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信濃村上氏
(しなのむらかみし)は、
??時代
の
村上義?
に代表される
河?源氏
の庶流
村上氏
の嫡流を指す。
出自
[
編集
]
村上氏の初代から
??
までは諸?あり、はっきりとは確定していない。
最初に村上姓を?したのは、『
尊卑分脈
』では
源?信
の孫にあたる
源仲宗
とされる。しかし、
その父?
源??
とする?(信濃村上氏の菩提寺である村上山?泉寺に?わる系?)や仲宗の子
??
や
盛?
とする?がある
[
要出典
]
。村上を名?ったことが確?なのは、盛?と??の子
宗?
???からである。
この時期の系譜
仲宗の後は、嫡男
惟?
が下記の呪詛事件で?嫡となり、
惟?の養子として盛?が?いだとする?
[
要出典
]
と、
次子??が?いだとする?
[
要出典
]
がある。
信濃との?係
[
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]
藤原宗忠
の『
中右記
』によると、仲宗は息子たちと共に
白河上皇
に仕えていたが、
?治
8年(
1094年
)8月17日、嫡男唯?が上皇を呪詛したとして
伊豆大島
に配流となり、その父や弟にも?分が下った。
このとき盛?の配流先が
更級郡
村上?だったとされており、??にも後に村上?に住したとする?がある
[
要出典
]
。
村上姓の由?
[
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]
村上姓の由?については、信濃?更級郡村上?の地名からとされる。盛?や??から村上姓となったとする?の根?であり、その父仲宗からの姓だとしても、上皇への呪詛が??する前に仲宗は信濃に所領を有しており、それが村上?だったのではないかとされる。これは、越後に配流された??が後に村上?に移ったとする?(子が村上姓となっている)があるように、仲宗の一族にとって村上?が?のある場所だったのではと考えられるからである。
源??からとする?では、
村上天皇
の第四皇子
?平親王
が村上姓を賜り、その子
源憲定
(村上憲定)の娘?に源??がなったことが由?とされる。ただし、この?は十分な確?を得られていない。
信濃村上氏 (?快流)
[
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]
源?快
の曾孫で信濃
?司
(守)に?任された
源?公
の子、
源?邦
(村上?邦、村上源判官代を?す)は??流村上氏からの養子であり、
夏目氏
などの祖となった。
平安時代
[
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]
保元?平治の?
[
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]
越前に配流になっていた??の次男
村上??
(
崇?院
判官代
、『尊卑分脈』では「? 村上判官代」)とその子
信?
と
基?
(
高陽院
判官代、「? 村上判官代」)が、
保元
元年(
1156年
)の
保元の?
で崇?上皇に味方し?加。敗?し囚われたのち、兄弟の生母(??の妻)が、
後白河天皇
の側近藤原通憲(
信西
)の娘であることを理由に赦免された(
一?に基?は後白河天皇方で、父の助命を求めたともいう
[
要出典
]
)。
平治の?
(
1159年
)では藤原通憲(信西)方につき勝利する。
なお、??は叔父の村上盛?の養子となっているが、??の後を?いだ兄の宗?も「村上?人」を?している(『尊卑分脈』)ことから、
養子以前(父の??や祖父の仲宗の代)から村上姓になっていたと考えられる
[
要出典
]
。??の弟?盛?は
八?院
判官代となり
筑摩郡
波多?に?って「波多判官代」を?した。
この時期の系譜
治承??永の?
[
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]
その後の??親子は、
信濃?
の木?地方で?兵した
源義仲
軍に?加し、義仲とともに?永2年(
1183年
)7月28日に上洛した。しかし、義仲と後白河法皇が?立すると法皇方に味方し、
多田行綱
の指揮下で
水島の?い
から?京した義仲軍と11月19日に
法住寺合?
で?うが敗?。基?が?死し信濃へ??。
源?朝
が後白河法皇の
院宣
に?い、源義仲討伐の軍を起こすとそれに?加。その後の平家追討にも?加し、
源義?
に?して
一ノ谷の?い
で活躍した記?が?る。『吾妻鏡』
文治
元年(1185年)11月10日?では、
村上?伊
が義?の??藤原時?を京都で捕えている。
鎌倉時代
[
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]
鎌倉時代の村上氏の立場
[
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]
同じ河?源氏出自で平家追討に功績があったものの、
源?義
?
