マリア?テレジア

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マリア?テレジア
Maria Theresia
オ?ストリア女大公
ハンガリ?女王
ボヘミア女王
マリア?テレジア
在位 1740年 10月20日 - 1780年 11月29日
(ハンガリ?女王?オ?ストリア女大公)
戴冠式 ハンガリ?女王: 1741年 6月25日
ボヘミア女王: 1743年 5月12日
別? クライン女公
ミラノ女公
パルマ女公
ピアチェンツァ女公
ブルゴ?ニュ女公
ブラバント女公
リンブルフ女公
ルクセンブルク女公
ナミュ?ル?境伯
チロル伯
ブルゴ?ニュ伯
フランドル伯
エノ?伯
アルトワ伯

神聖ロ?マ皇后
在位 1745年 9月13日 - 1765年 8月18日
別? トスカ?ナ大公妃

全名 Maria Theresia Walburga Amalia Christina von Osterreich
マリア?テレジア?ヴァルブルガ?アマ?リア?クリスティ?ナ?フォン?エスタ?ライヒ
出生 1717年 5月13日
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ?民の神聖ロ?マ帝?
オーストリアの旗 オ?ストリア大公? ウィ?ン
死去 ( 1780-11-29 ) 1780年 11月29日 (63??)
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ?民の神聖ロ?マ帝?
オーストリアの旗 オ?ストリア大公? ウィ?ン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 ドイツ?民の神聖ロ?マ帝?
オーストリアの旗 オ?ストリア大公? ウィ?ン カプツィ?ナ?納骨堂
配偶者 フランツ1世
子女 別記
家名 ハプスブルク家
父親 カ?ル6世
母親 エリ?ザベト?クリスティ?ネ?フォン?ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
宗? キリスト? カトリック??
サイン
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マリア?テレジア ドイツ語 :Maria Theresia, 1717年 5月13日 - 1780年 11月29日 )は、 オ?ストリア女大公 (在位: 1740年 - 1780年 )? ハンガリ?女王 (在位:同)? ボヘミア女王 (在位: 1740年 - 1741年  1743年 - 1780年 )。?質的な「女帝」( 下記?照 )として君臨した。?際の??は皇帝ではなく、「神聖ロ?マ皇后」だった。 神聖ロ?マ皇帝 カ?ル6世 の娘で、 ハプスブルク=ロ?トリンゲン朝 の皇帝 フランツ1世 の皇后?共同統治者。

オ?ストリア系 ハプスブルク家 男系最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロ?トリンゲンとの複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロ?トリンゲン家となる。なお、マリア?テレジア本人が好んで使用した??(サイン)は「 Konigin (女王)」と「 Kaiserin (皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった [1]

生涯 [ 編集 ]

大公女時代 [ 編集 ]

生い立ち [ 編集 ]

少女時代のマリア?テレジア
婚?の日の朝食

1717年、 ハプスブルク家 神聖ロ?マ皇帝 カ?ル6世 と皇后 エリ?ザベト?クリスティ?ネ の長女として誕生した。カ?ル6世の最初の女子であり、?親は?か ヨルダン川 の水で 洗? を受けさせたり、マリアツェル??に?金の子供像を奉納したりと?迎した [2] 。「小さなレ?スル」は母親?りの輝く美貌を持ち、市民からの人?も高かった [3]

それまでハプスブルク家は サリカ法 に基づく男系相?を定めていた。しかし、彼女の兄が夭折して以後、カ?ル6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア?テレジアと妹のマリア?アンナ(マリアンネ)のみであったことから後?者問題が表面化してくる。

ハプスブルク家の相?問題 [ 編集 ]

マリア?テレジアの結婚について、 オイゲン公 バイエルン との?組を?め [4] 、また在ベルリンのオ?ストリア大使 ゼッケンドルフ [5] やカ?ル6世の侍?長 バルテンシュタイン [6] らは プロイセン 王太子フリ?ドリヒ(後の プロイセン?王 フリ?ドリヒ2世 )との?組を推薦した [注? 1] 。なお、オイゲン公もフリ?ドリヒを推薦したとの?もある [7]

