ジェ?ムズ?ジョセフ?ブラウン?ジュニア
(
James Joseph Brown, Jr.
,
1933年
5月3日
-
2006年
12月25日
)は、
アメリカ合衆?
の
ソウル
歌手
[4]
、
作曲家
、
編曲家
、
音?プロデュ?サ?
、レコ?ド?レ?ベル?オ?ナ?、社?事業家。
ファンク
、
ブル?ス
、
ゴスペル音?
、
R&B
、ソウルなどの音?性を持ち、
アフリカ系アメリカ人
で長きにわたり一般的な人?を博した。上記の通り、1933年生まれとあるが?際には1928年生まれの?もある
[5]
。
「ナンバ?ワン?ソウル?ブラザ?」「ゴッドファ?ザ??オブ?ソウル」「ミスタ??ダイナマイト」「ファンキ??プレジデント」など、いくつものニックネ?ムを持っていた。
シャウト
を用いたソウルフルなヴォ?カルと、革新的なファンク?サウンドを確立したことで知られる。
父は
アメリカ先住民
の
アパッチ族
で、母はアフリカ系アメリカ人と
アジア人
の系統である
[6]
[7]
。
「
ロ?リング?スト?ンの選ぶ?史上最も偉大な100人のシンガ?
」において第10位
[8]
。「
ロ?リング?スト?ン
の選ぶ?史上最も偉大な100組のア?ティスト」において第7位
[9]
。「
Q誌
の選ぶ?史上最も偉大な100人のシンガ?」において第37位
[10]
。
生涯
[
編集
]
生い立ち
[
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]
ジェ?ムズ?ジョセフ?ブラウン?ジュニアとして、
サウスカロライナ州
バ?ンウェルに生まれる。このことは、本人が自?などでも書いているが、他にも
1928年
生まれという?がある。成人後に、ジェ?ムズ?ジョセフ?ブラウンへと改名している。?人以外の人種の血が混ざっていることは、ブラウン自身も、他の著者による書籍でも言及されている
[11]
。一家は貧しく、
ジョ?ジア州
オ?ガスタ
に移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手?いや靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア?ナイト」で歌っては優勝するほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。15?の時の車の??を、16?(成人扱い)で反省があれば8年。反省がなければ16年という、差別的な有罪判決を下され、
1948年
から?護院に?容された。
?護院での服役中に、ブラウンは
ボビ??バ?ド
と知り合った
[12]
。バ?ドの家族は、ブラウンの?放後の生活を助けた。ブラウンは、
オ?ガスタ
に?らず、職を得るという?件で出所し、ボクサ?、野球のピッチャ?を短期間??したが、脚の怪我で?念した。ブラウンは、音?へ情熱を傾けることとなった。
1950年代(ミスタ??ダイナマイト)
[
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]
ブラウンとバ?ドの妹サラは、
1955年
から
ゴスペル
?グル?プ「ザ?ゴスペル?スタ?ライタ?ズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバ?ドのグル?プ「エイヴォンズ」に?加し、バ?ドはグル?プをリズム?アンド?ブル?スバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス?フレイムズ」と?え、
オハイオ州
シンシナティ
で
シド?ネ?サン
の
キング?レコ?ド
[注 1]
と契約を結ぶ。
シド?ネ?サンは頑固な男だった。ブラウンが「プリ?ズ~」と歌い始めるとネ?サンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネ?サンの言い分は「こんなものは音?でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音?的な妙味を?明し、なんとか?表にこぎつけることができた。バンドのファ?スト?シングル「プリ?ズ?プリ?ズ?プリ?ズ
Please, Please, Please
」
[注 2]
は、
1956年
にリリ?スされた。レコ?ドには「ジェ?ムズ
?ブラウンとフェイマス?フレイムズ
James Brown with the Famous Flames
」とクレジットされ、同シングルはチャ?ト5位を記?し、ミリオン?セラ?となった。しかしながら、その後はヒット曲に?まれず、?く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング?レコ?ドはバンドと契約解除を行おうとした。
1958年
の「トライ?ミ?
