中原兼遠

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中原兼遠
時代 平安時代 末期
生誕 不詳
死? 治承 5年( 1181年 )?
別名 木曾中三、中三?頭、木曾庄司中三? [1]
墓所 長野? 木?郡 木?町 林昌寺
氏族 木?中原氏
父母 中原兼? ?
兄弟 木曾中太 (兼氏)?、木曾?中太兼貞? [注? 1] 中原兼保 ?
千鶴御前 ? [2]
?口兼光 今井兼平 今井兼光 ?、 中原兼好 ? [注? 2] 木曾義高 の母?、 巴御前 ? [2] 千野氏 妻?
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中原 兼遠 (なかはら の かねとお、生年未詳 - 治承 5年( 1181年 )?)は、 平安時代 末期の 武家 木曾義仲 乳母 父。 木曾中三 (中原氏の三男)を?した。

出自 [ 編集 ]

木?の 中原氏 は同地を地盤とした豪族 [4] 。その出自は諸?あるが、一般的に中央貴族である 中原氏 の流れを汲むとされる。『木?福島町史』第1?では、『 本朝世紀 久安 6年( 1150年 )11月16日??12月23日?に「右少弁中原兼遠」という記述があることを指摘し、 仁平 元年( 1151年 )に?五位下? 藤原?通 信濃守 に重任していることから、兼遠は 目代 として信濃に下向したと推測している。また、 村石正行 は『 官史補任 』に、「中原兼遠」という人物が 元永 元年( 1118年 )に右少弁?正六位となっていることから、中央官人の中原氏が京都から信濃に下向し土着したと考えても違和感はなく、『 源平盛衰記 』に 木曾義仲 軍の中に「?非違使所八?」という人物がいることから、兼遠が?守として武?官吏を動員する力を持っていても不思議ではないとしている。 ?崇宏 は、兼遠は京都の官人として武?に下向し、最終的に信濃に土着して、有力な 在?官人 として?衙や木?地方を中心に勢力を伸ばしたとした [5] [注? 3]

一志茂樹 や『長野?史 通史編』、『日義村誌 ?史編上』は、 大吉祖? 開?領主 あるいは 庄司 であったと推測している [5]

平安時代末期には同族と見られる 木曾中太 保元の? 源義朝 ? 源?義 に?軍している [1]

平家物語 』延慶本には、 木?義仲 方の武士として「?口カ甥信乃武者ニ千野太?光弘」が見える。「千野」は 諏訪大社 上社の神官の一族であり、 ?口兼光 ?玉? の?であったことから、兼光の姉妹、つまり兼遠の娘が千野氏に嫁いだと推察できる。また、『 諏訪大明神?詞 』によれば、 金刺盛澄 は義仲を?にしたと記述があり、兼遠と諏訪大社が親密な?係を築いていたと考えられる [5]

村石正行 は、兼遠と 武?? において?係があったと考えられる 源義賢 の母は「六?大夫重俊女」であり、「六?大夫重俊」とは 中原重俊 のことであり、兼遠と同族であったとした。また、平安時代末期に 越後? 高田保の保司であった 中原兼俊 も2人と同族であったとした [7]

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京都 に生まれ、のちに 信濃? 木曾 地方に本?を置いた 豪族 。 『信濃史料』?2によれば、『 本朝世紀 』?38に、 久安 6年( 1150年 )8月16日に信濃?の諸牧の馬を?上した「右少史大江兼遠」という人物がいたとされるが、これを?時信濃?守であった中原兼遠のことであるとする?がある [3] 。 『木?福島町史』第1?では、『 本朝世紀 久安 6年( 1150年 )11月16日??12月23日?に「右少弁中原兼遠」という記述があることを指摘し、 仁平 元年( 1151年 )に?五位下? 藤原?通 信濃守 に重任していることから、兼遠は 目代 として信濃に下向したと推測している。

久? 2年( 1155年 )の 大?合? 源義賢 が甥の 源義平 に討たれた際、その遺??駒王丸を ?藤?盛 の手から預かり、ひそかに匿って養育する [8] 。この時、信濃 ?守 であったという。 高橋一樹 は、駒王丸の信濃への?出に 武? を巡る人脈が生きており、兼遠はかつて目代などとして武?と深く?わっていた可能性があると推測している。 ?崇宏 は、『 平家物語 』諸本に、駒王丸?出に武?の武士である ?山重能 ?藤?盛 が?わっており、兼遠の子である ?口兼光 が武?の ?玉? の?である旨の記述が記されていることや、『 吾妻鏡 ?永 3年( 1184年 )2月1日?に兼遠が「武??玉之輩」と「親?之間」であったと記されていることから、兼遠と武?の武士には交流があり、それは駒王丸の母、あるいは乳母の?者に兼遠がいたからであるとした [5]