しかし、 ロレ?ヌ家 第二次ウィ?ン包? において オスマン帝? を敗走せしめた英雄 シャルル5世 の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い?があったことから、カ?ル5世の孫との?組が決定される [8] ロレ?ヌ公 レオポルト の3人の息子は 1723年 からウィ?ン宮廷へ留?し、長男 クレメンス が婚約者候補となったが [9] 、同年に病?する。そこで次男 フランツ?シュテファン (愛?:フランツル)が婚約者候補となり、またカ?ル6世もフランツのことを大??に入り、好待遇を受けるようになった。マリア?テレジアは6?の時に15?のフランツと出?い、憧憬はやがて愛情へ?わり、その?子は「夜は彼のことを夢見、?は女官たちに彼のことを話している」とイギリス大使が記している。

1736年 2月12日 アウグスティ?ナ?? で2人は婚?を?げた。この時、マリア?テレジアのドレスの?を持ったのは、慣例に反して?育係であったシャルロッテ?フックス伯爵夫人(フルネ?ムはカロリ?ネ?フォン?フックス=モラ?ルト)であった [10] 。?時の王族としては奇蹟にも近い?愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス?王 ルイ15世 の理解を得るため、領地 ロレ?ヌ公? [注? 2] をフランスへ割?しなければならず [11] 、代わりに トスカ?ナ大公 の地位を得た [12]

カ?ル6世は、 オイゲン公 の「王女には紙切れよりも?力な軍隊と財源を?すべし」 [13] という進言を尻目に、『プラグマティッシェ?ザンクティオン』( ?事詔書 :Pragmatische Sanktion)を出して??および各?に、彼女の オ?ストリア ? ボヘミア ? モラヴィア ? ハンガリ? など、 ハプスブルク家世襲領 の相?を認めさせた [14] 。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘?フランツ?シュテファンが就くこととした。しかしカ?ル6世はそれでもなお男?(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての?育は施さなかった。このため、マリア?テレジアの幼少期の公式記?は、ほとんど?されていない [13]

このような政治的事情の一方、マリア?テレジアとフランツ?シュテファンの仲はすこぶる円?であるが、結婚後4年のうちに連?して3人の大公女が誕生したため、反オ?ストリア側諸?の煽動もありフランツが批判を受ける [15] 1737年 、フランツはトスカ?ナ大公となり、 1739年 1月に夫妻はトスカ?ナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後オ?ストリアの財政基盤となった [16]

オ?ストリア?承?? [ 編集 ]

ハンガリ?女王として
1743-5年頃
1747年、皇帝夫妻とヨ?ゼフ
シェ?ンブルン宮殿

相?問題の見通しの甘さはカ?ル6世の崩御後、すぐに露呈する。 1740年 10月20日 、カ?ル6世が突如崩御すると、?本勅?の「ハプスブルク家の領地は分割してはならない」を公然と無視し、周?諸?は娘の相?を認めず、領土を分割しようと攻め?んできた。これが オ?ストリア?承?? 1740年 - 1748年 )である。フランス王??スペイン王?などの列?のみならず、 ブランデンブルク=プロイセン ? バイエルン選帝侯領 ? ザクセン選帝侯領 なども叛旗を?した。マリア?テレジアは?時23?(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的?育も受けていなかった。各?の大使は本?に彼女が無知だと報告したが、 グレ?トブリテン王? のみが「毅然とした態度や落ち着きに非凡の才あり」と注意を促した [17]

1740年 12月16日 プロイセン?王 フリ?ドリヒ2世が最初に、自領の南にあるハプスブルク家領の シュレ?ジエン に侵攻した。プロイセン?王は、孤立しているハンガリ?女王 マリア?テレジアを守護(有事における支持と軍資金の提供 [18] )するための出兵であるとして、代償として300万 グルテン とシュレ?ジエン割?を求めた [19] が、使者の到着より侵攻が先であった [18] 。これに?して動?する老臣らに、マリア?テレジアはシュレ?ジエン防衛の決意を明らかにし [20] 、第一次シュレ?ジエン??、オ?ストリア?ザクセン??が勃?した。さらに、 バイエルン選帝侯 カ?ル?アルブレヒト もオ?ストリアの敵に回った。

