靖難の?

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靖難の?
明朝皇族の??中

靖難の?の地?
1399年8月6日-1402年7月13日
場所 中?の華北、華東
?端 建文帝による藩王削減政策
結果 燕軍による南京?落。建文帝は失踪。朱?が皇帝( 永?帝 )となる。
衝突した勢力
燕藩(燕王府) 明朝
指揮官
燕王 朱?
燕王世子 朱高熾
高陽王 朱高煦
朱高燧
建文帝 朱允?
征虜大?軍?長興侯 耿炳文
征虜大?軍?曹?公 李景隆
?力
大寧 攻?前:約4万
大寧攻?後:約12万
耿炳文:30万
李景隆:50~60万
盛庸:不定。一時20万
被害者?
不明 ?十万

靖難の? (せいなんのへん)は、 明朝 初期に燕王 朱? 建文帝 に?して起こした政?、??。 1399年 7月にはじまり、 華北 を舞台に 1402年 まで?いた。

背景 [ 編集 ]

明が成立すると、 朱元璋 は自分と子孫の統治を?固にするために、 宗室 二十五人を藩王として全?に駐留させた。これらの藩王は、封地の統治?はなかったが、護衛の軍隊を持っており、それは少なくとも3,000人、多ければ19,000人に達した。北方の?境に駐屯している九人の?王( ? ? ? ? ? ? ? ? ? )の軍?はさらに大きかった。たとえば寧王は「?甲八万、革車六千」を擁した [1]

しかし後?者問題があり、朱元璋が立太子した 朱標 は早世した。皇太孫の朱允?は、諸王の甥であり、叔父たちの勢力を抑えることは難しい。しかも諸王が軍?を持っていることが、?在的な脅威となっている事から、藩を削る必要があった。洪武31年(1398年)閏5月、太祖朱元璋が死去し、皇太孫朱允?が、建文帝となった。建文帝は太祖の遺詔を?布して諸王を封地にとどめ、都に赴かせないように命じた [2] 。また燕王はすでに喪に服すために都に向かっていたにもかかわらず、引き返すように建文帝から命じられ、諸王の不?を招いた。建文帝は ?泰 ?子澄 と相談して藩を削り始めた [3]

建文帝による削藩 [ 編集 ]

建文帝は?位後、ただちに藩を削りはじめた。削藩の順序では、?泰は最も?力のある燕王を先に削らねばならないと考えていた。 ?部 侍? 卓敬 も、燕王の封地を南昌に改めるべきと上疏した [4] 。しかし、?子澄は反?した。燕王は功があるため、世論の支持を得るため、まずは問題のある親王から手を出すべきとした。建文帝は?子澄を支持したので、5人の親王を順次?止した。

洪武31年(1398年)7月、周王 朱? を削藩の?象とした。周王は燕王の同母兄弟であったので、建文帝は彼が燕王と合同することを恐れ、周王を先に?することにした。周王の次男の 朱有? 中?語版 が、父を 謀反 の罪で告?した。曹?公 李景隆 が備?の名目で 開封 を?由するように派遣され、周王と家族を南京まで連行した。周王は?位され、 庶民 に落とされた上で 雲南 蒙化 に送られた [5]

建文元年(1399年)4月、?王 朱? ?湘王 朱柏 ?代王 朱桂 の三親王を削って庶民に落とした。湘王は恥辱に耐えられず、名?を保つため、自ら宮殿に火を放って家人と共に?死した。?王は南京に軟禁され、代王は封地 大同 に軟禁された [6] 。それから二カ月後、岷王 朱? が削られて庶民とされ、 ?州 に送られた [7]

建文帝による削藩によって、 藩? と中央の決裂が表面化し、最?の?力を持つ燕王こそが?の諸王の統率者と目されるようになった。そして、皇帝と燕王の?立は激しさを?していった。

?過 [ 編集 ]

明では、初代皇帝 洪武帝 の晩年に王朝創建の功?者に?する??が行われ、自らの男子を各地の王( 諸侯王 )に封じ、「 皇明祖訓 」を制定して統制する。初期の明は長江以南の 南京 を都とした政?で、北方の 北元 に?する備えとして燕王朱?(後の 永?帝 )らが封じられ、 科? においても北方出身者を多く登用した。

1392年、皇太子の 朱標 が病死し、朱標の次男である朱允?( 建文帝 )が皇太孫に指名される。 1398年 5月に洪武帝が死去すると、朱允?は16?で?位する。建文帝にとって、叔父に?たる朱?ら諸王は警戒の?象であった。?位後の建文帝は、?力?化のために側近の ?泰 ?子澄 の進言を容れて、大?的な削藩政策を?行し、5人の王を?絶した。朱?に?しては燕王府の軍の解?を命じるなどの挑?を行い、朱?は服?の意思を示すが、建文帝は王位を?奪するための罪?作りの情報を集め、朱?は追い?まれた。

