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万葉
」はこの項目へ
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されています。九州商船が運航するフェリ?については「
万葉 (フェリ?)
」をご?ください。
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「
万葉集
」(まんようしゅう、まんにょうしゅう、
?字?
:
萬葉集
)は、
奈良時代
末期に成立したとみられる
日本
に現存する最古の
和歌集
である
[1]
。
?要
[
編集
]
万葉集の
和歌
はすべて
漢字
で書かれている(
万葉?名
を含む)
[注 1]
。
天皇
、
貴族
から
下級官人
、
防人
(
防人の歌
)、
大道芸人
、農民、東?民?(東歌)など、さまざまな
身分
の
人?
が詠んだ歌が?められており、作者不詳の
和歌
も2100首以上ある
[1]
[3]
[4]
[注 2]
。7世紀前半から
759年
(天平?字3年)までの約130年間の歌が??されており、成立は759年から
780年
(
??
11年)ごろにかけてとみられ、編纂には
大伴家持
が何らかの形で?わったとされる
[1]
。完本では
鎌倉時代
後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い
[6]
。
和歌
の原点である万葉集は、時代を超えて?み?がれながら後世の作品にも影響を?えており(一例「
?原?女の??
」)、
日本文?
における第一級の史料であるが
[1]
、
方言
による歌もいくつか??されており、さらにその中には詠み人の出身地も記?されていることから、
方言?
の資料としても重要な史料である。
日本の元?
「
令和
」は、この万葉集の「?五 梅花の歌三十二首?せて序」の一節を典?とし、記?が明確なものとしては
日本史
上初めて元?の出典が
漢籍
でなく日本の古典となった
[7]
[8]
。
成立
[
編集
]
書名の由?
[
編集
]
『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの?が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする?で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古?
仙?
や
賀茂?淵
らに支持されてきた。仙?の『万葉集註?』では、『
古今和歌集
』の「?名序」に、
- やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るため、この語?が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由?としてあてはめることには疑問もある。
そのほかにも、「末永く?えられるべき歌集」(
契沖
[9]
や
鹿持雅澄
)とする?、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする?などがある。
?究者の間で主流になっているのは、『
古事記
』の序文に「
後葉
(
)
に
流
(
)
へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く?えられるべき歌集」ととる考え方である
[
要出典
]
[
誰によって?
]
。
なお、「万葉(萬葉)」という言葉は、?時において『万葉集』以外では用いられている事例はほとんど見られず、早い事例として、
延?
25年(
大同
元年?
806年
)4月16日に
五百枝王
が
平城天皇
に?して臣籍降下と
春原朝臣
の賜姓を願い出た際の上表文に「榮宗枝於
萬葉
」という句が見られるのが?げられる(『
日本後紀
』)。なお、この五百枝王を『万葉集』を今日知られる形にした最終的な編者に充てる?があり(後述)、この上表文も五百枝王が『万葉集』の編纂及び表題決定に何らかの??をした?況??とする?究者もいる
[10]
[11]
。
編者と成立年代
[
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]
『万葉集』の成立に?しては詳しくわかっておらず、勅撰?、
橘諸兄
編纂?、
大伴家持
編纂?など古?種?の?があるが、現在では家持編纂?が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、?によって編者が異なるが、家持の手によって二十?に最終的にまとめられたとするのが妥?とされている。
『万葉集』二十?としてまとめられた年代や?ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、おおむね以下の順に?補されたと推定されている。
- ?1の前半部分(1 -53番)…
- 原?万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。
持統天皇
や
?本人麻呂
が??したことが推測されている。
- ?1の後半部分+?2?補…2?本万葉集
- 持統天皇
を「太上天皇」、
文武天皇
を「大行天皇」と表記。
元明天皇
の在位期を現在としている。
元明天皇
や
太安万侶
が??したことが推測されている。
- ?3 - ?15+?16の一部?補…15?本万葉集
- 契沖
が万葉集は?1 - 16で一度完成し、その後?17 - 20が?補されたという万葉集二度撰?を唱えて以?、この問題に?しては?多くの議論がなされてきたが、?15までしか目?が存在しない古?本(「元?校本」「尼崎本」など)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が?16と17の間で分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。
元正天皇
、市原王、
大伴家持
、
大伴坂上?女
らが??したことが推測されている。
- ???補…20?本万葉集
- 延?
2年(
783年
)ごろに
大伴家持
の手により完成したとされている。
ただし、この『万葉集』は延?2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延?4年(
785年
)、家持の死後すぐに大伴?人らによる
藤原種?
暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は
平城天皇
?位後の恩赦により家持の罪が許された延?25年(
806年
?
大同
元年)以降にようやく完成したのではないかと推測されている。『古今和歌集』?名序には「昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集」という言葉が載せられているのも、最終的な完成が家持の赦免後であったという事情を反映した記述とみられている
[12]
[13]
。ただし、その場合には家持に代わって遺稿を完成形にして公の認知を得た"編者"が存在していたことも考えられるが、その"編者"として名前が?がっているのは五百枝王(臣籍降下後は
春原五百枝
)である
[10]
[14]
[11]
。五百枝王は編纂への??が指摘される市原王の子で、藤原種?暗殺事件で家持との親交から自らも連座していること、現存の記?から確認できる「万葉」の語の初期の使用者(前述)であることが理由に?げられるが、現時点ではいずれも?況??に過ぎず、今後"編者"の存在の有無も含めて?討すべき要素が多い。
「万葉集」は平安中期より前の文?には登場しない。この理由については「延?4年の事件で家持の家財が??された。その中に家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて?本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする?
[15]
などがある。
諸本と刊本
[
編集
]
万葉集の諸本は大きく分けて、「古点本」「次点本」「新点本」に分類できる。この?分は鎌倉の?僧
仙?
によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古?次?新に分類したのである。古点とは、
天?
5年(
951年
)に
梨壺の五人
の附訓で、万葉歌の9割にあたる4000以上の歌が訓をつけられた。確?な古点本は現存していないが、
武田祐吉
や
小川靖彦
によって桂本が古点の一部を存しているという見解が示されている。ほかに
久松?一
は藍紙本も古点を?えるとの見解を示している。古点と?える資料としては、
古今和歌六帖
など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれにあたるとの見方も
山田孝雄
や
上田英夫
らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。
ともあれ、古点とは梨壺の5人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の?い時代の成果を指し、
藤原道長
、
大江佐?
