化
にも着目、『史前??誌 第1?』第5?6?で「日本?石器文化存否?究」として?表した。
柏は英語とドイツ語、特に陸軍の第二外?語でもあったドイツ語に堪能で、史前??究所が調査した遺跡の報告書の外文要約は全てドイツ語で書かれていた。
幼少期から家督相?まで
[
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]
1889年
(
明治
22年)、大山??捨松夫妻の次男として
東京
に生まれた
[1]
。「柏」の名は、出生の際に父??が
新潟?
柏崎
に?在中だったことから命名された。?育熱心かつ、幼少期の留?で
英語
で日常?話をしていた母親の元、早くから英語、
ドイツ語
の英才?育を受けた。
1908年
(明治41年)4月、長兄の高(たかし)が
海軍
少尉候補生
として遠洋航海中の
台?
で、?艦中だった巡洋艦
松島
の爆沈事故に遭い死亡する。これにより父の親戚?鮫島家の養子となる予定であった柏が家督を相?することとなった。
柏は
中央幼年?校
を?て、
1910年
(明治43年)5月、
陸軍士官?校
(22期)を卒業
[3]
。同年12月、
?兵
少尉
に任官し
近衛?兵第4連隊
付となる。
1913年
(大正2年)12月、?兵
中尉
に昇進。
1916年
(大正5年)5月、陸士生徒隊付となり、父??の死を受け同年12月22日
[4]
に
公爵
?
貴族院議員
(1946年4月まで在任)となる。
陸軍での挫折と考古?への傾倒
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]
父??の遺命により陸軍士官に進んだ柏であったが、?米生活が長い?親のもとで、
リベラル
な家庭環境で育った柏と、藩閥と?閥が跋扈する帝?陸軍の?風は全く合わなかったらしく、特に
第一次世界大?
後に、?定していた
?島
赴任を?謀長?
山梨半造
に妨害されてからは陸軍での?進を?念し、以前から興味を持っていた
考古?
?究へ傾斜していく。
1917年
(大正6年)8月、
?謀本部
付となり、
1920年
(大正9年)8月、?兵
大尉
に進級。考古?分野では
1921年
(大正10年)、『人類??誌』に
沖??
の
伊波貝塚
に?する論文を投稿している。
1923年
(大正12年)1月からは近代?史?究との名目でヨ?ロッパに留?
[1]
、留?は
ドイツ
?
ベルリン大?
[5]
への私費留?で、
石原完爾
の監視役という密命も?びていた。留?中にはあわせて考古?の?究も行い、人類?者?
小金井良精
に紹介された考古?者、フ?ベルト?シュミットの元で
?石器時代
を中心に本格的な考古?を?んだ。1923年(大正12年)9月の
?東大震災
では東京?
?田
にあった大山邸を?失するが、
?木?
那須
の別?は?り、別?周?の山林で木炭を製造して知人に配っていたという。
1924年
(
大正
13年)に留?から??した柏は?田の自邸?に史前?究室(後に大山史前??究所)を設立、史前?究?(後の史前??)を組織した
[1]
。
1927年
(
昭和
2年)12月、?兵少佐に昇進し
近衛?兵第3連隊
付となる。
1928年
(昭和3年)には父の部下であった
上原勇作
の反?を押し切り
予備役
編入を志願し、同年3月に編入となった。翌
1929年
(昭和4年)には自邸??究所?に「史前學?」を設立し、?誌『史前??誌』を刊行した。
また
慶應義塾大?
文?部講師となった柏は
1942年
(昭和17年)まで隔年で「基礎史前?」を開講、この時の講義?は後に『基礎史前?第一?』として刊行されている。さらに、同大?が
1938年
(昭和13年)に中?に派遣した?術調査?では『北支那班』班長となって大陸に渡ったが、のち三田史??から「江南踏査」として報告刊行されている。
?召と史前??究所の?失
[
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]
しかし、太平洋??下の
1943年
(昭和18年)11月に文?博士
?位
論文「基礎史前?」を慶應義塾大?へ提出した直後、退役を目前にして?召を受け、第32警備隊第33警備大隊長として
根室
に赴任する。この突然の根室赴任は政治的理由によるものとされ、貴族院議員で
召集
されたのは柏ただ一人であった。柏が根室?室蘭守備隊に出征した後、史前??究所は閉鎖?態となった
[5]
。
赴任地の根室は
ソ連
との前線であったにもかかわらず、物資が乏しく、柏は自家の財産で負?し、部隊に補給を回す有?だったという。
1945年
(昭和20年)3月、第33警備大隊の改編に伴い、室蘭防衛隊隷下の第8?立警備隊長に異動。同年7月に、
室蘭艦砲射?
を??する。この間の
5月25日
、アメリカ軍による
東京大空襲
によって大山邸と史前??究所は、所?していた多くの貴重な文?や資料もろとも全?した。日本敗?後の同年9月、召集解除となる。
?後から晩年
[
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]
1946年
(昭和21年)4月13日、貴族院議員を?職
[6]
。?後の華族制度?止と
農地解放
、
公職追放
[注? 1]
によって?田にあった?大な私邸をはじめとする財産の過半を??され、以後は?田に子息を?し、牧場と父母の別?のあった西那須野町(現在の
那須?原市
)に?棲する。
1945年11月に慶應義塾大?から文?博士の?位を授?