1399年7月、朱?は 軍師 姚?孝 の進言を容れ、北平(現在の 北京 )において?兵した。?の名?の「靖難」とは、「君難を靖んじる」という意味で、?を起こした燕王朱?が?兵する際に?げた主張に基づく。朱?は「皇明祖訓」に基づき、建文帝の側近である?泰と?子澄の?名を「君側の奸」として討伐することを大義名分にしている。皇帝側は50万の大軍を擁し、はじめは優勢であったが敗退を重ね、?秦は敗?の咎により司令官を解任される。李景隆は燕軍に降伏、 方孝孺 が指揮する軍も大敗を喫し、1402年6月には南京が?落した。建文帝は宮殿に火を放って自害したとされるが、遺?は?見されなかった。その後、建文帝は南京落城の混?の中で僧侶に??し、 雲南 に逃亡した、とする生存?が流れることになった。

朱?は南京において皇帝に?位した。簒奪者として?位した永?帝は、?泰や?子澄、服?を拒否した方孝孺らとその一族を?刑し、「 建文 」の年?は?して 洪武 に編入(これは後世になって撤回される)し、洪武帝を?ぐ二世皇帝と?した。1421年には北平へ遷都し、?外遠征や 朝貢?制 の確立に努めた。

永?帝の死後にも北京が首都として保たれたが、首都を南京へ?すべきであるとする議論もあり、南北の?係には後にも影響した。

その他の影響 [ 編集 ]

明朝宗室の待遇の?化 [ 編集 ]

朱? は皇帝となった後、6月18日に周王 朱? ??王 朱? の爵位を回復した [8] 。その後、代王 朱桂 ?岷王 朱? の爵位も回復した。永?元年正月、周王??王?代王?岷王の四王を復?させた [9]

6月26日には 朱標 の廟?である興宗を取り消して懿文太子とし、呂太后も懿文太子妃とした [10] [11]

7月12日、建文帝の三人の弟をそれまでの王位から郡王に降格した [12] 。さらに11月には彼らが建文帝を止められなかったという理由で、朱允?と朱允?は庶民に落とされ、鳳陽に軟禁された。朱允熙は間もなく亡くなった [13] [14] 。建文帝の次男の 朱文圭 も「建庶人」とされて鳳陽?安宮に軟禁され、55年後に朱允?と一?に 英宗 によって?放された。

朱?は建文帝の 削藩 に反?して?兵したので、諸王の支持を得るため、?位後にはすぐに削られた藩王を回復させた。さらに褒賞として、宗室の品級を上げる制度改定を行った。洪武年間の規定では ???軍 郡王 中?語版 の子)は三品、 輔??軍 は四品、 奉??軍 は五品、 ??中尉 は六品、 輔?中尉 七品、 奉?中尉 八品だった。しかし永?帝はこれに加算して、「?國將軍從一品,輔國將軍從二品,奉國將軍從三品,?國中尉從四品,輔國中尉從五品,奉國中尉從六品」とした [15]

一方で、永?帝は自分で武力で政?を奪取したことに鑑み、政?の安定のため、?境の王は順次、?地へと改封し、それから諸王の兵?を削減していった。永?元年に 代王 の護衛と官員を削った。永?4年には ?王 の護衛と官員を削り、ほどなくして?して庶民とした。永?6年に 岷王 の護衛と官員を削った。永?10年に 遼王 の護衛を削った。永?15年に 谷王 を?して庶民とした。永?19年に 周王 は情勢を見て、自ら護衛を返納した,洪武帝の時代に13人いた兵?を持つ親王のうち、永?帝は6人の兵?を削った。これとあわせて、靖難の役の功臣には大封を?え、多くの??を持つ武官を手元に確保することで、中央政?を?化し、中央と諸藩との軍事的な勢力比を根本的に?えた [16]

こうして永?帝は建文帝の目的だったことを?現したが、目先の問題を解決しただけだった。永?帝の次男の漢王 朱高煦 と三男の趙王 朱高燧 は依然として護衛を有していた。そして 宣? 元年の 朱高煦の? 中?語版 は、 親王 が兵を持つ危?性を再度?明した。?を平定した 宣?帝 は、その威信でもって大部分の藩王たちに護衛を手放させ、宗室を統制下に置いた。以後、宗室と中央政?との矛盾点は、軍事的な緊張?係から、大量に?加した俸?による財政?力に?化していった [16]

