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輪の?
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輪之?町
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?堤
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されています。木?川左岸に築かれた堤防については「
御?堤
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|
輪中
(わじゅう)とは、一般的には
堤防
で?まれた構造、あるいはその集落を意味する
[1]
。
濃尾平野
の
木?三川
(
木?川
?
長良川
?
揖斐川
)とその支流域にあたる
岐阜?
?
三重?
?
愛知?
の?境付近に?展しており
[2]
[1]
、
曲輪
または
郭
(くるわ)?
輪の?
(わのうち)など輪中を意味する用語は多?存在する
[3]
[4]
。
本?『輪中』や『輪の?』は「同じ目的の仲間」の意味で用いられた言葉であり
[5]
[6]
、
水害
から集落や耕地を守るために地域住民が共同で
水防
を整える過程で自然?生的に使用されるようになったと考えられるため、?際のところ「輪中」の定義には諸?があり定まっていないところが多い
[1]
。
地理?者
の
安藤万?男
、?史地理?者の
伊藤安男
らは輪中についての地理?的なグル?プ?究を推進し、
1975年
に出版された『輪中 その展開と構造』の中で
輪中とは、(木?三川流域の)低?地に存在する集落と農地とを包括する?堤を持ち、水防組織?をつくって外水および?水を統制する治水共同?、またはその存在する範?をいう。
—
輪中?究グル?プ編著『輪中 その展開と構造』79頁(括弧書きは伊藤安男論文による補足)
と定義付けするとともに
[4]
[1]
[7]
、輪中の必須?件を
- ?堤を持つこと
- 集落と耕地を包括していること
- 水防組合を組織して水の統制をしていること
の3つに集約しており
[1]
[6]
、中でも特に「水防組合の形成をもって輪中の成立とみなすべき」と伊藤安男が
1983年
の論文で指摘している
[4]
。つまり「輪中」とは堤防で?まれた見た目だけでは不十分であり、組織的な水防活動を伴う構造的なものととらえる必要がある
[1]
[6]
。
なお、日本において現在のように連?堤による治水が一般的となるのは
明治時代
以降のことであり、
江?時代
以前は集落や耕地を守るために必要に?じて堤防で築く治水方法が中心であった
[4]
[8]
。「輪中」のように集落や耕地を?んだ堤防は
信濃川
?
荒川
?
利根川
?
淀川
などの流域にも現存し
[9]
[10]
、信濃川流域では「?土手」、荒川?利根川流域では「?堤」、淀川流域では「??手」などの名?で呼ばれていた
[9]
。かつてはこれら全てを「輪中」と??されたが、前述のグル?プ?究などで「輪中」の構造的な側面が論じられると同一視は不適?と考えられるようになり
[9]
、現在では木?三川流域以外のものは「輪中」とはみなさない場合が多い
[9]
。こういった堤防で?まれた集落について、伊藤安男は著書『地表空間の組織』で「?堤集落」の用語を提唱した
[4]
[11]
。木?三川以外の地域については「
木?三川以外の?堤集落
」節で詳?する。
また、輪中は
オランダ
の
干拓地
である「
ポルダ?
(
蘭
:
polder
)」と比較されることも多い
[6]
。その例として、地理?者の
別技篤彦
が輪中を日本の?界に紹介する際に「日本のポルダ?」と?し、オランダ技師の
ヨハニス?デ?レ?ケ
は輪中地域の河川改修計??で輪中に??する語として「POLDER」を用いていた
[6]
。安藤万?男は輪中もポルダ?も「堤防を築いて水から土地を守る」という点で共通するとするものの、輪中とポルダ?には形成範?や堤防の形?、堤?の土地利用方法、水防活動の考え方など性格が異なる点が多いと指摘している
[6]
。
構造
[
編集
]
形?
