タタ?ルのくびき
(タタ?ルの?)または
モンゴル=タタ?ルの?
(モンゴル=タタ?ルのくびき、
ロシア語
:
Монголо-татарское иго
、
タタ?ル語
:
Татар-монгол игосы
、
英語
:
Mongol-Tatar Yoke
)とは、
13世紀
前半に始まった
モンゴルのル?シ侵攻
とそれにつづく
モンゴル人
(
モンゴル=タタ?ル
)による
ル?シ
(現在の
ロシア
?
ウクライナ
?
ベラル?シ
)支配を、ロシア側から表現した用語である。現在の
ロシア人
などの祖先である
ル?シ人
の、2世紀半にわたるモンゴル=タタ?ルへの臣?を意味する
ロシア史
上の?念である
[1]
。
「
タタ?ルの
羈絆
」と?することもある
[1]
。
?要
[
編集
]
13世紀、分領制の時代に入っていたル?シは東西からの二大勢力による?しい挑?を受けることとなった。この世紀の初頭には未だ
キリスト?
以前の異?の信仰にとどまっていた
バルト海
沿岸地域に、
ドイツ騎士?
(チュ?トン騎士?)をはじめとする
カトリック
?徒の
ドイツ人
が
北方十字軍
および
東方植民
の活動を開始し、同じ
キリスト?徒
ではあるが
正?徒
であったル?シの人びととの間に衝突が起こるようになった。ドイツ人の侵攻は、
1240年
と
1242年
の2度にわたって
ノヴゴロド公?
の公子
アレクサンドル?ネフスキ?
によって阻まれ、その東進は
エストニア
でとどまり、カトリックによる北ル?シ侵攻は失敗した。
その一方で、
ヨ?ロッパ大陸
でも最も東に位置し、常に
テュルク系
の
遊牧民
と接?していたル?シは、
1223年
、すでに
モンゴル帝?
の最初の襲?を受けていた(
カルカ河畔の?い
)。これは、初代皇帝
チンギス?カン
の治世において、
ホラズム
遠征の一環としておこなわれたもので、このとき、モンゴル軍は南ル?シ諸侯と南ロシア草原のテュルク系遊牧民
キプチャク
(ポロヴェツ族)の連合軍に大勝したが、征服はおこなわなかった
[2]
[注? 1]
。このときの遠征は
中央アジア
を標的としたもので、
キプチャク草原
やロシア方面の占領を目的とした遠征ではなかったため、モンゴル軍はすぐに東方に?還した。
モンゴル帝?第2代皇帝
オゴデイ
は、
1235年
、帝?の首都
カラコルム
(現在の
モンゴル?
?
アルハンガイ?
)に王侯?貴族を招集して
クリルタイ
を開催し、西方への大遠征を決定した
[注? 2]
。チンギス?カンの長男
ジョチ
の采領(
ウルス
)は帝?の西に割り?てられていたので、征西軍の?指揮官にはジョチの次男
バトゥ
が任じられた
[2]
。
1236年
、バトゥ率いる大遠征軍は
川
や沼?の氷結する冬の到?を待って
東ヨ?ロッパ
への大侵攻を開始し、
ヴォルガ川
中流域の
ヴォルガ?ブルガ?ル
を征服した(
モンゴルのヴォルガ?ブルガ?ル侵攻
)
[2]
。モンゴル軍は?いてル?シへ侵攻し、
1237年
から
1238年
にかけて
リャザン
(
?リャザン
)、
ウラジ?ミル
(
ウラジ?ミル?ス?ズダリ大公?
)、
トヴェリ
、
コロムナ
などを次?と占領して北東ル?シを征服、さらに
1239年
から
1240年
にかけては南ル?シに?進し、キエフ?ル?シ(
キエフ大公?
、正式な?名は「ル?シ」
Русь
)の首都
キエフ
を
攻略して破?し
、南ル?シの多くの
都市
や
農村
を荒?させた(バトゥの大西征)。
モンゴル軍の征服は、北西に離れたノヴゴロド公?をのぞくすべてのル?シにおよび、
1240年
までにはル?シの住民ほとんどすべてがモンゴルへの服?を余儀なくされた
[2]
。
1241年
、バトゥは
ハンガリ?平原
(現在の
ハンガリ?
)や現在の
ポ?ランド
を侵略したところでオゴデイ死去の報を聞き、
カスピ海
北岸まで引き返して
ヴォルガ川
下流に?留した。この西征により、バトゥを家長とするジョチ家の所領は
カザフ草原
から
?海
沿岸低地にいたる?大なキプチャク草原にまで?大した。ル?シの人びとは、キプチャク族などテュルク系遊牧民が自身よりも東方に本?を置くモンゴル系遊牧民たちを「タタル」(
古テュルク語
で「他の人びと」)と呼びならわしていたのにならい、ル?シを征服したかれら東方遊牧民を「タタ?ル」(漢字表記は「??」)と呼んだ
[3]
。
ジョチ家の所領(
ジョチ?ウルス
)は、こののち次第に緩やかな
連邦
へと傾斜していくモンゴル帝??で自らの自立性を?めていったため、ジョチ?ウルス(金帳汗?)とも呼ばれる。こうしてノヴゴロドを含む全ル?シはモンゴル帝?の支配下に組み入れられ、ル?シの人びとはモンゴルへの貢納を?制された
[1]
。このモンゴル=タタ?ルによる支配のことをロシア史では「タタ?ルのくびき」と呼んでいる
[1]
。「タタ?ルのくびき」は、
モスクワ大公?
が
1480年
に貢納を?止し、他地域も相次いでモンゴルからの自立を果たすまでの200年以上にわたって?いた。ロシアはその後
16世紀
初め頃までに「タタ?ルのくびき」を完全に?するが、その後も
クリミア半島
やヴォルガ川流域、
シベリア
など?範?にひろがるテュルク=モンゴル系の人?を「タタ?ル」と呼んだ。
やがて、
ピョ?トル1世
(大帝)によって
18世紀
前半に創始された
ロシア帝?
は、この世紀の末までにはタタ?ル諸民族居住域の大部分を支配下に置くこととなった。
モンゴル人のロシア支配
[
編集
]
キエフ大公?分裂後の分領制時代にあっては、ポロヴェツ人(キプチャク族)とル?シ諸公とのあいだは平?なものとなっており、?者のあいだには
婚姻
?係も結ばれて互いに
親族
となっていた
[2]
[4]
。ポロヴェツの
首長
は、モンゴルの襲?を予見して正?に
改宗
し、南ル?シの諸公に?して援軍を要請した
[2]
[4]
。南ル?シ諸公とポロヴェツの連合軍は、1223年、チンギス?カンの忠?な家臣で、勇猛さと思慮深さで知られた
スブタイ
と
ジェベ
によって指揮されたモンゴル軍先遣隊(偵察隊)に?し、ル?シの領域外の
カルカ川
まで出征して挑んだが大敗を喫した
[2]
[5]
。
1237年、ジョチの子バトゥが再び大軍を率いてル?シを攻略、さらにヨ?ロッパへの大規模侵攻を開始した。これに?し、ル?シの?結は整わず、この年の12月、リャザン公?が6日間の抵抗ののちに?落した
[4]
。公の一族は皆殺しにされ、ロシア側の
文?資料
では、このとき
女性
や
子ども
、
聖職者
にいたるまで凄?な殺戮があったことを詳細に記している
[2]
。
また、
ウラジ?ミル?ス?ズダリ大公?