源義家
父子の系統ではないため
守護
などへの登用はなく
[
要出典
]
、一
御家人
という地位に甘んじることになった。『吾妻鏡』建久元年(1190年)11月7日?では、源?朝上洛の際に?兵として、村上左衛門尉?時、村上右馬允?業、村上判官代基?らの名が見られる。
鎌倉幕府
の??が
北?氏
の手に移ると、
北?氏と血?や姻戚?係のない村上氏は鎌倉幕府の中?からは忘れられていった
[
要出典
]
。しかし、
建治
元年(
1275年
)5月
六?八幡新宮
の造?費用が全?の御家人に求められると、信濃?に住む村上判官代跡(
村上基?
の後裔?)が5貫文、村上馬介(
村上?業
の後裔?)が5貫文、庶流の波多判官代跡(
村上盛?
の後裔)が4貫文、同じく庶流の
出浦氏
(
村上成?
の後裔)が3貫文を納めた
[2]
。
その間、村上氏は下記のように家督を相?していった。
鎌倉幕府倒幕と村上氏
[
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]
鎌倉時代
末期の村上氏の?主
村上信泰
は、祖先が
承久の?
に?陣しなかったことが響いて、幕府?では忘れ去られた存在であったとされる
。
?代の村上氏は鎌倉幕府に?して恩顧の意識はなく、逆にその勢力を認めない幕府に?して不?を募らせていたと思われる
[
要出典
]
。一族の
村上義日
は、
元弘
元年(
1331年
)の
元弘の?
が起こると、
後醍?天皇
皇子の
護良親王
に?い、
元弘
3年/
正慶
2年
閏2月1日
(
1333年
3月17日
)に
吉野城の?い
で、次男の
義隆
と共に?死した(『
尊卑分脈
』)
[4]
。義日は『尊卑分脈』の簡潔な記述以外はほとんど確たる情報がないが、
軍記物語
『
太平記
』では義日をモデルにしたと思われる「村上義光」という人物が登場する
[4]
。「村上義光」は、護良に?って
十津川
、
吉野
、
高野山
などを??して2年にわたり幕府軍と?い?け、元弘3年(
1333年
)幕府軍に追われ吉野から逃亡する際には、護良親王の身代わりとなって腹を切り、子の義隆も、同じく吉野でしんがりをつとめて討ち死にしたと描?される。明治時代に神格化され、
鎌倉宮
村上社の主祭神となった。
建武の新政と村上氏
[
編集
]
義光?義隆父子の後は、信泰の子で義光の弟である
村上信貞
が家督を相?し、義光親子の功績などもあり信濃?での?益と勢力を
建武の新政
下で一定の??で認められ、「信濃?大?」と?せられるようになった。建武2年(
1335年
)に
諏訪氏
や
仁科氏
などが
北?高時
の遺?
北?時行
を奉じて?兵した(
中先代の?
)の際には、信貞は???のため京から下向して信濃?各所に出兵し、事?上??軍の主力として北???の豪族たちと交?した。
南北朝時代
[
編集
]
南北朝??と村上氏
[
編集
]
足利尊氏
が天皇に謀反を起こすと、朝廷は東海?東山?道に官軍を?向し、村上義貞は
箱根?竹ノ下の?い
において尊氏の弟
足利直義
軍に加わって
新田義貞
軍の鎌倉進軍を阻止し(『太平記』)
[5]
、延元2年/建武4年(1337年)には越前?
金ヶ崎城
で村上信貞、村上房義らが義貞軍と交?し、これらの?功により
小?郡
?田庄を宛がわれた。それ以降、信濃守護職に補任された
小笠原貞宗
とともに、信濃??の北???の討伐に
邁進
(
)
した。北?時行とその??が後に南朝方となることから、北朝よりの立場で信濃?での勢力?大と地位向上を目指していた。
?領家である信濃村上氏は次第に
北朝
方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる
村上義武
、その子、
村上義弘
は
南朝
方について活動していた。
それが村上水軍と後に言われる勢力である
[
要出典
]
。
伊予?
を中心に
???海
に活動した村上氏は、源仲宗の時代に、伊予守になった伯父、源?義に?って伊予に下向した時期があり、後に、前述の白河上皇呪詛の事件があり、どちらも???海に面している周防、?岐に流され
水軍と深い?係を結んだ
[
要出典
]
。
その孫にあたる
村上定?