Try Me
」が
ビルボ?ド
48位の小ヒットとなり、バンドは活動を??させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バ?ドのバンドであったフレイムズはブラウンが?質的なリ?ダ?へと?化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。
これらの初期の?音には「
I'll Go Crazy
」(1959)「
Bewildered
」(1960)といったゴスペルの影響を?く受けた曲や、ルイ?ジョ?ダン、エイモス?ミルバ?ン、ワイノニ??ハリスらの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは?化、後には「
ファンク
」と呼ばれるスタイルに?展し、
Pファンク
[注 3]
、
スライ?スト?ン
、
プリンス
などに?い影響を?えた。
1960年代(ファンク革命)
[
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]
ブラウンとフレ?ムスの初期のシングルは、
アメリカ南部
および
R&B
チャ?トでは成功していたが、彼らの全?的な成功は、キング?レコ?ドの反?を押し切ってリリ?スした『
Live at the Apollo (1962)
』まで待たなければならなかった。
ライブ?アルバムが成功した後、ブラウンは最初のファンク?ナンバ?とされる
1964年
の「アウト?オブ?サイト?
Out of Sight
」を?表した
[13]
。さらに「
Night Train
」を制作した。これらの曲は、ギタ?のカッテングに、ホ?ンセクションとベ?ス?ドラムスが特?だった。ブラウンのヴォ?カルは、リズミカルバックにのり好調を保った。しかしながら、「
Out of Sight
」はスマッシュ?レコ?ドからリリ?スされたため、キング?レコ?ドとの契約破棄に?する法廷??となり、裁判所は彼の?音作品の1年間リリ?ス禁止を言い渡した。1967年ごろのJBsのドラマ?には、「ファンキ??ドラマ?」クライド?スタブルフィ?ルドがいた。「コ?ルド?スウェット」はクライドがドラムスを??した傑作ナンバ?だった。
- 1960年代の主要メンバ?
- クライド?スタブルフィ?ルド
(Clyde Stubblefield) - ドラムス
- ジョン(ジャボ)?スタ?クス
(John "Jabo" Starks) - ドラムス
- ティム?ドラモンド - ベ?ス
- バ?ナ?ド?オ?ダム - ベ?ス
- メイシオ?パ?カ?
- サックス
- メルヴィン?パ?カ? - ドラムス
- セントクレア?ピンクニ? - サックス
- ジミ??ノ?レン - ギタ?
- ナット?ケンドリック - ドラムス
- ボビ??バ?ド - ボ?カル
- イボンヌ?フェア - ボ?カル
- アナ?キング - ボ?カル
1970年代(ファンキ??プレジデント)
[
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]
1960年代末から1970年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「
セックス?マシ?ン
」「リッキン?スティック」「ス?パ??バッド」「ソウル?パワ?」「ギブ?イット?アップ?オア?タ?ン?イット?ル?ズ
[注 4]
」「アイム?ア?グリ?ディ?マン」「メイク?イット?ファンキ?」などがある。
1970年
3月には、ジェ?ムズ?ブラウンのバック?バンドに大幅なメンバ?チェンジがあった。給料に?するトラブルから、
メイシオ?パ?カ?
(テナ?サックス)をはじめとするメンバ?のほぼ全員が?退した。それに伴い、
ブ?ツィ??コリンズ
(ベ?ス)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「
JBズ
The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリ?スも行うようになった。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバ?は、次の通りである。
フレッド?ウェズリ?
が1975年に?退するまでの4?5年間は、ポリド?ル時代のブラウンの充?期である。1972年から1974年までの主要メンバ?は次の通り。
1972年にはファンクの傑作「ゲット?オン?ザ?グッド?フット」を?表した。1973年?1974年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキ??プレジデント」「マイ?サング」など、まずまずの作品を?表した。
1974年
には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカの
ザイ?ル
(現
コンゴ民主共和?
