仁科氏

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仁科氏
家紋
揚羽蝶 あげはちょう
本姓 ? ? 桓武平氏 繁盛
? ? ?和源氏 ?季 乙葉氏
阿部氏 ?
安曇氏 ?
家祖 仁科盛遠
種別 武家
出身地 信濃?
主な根?地 信濃?
著名な人物 仁科盛遠
仁科盛政
仁科盛信
支流、分家 ?高氏
等?力氏
古?氏
?田見氏
小岩氏
飯森氏
?島氏
?渡氏
日岐氏
など多?
凡例 / Category:日本の氏族

仁科氏 (にしなうじ)は、日本の 氏族 。系統は 桓武平氏繁盛流 信濃平氏 )、 ?和源氏 ?季流 乙葉氏 族( 信濃源氏 )の仁科氏の諸?もあるとされる。

信濃仁科氏 [ 編集 ]

平姓仁科氏 [ 編集 ]

出自 は諸?あり、いまだ確定されていない。 平安時代 末期の 治承??永の? 前後から史書に登場するようになる。

平安?鎌倉時代 [ 編集 ]

伊勢神宮領の 仁科御? の?司を委任され、自らも 開?領主 として 仁科? を開?し、この頃には?に安曇郡一?を治める大豪族として知られた。仁科盛家は 木曾義仲 の?兵に?って、 ?田河原の?い ?利伽羅峠の?い などで武功を上げ、在洛中は京中警護を行い、 水島の?い で?死した。 信濃源氏 高梨盛光の四男盛弘も仁科氏の養子となって義仲?兵に?う。 建久 8年(1197年)の 源?朝 善光寺 ?詣には仁科太?が供奉している。また義仲に仕えた仁科大助は ??山 修?道 を究め、 ??流 忍術 の祖となったとされる。

盛遠 熊野 ?詣の折に 後鳥羽上皇 の知遇を得て 西面武士 を務めたが、その?遇が一端となって、 承久 3年( 1221年 )に 承久の? が起きた。盛遠は上皇方として 北陸道 に派遣されて 越中? 北?朝時 の幕府軍と?い敗死した。 ?仁 元年(1238年)、?軍 藤原?? の上洛の隋兵を仁科次?三?が務めている。 建治 元年( 1275年 )5月 六?八幡新宮 の造?費用が全?の御家人に求められると、信濃?に住む仁科三?跡は、7貫文を納めた [10]

室町???時代 [ 編集 ]

建武の新政 下では、仁科盛宗(左近大夫?監)が 武者所 結番第2番の寄人を務めた記?があり(『 建武年間記 』延元元年四月?)、 後醍?天皇 新田義貞 に?い、東海?東山?道から 足利尊氏 追討軍に?加し、 建武 2年( 1336年 )の 矢作川の?い などに??したが( 建武の? )、結果として敗北した。 南北朝 の?いには南朝に?し、?司 堀河光? に?い、 近江? 坂本に?陣した。

仁科氏重( 重貞 )は、 湊川の?い 後に比叡山に逃れる後醍?天皇に?身した。 貞和 4年(1345年)には越後?沼川において新田氏の?兵に?加したが、同?守護代の長尾氏に??された。また信濃では 宗良親王 を奉じ、 文和 元年( 1352年 )の 武?野合? に出陣したが敗北した。その翌年には、北朝側の 守護 小笠原長基 と?ったが、南朝衰亡によって北朝に??した。その後の 大塔合? では仁科盛房が大文字一揆衆を率いて守護軍を?倒し、 小笠原長秀 信濃 から追い?う活躍を見せる [11] [12] 。?正6年(1465年)には 室町幕府 が仁科持盛に安曇郡における?人の知行地押領をやめさせるよう 奉書 を下している。

?仁 元年( 1467年 )からの ?仁の? では東軍( 細川勝元 )につく。 文明 12年( 1480年 )には仁科盛直が 小笠原長朝 ?高川 で?って敗れたが(?高合?)、翌文明13年( 1481年 諏訪氏 に?って長朝の軍を破った。また、 長享 元年(1487年)からの 長享?延?の? では、?軍 足利義? の近江守護 六角高? 征討に出陣して?功を?げた。仁科明盛も 永正 10年( 1513年 )に?軍 足利義稙 が六角征討を再開すると近江に出陣した。

その後、『二木家記』や『小笠原系?』に名前が見られる 盛能 (道外)は信濃守護となった 小笠原長時 に?って?戚?係を結んでおり、 天文 年間に本格化した 甲斐? 守護 武田氏 信濃侵攻 においては 小笠原氏 村上氏 と同調して武田に抗していた。しかし盛能は、 天文 17年(1548年)の ?尻峠の?い を前に?線離?し、この?いで小笠原長時が武田方に大敗する原因となった。