[
編集
]
輪中の堤防を「輪中堤(わじゅうてい)」「?堤(かこいづつみ)」または「懸(掛)廻堤」(かけまわりづつみ、かけまわしてい)などと呼ぶ
[1]
[3]
。連?した堤防で周?を完全に?む「?懸廻堤」の構造が基本となるが、水防上必要のない部分の堤防を省略した不完全な懸廻堤であっても一?となった水防活動が行われれば輪中とみなされる
[1]
[3]
。特に
扇?地
や山地に位置しており高低差が大きい輪中では高位部の堤防を省略する傾向が多く見られ、代表的なものとして
加納輪中
や
多芸輪中
が?げられる
[12]
[13]
。
輪中?にも
?水
?策など水防上の必要性に?じて堤防より小規模な
土手
が設けられることがあり、この土手を「除桁(よげた)」「除(よげ)」「小堤」「?堤」「江桁(えげた)」「水分け」などと呼ぶ
[3]
[14]
[13]
。輪中?に除桁を必要とした例としては、輪中?の高低差から低位部に?水が集中して全?の生産性低下することを避けようとした
?積輪中
が?げられる
[15]
。また、前述した高位部の堤防を省略した輪中でも、より高位部からの?水流入を防ぐ目的で堤防のない箇所に除桁が設けられる場合もあった
[13]
。
輪中?に除桁より大きな明確な堤防が存在する場合、その堤防を「中堤」「?堤」などと呼ぶ
[14]
。輪中?に堤防が存在する理由は??だが、元?除桁であったものが?水?策などの目的で大きくなったケ?スや、小規模な輪中をまとめて?固な輪中堤で?み直したケ?スなどが考えられる
[5]
[6]
。いずれにせよ、輪中?が中堤で再?分されている輪中を
複合輪中
と呼び、それに?して輪中?に目立った中堤のない輪中を
?一輪中
や
?立輪中
と呼ぶ
[6]
。ただし堤外地を耕地として開?して耕地のみを堤防で?った場合など、明確な堤防で?まれた範??に集落が存在しなければ1つの輪中とはみなされないことも多い
[1]
[6]
。小規模な輪中を?み直して誕生した中堤は「?居堤」とも呼ばれ、時代を?て水防上の必要がなくなると周?の開?に?じて取り?されることも多く、
[5]
[6]
。
複合輪中において、河川に面する外側の大きな輪中を
外郭輪中
、?側の小さな輪中を
?郭輪中
と呼ぶ
[5]
。前述した小規模な輪中をまとめて?固な輪中堤で?み直したケ?スの場合、後に外郭輪中で?まれる範?で比較的土地が高い地域が早期に開?され上下端の?郭輪中となり、その間の?郭輪中の地域が順次開?されていったという共通性が見られ、
高須輪中
や
大垣輪中
が例として?げられる
[13]
。
組織
[
編集
]
基本的には1つの水防組合が維持管理する範?を1つの輪中とみなす。この意味での「輪中」の代表的な例として
?田輪中
が?げられる。?田輪中は
牧田川
などに?して同一の利害?係にあった輪中が結成した「?田水害予防組合」から「?田輪中」と通?されているにすぎず、「?田輪中」という外郭輪中は存在しない
[16]
。
複合輪中では各?郭輪中ごとに水防組合が存在し、?郭輪中?の?水に??するための中堤の管理は各?郭輪中?位で行い、周?の河川から複合輪中全?を守る輪中堤の管理や複合輪中全?に及ぶような?水?策は?郭輪中が協力して行うという形が採られた
[6]
。そのため?自の水防組合を持たずに隣接輪中に依存する場合は隣接輪中に含まれるものとみなされ
[17]
、複合輪中のような見た目であっても?一輪中と解?される
[6]
。それに?して1つの輪中?に複?の水防組合が存在した例もあり、古い所領?位が?ったと考えられる
立田輪中
や
[18]
、1つの輪中として成立したものの?水をめぐって?立が?いた
太田輪中
が?げられる
[3]
[19]
。
共同で水防活動する必要があるため、必然的に同一輪中?は水防上のみならず??的?社?的を含めた生活全般での結びつきが深くなっていった
[2]
。半面、輪中周?の堤防の?築や新たな輪中の形成は自らの水害の?加につながる可能性があったため、近隣輪中とは水防上の利害をめぐって?立することも多かった
[2]
[10]
。こういった輪中地?(特に岐阜?)の人?の性質を表すものとして「仲間意識は?いが排他的」といった印象で使われる「
輪中根性
」という言葉が存在するが、伊藤安男はこの言葉について
輪中根性とは何か、これをよく人?は排他的、保守的、偏?な?質と地域エゴと?明するが、この精神構造をもって輪中?質とはいい難い。これらは日本各地のムラにもある面では共通するものである。(中略)、輪中根性とは水害時に自分たちの輪中を守るための?い?結力、いうならば運命共同?的な同族意識、輪中意識のことである
—
伊藤安男著『?容する輪中』143頁
と述べており、決してネガティブなイメ?ジの言葉ではないと?明している
[20]
[21]
。
輪中の分布と分類
[
編集
]
輪中の分布域
[
編集
]
輪中の誕生??達の?緯から、輪中が形成された範?は御?堤(木?川?
佐屋川
?