兼遠が駒王丸を引き取った理由について、?崇宏は、信濃?衙の周?に勢力を?大していた 平賀氏 と?立していたために、平賀氏と?係が良好であった 源義朝 ? 源義平 と?東で?立していた?刀先生? 源義賢 と手を組み、そしてその遺?を「軍事的?力と貴族性を?せ持つ地域抗?の調停者」として認識していたからであるとした [5]

駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、 木曾義仲 と名?って 治承??永の? において 平家 源?朝 と?う。兼遠の子である ?口兼光 ? 今井兼平 はともに義仲の重臣となっている。

尊卑分脈 』では義仲の嫡男 義高 の母を兼平の娘としているが、兼平は義仲と同年代の乳母子なので、義高の母は兼平の妹(兼遠の娘)と推定される。

また『 源平盛衰記 』では 巴御前 は兼遠の娘で義仲の妾とされている。

墓所は 長野? 木?郡 木?町 林昌寺

平安遺文 」35?には、 嘉? 元年( 1169年 )10月9日に 大隅?司 に任じられた「中原兼貞」という人物が見え、『 兵範記 』にも兼貞が同時期に大隅?司となっていたことが確認できるが、この兼貞を兼遠の兄である「 ?中太 」に比定する?がある [3]

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妻? 千鶴御前 との間には 中原三?兼好 という子供がおり、 知久氏 に仕えた 小木?氏 の祖であるとする??がある [3]

異? [ 編集 ]

明治時代 自由民?運動 家の 武居用拙 は『岐蘇古今沿革志』で以下のように記載している。幼少期から 皇別 中原兼遠の英才?育を受けてきた木曾義仲?巴御前?今井兼平??口兼光。義仲?兵後、?える女性は巴だけであった。義仲の側近として共に生き共に?う事は本望であるとした。軍記物語である『源平盛衰記』では巴は兼遠の娘で義仲の妾となっているが現?的に見れば皇別の兼遠が娘を格下である妾(遊女?便女)にするわけがなく、義仲の側近(側室)は巴である。また巴は義仲の?兵以前から義仲の子、義高を授かっていることから、初めは正室であったが義仲?兵に伴い?える女性は巴だけであった。已む無く側近?側室となり義仲に寄り添い共に?ったのである。巴御前が出てくるのは軍記物語である『 平家物語 』『源平盛衰記』のみであり、?時の一次 史料 鎌倉幕府 編纂書の『 吾妻鏡 』には、その存在は確認されない。『源平盛衰記』は文?的脚色である可能性が高い。敗者であるが故に便女と妻を取り違えて解?し紛れもない冒??虐めであり、正確には(地方豪族?敗者の娘)を妾とし、(同盟?の娘?皇別の娘)を妻?正室としていると主張している [2]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 保元物語 』、『 平家物語 』の ?田河原の?い 等に登場する。
  2. ^ 小木?氏の祖とする??がある [3]
  3. ^ 太田亮 は、 金刺氏 後裔?と 諏訪神? の一流?を?げている [4] 。父の兼?は朝廷で 正六位下 ? 右馬少允 に?任された後、 信濃? 佐久郡 に移住し 牧長 を務めたとされる [6]

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b 武居用拙 『岐蘇古今沿革志』(明治23年(1890年)P19)
  2. ^ a b c 武居用拙 『岐蘇古今沿革志』(明治23年(1890年))
  3. ^ a b c d 小林?三?『兼遠と義仲』(銀河書房、1991年)
  4. ^ a b 太田 1936 , p. 4255.
  5. ^ a b c d e 久保田昌希 編『???織豊期と地方史?究』(岩田書院、2020年)
  6. ^ 十市?主今西家保存?「中原兼遠/?口兼光?今井兼平?巴御前 [1]
  7. ^ 長野?立?史館編『長野?立?史館?究紀要』16?、(長野?立?史館、2010年)
  8. ^ 吾妻鏡

?考文? [ 編集 ]

  • 太田亮「 中原 ナカハラ 」『姓氏家系大?典』 3?、 上田萬年 三上?次 監修、姓氏家系大?典刊行?、1936年、4251-4257頁。 全?書誌番? : 47004572 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131019/91   オープンアクセス
  • オープンアクセス武居用拙 ?立???書館デジタルコレクション 岐蘇古今沿革志 』發光堂、1914年5月。 NCID   BA34814298 全?書誌番? : 43018396 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950570 ?立???書館デジタルコレクション  
  • ?賀?男 『古代氏族系譜集成』古代氏族?究?、1986年4月。 NCID   BN00924708 全?書誌番? : 87008471  

?連作品 [ 編集 ]

テレビドラマ
テレビアニメ