)の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビ?級タイトルマッチが行われた。挑?者
モハメド?アリ
[注 6]
と王者
ジョ?ジ?フォアマン
が??し、「世紀の一?」「
キンシャサの奇跡
」と謳われた。この試合をプロモ?トした
ドン?キング
が同時に開催した
アフリカのウッドストック
と宣?された音?フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模?は、映?『モハメド?アリ かけがえのない日?』や映?『ソウル?パワ?』で?ることができる。この時期、JBファンクの影響を受けたク?ル&ギャング、BTエクスプレス、オハイオ?プレイヤ?ズらファンクの新興勢力が登場し、ブラウンはやや押され?味になった。
その後、1975年ごろから起こった「
ディスコ
?ブ?ム」とともに、彼の人?は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ディスコ?サウンドの中のファンキ?な部分のオリジナルであるにもかかわらず、皮肉にもディスコ?ブ?ムに?ることは出?なかった。1976年の『
Get Up Offa That Thing
』や1977年の『
Bodyheat
』などのヒットもあるが、1970年代後半はブラウンのセ?ルスは低調で冬の時代を迎えた。しかし1979年の「イッツ?トゥ??ファンキ??イン?ヒア」を含むアルバム「オリジナル?ディスコ?マン」は、佳作として後に評?されている。
1980年代(アイム?バック)
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]
1980年
、映?『
ブル?ス?ブラザ?ス
』に出演。
1984年
、ヒップホップのアフリカ?バンバ?タとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ?ヒット。久?に音?シ?ンの注目を浴びた。
1986年
1月23日には
ロックの殿堂
入りした他、
映?
「
ロッキ?4/炎の友情
」に「ソウル界のゴッドファ?ザ?」として出演した。そして1986年「リビング?イン?アメリカ」が久?のヒットとなる。さらに
1988年
には、フルフォ?スのプロデュ?スによる傑作「アイム?リアル」を?表した。ヒップホップのミュ?ジシャンたちから「我が師、我が父」として尊敬された。この時期、ブラウンの曲はラッパ?、DJたちによって非常に多くサンプリングされた。
しかし、そんな矢先にトラブルが?生してしまう。1988年には、?物吸引中に妻とケンカし、銃を?射し、?けつけた警察とカ?チェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され?刑判決を受けた。
1990年代
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]
1991年
2月27日
、6年の判決に?して3年弱の服役で?放された。この年には 4-CD セットの "
Star Time
" を?表、この頃よりブラウンは、その功績を?えられ、いくつかの名?ある音??連の賞を受賞している。1991年6月10日には「ジェ?ムズ?ブラウン リヴィング?イン?アメリカ ライブ」が開催された。出演者はアイスT、ト?ン?ロック、ク?ル?モ??ディ?、ヘビ?D、アン?ヴォ?グ、MCハマ?、C&Cミュ?ジック?ファクトリ?、ベル?ビブ?デヴォ?、クインシ??ジョ?ンズらだった。
1992年
2月25日、ブラウンは第34回
グラミ?賞
特別功?賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブル?ス財?賞特別功?賞を受賞した。また、
1993年
11月11日にオ?ガスタ市長のチャ?ルズ?ディヴァニ?は、オ?ガスタ9番街を「ジェ?ムズ?ブラウン大通り
James Brown Boulevard
」と改名し記念式典を行った。また、C&Cミュ?ジック?ファクトリ?と,
ソウルIIソウルのジャジ?Bがプロデュ?スを??した新作アルバム「ユニバ?サル?ジェ?ムズ」も?表された。
2000年代