、ノヴゴロド公?、
ハ?ルィチ?ヴォルィ?ニ大公?
などル?シに割?していた諸?も抗?したが完敗した。1238年のウラジ?ミル大公?攻略の際、モンゴル軍は途中の
モスクワ
で捕虜としたユ?リ??フセヴォロドヴィチ(
ユ?リ?2世
)の末子をウラジミ?ルの?金門の外に立たせて攻め?んだ
[4]
。
ウラジ?ミル大公
のユ?リ?は、このときウラジ?ミルを?出して北方に退却したが、彼の末子は斬殺され、ウラジ?ミルに?された彼の家族は
生神女就?大聖堂
(ウスペンスキ?大聖堂)に立てこもったが聖堂とともに?き殺された
[4]
。北方へ?出したユ?リ??フセヴォロドヴィチは、同年中、
シチ河畔の?い
でモンゴル軍に敗れ、そこで?死している
[2]
。なお、現在、生神女就?大聖堂の?金門も大聖堂も復元されており、?失を免れた大聖堂の
扉
のみは?時のものである
[4]
。
かくして、泥?地に?まれた北端のノヴゴロドをのぞく全ル?シが征服された
[6]
。モンゴルの侵攻によってル?シの多くの町が?き?われた。都市の再建は停?し、
ステップ
(草原)地?などでは?百年にわたり再建が進まなかった都市もある。
1245年
、モンゴル皇帝
グユク
に謁見するため
ロ?マ
からカラコルムに向かった
ロ?マ?皇
インノケンティウス4世
の使者
プラノ?カルピニ
は往路途中、古都キエフが今や
骸骨
の散?する
?墟
であり、わずか200世?の寒村となってしまったことを記?している
[2]
[7]
。
ヴォロネジ
の再建は
16世紀
に至ってのことであり、リャザンの再建は?念されて55キロメ?トルも離れたペレスラヴリの町に中心が移った。
この征西については、ル?シは殺戮により人口の約半分を失ったとする見解もあれば
[8]
、
コリン?マッケヴェディ
(
英語版
)
の推定のように、ル?シの人口はモンゴル侵攻前の750万人から700万人に減ったとして?牲者の??を約50万人とする見解もある
[9]
。
モンゴル人は大征西ののちもル?シの地を去ることはなく、カラコルムを本?とする
カアン
にしたがう一方、ほぼ
ドナウ川
以東の?大な地域を支配した
[2]
。そして、ヴォルガ川支流
アフトゥバ川
の河岸に?金の陣?(
オルド
)を建て、ここに首都
サライ
(現在の
ロシア連邦
?
アストラハン州
)を築いてキプチャク草原とル?シに?する支配を?けた。これが、モンゴル帝?の西方を管轄するジョチ?ウルスであり、この?をロシアでは「金のオルダ(本陣)」と?したところから「金帳汗?」とも表記される
[4]
。首都のサライは最盛期には人口60万人に達したと推定され、中世世界で最大級の大都市として繁?した
[注? 3]
。
ジョチ家のウルスであったジョチ?ウルスは、
ラシ?ドゥッディ?ン
編纂の『
集史
』によれば、その東半分をバトゥの兄
オルダ
が統括し、4人の弟(ウドゥル、トゥカ?チム?ル、シュソグクル、シソグクル)をしたがえて弟とともに軍の左翼を指揮したのに?し、バトゥはウルスの西半分と軍右翼を統括した
[2]
。つまり、ハン?はジョチの2人の息子(バトゥとオルダ)で二分されていたほか、他の兄弟もそのなかに自らのウルスを保有していたということであり、その意味ではハン?は諸ウルスの連合?としての性格が濃かった
[2]
。そのため、?代のジョチ?ウルスのハンはジョチ家の家長であったにもかかわらず、個?のウルスの長に?しては必ずしも?力な統率力を行使できたわけではなかった
[2]
。
ジョチ?ウルスの中央?力機構は、ベクリャリベク(長老エミ?ル)をリ?ダ?として軍事指揮???外交??をもつ系列とヴィジ?ル(
宰相
)をリ?ダ?として財政???部門を管轄する系列とに二分されていたが、征服?家としての性格を反映して前者の?威の方が高かった
[2]
。そして、ベクリャリベクの下には方面軍指揮官とでもいうべき4人のウルス?ベクがおり、その下に70人のチョ?ムニク(万?長)、その下にトゥイシャチニク(千?長)が配置されていた。いっぽうのヴィジ?ルには、その下に主として??を??するダル?ガが置かれた(詳細後述)
[2]
。
1243年
、バトゥはサライにノヴゴロド公ヤロスラフ(
ヤロスラフ2世
)を呼び出し、ウラジ?ミル大公位を認めて「ル?シ諸公の長老」としての地位をあたえた
[2]
。ウラジ?ミル大公位はもともと、
ウラジ?ミル?モノマフ
の子孫の最年長者に?えられる爵位で、バトゥの征西の頃には名目化して特別の??をともなうものではなかったが、ハンの?任令書(ヤルリイク)を受けて?任されると、慣例によって自らの領地に加え
ウラジ?ミル
とその周?の領地を?せ、ロシア諸公間の第一人者であることが認められて、さらにハンとの交??があたえられた
[1]
[注? 5]
。ヤロスラフは、
シチ川
で死んだウラジ?ミル大公ユ?リ?2世の弟であった
[4]
。兄の位を?承したヤロスラフであったが、
1246年
、第3代
グユク
のカアン?位式に赴いた先のカラコルムにて死去している。これについては、モンゴルによる
毒殺
だという記?が同時代の史料に確認されている
[2]
。
1247年
、ヤロスラフの子息たちがサライ、さらにはカラコルムに呼び出されたが、3年間は??が許されなかった
[4]
。兄のアレクサンドルはキエフと全ル?シの大公に、弟のアンドレイはウラジ?ミル大公に任じられた
[10]
。
これ以後、300年近くにわたってサライのハンたちはル?シ諸公を臣?させ、
ウラジ?ミル大公?
やル?シ諸?の首長に「大公」「公」の??を許し、貢納を義務づけるという?係が?いた。ハンは、13世紀後半の
モンケ?テムル
のころより「
ツァ?リ
」「ツェザ?ル」(ともに「皇帝」の意)と呼ばれ、公たちの上に君臨した
[4]
[注? 6]
。ノヴゴロド公?、ハ?ルィチ公?、
スモレンスク公?
、
プスコフ公?