、
大江匡房
、
惟宗孝言
、
源??
、
源師?
、
藤原基俊
、
藤原敦隆
、
藤原仲?
、
藤原?輔
、
藤原長忠
、
?昭
など、複?の人物が加点者として比定されている。この次点本に?す現存諸本としては、嘉??承本、元?校本、金澤本、類聚古集、廣?本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は?わらない。このうち、廣?本は
藤原定家
校訂の冷泉本定家系万葉集と認められる。
1993年
(平成5年)に
?西大?
?授の
木下正俊
?
神堀忍
に?見され、所?者である
??捨三
(元同大??授)の名をとって廣?本と?される。ただし、廣?本の?書には
甲府町年寄
の
春日昌預
(
1751年
-
1836年
、山本金右衛門)や
本居宣長
門弟の??者
萩原元克
(
1749年
-
1805年
)といった甲斐?の??者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、
賀茂?淵
の『
万葉考
』に依?した本文や訓の訂正も行われている。
新点本は
仙?
が
校訂
した諸本を指し、大きく
?元
本系統と
文永
本系統に分かれる。?元本系統の諸本は?わらないが、
上田英夫
の考?によって神宮文庫本がもっとも?元本の?態を留める本であることが確かめられている。また
橋本進吉
や
田中大士
によって、紀州本の?10までが?元本に近い本ではないかと推測されている。西本願寺本?1の?書によれば、?元本は
源?朝
本(鎌倉右大臣本)など?種の古?本を校合し、さらに仙?自身の案も加えて校訂した本とみられる。
文永本に?しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ?習院大?本、陽明文庫本など?いの諸本が多く、特に西本願寺本がもっとも多くの歌?をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。
なお、近年出現した??本万葉集については、項目を別に改めて付加して?述される必要がある。
古点本
[
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]
本節は特記以外は『日本古典文?大?典』岩波書店、「万葉集」の項目(執筆者は
林勉
)による。
桂本
[
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]
皇室御物。
平安時代
中期の書?と推定されており、現存する最古の?本である。?4の3分の1ほどの109首を?める1?のほかに、
?簡
(
?尾切
ともいう)が66首と37首分の目?が?る。
源兼行
筆とされるが、ほかに
紀貫之
、
源順
、
藤原行成
、
源俊房
とする?がある。次点の影響が少なく、古点本の面影を?している。花鳥草木を描いたきわめて美しい
?色紙
が使われ、紙背?目の
花押
から
伏見天皇
の御物といわれる。その後、
前田利家
室
芳春院
の所有となり、子の
利常
が
桂宮家
に?上した。名はこれによる。
1881年
(
明治
14年)、桂宮家?絶により皇室に入った。?簡は
石川武美記念?書館
、
五島美術館
、
出光美術館
、
梅?記念館
ほか諸家が所?している。
金砂子切
[
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]
平安時代後期の書?で桂本の類である。?13の8葉13首のみが現存する。長歌には訓がない。
金砂子
を散らした
鳥の子紙
に書かれており、この名がある。
醍?寺
、石川武美記念?書館等が所?している。
嘉??承本
[
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]
1328年
(
嘉?
3年)に
?充
から
慶俊
に相?した識語があり、この名がある。鳥の子紙で、
綴葉?
である。?11の大部分の472首が1帖に?められている。
定家?名遣い
で次点期を?ているが、『
拾遺集
』所?の万葉歌と一致し、古点を?えている。松坂高尾家??で、本居、松本、中山、佐佐木家から
文化?
を?て、現在は
?立?史民俗博物館
が所?している。また?11の欠落部分の模??簡7首が民間にある。
次点本
[
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]
藍紙本
[
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]
平安時代中期ないし後期の書?で、
藤原伊房
の筆とされるが
藤原公任
?などもある。薄藍色の?紙に
銀砂子
を散らした料紙に書かれていることからその名がある。?9の5分の4ほどの110首と111首分の目?からなる1?が現存する。そのほかに
- ?1の2首
- ?9の23首
- ?10の4首
- ?18の27首
の?簡が?る。次節に述べる元?校本と同系統である。
?津
松平、原、中村家を?て、現在は
京都?立博物館
[16]
が所?している。?簡は
日本?士院
、石川武美記念?書館、
京都?立博物館
、
逸翁美術館
、
五島美術館
、
?川美術館
、
書芸文化院
などが所?している。
元?校本
[
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]
1184年
(
元?
元年)に校合したとの?書がある。平安時代中期ないし後期の?筆の寄合書きである。うち、?17、18は同筆であり、?6は鎌倉時代初期の補?と考えられている。?3、5、8、11、15、16を除く14?、計2617首と2129首分の目?が現存する。そのほかに?簡(
難波切
ないし
有栖川切
ともいう)は?3、5、8、9、13、15、16を除く13?148首と目?201首分が?っている。すなわち15?にわたる、全歌?の6割以上が現存している次点本では貴重な?本である。藍と紫の
飛雲形
文を??んだ鳥の子紙の(補?である?6は飛雲形を欠く)
粘葉?
である。?、?、赤、朱の書き入れがあり、万葉集の本文校訂上最重要である。
減じて江?時代初期には15冊に、さらに14冊になった。?1、4、6、10、12、19の6冊の各一部を分けて
有栖川宮家
から
高松宮家
に移り、?る大部分は伊勢富山家、神?俵屋から、
天保
初期に桑名松平家、
1843年
(天保14年)に
水野忠邦
、
1911年
(
明治
44年)に古河家に移ったあと、ともに
文化財保護委員?
の所?となった。高松宮家??の6冊、古河家??の14冊とも、現在は
東京?立博物館
所?
[17]
。?簡は
仁和寺
、
宮??侍?職
、
東山御文庫
、
常盤山文庫
、
國學院大學
?書館、
石水博物館
、
白鶴美術館
、
MOA美術館
などが所?している。
荒木田久老
、
加藤千蔭
、
橋本?亮
、
鹿持雅澄
らが校訂に使用した。
金?本
[
編集
]
三の丸??館
所?
