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長島一向一揆
(ながしまいっこういっき)は、
1570年
ごろから
1574年
にかけての
石山合?
に伴い、伊勢長島(現在の
三重?
桑名市
、
伊勢?
と
尾張?
の境界付近)を中心とした地域で
本願寺
門徒らが蜂起した
一向一揆
。
織田信長
との間で大きく分けて三度に渡る激しい合?が起こった。
背景
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]
長島
(現
三重?
桑名市
)はもともと「七島(ななしま)」であり、
尾張?
と
伊勢?
の?境にある
木?川?揖斐川?長良川の河口付近の輪中地?
を指す
[1]
。幾筋にも枝分かれした木?川の流れによって陸地から隔絶された地域で、伊勢?
桑名郡
にあったが、『
信長公記
』に「尾州河?長島」とあるように尾張?
河?郡
とも認識されていた。
1501年
(
文?
元年)、杉江の地に
願?寺
が創建され、
蓮如
の六男?
蓮淳
が住職となった
[2]
。以後、本願寺門徒は地元の?人領主層を取り?み、地域を完全に支配し、後に長島の周りに防衛のため中江砦?大鳥居砦などを徐?に?設し武?化した。
この付近には願?寺をはじめ?十の寺院?道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っていた。伊勢尾張美濃の農民漁民10万人の信徒が勢力下で勢力は10万石規模であった。
[3]
一種の自治勢力であった。ここの?力者の1人?
服部友貞
は「河?一郡は二の江の坊主服部左京進 ?領して御手に?さず」
[4]
、
1560年
(永?3年)の
桶?間の?い
の時には
今川義元
に呼?して信長を攻?しようとしている。
1561年
(
永?
4年)、
織田信長
は尾張を統一したと認識されているが、この長島は支配していなかった。
1567年
(永?10年)8月、信長は
?葉山城
を落として美濃?を平定したが(
?葉山城の?い
)、城を落とされた
?藤龍興
は「河?長島」へ逃げ?んだという
[4]
。直後、信長は龍興を追って伊勢へ侵攻し、長島を攻?した
[5]
。その上で北伊勢の在地領主を服?させた
[6]
。この年11月、
?如
は信長に美濃?伊勢を平定したことを祝う書?を送っており
[7]
、まだ信長と敵?したわけではなかった。
1569年(永?12年)、信長は
北?家
が守る
大河?城
などを攻?し(
大河?城の?い
)、伊勢をほぼ支配下に置いた。
蜂起
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1570年(
元?
元年)9月、本願寺の反信長蜂起(
石山合?
)に伴って、?時の願?寺住持
?意
や本願寺の坊官
下間?成
の檄文によって長島でも門徒が一?に蜂起
[8]
、またこれに呼?して「
北勢四十八家
」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を?し一揆に加?した。
大坂
より派遣された坊官の
下間?旦
らに率いられた?万に及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主を務める
長島城
を攻め落とし城を奪うと、?けて11月には
織田信興
の守る尾張?
小木江城
を攻?。信興を自害させ城を奪取し、さらに
桑名城
の
?川一益
を敗走させた。
この頃、信長は
近江?
で
朝倉氏
?
?井氏
と?陣しており(
志賀の陣
)、救援に赴くことができなかった。同年12月、信長は朝倉??井と和睦し、兵を引いた。
??
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第一次長島侵攻
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]
1571年
(元?2年)2月、近江??
佐和山城
の
磯野員昌
が信長に城を明け渡して退却。5月には
?山城
の
木下秀吉
が、約500の寡兵で
?井井規
率いる一揆勢約5000を破るなど、近江では織田軍が優位に立った。ここで信長は北伊勢への出陣を決める。
5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍?は三手に分かれて攻め入った。
織田軍は周?の村?に放火。5月16日にはひとまず軍を退こうとした。
これを見た一揆勢は山中に移動し、撤退の途中の道が?い箇所
[9]
に弓兵??砲兵を配備して待ちうけた。信長本隊と佐久間軍はすぐに兵を退くことが出?たが、殿軍の柴田勝家が負傷。勝家に代わって殿をつとめた氏家卜全と、その家臣?名が討ち死にした。
この一?により、長島一向一揆はこれまでの?倒的物量で押し切る一揆とは違い、撤退路での伏兵といった作?行動を取るなど、防衛能力の高さを織田家に知らしめた。また
桑名
方面から海路を使って?賀衆らの人員や兵糧??砲などの物資が補給されていた?、
伊勢?
の制海?を得ることも長島攻略には欠かせない要素であり、信長は長島に?しての侵攻作??容の再考を余儀なくされた。
第二次長島侵攻
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合?の?過
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]
1573年
(
天正
元年)8月に
?井長政
?