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]
2003年
6月24日、ハリウッドのコダック?シアタ?で行われた第3回BET(ブラック?エンタ?テインメント?テレビジョン)アウォ?ドに招かれる。ここでは
マイケル?ジャクソン
が飛び入りで?加したが、この共演は約20年ぶりのことであった。その後、マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を?えた人はいない」とスピ?チし、自らの音?とダンスの師匠であるブラウンに生涯功?賞を手渡した。同年にはケネディセンタ?賞も受賞した。2004年の曲「ガット?バケット」は、モ?ジョ??マガジンのコンピレ?ションCDに??された
[14]
。
2004年
12月に、ブラウンは前立腺癌と診?され手術を受けた。
2005年
5月6日、ブラウンの72度目の誕生日にオ?ガスタ市は7フィ?トのブロンズ像を贈呈した。像は本?その1年前に送られる予定であったが、その?時ブラウンが直面していた家庭?暴力事件のため、延期された。2005年7月6日には
LIVE 8
の
Edinburgh 50,000 - The Final Push
に出演し、イギリスの歌手
ウィル?ヤング
と「
Papa's Got A Brand New Bag
」をデュエットした。また、その1週間前には
ジョス?スト?ン
と「
Friday Night with Jonathan Ross
」に出演し、デュエットを行っている。
2006年
、ブラウンは世界ツア?「
Seven Decades Of Funk World Tour
」を行った。ショ?は、?衆から肯定的に受け入れられた。最後のショ?は、
オキシジェン?フェスティヴァル
への出演であった。8月22日、オ?ガスタ?リッチモンド郡競技施設局(Augusta/Richmond County Coliseum Authority)は、オ?ガスタ?リッチモンド郡市民ホ?ル(Augusta-Richmond County Civic Center)を
ジェ?ムズ?ブラウン?アリ?ナ
と改名することを票決した
[注 7]
。11月14日には、イギリス音?の殿堂入りを果たした。ブラウンは、授賞式で演奏を行った幾人かの受賞者の?の一人であった。
死去
[
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]
ブラウンは2006年
12月24日
、?科?を訪れそこで肺炎の症?が判明し、ジョ?ジア州アトランタのエモリ??クロ?フォ?ド?ロング病院に入院するが、翌日の午前1時45分、死去。73?であった。代理人によると、死因はうっ血性の心不全であった。その死去は
CNN
や
BBC
など世界の多くの
メディア
でトップニュ?スとして報じられた。
この時、ブラウンの?者として?いていたのはコンラッド?マ?レ?であった
[15]
。マ?レ?は、ブラウンの死因を巡り、
過失致死傷罪
として正式に裁判するかの
予備尋問
を行った。ブラウンは死の時点でツア?予定を?しており、最後まで"The Hardest Working Man in Show Business"であった。
12月30日にオ?ガスタで行われた葬儀には、約8,500人のファンやマイケル?ジャクソン、
M.C.ハマ?
などの友人、?係者が集まり、ブラウンの音?界に?した業績、人生を?え最後のお別れをした。ただ、元JBズのメンバ?の?列はボビ??バ?ドなど少?だったことは?念だった。他にもいくつかの都市で追悼イベントが開かれ、ドクタ??ドレ?やLLク?ルJら多くの有名人が?列した。
ブラウンは、4度の結婚を??した。ブラウンは、最初の妻ヴァルマ?ウォ?レンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ?ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。最後の妻トミ??ライ?ヒニ?とは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。
エピソ?ド
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]
- ミック?ジャガ?
