デンマ?ク=ノルウェ?の宗?改革
(デンマ?ク=ノルウェ?のしゅうきょうかいかく)では16世紀前半に、デンマ?ク王室である
オルデンブルク家
の支配地域である
デンマ?ク
、
ノルウェ?
、
スレ?スヴィ公?
及び
ホルシュタイン公?
、
アイスランド
、
フェロ?諸島
、
グリ?ンランド
、
ゴトランド島
、
スコ?ネ
(現
スウェ?デン
)、
サ?レマ?島
(現
エストニア
)において、
ロ?マ?カトリック
から
プロテスタント
(
ルタ?派
)に?じる
宗?改革
が行われたことについて論じる。
1517年
に
マルティン?ルタ?
が「
95ヶ?の論題
」を提出したことにより宗?改革が始まり、1520年代には宗?改革の嵐はデンマ?クおよびホルシュタインにまで達した。
ハンス?タウセン
(
英語版
)
といったルタ?派の支持者は、?時のデンマ?ク?王
クリスチャン2世
の支持を受けたものの、クリスチャン2世を追放した
フレゼリク1世
は貴族やカトリックの支持を受け?位したことから表面上、プロテスタントの布?を批判したが、デンマ?ク??でのプロテスタントの?まりを容認した。フレゼリク1世の息子である
スレ?スヴィおよびホルシュタイン公クリスチャン(後のクリスチャン3世)
は
ヴォルムス帝?議?
にルタ?の講演を聞いたこともあり、
1528年
にルタ?派に改宗した。
伯爵??
終結後、クリスチャン3世は宗?改革を?施しデンマ?クはルタ?派の?家となった。カトリックの聖職者は逮捕、追放されるとともに、ルタ?の友人である
ヨハン?ブ?ゲンハ?ゲン
(
英語版
)
が??をルタ?派に再組織化した(
デンマ?ク=ノルウェ?
は
1537年
、ホルシュタイン公?は
1542年
)。
1537年
に成立した??法は、
デンマ?ク???
、
ノルウェ????
、
アイスランド???
、
フェロ?諸島???
(
英語版
)
の共通の根幹となった。また、
デンマ?ク=ノルウェ?
の宗?改革が引き金となり、クリスチャン3世の孫の
クリスチャン4世
が
三十年??
に新??側として?加することになった。
ルタ?派の?まり
[
編集
]
ハンス?タウセン
1517年
にマルティン?ルタ?が「95ヶ?の論題」を?表し、宗?改革が始まり、その動きは1520年代にはデンマ?クにも達した(勿論、デンマ?ク?にも
人文主義者
の
Poul Helgesen
はルタ?と同?に長い間、ロ?マ?カトリック?部からの宗?改革を試みる動きはあった
[1]
)。1525年には
Antrvorskov
の司?であるハンス?タウセンは
ヴィボ?
でルタ?派の布?を開始した
[2]
。?年後には現在のデンマ?ク王?領域に?たる
ユラン半島
、
フュン島
、
シェラン島
といった地域にルタ?派の?えが?まっていった。フレゼリク1世は
?位憲章
(
デンマ?ク語版
)
でルタ?派を??することを誓約したものの、息子クリスチャンがルタ?派布?を領?で容認していたこと?びに嫁に新?徒である
ドロテア?フォン?ザクセン=ラウエンブルク
を迎えていたこと
[3]
、娘のドロテア(
en
)をルタ?派の
プロシア公アルブレヒト
に嫁がせていたこともあり
[4]
、??には消極的であった。そのため、1526年、フレゼリク1世はヴィボ?の市民にハンス?タウセンの庇護を命令していた
[2]
。また、フレゼリク1世は、クリスチャン2世復位の動きに?抗するために、1526年、諸侯?議を開催し、宗?面ではデンマ?ク領?における司?などの高位聖職者の任命?者が??の
ロ?マ?皇
から
ルンド大司?