[18]
。
藤原定信
筆とされるが、
源俊?
、
藤原公任
?もある。粘葉?、1帖。胡粉引きの白を主として、ほかに薄茶、??、?の色に、金銀切箔を散らし、
雲母
による菱唐草や?甲などの文?を雲母刷りした唐紙を料紙とする。?2の約5分の4の129首および150首分の目?と、?4の約4分の1の79首をあわせ1帖とする。そのほかに?3、4、6の24首と76首分の目?の?簡が現存する。本文と訓は元?校本?紀州本にもっとも近い。
金?前田家
??による名?。
1910年
(
明治
43年)に前田家から
皇室
に?上された。?簡は逸翁美術館等が所?している。また古筆手鑑『
筆林翠露
』に?められている。
天治本
[
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]
1124年
(
天治
元年)に書?との?書があり、名?はこれに由?する。これは万葉集最古の書?記?であり、後述の?2?簡は
1129年
(
大治
4年)の書?。?13の完本と?15の58首の1?および
- ?2の6首
- ?10の42首
- ?14の10首
- ?15の25首
の?簡(
仁和寺切
ともいう)が現存する。檀紙の?子本で墨罫があり、寄合書だが?14と?15は同筆である。忠兼本を書?した本で、仙?本底本系統である。福井家と
賀川冠纓神社
[19]
の所?。?簡は、加藤、熊?、角田、?瀉、武田、岡村、池上、久曾神家および
東京?立博物館
、京都?立博物館、天理?書館、石川武美記念?書館、
岡山美術館
、五島美術館などが所?している。
1845年
(
弘化
2年)に
伴信友
が京都
曼殊院
所?の零本5?(現存しない)を影?して『
?天治万葉集
』を作成して
- ?2の9首
- ?10の4首
- ?14の10首
- ?15の11首
- ?17の4首
が?っている。したがって?計306首が現存する。こちらは京都大?所?である。
?壬生隆祐筆本
[
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]
鎌倉時代中期の書?。書?者の?承による名?だが、確?はない。もと冊子本を?子本にしており、?9の前半85首を3?にしたものと後寄りの4首の?簡が現存する。天治本と同系で、仙?本底本系統である。四日市高尾家??で、佐佐木家を?て石川武美記念?書館が所?している。
尼崎本
[
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]
平安時代末期の書?。雲母引斐紙の料紙で綴葉?。?16の全1帖(1枚を欠く)101首と、?12の61首の?簡、11首の模?が現存する。天治本系で、仙?本底本系統であり、『類聚古集』に近い。?簡が尼崎から出たことによる名?。倉敷某家から京都大?が所?している。?簡は池上、?井、反町、渡?、酒井、?瀉、田中、?坂家および
円照寺
、
京都女子大?
、天理?書館、石川武美記念?書館、白鶴美術館、出光美術館などが所?している。模?は東洋文庫が所?。古筆手鑑「桃花水」「心?帖」「鸞鳳帖」「筆鑑」「筆林」に所?されている。
?冷泉??筆本
[
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]
半紙形袋綴1冊で、?1のほぼすべて83首を記載する。ただし目?には後の補校合がある。訓はカタカナで、長歌は本文右に、短歌は左別行に記している。江?時代初期の
冷泉??
筆と?えられるが、カナに古?があり室町時代の書?と考えられている。尾張久米家、阪家、佐佐木家を?て、石川武美記念?書館が所?している。
春日本
[
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]
鎌倉時代中期の
1243年
(
?元
元年)と翌年に
春日神社
若宮の神官
中臣祐定
が書?したとの?書があり、名?はこれによる。多くが春日若宮神官の和歌?紙の裏側使用の?簡なので
春日?紙切
ともいう。もとは袋綴。
- ?5の24首と書翰2
- ?6の37首と目?30首分
- ?7の100首と目?217首分
- ?8の54首と目?38首分
- ?9の8首
- ?10の15首
- ?13の14首
- ?14の37首
- ?19の16首
- ?20の77首
の合計382首と目?285首分と書翰2以上が現存する。
?紙の和歌を鑑賞のため万葉歌を削っているので判?が困難なものが多?ある。本文の右にカタカナで訓をつけるが、仙?以前の次点本である。前田家??だが明治初期に諸家に分散して、松岡、??、福井、吉永、谷村、八木家および
?照坊
、國學院大學?書館、石川武美記念?書館、
ハ?バ?ド大?
フォッグ美術館
、
石川?立?土資料館
などが所?している。
紀州本(神田本)
[
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]
全?20?の前半?10までが次点本。鎌倉時代末期の寄合書きである。ただし?7が2首を欠き、?10で1首が重出する。鳥の子紙、元?粘葉本を綴本に改?している。訓をカタカナで漢字の右側に付すが、新点の訓が左側などに加えられている。?10の?書から
藤原忠兼
→
源光行
→
行遠
系統の本と見られるが、天治本とは必ずしも合致しない。後半?11以降は室町時代後期、
1542年
(
天文
11年)以前の文永三年本系新点本による補?である。後藤家を?て公益財?法人後藤報恩?
昭和美術館
が所?している。水??川家の『四点万葉』に校合し、契沖の『万葉代匠記』にも引用されている。
『類聚古集』
[
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]
歌?や題材により歌を分類している。平安時代末期の書?。3834首が現存する。中山家、大谷家を?て、
龍谷大?
が所?している
[20]
。
『古葉略類聚?』
[
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]
これも歌?や題材により歌を分類している。
1250年
(
建長
2年)の書?で、1934首が現存する。奈良
興福院
と石川武美記念?書館が所?している。
その他の?簡類
[
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]
- ?俊?筆切
- 鎌倉時代の書?。?1の2葉2首のみだが、本文、訓とも元?校本に近い。竹田家の所?。
- 定家?切
- 鎌倉時代末期から室町時代初期の書?。?1の1葉3首のみ。書風による名?。??本と同系統である。滋賀
正?庵
の所?。
橋本?亮
影?で知られる。
- 橋本?亮影?中臣祐春筆切
- ?19の1葉3首のみ。春日本中臣祐春祐春の影?で、?葉家の所?。
- 後京極?切
- 鎌倉時代の書?。?7の4葉8首。元?は冊子本であった。訓はカタカナで本?は本文の右に付すが、のちの補筆では左に付す。系統不明ながら次点本で、紀州本や『類聚古集』に近い。後京極?政
藤原良?