1741年 3月13日 に待望の男? ヨ?ゼフ が誕生し、??の士?は大いに上がる。しかし 4月10日 には モルヴィッツの?い で大敗。これをうけてフランスもプロイセンに加勢し [21] 、西側を包?された四面楚歌の?況にあって、マリア?テレジアは東方のハンガリ?に救いを求める。ハンガリ?はドイツ人から見れば異民族であり、心情的には長年?立していた。マリア?テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルク( ブラチスラヴァ )へ赴き、 6月25日 にハンガリ?女王として?位した。美しく力?い女王の姿は、好印象を?えた。ここでハンガリ?議?( 等族議? )と交?を開始する。9月には幼いヨ?ゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演? [22] 。?か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリ?は「我?は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特?と引き換えに資金と兵力を差し出した [23] 。ハンガリ?の兵力は小規模なものであったが、瓦解寸前のオ?ストリアに忠誠を誓った事?は、敵側に大きな動?を?えた [24] 。なおハンガリ?は、後世までオ?ストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる [25]

1742年5月、 コトゥジッツの?い にはフランツの弟 カ?ル?アレクサンダ? を指揮官に?擢した。このことも遠因で敗北し、7月に英?の仲介でプロイセンと一時的に休?する。シュレ?ジエンの割?も容認せざるを得なかったが、これをもって占?していたフランス?バイエルン連合軍が プラハ から撤退してボヘミア(ベ?メン)王位を奪還し、 1743年 5月12日 、マリア?テレジアは同地でボヘミア女王として戴冠する。この時、何度も態度を豹?させるボヘミアの人?に?し彼女の怒りはただならぬものがあったが、カ?ル?アルブレヒトに協力した貴族の一部と資金を工面した ユダヤ人 を追放したのみに留めた [26] カトリック の守護者としてユダヤ人には容赦がなかったが、後に??面への打?から撤回している [27]

こうした?家の緊急事態に際し、うら若いマリア?テレジアが諸?の侵攻に屈しなかったことは、彼女の評?を大いに高らしめ、後年になってフリ?ドリヒ2世は「今のハプスブルク家では、稀に見る男性が統治している。ところがこの男性と言うのが女性なのだ」と評した [注? 3] [28] 。また長男ヨ?ゼフの誕生が、もしカ?ル6世在世中であれば、マリア?テレジアは後見人の地位にとどまり、その政治的才能を?揮できなかっただろうという指摘もある [29]

一時は帝位もボヘミア王位も、フランス王に?がれたカ?ル?アルブレヒト(神聖ロ?マ皇帝 カ?ル7世 )に奪われていた。1744年、皇帝の守護を名目としてプロイセンが再侵攻した。しかし、プロイセンの軍事力と野望が表面化したため、休?前とは逆にプロイセンが孤立する。翌 1745年 1月20日 、カ?ルはあっけなく病?し、皇帝選?で 1745年 9月13日には9票中7票を獲得して [注? 4] 夫フランツ?シュテファンを帝位に就けることに成功する。マリア?テレジアは帝位の奪還をことのほか喜び、?妊中であったものの フランクフルト へ同行し、夫の晴れ姿を見ている。マリア?テレジアはドイツ各地で奉迎を受け、特に、フリ?ドリヒ2世の最愛の?姉 バイロイト?境伯 夫人 ヴィルヘルミ?ネ も謁見を申し出ている [30]

オ?ストリア側が優勢な??もあったが、プロイセンには軍隊の質(多民族から構成、有力貴族のみを登用し有能な ブロウネ?軍 を冷遇するなど、構造そのものに問題があった [31] )などから全般に劣勢であり、??は膠着した。プロイセンの隣? ハノ?ファ?選帝侯領 同君連合 であった 英? の仲介により [32] 、1745年の ドレスデンの和 においてプロイセンによるシュレ?ジエン領有を承認した。

この間、1744年1月にただ一人の?妹 マリア?アンナ と、フランツの弟カ?ル?アレクサンダ?が結婚したが、同年末にマリア?アンナは死産の後、死去している。

主に英?間で??は?行され、最終的に 1748年 ア?ヘンの和約 (エクス?ラ?シャペル?約)によって終結した。これにより、マリア?テレジアのハプスブルク家相?は承認されたものの、シュレ?ジエンの割?が決定的になった [33]

