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この項目では、室町幕府と六角氏の?いについて?明しています。山?上杉家と扇谷上杉家の?いについては「
長享の?
」をご?ください。
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長享?延?の?
(ちょうきょう?えんとくのらん)とは、
室町時代
後期の
長享
元年(
1487年
)と
延?
3年(
1491年
)の2度に亘って
室町幕府
が行った
近江
守護
?
六角行高
(後の六角高?)に?する
親征
で、
六角征伐
とも?される。なお、1度目の出陣は
近江?
栗太郡
?(まがり)(
滋賀?
栗東市
)に在陣したため、別に
?の陣
とも?される。
開?の?緯
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文明9年(
1477年
)に
?仁の?
が?束したのち、各地では守護や?人らが寺社領や公家の
?園
などを押領して勢力を?大していた。?西軍に?していた近江守護?
六角行高
も?園や
奉公衆
の
所領
を
押領
していた。しかし、
長享
元年(1487年)7月、奉公衆の
一色政具
の訴訟案件が幕府に持ち?まれ、これをきっかけとして他の近江の奉公衆も六角行高に?し訴訟を起こした
[1]
。さらに寺社本所領押領も??、幕府はその
威信
回復を企?して六角氏討伐の兵を?げ近江に遠征した。
第一次六角征伐(?の陣)
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]
第一次六角征伐
|
重要文化財
『絹本著色騎馬武者像』(
地?院
?)
長らく
土佐光信
の筆による
足利尊氏
像とされてきたが
[2]
、1937年(昭和12年)に
谷信一
が『蔭?軒日?』の長享元年(1489年)9月12日の?にある、近江へ出陣した足利義?の格好に一致することを指摘し、同肖像?を義?像と推定した
[3]
[4]
。
|
??
:長享?延?の?
|
年月日
:長享元年(
1487年
)9月-
長享3年(
1489年
)3月
|
場所
:
近江?
甲賀郡
|
結果
:幕府軍の撤退
|
交?勢力
|
幕府軍
|
六角氏
|
指導者?指揮官
|
足利義?
(第9代?軍)
諸大名
|
六角行高
|
?力
|
22,300人
[5]
|
不明
|
損害
|
不明
|
不明
|
|
文明11年(1479年)11月、第9代?軍?
足利義?
は判始を行ったが、先代?軍の足利義政は政務移?を?って?立し、文明17年(1485年)4月には奉公衆と
奉行衆
の諍いから、
布施英基
が義?の小川御所にて奉公衆に殺害されている。そして、長享元年(1487年)9月12日、足利義?は、
管領
?
細川政元
をはじめ、
若?
守護
?
武田?信
等の守護大名、在京奉公衆、在?奉公衆、さらには公家衆も率いて近江坂本へ出陣した。この時、義?は奉行衆も連れており、?の陣は?質的に幕府の政務も?ったが、奉行衆のうち義政側近であった
伊勢貞宗
、
飯尾元連
、
松田?秀
等は同行を許されず政務から外された
[1]
。義?の遠征に?し、六角行高は
?音寺城
を放棄して撤退した。しかし、
甲賀郡
山間部での
ゲリラ?
を展開し、??は膠着?態に?った。
翌長享2年(1488年)6月には、
加賀
守護?
富?政親
が
加賀一向一揆
の激化によって領?へ?還し、一揆勢に敗れ討たれている。さらに義?は、
本願寺
や一揆勢をも討伐する意向を示すが、六角氏討伐を理由とする政元から反?されて?念する。同年、義?は側近の
結城?豊
を近江守護に任命した。
なお、義?は諸大名に上洛を命じたが、多くの大名はこの討伐を警戒し、子息や家臣を代理として派遣した。また、
越前
守護の
朝倉貞景
は自らは本?越前に留まりながらも、一門の
朝倉景冬
を坂本に派兵し協調姿勢を見せたが、
美濃
守護の
土岐成?
は嫡男の土岐政房を派遣した。なお、成?は西軍の名目上の?大?だった
足利義視
?
義材
父子を美濃
革手城
に保護しており、また朝倉貞景は土岐家の??を握る
?藤妙純
の娘を正室に迎えており?者は婚姻?係にあった。
尾張
守護の
斯波義?
は
織田敏定
、
織田??
