ミマ?ル?スィナン

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1566年のスレイマン1世廟の建築風景を描いた??に描き?まれたスィナンと思しき人物(左端)。(1579年に制作された 細密?
署名

ミマ?ル?スィナン (Mimar Sinan, 1489年-1588年 [1] )は、盛期 オスマン帝? 建築家 土木技術者 [2] 。1490年前後に アナトリア半島 カイセリ 近郊で生まれ、 1588年 7月17日 イスタンブル で亡くなった [2] 。スィナン(シナン)が名前でミマ?ルは建築家を意味するアラビア語由?の言葉であるため、ミマ?ル?スィナンは「建築家スィナン」を意味する。

キリスト?徒 石工 の家に生まれ、 デヴシルメ で?用されて イェニチェリ (常備軍?兵)の 工兵 になった。一介の士官からあっという間に階級を上げ、軍?長にまでなった [3] [4] :96-102 セリム1世 スレイマン1世 セリム2世 ムラト3世 というオスマン帝?最盛期を代表する4代の スルタ?ン に仕え、軍?は50年近くに及ぶ。遠征で赴いた土地は、西は バルカン半島 東は メソポタミア までに及び、各地の建造物を?見した。

前線に出ている間に 土木工? に?する??的??を積み、 道路 橋梁 水路 といった インフラストラクチャ? の構築を含む、あらゆる種類の 要塞 建築のエキスパ?トとなった [5] 。50?ごろ帝室造?局長(ハッサ?ミ?マ?リ?バシュ)に任命され、軍で培った技術的スキルを良質な宗?施設を創造することに用いることを求められた [5] 。帝室モスクの代表作は、イスタンブルの シェフザ?デ?ジャ?ミイ 英語版 スレイマニエ?ジャ?ミイ 、そして、スィナン自身が自身の最高傑作と認めた エディルネ セリミ?エ?ジャ?ミイ が?げられる [4] :96-102

前半生 [ 編集 ]

サ?イ??ムスタファ?チェレビ?が晩年のスィナンから聞き取って筆記したスィナンの自?の一つ「建築家たちの贈り物(Tu?fetu?l-Mi?m?rin)」の?本4頁目の7-8行目。 Sin?n bin ?Abdu?l-Menn?n ... ?Abdull?h o?lı と書かれていることからスィナンの父親はキリスト?徒でスィナン自身は改宗したムスリムであることがわかる。

ミマ?ル?スィナンは、??を省略しない場合、コジャ?ミ?マ?ル?スィナ?ン?ア?ガ?( オスマントルコ語 : ???? ????? ???? ??? ‎, ラテン文字?? : ?oca Mi‘m?r Sin?n ??? )という [6] [注? 1] 。また、ユ?スフ?スィナン?ビン?アブドュルメンナンという ムスリム としての個人名を持っていたことが自?等により推定される [7]

スィナンは晩年に、友人の文人 サ?イ??ムスタファ?チェレビ? トルコ語版 に自分の若いころやイエニチェリになってからの仕事について詳細に語り、これを書き取らせて5つの自?的回顧?を?した [8] 。これらの自?に基づいて、スィナンは1490年頃に生まれたと推定されている [2] 。ただし、1494年から1499年までの間と推定する?もある(トルコの建築家 Reha Gunayなど) [9] 。出身地は アナトリア半島 カイセリ の近くにある ア?ルナス 英語版 という小さな町である(と セリム2世 により明言されている) [10]

トプカプ宮殿 の?書館には、ムスタファ?チェレビ?自筆のスィナンの生涯に?するテキストが、短いが3種類(無題のテキスト、『建築における最高傑作』、『建築の書』)?わっている [9] 。これらの古?本の中で、スィナンは父を「アブドュルメンナン( Abdulmennan )」とだけ呼んでいる。アブドュルメンナンは文字通りには「 ?大で慈悲深きお方 のしもべ」を意味し、匿名に近い。これはキリスト?徒など、非ムスリムであることを暗に示しているので、スィナンがイエニチェリに入隊した??を持つことなどに基づくと、スィナンの父はキリスト?徒であったことは間違いない [2] [9] 。スィナンは父の仕事を手?いながら成長し、イエニチェリに?用されるまでには建築の?際的な事柄に?して十分な基礎知識を有していたとみられる [2]

軍? [ 編集 ]