筏川
を結ぶ線)より西側に限られるとする見方が?い
[3]
。輪中の?は
岐阜?博物館
『輪中と治水』に「明治時代を迎えるまでに輪中の??は80ほどに達し、?面積は1800
平方キロメ?トル
に及んだ」旨の記述があるが
[22]
、複合輪中の範???郭輪中の細分化の判?は?門家によっても異なっており、近年の論文などでしばしば引用される2つの分布?だけを比較しても、安藤万?男のものは「73個(?郭輪中を除くと48個)」
[3]
、
?島秀雄
のものは「82個(?郭輪中を除くと33個)」が記されている
[6]
。また
河合成樹
は建造前の御?堤の?側にも形成範?を?張し、輪中の?を複合輪中の記載なしの「133個」としている
[14]
。
輪中地域の西側では、揖斐川に
養老山地
から支川が流れ?む付近に輪中が形成されているが、前述の通り山地に面する地域では河川沿いを除いて堤防を要しないことも多い。そのため輪中堤が必要とされたのは養老山地の麓より東側に限られ、この点については前述の分布?でも多少の差はあるものの認識に大きな違いはない
[3]
[6]
[14]
。
地形特性による分類
[
編集
]
安藤万?男はそれぞれの輪中が存在する地形の特性から、
- 扇?地
地域の輪中
- 自然堤防?後背?地地域の輪中
- 三角州
地域(デルタ地?)の輪中
の3つの類型に大別できるとしている
[1]
[3]
。
西脇健治?
は
多芸輪中
について輪中西側には
養老山地
が迫り、輪中北部が
牧田川
?
杭?川
などの形成した養老扇?地末端部にあたり、?陸に位置しながらも明治以降に干拓された下池周?の輪中南端部が
海?ゼロメ?トル地?
に相?し、中間である氾濫原の自然堤防を開?して複合輪中を形成していったという特?から「全西濃輪中の縮?」とも表現した
[23]
。
濃尾平野の沖積平野では「扇?地地域」が最初に開?が行われた地域であるが、扇端部付近には湧水による?地が生じるため、地域によっては開?の過程で輪中が形成される場合があった
[1]
。微高地を開?し尻無堤から懸廻堤に推移する典型的な成立過程を持つ輪中が多いが、扇?地ゆえに輪中?の高低差が比較的大きいため高位部の堤防が省略されることも多かった
[1]
[3]
。この分類には
長良川
扇?地の
則武輪中
?
島輪中
など、
牧田川
扇?地の
室原輪中
?
飯積輪中
などが該?する
[1]
。
「自然堤防?後背?地地域」では、初期の開?ではまず自然堤防を中心とした微高地のみが開?された
[1]
。遊水地の役割を果たした後背?地の開?には人工堤防が不可欠で、近世以降の新田開?需要の高まりに伴って開?が進められた
[1]
。この分類には
加納輪中
?
五六輪中
?
桑原輪中
?
森部輪中
?
大垣輪中
?
?里輪中
?
福原輪中
など?い範?の輪中が該?する
[1]
。
「三角州地域」は高潮の影響などから自然堤防があまり?達しておらず、初期の開?は河口付近に出現した島?の地域に留まった
[1]
[3]
。近世以降の新田開?需要に?じて開?が進められるが、その地形特性から自然堤防地?と比較して規模が大きく形成が新しい輪中が多い
[1]
。
高須輪中
?
立田輪中
?
