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九??子

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
九? ?子
第86代天皇后
皇后 ?喜 2年 2月16日 1230年 3月2日
中宮
藻璧門院
院?宣下 貞永 2年 4月3日 1233年 5月13日

誕生 承元 3年 5月22日 1209年 6月25日
崩御 天福 元年 9月18日 1233年 10月22日
?子(しゅんし/よしこ)
氏族 藤原氏 九?家
父親 九?道家
母親 西園寺?子 (綸子)( 西園寺公? の娘)
配偶者 後堀河天皇
入? ?喜 元年 11月16日 1229年 12月3日
子女 四?天皇
?子?親王
女御宣下 ?喜元年 11月23日 (1229年 12月10日
立后前位階 ?三位
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九? ?子 (くじょう しゅんし [* 1] /よしこ、 承元 3年 5月22日 1209年 6月25日 ) - 天福 元年 9月18日 1233年 10月22日 ))は、 鎌倉時代 の后妃、 ?母 女院 後堀河天皇 中宮 で、 四?天皇 ?子?親王 の母。 女院 ?は 藻璧門院 (そうへきもんいん)。父は?政?白左大臣 九?道家 、母は太政大臣 西園寺公? 女? ?子(綸子) 。?政?白左大臣 九??? 二?家 の祖となった?白左大臣 二?良? 鎌倉幕府 第4代 ?軍 ? 藤原?? 一?家 の祖となった?政?白左大臣 一??? らは同母弟にあたる。

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?喜 元年(1229年)入?、同年11月3日に?三位に?位 [1] 、23日に 女御 となり、翌?喜2年(1230年)2月16日 中宮 となる。 ?喜 3年(1231年)2月12日に第一皇子 秀仁親王(四?天皇) を、翌年第四皇女? ?子?親王 を産む。 貞永 2年(1233年)4月3日 [1] [* 2] 院?宣下を被り藻璧門院を?す。同年(改元して 天福 元年)9月18日、皇子を死産したうえ自身も落命した。

短い生涯の中で?子自身は特に和歌の作品は?していないが、彼女のもとに出仕していた 女房 には「己が音の少?」として知られる 藻璧門院少? 藻璧門院但馬 、さらには 藤原定家 女の 後堀河院民部卿典侍 など?時一流の 歌人 たちが名を連ねていたことでも知られる。

逸話 [ 編集 ]

  • 東福寺を築いた父?九?道家は自らの祖先であるとともに??政治の全盛期を築いた 藤原道長 を?く意識していた [2] 。姉である 九?立子 の院?「東一?院」は道長を寵愛してその出世を助けた姉の 藤原詮子 一?天皇 生母)の院?「東三?院」を [3] 、正室である 西園寺?子 は道長の正室である 源倫子 [4] 意識した命名とされ、長女でかつ初めて天皇の后として入?する?子には道長の長女で一?天皇の后になって2代の天皇の生母になった 藤原彰子 (上東門院)の再?を期待したと言われている。このため、入?直前に?子の諱を定める際に道家は側近の 菅原?長 藤原定家 らと候補を絞ったが、その時道家は彰子の「彰」の字の一部が用いられている「彦子」と「?子」に拘った。定家が?位前に病死した 醍?天皇 皇太子 保明親王 の諡?に似た「彦子」は不吉と進言したこともあり、道家は「?子」に決めた [5] 。道家は?子が入?した際には定家や 藤原行能 に命じて彰子の例に倣って和歌?風を造らせ(行能は彰子の和歌?風の和歌部分を執筆した 藤原行成 の子孫) [6] 、?子が?妊すると 藤原兼家 ?道長父子ゆかりの 石山寺 に?詣して皇子出産を祈願している [7] 。?子が四?天皇を生んだことで道家は天皇の外祖父になれたものの、?子は早世してしまう。だが、道家は彼女の忘れ形見である四?天皇に入?させる自身の娘には藤原詮子にちなんだ「 佺子 」、同じく孫娘にはかつて一度は?念した「 彦子 」の名を?えたのであった [8]
  • ?子はその美貌により後堀河院の寵愛が深かった(「后容貌姝? 寵遇無比」 [9] )。その?子は「いひしらぬほどの美人」だったが、妹の全子も「ためしなき程の美人」だったため ?侍 に任じられたという [10]
  • ?子が入?するにあたり、?代一流の歌人達に歌の詠進が依?され、?風が製作された(『?喜元年女御入??風』)。 藤原家隆 の一首 [11] は『 百人一首 』にも採られている。