の書風による名?。佐佐木家を?て、石川武美記念?書館ならびにハ?バ?ド大?フォッグ美術館の所?。
- ?解?上人筆切
- 鎌倉時代初期の書?。?9の1葉2首と?10の1葉4首。素紙、六半形本にカタカナ傍訓で、二?院御本と?係がある。『
古筆名葉集
』による名?だが、書風から
?家?切
とも呼ばれる。佐佐木家を?て石川武美記念?書館の所?、および小西家の所?。
- ??家筆切
- 鎌倉時代の書?。?3の1葉3首のみ。カタカナ傍訓で、紀州本、細井本と一致するものがある。
弘誓院?家
の書?との?承による名?。加藤家を?て伊東家手鑑所?。
- 橋本?亮影?無名氏筆切
- 鎌倉時代の書?。?10の1葉4首のみ。カタカナ傍訓で、『類聚古集』の訓に近い。冒頭の記載による名?。?葉家の所?。
- ??家筆切
- 鎌倉時代中期の書?か。?1の1葉3首のみ。斐楮交ぜ?き紙を用い、傍訓をひらがなで書いている。箱書による名?。
天理?書館
の所?。
- ?枝切
- 鎌倉時代末期から南北朝時代初期の書?。?3の1葉2首のみ。楮紙で、元?は?子本か。傍訓は古?のカタカナで京大本赤訓に近い。詞句による名?。佐佐木家を?て石川武美記念?書館の所?。
- 『万葉集目?』
- 平安時代後期の書?。?16の1葉5行のみ。鳥の子紙に書かれる。近衛家の所?。元?は全?分あったと考えられるが、?存していた2?2葉は
?東大震災
で?失し、1葉だけが?った。原本の影?本が『万葉集叢書10』所?である。
新点本
[
編集
]
新点本ではほとんどの場合、傍訓形式で訓を本文の右側にカタカナで記している。うち文永本は古点、次点、新点のうち正しいと考えられた訓を多くの場合、色分けして右側に記している。それに?し?元本では古点、次点を右側に、新点を左側に書いている。
神宮文庫本
[
編集
]
楮紙で袋綴じ。全?20冊だが
- ?1の1葉3首
- ?2の1葉1首
- ?19末尾歌の左注以下の尾題
を欠いている。
1546年
(
天文
15年)以前の室町時代後期の書?。?元本系の現存する最古の?本である。外宮宮崎文庫を?て、現在は
神宮文庫
が所?しており、この名がある。
細井本
[
編集
]
楮紙で袋綴じ。全?20冊だが、?4の後半273首に代わって?3の後半107首が重複して書かれている。全?は江?時代初期に書?された?元本であるが、?4、5、6は室町時代末期の書?で??本と同系統の次点本である。
1797年
(
?政
9年)に
細井貞雄
が?故堂本と校合し?書を記していることから、この名がある。
木村正?
を?て、現在は
東洋文庫
が所?している。
林道春校本
[
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]
その名の通り
林道春
が江?時代前期に細井本を書?したものである。現在は
?閣文庫
が所?している。後述の版本の活字無訓本はこれを底本にしている。
?習院本
[
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]
江?時代の書?であり、基本的には?元本系だが、?5、6は次点本系である。
?習院大?
?書館所?で、この名がある。
今出河本
[
編集
]
江?時代前期の書?である。?元本系だが、?4、5、6は文永本系である。現在は
宮??書陵部
が所?している。
西本願寺本
[
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]
西本願寺本は
鎌倉時代
後期の
13世紀
末から
14世紀
初頭の書?と推定されている、20冊の冊子本である。?が約32.1センチ、?が約24.8センチの大きさで、「
大和綴
」という?丁がなされている。この?本は、
1266年
(
文永
3年)に仙?が完成させた『仙?文永三年本萬葉集』(原本は失われている)の系統に?している。仙?と親交があった
北??時
が完成後間もなく書?したものを、さらに書?したものと考えられている。さらに
鎌倉幕府
滅亡後に
足利義?
が北??時の創建になる
?名寺
に使者を遣わして貴重な書籍を?集した折に、『
尾州家河?本源氏物語
』(大きさ、?丁が酷似している)などとともに入手し、後年皇室に?上したものである。その名?は、
後奈良天皇
が本願寺第10世の
?如
に下賜して、
西本願寺
の?書となったことから、
佐佐木信綱
が命名した。
1917年
(
大正
6年)に佐佐木の手に渡ったあと、現在は佐佐木が寄贈した「
竹柏園本
」?の一点として
石川武美記念?書館
が所?している
[21]
。
田中本
[
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]
西本願寺本を書?したものである。題詞が低い。訓を?、紺?、朱に書き分けるのは文永本に準ずるが、この?本では紺?を朱、?、?に分けている。室町時代末期の書?で、各?は別人の筆になる。所?者による名?。
河野本
[
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]
1677年
(
延?
5年)に
河野公業
が西本願寺本を書?したもの。
水??川家
の四点万葉に校合し、訓を?、?、朱、黃に書き分けている。『万葉代匠記』にも
幽?本
として引用される。
彰考館
が所?している。
金?文庫本
[
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]
室町時代初期の書?だが、
飛鳥井雅世
、
尊円法親王
筆との?もある。元?大型冊子本だったものを?子本にした。?1、9、19の全歌4?(?19は二分されている)と
- ?7の10首
- ?12の84首
- ?13の18首
- ?14の3首
の?簡と?13の3首の影?が現存する。このほかに?11は?東大震災で?失したが、『校本万葉集』に校合されているのと、木村正?の『万葉集書目提要』に?4が記されている。文永三年本系であるが、?11と?19は文永十年本寂印成俊本系。題詞は低く書かれ、?7、9、11、12、13、19は訓を?、紺?、朱に書き分ける。
金?文庫
に??したことによる名?である。
?1、19は
大口?二
??で、佐佐木家を?て石川武美記念?書館が所?している。?9は馬越家の所?。?簡は、久曾神、酒井、久松、渡?、池上、藤井家および
?如堂
、
金剛?寺
、天理?書館、
奈良?立万葉文化館
、京都?立博物館、MOA美術館、
山川美術財?