多芸輪中
などは「自然堤防?後背?地地域」との境目に位置し、多芸輪中の
根古地輪中
、高須輪中の
本阿?輪中
と
日原輪中
、立田輪中の葛木と宮地を結ぶ線より南側が三角州地域に該?する
[1]
。
また、三角州地域でもより海側に近い地域には、河口部に生成される砂州を干拓して成立した輪中もあった
[1]
。?存輪中の堤外地を開?して、?存の堤防を借りながら耕地のみをまず堤防で?い、その後に集落が移るということを繰り返して?大することが多かった
[1]
。そういった成立過程ゆえに堤防の形?は鱗?であり、「新田」「付新田」という地名が多いのが特?で、遠方の豪農の資金投入や入植者によって開?されることも多かった
[1]
。この地域では
高潮
の影響を受けやすいため集落は輪中?で最も高い堤防の上に集中しており、「堤防が切れたら、堤防に逃げろ」という言葉も?えられてきた
[24]
[25]
。
?史
[
編集
]
前述のとおり、後に輪中地?となる地域は木?三川本川や支川が形成する扇?地以下が該?する
[3]
。該?する地域では
?生時代
の
土器
などが?い範?で?掘されており古くから生活空間として利用されていたことが示されるものの、中世以前は自然堤防上や三角州の島?の土地が集落や耕地として利用されるのみであり、農業だけに依存せずに周?の河川や後背?地の沼で魚鳥を狩?して生活していたと考えられる
[3]
。この?時は土地利用自?が疎らであったため、遊水地は?大で?水時の水位?動も緩やかで多少の洪水では影響を受けなかったものの、河道?更を伴うような大洪水では被害を免れることはできなかった
[3]
。
12世紀
ごろになるとこの地域に
?園
が進出し、これを契機に集落や耕地を守るための人工堤防が築かれるようになる
[1]
。しかし輪中を完成させるためには?固な堤防を築いた上での
?門
の設置が必要であり、これらを?現するには?時の技術力や?園領主の力では不十分であったため
[1]
、初期の堤防は濁流の激突を避けることに主眼が置かれた上流側のみの堤防であり、下流側に堤防を持たない「尻無堤(しりなしづつみ)」と呼ばれるものであった
[5]
[24]
[10]
[26]
。尻無堤は下流側からの浸水には無防備であったが、?に冠水しても洪水が?まれば川は元の流路へと?り、?された土地には肥沃な粘土質の土が堆積、特に耕地の場合は逆に地力が?すといった利点もあった
[5]
[10]
。
??時代
の頃には技術力は向上したものの、??の中で
??大名
が大規模な土木作業を進めることは難しかった
[1]
。
16世紀
末ごろから世の中が安定して新田開?の機運が高まると
[26]
、主に三角州地域では新田開?が盛んとなり高潮などの海水被害を防ぐために下流側にも部分的な堤防「潮除堤(しおよけづつみ)」が築かれていたが
[24]
、
17世紀
に入ると?存の集落を?い範?の丈夫な堤防で?う?懸廻堤が築かれるようになる
[1]
。この?懸廻堤の登場をもって輪中の誕生と解?され
[5]
[24]
[10]
[26]
、初期は新田開?を目的とした輪中形成が多かった
[1]
。しかし下流側に堤防を築くことは?水の排水が困難となることを意味し、以降輪中地域では外水のみならず?水による被害にも?まされるようになる
[27]
。
輪中の誕生から間もなく、
1609年
(慶長14年)に
尾張藩
を守るために木?川左岸に築かれた「
御?堤
」によって木?川左派川が締め切られたことで、水害が?加した木?川右岸の輪中地?では17世紀中頃以降に、主に自然堤防?後背?地地域で?開?地の水防を目的とした輪中が急激に?加していった
[3]
[28]
[29]
。初期の輪中は地域農民たちによって小規模ずつ形成されていったが、徐?に豪農や商人による資本投下であったり、地域によっては
藩
の指揮のもとで大規模な新田開??輪中形成がされるようになる
[2]
[6]
[30]
。
17世紀のうちに大部分が輪中の成立するが、開?が進んで河道が固定されたことで河床上昇が進んで水害が?加したともされる
[1]
[3]
[29]
。
18世紀
に入ると水害?策として
江?幕府
は
薩摩藩
などに
手?普請
を命じて?況の改善を試みたが、一定の成果はあったものの一部では河川水位の上昇を招き、これまで水害の及ばなかった地域で水害が?加したともされる
[31]
。?開?地の水防を目的とした輪中形成が扇?地末端部まで及び、ほぼ同時期に海岸部では砂州を開?する干拓輪中の?大が始まる
[1]
。
改善のないまま江?時代の終わりを迎え、
明治時代
に入ると
明治政府
は
1877年
(明治10年)に
ヨハニス?デ?レ?ケ
を派遣することを決定、デ?レ?ケの作成した計?に基づき
1887年
(明治20年)から
1912年
(明治45年)にかけて
木?三川分流工事
が行われた
[5]
。この工事によって輪中地?では多くの輪中が陸?きとなり、水害の回??被害ともに激減するといった大きな成果を得た
[5]
。
分流工事以後、水害が激減したことで道路整備の過程などで中堤(?輪中堤)が取り?された部分も多いが、
高須輪中
や長島輪中など?水の問題が??している地域では?された地域もあった
[2]
[5]
[6]
[32]
。
1976年
(
昭和
51年)
9月12日
に起きた通?「
9.12水害
」では?