スィナン自身が、イスタンブルの上水施設、クルクチェシュメ水道のために描いたスケッチ

16世紀頃のオスマン帝?には、非ムスリムの子弟をイスタンブルに?用し、 イスラ?ム に改宗させた上で常備軍?兵、 イェニチェリ の士官( acemio?lan )になるべく訓練を受けさせる、 デヴシルメ という制度があった [10] 。スィナンは1512年に、このデヴシルメ制に基づきオスマン帝?軍に?用された [10] [11] 。しかし、 エンデル?ン?校 という トプカプ宮殿 に付?した士官養成のための寄宿?校へ入寮するには年?が高すぎたため、その代わりに予備校に送られた [10] 。いくつかの史料では、彼が大宰相 パルガル?イブラヒム?パシャ に見習いとして仕えたとしている。そしておそらくは「スィナン」というイスラ?ム?徒の名前を?受したのもイブラヒム?パシャの下でのことであろう。スィナンは?初、大工仕事と??を習っていたが、資質とやる?を見?まれてすぐに棟梁の補佐に取り立てられ、建築家としての修行を積むこととなった [10]

スィナンは1518年頃まで6年間を士官見習いとして過ごした。その後スィナンは、 セリム1世 の最後の外征となった ロドス島 侵攻と、その2年後、 スレイマン1世 によるベオグラ?ド攻略?に?軍した。ハンガリ?侵攻にも?軍し、 モハ?チの?い においては近衛騎兵の一員として?場にいた。スィナンは近衛隊の隊長に昇進し、士官候補生からなる?兵隊の指揮を任された。また、のちにオ?ストリアでの駐屯を命じられ、第62ライフル銃オルタ [注? 2] を率いた [10] 。また、スィナンは建築家として、構造物が射?を受けた際の弱点を探究するうちに弓の扱いをマスタ?してしまった。

1535年には バグダ?ド 方面への遠征に近衛兵の指揮官として?軍、1537年には コルフ島 アプリア モルダヴィア への遠征にそれぞれ赴いた [12] 。東?への遠征において、スィナンは ドナウ川 を渡る橋など、防御施設や橋梁の建設、キリスト??のモスクへの用途?更などを支援した。1535年の サファヴィ?朝 イランへの遠征時には、軍兵や砲兵が ヴァン湖 を渡るための船を建造した。これのため、スルタンの近衛隊における隊長の地位、ハセキイ?を?受した。ハセキイ?はイェニチェリにおけるア?ガ?に相?する階級である。

1539年に新しく大宰相になったチェレビ??リュトフィ??パシャは、以前に自分の指揮下にいたことのあるスィナンを、適切な住宅建築を供給するための役所の長官に任命した。これがスィナンの偉大な業績の第一?となった。この仕事には、道路、水路、橋梁といった 社?資本 建設はもとよりオスマン帝??の物資の流れを監督することも求められた。スィナンは何年もかけて、自らに?限を?えられた役所を、上位にある省よりも大きな?力を持った精緻な行政組織に作り?えた。そして、見習いや徒弟も含む建築家集?全?の長になった。

スィナンの建築 [ 編集 ]

工兵部隊において培われた??は、スィナンが建築に?して、理論的なアプロ?チをとるよりも、??的なアプロ?チをとることに役立った。さまざまな資料に基づくと、スィナンが建築した建物は、少なくとも、 モスク 92箇所、 マスジド 52箇所、 マドラサ 55箇所、 ダリュクッラ (クルア?ン?校、darulkurra)7箇所、墓廟(turbe)20箇所、 イマレット (公共の?房、imaret)17箇所、 ダリュッシファ (病院、daru??ifa)、公共水道6箇所、橋10箇所、 キャラヴァンサライ 20箇所、宮殿36箇所、地下??堂8箇所、 トルコ式公共浴場 48箇所の、合計374の建築物にのぼる [13] 。オスマン帝?のすべての建築事業を監督する役目を?う帝室造?局長(ハッサ?ミ?マ?リ?バシュ)を、スィナンは50年間近く務め、何人もの設計者や熟練した建築技術者のアシスタントを含んだ大きなチ?ムで仕事を進めた。

スィナンは自?で自らの仕事を3つの時期に分けて?明している。 シェフザ?デ?ジャ?ミイ 英語版 を建てるまでが「徒弟の時代」、 スレイマニエ?ジャ?ミイ を建てるまでが「職人の時代」、 セリミ?エ?ジャ?ミイ を建てるに至った以後が「親方の時代」である。

?論 [ 編集 ]