などが所?。また古筆手鑑『
筆鑑
』に、影?本は東洋文庫『
万葉切
』に所?される。
陽明文庫本
[
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]
全?20冊であるが、?10の152首を欠いている。鳥の子紙で大和綴。
陽明文庫
??による名?であるが、?9に
1571年
(
元?
2年)の?書があるため
元?本
とも呼ばれる。しかし同年以後の書?である。文永十年本?直本系で、?、紺?、朱の訓が?る。?故堂本の書?の際に底本にされている。
曼殊院
から近衛家を?て、現在は
京都大?
?書館が所?している。
?故堂本
[
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]
胡蝶?
で、全20?を合本して10帖にしている。そのうち
- ?6の目?の初め28首分
- ?10の152首
- ?19の1首
を欠いており、?6は?故堂一?の東京帝?大?本から木村正?が補?したものである。文永十年?直本系の陽明文庫本を書?したが、紺?訓がなくその部分は空白が多い。木村正?から東洋文庫が所?している。
東京帝?大?本
[
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]
袋綴で、全?20冊。
光明寺?雄
等が?故堂本を書?した。東京帝?大???による名?。?東大震災で?失したが、?故堂本に欠けている部分が『
校本万葉集
』に校合されている。
大矢本
[
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]
室町時代末期、?人の筆による書?。袋綴で全?20冊であるが、
を欠いている。文永十年本寂印成俊本系で?永版本の?7の錯簡を補う資料として重要である。
大矢透
??による名?だが、元は京都木田家?で、大矢家、佐佐木家を?て石川武美記念?書館が所?している。
近衛本
[
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]
江?時代初期の書?。大型袋綴で、20冊の全本。文永十年本寂印成俊本系であるが、中院本に見られる禁裏御本?1、20の?書がある。大矢本と同系であるが、無訓歌は5首のみで書?字形も明瞭で、より善本である。近衛家陽明文庫所?で、この名がある。
京都大?本
[
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]
江?時代初期の書?。袋綴で、20冊の全本だが?19の1首を欠いている。文永十年本寂印成俊本系である。?1、2、9、13、20に禁裏御本の?書があり、全?にわたって赤で禁裏御本と校合した書き入れがある。?1の?書には古万葉集序を記す中院本のひとつで、?元本の?容を知り得る貴重な?本である。京都大??書館が所?している。
その他の諸本??簡
[
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]
- 谷森本
- 江?時代初期の書?で、袋綴。?1を欠く19冊。中院本系。題詞は低く、?3と?4に?訓がない。所?者による名?だが、?東大震災で?失した。
- 谷森氏一本
- 江?時代初期の書?で、袋綴。全20冊。中院本系。後半は谷森本を書?したもの。所?者による名?だが、?東大震災で?1と?2が?失した。
- 多和文庫本
- 江?時代の書?で、中院本系。谷森本の一?本。松岡家多和文庫所?による名?。
- ?空性法親王筆本
- 江?時代初期の書?で、中院本のひとつである。書?の?承による名?。前田家が所?。
- 岩崎文庫一本
- 江?時代初期の寄合書で、中院本系。岩崎文庫所?による名?だが、現在は東洋文庫所?。
- ?書寮一本
- 江?時代初期の書?だが各?別筆で、大型袋綴。?1、2、14を欠く17冊。文永十年本寂印成俊本系で、?、朱のほかに?5以外は?紺訓がある。?5、19、20を除き禁裏御本と校合されるが、?書はない。所?所による名?。
- ??輔筆切
- 鎌倉時代中期の書?。?10の1葉2首のみ。カタカナ傍訓で?紺訓がある。西本願寺本に近い。極書による名?。久曾神家が所?している。
- 八田切
- 鎌倉時代末期の書?で紹巴筆との?もある。?10の1葉2首のみ。歌は低く、カタカナ傍訓。神宮文庫本などに近い。歌詞による名?。佐佐木家を?て、石川武美記念?書館が所?している。
- ?氏?切
- 鎌倉時代末期の書?。雲母引きの鳥の子、四半形本の?簡。?10の1葉2首のみ。歌は低く、カタカナ傍訓。西本願寺本等に近い。書風による名?。佐佐木家を?て、石川武美記念?書館が所?している。
- ?貫之筆切
- 鎌倉時代または平安時代末期の書?。?19の1葉3首のみ。歌が低く、カタカナの傍訓に文永本の特?がある。箱書による名?。『日本の書』(講談社、1978年刊)に所?。
- 桂?切
- 室町時代の書?。?7の4葉18首、?8の4葉11首のみが現存する。文永本系で、桂本を?似た金銀泥下?があり、それによる名?。?、酒井家および東山御文庫、石川武美記念?書館、京都?立博物館などが所?している。
- ?慈?筆切
- 室町時代の書?。?3の1葉3首のみ。鳥の子で元??子本、歌が高くカタカナ傍訓で新点本系とともに推定されている。極書による名?。天理?書館が所?している。
- ???筆切
- ?4の目?1葉6首分のみ。系統は不詳。極書による名?。古筆「凌寒帖」所?。
版本
[
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]
活字無訓本
[
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]
江?時代初期の刊行であり、初めての万葉集の版本である。全?だが10冊のものと20冊のものがある。一面は8行×18字詰めで、上下左右に二重の
界線
がある。歌を高く記し、題詞と左注は1字低い。全?は?元本系だが、?4、5、6は細井本系の林道春校本に依っているため、?4の後半が欠落し、?3の後半が重出する。また、?3末尾に大伴旅人、大伴家持、藤原不比人の?が?載されている。?閣文庫、東京大??書館、
大阪府立中之島?書館
、石川武美記念?書館、
尊?閣文庫
、
大東急記念文庫
、
?久邇文庫
、
大英博物館
などに所?されている。
活字附訓本
[
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]
活字無訓本を文永十年本系の寂印成俊本(現存しない)で校合して訓をつけたもの。木版で袋綴じ、全?10冊である。江?時代初期の
慶長
(
1596年
-
1615年
)か
元和
(
1615年
-
1624年
)ごろの刊行と考えられている。なお、以下の?書が付されている。
- ?1に文永十年および三年の仙??書
- ?20に文永三年の仙??書、寂印と成俊の?書
???書館
、石川武美記念?書館、
天理?書館
、東洋文庫、宮??書陵部、東京大??書館、
大谷大?