などル?シ西部の諸?もふくめ、ル?シのすべての?がモンゴル帝?に?った
[11]
。
ノヴゴロド公ヤロスラフの子でドイツとの??に生涯を捧げたアレクサンドル?ネフスキ?もまた、ジョチ?ウルスに?し恭順の意を表した。なお、キエフ大公の??を得たもののウラジ?ミル大公位の得られなかったアレクサンドルはこの決定に不?をもち、
1252年
にサライに赴いてこれを訴え、ウラジ?ミル大公への勅許?(ヤルリイク)を得た
[10]
。一方のアンドレイは、バトゥと反目するカアン家の後援を受けた。このように、ジョチ?ウルスのハン(ジョチ家)とカラコルムのカアンの確執はロシア諸公を?き?んだ
[2]
。
ジョチ?ウルスの住民構成は、
人種
的にみればきわめて多?であった。純然たるモンゴル人はむしろきわめて少?であり、住民の大半はテュルク系のポロヴェツ人(キプチャク族)、
ヴォルガ?ブルガ?ル
、
バシキ?ル人
および
チェルケス人
、
東スラヴ人
すなわちル?シ人、
印?語
系で
ペルシャ語
に近い
オセット語
を話した
ヤ?ス人
、
フィン?ウゴル
系の
ブルタス族
(
英語版
)
などである
[2]
。ハン?の中心をなすキプチャク草原に限っていえば、その?倒的多?者はポロヴェツ人(キプチャク族)であった。モンゴルの征服によってポロヴェツ人はその
臣民
となったが、?者はほぼ同じ場所で遊牧生活を送り、さかんに婚姻?係を結んだため
混血
が進んでたがいに親族となっていった
[2]
。
自らの存立基盤でもあるステップ地?にあっては、モンゴル人支配層は直接統治を採用した。そのため、キプチャク草原における遊牧民の社??係には大きな?化が生じた
[2]
。ロシアの年代記は、モンゴル人の侵入以前にはポロヴェツ族の諸公の名を?十名も記載しているが、侵入以後には1名も言及していない。モンゴル人はロシアの諸侯や
ハンガリ?王
あての書?には、ポロヴェツを「
奴隷
」と書き記しており、また、自分たちの
氏族
や部族の
英雄
の像を製作するというポロヴェツの
風習
も13世紀から14世紀にかけて失われたものと考えられる。このことは、??のポロヴェツの支配層はその地位を失ったことを意味している
[2]
。また、遊牧民のなかには、モンゴル支配層によって?制的に遊牧地を移動させられた事例も認められる
[2]
。
ジョチ?ウルスの支配層であったモンゴル人たちは、やがて言語的には
テュルク語
化、宗?的には
イスラ?ム?
化していった。
15世紀
にはジョチ?ウルスは解?と再編成が進み、クリミア半島に
クリミア?ハン?
、ヴォルガ川中流域に
カザン?ハン?
、西シベリアに
シビル?ハン?
などが成立した。これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系など多?な民族が混交し、こんにち、それぞれクリミア?タタ?ル、ヴォルガ?タタ?ル、シベリア?タタ?ルと呼?される諸族が形成されていった。タタ?ルのなかには、ロシアや
ル?マニア
に移住して、キリスト?を受け入れて現地に同化する者も少なくなかった。そのなかには、
ユスポフ家
や
カンテミ?ル家
など、のちに有力な
貴族
領主
となった家系もある。
??
[
編集
]
間接統治とヤルリイク
[
編集
]
ル?シ諸?のモンゴルへの臣??係を示す用語が「タタ?ルのくびき」である。この表現は、ル?シがモンゴル人の苛酷な支配下にあったこと、そして、この時代がロシア人にとっては「不幸」な時代であったことを含意することは明白である
[12]
。それに?し、?際には、征服事業の初期において、モンゴルに服?しない
?家
や都市に?しておこなった殺戮行?や略奪行?を除けば、この用語から受ける一般的な印象ほどには苛酷な統治ではなかった、あるいは、抑?的な?制ではなかったという指摘もある。
たとえば、モンゴル史?究の
杉山正明
は、ロシア人史家の語る「タタ?ルのくびき」はあまりにも「愛?主義」の影響を?く受けていることを批判している
[13]
。そして、近年の
栗生?猛夫
の一連の業績を評?して、13世紀?時のル?シ年代記は元?きわめて?が少なく、なおかつ、モンゴル人による破??虐殺に?する?述もほとんどないこと、また、年代記の記述はむしろ、時代がくだるにしたがってル?シの被害がどんどん?えていくことを指摘して、後世のロシア年代記を無批判に受け入れる?究手法そのものを批判している
[13]
。
?際のところ、ジョチ?ウルスのハンは基本的にル?シ諸公を?さず、彼らを通じて統治した
[12]
。そして、モンゴル支配の時期、ル?シ西部とヨ?ロッパとの
交易
は、ル?シと中央アジアなどとの交易と同?、一定の割合で伸長を?けていた
[14]
。ル?シがモンゴルの支配に服したことによって、ヨ?ロッパとアジアにまたがる?大な帝?の存在が保?する東西交易の恩?は、ル?シの地にもおよんだ
[4]
。
また、?のうえで少?派であったモンゴル人たちの征服地への定住はまばらなものであった。モンゴル人たちはステップ地?については直接統治をおこなったが、定住
農耕民
の住む征服地については直接支配を好まず、多くの場合、先住農耕民の首長を通しての間接統治を採用した
[2]
。このことは、その生活?式から影響を受けることによってモンゴル人が農耕民族化し、軍事的に弱?化してしまうことを怖れたチンギス?カンの遺訓を、子孫たちが墨守した現れとみることも可能であるが、それにもまして、モンゴル人たちが、ロシア??の交易ル?トやロシアからの貢??入よりも、ヴォルガ川からクリミア半島を?由して
?海
へ至る
隊商
ル?トとホラズム、ヴォルガ?ブルガリア、クリミア、
カフカ?ス
(コ?カサス)地方などからの??的な?入の方をいっそう重視したためでもあった
[2]
。?際、隊商ル?ト沿線の諸地域に?しては、モンゴル人は直接統治を選?しており、このことについて?史?者の
加藤一?
(中世ロシア史)は、ジョチ?ウルスにとってのロシアの位置は、
元帝?
(大元ウルス)にとっての
高麗
の位置に相似すると指摘している
[2]
。
元の世祖
クビライ
は、
??
となった
高麗王
に?し、
人口
調査にもとづく貢?の納入や兵力の提供、
ジャムチ
(??)の設置を義務づけ、監督官として
ダルガチ
を置くことを命じているが、ジョチ?ウルスもまた??したル?シ諸?に?し、基本的にはクビライの?高麗方針と同?の姿勢で臨んでいる
[2]
。このことは換言すれば、ル?シの人びとからすれば、十分な貢納と
軍役
さえ果たせば、被支配民族ではあっても日?の生活をそれほど干?されることはなく、??通り、比較的自由に
農耕
や
商業
などの生業が?けられるということを意味した
[2]
。ジョチ?ウルスのハンは、ル?シ諸公が忠誠を誓い、納?と軍役の義務を負うと約束する限りは、ハンの特別?書である「
ジャルリグ
(?任令書)」(ロシア語に基づきヤルリイク、ヤルルィクとも)をあたえて彼らの統治?や?得?益そのまま認めた
[1]
[2]
。ただし、地位と身分が保障される代償として、ハンの派遣したバスカク(??吏と目付を兼ねた代官)やチスレンニク(人口調査官)の任務には協力しなければならなかった
[1]
。
ル?シでは、チンギス?カンが中央アジアでおこなったような、懲戒として
灌漑
施設を破?し、半永久的に農耕不可能とするような事態は生じなかった。ル?シと中央アジアとの交易路は整備され、モンゴル帝?による交易保護政策によって東西貿易が活?化し、ル?シはここから利益も得ていた。北東ル?シの諸公は南西ル?シの諸公に比すると、いわば「
本領安堵
」を求めて自?的に征服者に?し恭順の意をあらわした。このことについて、北東ル?シは、徹底的な打?を受けた南西ル?シとは異なり、ポ?ランドやハンガリ?など後方で退避できるような場所をもたなかったのに加え、風土的にも南西ル?シにくらべ
?制
支配を受け入れやすい環境にあったという指摘がある
[2]
。
ジョチ?ウルスは、ル?シに?しては間接統治で臨み、決まった
?金
をサライに納めることや?時に?軍することを義務づけたのみであったが、諸公の任免の最終決定?はハンの手に握られていたため、主として
領土
の
相?