ド?ム建築を建てるにあたって、まだ?け出しのころは?統を墨守せざるをえなかったスィナンであったが、軍隊で工兵として??を積んだ後は理屈ではなく??的な?点から建築にアプロ?チすることができるようになった。設計や工法において新しい試みをする場合はド?ムが一つの建築でまずそれを試し、その後で複?のド?ム構造を持つものにも適用した。スィナンはモスクの構造と意匠に幾何?的純?さと機能性、空間的統合を得ようとした。そのすべての試みにおいて彼は想像性を?揮し、明?で統一化された空間を作り出すことを願った。そこでスィナンは半ド?ム、柱、立ち壁、側廊といったド?ムを取り?む要素の多種多?な組み合わせを試しながら一連のド?ム建築を?展させていった。スィナンが設計したド?ムやア?チは言うまでもなく曲線を描いているが、その他の要素においては極力曲線を避けている。ド?ムの円形は?から外へ行くにしたがって、四角形や六角形、八角形を基本とした形?に?形していく。下部の円筒?の空間に側壁がない主ド?ムを頂点とし、それに連なる?ド?ムにより構成されるピラミッド型の外?と、この主ド?ムが高さ方向に空間をまとめあげた結果得られた全一的?部空間との間には、幾何?的な調和が目指された。この空間の組織化にこそスィナンの?骨頂があり、設計により生み出される張りつめた印象が融解するところに彼の才能が?揮された。?飾の利用方法にも革新をもたらし、全?的に?飾が建築要素の中に入るようにした。主ド?ムの下に空間に、たくさん設けられた窓から燦?と外光が降り注ぐように設計することで、求心性を?調した。また、モスクを キュッリエ という複合施設の中に組み入れることによって、コミュニティの人?の?びの場として、あるいは、衛生上の問題を解決する場所として機能するように設計した。 シェフザ?デ?ジャ?ミイはスィナンがはじめて建てた大モスクである。同年に完成したミフリマ?フ?スルタン?ジャ?ミイ [注? 3] は、3つの副ド?ムにより主ド?ムが支えられるという?自の設計がなされている。スィナンの?が70に?いたころ、彼はスレイマニエ?ジャ?ミイを中心とした建築複合?の設計及び建築を完成させた。スレイマン1世の名前が冠されたこの建物は、金角?を望むイスタンブルの丘の上に位置し、この時代を象?する記念碑のひとつである。スレイマニエ?ジャ?ミイのド?ムの直?は、スィナンが80?頃のときに完成させたセリミ?エ?ジャ?ミイの31メ?トルよりも大きく、スィナンの到達した技術的水準の高さを最もよく表す好例である。セリミ?エ?ジャ?ミイの設計、建築、タイル?飾、床石の精緻な配置には、彼の芸術性が頂点に達したことが見て取れる。

スィナンが特?的な設計を行ったもうひとつの建築分野が、墓廟建築である。シェフザ?デ?メフメト廟は、外構の?飾と、?に割ったように切り取られた形?のド?ムの見事さとで有名である [ 要?明 ] 。リュステム?パシャ廟は、古典?式の非常に魅力的な構造を有している。スレイマン1世廟は、八角形の??に平らなド?ムという興味深い??作である。正方形のプランを持つセリム2世廟は、トルコ墓廟建築の特?を最もよく表す好例である。スィナン自身の?廟は、スレイマニエ?ジャ?ミイの複合的建築群の北東に置かれ、非常に簡素なつくりである。

ビュユクチェクメジェ湖 英語版 のカ?ヌ?ニ??スルタン?スレイマン橋

橋梁建築においてもスィナンは熟練の手際で機能主義と芸術とを調和させた。最長の作品は、 マルマラ海 に開いた ビュユクチェクメジェ湖 英語版 の入口に架けた全長約635メ?トルのものである。その他に重要な橋梁作品としては、 シリヴリ 英語版 にある31個のア?チを持つスレイマン大帝橋、 スヴィ?レングラ?ド 英語版 ムスタファ?パシャ橋 英語版 リュレブルガズ 英語版 にあるリュレブルガズ川に架けた橋、 エルゲネ川 英語版 に架けたスィナンル橋、 ドリナ川 に架けた ヴィシェグラ?ド ソコッル?メフメト?パシャ橋 [14] [注? 4] がある。

スィナンはイスタンブルの水道設備を保守?改善する傍ら、いくつかの都市で ア?チ を持つ上水道の建築を行った。 アリベイ川 トルコ語版 の上方35メ?トルを立?交差して跨ぎ、257メ?トルの長さを持つ マグロヴァ疎水 英語版 は、2段ア?チを持つ構造であり、彼の水道建築の特?をよく表している。

スィナンが建築事業に取り組み始めたとき、オスマン帝?の建築は高い有用性があることが求められた。?存の類型を繰り返しなぞり、型にはまった設計を基礎としていた、このころのオスマン建築は、全?を通して見た理念のようなものはなく、部分部分の?なる寄せ集めに過ぎなかった。新規なアイデアが避けられていたから、新しい建物に?して新しい設計を構想する建築家はいたかもしれないし、アシスタントや現場の人間は何をするべきかわかっていた。さらに、建築家たちは自分たちの設計が失敗しないように念には念を入れたため、材料と??力の使い方に非常に大きな無?を生む結果となっていた。スィナンはこれらすべてをゆっくりと時間をかけて?革していった。確立された建築方法に?革をもたらしたそのやり方は、?統に新規な改善を加えることによってその?統を?大し、また?形することによって、その?統を完成へと導こうとするものであった。