?承??の間、1743年から1748年にかけて夏の離宮 シェ?ンブルン宮殿 の造?に着手した。 ホ?フブルク宮殿 とは異なり開放的で家庭的な居城となり、他?には見られないハプスブルク家を象?するものとなった [34]

改革と外交革命 [ 編集 ]

シュレ?ジエンを奪還する目的で、 ハウクヴィッツ を登用しての?政改革 [35] や、 ダウン ?軍による軍改革 [36] を行う。

そして、外交面においては カウニッツ を登用して フランス に接近する。 マクシミリアン1世 以?長らく、 ハプスブルク家 とフランスとの間で抗?が?いていた。しかし、先の??で敵はフランスではなくプロイセンであることは明白で、英?との利害?係も一致していなかった。 1749年 3月7日 の御前?議で、カウニッツはこうした現?分析の後、同盟?を英?からフランスへ?更することを奏上する。皇帝フランツや重臣たちは驚愕を?せなかったが、マリア?テレジアはこれを支持する [37] 。?議以前に、カウニッツと討議しており、彼女が提唱した案がより洗練されていた [38]

1750年 10月、女帝から全?を委任されたカウニッツはフランスへ向かう。マリア?テレジアは個人的にフランスの閨閥政治を嫌?していたが、多額の資金を使ってフランスに侮られぬよう?い、 ポンパドゥ?ル夫人 を通じ?王ルイ15世を?柔した [39] 。また、同じくフリ?ドリヒ2世を嫌?する ロシア帝? エリザヴェ?タ女帝 とも、難なく交?はまとまった。しかし、 ウィ?ン サンクトペテルブルク の中立地として ザクセン ドレスデン で交?したことから、プロイセン側もオ?ストリアとロシアの接近を察知した [40]

先手を打ったのはプロイセンで、 1756年 1月16日 、英?と 第4次ウェストミンスタ??約 を結ぶ。5月1日、 ヴェルサイユ?約 をもってオ?ストリアとフランスが遂に同盟を結ぶ。こうして作られたプロイセン包?網を、マリア?テレジア、エリザヴェ?タ女帝、ポンパドゥ?ル夫人にちなみ「 3枚のペチコ?ト作? 」と呼ぶこともある [41] 。マリア?テレジアはポンパドゥ?ル夫人に深く感謝し、高?な贈り物をしたが、矜持から感謝?は書かなかった [42] 。またこれに伴い、生後間もない マリア?アントニア(マリ??アントワネット) の婚約も?定した。

七年?? [ 編集 ]

1756年 8月29日 プロイセン王? ザクセン選帝侯領 に侵攻して?端を開く。後に 七年?? と呼ばれるこの??は、前回と違ってフランスや ロシア の同盟を得たオ?ストリアが優勢に??を進め、特に 1759年 8月12日 クネルスドルフの?い ではフリ?ドリヒ自らも被?するほどの打?を?えた。しかし、オ?ストリア、ロシア側が受けた被害と政治的事情から、ダウン?軍は グ?ベン協定 によりベルリン攻?を避けた( ブランデンブルクの奇跡 )。その後も、?倒的な勢力差からプロイセンは窮乏し徐?に追い詰められていくが、オ?ストリアもまた資金難に?っていった。一方、新大陸での?線で英?はそれぞれ打?を受け、英?は 1761年 10月 プロイセンへの援助を打ち切る。

持久?によるプロイセンの全面降伏を目前にして?況が大?化を遂げた [43] のは、 1762年 1月5日 、エリザヴェ?タ女帝崩御による ピョ?トル3世 の?位である。ピョ?トル3世はフリ?ドリヒ崇?者であり、ロシアが最終的に??そのものから離?した。その後オ?ストリアが敗?したことで、マリア?テレジアはシュレ?ジエン奪還を諦めざるを得なくなる。マリア?テレジアも自身の私物を?却していたほどに、?力は限界を迎えていた [44] 。こうして 1763年 2月15日の フベルトゥスブルク?約 で、シュレ?ジエンのプロイセンによる領有が固定化した。

オ?ストリア?承??と七年??を?て、オ?ストリア、プロイセン??は近代?家としての制度を整備し、その後の?展の礎を築いた。大きなものには小?校の新設(後述)や、?兵制度の改新が?げられる。軍事行政委員が設置され、軍???に?する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が 宮廷軍事? の下に統括され、宮廷軍事?が最高決定機?となった。また、一般 ?兵制 が採用された。この?兵制は全?民の無差別の兵役義務を承認しており(?際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士たちが安定した生活を保?され、オ?ストリアの軍事力は格段に上がった。