?書館、
龍谷大?
?書館などに所?されている。
?永本
[
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]
?永版本
とも呼ばれる。江?時代初期の
1643年
(
?永
20年)の刊行で、
京都
三?寺町
安田十兵衛の刊記がある。木版で袋綴じ、全?20冊である。活字附訓本の整版本だが、若干の?補改訂が行われている。江?時代から流布本として用いられ、明治時代から?前まで各種テキストの底本とされていた。???書館などが所?している。
?永本
[
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]
1709年
(
?永
6年)の刊行であるが、?永本の刊記だけを出雲?寺和泉?のものとした。???書館などが所?している。
旁註本
[
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]
?永本の本文に
旁註
を施したものである。木版で袋綴じ、全?20冊である。
1789年
(
?政
元年)の刊行で、註は
常陸?
の
?岳
が契沖、賀茂?淵?に自?を加えて行った。出雲?寺和泉?と同文治?の刊記がある。???書館などが所?している。
『古万葉集』
[
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]
木版で袋綴じ、全?20冊である。
1803年
(
享和
3年)に和泉寺などによって刊行された。
土佐?
の
今村?
と
?田美水
が?永本に改訂を加えて本文だけを出版したもので、今村の序と?田の跋がある。?閣文庫などが所?している。
校異本
[
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]
『
校異本万葉集
』の題を持つ。木版で袋綴じ、全?20冊である。
校異
を上欄に記している。
1805年
(
文化
2年)の刊行で、出雲寺文治?の刊記がある。旁註本の註を削除して、元?校本等の橋本?亮の校異に藤原(山田)以文が再校を加えたものが?載されている。???書館などが所?している。
構成と?容
[
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]
全二十?であるが、首尾一貫した編集ではなく、何?かずつ編集されてあったものを寄せ集めてひとつの歌集にしたと考えられている。
各?は、年代順や部類別、?別などに配列されている。また、各?の歌は、何らかの部類に分けられている。
?容上から
?歌
(
)
?
相聞歌
?
挽歌
の三大部類になっている。
- ?歌
(
)
- 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌?挽歌以外の歌が?められている。公の性質を持った宮廷?係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
- 相聞歌
(
)
- 「
相聞
」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の?を詠みあう歌(人を愛する歌)である。
- 挽歌
(
)
- 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌(人の死を悼む歌)である。
表現?式からは、
- 寄物陳思
(
)
- ?の感情を自然のものに例えて表現
- 正述心?
(
)
- 感情を直接的に表現
- 詠物歌
(
)
- 季節の風物を詠む
- 譬喩歌
(
)
- 自分の思いをものに託して表現
などに分けられる。
?十四だけが
東歌
(
)
の名をもっている。この卷には、
上?
?
下?
?
常陸
?
信濃
四?の?歌、
遠江
?
駿河
?
伊豆
?
相模
?
武?
?
上?
?
下?
?
常陸
?
信濃
?
上野
?
下野
?
陸?
十二?の相聞往?歌、
遠江
?
駿河
?
相模
?
上野
?
陸?
五?の譬喩歌??の分からないものの?歌、相聞往?歌?
防人歌
?譬喩歌?挽歌???歌などが?められている。
歌?は、
短歌
?
長歌
?
旋頭歌
の3種に?別されている
[注 3]
。短い句は五音節、長い句は七音節からなる。
- 短歌は、五七五七七の五句からなるもの。
- 長歌は、十?句から二十?句までのものが普通であり、五七を長く?け、最後を特に五七七という形式で結ぶもの。長歌の後に、別に、一首か?首添える短歌は反歌と呼ばれている。
- 旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を2回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。
歌?
[
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]
歌の?は4500首あまりからなるが、
?本
の異?の本に基づく?え方が、歌?も種???の?がある。
例えば『
?歌大?
』によれば?歌?は4516首であるが、これには一首に2度番?を振るなど問題が多い。それらを整理した
武田祐吉
によると?歌?は4506首で、そのほかに「或本の歌」が57首、「一書の歌」が4首、「一本の歌」が3首、「或書の歌」が2首、「或は云はく」とある歌が3首、『
古事記
』の歌が1首の計70首であるという
[22]
。
時期?分
[
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]
歌を作った時期により4期に分けられる。
歌の作者層を見てみると、
皇族
や
貴族
から
中?下級官人
などに波及していき、作者不明の歌は畿?の
下級官人
や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで?がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周?から
京
や
畿?
、
東?
というふうに範?が時代とともに?大されていったと考えられる。
歌風と万葉?名
[
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]
「防人の歌」
(
)
「東歌」
(
)
など、
貴族
以外の民衆の歌が載っているきわめて貴重な史料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特?がある。
賀茂?淵
はこの集を評して
まこと?
ますらをぶり
と言った。
全文が
漢字
で書かれており、
漢文
の?裁をなしている。しかし、歌は、
日本語
の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とをあわせたもの、
文字
を使っていないものなどがあり多種多?である。
編纂されたころにはまだ
?名文字
は作られていなかったため、
万葉?名
と呼ばれる?特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは?係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉?名は、漢字を用いながらも、
日本人
による日本人のための最初の
文字
であったと言えよう。
ウィキクォ?トに
大伴家持
に?する引用句集があります。
- 万葉?名で書かれた大伴家持の歌
(万葉?名文)都流藝多知 伊?餘刀具倍之 伊?之?由 佐夜氣久於比? 伎?之曾乃名曾
(訓)?大刀 いよよ?ぐべし 古ゆ
?