ら?織田一族等8000の大軍を率いて幕府軍に?陣したがこの際、越前を??支配する朝倉氏が幕府軍へ?陣すると、かつての家臣と同陣することに大きな屈辱を感じた義?は、義?に?して朝倉氏の越前押領と自身の越前回復を訴えた(長享の訴訟)。この?論では斯波氏?朝倉氏ともに越前支配の正統性を主張して互いに?らず、幕府としても討伐目標を前にしながらの?輪?めは望まなかったため、斯波義?に色良い答えが出ず、義?は2月23日、失火を口?に陣を?った。
更に、足利義?の側近衆である
結城政胤
??豊兄弟、
大館?氏
、
二階堂政行
が、奉公衆からも反?を受け、遠征はますます膠着?態に?った
[1]
。
長享3年(
1489年
)3月、足利義?は?調を崩し重?となったため、近臣らは養生のため義?を一時?京させて、足利義視?義材親子に六角氏討伐を一時的に任せようとはかった。これに義視?義材親子は同意したが美濃から出?する直前の3月26日、足利義?は近江?の陣中で死去した
[6]
。4月14日、義視?義材親子は入京し、4月22日には日野富子邸(小川御所)に移った
[6]
。近江では守護であった結城?豊が出奔し、六角討伐は中?となった。
?加した大名
[
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]
- 細川政元
- ?東軍。第一次征討では義?は政元とだけ相談して征討を決?したとされる(『大?院寺社?事記』)。
- 細川政之
- ?東軍。
阿波
守護。第一次征討出陣中に病に倒れて京都に?還、長享2年7月に34?で急死。第二次征討では後を?いだ弟の
義春
が?陣した。
- ?山政長
- ?東軍(?山尾州家)。管領であり、第一次征討に出陣した。
- 斯波義?
- ?東軍。
守護代
の
織田敏定
?
織田??
を引き連れて上洛、遠征軍の主力を?った
- 京極政?
- ?東軍。六角氏とは、長年?っていた。
- 富?政親
- ?東軍。出陣中に加賀に??が起こり?るが、
加賀一向一揆
に攻め?まれて自殺した。
- 武田?信
- ?東軍。
若?
守護。
- 山名政豊
- ?西軍。自身は上洛せず、代わりに嫡男の
山名俊豊
が
赤松氏
との??の最中に出陣した。
- 一色義直
- ?西軍。自身は上洛せず、代わりに嫡男の
一色義秀
を派遣した。
- 土岐成?
- ?西軍。自身は上洛せず、代わりに嫡男の
土岐政房
を派遣した。
- 大?政弘
- ?西軍。自身は上洛せず、代わりに家臣の
問田弘胤
を派遣した。
- 朝倉貞景
- ?西軍→?東軍。自身は上洛せず、代わりに一族の
朝倉景冬
を派遣した。
- 奉公衆
第二次六角征伐
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]
第二次六角征伐
|
??
:長享?延?の?
|
年月日
:延?3年(
1491年
)8月-12月
|
場所
:近江?甲賀郡
|
結果
:幕府軍の勝利
|
交?勢力
|
幕府軍
|
六角氏
|
指導者?指揮官
|
足利義材
(第10代?軍)
諸大名
|
六角行高
|
?力
|
20,000人以上
|
不明
|
損害
|
不明
|
不明
|
|
延?2年(
1490年
)1月7日、8代?軍だった
足利義政
が死去、同年7月5日、伯母の
日野富子
の推?により、
足利義材
は10代?軍に就任し、六角行高を赦免したが、同年10月、六角氏の?衆は寺社本所領の返還を拒絶した
[1]
。
延?3年(
1491年
)4月21日、足利義材は六角征伐近を行うことを宣言した。父の
足利義視
は同年1月、母の
日野良子
は前年10月に相次いで死去、また伯母の日野富子とは疎遠となっており、義材は京で孤立を深め奉公衆の力を必要としていたと考えられる
[1]
。
この?令に?し、「大名共悉以罷上者也、不仰出?も面?罷上云?」(大?院寺社?事記延?3年11月29日?)と出陣命令を受けなかった大名までも?陣し、その軍勢は、「常?院殿(足利義?)御出陣ニ百倍也」(大?院寺社?事記延?3年8月27日?)と云われ、また、「雲の如し、霞の如し」と評された
[6]
。
延?3年8月27日、足利義材は大軍を率いて近江大津
三井寺
光?院に本陣を置き、
赤松政則
、
武田元信
を師奉行(司令官)に任じた。また、細川政元を近江守護に任じて先陣を命じ、政元の重臣
安富元家
は西進し、10月1日には近江の金剛寺まで達した。?する六角行高は甲賀に退去しゲリラ?を展開した。しかし、
赤松重臣
の
浦上則宗
と
斯波重臣
の
織田敏定
の活躍により、六角一族の
山?政綱
が降伏、義材はこれを許さず誅伐し、功績のあった?名に直?に?を?えた
[6]
。
延?4年(
1492年
)3月、安富元家が六角軍に奇襲されて金剛寺から敗走した。足利義材は赤松政則、武田元信、
斯波義?
に出?を命じ、浦上則宗、逸見?正、織田敏定が送り?まれ、3月29日、安富元家と合流して??河原で六角勢4000人を打ち破った。義材は浦上らに感?と太刀を?えている。同年5月、義材は安富元家に替えて斯波義?を先鋒に任じ、赤松氏、武田氏と共に甲賀に送り?んだ。さらに10月17日には自ら出陣して金剛寺に本陣を置き六角征伐を進めたため、六角軍は甲賀を捨てて伊勢に逃亡したが
北?氏
の軍勢に迎え?たれ潰走した
[6]
。
足利義材は、細川政元に替えて
六角虎千代
(
六角政堯
の養子)を守護に任命して兵を引き?い、12月14日に京に凱旋した。
?加した大名
[
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]
- 細川政元
- ?東軍。第二次征討では出陣に消極的で、代わりに家臣の
安富元家
を派遣した。元家は近江
守護代
に任命されるが、ゲリラに苦しめられた。
- 細川義春
- ?東軍。
阿波
守護。細川政之の弟。
- ?山?順
- ?東軍。?山政長の嫡男。第二次征討に出陣した。
- 斯波義?