政治家として [ 編集 ]

マリア?テレジアと子供達
(左からミミ夫妻、マクシミリアン、マリア?アンナ、マリア?エリ?ザベト、ヨ?ゼフ2世)
マリア?テレジアの崩御

1764年3月、かつて帝位をカ?ル7世に奪われた?緯から、長男のヨ?ゼフを ロ?マ王 (神聖ロ?マ皇帝の後?者)へ推?し、可決される。 1765年 8月18日 、夫フランツが崩御する。マリア?テレジアは以後、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた [45] 。翌 1766年 3月には、愛娘の マリア?クリスティ?ネ (愛?:ミミ)にのみ?愛結婚を許可した上、多額の資金を?え、さらに比較的近距離の プレスブルク に居住させた [46] 。このことでマリア?テレジアは少し?が晴れたという [47]

七年??後もマリア?テレジアによる改革は進められた。しかし、この頃になると 啓蒙主義 的な官僚の勢いが?くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を?びるようになる。衣?の自由化(1766年)や イエズス? の禁止(1773年)などが代表的であるが、彼女自身は次第に保守化した。また、イエズス?禁止により職がなくなった下位聖職者たちを中心に?員として採用し [48] 、他?に先?け、全土に均一の小?校を新設、義務?育を確立させた。全?で同?容の?科書が配布され、各地域それぞれの言語で?育が行われた [49]

一方、オランダ出身の侍?である ファン?スウィ?テン 男爵による ウィ?ン大? ??部改革の後ろ盾となり、死?解剖を行うことを許容した。カトリック?徒であるマリア?テレジア自身も、??の信仰がオ?ストリア近代化の障壁となっていると認識していた [50]

息子ヨ?ゼフ2世は混?もなく帝位に就いた。 1765年 から崩御までの間、ヨ?ゼフとの共同統治となる [51] 。しかし、その急進的な改革姿勢とはしばしば意見が?立し、宰相カウニッツも彼女への不?を書き?している。特にヨ?ゼフが 1772年 、マリア?テレジアの反?を受け入れず、第1回 ポ?ランド分割 に加わったことは彼女を深く悲しませ、その晩節を汚すものとされる [52] 。さらに1777年末以降、 バイエルン?承?? をめぐってもヨ?ゼフと?立する [53]

1780年11月中旬、マリア?テレジアは散?の後に高熱を?し、約2週間後の 11月29日 、ヨ?ゼフ2世、ミミ夫妻、?身の娘たちに?まれながら崩御した。病の床では、フランツの遺品であるガウンをまとっていたという [54] 。遺?は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所である カプツィ?ナ?納骨堂 に埋葬されている。

子女 [ 編集 ]

父カ?ル6世が後?者問題で?んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていた [55] 。マリア?アント?ニア出産時以外は安産であったという。

家庭生活 [ 編集 ]

喪服のマリア?テレジア

個人的には、?時の王族としては珍しく、初?の人である夫フランツ?シュテファンとは?愛結婚で結ばれ、夫婦生活は非常に円?だった。フランツは時折、他の女性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼女はそれらを把握した上で容認した [56] 。また、夫が亡くなると、彼女はそれまで持っていた豪華な衣?や?飾品をすべて女官たちに?えてしまい、以後15年間、自らの死まで 喪服 だけの生活を送った [57]

マリア?テレジアと家族たち

多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした [58] 。子供に?しては、同じ誕生日ということもあって(5月13日)四女マリア?クリスティ?ナを最も可愛がり、彼女にだけは相愛の ポ?ランド?王 ? ザクセン選帝侯 アウグスト3世 の息子 アルベルト?カジミ?ル との?愛結婚を1766年に許している。このためマリア?テレジアの死後、この夫婦は ヨ?ゼフ2世 から冷遇された。 マリ??アントワネット はマリア?クリスティ?ナの次に可愛がられていた。