朝倉義景
を滅亡させた織田家であったが9月には信長は二度目の長島攻めを各?に通達した。
今回は出陣の前に前回の反省から水路を抑えるために次男北?具豊(
織田信雄
)に命じて伊勢
大湊
での船の調達も事前に命じていたが、こちらは大湊の?合衆が要求を?り、難航していた。信長からも
北?具?
?
具房
父子を通じて?合衆に?きかけたがこれも不調に終わる。それでも織田軍は予定通り9月中に二度目の長島攻?を敢行した。
9月24日、信長をはじめとする?万の軍勢が北伊勢に出陣。25日に太田城に着陣し、26日には一揆勢の?る西別所城を佐久間信盛?
羽柴秀吉
?
丹羽長秀
?
蜂屋?隆
らが攻め立て、?落させた。柴田勝家?
?川一益
らも坂井城を攻略し、10月6日には降服させた。二人は?けて近藤城を
金掘り衆を使って攻め
、立ち退かせた。
10月8日には信長は本陣を東別所に移動し、この時には萱生城?伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などが相次いで降服し、信長に人質を送って恭順の意を示した。しかし白山城の中島?監は顔を見せなかったため、佐久間信盛?蜂屋?隆?丹羽長秀?羽柴秀吉の4人に命じて
金掘り攻め
をさせ、退散させた。
ただ、大湊の船の調達作業はこの時期に至っても進??況が芳しくなく、今回は長島への直接攻?は見送らざるを得なかった。信長は北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島?監の白山城を佐久間信盛?羽柴秀吉?丹羽長秀?蜂屋?隆らに攻めさせて落城させると、10月25日には矢田城に?川一益を入れ美濃へと?陣を開始した。
一揆勢の追?
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]
退く最中、門徒側が
多芸山
で待ち伏せし、またもや弓??砲で攻?を仕掛けてきた。中には伊賀?甲賀の兵もいたという。信長は
林通政
を殿軍としたが、折?く雨が降り出して火?銃が使用不可となってしまい、白兵?となった。林通政が討ち取られ、また正午過ぎからの風雨で
人足
がいくらか凍え死にするなどの損害を出したが、通政や
毛屋猪介
らの部隊の奮?によって夜に信長は一揆勢を振り切って
大垣城
へと到着。10月26日には岐阜へと?還した。
湊の取り締まり
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]
大湊での船の調達が失敗した背景には織田家より長島に肩入れをする?合衆の姿勢にも要因があった。こうした中で大湊が長島の?、
日根野弘就
の要請に?じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出していたことが判明した。
この事?を知った信長は激怒し、「曲事であるので(日根野に?した)船主共を必ず成敗すること」を命じ、
山田三方
の福島親子が?刑された。信長は福島親子の?刑によって「長島に?すことは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員?物資補充の動きを?く牽制した。
第三次長島侵攻
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]
1574年
(天正2年)6月23日、信長は美濃から尾張?津島に移り三度目の長島攻めのため大動員令を?し、織田領の全域から兵を集め、7月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作?が開始された。
陸からは東の市江口から織田信忠の部隊、西の賀鳥口からは柴田勝家の部隊、中央の早尾口からは信長本隊の三隊が、さらに海からは
九鬼嘉隆
などが動員され、畿?で政務にあたる
明智光秀
や
越前
方面の抑えに?された
羽柴秀吉
など一部を除いて主要な?のほとんどが?陣し、7-8万という織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ?まれた。主な陣容は以下の通り。
- 織田信忠、
長野信包
、
織田秀成
、
織田長利
、
織田信成
、
織田信次
、
?藤利治
、
?田?正
、
森長可
、
坂井越中守
、
池田恒興
、長谷川?次、山田勝盛、
梶原景久
、和田定利、中嶋豊後守、
?成政
、
佐藤秀方
、
市橋?左衛門
、塚本小大膳
- 柴田勝家、佐久間信盛、?葉良通、
?葉貞通
、蜂屋?隆
- 織田信長、
羽柴秀長
、?井政貞、丹羽長秀、
氏家直通
、
安藤守就
、飯沼長?、不破光治、
不破勝光
、丸毛長照、
丸毛兼利
、
佐?成政
、市橋長利、
前田利家
、
中?家忠
、
河尻秀隆
、
織田信?
、
飯尾??
- 九鬼嘉隆、?川一益、
伊藤?信
、
水野守隆
、
島田秀?