福束輪中
の堤防の締め切りで
輪之?町
が被害を免れるといった事例もあり
[5]
[33]
、近年では洪水に?する減災の?点から輪中堤の構造が見直されつつある
[2]
。
輪中の年表
[
編集
]
輪中成立年表
[3]
。【 】は後に?郭輪中となるもの、(1次)(2次)はより大きな輪中となったことを意味する。
|
揖斐川以西
|
揖斐川?長良川間
|
長良川以東
|
備考
|
1600-1619年
|
|
- 1606年頃 : 【高須輪中(1次)】
- 1610年頃 : 【
金廻輪中
】
|
|
|
1620-1639年
|
|
|
- 1623年 : 【長島輪中(1次)】
- 1624年 :
立田輪中
- 1625年 : 【加路?輪中(1次)】
- 1620年代 :
五明輪中
- 1635年 :
福原輪中
- 1638年 : 【
日置江輪中
】
- 1638年 : 【
見入輪中
】
- 1639年 : 【
?ケ須輪中
】
|
|
1640-1659年
|
|
- 1648年 : 【本阿?輪中(1次)】
- 1650年 :
牧輪中
- 1657年 : 【
本阿?輪中
(2次)】
|
- 1647年 : 【森津輪中(1次)】
- 1648年頃 :
神明津輪中
- 1656年 :
桑原輪中
|
|
1660-1679年
|
- 1661年 : 【
大牧輪中
】
- 1670年 : 【
高柳輪中
】
- 1670年 :
多芸輪中
- 1677年頃 : 【綾里輪中(1次)】
|
|
|
|
1680-1699年
|
- 1693年 : 【
綾里輪中
(2次)】
- 1693年頃 : 【
祖父江輪中
】
- 1693年頃 : 【
江月輪中
】
- 1693年頃 : 【飯積輪中(1次)】
- 1693年頃 : 【
高田輪中
】
- 1693年頃 : 【
烏江輪中
】
|
|
|
|
1700-1719年
|
|
|
|
|
1720-1739年
|
|
|
|
|
1740-1759年
|
|
|
|
|
1760-1779年
|
|
- 1764年 :
河渡輪中
- 1773年頃 : 中村輪中(1次)
|
|
|
1780-1799年
|
|
|
|
|
1800-1819年
|
|
|
|
|
1820-1839年
|
|
|
|
|
1840-1859年
|
|
|
|
|
1860-1886年
|
|
|
|
|
1887年、木?三川分流工事着工。
|
工事期間中
|
|
|
|
|
1912年、木?三川分流工事竣工。
|
1913年以降
|
|
|
|
|
輪中に?する史料
[
編集
]
前述のとおり「輪中」の誕生は江?時代であり、輪中を直接的に示す言葉が?史上最初に使用されているのは「輪之?」「曲輪」が登場する
1675年
(延?3年)の史料である
[2]
[5]
[26]
。それ以前の輪中を思わせる記述が?る最古の史料としては、
鎌倉時代
の歌人
飛鳥井雅有
の
東海道
の旅日記『春の深山路』が?げられ
原文「此所のやう、河よりははるかに里はさがりたり。まへにつ?みを高くつきたれば山のごとし。くぼみにぞ家どもはある。里の人のいふやう、水いでたる時は、ふね此つ?みの上にゆく。空に行(く)舟とぞみゆると云(う)をきけば、あまのはとふねのとびかりけんも、かくやとぞ聞ゐたる。」
現代語?「このあたりでは、川よりも里の方が大分低くなっている。里の前には堤を山のように高く築き、家?は窪みの中にある。里の人がいうには、水が出たときには舟は堤の上を行く。まるで舟が空を飛んでいるように見える。これを聞いて、神話に出てくる天の鳩舟のことを思い出した。」
—
?原雅治
著『中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景』74~76頁「輪中の誕生」
とあることから
1280年
(
弘安
3年)時点で堤防で周?を?んだ集落が成立していたことを伺わせるが
[34]
、これが後の「輪中」と同一視できるものかは判然としない。
かつて?く信用された史料として、高須輪中について記載した『
百輪中?記
』がある。『百輪中?記』には
1319年
(
元?
元年)に
標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちがそれまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に下流部からの逆水を避けるための潮除堤を追加し集落全?を?う懸廻堤を有する最初の輪中である古高須輪中が完成した
—
『百輪中?記』を現代語?