また、身?に障害があり病弱であった次女 マリア?アンナ や反抗的な マリア?アマ?リエ に?しては生涯を通じて酷薄であった。彼女ら二人を厄介者呼ばわりして?っ先に嫌ったのが、他ならぬマリア?テレジア本人であった。

死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリア?アント?ニア( マリ??アントワネット )の身を案じていた。夫フランツ?りの遊び好きな娘に?し、 フランス革命 の?生を警告する手紙を送っている [59]

結婚政策 [ 編集 ]

プロイセン打倒のため、マクシミリアン1世の時代に始まる200年?の宿敵フランスと [60] 和解する必要から、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアの ブルボン家 の一族(多くはルイ15世の孫)と結婚している [61] (詳細は ヨ?ロッパの祖母 も?せて?照)。

子女の主な政略結婚相手

「女帝」マリア?テレジア [ 編集 ]

マリア?テレジアが刻まれた銀貨
    • 一般に「 女帝 」と呼ばれ、?態も女帝そのものであったが、?際には神聖ロ?マ皇帝に?位したことはない。前述のように ハプスブルク家 の領?と家督を相?したのはマリア?テレジアであるため、彼女の肖像?にはロ?マ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、?時も少なくとも領??では「女帝」視されていた。正式には皇后でしかない彼女がこのように扱われる理由としては、次のような点が考えられる [ 誰? ]
      1. 夫である皇帝がフランス?境沿い(現フランス領)の小? ロレ?ヌ公? 出身の 養子的存在 であり、ハプスブルク家領??において?際の政治的?力をほとんど持たなかったこと。
      2. 帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家?主が?承してきた オ?ストリア大公 の位には彼女が就いていたこと。つまり、?質的に?家の?態を失っていた神聖ロ?マ帝?よりも、その盟主的位置にある(法的には?家ではなくハプスブルク家を媒介とする曖昧な存在だが)オ?ストリアおよびハプスブルク家支配地域のほうが事?上の政?( ハプスブルク君主? )と見なされていた。したがって、兼位しない場合は皇帝位は?なる?家連合議長にすぎず、オ?ストリア大公位の方が?かに政治的?限が?かったこと。
このためフランツは夫君、 王配 としてのイメ?ジで捉えられ、マリア?テレジアの女帝的性格(?際には 皇后 ? 女王 )が?まったといえる。百科事典などにおいてもマリア?テレジアは?統的に「女帝(神聖ロ?マ女帝)」として?載される場合が非常に多く、日本?外でも同じ傾向にある。


逸話 [ 編集 ]

  • 英語名は「 マリア?テレサ 」( Maria Theresa )、フランス語名では「 マリ??テレ?ズ 」( Marie Therese )。日本で?史上の人物「マリア?テレジア」本人を指す場合はほとんどの場合「マリア?テレジア」が用いられる。「マリア?テレサ」と表記されて使われている場合は「ものや場所の呼び名(呼?)」として「マリア?テレジアにちなんで」名づけられている場合であり、その?象は「もの」や「場所」(まれに「人物」)となる。「マリア?テレジア」本人の記述として「マリア?テレサ」が使用されるのは珍しい(例: シュテファン?ツワイク 『マリ??アントワネット』高橋禎二、秋山英夫?の 岩波文庫 版)。
  • オ?ストリアの?軍 プリンツ?オイゲン がマリア?テレジアの結婚相手にフリ?ドリヒ2世を推?したことに際し、次のような?が?されている [62]
    • フリ?ドリヒは密かにウィ?ンを訪れ、マリア?テレジアに好意を抱き、結婚を望んだがかなわなかった。彼はその後マリア?テレジアをはじめ、女性を嘲笑する言動が目立つようになり、そのためにフランスやロシアも敵に回すことになったという。フリ?ドリヒは結婚生活も破綻しており、?姉以外では、マリア?テレジア以外に好意を持った女性は見?たらない。
  • シェ?ンブルン宮殿 の?色は「テレジアン?イエロ?」とも呼ばれる。しかし彼女が好んだ色というわけではなく、宮殿の塗?を決める際、夫フランツが「金にしよう」と言ったものの??事情が?しいため、彼女が?色に決定したという。宮殿?に「日本の間」があり、素晴らしい古伊万里コレクションがある。
  • ?時の王侯の中でも語?力は高く、 ドイツ語 ? イタリア語 ? フランス語 ? ラテン語 を自在に話せた。
  • モ?ツァルト の事を毛嫌いしていた。これは、 1762年 に父の レオポルト が息子の?り?みのために無理やり自らに謁見したためである [63] 。息子たちにもモ?ツァルトを雇用しないようくぎを刺したため、モ?ツァルトは終生ウィ?ンを含む各宮廷の要職に付けずに貧困のうちに?することとなる。唯一の例外はヨ?ゼフ2世のみであり、マリア?テレジアに?う重臣たちの意向を覆すことはできなかった。