「徒弟の時代」 [ 編集 ]

トリカラ クルス?ム?ジャ?ミイ 英語版 ギリシア語版

この時期のスィナンの建築は、オスマン建築の?統的なパタ?ンをなぞってはいたが、次第に他の可能性を探索し始めていた。その理由は、彼が軍?を重ねる中で、ヨ?ロッパや中東の新たに占領した町にあった建築上の重要性のある建物を?究する機?を得ていたからである。

1530年代半ば、スィナンは重要な建物を設計する機?をはじめて得た。シリアのアレッポに建てたヒュスレヴ?パシャ?ジャ?ミイ(フスルウィ?ヤ?モスク)とそれに付?する2棟のマドラサである。ヒュスレヴ?パシャ?ジャ?ミイは、スィナンの上役でアレッポのスルタンであった人物のために、2つの大きな遠征の合間を縫って、1536年から1537年の冬の時期に建設された。建築をひどく急いだ痕跡が、つくりの粗末さや、ぞんざいな?飾に見て取れる。

シェフザ?デ?ジャ?ミイ

帝室造?局の建築家として最初にうけた主要な依?は、スレイマン1世の 正后 英語版 ロクセラ?ナ (ヒュッレム?スルタン)のための、さほど大規模ではない複合的な居宅の建設であった。スィナンは先人の引いた線のとおりの設計をしなければならず、まったく創意のない、使える空間をただ?統に?って?べただけの設計に終始した。それでも妃の居宅はアレッポのモスクよりもうまく建てることができ、ある種の?品を漂わせた。もっとも、その後、この妃の居宅は多くの修繕に苦しんだ。1537年に南 アルバニア ヴロラ に建てられた防御塔の設計もスィナンの手によるものとされている。ヴロラはスレイマン1世のイタリア遠征時に陣を張った町であるが [15] [16] 、そこにスィナンが建てた ムラディ?エ?ジャ?ミィ 英語版 の防御塔は、 テッサロニキの白塔 に非常によく似ている [17]

1541年に大提督 バルバロス?ハイレッディン の墓廟 ( turbe ) の建設に取り掛かる。この墓廟が建てられた ベシクタシュ 地?は、イスタンブルのヨ?ロッパ側の岸?にあり、提督の軍船がよく集結した場所であった。奇妙なことに提督はその墓廟ではなく、その近くにあるイスケレ?モスク(下述)に埋葬された。そのとき以?現在まで、この墓廟の存在はほとんど無視されていた。

スレイマン1世の一人娘で、大宰相 リュステム?パシャ の妻、 ミフリマ?フ?スルタン 英語版 の委?により建設したウスキュダルのイスケレ?モスク(ミフリマ?フ?スルタン?ジャ?ミイ (ウスキュダル)として知られる)は、マドラサ(大?)、イマレット(?房)、メクテブ(クルア?ン?校)が付?する大規模な複合施設であり、??とした高い中央の空間、すらりとした ミナレット (尖塔)、?一のド?ム天蓋、?翼に?がる3つの 半ド?ム が3つの エクセドラ に突き?たる構造、幅?の二重 ポルチコ といったいくつかの点で、スィナンの円熟期の?式の特?を見て取ることができる。なお、イマレットは現存しない。建設の完了は1548年。二重ポルチコが建設されたのはオスマン建築史上初めてではないが、これを機に公共のモスクやワズィ?ルが建てるモスクなどに流行する。?側のポルチコの柱頭に鍾乳石が用いられ、外側のポルチコの柱頭が シェヴロン?パタ?ン(V字) 英語版 で造作されたこの二重ポルチコを見たミフリマ?フとリュステム?パシャは、イスタンブルの3つのモスクと、 テキルダ? のリュステム?パシャ?モスクにも二重ポルチコの設置を所望した。

1543年11月、スィナンが上述のイスケレ?モスクの建設を始めたばかりのころ、スィナンは急遽、スレイマン1世に新しいジャ?ミイの建設を命じられた。そのジャ?ミイは、大帝の最もかわいがっていた息子の墓廟に付?する大規模なものであって、大帝はバルカン半島への何度目かの遠征から?還したある日に突然、皇太子シェフザ?デ?メフメトが?22で亡くなったという知らせを受け取ったのであった。この シェフザ?デ?ジャ?ミイ 英語版 には、それまでのスィナンの建築作品のどれよりも大規模、且つ、野心的な試みが盛り?まれることになった。そのため、建築史の?門家からは、スィナン最初の傑作であるとの評?がなされている。