(前述の村上??の弟)が
治承??永の?
の際に、再び?係を持ち、
村上水軍
の初代となったとされる
[
要出典
]
。
その村上水軍を味方にするために後醍?天皇ら南朝首?は村上義武を派遣し、その子、義弘が水軍の村上氏を相?したとされる
[
要出典
]
。
この時期の村上氏は、信濃では北朝方、???海では南朝方として活動していたことになる。畿?では
村上貞?
が
正平
10年(
1355年
)に
平等院
の末寺善?寺の下司職を務め、その子孫の
村上正貞
が幕府の推?で鎌倉府の寺奉行を務めている。
室町時代
[
編集
]
幕府との?立
[
編集
]
村上信貞の後は、その子
村上師?
、そして師?の子
村上?信
と系譜がつながり、師???信父子は、村上氏の勢力と?益を認めず守護職に補任しない
室町幕府
に?して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信州?大?」の地位を?視し?けたために、村上氏は反守護的な?人衆の代表格として認識されるようになる。
幕府はそれに?して、幕府の重臣であり足利一門で?力者の
斯波義?
を信濃守護に補任して、村上氏らの動きを抑え?もうとした。
至?
4年(
1387年
)、村上師?は斯波氏の守護代二宮氏の軍と信濃?北部の各所で?い、斯波氏も村上氏の抵抗を抑え?むことはできずに終わった。
師?の子?村上?信の代にも、信濃守護に補任された
小笠原長秀
が率いる守護軍と村上?信を始めとする?人勢力(大文字一揆)が
篠ノ井
で激突し、小笠原勢は?滅され長秀は京都に逃亡し、守護を罷免されている(
大塔合?
)。その後、幕府は代官として
細川慈忠
を派遣し、?信ら?人勢力の反?は??されたが、村上氏は?人の盟主として一定の役割を果した。
一族には
入山氏
や
屋代氏
、
小野?氏
、
山田氏
、
今里氏
、
栗田氏
、千田氏、
出浦氏
、
寄合氏
の所領は
更級郡
、
埴科郡
と
水?郡
の一部でその間には配下の領地もあって一円支配とはなっていない。他には
建武
2年(
1335年
)の恩賞で得た
?田?
12?で信濃守護の威令が及ばなくなると自領の?大を?る活動が見られる。
享?
3年(
1454年
)坂木?は
諏訪上社
頭役を務めているが?主村上政?ではなく代官である。
?正
5年(
1464年
)にも頭役が割り?てられ代官を謹仕させ同じ頃に政?は他で弓矢の?いをしている記?がある。
村上氏の衰退?
[
編集
]
?永23年(
1416年
)「
上杉?秀の?
」が起こると、
小笠原政康
が中心になって一族??人衆を率いて信濃?の防禦を固めた。この?を契機として信濃??の軍事指揮?を掌握した小笠原政康は幕府にその?力を認められ、12月に信濃守護職に任命されて力をつけていった。その結果、相?的に村上氏の勢力は弱まり始めた。
?信以降、村上中務大輔という者が反守護の中心となる。系譜上で中務大輔という人物を特定できないが、
村上持?
の可能性がある
[
要出典
]
。その村上中務大輔を中心とする反守護軍と
永享
5年(
1433年
)3月に守護小笠原政康軍と合?におよび、村上氏は
鎌倉公方
足利持氏
に加勢を求めた記?があり、持氏は出兵を決?するが
?東管領
上杉憲?
の
諫止
(
)
により沙汰止みとなった。
そのためか、村上中務大輔はその後、史料にみえない
[
要出典
]
。
推測でしかないが、この?いの結果、援軍を得られなかった村上中務大輔は滅亡もしくは衰退したのではないだろうか
[
要出典
]
。また、
援軍を求めるようになった背景には村上氏の衰退と小笠原氏の台頭があったことが推測される
[
要出典
]
。
村上??と?東の??
[
編集
]
村上中務大輔にかわり史上に現れるのは、氏祖の源??と同じ名を持った
村上??
で永享9年(
1437年
)に自ら?軍
足利義?
に出仕した記?がある。
前述の足利持氏と上杉憲?が前記の件から次第に?係がこじれて、ついに永享10年(
1438年
)8月、永享の?が勃?する。
永享の?
