幼年の純?さにまつわる話はいつも感動し、おぼろげに迫る。過去の純?な自我に?することであるがゆえ一層そうなのかもしれない。話はツバメの子から始まる。優しいおじいさんに奇跡の種を渡すツバメではなく、ただの平凡なツバメだ。
ツバメの親は、子が生まれると、熱心に餌をつかまえて運ぶ。しかし、つかまえてきたモンシロチョウの幼?をツバメの子が誤って地面に落とす。つかまらなければ蝶になった幼?は、落ちて死ぬ。死んだ幼?に蟻が集まる。お腹のすいた蟻は幼?を?に引っ張っていこうとするが、「赤ん坊の拳ほどの土の傾斜」で立ち往生する。蟻には、幼?はシ?シュポスの岩に相違ない。山の頂上に岩を置くと下に滑り、また登らなければならないシ?シュポスのように、蟻は幼?を運ぶことを繰り返す。
ここからは人間の話。子どもがうずくまってその姿をぼんやり眺めている。だが子どもの目には?がたまっている。詩人ユン?ジェウンの散文詩「世の中で最も大きな?」のもの悲しい風景だ。詩人は子どもを「小僧」と設定し、??の?えを喚起する。「頭の?い小僧は、その前にうずくまり、?目に?を浮かべて見下ろす」。
子どもの?は、「大般涅槃?」の人間の?面にある?性から出る?だ。人間だけでなく蟻のような生命にまで無限に?張される憐憫の情、誰でもブッタになれるその心が私たちの中にあるということだ。英?の詩人ウィリアム?ワ?ズワ?スは、そのような倫理的衝動は神から?たものだと言った。子どもがモンシロチョウの幼?と蟻を見て泣くのは、そういう衝動の産物だ。世の中の道理を分からずに泣くのではない。深くて泣くのだ。大人が子どもから?ばなければならない理由はこれだけでも十分だ。
文?評論家?全北(チョンブク)大?碩座?授