(
英語版
)
に?更され、ロ?マに?出した聖職者承認の諸費用は?防費に?換することを決定し、ロ?マ?皇との?係を?絶し
[5]
、「?家???制」を構築した
[6]
。
1520年代後半になると、フレゼリク1世がルタ?派を??することに消極的な態度をとったことから、市民が修道僧を攻?するようになった
[7]
。デンマ?ク?外に追放されたクリスチャン2世はデンマ?クの社?的に不安定な?態を利用し、自身とルタ?派の?義を?めるためのプロパガンダを?行した。
1533年
4月、フレゼリク1世が亡くなったことにより、6月にデンマ?ク王??事?(Rigsraadet)が開催され、新王を選出することになった。ルタ?派であるクリスチャン?位を支持したものは宮廷長官の
モ?エンス?ゴイェ
(
英語版
)
や
マルメ?
市長の
ヨ?アン?コック
(
デンマ?ク語版
)
など少?にとどまり、?事?の多?派を占める司?はルタ?派であるクリスチャンの?位に難色を示し、弟の
ハンス
(
ドイツ語版
)
を擁立した。その結果、?事?は決裂、新王?位の決定は1年後に延期されるとともに、司?は???で何を布?するかを決めることとなった。その上、ハンス?タウセンは異端であるということで糾?され、シェラン島から追放されたが、
ロスキレ
の司?は1カ月も?たないうちにハンス?タウセンを呼び?した。
この?王選出決裂により、貴族と新興階級である市民の?立は明確なものとなった。?事?を通しての貴族政治に不?を持つ
コペンハ?ゲン
やマルメ?の市民はクリスチャン2世の復位を?ることとなった。この頃、
ハンザ同盟
の復?を?った
リュ?ベック
市長の
ユルゲン?ヴッレンヴェ?バ?
(
英語版
)
はデンマ?ク王??事?と交?し、デンマ?クとの同盟を模索していたが、デンマ?ク王??事?は?王不在を理由にハンザ同盟との同盟を拒絶する一方、新興?
ネ?デルラント
、スレ?スヴィ公?、ホルシュタイン公?と同盟した。そのため、ハンザ同盟は?事?に不?を持つコペンハ?ゲンやマルメ?に接近していった
[8]
。
クリスチャン3世の選出と伯爵??
[
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]
クリスチャン3世の選出により、デンマ?クにおける宗?改革は決定的なものとなった。
1534年
1月、ルンド大司?がマルメ?からルタ?派牧師を追放せよという命令に?し、ヨ?アン?コックは拒絶した。マルメ?はすでにルタ?派の布?活動の中心となっていたからである。ヨ?アン?コックは
マルメ城
(
英語版
)
を占?、マルメ?を統括するモ?エン?ギュレンスチャ?ナを逮捕?拘束、他の貴族も拘束、あるいは子弟を人質に取るなどして、ルンド大司?に?抗した
[8]
。5月には、コペンハ?ゲン、マルメ?、リュ?ベックがクリスチャン2世復位を名目に白羽の矢を立てた
オルデンブルク伯クリストファ
がホルシュタイン公?を攻?したことから、伯爵??の火蓋が切られた。オルデンブルク伯クリストファはフュン島、シェラン島といったデンマ?ク東部を支配下に入れた。
オルデンブルク伯クリストファの動きに?し、
1534年
7月、宮廷長官モ?エンス?ゴイェはユラン半島の貴族、司?を招集し?事?を開催した。?事?では下級貴族に押し切られる形でクリスチャンの?王?位が決定、
8月18日
にはクリスチャン3世として
ホ?センス
で?王に?位した
[9]
。
その後、スウェ?デンやプロシア公領を?き?み、?火はユラン半島、フュン島、シェラン島、
スコ?ネ
、
ハッランド
にまで?がった。
1536年
4月6日
にマルメ?は降伏したものの、特?やルタ?派の?義を喪失することはなかった。
7月29日
には長期間の包?により、市民が飢餓で苦しんだコペンハ?ゲンも降伏したが、マルメ?と同?の措置が取られることとなり、伯爵??は終結した(コペンハ?ゲン市長の
アンブロシウス?ボ?ビナ?