- ?東軍。
守護代
の
織田敏定
?
織田??
を引き連れて上洛。遠征軍の主力を?い、
朝倉氏
から奪われていた
越前
回復を訴えた。
- 武田元信
- ?東軍。
若?
守護。遠征軍の主力を?った。
- 赤松政則
- ?東軍。重臣の
浦上則宗
とともに出陣し、遠征軍の主力を?った。
- 京極政?
- ?東軍。配下の?人衆が六角氏と同?に寺社領を?領したため、後に家督を甥?
京極高?
(?西軍)に?えられた。
- 山名政豊
- ?西軍。自身は上洛せず、代わりに嫡男の
山名俊豊
が出陣した。
- 一色義直
- ?西軍。第二次征討は自ら出陣し、足利義材の代理として首??を行った。
- 土岐成?
- ?西軍。第二次征討は自ら出陣した。
- 大?政弘
- ?西軍。第二次征討は自ら出陣した。
- 奉公衆
遠征の影響
[
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]
近江遠征により足利義材は自信を深め、
?山尾州家
の
?山政長
や斯波義?を重用するようになり、細川政元、日野富子とはますます疎遠となっていった。
明?
2年(
1493年
)2月、足利義材は?山政長の訴えを聞き入れ、
?山?州家
の
?山義豊
を討つため、河?遠征を行なった。しかし、?山義豊は細川政元、日野富子と通じており、遠征中の足利義材を?し、第11代?軍
足利義高
(のち義澄)を擁立した(
明?の政?
)。
これにより?山政長は?死、足利義材は幽閉、奉公衆は解?され、幕府の?威は大きく失墜した。討伐?象だった六角行高はこの混?に?じて六角虎千代を追放、次いで守護に任命された
山?就綱
(政綱の子)との?いも制した。
明?4年(
1495年
)、六角行高は足利義高より赦免を勝ち取り、更に義高の偏諱を賜り「六角高?」と改名した。この直後に美濃?で起きた??にも六角高?は介入した(
船田合?
)。
明?5年(
1496年
)9月、足利義材寄りと見られる
?藤妙純
が近江に侵攻し、
京極高?
と共に
京極政?
を破るが六角高?はこの侵攻を食い止め、?藤妙純は撤退中に土一揆により?死した。
しかし、六角高?は永正4年(
1507年
)の
永正の錯?
、永正5年(
1511年
)7月の足利義材の復?など二?三?する幕府の情勢の余波を受け、第11代?軍足利義澄?第12代?軍
義晴
父子を庇護するなど、
細川京兆家
の?訌および幕府の?軍職?いに?き?まれるようになった。
時代が下って、
永?
11年(
1568年
)、次期?軍を?していた
足利義昭
が尾張?美濃?を支配していた
織田信長
に擁されて上洛した際、これを拒んだ?時の
六角義賢
?
義治
父子(高?の孫?曾孫にあたる)は織田軍と?って敗北し、?音寺城を放棄して甲賀郡へと逃れた(
?音寺城の?い
)。?時の社?認識では斯波氏の家臣筋である織田氏は有力な大名とみなされておらず、六角氏側も足利義昭による「3度目の六角征伐」として認識していたと推測され、甲賀への逃亡も高?の時と同じように幕府軍とみなされていた織田軍が撤退するのを待つ?略であったと考えられる。しかし、第15代?軍に就任した義昭は信長による南近江支配を認めて、六角領が織田氏の領?に編入されたことは想定外の事態であり、義賢父子は再び信長と?うものの敗北し、六角氏の近江支配は終焉を迎えることになる
[7]
。
?の陣を題材とした作品
[
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]
脚注
[
編集
]
- ^
a
b
c
d
e
渡邊 2011
, 第六章
- ^
熱田?究よもぎの?『史蹟あつた』泰文堂、1962年10月25日、pp.82 - 83
- ^
谷信一「
出陣影の?究 上―地?院本は足利義?像なること―
」『美術?究』第67?、東京文化財?究所、1937年8月、1-11頁、
CRID
1050282676660225152
、
NAID
120006481716
、
2023年11月15日
??
。
- ^
“
絹本著色騎馬武者像(?足利尊氏像)(けんぽんちゃくしょくきばむしゃぞう)
”. 愛知?.
2022年4月24日
??。
- ^
『鹿苑日?』
- ^
a
b
c
d
e
山田 2016
, 第1部 第2章-第3章
- ^
村井祐樹 『六角定? 武門の棟梁、天下を平定す』 ミネルヴァ書房、2019年5月。
ISBN 978-4-623-08639-9
P283-287.
?考文?
[
編集
]
?連項目
[
編集
]