をめぐって相互に敵?する諸公たちは、貢納のため頻繁にサライに赴き、敵?者との
紛?
で不利な裁定をされたりしないように
宮廷
やハン周?の?力者への付け?けをしなくてはならなかった。納?や?軍の義務を怠れば、その懲罰として大軍の侵攻を受け、たちまち?力を失う立場にあったことは明らかであり、ル?シ諸公がハン?を訪れた事例は、ハン?の成立直後から知られている
[12]
。政治的忠誠と軍事的奉公を?件として「本領安堵」するというヤルリイク授?制度は、モンゴルの支配層にとって、?ル?シ統制の要であり、諸公のサライ詣(もうで)とヤルリイク制度は、ル?シがハン?に服?していたことのまぎれもない??であった
[2]
[12]
。ただし、モンゴル人支配者は全?としてはル?シ社?における公位?承の?慣を可能な限り重んじ、特殊な事情のない限りはそれに違背することはなかった
[15]
。
宗?政策
[
編集
]
モンゴル=タタ?ルの支配が、一般に考えられているほどには過酷な性質のものでなかったことは、その
宗?
政策からもうかがえる。モンゴルによる征服??がたとえ容赦のないものであったにしても、いったんル?シ支配が確立するや、被支配民族の信?に?しては?容であり、むしろ鷹揚とさえいってよかった
[15]
。モンゴル帝?の支配層は
テングリ
信仰を主とする
シャ?マニズム
を信じていたが、征服や支配に際してしばしば?生する狂信性や宗?的情熱とはおよそ無?であった。
中東
を征服したモンゴル人やサライのジョチ?ウルスの支配者たちは、イスラ?ム?や正??を根絶しようとはせず、被征服民族の影響を受けて自分たちがイスラ?ムに改宗することはあっても、他宗?に?する?容さを保持した
[16]
。若いときから
スウェ?デン
軍やドイツ騎士?という西からの脅威(北方十字軍)と?決してきたアレクサンドル?ネフスキ?が、モンゴル支配を容認するという路線を採用したのも、モンゴル人が宗?上?容だったためである
[2]
。
ジョチ?ウルスはル?シ人に?し、首都サライに正??の
主?
を置くことさえ認めていた。バトゥの長子でハン位を?承した
サルタク
は
ネストリウス派
のキリスト?徒であったし、サルタクと?立してサルタク死去後にハンとなったバトゥの弟
ベルケ
はイスラ?ムを奉じた
[2]
。ジョチ?ウルスの王族であった
ノガイ
(ジョチの七男ボアルの孫)もまた、東ロ?マ帝?の皇女と婚姻?係を結び、自分の娘をル?シの首長に嫁するなど他の諸勢力との宥和を?っている。
近代
ロシアの?史家、特に
ソビエト連邦
時代の?史家や
レフ?グミリョフ
らに影響を受けたソ連崩?の
ネオ?ユ?ラシア主義
に?って立つ?史家は、「くびきなどなかった」「モンゴルのロシア支配などなかった」という
??
を提唱している。この主張では、ル?シ諸?はむしろ、西方のドイツ騎士?など
ロ?マ?カトリック
勢力からの、いっそう直接的な脅威にさらされていたと把握し、東方のモンゴル諸?とは防衛上の
同盟
を結んだものと解?される。
ロシア革命
後に
チェコ
、次いで
アメリカ合衆?
に亡命したユ?ラシア主義者の
ジョ?ジ?ヴェルナツキ?
(
英語版
)
によれば、分裂が進んだル?シはモンゴルから?制支配とそれを支える諸制度を?び、のちの
ロシア?ツァ?リ?
はむしろモンゴル帝?の後??家としてユ?ラシアの支配に?り出したと理解される
[17]
。ただしこれに?して、諸侯分立から王の?制へという動きは全ヨ?ロッパ的な現象であり、必ずしもモンゴルの影響を必要としないという反論はありうる
[17]
。また反面では、多くのロシア人がタタ?ルのル?シ支配を「くびき」ととらえてきたこともまた事?である
[12]
。
ジョチ?ウルスでは、モンゴル帝?同?、宗?上の?容が認められていたが、14世紀の
ウズベク?ハン
の時代にはイスラ?ムがハン?の公式の宗?となった
[4]
。イスラ?ムを受け入れなかったタタ?ル人はル?シに流れ、公に仕える者も現れた。その結果、タタ?ル出自のロシア人の
姓
が多?生まれた
[4]
。
一方、モンゴル人はル?シ??の慣行?習慣を重んじ、??や修道院からは貢?を??しなかったため、モンゴル支配下の正??はむしろ勢力を?大し、??的にも富裕となって、ル?シの人びとの精神生活に深く入り?み、寸?されたル?シの人びとを結びつける役割を果たした
[15]
。
ダル?ガとバスカク
[
編集
]
サライに定住したのち貢納を受け取るだけの?なる
貴族
となったモンゴル人であったが、ジョチ?ウルスに?する遊牧民がル?シの?境にあるかぎり、ル?シの人びとは遊牧民の侵入や略奪から完全に免れることはできなかった。侵入は?際には頻繁ではなかったものの、ひとたび侵入が起こると、おびただしい?の?牲者が出て、土地は荒?し、
疫病
や
飢餓
も蔓延した。ル?シ諸?は、南方のステップからの遊牧民の襲?に?する防衛のため?費の多くを割かざるを得なかった。
ル?シの人びとは、固定額の貢納(
人頭?