大きなド?ムを中心にするという構想に取り憑かれたスィナンは、 ディヤルバクル ファティフ?パシャ?ジャ?ミイ トルコ語版 や、 ハスキョイ 英語版 のピ?リ??パシャ?ジャ?ミイのようなモスク建築の設計の仕事を始めた。スィナンがペルシア遠征に?軍した際に、上の2つのモスクを訪れた可能性は高く、遠征以後に設計した中央ド?ムを持つモスクにおいては4つの同じ大きさの半ド?ムが中央ド?ムに付?する設計がなされている。この上部構造は巨大ではあるが優美な、八角になるように丸溝が彫られた自立する4本の支柱により支えられ、これらの支柱がそれぞれ?の壁に合?する。四隅の箇所では、屋根を越える高さにそれぞれ尖塔が延び、建物をしっかり定位させる?きをする。この整然とした建築コンセプトは、?に?統的なオスマン建築に何かを付け足したような設計とは異なっており、特筆される。 セデフカル?メフメト?ア?ガ? 英語版 は、のちに彼が設計した スルタン?アフメト?ジャ?ミイ において、その外見を少しでも?く見せようとして、丸溝を彫った支柱のコンセプトを流用する。しかしながら、スィナンは同じ手を別のモスクでもう一度使おうとはしなかった。

「職人の時代」 [ 編集 ]

「?麗者」スレイマン1世が?力の絶頂にあったのは1550年までである。彼は早世した息子のために大モスクを建てた今こそ、自らの名前を冠した大モスクの建設をするべきときのように感じた。 金角? を見下ろすなだらかな傾斜の丘の上に建ち、他のどんなものよりも偉大な記念碑となるジャ?ミイを。資金に問題はなかった。スルタンが長年にわたってヨ?ロッパやペルシアを相手に遠征を繰り?げた結果手に入れた?利品や領土があるためである。スレイマンはスィナンにジャ?ミイを建造の勅命を?した。スルタンの希望はジャ?ミイに大規模な キュッリエ 英語版 が付?するもので、ジャ?ミイを中心に4つのマドラサ、1つのイマレット、病院、難民?容所、 ハンマ?ム キャラヴァンサライ 、そして旅人の宿泊所タブハ?ネ(普通は遊行 デルヴィ?シュ を泊めるためのもの。3日間は無料で泊まれる。)が取り?むものであった。いまや大量のアシスタントを抱える大きな役所の長になっていたスィナンは、この手ごわい案件に7年の?月をかけて取り組み、完成させた。こうして完成した スレイマニエ?ジャ?ミイ は、屋根部分の構造が立方?を半分に切った形?をしている。この半立方?の屋根形?は?存のモスクにはなかったものであり、スィナンはこれのアイデアを アヤソフィア から得たと見られる。スィナンはルネサンスの建築家 レオン?バッティスタ?アルベルティ の思想を知っていたに違いない。それというのもアルベルティもまた理想の??にこだわり、建築における幾何?的な完全性を通して調和を表現したからである。なお、アルベルティは建築理論をロ?マ時代の建築家 ウィトルウィウスの著作『建築について』 に?んでいる。しかしながら、東地中海世界の西側の建築家と?照的なところは、スィナンが豊富化よりも簡素化により?い興味を示していることである。彼は?一の中央ド?ムの下に、できる限り大きな容積が確保されるようにした。ド?ムは?円を基本に成り立っている。?円は幾何?的に完全な?形であって、神の完全性を抽象的に表現する。スィナンは建物の形?や比率に微妙な幾何?的?係が保たれるようにしていたが、スレイマニエ?ジャ?ミイの場合はそれぞれの?係が2の倍?になることを基調にした設計を行った。後年では ソコッル?メフメト?パシャ?ジャ?ミイ 英語版 (イスタンブルの港地?)などで見られるように、ド?ムの形?や?幅を制作する際、3分割や2?3の比率もよく使うようになった。

スィナンがスレイマニエの建設にかかりきりになっている間にも、スィナンの弟子たちが設計?を描き、現場に出向いて職人に指示をして、多くの建物を建てていった。そうした建造物についてもスィナンの名前がクレジットされており、 大宰相 パルガル?イブラヒム?パシャ の名前を冠したモスクや、スレイマニエと同じ地?に?する1551年に建てられた?廟などもスィナンの作と?えられる。