正三位家隆
風そよくならの小川の夕暮は みそきそ夏のしるしなりける

? 『 新勅撰和歌集 』 ?第三 夏歌
  • 女院?の「藻璧門院」は、 大?裏 宮城十二門のひとつ西面の 藻壁門 の名?から採られているが、「壁」の字は下のつくりの「土」を「玉」にした「璧」(意味は?石)の字に差し替えられている。つまり門の名?としては「藻 門院」が正しいのだが、女院?およびそれを呼?に冠した 女房名 においては「藻 門院」が正しい。しかしこの?者は古?混同されることが常で、行書?では「壁」と「璧」を判別することが難しいこともあって、書?の際に女院?を門の名?で書いてしまうことが非常に多かった。
  • ?はこの「藻壁門院」ないし「藻璧門院」という女院?、 正治 2年(1200年)に 後鳥羽天皇 中宮 だった 九?任子 に院?宣下があった折にも、その院?定めの席上で提案されたことがあった。しかしこのときは任子の父? 九?兼? が、「藻」字がいかにも不?味で不吉であること、また「壁」と「璧」が混同されやすいことなどを理由に藻壁門はそもそも女院?には用いるべきではないと反?し [12] 、結局この案は破棄されて「宜秋門院」に改められたという?緯がある [* 3] 。それから33年を?た?子の院?定めにあたっては、 二?定高 堀川具? らが「壁」を「璧」に差し替えた「藻璧門院」を主張した結果 [12] 、これが通ってしまったのである。以前の宜秋門院の院?定めの時の?緯を熟知していた 藤原定家 は、その日記『 明月記 』の中で、この決定が「殊以存外」「驚而可驚」と驚き?れ果てていることを記し [13] 、さらにこの院?については宜秋門院もどうしたものかという疑問を抱いていたことを書き留めている [* 4]
  • 定家はその日記『 明月記 』において、?天候の中で難産の情報を耳にしての不安、自他の悲嘆や周章の?子等と共に、?師兼僧侶として現場に立ち?った興心房から、出産と死亡の詳しい?過を聞いて記?している [14] 。?時の人?の意識の上で二重の穢れであるこのような場面の具?的な記?は珍しい。9月13日から容態が?化し(出産予定は翌月だったらしい)、「物の怪」に苦しめられていると周?が憂慮するような?態 [* 5] を繰り返した。17日の午後から?い 陣痛 が周期的に見られ、18日に至って皇子を産むが逆子の?態で?に死亡していた。この記?により、父道家や弟良?が出産現場に立ち?い、産婦の腰を支えるなど助産を行っていたことがわかる。そして産後も胎盤が降りず、?力を消耗しきった?子が危篤?態に?ったため、急遽興心房を導師として授戒が行われた。言葉を?する力も?ってはいなかったが、導師の言葉に?きつつ、第七戒に至って絶命したという。事切れる直前に戒を授かったという報告を聞いて、定家は「今此の如く聞けば、此の如き急難の中、善人の御終歟」と、せめてもの慰めとしている。遺?には女房が衣を掛け、別室に移動して仰臥させて、?を剃り袈裟を着せ念珠を持たせて出家姿を整えた。同月二十四日夜に入棺 [15] 、三十日に東山御堂そばに埋葬された [16]
  • ?子の死後まもない21日に定家の子である 藤原?家 が??したところ、後堀河院はひたすら泣き?けるばかりで「無御言語 而御落?之間又咽?」という有?だったという [17] 。元?病弱だった後堀河院は、傷心に沈む中ますます衰弱した [* 6] 。翌年、 法勝寺 の法華八講に出席した後堀河院と ?政 九??? は、大塔の三層に生前の姿そのままの?子を見たが、他の者には見えなかった [* 7] 。この年の6月に 九??帝(仲恭天皇) 、8月に後堀河院、翌年3月には??と、?子の後を追うように次?と?係者が?したが、その原因として、 承久の? で配流となった ?岐院(後鳥羽院) の生?や、 天台座主 就任を果たせず道家を怨んで死んだ十?院僧正 仁慶 の怨念が??していると?された [* 8]
  • 死後しばらく?った頃、?子がある人の夢に現れて歌を詠んだ [18]