、
林秀貞
、北?具豊(
織田信雄
)、
佐治信方
- ※上記の他にも?陣武?は多?存在し
神?信孝
、
水野信元
らの?陣も信長公記などで確認できる。
7月14日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の?岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴した。同日中に早尾口の織田本隊も小木江村を固めていた一揆勢を破り、篠橋砦を羽柴秀長??井政貞に攻めさせ、こだみ崎に船を集めて堤上で織田軍を迎え討とうとした一揆勢も丹羽長秀が?破し、前ヶ須?海老江島?加路???浦島の一揆?点を?き?って五明(現
愛知?
?富市
五明)へと移動しここに野?した。
翌7月15日には九鬼嘉隆の
安宅船
を先頭とした大船?が到着。蟹江?荒子?熱田?大高?木多?寺本?大野?常滑?野間??海?桑名?白子?平尾?高松?阿濃津?楠?細頸など尾張から集められた兵を?せて一揆を攻め立てた。また、織田信雄も垂水?鳥屋尾?大東?小作?田丸?坂奈井など伊勢から集められた兵を大船に?せて到着し、長島を?む大河は織田軍の軍船で埋め?くされた。
海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次?と落とされ、一揆衆は長島?屋長島?中江?篠橋?大鳥居の5つの城に逃げ?んだ。
大鳥居城?篠橋城は、織田信雄?信孝らに大?砲で砲?され、降伏を申し出てきたが、信長は?固として許さず兵糧攻めにしようとした。8月2日夜中、大鳥居城の者たちが城を?け出したところを攻?して男女1,000人ほどを討ち取り、大鳥居城は?落した。
8月12日、篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきた。この約束は?りであり、兵糧が?きた?、長島城へ移りたいが?の方便だったが、兵糧攻めを狙う織田方にしてみれば、攻略中の城が減り、長島城の人?が?えるのは好都合であった?、織田軍はその要求を受け入れ、篠橋城を出た一向宗たちを長島城へ追い入れた。この後も長島には何の動きも起こらず籠城?が?いたが、人?が?えたせいで兵糧の減りが早まり、結果的に城中では多くの者が餓死した。
兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず?砲で攻?し、この時に?忍や下間?旦を含む門徒衆多?が射殺、あるいは斬り捨てられた。これに怒った一揆衆800余が、織田軍の手薄な箇所(織田一門衆の一部の隊等)へ、裸になって?刀するという捨て身で反?を仕掛けた。『
日本史
』によれば、これは伏兵だったという。これによって信長の庶兄である
織田信?
や弟の
織田秀成
など、多くの織田一族が?死し、700 - 800人(『信長公記』)または1,000人(『フロイス日本史』)ほどの被害が出た。ここで包?を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面?由で大坂へと逃亡した。
この失態を受けて、信長は、?る屋長島?中江の2城は幾重にも柵で?み、火攻めにした。城中の2万の男女が?け死んだという。同日、信長は岐阜に向け?陣した。
こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩?、長島城は?川一益に?えられた。
討死した主な織田側の?
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- 一揆蜂起時
- 第一次長島侵攻時
- 第二次侵攻時
- 第三次侵攻時
長島一向一揆に?した主な人物
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三重?桑名市長島町又木の願證寺境?にある長島一向一揆殉?之碑。1975年(昭和50年)に一向一揆400年追悼法要が、同寺で行われた
[10]
。
千人塚
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]
桑名市多度町下野代にある野志里神社の境?には、「千人塚」と刻まれた石碑が立っている。これは長島一向一揆の際に討死した人?を祀っているとされている。
題材とした作品
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脚注
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出典や?考文?
は、
一次資料
や記事主題の?係者による情報源
に?っています。
信?できる第三者情報源
とされる
出典の追加
が求められています。
出典?索
?
:
"長島一向一揆"
?
ニュ?ス
·
書籍
·
スカラ?
·
CiNii
·
J-STAGE
·
NDL
·
dlib.jp
·
ジャパンサ?チ
·
TWL
(
2018年8月
)
|
- ^
『長島町誌』
- ^
『クロニック??全史』
[
要文?特定詳細情報
]
- ^
『長島町史』上?28頁
- ^
a
b
『信長公記』首?
- ^
池上『織田信長』
[
要ペ?ジ番?
]
- ^
『勢州軍記』
- ^
『?宗史料集成』第三? 一向一揆「?如上人文案」上
- ^
『三重?史』資料編 近世第1?
- ^
『信長公記』によれば、一騎討ちするしかないほど?い場所だったという。
- ^
“
「城下町長島の?史を訪ねて」
” (PDF). 三重? (2009年3月26日).
2012年7月1日
??。
?考文?
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?連項目
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外部リンク
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