クリミア半島 イェウパト?リヤ 金曜モスク 英語版 ジュマ?ジャ?ミイ

次代の大宰相 リュステム?パシャ もスィナンに多くの依?を行った。1550年前後にスィナンは彼の依?により、イスタンブルの ガラタ地? エディルネ エルズルム に大きな旅籠(ハ?ネ)を建てた。イスタンブルの八角形のマドラサもリュステムの依?による。

1553年から1555年の間にスィナンがイスタンブルの ベシクタシュ地? に建てた スィナン?パシャ?ジャ?ミイ 英語版 は、大提督 スィナン?パシャ 英語版 に奉?するモスクであるが、エディルネの ウチュ?シェレフェリ?ジャ?ミイ 英語版 を小さくしたような構造をしている。このことからわかるのは、スィナンが他の建築家の作品を徹底的に?究していたということである。とりわけ、スィナンは、自分が維持管理の責任を負っていた建造物を?究していた。彼は昔の構造を模倣し、建築上の弱点について思索をめぐらした。その上で解決策を編み出し、その弱点を克服しようとした。その好例が、1554年にイスタンブルに建てた カラ?アフメト?パシャ?ジャ?ミイ 英語版 である。このモスクは、次代の大宰相カラ?アフメト?パシャに奉?したものであり、スィナン?パシャ?ジャ?ミイで模倣した構成がふたたび採用されているが、六角形の平面プランを有している。この特?的な平面プランは初めて試みたものであり、これにより4つの副ド?ムを半ド?ムに縮小し、45度の角度をつけて各?のコ?ナ?に設置することが可能になった。この設計はのちに、 ソコッル?メフメト?パシャ?ジャ?ミイ 英語版 ウスキュダル アティック?ヴァリデ?ジャ?ミイ 英語版 にも用いられた。

1556年にスィナンは ハセキ?ヒュッレム?スルタン?ハンマ?ム 英語版 を建設した。これはアヤソフィア寺院に近接したところに古くからある ゼウクシッポスの公共浴場 英語版 を一度取り?してから再建したものであって、スィナンが手がけたハンマ?ムの中で最も美しいものの一つであろう。1559年に今度は、アヤソフィアの前庭の下手にチャフェル?ア?ガ??メドレセを建てた。同年、 ボスポラス海? 沿いの町にエジプト?督 イスケンデル?パシャ 英語版 のモスクも建てたが、これはスィナンの役所が年中請け負っていた、細かなル?チンワ?クの一つにすぎない。

1561年にリュステム?パシャが亡くなる。寡婦となったミフリマ?フ?スルタンの監修の下、スィナンは同年から かの大宰相を追慕するモスク 英語版 の建設を始めた。今回、中央部の形?に採用されたのは八角形である。四隅に半ド?ムを配したこの形?は、ハギオン?セルギオス?カイ?バッコス聖堂 [注? 5] に倣ったものである。同年にスィナンは シェフザ?デ?ジャ?ミイ 英語版 の庭に、 イズニク で産する最良のタイルを用いて?飾したリュステム?パシャの墓廟を建てた。

夫の遺産を受け?いだミフリマ?フ?スルタンはもともと自分が持っていた資産も?せると膨大な富を持つようになり、いまや彼女自身のモスクを望んだ。そこでスィナンはイスタンブルの七つの丘の最も高い丘の上にある エディルネ門 英語版 のある場所に?のジャ?ミイを建てた。この ミフリマ?フ?スルタン?ジャ?ミイ (エディルネ門) 英語版 は隆起した高台の上に聳え立ち、景?にアクセントを?えている。建造は1562年から1565年にかけて行われた [18] 。雄大さの表現に??ならぬ?心を注いだスィナンの想像力は、このモスクで大きく花開いた。ア?チ構造の支持構造として新しいやり方を用い、?方向に空間を配置して窓として使える領域を?やした。中央ド?ムは高さ37メ?トル、直?20メ?トル。 穹隅 により方形の基礎の上に支えられる。基礎の上には3つの キュ?ポラ をそれぞれ有する2列の 側廊 も設けられた。方形の基礎の四隅にはそれぞれ巨大な柱が聳え立ち、多?の窓が開いたア?チ?の面に連結する。このア?チには15個の大きな窓と4つの円窓が設けられており、溢れんばかりの外光を堂?にもたらす。この革命的建築においてはオスマン建築が許される範??で最も ゴシック建築 に近づいた。