として高須輪中(古高須輪中)を最古の輪中と記載しており、かつてはこの?が採用されることが多かった
[6]
[35]
[36]
。しかし、
1975年
(昭和50年)に
原昭午
が『百輪中?記』には近世特有の用語があることや木?川?揖斐川が?時の位置と異なることなどを指摘して、この見解を否定したのを嚆矢として史料としての性格が根本的に疑われようになり
[6]
[4]
[35]
、安藤万?男は著書『輪中 その形成と推移』で木?川の流路?遷の矛盾点などから?合的に判?して、古高須輪中の形成時期を「
1606年
(
慶長
11年)もしくはその少し前」だとする見解を示した
[37]
[38]
[6]
[35]
。
生活
[
編集
]
住居
[
編集
]
輪中地域の?統的な住居は、
出水
時の浸水を防ぐ石垣(
基壇
)の上に南向きの母屋が建てられ、母屋の北西側に水屋、東側に
納屋
、北側に防風林、南側に防水林を備えるのが一般的な構造であった
[2]
[39]
。これは
伊吹おろし
が北西側から吹きつけ、洪水時には南側から浸水する地形上の特性によるものであった
[39]
。
母屋は出水時に水が流れる南北方向を遮る壁が少なく作られており、
障子
や
?
を取り?って水を通すことで家屋の流出を防いだ
[40]
。母屋の軒下には
上げ舟
と呼ばれる洪水時の避難や移動用の小舟が備えられ、
?壇
は洪水時に
滑車
で2階に移動できる
上げ?壇
の構造となっていた
[40]
[41]
。
水屋
(みずや)は母屋よりも一段高い石垣の上に設けられた
[2]
[41]
。水屋には住居の機能を備えた「住居式水屋」、普段は
食料
や
農具
を保管する
倉庫
を水屋として利用する「倉庫式水屋」、
土壁
として作られた
土?
を水屋として利用する「土?式水屋」などがあるが、複?の機能を?せ持つことも多く最も典型的なものは住居と倉庫の機能を兼ね備えた「住居倉庫式水屋」であった
[41]
[42]
。大垣輪中では母屋と水屋の間に「どんど橋」と呼ばれる
渡り廊下
が備えられていた
[43]
。
ただし、水屋を持つのはかなり裕福な家に限られるため、水屋を持てない人?のための施設として
助命壇
(じょめいだん)あるいは
命塚
(いのちづか)と呼ばれる土盛りをした高台も存在していた
[41]
[44]
[45]
。助命壇は地域の人?が共同で作ったが、
地主
などが私財を投じて作った場合もあり、周?よりも土地が高く盛られた
神社
が助命壇の役割を果たすこともあった
[45]
[46]
。
水防活動
[
編集
]
水防活動のために必要な資材を?納した水防倉庫は輪中堤上に作られるのが一般的で、古くは
水小屋
(みずごや)や
諸色?
(しょしきぐら)などと呼ばれ、特に
福束輪中
より南側の地域においては副食物の備荒貯蓄場所を兼ねていたことから
?倉
?
??
(ごくら、ごうぐら)とも呼ばれた
[42]
[41]
。水防倉庫はかつて堤防が決?した場所に多く設置される傾向があり、こういった箇所には後世に危?な箇所であることを?承する意味を?めて水難除けの
祠
や決?碑などの
石碑
が築かれることも多かった
[42]
[41]
。
水防活動では堤防が切れることを未然に防ぎ、万が一堤防に危機があっても被害を最小限に食い止めることが最重要であった
[42]
。堤防が崩れ始めたときの具?的な??法としては、表法面(堤防外側)の場合は
?
を重ねて
?
で縫い合わせて崩?個所を覆い、裏法面(堤防?側)の場合は堤防に
杭
を打ち
土?
を積んで崩?の?大を防いだ
[42]
。河川の水位上昇時に堤防裏側に水が漏れ出したときは、漏水箇所に水を溜めるように土?を積んで河川との水位差を小さくすることで漏水口の?大を防ぐ
釜段工
の手法がとられ、積まれた土?の形?から
月の輪
(つきのわ)とも呼ばれた
[42]
。
破堤して多量の水が輪中?に流れ?んだ場合、水害が?まっても低位部は長期間にわたって濁水の?留が生じることとなるため、そういった場合の非常手段として低位部の堤防を意?的に切る
乙?切り
(おとみよぎり)が行われることがあった
[47]
[48]
[49]
。乙?切りの例としては1896年(明治29年)の豪雨による大垣輪中での
金森吉四?