(
デンマ?ク語版
)
は自殺)
[10]
。
宗?改革
[
編集
]
ヨハン?ブ?ゲンハ?ゲン
1536年
8月6日
、クリスチャン3世はコペンハ?ゲンに入城した。
8月11日
、??評議?(Krigsraad)を開催し司?逮捕を決定した。翌
8月12日
午前4時頃に、ルンド大司?Torben Bille、ロスキレ司?Joachim Rønnow、リ?ベ司?P. Munkの3司?を逮捕し、王?顧問?議を招集、今回の逮捕劇を?明、追認させた
[11]
。表向きの理由は3司?がクリスチャン3世の?位に反?したこと、その他多くの犯罪行?をしたことであった。しかし逮捕劇の?の狙いは伯爵??で荒?した?土の復興と財政再建のために??が持つ司?領を??し、王領に取り?み王?を?大させること、ルタ?派の?義をデンマ?ク王室の支配領域に?げることであった。その後、多?の司?を逮捕、監禁していった
[11]
。
次いで、
10月15日
から30日にかけて、コペンハ?ゲンで開かれた聖職者を?きにした諸侯?議で、伯爵??の原因が聖職者にあると?罪し、カトリック聖職者の罷免、司?領???領?聖職者領の??、カトリック修道士?修道女の?遇を決定した
[12]
[13]
。
クリスチャン3世は
1521年
のヴォルムス帝?議?でルタ?の講演を聞いて、ルタ?派に改宗しており、
1524年
には彼の領地であった
ハ?ザ?スレゥ
(
英語版
)
及びチュアニング(Tørning)でルタ?派を導入していた
[14]
[15]
。1528年には22カ?からなるハ?ザ?スレゥ規約(
Haderslev articles
)を制定し、??法の下地を策定していた
[16]
[17]
。
クリスチャン3世は支配領域全土にルタ?派の??組織を展開したがっていた。ハ?ザ?スレゥ規約にはすでに各??の監督(Superintends)を決めており、前述の逮捕劇により支配領域全域におけるルタ?派の監督を任命することとなった
[14]
[16]
。
逮捕劇の後、クリスチャン3世はルタ?とヨハン?ブ?ゲンハ?ゲンと接?、彼らはクリスチャン3世勝利に祝意を示した
[16]
。クリスチャン3世は
ザクセン選帝侯ヨハン?フリ?ドリヒ1世
に?して、
フィリップ?メランヒトン
ないしブ?ゲンハ?ゲンをデンマ?クに招聘することを望んだものの、選帝侯は拒否してしまった
[16]
。
ペ?ダ??パラディウス
クリスチャン3世は
ペ?ダ??パラディウス
(
デンマ?ク語版
)
、
ヨルゲン?サドリン
(
デンマ?ク語版
)
、ハンス?タウセン、Frans Vormordsenといったルタ?派の神?者?彼らはすべてドイツの
ヴィッテンブルク大?
で神?の?究をしていた?を用いて宗?改革を行った
[14]
。??法の草稿を決める第1回委員?が
オ?デンセ
で開かれその後の作業はハ?ザ?スレゥで行われた
[14]
[16]
。この草稿はハ?ザ?スレゥ規約、ザクセンの
Utrerrricht der Visitatoren
(
Visitators' lessons
)、ブ?ゲンハ?ゲン著の
Van menigherleie chistliken saken
(
Of several Christian matters
)を元にしている
[18]
。1537年4月、完成した草稿はルタ?がいるヴィッテンブルクに送られ、その後、ザクセン選帝侯はブ?ゲンハ?ゲンをデンマ?クに派遣した。ブ?ゲンハ?ゲンは草稿を修正し、ラテン語からデンマ?ク語に??、その後、デンマ?ク王??事?に提出した
[19]
。ブ?ゲンハ?ゲンが執筆した第2版の??法が完成し、
1537年
9月2日
、クリスチャン3世が
??法
(
Ordinatio ecclesiastica regnorum Daniae et Norwegiae et ducatuum Slesvicencis, Holtsatiae etc.