まよひこしわかこころからにこりけり すめはすみける池の水かな
この世にてあひみんことはしかすかに はかなきゆめをたのむはかりそ

? 『明月記』 天福元年十一月十一日?
定家はこれを、?子が?勒の?土で暮らしていると解?している [* 9] 。また後堀河院民部卿典侍によれば、?子の夢告を受けて、女房達の間で嵯峨の?迦如?が信仰を集めているという [19] 。一方、 延? 元年(1239年)5月、道家病?の際に九?家の女房に憑いた 天狗 託宣 として、?子の?は成?せず仁慶と共に洛北蓮台野に留まっているとの言?もあった [* 10]
  • 滋賀? 犬上郡 多賀町 に存在した中世寺院敏?寺の一院「西福院」は、藻璧門院の 御願寺 として創建され、その近くに?まれた石?谷墓地は、藻璧門院の供養塔や墓所を原型として?大していったのではないかと推測されている [20]

補注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 道家から娘の入?にあたっての名前について諮問を受けた定家は、「?子」の音が「七旬」の反切に相?し?起がよいと推?している(『明月記』 ?喜元年十月?六日?)。
  2. ^ 貞永 元年4月4日とも。
  3. ^ 『大日本史』は、この?緯に?する『明月記』を引きつつ、「前日以?不吉,而今乃吉歟」と訝っている(『大日本史』 卷之八十二 列傳第九 后妃九 後堀河天皇?)。
  4. ^ 定家は、宜秋門院がたまたま訪れた後堀河院民部卿典侍に、藻壁門は忌避するはずだったのに善くなったのかしらと語ったことを記した上で、そうしたことを忘れない彼女の「賢貞之御本性」を賞?している。また以前の院?定めの際にはその直前に藻壁門が?倒したこともあったと記している(『明月記』 天福元年四月?日?)。
  5. ^ 「祭り?へ 何くれとおびたたしく まだきよりののしる まして其の程近くなりては 天の下やすき空なく 山?寺?社? 御祈りひびき?げども 御物のけこはくて いみじうあさまし」(『?鏡』 第三 藤衣)
  6. ^ 「此の御歎きに いよいよ院は沈みまさらせ給ひて うち絶えて御湯などをだに御?じいるる事なくて 月日つもらせ給へば(中略)院の御?み日?に重くならせ給ひて 八月六日 いとあさましうならせ給ひぬ」(『?鏡』 第三 藤衣)
  7. ^ 「天下諒闇なれども 法勝寺御八講に御幸ありけるに 御者すでに阿?陀堂の御前へ寄たりけるに 藻璧門院の昔の御姿うつくしげにて 九重塔の第三層とかやにわたらせ給けるを あれはいかにと思食て 御車寄に?政のさぶらはせ給けるに あれは見まゐらするか と仰ありければ みまゐらせ候 と申されけり 余人は見まゐらせず 不思議にぞありける」(『 五代帝王物語 』)
  8. ^ 「上皇も此御歎のつもりにや 同二年八月六日かくれさせ御座す 御年?三 おしかるべき御?なり 代?の帝王短祚におはします例のみおほかれども 女院の御事に打つ?き此御事のいできぬる いかにも子細ある事也 後鳥羽院の御怨念 十?院僧正などの所?にやとぞ申あひける」(『 五代帝王物語 』)
  9. ^ 「近日夢告多聞 其心兜率之引接歟 此池水之心 又是八功?池候心歟」(『明月記』 天福元年十一月十一日?)
  10. ^ 「問ふ 藻璧門女院は いづくに生まれおはしますや 答ふ この道に?りておはしますなり 十?院僧正のこれに共ふなり 常に蓮台野の?に住するなり 返すがへす不便にこそ見え奉れ これらがなぶりぐさにてこそはあらむずらん また尼にておはするなり」(『比良山古人?託』)

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b 『女院小?』
  2. ^ 高松、2017年、P189-190
  3. ^ 高松、2017年、P188-189
  4. ^ 高松、2017年、P186-187
  5. ^ 高松、2017年、P178-183
  6. ^ 高松、2017年、P190-192
  7. ^ 高松、2017年、P192-195
  8. ^ 高松、2017年、P184-186
  9. ^ 『大日本史』 卷之八十二 列傳第九 后妃九 後堀河天皇?
  10. ^ 『五代帝王物語』後堀河院
  11. ^ 『新勅撰和歌集』 ?第三 夏歌 00192
  12. ^ a b 『明月記』 天福元年四月?五日?
  13. ^ 『明月記』 天福元年四月四日?
  14. ^ 『明月記』 天福元年九月十九日?
  15. ^ 『明月記』 天福元年九月十九日?、同?四日?
  16. ^ 『明月記』 天福元年九月十九日?、同?日?
  17. ^ ??(?考文?)
  18. ^ 『明月記』 天福元年十一月十一日?、『民部卿典侍集』
  19. ^ 『明月記』 天福元年十二月一日?
  20. ^ 細川(?考文?)

?考文? [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]