の例が有名で、7月23日の乙?切りでは8000??40000人が救われたと?えられる
[48]
[49]
。
耕作地
[
編集
]
輪中地域の農業において特?的なものとして
堀田
または
掘田
(ほりた)がある
[2]
[27]
。水はけの?い土地で少しでも?量を?やすために
水田
を高くしようと考案された土地利用方法で、周?の土を掘って高く盛った短冊?の
掘り上げ田
と掘り跡(掘り潰れ)が交互に?ぶ形?の耕地である
[2]
[42]
[50]
[51]
。
元?水はけの?い輪中の低位部において?が水に浸かりすぎることで不作になりがちであったが、
1753年
(??3年)の??治水以後に
桑原輪中
などの地域で水田の水が?し、その?策として堀田が誕生した
[2]
[42]
[52]
。掘り潰れが生じることで場合のよっては4割ほど耕地が減る欠点はあったものの、結果的に?量が安定することが判ったため輪中地?の?い範?に?まった
[42]
[52]
。
堀田には大きく分けて3つの種類がある。掘り潰れの水路が排水路と?がる「田舟型堀田」が代表的で、水はけの?い輪中低位部地域に多く、その形?から「田舟(たぶね)」と呼ばれる小型の舟が欠かせなかった
[52]
。田舟型に?して水路がそれぞれ?立しているものは「孤立型堀田」と呼ばれ、水はけの良い輪中高位部地域に多かったが、高位部では?作に十分な水を確保できない地域もあり畑作率も高かった
[42]
[52]
[27]
。もう1つは現在の
大垣市
北部に見られたもので、?い砂層から湧き出る
伏流水
を排除するために何本もの長細い水路を設けた堀田で、その形?から「
河間
吹型堀田」と呼ばれた
[42]
。
堀田の維持には「長
じょれん
」と特殊な農具が用いられ、田植えの時期には水路との境目に置土する作業(めんつけ、めんどうひき)に使用され、堀田造成後も?年必要となる?年泥をすくい上げる作業(どべあげ)にも使用された
[42]
[27]
。
裏作を行う場合は掘り上げ田の上にさらに高
畝
を造成する必要があり、この高畝を
くね田
と呼んだ
[27]
。くね田は
大正時代
中期から始まり、?の?穫が終わった冬季に
菜種
?
?
類?
ジャガイモ
?
豆
類などが栽培された
[27]
。
堀田は耕地整備を?ながら長らく使われ?けたが、
太平洋??
以後の土地改良によって
1975年
(昭和50年)までにほぼ消滅した
[27]
[50]
[52]
。現在は
海津市?史民俗資料館
?に再現された堀田がある。
用排水
[
編集
]
輪中は周?を川に?まれるため用排水は一見容易に思われるが、?際には非常に困難であった
[52]
。
用水は、輪中の上流側に用水を取水する
?
(
??
、いりひ)が設置されるのが一般的であったが、江?時代の土木技術では十分な?度の水門(
?門
、ひもん)を設置することは難しく、破堤の危?性を高める可能性もあったため限定的であった
[52]
[27]
。水の確保が難しい輪中の高位部では
?漑
用水を必要とする?態で、江?時代後期には
地下水
を利用する
掘?井?
が?達するようになるが、余?水が低位部に流れ?んで?水?加の要因となった
[27]
[52]
。その解決策として、低位部の村が高位部の村の井?の本?を制限したり、高位部の村に?門の建設?管理費用の負?を求める
株井?
(かぶいど)と呼ばれる制度が設けられた
[27]
。
排水は、かつては輪中の下流側から自然排水していたが、輪中が形成され堤外地に土砂が堆積すると河底が高くなったことで自然排水が困難となった
[27]
。江?時代後期には輪中の下流側に水位が低いタイミングを狙って排水を行う?(
吐?
、はけひ)を設置するようになるが、河底上昇に?じて困難となり、さらに下流側への吐?の付け替え(
江下げ
)も行われたが、干潮時でなければ?門を開けることができなかった
[27]
[52]
。結果的に低位部は慢性的な
湛水
に?まされることとなり、地域によっては低位部の?水を
サイフォンの原理
を?用して河床の下を
伏せ越し
して?岸に排水する
伏越?
(ふせこしひ)が建造された
[27]
[53]
[54]
[55]
。
木?三川以外の?堤集落
[
編集
]
木?三川以外の地域で、集落や耕地を堤防で?んだものについて以下に代表的なものを?げる。?堤形成に影響した河川を「主要河川」に記すが、
水系
本川は名前をそのまま表記し、支川については水系名を括弧書きで付した。また、別の記事で個別に言及のある項目については「地域」にリンクを設けてある。
成立時期が古い?堤については木?三川の輪中との類似性もみられ、木?三川の
水屋
と同?の建物は信濃川流域の「水倉」、利根川流域の「
水塚
」、淀川流域の「段?」など各地に存在している
[42]
[67]
。また、?東地方から東北地方にかけては
上げ舟
と同?に「用心舟」などと呼ばれる小舟を吊るす地方もある
[68]
[69]
[70]
。
成立時期が新しい?堤としては、神通川流域の中神通?西神通地?、大野川流域の
高田輪中
のように、近代の河川改修で無堤部分を補って?堤を形成した例がある
[71]
。特筆すべき例としては、
2000年
以降に全く堤防がなかった地域での河川沿いの連?堤防が?討されたものの長期的な計?が避けられず、早急な洪水?策?現のために輪中堤を選?した
雄物川
流域の
?首
の例も存在する
[72]
。
以下、比較的詳しい資料が存在するものについて?明する。
庄?川流域
[
編集
]
濃尾平野では木?三川下流域以外に、
庄?川
流域でも輪中がみられる。
室町時代
以前の庄?川には現
北名古屋市
周?で後に
五?川
?