(
)
けく負ひて ?にしその名そ(卷20-4467)
- 山上憶良、大唐に在りし時、本?を憶ひて作れる歌
(万葉?名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
(訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の
御津
(
)
の浜松 待ち?ひぬらむ(卷1-63)
特に上記の
山上憶良
の歌には「
日本
」という語句が登場する。
倭
がどのような?緯で
日本
と改められたのかは明確には解明されていないが、
山上憶良
が?加した702年の第8回
遣唐使
で、日本側は初めて?外的に倭ではなく日本の??を使用しており、上記の歌もその遣唐使の時期に詠まれたものなので、「日本」という語句の使用として古いものである。万葉?名は、
奈良時代
の終末には、字形を少し崩して、??も少ない文字が多用されるようになり、
平安時代
に至るとますますその傾向が?まり、少しでも速く、また?率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字?を省略(省?)したりするようになった。そうして「
平?名
」と「
片?名
」が創造されたのである。
現在でも万葉?名はいたるところで使用されており、難?地名とされるものには万葉?名に由?するものが多い。
影響
[
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]
『万葉集』と方言
[
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]
『万葉集』には「東風
越俗語、東風謂之安由乃可是也
」(?17?4017番)のように、?時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、?は大量の
方言
が記?されている。すなわち、?14の東歌と?20の防人歌である。
東歌は
東?
地方
[注 4]
の歌の意で、東?に?わる歌を?集し、どの?の歌か判明している歌(勘?歌。90首+5首)と不明の歌(未勘?歌。140首+3首)に二分して??している。多くの歌で
上代の東?方言
が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記?の?緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具?的な記?として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。
詠まれてから時が?ち過ぎている、知識がなかった昭和時代の文?が幅を利かせすぎているため、間違った解?もあり、その後の日本語、?史に影響している。
防人歌
は東?から?集された
防人
の詠んだ歌の意で、?13や?14にも少量見えるが、もっとも著名なのは?20に「天平勝?七?乙未二月、相替遣筑紫諸?防人等歌」として84首??されているものである。これは
天平勝?
7?(
755年
)に?集された
防人
の詠んだ歌を、防人を率いてきた各?の
部領使
(
)
に命じて記?、上進させたもので、拙劣歌として半?近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身?(?によっては郡名まで)まで逐一記されている。しかも、万葉集に採?するにあたって、?容はもちろん万葉?名表記に至るまで上進時のままで改?されていない可能性が高く、東?方言史料としての?値は東歌を凌駕するものと評?されている。
以下に東歌と防人歌から1首ずつ?げる。
- ?解けば 解けなへ紐の 我が
背
(
)
なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(?14?3483番)
- (?間解くと解けない紐が、夫に?うからというのか、夜は解けやすいことだ。)
- 比流等家波 等家奈?比毛乃 和賀西奈? 阿比?流等可毛 欲流等家也須家
- 草枕 旅の丸?の 紐絶えば
我
(
)
が手と付けろ これの
針
(
)
持
(
)
し(?20?4420番)
- (旅の丸?をして紐が切れたら、自分の手でおつけなさいよ、この針でもって。)
- 久佐麻久良 多?乃麻流?乃 比毛多要婆 安我?等都氣呂 許?乃波流母志
上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記?された東?方言には、現代の
東日本方言
と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「~なふ」や命令形語尾「~ろ」は、現代東日本方言の「~ない」「~ろ」に連なる可能性が指摘されている。また、東?方言の四段動詞と形容詞の連?形は、「立と月」「
愛
(
)
しけ
妹
(
)
」のように中央語とは異なる?特の語形を取るが、
八丈島
で話される
八丈方言
は「書こ時」「高け山」のように、上代東?方言と同?の語形をとることで知られている。日本語に方言は?あれど、このような活用を?すのは
八丈方言
など少?である。
日本古?の物語の原型?
[
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]
万葉集は『
竹取物語
』や『
浦島太?
』などの古典文?へ影響を及ぼしているとする?があり、?16「由?ある?歌」には竹取翁と天女が登場する長歌があり、?容は竹取翁の「別?」的なもので異なる?容ではあるが、『竹取物語』(かぐや?物語)の源流のひとつととらえられるものとして?連が指摘されている
[23]
。?9の
高橋?麻呂
作の長歌に『浦島太?』の原型とも解?できる?容の「浦島??」が歌われている
[1]
。ただ、「浦島??」は
日本書紀
の雄略記でも、捕らえた大?が女に?り、妻にして
蓬萊山
に行く?容のものがある
[1]
。
万葉集の「
?原?女の??
」は、『
大和物語
』の「生田川??」や、?曲『求塚』、
森鷗外
の『
生田川
』に?案されている
[1]
。また、『
源氏物語
』でも、
宇治川
に身投げする
浮舟
(
?
と
?宮
の2人の男性に愛される女性)が登場している
[1]
。
元?(令和)
[
編集
]
明仁天皇
?位
による改元で
2019年
4月1日午前11時41分に
?閣官房長官
?
菅義偉
が記者?見を執り行って?表され、
皇太子?仁親王
の
?祚
にともなって同年5月1日から施行される元?「
令和
」の典?となった。「
?五 梅花の歌三十二首?せて序
」の「初春の
令
月にして、?淑く風
和
ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は?後の香を?らす」から引用した
[7]
。これまで日本の元?の出典は
漢籍
であったが、初めて日本の古典からの出典となった。
?閣?理大臣
?
安倍晋三
は元??表にともなって開いた記者?見にて、新元?について「人?が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように、日本人が明日への希望を?かせる」という思いを?めたものであることを語った
[24]
。
「令和」の典?となった「?五 梅花の歌三十二首?せて序」は、
天平
2年(
730年
)の正月13日に、
大宰帥
の
大伴旅人
邸の梅園に
山上憶良
や下僚ら約30人が集まり催された「
梅花の宴
」の宴席で詠まれた32首(また後日6首が唱和された)の序文である
[1]
。現代?では、「…時は良き新春正月、外?は快く風は和らいで、梅は佳人の鏡台の白粉のように白く?き、蘭は香袋のように香っている。…」という意味である
[1]
。花を愛で、
?
や
桃
、
菊
などの花びらを杯に浮べ?むことは、長?祈願の習わしであったが、万葉?時の花見は、桃や梅などの中???の花を見るのが一般的であったという
[1]
。
諸点
[
編集
]
?頭と?末の歌
[
編集
]
『万葉集』は全?で20?であるが、その?頭の歌が
雄略天皇
の歌で始まり、
大伴家持
の歌で締めくくられている。
奈良時代
の人?においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。
大泊?稚武
(
)
天皇の
御製歌
(
)
- 籠
(
)
よ み
籠
(
)
持ち
掘串
(
)
もよ み
掘串
(
)
持ち この
岳
(
)
に
菜摘
(
)
ます
?