北京遷都と大寧割? [ 編集 ]

洪武 年間、明の北方防衛は、(朱?や 朱? のような)?王たちに多くを負っていた。靖難の?の後、永?帝はその?王たちを ?地 に移したが、その結果、 華北 の守りが手薄になった。 唐朝 の「守外??」、 宋朝 の「守??外」の?訓があったことを鑑みても、金陵( 南京 )を首都にして、遠方に置いた?領に?境の守りを任せるというのは危?だった。「 天子 守?門」は問題を解決できる。また、 南京 では 建文帝 に?っていた勢力の影響が大きい(建文帝の遺臣は永?帝の統治に不?を抱いていた)という別の問題もあった。政治的に判?すれば、朱?の大本?であった北平は京師(首都)に適していた。また、もともとのモンゴルの軍事的な脅威も無視できない問題だった。これらを考慮した結果、永?帝は北京 遷都 を決定した。

永?元年(1403年)冬二月、朱?は 北平 北京 と改め、 順天府 と命名した [17] 。その後、各地の富民を北京へと移した [18] 。北京は 行在 と?した。永?年間、北京への遷都事業は??された。北京城が建てられ、宮殿が建てられ、運河を通して交通が整備された。永?18年(1420年)になって、北京皇?と北京城が完成し、ついに遷都が宣言され、以後、南京は「留都」となった [19] 。これ以後、1928年から1949年まで ?民政府 が南京を首都とした以外は、 北京 が中?の 首都 となり、政治の中心は北へと移った。

朱?は靖難の初期に 大寧衛 の全軍( 朶顔三衛 を含む)を麾下に納めていた。朶顔三衛はその後の作?に重要な?きをなした。そこで朱?は ?位 後に、寧王を 南昌 に封じ、永?元年3月には大寧衛を朶顔三衛の功績への褒賞として?えた [20] [21]

大寧衛は遼?蒙?冀、つまり現在の 遼寧省 ? ?モンゴル自治? ? 河北省 の交点にあたり、 遼東? ?州? 宣府? と弓形に連なる地域の中心で、軍事的には相?に重要だった。洪武13年(1380年)に回復され、衛所が設立されていたが、ここで?止された [22] 。大寧衛は遼東???州??宣府?などを防衛するための前哨?点であり影響は大きかった。大寧衛の喪失により、??から遼東に行くには、 山海? を通って 錦州 に行くしかなくなった。この後、(特に、 土木の? の後)、?州?遼東での?いは絶たなかった。 正統 年間の土木の?と 嘉靖 年間の 庚戌の? では モンゴル人勢力 が大寧から侵攻してきた。それがゆえに大寧の割?は、後世からは否定的な評?がなされることが多かった [23]

?閣の設立、特務機?、宦官の重用 [ 編集 ]

政務を?率的に?理するために、洪武三十五年(1402年)八月の初め、朱?は 解縉 中?語版 ? ?淮 文淵閣 とし機務に??させた。その後、?閣は7人まで?充された。これが?閣制度の開始であり、明朝の政治で大きな役割を果たすようになり [24] 、?朝でもこの制度を踏襲した。

また、朱?は造反して帝となったため、大臣に?しては大いに疑心を持っていた。そこで、洪武年間に?止されていた 錦衣衛 を復活させ、特務機?の活動を再開させた。その指揮者に任じられた 紀綱 中?語版 は、永?帝時代における大物の ?奸 となった。永?帝はさらに永?十八年には 東廠 を設立して、信?している太監( 宦官 )を指揮者とした。これは特務による支配を?めるとともに、宦官の地位も高めた。明代においては、特務機?の優越がほぼ一貫しており、大きな特?となっている。

靖難の?に際して、朱?は宦官から多くの援助を受けたため、太祖が定めた宦官の執政禁止を?位後に?更し、宦官を重用するようになった [25] 。結果として、明朝では大航海を行った 鄭和 のような著名かつ有能な宦官も出たが、一方で 司?監 や東廠のような宦官が?力を握る部局の地位が高くなり、地方の軍?における ?守太監 中?語版 採辦 中?語版 (皇室の物資の購入)の監督など、重要な職務も宦官が??するようになり(必ずしも永?帝時代に設置されたものばかりではなかったが)、これは後世の?の禍の種となった。

地方??への影響 [ 編集 ]