武田方の史料である『 高白?記 』によれば天文19年(1550年)に仁科上野介( 仁科盛政 か)を介して 諏訪郡 高島で 駒井高白? と?談し、武田氏に臣?している。武田方に??した仁科氏は 千?街道 の流通など支配?益を保障され、道外の孫である 盛政 の頃には武田 被官 化するが、永?4年(1561年)の 第四次川中島の?い の折に一族の間で?紛が?生し、さらに盛政自身も上杉氏に?返ったとして?刑されたとされる(『 甲陽軍鑑 』)。しかし永?10年(1567年)に武田氏配下の諸?が 生島足島神社 に提出した起請文に「仁科盛政」のものが含まれている。いずれかの理由で仁科氏の正統は絶えた。

武田信玄 は信濃攻略において、諏訪氏、 海野氏 など信濃名族に?して?子に 名跡 を?がせ親類衆に列して?柔する方法を行っているが、仁科氏も五男に名跡を?がせた( 仁科盛信 )。以降仁科氏は平姓を改め、「?和源氏?義光流?武田氏支流」として源姓を名?った。一方、「仁科氏系譜」によると、仁科盛政の子、盛孝と盛?は信玄の許しを?て 飯?神社 の神主「千日次?太夫」の養嗣となり、天正6年(1578年)に 武田勝? から「仁科勘十?」を世襲名として?えられ、 江?幕府 からも 地位 と社領を 安堵 され、 神官 として 明治維新 まで存?した。 [13]

系? [ 編集 ]

北澤繁樹の推定による仁科氏の 嫡流 の系?

  • 仁科盛弘 - 盛家 - 盛遠 - 盛勝 → 承久の? 後の?分で ?氏 から養子を迎える
  • ?盛長 - 仁科盛忠 - 盛? - 盛房 - 盛豊 - 持盛 - 盛直 - 明盛 - 盛? - 盛能 - 盛康 - 盛政 → 武田氏が跡目を相?する

仁科衆 [ 編集 ]

また仁科氏の支族には、?高?等?力?堀金??田見(長生寺)??渡(須沼)?古??飯森??島?小岩?大和田?松川?岡村?日岐(丸山)?小宮?耳塚???部?成相?野口などの各氏があり [14] 、??時代に仁科盛信の下で「仁科衆」 [注? 4] として組織された。

平姓仁科宗家?武田?氏滅亡後、上杉氏に臣?し 米?藩 士として仕えた者、小笠原氏に出仕した者に分裂したが、多くは 兵農分離 で?農した [15]

源姓仁科氏 [ 編集 ]

仁科氏
家紋
割菱 わりびし
本姓 ?和源氏 義光流 武田支流
家祖 仁科盛信
種別 武家
士族
出身地 甲斐?
主な根?地 信濃?
凡例 / Category:日本の氏族

盛信の子の 仁科信基 なる人物の 家系 である。一方、『 ?政重修諸家譜 』では、仁科盛信の跡は 信久 (式部)、信衡(右近)、信道(勘右衛)と系?がつながり、信道の長男?信勝(勘之丞)と次男?信忠(勘右衛門)がそれぞれ旗本として江?幕府に仕官している。

  • 仁科盛信 (武田晴?) - 信基 - 盛忠 - 信照 - 盛晴 - 盛朝 - 忠盛 - 高信 - 盛次 - 信? - 定盛 - 盛照 - 信? - 盛輔 - 盛定 - 信時 - 正盛

江?時代 [ 編集 ]

天正 10年( 1582年 )の 甲州征伐 において、 仁科盛信 の子の 仁科信基 と小督?は、 松? に連れられ、 後北?家 支配下の 八王子 まで逃れ、後に ?川家 旗本 となった。

『仁科濫觴記』の記述 [ 編集 ]

『仁科濫觴記』には、平氏以前に存在したとされる仁科氏について記されている。ただし、『仁科濫觴記』は信憑性が乏しいため、史書として用いられることはなく、『大町市史』などにも以下の?容は記されていない [16]

美作仁科氏(1)(?和源氏 仁科氏流) [ 編集 ]

源姓仁科氏 嫡流 の14代目?主 仁科盛輔 の次男盛助の系統。 明治 時代に 岡山? に移住。

美作仁科氏(2)(大伴氏??岐忌部氏後裔? 詳細は不明) [ 編集 ]

仁科氏
家紋
梅鉢 うめばち
五七桐 ごしちのきり
本姓 伴氏 ?
?部 宿? ?岐忌部氏 支流?) ?
家祖 ?
種別 地下人
平民
出身地 ?
主な根?地 美作?
岡山? など
著名な人物 仁科芳雄
支流、分家 非常に多し。
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上記の仁科氏とは別で 大伴氏 あるいは ?部 宿? ?岐忌部氏 )の一族が 奈良時代 の頃に 美作 に土着したとされる。仁科氏が 岡山? ?口郡 濱中村(現? 里庄町 )に家を構え、領主の 年貢 のとりまとめをする 庄屋 をしていた。また 鍛冶 を家業としていた系統もある。 昭和期 物理?者 ? 仁科芳雄 はこの末裔にあたる。この仁科氏は多くの支流を出し、どの系統が 美作 仁科氏の 宗家 かは 不明 である。