1560年から1566年の間にスィナンは、イスタンブルのアイヴァンサライを越えた丘の上に ザ?ル?マフム?ド?パシャ?ジャ?ミイ 英語版 を建設した。スィナンは確かに設計を考え建築を監督はしたが、建物の重要でないところは力量に劣る職人たちの手に任せた。なぜなら、スィナンとその最も優秀な部下たちは、今や彼の畢生の大作、エディルネのセリミ?エ?ジャ?ミイの仕事に取り掛かろうとしていたからである。高く聳えるザ?ル?マフム?ド?パシャ?ジャ?ミイの東側の外壁には、4層になる窓が穿たれており、この特?がモスクを一種の宮殿か集合住宅のようにも見せていた。?側には3列の?い側廊があり、これがあることで??をこぢんまりと見せている。また、この構造の重みがあることで、ド?ムが予期できぬほどに高くなっているように見せることに成功している。この側廊はセリミ?エ?ジャ?ミイの側廊の予行演習であった。

「親方の時代」 [ 編集 ]

エディルネ に建つ セリミ?エ?ジャ?ミイ 、1575年建造。

スィナンの人生も終わりに差し掛かったこのころになると、彼は建物の?側を高?で優雅な造作で統一しようとした。この目的を達成するため、中央ド?ムを支える柱以外の付加的な要素の一切が排除された。この設計思想に基づく作例は、ソコッル?メフメト?パシャ?ジャ?ミイやセリミ?エ?ジャ?ミイに見ることができる。その他の晩年の作においても空間や壁の扱いに、それ以前の オスマン建築 にはなかったスィナンの試行錯誤が見られる。

自?によるとスィナンはエディルネのセリミ?エ?ジャ?ミイこそが自分の最高傑作であると認識していた。確かにこのモスクは?統的なオスマン建築の縛りにとらわれることなく、古典期オスマン建築のすべてにおける絶頂であると言え、スィナン建築の到達点を示している。スィナンは建築中に「『アヤソフィヤより大きなド?ムは作れるわけなかろう、ましてやムスリムには』などとは金輪際言わせん」と?言したと?えられる。そのため、千年古い偉大なアヤソフィヤへの、この?抗意識こそが本モスク設計の動機であったと考えられる。?際に、床からド?ムの天井までの高さはアヤソフィヤより高い(ただし、地上からの高さを測るとセリミ?エのほうがアヤソフィヤより半メ?トルほど低い)。完成時には?80を越えていたスィナンであったが、 穹? の?側に この上なく全一化 された空間を作り出すという狙いをついに?現させた。今回採用したのは直?31.28メ?トル、高さ42メ?トルの八角形の中央ド?ムである。このド?ムを支える大理石と御影石でできた8本の柱は 柱頭 を一切持たず、その代わりに 入隅迫持 もしくは 持ち送り を持つ。これはア?チが柱の外側からだんだんと持ち上がってくるような視??果を生む。さらに、?に長い側廊が遠方に配置されることでこの立?的?果が見るものの目に?く印象付けられる。堂?には立ち壁に多?設けられた窓から外光が降り注ぐ。中央ド?ム構造?を支持する バットレス として機能する半ド?ムがド?ム下の四隅に設置されている。類まれな開放感と優美さを演出することによって、荷重や?壁の張力は?されている。??空間の四隅に建つ 尖塔 は高さ83メ?トル、?時のイスラ?ム世界においては最も高い ミナレット であり、イスタンブルの町に威容を示す本モスクの形?に垂直方向のアクセントを?えている。

スィナンにより1577年に建造された ソコッル?メフメト?パシャ橋 ボスニア ヴィ?シェグラ?ド )はユネスコ世界遺産に登?された

ダマスクス で一番有名な建物と思われている、 バラダ川 沿いに建つ テッキ?ヤ?スレイマニエ?ジャ?ミイ 英語版 及び付?のキャラヴァンサライや、 ブルガリア の首都 ソフィア で現在でも唯一、モスクとしての機能を果たし?けている バニャ?バシ?ジャ?ミイ 英語版 も、スィナンが設計したものである。

墓廟 [ 編集 ]

ミマ?ル?スィナンの設計思想は、 ムガル帝? シャ??ジャハ?ン の命により建造された タ?ジ?マハル廟 の設計にも取り入れられた [19] [20]

スィナンは1588年に亡くなり、自身が設計した?廟に葬られた。それはイスタンブルのスレイマニエ?ジャ?ミイの敷地の北東、道を?んでちょうど向かいにある。

スィナンが長となった政府の部門は?い範?にわたり、たくさんの助手を育てた。彼らはスィナンに?えて名を上げた。そのような弟子の一人としては、 スルタンアフメト?モスク の建築家、 セデフカル?メフメト?ア?ガ? がいる。 スタリ?モスト橋 の設計者もスィナンの弟子の一人である。 ムガル帝? タ?ジ?マハル廟 の設計にもスィナンの弟子の一人が?わっている。