)を賦課された。?初モンゴルはすべての人やものの10分の1を要求したといわれるが、これが文字どおり?施されたかどうかは定かではない
[12]
。ジョチ?ウルスの初期には、ル?シの各地にモンゴルの代官がやってきて人びとから?算額を??しただけであったが、
1257年
、クビライの女?キタトがル?シ方面のダルガチ(ロシア語ではダル?ガ)に任命されている
[2]
。ダル?ガは、???域での人口調査(チスロ)や
?兵
、課?と??、??制の確保、
法
の執行と秩序維持の任務にあたった
[2]
。同年、ル?シでは人口調査がおこなわれ、ノヴゴロド周?と???係者を除いて、10?、100?、1,000?、10,000?の行政?位に?分されて「納?者名簿」に登?された
[2]
。
キタトや人口調査官が人口調査の任を終えて??したのち、ル?シにはバスカクという官が置かれ、
1259年
ごろからは人口調査に基づいて貢納額が定められた。バスカクは、その?態についてよくわかっていないところも多いが、加藤一?は少?の手兵を率いた「諸侯の活動の監督官」とみており、
栗生?猛夫
は、ル?シ各地に駐留し、????兵作業を監督して治安維持をはかった地方官としている
[2]
[12]
。ダルガチが「印を押す」という
モンゴル語
を語源とするのに?し、バスカクも「押す」「?する」を意味するテュルク系の?語に由?しており
[2]
、ダル?ガとバスカクの職務?限はほぼ同じであると考える?究者が多い一方、ダル?ガを軍政官、バスカクを民政官として?別して考える?究者もいる
[12]
。
「タタ?ルのくびき」の象?ともいえるバスカクは14世紀初めまでの年代記記事のなかに多く確認され、その後はあまり言及されなくなる
[12]
。同じころ、ル?シ諸公が自ら貢?(ヴィホド)を集めることが認められてようになってくるので、?該期にバスカクが?止され、諸侯がその職務を引き?いだのではないかと推論する立場がある
[12]
。それに?し、
1327年
のトヴェリの?タタ?ル反?を契機として、あまりに抑?的なバスカク制が?止されたとみる?究者もいて意見の分かれるところである
[12]
。いずれにせよ、最終的に地元の公や大公に貢納の?限が一任されたため、それ以後はル?シの大公?公が自領民に?し重?を課すようになり、ル?シの民がジョチ?ウルスの貴族や
官僚
に直接?う機?はなくなった。
このあとの
史料
ではむしろダル?ガへの言及が多く確認されている
[12]
。ダル?ガ自身はサライなどハン??の都市にいてル?シ各地の統治にあたり、ときに
使者
(ボスルィ)を派遣してハンの意志を?達したものと思われる
[12]
。
??制度
[
編集
]
モンゴル人は、「ジャムチ」と呼ばれた??制度をル?シの地に持ち?んだ。ジャムチの制度はモンゴル帝?において、首都カラコルムと地方とを結ぶ幹線道路の10里ごとに?を設け、各?に車馬や人夫、
宿?
、
?食物
を提供し、官吏や使者の護送や物資の輸送に利用した
[2]
。この仕組みを維持するために周?の住民からは???を??したが、ジャムチの制度によって?大な地域を統制することが可能となった
[2]
。この制度はル?シにも移植され、ロシア語では「ヤム」と呼ばれた
[2]
。
モンゴル支配からの?却
[
編集
]
ル?シを名目上支配してきたキエフ大公?、およびル?シに割?する諸公?に?するモンゴル侵入の影響は決して一?ではなかった。ジョチ?ウルスの成立以後、ル?シにおける政治は、その重心を南西ル?シのキエフから北東ル?シの
ウラジ?ミル
へと移した
[18]
。上述のように、ハン?成立後ただちにサライをおとずれバトゥに服?の意志を示したウラジ?ミル大公ヤロスラフは「ル?シのすべての公の長」として遇された。しかし、そのウラジ?ミルもまたモンゴル軍の徹底的な破?により住民が四散しており、35年間も主?不在の?態がつづいていた
[18]
。
キエフやウラジ?ミルのような??の中心都市がモンゴルによる破?から立ち直ることがなかなかできなかったのに?し、北に遠く離れた
自由都市
のノヴゴロドのみは侵略を免れた。ヤロスラフもその長子アレクサンドル?ネフスキ?も大公としてウラジ?ミルに居を定めたが、その後?者たちは大公となってもウラジ?ミルには移らず、みずからの世襲領?やノヴゴロドにいることが多かった。しかし、モンゴル侵入によってル?シの諸?が崩?した後の空白地?であった
トヴェリ
や
モスクワ
などでは、そこを本?とした勢力が台頭し、やがてノヴゴロドを?迫するようになった。それが
トヴェリ大公?
であり、
モスクワ大公?
であった。モスクワは、キエフ?ル?シの時代には名前も知られていなかった北東ル?シの小都市にすぎなかった。そして、モンゴルのハンによって?重に支配、管理されるようになったル?シ諸侯のなかから、モンゴルとの?係を巧妙に利用し?力を握っていったのが、ウラジ?ミル大公アレクサンドル?ネフスキ?と北東ル?シの諸公?に分封されたその子孫たちであった。
1263年
、アレクサンドル?ネフスキ?が死ぬと、弟のトヴェリ公ヤロスラフ(
ヤロスラフ3世
)がウラジミ?ル大公位を?承し、彼の末子
ダニイル
がモスクワ公?を受け?いだ
[19]
。ダニイルは幼少だったため?初は叔父のヤロスラフ3世の後見を受けていたが、やがて?者は大公位をめぐって?立するようになった
[19]
。この?立はそれぞれの子の代に決定的となった。モスクワ公ユ?リ??ダニイロヴィチはサライに2年間とどまり、ハンと姻戚?係をむすんでウラジミ?ル大公位を認められたが、それまでの大公でトヴェリ公の
ミハイル?ヤロスラヴィチ
はこの決定に?わなかった
[19]
。ミハイルと交?してサライに逃げ?ったユ?リ?は、ミハイルの反逆をジョチ?ウルスの第10代君主である
ウズベク?ハン
に訴えた
[19]
。ミハイルはサライに召喚されて?刑され、ユ?リ?は
1318年
にウラジ?ミルに入ってウラジ?ミル大公
ユ?リ?3世
となったが、
1325年
、ミハイルの息子
ドミ?トリ??ミハイロヴィチ
によって殺された。ドミ?トリ?もまた父同?ウズベク?ハンにより、ハンの命令に?わなかったとして?刑された
[19]
。
この?いから?け出したのは、ユ?リ?3世の弟のイヴァン(
イヴァン1世
)であった。
1327年
、ウズベク?ハンが意?したバスカク(代官)制度復活に?し、トヴェリで民衆の暴動が起き、トヴェリ公
アレクサンドル
がジョチ?ウルスに?する反?勢力に加わると、ウラジ?ミル大公位をめぐって再び?立?係にあったトヴェリの最大のライバル、モスクワ公イヴァン1世はモンゴルの側に回り、ウズベク?ハンとともにトヴェリを破って、これを徹底的に破?した。イヴァン1世はトヴェリ公を追放させ、ウラジ?ミル大公位を獲得することに成功した
[20]
。これ以後、?代のモスクワ公はウラジ?ミル大公を?占することが多くなり、
モスクワ大公
の??で呼ばれるようになった。ル?シの??のなかでもモスクワが北部および東部で勢力を?めることができたのは、南部ル?シの大?がモンゴルによって徹底的に?滅されてしまったことが要因のひとつであり、また、モンゴルの側からすれば、モスクワが他?以上に多額の?をハン?にもたらしたと考えられる
[15]
。モスクワ公がこの時期さかんにノヴゴロドに介入し、ノヴゴロド公の地位を兼ねることに力を入れていることも、この豊かな都市?家を支配下に?めることで貢?の資金を得ようとしたものだと考えられる
[15]
。イヴァン1世は、ハンのために??した?の一部を着服して豊かになり、その財力で領地を買い集め、結婚政策や武力も用いて領土?大に努めた
[20]
。
1326年
、モスクワ大公イヴァン1世は、モスクワに最初の石造の??堂である
ウスペンスキ???堂
を建てたうえで、
コンスタンティノ?プル?主?