[8]
された後、
1948年
(昭和23年)に『史前芸術 -古文化叢刊-』を刊行し、
日本考古?協?
編集の『日本考古??典』の分?執筆に携わる一方で
[注? 2]
、
戊辰??
の?究に身を捧げ
[注? 3]
、
1968年
(昭和43年)に今日でも戊辰???究の基本資料とされる『戊辰役?史』を出版した。?編として
日???
の?究書を出す予定だったが、翌年夏に、かかりつけの病院での通院治療中に
老衰
で死亡した。
那須?原市
に?親と共に眠る。
慶應義塾大?での講義は、?ら三田キャンパスで行なわれたが、時には
三田通り
の
喫茶店
で?生と?話をすることもあったという。自宅には留?中に買い集めたドイツ語の洋書が大量にあり、訪れる?生には「(ドイツ語は)どの語?をやる場合も必ずやるように」と語っていたという。柏は身?の整理整頓を徹底しており、書?の引き出しも中は整列され、色別に?分されていたという。これについて柏は「母の影響ですよ」と語っていたという。
大山史前??究所
[
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]
大山史前??究所は、?谷??田一丁目(現在の
神宮前
5丁目5番)の大山邸?に設置されており、遺跡の調査?究、?誌の刊行、出土品の展示、約10,000冊にも及ぶ?書の公開など、現代の?公立?究所にも劣らない機能を持っていた
[1]
。この柏が私財を投じて設立した?究所は?後の日本考古?の基礎を築いたのみならず、そこに集った多くの若い?究者はその後の日本考古?の?展に寄?した
[1]
。
大山史前??究所は?術?誌『史前??誌』を刊行するとともに、100箇所以上の?文遺跡を?掘して、その成果を次?に??に?表した
[1]
。?究所には甲野勇、宮坂光次、池上啓介、竹下次作、大給尹らの所員がおり、?究所の活動を支えていた
[1]
。これら多くの業績を?した大山史前??究所は、
山階鳥類?究所
、
?川生物??究所
と?んで「
華族
3大?究所」とも?される。
1943年
(昭和18年)に柏が根室?室蘭守備隊に出征した後には、?究所は閉鎖?態となり
[5]
、さらに??末期の
1945年
(昭和20年)
5月25日
、アメリカ軍による
東京大空襲
によって大山邸と史前??究所は、所?していた多くの貴重な文?や資料もろとも全?した。
?後は大山家の財産の大半が??されたこともあって、再興されることはなかった。?究所の跡地は現在マンションとなっており、往時の面影はない
[2]
。
?典
[
編集
]
- 位階
- ?章等
親族
[
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]
- 妻:武子(1897年 - 1983年) -
近衛文?
の妹
- 長男:
梓
- 海軍主計少尉、
?島大?
?授、
帝京大?
法?部?授、
法?博士
(外交史?究)
- 次男:
桂
- 日本貝類??副?長、
鳥羽水族館
?究員、
理?博士
(貝類?)
- 三男: 大山檀
- 長女: 大山?子
- 養子(?子の?):大山健次(?田健次)
脚注
[
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]
注?
[
編集
]
- ^
公職追放の該?事項は「正規陸軍?校」
[7]
。
- ^
後年に『琉球伊波貝塚?掘報告』(「復刻日本考古?文?集成」
第一書房
)が再刊している。
- ^
柏の?親である?と捨松は、
?津??
時には
新政府
側と
?幕府
側とにそれぞれ?していた。
出典
[
編集
]
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
i
神宮前5丁目5番 大山史前??究所と大山柏邸跡解? ?谷??育委員?
- ^
a
b
散策マップ No.3 JR原宿?から妙円寺まで、?谷??史散?の?、平成14年4月?行
- ^
『官報』第8080?、明治43年5月31日、p.620
- ^
『官報』第1320?、大正5年12月25日。
- ^
a
b
c
『大山史前??究所の由?と意義』 史?博士?阿部芳? 2001年8月20日
- ^
『官報』第5795?、昭和21年5月13日。
- ^
?理?官房監査課 編『公職追放に?する?書該?者名簿』日比谷政??、1949年、
506
頁。
NDLJP
:
1276156
。
- ^
“
書誌事項(CiNii Dissertations)
”. ?立情報??究所.
2017年11月13日
??。
- ^
『官報』第7788?「?任及?令」1909年6月12日。
- ^
『官報』第1696?「?任及?令」1918年4月1日。
- ^
『官報』第2904?「?任及?令」1922年4月11日。
- ^
『官報』第106?「?任及?令」1927年5月10日。
- ^
『官報』第1901?「?任及?令」1933年5月6日。
- ^
『官報』第4050?「?任及?令」1940年7月8日。
- ^
『官報』第1499??付?「?令二」1931年12月28日。
刊行著作
[
編集
]
- 『戊辰役?史』(上?下)、
時事通信社
、補訂版1988年
- 『北のまもり 大隊長陣中日誌』鳳書房、1989年
- 『金星の追憶 回顧八十年』鳳書房、1989年
?考文?
[
編集
]
| 出典
は列?するだけでなく、
脚注
などを用いて
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(
2011年5月
)
|
日本の爵位
|
先代
大山?
|
公爵
大山家第2代
1916年 - 1947年
|
次代
華族制度?止
|