合?川
?
大山川
となる河川が相次いで合流しており、この付近で洪水が?生すると?時の尾張?の中心地であった
?須
に流れ?んでいた
[73]
[74]
。
1400年
(?永7年)に尾張
守護大名
となった
斯波義重
はこれらの河川の水害?策として、
?永
年間のうち(
1428年
まで)に「
武衛堤
」と呼ばれる堤防を築いて後の合?川?大山川の流れを大きく?更した
[73]
[74]
。時代を?ると、庄?川本川の河床上昇などの影響もあり、合?川?大山川合流点付近には低?地の湖沼地?が生じた
[73]
[28]
。
江?時代になり中心地が
名古屋
に移る(
?洲越し
)と、
1614年
(慶長19年)に
尾張?川家
の居城となった
名古屋城
を守るために庄?川左岸に「御?禍堤」が建造される
[28]
。?加していた水害は木?川の「御?堤」の例と同?に右岸側に集中したため、
1779年
(安永8年)の水害の直後から?洲の村を中心とした水害防止の嘆願運動が?まる
[74]
。これを受けて
新川
の開削などが行われたものの、
?水
氾濫による被害は避けられず、庄?川?新川および支流の堤防や高く盛られた街道などによって?まれた地域ごとに水防組合を結成して??することとなった
[28]
[75]
。
越後平野
[
編集
]
越後平野
では
信濃川
と
阿賀野川
に?まれた地域に、輪中同?に?堤に?まれた地域がみられる
[76]
。
上杉謙信
などのこの地域の支配者は、自らの??力?軍事力?化のために治水事業に取り組んだとされる
[77]
。特に
直江兼?
が
1584年
(天正12年)から
1597年
(慶長2年)に行った「直江工事」では
中ノ口川
が開削され、信濃川と中ノ口川に?まれた
白根?
の開?が始まる
[77]
。
1598年
(慶長3年)に
溝口秀勝
が
新?田城
に入ると、以降は
新?田藩
主?
溝口氏
によって土地改良が進められ、信濃川などの治水とともに
?田?
?
新津?
などの開?も進められた
[77]
[78]
。
1730年
(享保15年)に開削された
加治川
の放水路が翌年の融雪による洪水で阿賀野川の本流となると、阿賀野川の水位が下がって周?の低?地?の新田開?が加速した
[59]
[78]
。
この地域、特に?田?周?は慢性的な?水から?大な?地?が形成されており、新田開?はそういった水との?いであった
[59]
。水田とする土地の周?を小堤で?い、小堤の外側に排水路を築いて外水を防ぐ方式で開拓が進められたが、水田には?年のように盛土をすることが求められたため、農民たちは村?位で小堤と排水路を整備?保守するために協力し。小さな輪中?の集落が形成される
[59]
。村ごとに?策は異なったため明治時代まで?立は?くが、
1886年
(明治19年)に
栗ノ木川
に依存する町村が合同で水利土工?を設立して以降、地域一?となって?策が行われることとなる
[59]
。
?考文?
[
編集
]
- 輪中が主題のもの
- その他
論文
[
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]
- 輪中が主題のもの
- その他
公的機?などの資料類
[
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]
- 輪中が主題のもの
- その他
脚注
[
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]
外部リンク
[
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]
ウィキメディア?コモンズには、
輪中
に?連するメディアがあります。
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揖斐川以西の輪中
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- ?田輪中
(?里?綾里?十六?大野?室原?蛇持?祖父江?江月?飯積?大墳?高田?烏江)
- 大垣輪中
(?馬町?禾森?中之江?古宮?今村??草)
- 多芸輪中
(下笠?岩道?飯ノ木?有尾?大場新田?根古地?釜ノ段?高柳)
- 太田輪中
- 七?輪中
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揖斐川以東?
長良川以西の輪中
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長良川以東の輪中
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?連人物
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?連項目
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