(
Church order of the kingdoms of Denmark and Norway and the duchies of Schleswig and Holstein etc
))を署名、承認した
[19]
。??法の成立により、デンマ?クでは??の司??に代わり、7名の監督が任命された
[20]
。7名の監督は???議において王と?わなければならなかったし、?王は監督を任命する以上の理論的?威を持つことはできなかったし、一方で7名の監督は知行地や世俗の職業を持つことが許されなかった(とはいえ、このル?ルが?密に守られたわけではない)
[20]
。??法の制定にも?わらず、クリスチャン3世はしばしば??の事件に容喙してきた
[21]
。
??法は聖人崇?、?食、禁欲主義、カトリック由?の愚かな?義と考えられるものを全否定し、その代わりにデンマ?ク語で??での行事を行うよう規定した。ほとんどの修道士?修道女は
フランシスコ?
を除き修道院に留まることが許された。そして、彼らの最後の一人が死んで初めて修道院領は王領に??することとなった。このようにしてシェラン島ではペ?ダ??パラディウスが苦痛を伴う改革を進めたにも?わらず、デンマ?クでは血を流すこともなく?便に宗?改革が進められた。
ラテン語で書かれた??法のデンマ?ク語への??は
1539年
にデンマ?ク王??事?に承認された。ブ?ゲンハ?ゲンは同年、一旦デンマ?クから離れたものの、
1542年
にデンマ?クに?り、??法の承認を?らせていたホルシュタイン公?を訪れ、公??の??に承認するよう交?した。
1542年
3月9日
、ブ?ゲンハ?ゲンが??法を修正した後、スレ?スヴィ=ホルシュタイン??法が地方議?で承認された。
戴冠式が?行されたコペンハ?ゲンの聖母??
??法制定と?行して、ブ?ゲンハ?ゲンはルタ?派の?義に?い、クリスチャン3世とその妻ドロテアの戴冠式を
1537年
8月12日
に?行した。この日はクリスチャン3世34回目の誕生日であり、逮捕劇からちょうど一年?過していた。戴冠式はコペンハ?ゲンの
聖母??
(
英語版
)
で執り行われた。式では??のラテン語ではなく、クリスチャン3世の母?語であるドイツ語が使用され、?外にデンマ?クの?化と、?王の?力を見せつけた
[23]
。
現存する最古のコペンハ?ゲン大?のカリキュラム(1537年)
『
クリスチャン3世欽定?聖書
』
また、
1537年
9月9日
にはブ?ゲンハ?ゲンは、ヴィッテンブルク大?をモデルに伯爵??で休?中となっていた
コペンハ?ゲン大?
をルタ?派の大?として再興した
[24]
[25]
。
1550年
にはデンマ?ク語『
クリスチャン3世欽定?聖書
』の初版が刊行された
[26]
。1556年にはペ?ダ??パラディウスがルタ?派の?義の??として
Altar Book
を出版したがデンマ?ク全土には?がらなかった
[26]
。
ノルウェ?、アイスランド
[
編集
]
デンマ?ク本土と違い、ノルウェ?、アイスランドへのルタ?派導入は?れた。そもそもノルウェ?ではルタ?派の?義は?まっていなかった
[27]
。ニ?ダ?ロス大司?領はハンザ同盟とともに繁?しており、大司?のオ?ラヴ?エンゲルブレクツソンは伯爵??でもクリスチャン2世を支持し、農民を扇動し反?を?げようとした。しかし、伯爵??後の?位憲章でノルウェ?はデンマ?クの一地方に?落し、ノルウェ?王??事??止という決定により、エンゲルブレクツソンは海外に逃亡した。ノルウェ?には新たに監督が任命され、1539年にはデンマ?ク語の??法がオスロとベルゲン代表者?議で承認され、上からの改革が進んだ
[28]
。アイスランドでは、1538年に??法が送付されたが、全島集?アルシングは承認を拒絶した
[29]
ため、1540年、クリスチャン3世はアイスランドに派兵しスカウホルトの司?を逮捕した。その後、1550年にホウラル司?のヨウン?オ?ラソン父子が私物化した??領を守るために城砦に立てこもり抵抗したために再度、クリスチャン3世は派兵し父子を殺害
[30]
し、アルシングに??法を承認させることで上からの改革を進めていった
[30]
。
脚注
[
編集
]
- ^
佐保(2002)p.117
- ^
a
b
佐保(2002)p.109
- ^
佐保(2002)pp.117-118
- ^
佐保(2002)p.108
- ^
佐保(2002)p.114
- ^
佐保(2002)p.119
- ^
佐保(2002)pp.126-127、デンマ?ク宗?改革?連年表。1528年にはハ?ザ?スレゥと
フレンスボ?