明治時代 に潰れた後は庄屋?鍛冶をしていた仁科氏達は各地に散らばり、それぞれの道をたどる。そのため、岡山??口郡や 備前市 日生地域には仁科姓が多い。丸に梅鉢または五七桐を 家紋 にしていた。

?津仁科氏 [ 編集 ]

福島? ?津若松市 に住んでいた仁科氏一族がある。これも美作の仁科氏とは別で ?和源氏 ?季流 乙葉(おとは)氏族としているが詳細は不明である。

その他の仁科氏 [ 編集 ]

『新撰仁科記』には 木曾義仲 の子?仁科盛重や 平?盛 の曾孫? 平高? (六代)の子???盛長の玄孫?仁科盛忠を祖とする系?が記載されている。仁科盛忠は 鎌倉時代後期 ? 南北朝時代 にかけて 存在 した人物で、木曾義仲の 末裔 である仁科義治の妹?であるとされる。

また?津仁科氏と同族の仁科氏、桓武平氏繁盛流、 大伴氏 安部氏 など複?の氏族が仁科を名?っている。

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 大?律令 後は安曇 郡司
  2. ^ あるいは貞任の弟 則任 の末裔。
  3. ^ この逸話は「?俗?」と?して近隣の話を集めたものであり、?照した文?名もなく、信府統記の著者自ら「上古ノ沿革ハ其所由分明ナラザルカ???棄テ置キ難キカ故ニ、別ニ集テ一?トナス」と、??がわからぬことを?っている。
  4. ^ 大伴姓 の細萱氏や、 滋野姓 の西牧氏なども含む

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 中央?? 1940 , p.  [ 要ペ?ジ番? ] .
  2. ^ 信濃史料 1973 , p. 360 - 361.
  3. ^ 渡? 1974 , p. 143.
  4. ^ ?松寺 2004 , ?松寺の?史.
  5. ^ a b ?書刊行? 1915 , p. 96.
  6. ^ 『平家物語』?第七?第六十六句(???書館?百二十句本)
  7. ^ ?閣文庫? 『源平盛衰記』 慶長古活字本(?民文庫)?第三十二
  8. ^ ?閣文庫? 『源平盛衰記』 慶長古活字本(?民文庫)?第二十八
  9. ^ 海老名 & 福田 1992 .
  10. ^ ?立?史民俗博物館所?「造六?八幡新宮用途支配事」 [9]
  11. ^ 信濃?土?究? 1932 .
  12. ^ 信濃史料編纂? 1969 .
  13. ^ 小林計一? 「飯綱神社」『日本の神? -神社と聖地- 9 美濃?飛??信濃』 谷川健一 編、 白水社 1987年
  14. ^ 生島足島神社編「起請文にみる信玄武?」 2006年
  15. ^ 大貫 2018 , p.  [ 要ペ?ジ番? ] .
  16. ^ 『大町市史』大町市史編纂委員?編 大町市 1984年

?考文? [ 編集 ]

  • 大貫茂紀『??期境目の?究 : 大名?領主?住人』高志書院、2018年10月。 ISBN   9784862151841  
  • 小林茂喜『仁科盛信と武田氏』 信州?育出版社 、2019年11月。 ISBN   9784783912835  
  • 北澤繁樹『仁科氏』 東京?書出版? 、2010年10月。 ISBN   9784862234629  
  • ?書刊行? 編「 ?立???書館デジタルコレクション 仁科岩城系圖 」『系?綜?』 2?、?書刊行?〈?書刊行?刊行書〉、1915年、96-103頁。 全?書誌番? : 50006721 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879314/56 ?立???書館デジタルコレクション   閲覧は自由
  • 信濃?土?究? 編『 ?立???書館デジタルコレクション 大塔物語 : 異本?照 』信濃?土?究?、1932年。 全?書誌番? : 46078614 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170544 ?立???書館デジタルコレクション   閲覧は自由
  • 信濃史料刊行?編「信府統記 第十七」『 新編信濃史料叢書 』 第6?、信濃史料刊行?、1973年。 全?書誌番? : 73019652  
  • 信濃史料編纂? 編「大塔物語1?(僧?深)」『 信濃史料叢書 』 下、?史?書社、1969年。 全?書誌番? : 73019646  
  • 田中豊茂『信濃中世武家? : 信濃武士の家紋と興亡』 信濃?日新聞社 、2016年11月。 ISBN   9784784072989  
  • 中央?? 編『信濃史源考』 7?、中央??、1940年。 全?書誌番? : 46056017  
  • 仁科宗一?『安曇の古代 : 仁科濫觴記考』柳?書苑、1972年。 NCID   BN1323303X  
  • ?松寺 (2004年). “ ?松寺の?史 ”. ?松寺公式ホ?ムペ?ジ . ?松寺. 2014年9月4日 ??。
  • 渡?市太? 編『信濃?鑑考』 中、?史?書社、1974年。 全?書誌番? : 73019678  
史料
  • ?閣文庫? 『源平盛衰記』 慶長古活字本(?民文庫)。
  • ???書館 『平家物語』 百二十句本。

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