にもはたらきかけ、全ル?シの最高位聖職者で?時はウラジ?ミルにいたキエフ府主?をモスクワに迎え入れた
[20]
。そして、
1328年
にはモスクワに「キエフ及び全ル?シの府主?」を遷座させることに成功した
[20]
。これによってモスクワは、精神的にもキエフにかわってル?シの中心地となっていった。モスクワ公?は
モスクワ大公?
と呼ばれるようになり、モスクワ大公は、ル?シ諸?を代表してその意思をジョチ?ウルスに?え、ル?シ諸?に?してはジョチ?ウルスの意向を?える立場になり、その?力はますます?化された。モンゴル=タタ?ルの遊牧民はしばしばル?シの各地方を襲って略奪をはたらいたが、モスクワ大公の支配する土地に?しては一定の敬意を?った。こうして、貴族やその部下たちは比較的平和が保たれたモスクワ大公?に集住するようになり、ル?シ諸?もモスクワの庇護下に入ろうとする傾向が生じた
[21]
。イヴァン1世は
??
に力を入れ、諸公?がハンにおさめる?の納入を引き受けて、勢力を?大し、「カリタ?(金袋)」の異名をとった
[20]
。豊かな財力にものをいわせ、正?世界におけるモスクワの指導性を打ち立てた彼は、貧者への施しもまた忘れなかった
[20]
。
1359年
より始まるイヴァン1世の孫のドミ?トリ?(
ドミ?トリ??ドンスコイ
)の時代、モスクワ大公?は試練をむかえた。のちに英雄視されるドミ?トリ?は善良で知られるトヴェリ公
ミハイル?アレクサンドロヴィチ
をモスクワに招き、
牢
に投じて服?を?要した
[19]
。それに?し、かろうじてトヴェリに?還したミハイルは、妹の夫で
リトアニア大公?
(ロシア語ではリトヴァ)の大公
オリゲルド(アルギルダス)
と盟約を結んでモスクワを攻めようとした
[22]
。?時、リトアニアはキエフや
スモレンスク
も領土に加えた大?となっていた
[22]
。オリゲルドはきわめて野心的で、年代記によれば「?賢い」「狡猾な」と形容される人物である
[22]
。彼は弟(ケイストット)とともにしばしば
ドイツ騎士?
を破って、その東進を阻む一方、自らも南東方向に進出してモンゴル勢力の?逐に努めた
[22]
。オリゲルド陣?に付けばモンゴル支配から?することができると考えた人びとはリトアニアに降った
[22]
。こうした情勢に?じ、オリゲルドは全ロシアの覇?をもくろんだ
[22]
。オリゲルドにそそのかされたトヴェリ公は、
1368年
、
1370年
、
1372年
と3度にわたってモスクワを攻めたが、モスクワ側があらかじめ城壁を石造にしていたこともあって、いずれも不首尾に終わった
[19]
[22]
。
この?立には、依然としてジョチ?ウルスの介入が?方から求められた。トヴェリ公ミハイルとモスクワ公ドミ?トリ?は、交互にウラジ?ミル大公位に就任することを認められたが、?方ともこれを名分として相手を蹴落とそうとした
[19]
。最終的には1375年にドミ?トリ?は大軍を動かしてミハイルを屈服させ、ついに和約を結んだ。トヴェリ公はモスクワ公の優位を認め、タタ?ル軍と???態に入ったときには共同作?をおこなうことで合意した。こうしてル?シは結束してタタ?ル軍に?するという方向がようやく見えてきた
[19]
。
いっぽうのジョチ?ウルスは、
1357年
に
ベルディ?ベク
が父殺しによってハン位を奪取したのち、反?派への??から始まる果てしない混?の時期にあった。多年にわたる?紛のために統一は損なわれ、台頭するモスクワ公?の?展を抑えることはできなくなっていた
[23]
。ベルディ?ベク死去後のジョチ?ウルスはさらに混迷の度を加え、この時期には
ママイ
と
トクタミシュ
の2人がハン?の主導??いをつづけていた
[19]
。トクタミシュが、
1370年
に
サマルカンド
にムスリム王朝をひらいた
ティム?ル
に助力を求めたのに?し、ママイの方はル?シへの影響力?大によってこれに?抗しようとした
[19]
。ママイはリャザンやニジニ??ノヴゴロドを??させ、リトアニア大公
ヤガイロ(ヤゲウォ、ヨガイラ)
からの加勢の約束を取り付けて、弱?化した?力の再建をはかってモスクワ遠征を企てた
[23]
。ママイ軍にはタタ?ルばかりではなく、
北カフカス
の諸民族や
クリミア半島
で集めた
傭兵
隊も加わり、?兵員は20万人をかぞえた
[23]
。
1380年
、
ドン川
流域で??が起こり、ドミ?トリ?率いるモスクワ大公?軍は、ママイ率いるジョチ?ウルス系政?(ママイ?オルダ)およびリトアニアなどの連合軍を破り、「タタ?ルのくびき」からの?却の第一?を踏み出した。これが史上名高い「
クリコヴォの?い
」であり、ドミ?トリ?が「ドンスコイ(ドン川の)」と敬?されるのも、この事績にもとづいている
[19]
。この?いでモスクワの?威は高まったが、ジョチ?ウルスを再統一した
トクタミシュ
の攻?によってドミ?トリ??ドンスコイは再度ジョチ?ウルスに臣?した。モスクワ大公?がジョチ?ウルスへの貢納をやめるのは、1480年の
ウグラ河畔の?峙
で
イヴァン3世
が
大オルダ
の
アフマド?ハン
の軍勢を
ウグラ川
から撤退させて以後のことであった。
ジョチ?ウルスは分裂したが、その末裔となった?家には
カザン?ハン?
、
アストラハン?ハン?
、
クリミア?ハン?
、
シビル?ハン?