は上杉憲?に室町幕府が加?したために短期間で終わった。しかし、その持氏の遺?を擁して?東の雄、
結城氏朝
が?兵し、永享12年(
1440年
)3月、
結城合?
が起こると、村上氏をはじめ信濃?の有力?人たちも守護小笠原政康に?い出陣している。
この時代の村上氏の系譜
村上氏の系?の混?
[
編集
]
中務大輔もはっきりと?信の子であるとはわからないし、
?名も不明で推測で村上持?のことではないかとした
[
要出典
]
が定かではない。??に?しても史料的に確認が取れない。??に?しては
村上信貞の弟、
村上義?
の子とする?
[
要出典
]
、
村上信貞の兄、
村上?信
の子、
村上??
の子とする?
[
要出典
]
。
村上持?の子とする?
[
要出典
]
。
村上?信の弟、村上??の子とする?
[
要出典
]
など多?あるが確定を見ていない。義?については優良な史料では存在の確認が取れていない。また、持?の子には
成?
という子以外は史料にみえない。?信の弟に?しても優良な史料には記載がない。それぞれに問題点をはらんでおり、この時期、
村上氏の存在意義およびその勢力が衰退していたことを傍?している
[
要出典
]
。
諸?一?
小笠原氏の?紛と村上氏の再興
[
編集
]
?力者小笠原政康の死後、小笠原氏?領職をめぐって政康の長男の
小笠原宗康
と京都にあって?軍家の
奉公衆
を勤めた政康の甥(兄の子)の
小笠原持長
との間で家督相?をめぐって?いが起きた。持長は結城合?や
赤松?祐
の討伐でも功績があり、幕府の?力者管領
?山持?
とも?戚?係にあり、問題を複?化させた。
しかし、現?を鑑みれば、在京期間が長く、信濃?と?の薄い持長では信濃の?人を治めきれないと判?され
[
要出典
]
小笠原宗康が信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏は府中の持長方と
伊賀良
の宗康方とに分かれ、それにともない?人衆も二派に分裂して?立が?いた。文安3年(
1446年
)、小笠原宗康は弟の
小笠原光康
に後援を?み、自身が討ち死にした場合は光康に?領職を?り渡すと取り決め、
漆田原
で持長軍と?ったが敗れて討ち死にしてしまった。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に?られていたため、幕府は守護職と小笠原氏?領職を光康に?えた。その結果、持長と光康の?立は?いた。
その??の中で村上氏は着?に勢力の回復を?り、中信濃と南信濃に分かれて?立する小笠原氏を尻目に北信濃を手中に?めていった。
この?時の村上氏の?主は、??の子、または孫と思われる
政?
であった。政?は
享?の?
の際には反幕的態度を取り、
?正
4年(
1463年
)に幕命により越後から侵入した
上杉右馬頭
が
足利成氏
に通じる
高梨政高
を攻?し、政高がこれを中野付近で討ち取った際には高梨氏を支援している。
?仁
元年(
1467年
)、
海野氏
が領していた小?郡?田?を奪い、
?仁
2年(
1468年
)には
海野?
に攻め入り
千葉城
(せんばじょう、現?長野?
上田市
洗馬)の詰口を奪いこの時陣中から頭役料を諏訪上社に送っている。
文明
2年(
1470年
)海野氏の一族が支配する
矢?
(現?上田市)でも?っており
村上?から坂木?に本?を移したことで海野氏と境を接し摩擦を?し?いていたものと考えられる
[
要出典
]
。一方
善光寺平
の
高井郡
や
水?郡
にも進出し
文正
元年(
1466年
)高井郡山田?で
井上?貞
と?い、
同年の?貞死去はこの合?との?係や高梨氏との??にさらされたことが考えられる
[
要出典
]
。
??時代
[
編集
]
??大名としての躍進と?落
[
編集
]
村上政?
、
村上政?
父子は近隣の有力?人
海野氏幸
を討ち、小?郡から佐久郡へと勢力を?大していった。政?の子である
村上??
の事跡は詳しく分かっていないが、佐久郡の有力豪族
大井氏
を服?させ、大井氏の後ろ盾として
甲斐?
から佐久郡に侵攻を始めた武田氏との抗?、北部では高梨氏を?迫し勢力を?げていったとされる。
明?