は映像作品『
ロ?リング'63?'89』
において、
ロ?リング?スト?ンズ
の活動初期に、ブラウンの派手なステ?ジアクトを徹底的に?究したと?言している。
- マイケル?ジャクソン
と
プリンス
はブラウンから大きな影響を受けている
[16]
。
- 『
西城秀樹オン?ステ?ジ
』(ライブ?アルバム、SIDE A7)で西城がブラウンの「Try me」をカバ?している。
- グッチ裕三
はブラウンの大ファンで、ブラウンの音?ソフトは全て持ってる、と豪語している。ドン勝本も大ファンで、ブラウンの日本での代理人として指名された。
- ブラウンのコンサ?トで、客席にいたマイケル?ジャクソンとプリンスがステ?ジに飛び入り?加したことがある。先ずマイケルがステ?ジに呼ばれ、歌と踊りを披露した。次にブラウンは、ステ?ジからプリンスを呼んだ。登場したプリンスは、J.B'sからギタ?を渡されるも
まともに演奏が出?なかったという
[
?自?究?
]
。
- 「リビング?イン?アメリカ」の?音時、ブラウンが自身のボ?カルを?音する際に先にバックコ?ラスを必要としたが、コ?ラスのシンガ?が??で到着していなかったため、スタジオにいたベ?シストの
T.M.スティ?ヴンス
に急きょバックコ?ラスを?音させている。この時、スティ?ヴンスは歌唱??がないために?っているがブラウンが了解して歌うことができた。
?日記?
[
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]
1973年、1974年、1975年、1979年、1986年、1987年、1992年、1993年、1994年、1995年、1997年、1998年、2002年、2003年、2006年と、計15回?日している。また、返還前の沖?で1968年に公演を行なっている。
吉田拓?
は
岩?基地
でジェ?ムズ?ブラウンの生ライブを?て「とにかく音が凄かった」と述?していた
[17]
。
ディスコグラフィ
[
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]
トップ10シングル
[
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]
- 1956
:
Please, Please, Please
(R&B #5)
- 1959
:
Try Me
(R&B #1, U.S. #48)
- 1960
:
Think
(R&B #7, U.S. #33)
- 1961
:
Baby, You're Right
(R&B #2, U.S. #49)
- 1961:
Bewildered
(R&B #8, U.S. #40)
- 1961:
I Don't Mind
(R&B #4, U.S. #47)
- 1962
:
Lost Someone
(R&B #2, U.S. #48)
- 1962:
Night Train
(R&B #5, U.S. #35)
- 1963
:
Prisoner of Love
(R&B #6, U.S. #18)
- 1965
:
Papa's Got a Brand New Bag
- Part I (R&B #1, U.S. #8)
- 1965:
I Got You (I Feel Good)]
(R&B #1, U.S. #3)
- 1966
:
Ain't That a Groove
Pts. 1 & 2 (R&B #6, U.S. #42)
- 1966:
Don't Be a Drop-Out
(R&B #4, U.S. #50)
- 1966:
It's a Man's Man's Man's World
(R&B #1, U.S. #8)
- 1966:
Sweet Little Baby Boy
- Part 1 (U.S. #8)
- 1967
:
Cold Sweat
- Part 1 (R&B #1, U.S. #7)
- 1967:
Let Yourself Go
(R&B #5, U.S. #46)
- 1968
:
I Can't Stand Myself (When You Touch Me)
(R&B #4, U.S. #28)
- 1968:
I Got the Feelin'
(R&B #1, U.S. #6)
- 1968:
Licking Stick - Licking Stick
- Part 1 (R&B #2, U.S. #14)
- 1968:
Say it Loud - I'm Black and I'm Proud
- Part 1 (R&B #1, U.S. #10)
- 1968:
There Was a Time
(R&B #3, U.S. #36)
- 1969
:
Ain't It Funky Now
(R&B #3, U.S. #24)
- 1969:
Give It Up or Turnit a Loose
(R&B #1, U.S. #15)
- 1969:
I Don't Want Nobody to Give Me Nothing (Open Up the Door, I'll Get It Myself)
(R&B #3, U.S. #20)
- 1969:
Let a Man Come in and Do the Popcorn
- Part One (R&B #2, U.S. #21)
- 1969:
Mother Popcorn (You Got to Have a Mother for Me)
Part 1(R&B #1, U.S. #11)
|
- 1970
:
Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine
(Part 1)
(R&B #2, U.S. #15)
- 1970:
Santa Claus is Definitely Here to Stay
(U.S. #7)
- 1970:
Super Bad
- Part 1 & Part 2 (R&B #1, U.S. #13)
- 1971
:
Escape-ism
- Part 1 (R&B #6, U.S. #35)
- 1971:
Get Up, Get Into It, Get Involved
- Pt. 1 (R&B #4, U.S. #34)
- 1971:
Hot Pants (She Got to Use What She Got to Get What She Wants)
? Part 1 (R&B #1, U.S. #15)
- 1971:
I'm a Greedy Man
- Part I (R&B #7, U.S. #35)
- 1971:
Make It Funky
- Part 1 (R&B #1, U.S. #22)
- 1971:
Soul Power
- Pt. 1 (R&B #3, U.S. #29)
- 1972
:
Get on the Good Foot
- Part 1 (R&B #1, U.S. #18)
- 1972:
King Heroin
(R&B #6, U.S. #40)
- 1972:
Talking Loud and Saying Nothing
- Part I (R&B #1, U.S. #27)
- 1973
:
Down and out in New York City
(R&B #13, U.S. #50)
- 1973:
I Got a Bag of My Own
(R&B #3)
- 1973:
Sexy, Sexy, Sexy
(R&B #6, U.S. #50)
- 1974
:
Funky President
(People It's Bad)
(R&B #4, U.S. #44)
- 1974:
My Thang
(R&B #1, U.S. #29)
- 1974:
Papa Don't Take No Mess
- Part I (R&B #1, U.S. #31)
- 1974:
Stoned to The Bone
- Part 1 (R&B #4, U.S. #58)
- 1974:
The Payback
- Part I (R&B #1, U.S. #26)
- 1976
:
Get Up Offa That Thing
(R&B #4, U.S. #45)
- 1985
:
Living in America
(R&B #10, U.S. #4)
- 1987
:
How Do You Stop
(R&B #10)
- 1988
:
I'm Real
(R&B #2)
- 1988:
Static, Pts. 1 & 2
(with
Full Force
) (R&B #5)
|
主なアルバム
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]
- Please Please Please
(1959)
- Try me
(1959)
- Live at the Apollo
(1963)
- Cold Sweat
(1967)
- Super Bad
(1970)
- Sex Machine
(1970)
- Get on the Good Foot
(1972)
- The Payback
(1973)
- Hell
(1974)
- Hot
(1975)
- In the Jungle Groove
(1986)
- Gravity
(1986)
ベストアルバム
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]
- THE CD of JB
(イギリス人:クリフ?ホワイトが編集)
- CD of JB2
- Star Time
(1991)
- 20 All-Time Greatest Hits!
(1991)
JBファミリ?のアルバム
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- ジェ?ムズ?ブラウンズ?ファンキ??ピ?プル
(イギリス人:クリフ?ホワイトが編集)
?記映?
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]
著書
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]
本人の著書。ブル?ス?タッカ?がサポ?ト。
?連項目
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]
脚注
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編集
]
注?
[
編集
]
- ^
ハンク?バラ?ドや、ゴスペルのミュ?ジシャンらが所?していた。
- ^
ゴスペルのカタルシス部分を冒頭に持ってきた、彼の最初のヒット曲。
- ^
ジョ?ジ?クリントンのパ?ラメント、ファンカデリックなどのバンド群を指している。
- ^
ブレイクダンスの課題曲として有名。
- ^
「ス?パ??バッド」(1970)での前衛的、フリ?ジャズ的なソロは、この人が演奏している。
- ^
ベトナム?兵拒否のため、一度王座をはく奪された。
- ^
ブラウンの急逝を受け、2006年12月30日付で改?が?施された。
出典
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外部リンク
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全般
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?立?書館
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?術デ?タベ?ス
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芸術家
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人物
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その他
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