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金 閼智
(きん あっち、
65年
? - ?)は、
新羅
の金氏王統の始祖とされる人物。第4代王
?解尼師今
のときに神話的出生とともに見出された。7世孫に第13代王
味鄒尼師今
が出て新羅王として?位し、以後金氏の王統が占めることとなり、始祖として敬われた。
出生??
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]
『
三?史記
』新羅本紀??解尼師今紀に?れば、?解尼師今の9年(65年)3月、首都金城(
慶州市
)の西方の
始林
の地で?の鳴き?を聞き、夜明けになって
倭人
である
瓠公
に調べさせたところ、
金色
の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い
?
が鳴いていた。小箱を持ち?って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので?解尼師今は喜んでこれを育てた。
『
三?遺事
』金閼智?解王代?に?れば、
永平
3年
庚申
(
60年
)8月4日、
倭人
瓠公(瓢公)が夜に月城の西の里を?いていたところ、始林の中に大きな光を見たという。紫色の雲が垂れこめており、雲の中から金色の小箱が降ってきて木の枝に引っかかった。箱から光が差しており
[1]
、またその木の根元では白い?が鳴いていた。瓠公はこのことを?解尼師今に報告したところ、尼師今は始林に出向かった。小箱を開くと中には小さな男の子がいて、立ち上がった。新羅始祖の
赫居世
の故事
[2]
とよく似ていたので、小さな子を表す「閼智」を名前とした。尼師今はこの子を抱いて王宮へと?ったが、鳥や?がついてきて、喜び踊っていた。吉日を選んでこの子を太子に封じたが、後に婆娑(5代王
婆娑尼師今
)に?って、王位にはつかなかった。
大唐故金氏夫人墓銘
(
朝鮮語
:
臺當高金氏夫人妙明
)
や
文武王陵碑
や
新羅
の各種
金石文
では、金閼智以降の新羅王たちが
金日?
の
末裔
という記?が多?あり、金日?の子孫とされる
[3]
[4]
[5]
[6]
[7]
[8]
[9]
[10]
[11]
。
勢漢始祖
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金氏王統の始祖であり、金氏初代王の
味鄒尼師今
に至るまでの系譜として、『三?史記』新羅本紀?味鄒尼師今紀では、
金閼智―
勢漢
―阿道―首留―郁甫―仇道―味鄒
『三?遺事』金閼智?解王代?では
金閼智―
勢漢
―阿都―首留―郁部―?道(仇刀)―未鄒
としている。2世にあたる「勢漢」については、
681年
建立の
文武王陵碑
や
935年
建立の?照寺?澈大師?月?空塔碑文では「星漢」、
939年
建立の毗ル庵?空大師普法塔碑文(ルは田+盧)では「聖漢」として表れる新羅の始祖と同音異表記であり、金閼智とともに勢漢を始祖とする?も?わっていたと考えられている。(→井上?注1980 p.65)
名の由?
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神話を?える『三?史記』では長じて?明であったので「閼智」(知?者の意味)と名づけたといい、『三?遺事』では「小さな子」の意としてる。?在の人物とみる?
[12]
もあるが、
井上秀雄
は閼(
알
/アル)は「卵?穀??祖?」の意であるともいう。同じく「閼」の字を持つ
閼英夫人
(新羅始祖赫居世の王妃)や、2代
南解次次雄
の「南」の訓を(
알
/アル)として、これらの??上の始祖を、穀?神を人格化したものとも考えられている。(→井上?注1980 pp.32,33.)
姓氏の由?
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『三?史記』『三?遺事』いずれも、金の小箱に入っていたので「金」を姓
[13]
としたという。
脚注
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?連項目
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?考文?
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