、
ノガイ?オルダ
などがある。しかしすべて、モスクワ大公?から?展したロシア?ツァ?リ?、あるいはその後のロシア帝?によって?滅させられた。
ロシア史においては、モンゴルがキエフ?ル?シを滅ぼさなかったとしたら、後世モスクワ大公?がロシア帝?として台頭することもなかっただろうという話題がしばしば提起される。モスクワの?展は上述したようにモンゴルの?力と?く結びついてのことであった。そして、モンゴルによる侵入は?初大規模な殺戮をもたらした可能性があるものの、長期的に見ればその後のル?シにおける諸民族の形成に大きな影響を?えた。なかでも、
東スラヴ人
はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を?み、
ロシア人
、
ウクライナ人
、
ベラル?シ人
という異なる民族がかたちづくられたと指摘されている
[24]
[注? 7]
。
ル?シ社?への影響と?史的意義
[
編集
]
モンゴル支配がル?シ社?に?えた長期的影響については、これまで多くの?史家がさまざまに議論してきた。古くからロシアでは、モンゴル支配の?影響として、モンゴルがキエフ?ル?シの?統を?絶させ、古代から中世にかけてのル?シの民族的一?性を崩?させてロシアやウクライナなどを分立させ、あるいはまた東洋的
?制主義
の?念をル?シにもたらしたなどとして、これを批判してきた。しかし、キエフ?ル?シはモンゴル侵攻以前の段階においてすでに、文化的にも民族的にも一?の存在ではなかった。キエフ?ル?シはすでに分裂を始めており、見方を?えれば、モンゴルのキエフ?ル?シ征服はすでに進行していた分裂を?に加速させたにすぎないということができる。そして一方では、モンゴルによる支配がモスクワ大公?の勃興や、その後のロシアの?家?制の整備にも?い影響を?えたとも指摘されている。モスクワ大公?は、貴族の封建的階層制度である
門地
制度(メストニチェストヴォ、
Местничество
)を受け?ぎ、?い?土に命令や通信を行き渡らせる
??制
、人口調査、財政制度、軍事組織などをモンゴル帝?の支配システムから引き?いだ
[26]
。
これまで多くの?史家が、モンゴルによるル?シ支配が、ロシア史を特?づける「西洋と東洋の?間」という性格が形作られる要因になったと指摘してきた。200年以上におよぶモンゴルの支配は、ロシアに東洋的な要素を注入することとなり、西ヨ?ロッパでは「ロシア人の皮をはぐと、タルタル人が出てくる」という俚諺があるほどである
[27]
[注? 9]
。また、モンゴル支配の影響でル?シはヨ?ロッパの?統から離れてしまい
[29]
、その後の西ヨ?ロッパで起こった大きな政治的?社?的???的な諸改革や科?の?展から取り?されたという意識が生まれた。そこにあるのは、「?れた?ロシア」「後進?ロシア」の元凶になったというマイナス評?と結びついた見方である。言い換えれば、西洋からの隔絶によって、ロシアは
ルネサンス
や
宗?改革
から何ら影響を受けず、さらにその後の
中産階級
の形成にも失敗したのは「タタ?ルのくびき」のせいだと考えられてきた
[30]
。
しかし、モンゴルのル?シ支配の時期、ル?シとモンゴルの支配階級の間では人的?文化的交流がさかんに行われた。タタ?ル出自のロシア人の姓は、
アクサ?コフ
、
アラクチェ?エフ
、
アルセ?ニエフ
、
ブルガ?コフ
、
ゴ?ゴリ
、
ゴルチャコ?フ
、
ゴドゥノフ
、
ジャルジャ?ヴィン
、
カラムジン
、
コルサコフ
、
ストロガ?ノフ
、
タチシチェフ
、
トレチャコフ
、
トゥルゲ?ネフ
、
ウル?ソフ
、
チャダ?エフ
、
シュレメ?チェフ
、
ユス?ポフ
、
バフメテフ
など多?におよんでおり、いずれも代表的なロシア人の姓である
[4]
。これらは、ハン?のイスラ?ム化に抗してル?シに流れてきたタタ?ル人に起源を有するものが少なくない。また、
1450年
頃のモスクワ大公
ヴァシ?リ?2世
の宮廷では、大公のタタ?ル人やその言語に?する愛好から、タタ?ル語の流行が起こり、貴族の中にタタ?ル風の姓をつける者が現れたことにも起因している
[31]
。
後世、「
ボヤ?ル
」といわれたロシアの大貴族には、その祖先をモンゴル人やタタ?ル人にさかのぼる家系も多く、家名にモンゴル=タタ?ルの名?が確認されることも多い。
17世紀
のロシア貴族に?する調査では、ロシアの全貴族の15%以上がタタ?ルほか東洋に由?する血筋であった
[32]
[注? 10]
。その他、?代の
ロシア正??
の聖職者にもキリスト?に改宗したモンゴル=タタ?ル系の人物が多?確認されている
[33]
。
また、現代の
ロシア語
には、
タタ?ル語
などの
テュルク諸語
や
モンゴル語
から多くの?語、特に財政や金融に?わる?語が流入している。
Деньги
(ジェ?ニガ、金?)、
Казна
(カズナ?、?庫)、
Таможенные
(タモ?ジニア、??)、
Барыш
(利益)、
Башмак
(靴)などがこれにあたる
[31]
[34]
。「
中?
」を意味する
Китай
(キタ?イ)も、モンゴル語から取り入れられた。
法の分野では、モンゴルの影響により、キエフ?ル?シの時代には奴隷にしか適用されなかった死刑が?く執行されるようになり、犯罪?査でも
拷問
が用いられるようになったといわれる。モンゴルによりモスクワ大公?に導入された刑としては、裏切者に?する
斬首
や?人に?する
?印
がある。ただし、同時期の西ヨ?ロッパにおける刑罰?懲罰は、モンゴルやロシアよりもむしろ過酷なものであった
[35]
。
社?制度のうえでは、上述の、政治的忠誠と軍事的
奉公
を?件として「本領安堵」するというヤルリイク授?制度は、ハン?のル?シ諸公統制のいわば骨格となるものであったが、それは主君と?臣の?務的契約と互いの「誠?義務」にもとづいた西?
封建社?