4年(
1495年
)には
高梨政盛
と
善光寺
を巡って?いこれを?失させ、この時高梨氏は本尊を本?地に持ち?ったとされている。また
1505年
配下の小川氏が背いたため
香坂氏
や
大日方氏
に命じて攻略させている。一?には政?は「??」と??から「?平」(?衡)とも名?ったとされ、
政?(??)、??(?平)の時代の信濃村上氏が源氏の名門として再興するだけの?力を備えていたことを推測させる(ただしこの時期の村上氏の系?が混?していることは前述した通りである)
[
要出典
]
。その子
村上義?
の時代に佐久郡を
武田信虎
に奪われるが、武田氏?諏訪氏と手を組んだ
海野平の?い
で
海野氏
や
?田氏
ら小?郡に?っていた滋野氏一?を?逐することに成功した。また、甲斐?の
武田信玄
との抗?に際しては、それまで敵?していた高梨氏と手を結んで2度まで?退した。しかし配下の
屋代氏
などの離反で敗れ、北信濃を追われることになる。その後の義?は
越後?
の
上杉謙信
の客?となって失地回復を?ったが成功することはなかった。
安土桃山時代?江?時代
[
編集
]
義?の子の
村上??
(山浦??)が武田氏滅亡後一時的に信濃に復?するも、上杉氏の家臣としての立場であった。??は?自で各大名家と書?のやり取りをしていたことを
上杉景勝
に他家に?通と疑われ、勤めていた海津城代を?めさせられ、家臣も四散して?落し、?史から姿を消す。??以降の信濃村上氏については水?家に仕官した庶流など各?あって定かではない。また、村上氏諸氏の一部は
上野?
、
下??
等の??に飛散してしまったといわれる。なお、安土桃山時代に登場した
村上?勝
は信濃村上氏の一族と?している。
現在の村上氏
[
編集
]
村上氏は全?でも上位にある大族である
[
要出典
]
。
しかし、多くは???海地方(
?島?
、
岡山?
、
愛媛?
、
香川?
、
山口?
)に多く、それらは
村上水軍
の村上氏の末裔やそれに由?する人?で、信濃の村上諸氏の子孫は
新潟?
や
埼玉?
、
千葉?
等の一部に見られるがそれほど多くはない
[
要出典
]
。2005年長野?坂城町において「村上サミット」が開催。
村上氏の末裔といわれる墓標は長野?上水?郡
飯綱町
に現存している。
信濃村上氏の後裔となる氏族
[
編集
]
屋代氏
(矢代氏)、平地氏、??氏、東?氏、
室賀氏
、
雨宮氏
、
?野氏
、安川氏、波多氏、
百?氏
、上?氏、下?氏、飯田氏、島本氏、福?氏、
出浦氏
、小野澤氏、力石氏、
山田氏
、平屋氏、今里氏、
二柳氏
、小野氏、岡田氏、
古池氏
(
小池氏
)、
小泉氏
、三川氏、牧島氏、吉田氏、安藤氏、上野氏、西川氏、林氏、
栗田氏
、千田氏、
山浦氏
、吾妻氏、
倉科氏
、
塚田氏
、
福島氏
など。
系譜
[
編集
]
<平安時代後期?南北朝時代> ※ 太線は?子、細線は養子。
源??
┃
仲宗
┣━━━┓
??
仲?
| ┣━━━┓
??
盛?
宗?
┃
村上??
┏━━━╋━━━┳━━━┳━━━┓
信?
泰遠
安信
?業
基?
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
信?
信次
信村
?時
惟基
┃ ┃
惟信
胤信
┏━━━━━━━┻━━━━━━━┓
信泰
義康
┣━━━┳━━━┓ ┃
義光
?信
信貞
房義
┣━━━┓ ┣━━━┓ ┃
朝日
義隆
師?
師貞
義久
┃ ┃
?信
貞代
┃
宗康
<室町時代中期???時代>
村上??
┃
系不詳
┃
政?
┃
政?
┃
??
┃
義?
┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
義勝
義利
義照
義邦
??
(山浦景?)
┃
山浦上杉家
へ
<近世越後村上藩主家>
系不詳
┃
村上?勝
(義明)
|
忠勝
脚注
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
?連項目
[
編集
]