で市民が托鉢修道士を追放、1530年にはコペンハ?ゲンでは聖母??が襲?され、聖?が破?されている。
- ^
a
b
佐保(2003)p.63
- ^
佐保(2003)p.64
- ^
佐保(2003)p.69
- ^
a
b
佐保(2005) p.31
- ^
佐保(2005)pp.34-35
- ^
佐保(1999)p.59
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
i
j
k
l
m
n
o
p
Lockhart (2007) p.64
- ^
Lorentzen (2008) p.37
- ^
a
b
c
d
e
Lorentzen (2008) p.38
- ^
佐保(2005)p.37
- ^
Lorentzen (2008) pp.38-39
- ^
a
b
Lorentzen (2008) p.39
- ^
a
b
Lockhart (2007) p.65
- ^
Grell (1995) p.5
- ^
a
b
c
d
e
f
g
Wylie (2002), p. 724
- ^
佐保(2005)pp.36-37
- ^
Grell (1995) p.32, p.38
- ^
佐保(2005) pp.39-40
- ^
a
b
Lockhart (2007) p.66
- ^
Stenersen and Libæk
(2003)(岡??小森?(2005) p.49)
- ^
佐保(1999) pp.61-62
- ^
佐保(1999) p.62
- ^
a
b
熊野?村井?本間?牧野?クリンゲ?佐保(1998) p.136
?考文?
[
編集
]
- 日本語文?(50音順、同一著者がいる場合は?行年順)
-
- 佐保吉一
「デンマ?ク宗?改革における一考察―フレデリック一世時代(1523-33年)の宗?改革を中心に―」『北海道東海大?紀要 人文社?科?系』第15?、
北海道東海大?
、2002年、109-127頁。
- 佐保吉一「デンマ?ク宗?改革における伯爵??(1534-36年)について」『北海道東海大?紀要 人文社?科?系』第16?、北海道東海大?、2003年、57-77頁。
- 佐保吉一「デンマ?ク宗?改革―1536-37年の出?事を中心に―」『北海道東海大?紀要 人文社?科?系』第18?、北海道東海大?、2005年、29-48頁。
- 橋本淳
編『デンマ?クの?史』
創元社
、1999年。
ISBN 4-422-20222-7
。
- 百?, 宏
、
熊野, 聰
、
村井, 誠人
編『北?史』
山川出版社
、1998年。
ISBN 4-634-41510-0
。
- 熊野聰?村井誠人?
本間晴樹
?
牧野正憲
?クリンゲ?佐保吉一 「第5章 近代への序曲」
- Stenersen, Øivind; Ivar Libæk (2003).
History of Norway
. Snarøya, Norway: Dinamo Forlag
(
岡?憲夫監??
小森宏美
?『ノルウェ?の?史』早?田大?出版部、2005年。
ISBN 4-657-05516-X
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)
- 日本語文?以外(ABC順)
-
- Grell, Ole Peter (1995).
The Scandinavian Reformation. From evangelical movement to institutionalisation of reform
(2 ed.). Cambridge University Pres.
ISBN
0521441625
- Lockhart, Paul Douglas (2007).
Denmark, 1513-1660. The rise and decline of a Renaissance monarchy
. Oxford University Press.
ISBN
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Johannes Bugenhagen als Reformator der offentlichen Fursorge
. Studies in the Late Middle Ages, Humanism and the Reformation.
44
. Mohr Siebeck.
ISBN
3161496132
- Wylie, James A. (2002).
The History of Protestantism
. Hartland Publications.
ISBN
0923309802
?連項目
[
編集
]