における
恩貸地制度
とは異なる制度をロシアにもたらした。モスクワ?家が採用したポメ?スチエ制(知行地制)は、ヤルリイク授?制度から大きな影響を受けて成立したものと考えられる
[2]
。
ジョチ?ウルスは、ル?シで人口調査を行い、それにもとづいて課?と?兵を行ったが、西ヨ?ロッパでは王?はそのような施策を講じることができなかった。それに?し、モスクワ?家の大公やツァ?リの?力はモンゴル人がおこなった人口調査にもとづく??と?兵という方策を踏襲し、それを介して西?諸?の王?よりも確固たる住民統制が可能となった
[2]
。ピョ?トル大帝以後のロシア帝?が西?化政策を推進し、あるいはヨ?ロッパ諸?に?び立つ?として?大化していったのも、半面ではこうした住民統制が基礎となっていた。
さらに、モンゴル帝?の??制(ジャムチ)はロシアに移植されて「ヤム」と呼ばれた。ロシアで今日でも
郵便配達人
を「ヤムシチク」と呼ぶのは、その名?である
[2]
。ヤムの制度がモスクワ大公?で?大な地方と中央とを結合する??通信制度として整備されるようになったのは
15世紀
末の
イヴァン3世
の時代であり、
16世紀
末の
イヴァン4世
の時代まで急速に整えられた
[2]
。モスクワ?家がモデルとしたのはモンゴル帝?のそれであり、?時のヨ?ロッパ諸?においては最良の??通信制度であった。?時ロシアを訪れた外?人は、ロシアの??制の安全さや旅行のスピ?ドの速さを??している
[2]
[注? 11]
。
後世ロシア史では、モンゴルによる支配は「タタ?ルのくびき」と表現され、現在でもこの表現は?く流布している。これは、モンゴル軍がヨ?ロッパにあたえた恐怖のゆえに、モンゴル帝?の一部に組み?まれたタタ?ル人に着目し、
ギリシャ語
の「タルタロス」(
地獄
)という言葉にかけて、その連想からモンゴル人を??としてタタ?ル、タルタルと呼?したことで定着したものである
[4]
。しかし、モンゴル支配のロシア史に及ぼした影響は、上述のように?く深く、そしてまた社?的?文化的な意味合いを?く持っており、こうした点を考慮するならば、この言葉はモンゴル支配の??と影響について、必ずしも適切に表現しつくしたものとはいえない
[4]
[注? 12]
。
なお、杉山正明は、上述したアレクサンドル?ネフスキ?の英雄的な物語と「タタ?ルのくびき」という?式は「二律背反している」と指摘している
[37]
。そして、事?はそのどちらでもなかったとし、アレクサンドル?ネフスキ?を有名たらしめた2つの??(1240年のネヴァ河畔の?いと1242年のチュド湖上の?い)は、?際にはあったかなかったかわからない程度のものであったと指摘している
[37]
。野心家であったアレクサンドルは自分の叔父や弟を追い落とし、モンゴルの力で大公の位を認められ、さらに、ル?シ諸公の??や貢納をとりまとめてモンゴル側に送った人物の最初となった、いわば自らすすんで「モンゴルの代理人」となった
[37]
。これについて杉山は、自著のなかで、イギリスのロシア史家
ジョン?フェンネル
の「いわゆるタタルのくびきは、バトゥのロシア侵攻に始まったのではなく、むしろアレクサンドルが自分の兄弟を裏切ったときから始まった」という言葉を引用して、フェンネルの考えに?意を示している
[37]
。杉山によれば、モンゴルとル?シはともかくも200年以上にわたってロシアの地で共存しており、それは、もはや1つのシステムと化していたのである
[37]
。
脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
- ^
「キプチャク草原」は
ペルシア語
で、この地で遊牧生活を送るキプチャク族の名に由?する。キプチャク族(漢字表記では「欽察族」)は、東ロ?マ帝?やハンガリ?の記?では「
クマン人
」の名で登場し、ロシア史では一般にポロヴェツ族と?される。ポロヴェツ族は、個?の
部族
連合を形成して遊牧生活を送り、ヴォルガ以東の東ポロヴェツは?統的にホラズムや
アラン族
との?係が深く、ヴォルガ以西の西ポロヴェツはル?シや
東ロ?マ帝?
、
ブルガリア
などと?いつながりをもってきた。ル?シとホラズムはポロヴェツ(キプチャク族)を介しての間接的な?わりしかなかったが、ル?シとポロヴェツの?係は密接なものであった
[2]
。
- ^
モンゴル帝?の首都カラコルムは
モンゴル高原
の
オルホン?谷
に立地し、カアンの本?地としてオゴデイによって築かれた。中?本土に
明
が興り、元の中?支配が終わったのちは
北元
の首都となった。
- ^
サライには、バトゥの建設したサライ?バトゥと、ベルケがその北に遷したサライ?ベルケ(新サライ)がある。
ヴォルゴグラ?ド
(ソ連時代にはスタ?リングラ?ド)の前身となった都市である。
- ^
プラノ?カルピニの記?による
[2]
。
- ^
13世紀末以降、ウラジ?ミル大公がハンより???を請け負うこととなると、大公位は名目的?名?的な意味を超えて?質的な?限と?威を回復するに至った
[1]
。ロシア諸公は大公位を獲得するため、いっそうハンの機嫌をうかがい、互いに?うようになった
[1]
。
- ^
キプチャク?ハン?初期のバトゥ、
サルタク
、
ウラクチ
などは「ツァ?リ」と呼ばれていないので、大ハ?ンとキプチャク?ハン?のハンの?係は、ル?シ諸公からも明瞭に把握されていたことがうかがえる
[2]
。
- ^
中井和夫
は、ロシア、
ベラル?シ
、
ウクライナ
が?自に?展する時期を13世紀頃からとしている
[25]
。ベラル?シのベラは「
白
」の意味で、モンゴル人が中?文明の「
四神
」の影響を受けて
東
が
?
、
北
が
?
、
南
が赤、
西
が白というふうに
方角
を
色
で呼?したことにちなんでいる(したがって、ベラル?シとは「西ル?シ」の意味である)
[25]
。ウクライナは「?境」を意味するル?シ語(古
ウクライナ語
)の「クライ」から派生した語で、12世紀頃から使用されるようになった。?時のウクライナはモンゴル人の都サライからも遠い?境だったからと考えられる
[25]
。ベラル?シは、14世紀後半にリトアニア大公?の版?に入ったが、この?の公用語は初期の
ベラル?シ語
であった
[25]
。ロシアがモスクワを中心に?展していくのに?し、ウクライナの民族形成に重要な役割を果たしたのが
コサック
(カザ?ク)であった。ベラル?シとウクライナは?史的にみて、正?のロシアとカトリックの
ポ?ランド
に?まれた地域であり、その西部ではともに
東方典?カトリック??
(ギリシア?カトリック)が?然たる勢力をきずいている
[25]
。また、言語的にもベラル?シ語、ウクライナ語ともにロシア語から?立した別の言語で、いずれも
ポ?ランド語
からの影響が?い
[25]
。なお、3地域における近代文章語の確立は、19世紀以降、それぞれの地域における?民詩人(ロシアでは
アレクサンドル?プ?シキン
、ウクライナでは
タラス?シェフチェンコ
、ベラル?シでは
ヤンカ?クパ?ラ
)の登場した頃とみられる
[25]
- ^
ボリス?ゴドゥノフは、下級貴族の出身でありながら
フョ?ドル1世
の義兄として?勢を振るい、最終的には
ツァ?リ
にまで昇りつめている。
- ^
この俚諺に?し、
栗生?猛夫
は、ロシアがモンゴルから受けた影響は多いと前置きした上で、しかしそれはロシア人の自己同一性(
アイデンティティ
)に?しては決定的な影響を?えなかったと主張している
[28]
。
- ^
家系の源流に?する調査結果は、229家族が
ドイツ
などの
西ヨ?ロッパ
に起源を持ち、223家族が
ポ?ランド
、
リトアニア
、
ルテニア人
(ル?シ人)などに、156家族がタタ?ルほか東洋に起源をもち、168家族が
リュ?リク家
に?し、その他42家族が他に起源を持たない「ロシア系の家」、というものであった。
- ^
ロシアの??制の利便については、16世紀末に
神聖ロ?マ帝?
の大使としてロシアを訪問したヘルベルシュイタインが記?し、高い評?をあたえている。また、ある試算によれば、ヤムを用いた旅行速度は?時の
イギリス
でのそれに比べて2倍近いものであったという
[2]
。
- ^
イングランド
出身の
ベネディクト?
修道士
で13世紀に生きた?史家でもある
マシュ??パリス
(
英語版
)
は、その年代記のなかで、「彼らはむかしエホバの神によって山の中にとじこめられた地獄の民で、世界の終わりが近づくころこの世に現れて人?を殺すといわれていたタルタル人である」と記している
[36]
。
出典
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NAID
40015191103
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?連項目
[
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ウィキメディア?コモンズには、
タタ?ルのくびき
に?連するメディアがあります。
外部リンク
[
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