(
)
家告
(
)
らせ
名告
(
)
らさね そらみつ
大和
(
)
の?は おしなべて われこそ
居
(
)
れ しきなべて われこそ
座
(
)
せ われにこそは
告
(
)
らめ 家をも名をも(?1?1番)
- ?毛與 美?母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳? 菜採須兒 家告閑 名告紗根 ?見津 山跡乃國者 押奈?手 吾許?居 師吉名倍手 吾己?座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
- ?末
新
(
)
しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや
重
(
)
け
吉事
(
)
捕鯨
[
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]
万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、おもに
鯨類
を指す。そして「いさなとり」は、
捕鯨
を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。
- ? 二
- 「いさな取り」 淡海の海を 沖さけて こぎくる船 ?附きて こぎ?る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ
- ? 三
- 越の海の 角鹿の浜ゆ 大船の ?楫貫きおろし 「いさなとり」 海路に出でて
- ? 六
- やすみしし わが大君の あり通ふ 難波の宮は 「いさなとり」 海片附きて 玉拾ふ 浜?を近み 朝羽振る 波の
音
(
)
さわき 夕なぎに 櫂の
?
(
)
聞ゆ あかときの ??めに聞けば
海若
(
)
の
潮干
(
)
のむた
浦渚
(
)
には 千鳥妻呼び 芦?には
鶴
(
)
が
音
(
)
響
(
)
む 視る人の 語りにすれば 聞く人の 見まくり
欲
(
)
りする
御食
(
)
向かふ 味原の宮は 見れども飽かぬかも
- 第 一六
- 「鯨魚取り」 海や死する 山や死する 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ
[注 5]
外?語との?係
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]
1950年代
には
安田?太?
が『万葉集の謎』において
日本語
の祖語は
インド北部
レプチャ語
であるとし、万葉集はレプチャ語で?めると主張していた
[25]
。
また、
1980年代
には「『万葉集』の言葉は
古代朝鮮語
と?係があり、それによって解?できる」という意見が出され、一連の著作が
ベストセラ?
になったことがある。背景としては、日本の古代文化を
朝鮮半島
由?とする
韓?特有の民族主義
(
朴炳植
、
李寧?
[注 6]
など)があり、それに同調する日本人(
藤村由加
など)の言?が存在している。しかし、?時から一部の
日本語?
の?究者の手によって反論と批判
[26]
[27]
がなされており、一連の著作は「
トンデモ本
」と認定された
[28]
。
こうした外?語との?係は
金田一春彦
も「万葉集の謎は英語でも解ける」と批判している
[29]
。
?究史
[
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]
近世には?芸文化の興隆から万葉集?究を行う??者が現れ、
契沖
、
荷田春?
、
賀茂?淵
、
加藤千蔭
、
田安宗武
、
鹿持雅澄
、
長??幸
、
本居宣長
らが万葉集?究を展開した。
近現代には
?語
や
?文?
の?点から万葉?究が行われ、
?藤茂吉
、
折口信夫
[注 7]
、
佐佐木信綱
、
土屋文明
(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、
澤瀉久孝
、
武田祐吉
、
五味智英
、
犬養孝
、
伊藤博
、
?岡耕二
、
?木生子
、
阿蘇瑞枝
、
橋本達雄
、
中西進
、
多田一臣
、
森朝男
、
古橋信孝
、
身崎壽
、
坂本信幸
、
神野志隆光
、
佐竹昭?
、
曾倉岑
、
?藤明
、
梶川信行
、
上野誠
、
小川靖彦
、
鴻??雄
、
?野昌弘
、
藤井貞和
、
品田?一
、
三浦佑之
らにより万葉集について?究されている。外?語への??としては
ケネス?ヤスダ
による英語?がある。
仙?
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仙?は
1203年
(
建仁
3年)、
常陸?
の生まれで、7?ごろに万葉集の?究を志したという。40?のころには
鎌倉
に住み、
鎌倉?軍
九???
の知遇を得ていた。
1243年
(?元元年)、??が歌人で源氏物語?者の
源親行
に万葉集の校訂を下命した。仙?は
1245年
(?元3年)か
1246年
(?元4年)にこの校訂作業に加わり、親行が書?した?本を底本としてほかの6種類の?本と校合を行って、
1247年
(?元5年)2月に完成させた。これが「仙??元本萬葉集」ないし「?元本」と呼ばれているものである。ただし、後述の文永本とも仙?の校訂本の原本は散佚している。
?元本は「傍訓形式」をとっている。すなわち、歌の漢字本文の傍らにカタカナで訓、つまり?み下し文を書き入れた。同時に仙?は万葉集の歌のすべてに訓を施し、
1253年
(
建長
5年)に新たに訓を施した152首を記した書と、万葉集の用字について論じた「奏??」の二書を
後嵯峨院
に?上している。
この?で仙?は、後嵯峨院とその子息の鎌倉?軍
宗尊親王
らの支援を受けることになり、さらに5種類の?本の??が可能になった。そこで、
1261年
(
弘長
元年)に今回は仙???で万葉集の校訂作業を再開した。
この校訂で
1265年
(文永2年)9月に完成したのが「仙?文永二年本萬葉集」で、ただちに宗尊親王に?上された。また、翌年8月に新たな?本を完成させた、これが西本願寺本の祖本である「文永三年本」である。その後も校訂を?け、文永十年本の系統の?本が?っている。
万葉集?究者は文永三年本とその後の校訂本をあわせて「文永本」と呼んでいる。文永本の大きな特?は傍訓の色分けである。??の訓は?、仙?が改めた訓は紺?、新たに施した訓は朱で記されている
[21]
。
万葉集に由?する名前
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]
脚注
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]
注?
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]
出典
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]
?考文?
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]
?連文?
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]
文?情報
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]
- 大久保正,「
古代萬葉集?究史稿
」『北海道大?文?部紀要』 9? p.91-105, 1961.3.20
?連項目
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]
外部リンク
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]
ウィキメディア?コモンズには、
万葉集
に?連するカテゴリがあります。
ウィキクォ?トに
万葉集
に?する引用句集があります。