スィナンはたびたび同時代の西洋に生きた ミケランジェロ と比較される [21] [22] レオナルド?ダ?ヴィンチ 1502年 に、ミケランジェロは 1505年 に、それぞれ オスマン帝?中? 英語版 金角? に架ける橋の設計案を提出してみないかという誘いを受けていることからもわかるとおり、ミケランジェロと彼が設計した ロ?マ 聖ペトロ大聖堂 はイスタンブルでよく知られていた [23]

民族的出自 [ 編集 ]

ミマ?ル?スィナンの民族的出自が議論になる場合がある。エスノセントリズムやナショナリズムが絡んで、難しい問題になっている。

1935年にトルコの?究者グル?プにより、スィナン廟からスィナンの遺骸が掘り出された。?時は人種の優劣を云?する科?が?汎に支持されており、トルコの?究者グル?プは、「スィナンの頭蓋骨を測定したところ、彼は確かにトルコ人であることが?明された」と喧?された [24]

アルメニアを包含していた頃のソ連の?者などは、 アルメニア人 ?を唱えていた [25] [26] [27] [28] [29] [30] 。西側のイスラ?ム?究者に多い?は カッパドキア人 英語版 カッパドキア のギリシア系住民)?である [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] 。その他に、 アルバニア人 ?もある [38] [39] [40] 。「キリスト?徒の トルコ人 」とする?もある [41] 。『 ブリタニカ百科事典 』はスィナンがアルメニア人の母とギリシア人の父を持つとした [2]

アルメニア人?の根?は、 セリム2世 がヒジュラ?981年ラマダ?ン月7日(西?1573年12月30日ごろ)に?した勅命にある。この勅命は、スィナンの親族をカイセリのアルメニア人コミュニティすべてに言い渡したキプロス島への追放から免除することを、スィナンの求めにより許すとしたものである [28] [42] 。この勅命についてゴドフリ??グッドウィンは「1571年のオスマン帝?によるキプロス征服後、セリム2世が島の人口を回復させるために エヤ?レティ?カラマ?ン 英語版 から ル?ム人 ミッレト に?する家族を移住させることを定めたところ、スィナンは一族を代表して裁定を求め、御前?議から一族の追放を免除する2通の勅命を獲得した」と主張している [36] 。ハ?バ?ト?ミュラ?によると、スィナンは「以前はアルメニア人であったようである」という [43] タフツ大? のル?シ??デル?マヌエリアンは「帝?の公文書やその他の文字資料に基づくと、彼はアルメニア人とみなせるであろう」という [44]

カッパドキア人?を支持する?者たちは、スィナンの父親の名前がギリシア人にはありふれた名前のクリストス(Χρ?στο?)であることから、父親は石工か大工であったことがわかるという [45] [46]

アルバニア人?は、 ムガル帝? 皇帝 バ?ブル が地元インドの建築と設計にまったく?足せず「オスマン帝?の棟梁、アルバニアの天才、スィナンの弟子の幾人かを、彼の建て方で建てさせるために」インドに招待したという記述に基づく(イギリスの?者パ?シ??ブラウンとインドの?者ヴィディヤ?ダル?マハジャンなど) [47] [48] [38]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ミマ?ルとミ?マ?ルの違いは咽頭閉鎖音のカナ??の表記ゆれの問題で、ア?ガ?をア?と書く場合もあるのはトルコ語を現代風に表記するかオスマン時代風に表記するのかの問題。
  2. ^ Orta . イェニチェリの軍制における大隊を意味する。
  3. ^ Mihrimah Sultan Mosque. ユスキュダル?キ??モスク(the Uskudar Quay Mosque)としても知られる。
  4. ^ 1961年 ノ?ベル文?賞 受賞作家、 イヴォ?アンドリッチ の代表作「 ドリナの橋 」で有名である。
  5. ^ 4世紀 シリア リサ?ファ 英語版 で殉死した聖人 セルギオスとバッコス 英語版 に奉?するため6世紀に 東ロ?マ皇帝 ユスティニアヌス1世 コンスタンチノ?プル に建てた修道院??。16世紀前半にモスクに改?された。現 キュチュク?アヤソフィア?ジャ?ミイ 英語版 ファティフ地? 英語版 の海?にある。

出典 [ 編集 ]

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    The son of Greek or Armenian Christian parents, Sinan entered his father’s trade as a stone mason and carpenter."
     
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?考文? [ 編集 ]

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?連文? [ 編集 ]

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3次資料

?連作品 [ 編集 ]

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  • 夢枕?「第7章 シナン―神が見える家」『夢枕?の奇想家列?』文藝春秋、2009年3月19日。 ISBN   978-4-16-660689-4  

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]