出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上原城
(うえはらじょう)は、
信濃?
諏訪郡
(
長野?
茅野市
茅野上原)にあった
中世
の
日本の城
(
山城
)。
支城
の
桑原城
と?せて長野?指定
史跡
「諏訪氏城跡」に指定
[1]
。
?要
[
編集
]
永明寺山
[2]
の西側にある
金毘羅山
(標高978m)の山頂と中腹の
居館
からなる
諏訪
?領家の本?であった
根小屋式山城
である
[3]
。
築城年代は定かではないが、
室町時代
の
文正
元年(
1466年
)頃、
諏訪信?
[4]
が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり
諏訪地方
を統治したと考えられている。『
守矢??
書留』によれば、上原町には堀廻りが存在し、信濃?衆の小規模
城下町
である「宿城」(
町宿
)であったと考えられている。上原城下町には
諏訪大社
上社とその別?寺である神宮寺の
門前町
を包括していた、諏訪の政治??の中心地であった
[5]
。
天文
11年(
1542年
)には、
甲斐?
の
武田晴信
(信玄)が
信濃侵攻
で
高遠??
とともに領主?
諏訪?重
を滅ぼし、
諏訪郡
は
武田氏
の領?となる。
武田氏の諏訪支配では
譜代
家老
の
板垣信方
が諏訪
郡代
として赴任するなど、
城代
をおいて諏訪を治めた。
板垣信方は武田氏の諏訪?
佐久郡
侵攻において先?隊を指揮しており、上原城配置以前から?郡における
所領
宛行
などを行っている。信方は正式には諏訪
郡司
(郡代)の立場であったが、
天文
17年(
1548年
)2月の
信濃村上氏
との
上田原の?い
において?死する。信方の死後、上原城には弟の
室住玄蕃充虎登
が派遣されるが、同年8月には
長坂虎房
(光堅)が配置される。天文18年(
1549年
)には上原城に代わり
高島城
(茶臼山城、諏訪市高島)が築城され、虎房は高島城へ移り、諏訪郡の政治的?点は高島城に移?された。
天正
10年(
1582年
)3月の
織田
?
?川
連合軍による武田領侵攻(
甲州征伐
)により武田氏は滅亡し、?城となった。上原城下町は政?移?後も存?しているが、
江?時代
には
諏訪高島城
が築城され新城下町が整備されると、上原城の町宿は移?され消滅する。
現在は主郭や
土?
?二の郭?三の郭?
曲輪
?空
堀
?
物見
石などの遺構が?されている。
?代城主
[
編集
]
城主
[
編集
]
諏訪氏時代
郡司
[
編集
]
※
武田氏
時代は郡司(郡代)を置いた。
交通アクセス
[
編集
]
脚注
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
- 丸島和洋
「??大名武田氏の領域支配と「郡司」-信濃?諏訪郡支配を事例として-」『史?』75?2?3合??、2007年
- 南原公平
『信州の城と古?場』
しなのき書房
2009年
?連文?
[
編集
]
?連項目
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]