マリア?テレジアが登場する作品 [ 編集 ]

映? [ 編集 ]

小? [ 編集 ]

漫? [ 編集 ]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ただし、フリ?ドリヒはプロテスタント信徒であり、オ?ストリアとは宗?的に相容れない。
  2. ^ 同地はもともと ドイツ語 文化?に?した。フランツの曾祖父の時代からロレ?ヌ公?はたびたびフランスに占領されており、以後もフランスとドイツの係?地となる(詳細は アルザス=ロレ?ヌ を?照)。
  3. ^ フリ?ドリヒ2世 には女性蔑視の傾向があった。詳細は本人の項を?照。
  4. ^ 親?の プファルツ選帝侯 カ?ル4世フィリップ?テオド?ル 、プロイセン王フリ?ドリヒ2世(兼ブランデンブルク選帝侯)が棄?した。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 江村 2013 , p.126.
  2. ^ グレ?シング 1999 , p.152.
  3. ^ グレ?シング 1999 , p.153.
  4. ^ 江村 2013 , p.20.
  5. ^ 倉田 1994 , p. 32.
  6. ^ 江村 2013 , p.21.
  7. ^ グレ?シング 1999 , p.158-159.
  8. ^ 江村 2013 , p.21-23.
  9. ^ 江村 2013 , p.23.
  10. ^ 江村 2013 , p.29.
  11. ^ 江村 2013 , p.25-27.
  12. ^ 江村 2013 , p.28.
  13. ^ a b 江村 2013 , p.18.
  14. ^ 江村 2013 , p.17.
  15. ^ 江村 2013 , p.32-33.
  16. ^ 江村 2013 , p.34-35.
  17. ^ 江村 2013 , p.42.
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  63. ^ 6つのピアノ?奏曲 ト長調 K.180 (K6.173c)

?考文? [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]

爵位?家督
先代
カ?ロイ3世
ハンガリ?女王
1740年 - 1780年
次代
ヨ?ジェフ2世
爵位?家督
先代
カレル2世
ボヘミア女王
(第一次統治)

1740年 - 1741年
次代
カレル?アルブレフト
爵位?家督
先代
カレル?アルブレフト
ボヘミア女王
(第二次統治)

1743年 - 1780年
次代
ヨゼフ2世
爵位?家督
先代
カ?ル3世
オ?ストリア女大公
1740年 - 1780年
次代
ヨ?ゼフ2世
爵位?家督
先代
カ?ル6世
クライン女公
1740年 - 1780年
次代
ヨ?ゼフ2世
爵位?家督
先代
カ?ル6世
チロル伯
1740年 - 1780年
次代
ヨ?ゼフ2世
爵位?家督
先代
カルロ2世
ミラノ女公
1740年 - 1780年
次代
ジュセッペ1世
爵位?家督
先代
カルロ
パルマ女公
ピアチェンツァ女公

1740年 - 1748年
次代
フィリッポ1世
爵位?家督
先代
シャルル4世
ブルゴ?ニュ女公
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ
爵位?家督
先代
シャルル4世
ブラバント女公
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ1世
爵位?家督
先代
シャルル4世
リンブルフ女公
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ
爵位?家督
先代
カ?ル5世
ルクセンブルク女公
1740年 - 1780年
次代
ヨ?ゼフ
爵位?家督
先代
シャルル4世
ブルゴ?ニュ伯
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ
爵位?家督
先代
シャルル4世
ナミュ?ル?境伯
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ1世
爵位?家督
先代
シャルル5世
フランドル伯
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ1世
爵位?家督
先代
シャルル4世
エノ?伯
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ1世
爵位?家督
先代
シャルル4世
アルトワ伯
1740年 - 1780年
次代
ジョゼフ