靖難の?による??は華北と華東の全域に?がり、繰り返された?いによって淮河以北の??は?滅的な打?を受けた [26] 。?位後に永?帝は、河北、河南、山東などの?場となった省の?を減免して、民力の回復に努めた [27]

文化 [ 編集 ]

永?帝は建文帝に忠誠を貫いた大臣達を誅殺したほか、建文帝およびそれに殉じた臣下たちの一切の書や著作の?却を命じた。それらの作品を私?する者があれば殺害した。これによって、 方孝孺 の著作である「周?考次」「大易枝?」「帝王基命?」「文統」なども?却された [28]

評? [ 編集 ]

兵力、物量のいずれにおいても燕王軍を凌いでいた明軍が燕軍に敗れ、永?帝のク?デタ?が成功した理由として、皇帝側には洪武帝時代のたび重なる??で有能な?軍が少なかったためと言われる。燕王側は北方の モンゴル に?する防備に?事していた精?軍で、軍師の姚?孝、 丘福 ? 朱能 ? 張玉 や、永?帝の次男の 朱高煦 といった有能な武?や?謀と評?される人材が?っていた。これに?し、建文帝には側近の ?泰 ?子澄 のほか、 李景隆 李文忠 の子)や 方孝孺 といった文官しかいなかった。また、建文帝の?和な性格や永?帝の軍事的資質も指摘される。

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 『明史』?七:寧獻王權,太祖第十七子。洪武二十四年封。逾二年,就藩大寧。大寧在喜峰口外,古會州地,東連遼左,西接宣府,?巨?。帶甲八萬,革車六千,所屬??三衛騎兵皆驍勇善戰。權數會諸王出塞,以善謀稱。
  2. ^ 『明史』?三:遺詔曰:「朕膺天命三十有一年,憂危積心,日勤不怠,務有益於民。奈起自寒微,無古人之博知,好善惡惡,不及遠矣。今得萬物自然之理,其奚哀念之有。皇太孫允?仁明孝友,天下歸心,宜登大位。?外文武臣僚同心輔政,以安吾民。喪祭儀物,毋用金玉。孝陵山川因其故,毋改作。天下臣民,哭臨三日,皆釋服,毋妨嫁娶。諸王臨國中,毋至京師。諸不在令中者,推此令從事。」
  3. ^ 『明通鑑』?十一:至是燕王自北平奔喪,援遺詔止之,於是諸王皆不?,流言煽動,聞于朝廷。謂子澄曰:「先生憶昔東角門之言乎?」對曰:「不敢忘。」於是始與泰建削藩之議。
  4. ^ 『明鑑綱目』?一:(洪武三十一年)六月,?部侍?卓明請徙封燕王?於南昌,不聽。
  5. ^ 『明鑑綱目』?一:乃命曹國公李景隆以備邊?名,猝至開封,圍王宮,執之以歸。……乃廢??庶人,竄蒙化。諸子皆別徙。
  6. ^ 『明鑑綱目』?二:(建文元年)夏四月,湘王柏自焚死,齊王?、代王桂有罪,廢?庶人。柏?力過人,握刀?弓矢,馳馬若飛。至是有告其反者。帝遣使?訊,柏焚其宮室,彎弓躍馬,投火中死。?累?塞上,以武功喜,時與燕通,?府中人所告;會代郡亦上變,乃廢二王?庶人,錮?京師,幽桂大同。
  7. ^ 『明鑑綱目』?二:(建文元年)六月,岷王?有罪,廢?庶人:西平侯沐晟奏?不法,廢?庶人,徙?州。
  8. ^ 『明通鑑』?十三:庚午,復周王?、齊王?爵。
  9. ^ 『明鑑綱目』?二:癸未永樂元年春正月,復周齊代岷四王國。
  10. ^ 『明通鑑』?十三:尋遷興宗孝康皇帝主於陵園,仍稱懿文太子。
  11. ^ 戊寅,遣安王楹祭告懿文太子,遷其主於陵園。蓋建文初,尊諡懿文?孝康皇帝,廟號興宗,升祭於太廟。致是,禮官言:「考之古典,于禮未安。」遂命以主置陵園,仍舊諡號曰:「懿文皇太子」,?時致祭如常儀。
  12. ^ 『明通鑑』?十三:癸巳,改封?王允?廣澤王,衡王允?懷恩王,徐王允熙敷惠王,隨呂太后居懿文太子陵園。
  13. ^ 四庫全書本『明史』?一百十八考證:「與允??召還,錮鳳陽。」臣嚴福按:鄭曉『同姓諸王傳』:「允?、允?之廢也,帝以其不能諫正惠帝罪之。」
  14. ^ 『明鑑綱目』?二:尋廢允?、允??庶人,錮鳳陽。允熙奉太子祀,未幾暴卒。
  15. ^ 『宣宗復寧王書』、王世貞『鳳洲筆記』
  16. ^ a b 顧誠『明代的宗室』、『明?史?際?術討論?論文集』、天津人民出版社1982年7月第1版
  17. ^ 『明鑑綱目』?二:二月,以北平?北京。設北京留守,行後軍都督府,行部,國子監。改北平曰順天府。
  18. ^ 『明鑑綱目』?二:秋八月,徙富民實北京。時發流罪以下墾北京田,又徙直?、蘇州等十郡、浙江等九省富民實之。
  19. ^ 『明史』?六:九月丁亥,詔自明年改京師?南京,北京?京師。
  20. ^ 『明史』?二百十六:成祖從燕起靖難,患寧王?其後,自永平攻大寧,入之。謀脅寧王,因厚賂三衛?之來。成祖行,寧王餞諸郊,三衛從,一呼皆起,遂擁寧王西入關。成祖復選其三千人?奇兵,從戰。天下?定,徙寧王南昌,徙行都司於保定,遂盡割大寧地?三衛,以償前勞。
  21. ^ 『明鑑綱目』?二:三月,始以大寧地?烏梁海(注:?兀良哈)。改北平行都司?大寧都司,徙保定。以大寧地?烏梁海,自是北邊失一重?。(自北平兵起,帝?誘執寧王權,乃選烏梁海三千人?奇兵,從戰,數有功。及天下?定,遂割大寧地?之,以償前勞。由是洪武中所築諸城盡廢。後至天順末,大寧遂盡?烏梁海所有。遼東宣府聲援,因之隔絶。)
  22. ^ ?史方輿紀要 』?十八:明洪武十三年,收復。二十年,建大寧衛,又置北平行都司。永樂初廢。
  23. ^ 『?史方輿紀要』?十八:廢大寧衛。古營州地。……明初,分藩置戍,所以東臂遼東,西?宣府,使藩垣鞏固,門庭無??之隙也。永樂初,雖徙興營等衛於?地,然城守猶存,三衛未敢侵秩。自土木之變,三衛益恣,遼河東西及三?河北故地,悉?所據,?遼從此多事。詰爾戎兵,以陟禹跡,營州可終棄乎哉?
  24. ^ 『明通鑑』?十三:八月,壬子,命侍讀解縉、編修?淮入直文淵閣,?預機務。……內閣預機務自此始。
  25. ^ 『明史』?三百四:明太祖?定江左,鑒前代之失,置宦者不及百人。?末年頒『 祖訓 』,乃定? 十有二監及各司局 ,稍稱備員矣。然定制,不得兼外臣文武銜,不得御外臣冠服,官無過四品,月米一石,衣食於內庭。嘗鐫鐵牌置宮門曰:「內臣不得干預政事,預者斬。」?諸司不得與文移往來。有老?供事久,一日從容語及政事,帝大怒,?日斥還?。嘗用杜安道? 御用監 。安道,外臣也,以?工侍帝數十年,?幄計議皆與知,性縝密不泄,過諸大臣前一揖不啓口而退。太祖愛之,然亡他寵異,後遷出? 光祿寺 卿。有趙成者,洪武八年以內侍使河州市馬。其後以市馬出者,又有 司禮監 慶童等,然皆不敢有所幹竊。建文帝嗣位,御內臣益嚴,詔出外稍不法,許有司械聞。及燕師逼 江北 ,內臣多逃入其軍,漏朝廷?實。文皇以?忠於己,而狗兒輩復以軍功得幸,?位後遂多所委任。
  26. ^ 『明史』食貨志:靖難兵起,淮以北鞠?茂草。
  27. ^ 『明太宗??』?十:山東、北平、河南府州縣人民有被兵不能耕種者,?免三年差?;不曾被兵者與直?鳳陽、淮安、徐州、?州、揚州,今年秋夏?糧,盡行?免;其餘直?府州、山西、陝西、浙江、福建、江西、湖廣、兩廣、四川、雲南,?免一半;其有洪武三十五年七月初一日以前拖欠一應錢糧、鹽課、段匹、木植、蘆柴等項及軍民所養馬、牛、羊等項倒死?欠?生者,?免追陪;其弓兵不辦蘆柴者,優免二年。一,河南、山東、北平、淮南北流移人民,各還原籍複業,合用種子、牛具,官?給付。
  28. ^ 劉孝平『明代禁書述略』圖書館理論與實踐-2005年05期

?考文? [ 編集 ]